津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家侍帳 ・2

2013-11-15 07:26:10 | 保存

      ■ 二

一五千弐拾石七斗                             斉藤伊豆守 
      伊豆守与力
  弐百参拾四石弐斗参升参合                     蟹江市左衛門
  弐百石                                    飯尾少左衛門
  弐百参拾石                                佐脇三之允
  弐百七石五斗五升六合                        岩越少次郎
  弐百石                                   日比善四郎
  弐百石                                   福田六右衛門
  百五拾石                                  松原三右衛門
  百壱石七斗七升七合                          徳蔵喜右衛門
  弐百五拾石                                 岡部五左衛門
  七百九石弐斗                               深水三蔵
    知行高与力分・騎馬拾弐人        合弐千四百八拾弐石七斗六升九合
    自分・与力             二口合七千五百参石四斗六升六合


一弐千七百参拾六石六斗九升                      新実八左衛門
      八左衛門与力
  参百石                                   吉田加太夫
  百五拾石                                  上島喜三郎
  百五拾石                                  森 左吉
   百五拾石                                  梶尾二郎太夫
  弐百五石四斗                              近木久右衛門
  弐百六拾四石七斗五升九合                     尾崎藤市
  弐百五石七斗八升四合                        徳田文四郎
  弐壱石七斗八升参升七合                       細野伝内
  百七拾壱石五斗九升壱合                      夏目市平
      知行高与力分・騎馬弐拾人        合千九百六拾弐石壱斗四升四合
  百参拾八人扶持              鉄炮之者四拾六人
      自分・与力             二口合四千六百九拾八石八斗参升四合

一四千百参拾五石五斗参升                      小代下総守
       下総与力
                                                         
  弐百四拾八石弐斗七升九合                     前後瀬助兵衛
 
    自分・与力共に騎馬壱人           合四千百参拾五石八斗九合

  九拾人扶持           鉄炮者参拾人
一千八百拾八石七斗                           梶原源太兵衛
  八拾七人扶持        鉄炮者弐拾九人

一五千百弐拾六石参斗                          森本儀太夫
       儀太夫与力
  四百六石六斗                              荻 又兵衛
  弐百六石六斗                              加々山弥蔵
  百五拾参石壱斗参升                          大窪平三郎
  参百五拾石                                柏原長兵衛
  参百弐拾六石四斗                           寺尾甚之允
  弐百八石八斗                              三輪二郎右衛門
  百七拾六石四斗参升四合                      岡村助左衛門
  百四拾壱石八斗七升                         喜悦七佐
     知行高与力分・騎馬九人             右合弐千百参拾七石七斗参升
     自分与力                   二口合七千弐百六拾四石参斗四合

  六拾人扶持        鉄炮之者弐拾人
一六千七拾五石四升                            南条作十郎
一千石                                      近藤与右衛門
  九拾参人扶持      鉄炮之者参拾人
一四千六拾壱石七升 内千九拾九石は元和七年に加増            神田修理

一千石          内参百石は元和六年に加増             魚住彦兵衛
     彦兵衛与力
  四百五拾参石参斗四升弐合                     安立無右衛門
  参百石                                   吉田二郎兵衛
  弐百拾六石六升四合                          堀 又兵衛
  百参拾四石壱斗四升四合                       河北市右衛門
  弐百石                                    金田与七郎
  弐百参石九升                               美濃部善兵衛
  弐百石                                    宮原玄蕃
  百石                                     出田六右衛門
  弐百八拾参石七斗七升参合                      寺田六右衛門 
     知行高与力分・騎馬九人             合弐千九拾石参斗八升四合
     自分与力                 二口合参千九拾石参斗八升四合 

  百弐拾人扶持     鉄炮之者四拾人

一参千六百拾石壱斗四升 内千九拾九石は元和七年に加増        相田内匠
     内匠与力
  参百石                                  祖父江半右衛門
  弐百石                                  荒川権右衛門
  弐百石                                  坂井九右衛門
  弐百石                                  田中源兵衛
  百五拾石                                 服部理右衛門
  百弐拾六石六斗五升                         伊藤金右衛門 
         知行高与力分・騎馬六人             合千百七拾石六斗五升
     自分与力                 二口合四千七百八拾六石七斗九升

  百弐拾人扶持     鉄炮之者四拾人 
         知行高自身分                  合参萬四千五百八拾弐石九斗壱升
     知行高与力分                  合壱萬九拾七石九斗五升七合
                          二口合四萬四千六百八拾石八斗六升七合
     扶持方七百八人扶持   鉄炮之者弐百参拾五人 

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禅定寺

2013-11-14 09:48:50 | 熊本

 最近知ったのだが、禅定寺のHPがUPされていた。
            http://zenjouji01.web.fc2.com/index.html
加藤家・細川家の家臣の方々のお墓が多くあるのだが、主だった御宅のお墓の写真が紹介されている。

                      

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加藤家侍帳 ・1

2013-11-14 08:55:15 | 保存

先に「加藤家侍帳」を「肥後細川藩拾遺」にUPすることを予告いたしましたが、進捗状況をご覧いただくために一応ブログにUPする事としました。
全てが完了後、体裁を整えて本サイトへ移そうと考えております。まずは「壱番」備ですが、錚々たる人たちの名前が登場しています。
以降20回ほどを予定していますが、年内完了できればと思っています。

 

                                          

加藤家侍帳 肥後時習館本

      ■ 壱番

一壱萬弐壱百九拾七石九斗八升 内六千拾六石者元和六年の増加分 并川志摩守 
      志摩守与力
  参百石                                  原田五郎右衛門
  弐百五拾石                               平井三郎五郎
  弐百七拾五石                              乃生太郎右衛門
  弐百五拾石                               小泉九介
  五百石                                  佐久間角介
  弐百石                                  飯田助兵衛
  弐百石                                  片山角介
  百五拾石                                 鳥井二郎右衛門
  百五拾石                                 舟津弥左衛門
  百参拾石                                 志賀源次郎
  百参拾石弐斗九升                           志賀勘左衛門
  百参拾石                                 栗崎新介
    知行高与力分・騎馬拾弐人        合弐千六百六十五石弐斗九升
    自分・与力             二口合壱萬弐千九百六拾参石弐斗弐升

  弐拾七人扶持             鉄炮之者九人
一七百参拾参石八斗七升                       井上少九郎
  百五拾人扶持             鉄炮之者五拾人
一参百八拾参石四斗                           井上大九郎 ・・・・・・・・・・・・・・・・宇土城破却の奉行(慶長17年)

一五千五百弐拾七石参斗七升                     庄林豊後守
      豊後守与力
  弐百四拾九石七斗七升一合                    三ケ弥次兵衛
  弐百五拾七石壱斗六升                       鴨勘之允
  弐百五拾石                               伊地知十兵衛
  弐百七石九斗五升                          磯部半兵衛
  百弐石九斗参升                            小山六兵衛
  百弐石九斗参升                            小山八兵衛
  参百九石五斗五升六合                       志水多兵衛
  百七拾八石八斗                            内海伝兵衛
  弐百弐拾四石壱弐斗(ママ)五升                  松田加兵衛
  弐百弐拾四石壱斗五升                       杉屋平蔵
  七百石六斗六升五合                         井村彦右衛門
  四百石                                  佐野次太夫
  百五拾石                                 林 九兵衛
  弐百石                                  五十君勝右衛門
  百五拾石                                 井口二郎作
  百石                                    成瀬五右衛門
  百石                                    田口兵蔵
  百石                                    高瀬少右衛門
  百五十石                                 円尾次介
    知行高与力分・騎馬弐拾人        合四千弐百五拾八石六斗弐合
    自分・与力             二口合九千七百八拾五石四斗参升五合

一四千五百六石壱斗壱弐升  内千参百拾七石者元和七年に加増分  飯田覚兵衛
       覚兵衛与力
  参百石                                  内海与次郎
  弐百四拾六石参斗                          穂積又右衛門
  百二拾石                                斉藤清左衛門
  百参拾五石八斗                            森 太兵衛
  参百参拾石                               桂 六太夫
  弐百七拾石                               宇都宮弥次右衛門
  弐百五拾七石弐斗五升四合                    嘉恵又兵衛
  百九拾八石七斗四升                         林 藤左衛門
  弐百石                                  林 三右衛門
  百五拾石                                 脇田与八
  百九拾石参升参合                           西田石介
  百弐拾石                                 小川甚介
  弐百参拾石                               山田平右衛門
  五人扶持                                 西田五郎兵衛
    知行高与力分・騎馬拾四人      合弐千六百七拾六石四斗七合 外に五人扶持
    自分・与力           二口合七千百八拾弐石五斗九升

  参百人扶持           鉄炮者参拾壱人
一弐千石                                  出田宮内少輔
  参百六拾人扶持        鉄炮者百弐拾人
一参千六百七拾四石六斗五升                    大木四郎
一参千四拾九石弐斗七升 内千石者元和七年に加増     天野民部少輔
一千石                                    長野吉兵衛
一千参百八十弐石参斗八升                      庄林隼人助

    知行高右自分           右合参萬六千参拾石四斗
    同与力分            右合九千五百九拾九石七斗五升九合
                   二口合四萬五千六百弐拾九石七斗四升九合
                     外に五人扶持       騎馬五拾七人
                     扶持方合九百参拾人壱人扶持  鉄炮之者参百拾人 

  

      

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お安く読む・文春文庫「江戸の備忘録」

2013-11-13 22:33:14 | 書籍・読書

江戸の備忘録 (文春文庫) 江戸の備忘録


内容(「BOOK」データベースより)

信長、秀吉、家康はいかにして乱世を終わらせ、江戸の泰平を築いたのか?江戸時代の「役人の数」「政府の規模」「教育水準」はいかほどだったのか?気鋭の歴史家が民の上に立つ為政者=武士の内実に分け入り、今の日本の土台となった江戸時代の成り立ちを平易な語り口で解き明かす。日本史の勘どころがわかる歴史随筆集。
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三千姫様御難

2013-11-13 11:14:15 | 歴史

 熊本藩年表稿の宝暦五年二月の項に、「三千姫病気に付龍ノ口(細川家上屋敷)にとどめる」とある。

三千姫とは異腹ではあるが、重賢公のすぐ下の二つ違いの妹(享保七年九月熊本生)である。寛延三年四月廿七日、美濃国加納藩主・安藤対馬守信尹 (65,000石)に嫁いだ。信尹は享保十七年(1732)に同家の当主になっているが、奢侈におぼれ役人の綱紀も乱れ藩政は乱れた。そんな中宝暦三年(1753)五月、主だった家臣によって信尹は「押込」となる。家中も三派に分れ紛争が続き、宝暦四年(1754)幕府大目付に出訴に及んだ。幕府評定所での吟味がなされ五年二月結審し多くの家臣が死罪・遠島・処払い等で処分される中、信尹(37歳)は隠居謹慎を命ぜられた。「三千姫病気に付龍ノ口にとどめる」とあるのは、信尹の大名小路の屋敷が召し上げられた為であろう。
この時期三千姫は32歳である。御難なことであるがその後どうなされたのか。天明元年(1781)五月江戸で亡くなられた。(60歳)

この押込事件から派生した御家騒動事件については、笠谷和比古著 主君「押込」の構造 に詳しい。
 
宝暦六年知行15,000石を減知され息・信成が陸奥国磐城平五万石に転封となる。
この人は老中などを務めるなどし、又藩政についても藩校を創立するなど教育に力を尽くしている。 

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島田美術館「肥後・熊本の江戸時代」

2013-11-13 09:25:42 | 展覧会

                                                                    

 

 

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朝日新聞Digitalから

2013-11-12 16:08:45 | 新聞

原発ゼロ 小泉・細川連携でへ流れ変わるか

  • 文 保坂展人
  • 2013年11月12日

 11月12日付の東京新聞は1面トップで、「『原発ゼロ』へ共闘 細川・小泉元首相『国民運動』を」と大きく伝えています。日本記者クラブでの会見で「原発ゼロ」を訴えた小泉純一郎・元首相(71)と、細川護煕(もりひろ)・元首相(75)が連携するというニュースです。以下に引用します。

 細川護煕(もりひろ)元首相は11日、都内での本紙のインタビューで、安倍政権の原発再稼働路線を「犯罪的な行為だ」と批判し、「原発ゼロ」に向けた活動を国民的な運動に発展させたい考えを示した。講演会などで「原発ゼロ」を主張している小泉純一郎元首相と会談したことを明らかにし「目的を達成するまで、主張し続けていきたい」と述べた。

 いずれも首相時代には原発推進政策をとったものの、「東京電力福島第1原発事故」で根本から姿勢を転換したことに共通点がある。それは、3・11以後に「脱原発」へ転換し、「原発ゼロ」を求める多くの人々と共通し、「原発輸出」や「再稼働」に腐心する安倍政権や経済団体の鈍感さを浮き彫りにするものだと思います。

 一方、小泉元首相の語る「原発ゼロ」には、朝日新聞の世論調査でも好感が寄せられています。それによると、小泉元首相が政府や自民党に対して「原発ゼロ」を主張していることについて、「支持する」は60%にのぼり、「支持しない」の25%を上回ったそうです。

 首相経験者の発言が脚光を浴びるのは、永田町政治がこの問題で国民の声を代表していないということも示しているように思います。自民党はもとより、民主党も「原発ゼロ」を先導してきた議員が落選するなどして、電力労組の影響下にある労働組合への配慮が目立ちます。その他の野党も、「原発再依存」の既成事実化に対して、一致結束して政策変更を求める布陣を組むにはいたっていません。

 東日本大震災と福島第1原発事故を教訓として、エネルギー政策の大きな転換をはかるためには、「原発ゼロ」に向かう人々の声を結集する必要があります。

 小さな差異を問題にして手を携えないのも、ひとつの考え方かもしれません。

 ただ、私は、日本を「原発再依存」の社会にしたくはありません。そのためにエネルギー政策転換という明確な結果を出す必要があるように思います。その好機がいままさに訪れているように思います。そのためにも、できるだけ多様な声が、複数の異なる立場から発信されて、そのうねりを政治が無視することができないような状況を生みだすべきだと考えます。

 さらに、臨時国会の一大争点として浮上してきたのが「特定秘密保護法案」です。そもそも、電力会社は「原発安全神話」を維持するために、事故やトラブルを表沙汰にすることを回避してきました。それは、巨額の広告費を使用して、「原発=クリーン電力」という言論コントロールさえ可能としていたのです。「テロ対策防止」という理由で「特定秘密」として封印された施設や調査結果は、原発の安全性を検証するのにはなくてはならないものです。

 何が「特定秘密」に指定されているのかも不明のままでは、原発・核処理施設の取材・調査のために情報に接近することが、秘密漏洩の「共謀」「教唆」「扇動」とみなされて処罰対象となりかねない、とジャーナリストから強い危惧の声があがっています。

 誰もが「政治はすぐには変わらない」と思っている時期であるからこそ、一気に流れを変えるチャンスでもあると思うのです

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リクエスト

2013-11-12 08:15:09 | 歴史

 或る方から加藤家の侍帳はUPしないのかとのお話があった。これは豊臣秀頼の乳人右京大夫の甥・斎藤采女が清正に召し出されていた事についてお調べになっていたことによる。(残念ながら侍帳に采女の名前はない)
我がサイトは細川家に特化して来たつもりであったが、最近は史談会の活動なども有って加藤家の家臣団に触れることも多くなってきた。細川家にも旧加藤家家臣が多く居られ、そんなこともあって「加藤家侍帳」を作ってみようかと思ったりしている。
底本は中野嘉太郎著「加藤清正伝」所収の肥後時習館本である。これはすでに「肥後讀史総覧」などに掲載されてお馴染みのものである。
全国の加藤氏研究家や加藤家御家臣の関係者などにご利用いただければ、苦労も報われるのではないかと思っている。
なんとか今年中にはUPしたいと考えて、作業に取り掛かかろうとホームページビルダーを久しぶりに動かしてみると、使い方を忘れていてあわてている。

お正月のお年玉でもいいのではないかと考え直したりして、相変わらずの変わり身の早さである。 (乞うご期待・・・・) 

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汀の敦盛

2013-11-11 17:44:43 | 徒然

                                        波際を敗走する平敦盛  永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より 永青文庫・一ノ谷合戦図屏風より

 これは一ノ谷の戦いに敗れ、汀を行く平敦盛を描いた錦絵である。実はこの部分と思われる別摺りのものがオークションに出ていたのだが、ご紹介する間もなく落札されていたようだ。

                        萌葱匂の鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑の矢負い、
                        滋籐の弓もて、連銭葦毛なる馬に、黄覆輪の鞍おいて乗ったる武者一騎・・・・・

「平家物語」にはこのように紹介される敦盛だが、永青文庫に所蔵する「六曲一双」の屏風には右手後方に熊谷次郎直実が扇をかざして「かえさせたまへ/\」と呼びかけている。

応札してみようかと思っていたのだが、すっかり失念してしまった。

 

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五人の関係

2013-11-11 11:31:20 | イベント

 史談会の11月例会に使う「肥藩落穂集=銀臺拾遺」を読んでいる中で、いろんな人間関係が見えてきて面白く思える。
略系図にしようと試みたが、図示するにはなかなか難儀で途中でやめてしまった。

   ・重賢公は肥後の鳳凰と呼ばれたが、一方紀州の麒麟と呼ばれたのが徳川治貞公である。
   ・重賢公の兄・宗孝公が殿中で刃傷に及ばれるが、適切な助言をされたのが伊達宗村公である。
   ・徳川治貞公、伊達宗村公室、細川宗孝公室は徳川宗直公の御子である。
   ・その徳川宗直公の兄・松平頼路に細川綱利女・菊姫が嫁いでいる。
   ・綱利公室・久姫(本源院)は水戸徳川家頼房公女である。(頼重・光圀妹だが頼重の養女である)
   ・重賢公室・由婦姫(有隣院)は久我通兄女であるが、通兄の生母は綱利養女(弟・利重女)具姫である。
    通兄の父・惟通の義妹(伯父・通名女)が伊達吉村に嫁ぎ、その子が伊達宗村である。
   ・伊達吉村は仙台藩の中興の祖と呼ばれる。細川重賢公同様藩財政を立て直した名君だとされる。

   ・宇土支藩の細川興文公は重賢公息・治年公の舅である。(室・埴姫の父)又、治年公の養嗣子は興文公嫡子・立禮公(齊茲公)である。
   ・興文公の兄・興里公室は細川宣紀公(宗孝・重賢公父)女・軌姫(清源院)である。

 

             徳川治貞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                 享保13年(1728)                                        寛政元年(1789)62歳 

 伊達宗村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      享保3年(1718)5月                宝暦6年(1756)39歳 

 細川宗孝 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      享保3年(1718)4月         延享4年8月(1747)30歳

 細川重賢  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      享保5年(1780)12月                                         天明5年(1785)2月65歳 

 細川興文    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      享保8年(1723)9月                                         天明五年(1785)7月62歳

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北窓瑣談から

2013-11-10 08:17:12 | 書籍・読書

 最近手に入れた「江戸随想集」(古典日本文学全集35)に、北窓瑣談がある。宮川春暉(橘南谿)の文政12年の著作である。
西遊記東遊記等も著し、文筆家として知られる。

その「北窓瑣談」に熊本人について触れている項があった。

        55・玉山の書 近頃秋山玉山の筆蹟を見た。明人の区域を出ることを得ずにゐるとはいへ、その雅趣は徂徠以後の第一人であろう。(巻三)

        61・藪弧山  肥後の藪茂二郎先生が、大坂の中井善太(竹山)先生を初めて訪うた時、冬だのに薄羽織を着てゐた。中井が怪しんで
                 「どうして先生は夏羽織をお召しですか」と問うた。藪は答へて、「国許を夏に出ましたので」といつたさうである。(後編巻一) 

藩校時習館の初代・二代の教授である。(時習館115年の歴史で教授を務めたのはわずか六人である。空席とされた時代もあった。)

                                         
                                           秋山玉山書 「時習館」

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明治42年のごみ

2013-11-09 15:08:39 | 徒然

 明治42年発刊の宇野東風著「細川霊感公」の表紙が、綴じてあった四つの穴が破けて取れてしまった。表紙の端は破損もひどく、経師屋さんよろしく、少し厚手の強い紙をあてて補強して体裁を整えた。四つの穴は長さ3~4ミリで刀子でほがしたような細いもので、二つ一組二ヶ所を糸で綴じてあった。その紐も切れてしまい適当な紐(実は靴ひも)を通して締め付けて、どうやら補修を完了・・・・
作業の途中で、どのようにして明けたのか不思議に思えるこの穴から、ばらばらと明治42年のごみがこぼれ落ちてきた。 

オークションに登場して長い間売れ残っている同じ本は、なんと10,000円もする。

                                          細川霊感公 著:宇野東風
                               http://page21.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j76257270

 

私のこの本は購入して10年以上経ち売ろうとも思わないが、素人補修故に価値はダントツに下落したが、所持しているだけで豊かな気持ちに成れる本である。

 

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美里町・二俣橋あたり

2013-11-08 09:17:48 | 熊本

 最近すっかり有名になった二俣橋の二俣渡がつくるハート型がすっかり全国区になった。今の時期が一番の見ごろ(?)である。
紅葉シーズンも重なり見物客もさぞかし多く成ることだろう。

                                       美里街商工会サイトから

                       (左手にわずかに見えるのが福良渡、ハート型を作っているのは二俣渡、新二俣橋は福良渡の左手に当たる)

釈迦院川と津留川が合流するところに、二つの石橋が90度に懸けられている。見事なアーチ式の石橋である。二つの橋をまとめて「二俣橋」といっているが、江戸時代には、釈迦院川に架かる橋を「二俣渡」、津留川に架かる橋を「二俣福良渡」と言っていた。二俣渡のアーチ部分に太陽が当たるお昼前の頃見事なハート型が浮かび上がる。
                               新日本風土記アーカイブス・NHK映像マップ「みちしる」
若いカップルのみならず、老若男女がカメラ片手に記念撮影している様は微笑ましい。


一方福良渡の数メートル離れたところに、新二俣橋がある。じつはこの橋がなんとも見事なのである。
これは鉄筋コンクリート造のアーチ式トラス構造の橋なのだが、現代式の無味乾燥なトラスではない。土木屋さんがよくぞこのような複雑な仕事を仕上げたものだと感心させられる。ぜひとも福良渡と新二俣橋を橋を下から見上げていただきたいものだ。そしてどなたか写真を提供していただけないかと、相変わらずの他力本願である。随分以前に眺めたのだが、理工系人間にとっては見事な構造美が忘れられない。


                             
 

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まずは順調・・・

2013-11-08 07:27:36 | 徒然

 血圧が気になりだしてから随分食事に気を付けるようになった。
朝はトースト1/2枚、野菜サラダ、果物と卵料理(ゆで卵1/2もある)といった具合だが、塩も醤油もドレッシングも一切使わない。
果物は奥方が好きで何やら出てくる。最近は頂戴物の柿なのだが、多分一週間ほどは続くだろう。すごく甘くておいしい。
熟柿もあるのだがこれは私には回ってこない。私には鼻っから出そうとはせず、自分専用である。食べ物のことで何やら云うのも大人げないが、聞くくらいの事はあってもいいではないかと思ったりする。

昼はほとんど麺類だったのだが、お汁の塩分を避けるために辞めた。奥方がいないときなどインスタントラーメンを食べることがあったが、これは「食べない」と宣言した。トーストにスープで簡単に済ませている。(時には海苔巻おにぎりの小さいもの一個もある)

晩は奥方の手料理をいただくことになるが、煮魚はともかく焼き魚とかムニエル等も醤油等はいっさいかけなくなった。トンカツや唐揚などにも一切かけない。
野菜をたくさん取るように心がけ、こちらも醤油や塩・ドレッシングなど一切使わない。味噌汁は量を少なくした。
御飯も軽く一膳である。香の物が大好きでいろいろ食べていたが、これもカット・・・・

この結果一週間足らずで体重が1キロ減ったし、血圧も150~180だった上の値が140~160に下がった。下の値はあまり動きはないがそれでも少し下がった感じがする。某サイトからダウンロードした血圧帳に記録し始め、折れ線グラフを毎日眺めていると効果が目に見えて、上記のような食事が気に成らなくなってくる。40分散歩も毎日とは参らぬが、続けている。膝の具合次第では4キロ散歩に格上げもしたいと思っている。

現在BMI指数は25.1なのだが、このままいけば体重も晴れて70キロ割を達成できそうだし(あと2キロ)、血圧も正常値に近く成っていくのではないか・・・・・・・
本日は143:85と落ち着いている。2020年までは生きられそうな気がする。 

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松寿庵先生 第75講

2013-11-07 15:14:19 | イベント
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