同御葬禮之事 附御家人殉死之面々之事
斯て有へき事ならねば飽田郡春日村春日寺之境内ニ而奉火葬
御遺骨を護国山妙解寺ニ奉納、元来 光尚公之御舎弟御幼少ゟ
泰勝寺大渕和尚ニ随順し御薙染有て宗玄公と申けるが、妙解寺ニ
御入院有て天岸和尚と称しける、初七日ゟ御中陰御百ケ日ニ至迄様々之
御作善被也けるとかや、御法号を妙解院殿前越州太守羽林臺雲宗伍
大居士と申奉る、於爰、多年御高恩を蒙り朝夕勤仕之面々御中陰ニ
殉死之志有けるハ、寺本八左衛門直次・大塚喜兵衛種次・内藤長十郎元續・
大田小十郎正信・原田十次郎之直・宗像嘉兵衛景員・阿部弥一右衛門通信・
宗像吉太夫景好・橋谷市蔵重次・井原十三郎吉政・田中意徳・本庄喜助 06
重正・伊藤佐左衛門方商・右田因幡統安・野田喜兵衛重綱・津崎五助長
季・小林理右衛門行季・林與右衛門正貞・宮永庄左衛門宗祐都合十九人私宅又ハ
於檀那寺さも潔く殉死して泉下に奉報、仰(御ヵ)高恩君臣の儀を全す
又茶話曰 内藤元續ハ兼々御懇意なりけれハ、公之御病中此度
御究(容)躰御全快難斗けれハ自然之時御供可申上心底なりけるが
御足を戴き申殉死之願有たれハ御免しなし、押返し/\三度戴
き申時被成御免、殉死の節も老母妻女に暇乞の時平生酒を好ミ
たる故いつれも酒を進め、盃事様すミ長十郎被申けるハ、此中の心遣ひニ
草臥たり、切腹もいまた間も有之休息致可申と座敷ニ引籠り昼
寝いたされ熟睡、時移りけれハ老母の曰長十郎ハ少しの内休息と申
されしか、もはや時刻も移れり、切腹延引せば臆したりなんど悪口ニ
逢んもいかゝ、早起し給へと長十郎妻女ニ申されける時、嫁も誠ニ左様ニて
御座候ハんと挨拶して長十郎休息所ニ至りて、けしからぬ御熟睡也、
御袋様遅くなり可申起し申せとの仰也、早や御起被成候へと有け
れハ長十郎目をさまし少しの間とおもひつる酒に酔其上此中の
草臥故よく熟睡して気力を得たりいざ去らバ
用意セんと心静に諸事取したゝためて、潔く殉死せられけると也
此三人の義心忠情感するに余り有り、百余年の今に至りても聞人
感涙を催さすと云事なく、其外残る人/\も老母妻子入魂
の朋友夫々ニ暇乞なとありて切腹有中/\潔き事ともなり
又茶話ニ曰津崎五助ハ御犬牽也、御放鷹の折々ニ野方ニて甚だ
御意に叶ひける故、平日御懇意なれハ此節御高恩難黙止とて願て
御供申上けるか、御中陰果るの日五助は浄土宗なりけるか、田畑の檀那寺ニ平日御 07
鷹下に率ける犬をも率て来り、切腹の時五助犬ニ向て云様ハ此度
大殿様御逝去被成常々御高恩の面々ハ皆/\御供申上候、我も常
常御懇意ニ付御供申上る也、我死るならハ己ハ今日ゟ野ら犬と成
ん事の不便さよ、御秘蔵の御鷹は御葬礼の節春日寺の井二落て
死り 是も御供申上たるならん、己れも御鷹下に率ける事(犬)なれハ我と
共に死なんとハ思わすや、生て居て野ら犬とならんとおもハゝ此飯を喰う
へし、我と同敷死なば飯ハ食へからすと握り飯をあたへたるに此飯を
見たる斗にて喰ハさりける、其時扨ハ己も死るかと言けれハ尾を振
て五助か顔を(打)守り居けるを、さてハ不便なから我手にかゝれとて引
寄せ刺殺し自身も潔く切腹す、五助か辞世とて其比人のとりはやしける哥に
家老衆のとまれ/\とおしやれともとむに止らぬ此五助かなと云て御
鷹匠衆ハ御座らぬか御犬牽ハ只今参る也とから/\と笑て腹を切けると也
亦曰五助実子有幼少ゟ出家に成り居ける由、依之五助妻に五人
扶持家屋敷迄も下され、御年回には御香奠拝領す、此後家三十
三回御忌迄ハ存生にて、御香奠拝領仕五十年御忌ニハ果候て養子
もいまた不被召出候故、誰ぞ御香奠拝領の者なし五助甥五(両)人有り
兄ハ津崎平右衛門と云弟ハ津崎庄左衛門と云、此庄左衛門か子を殉死後家
養子ニして津崎五助と名乗五人扶持にて御奉公ニ被召出後/\
五助も津崎弾次と云養子有り此弾次病身故御給扶持被召上
奥田権左衛門家司水野孫左右(三)三男を養子にして津崎五助と名
乗御奉公被召出五人扶持拝領す、初ハ觸組後ハ歩御小姓ニ被召出
今以首尾能相勤、 08
又兄津崎平右衛門ハ殉死五助か由緒申立歩御小姓ニ被召出、其子津崎
仁左衛門御祐筆被召出後御中小姓組ニ入老極之後之養子津崎平右衛門
御奉公被召出觸組ニ入是も奥田権左衛門家司水野孫左右二男也
又曰 忠利公御在世御放鷹の折から春日寺へ御立寄り御茶を被召上暫
御休足の間御鬚の延させ給ひけるに剃せ玉はんとて住僧ニ髪剃刀を差
上よと有けれハ古き剃刀を差上ける時御手に取せられ御覧遊し此
剃刀ニてハ多くの死人のあたまをこそ剃つらんと御笑ひ遊し御心能く
御剃遊ハせしかケ様之事共にや春日寺の境内ニて御火葬なり
御遺言共云、古へハ春日寺ハ法相宗の寺なり、今ハ妙解寺の末寺成り上代
彼辺府中の時分洛陽の祇園清水鴨春日稲荷等勧請あり
鴨稲荷ハ今ハなし、畑の中に森有此所其印なり、春日社ハ春日
寺の鎮守として今に御火葬場の脇に有 御逝去之節御庭
籠を放せしに鶴ハ御法事の節多くの人をも恐れす御寺の
庭に来りし由也 鶴には非す白鳥一番ひ飼置給ふ、江津牟田ニ放しけるに、三回御忌に御寺
ニ数日飛来る、御鷹の名ハ有明明石と云二連なり、火に入しなり
御秘蔵の御鷹ハ御火葬之節上まにて輪をかけしか落て火に
入共云、亦春日寺の井に入たる共云、かゝる鳥類迄も御別をしたひ
奉る事誠に希代の名君也、況哉人としてなどか忠情なからんや、
「旦夕覺書」でおなじみの堀内傳右衛門は、大事な嫡子を亡くし養子を迎えているが、その顛末が旦夕覺書(肥後文献叢書第四巻 p194)に書かれている。
拙者江戸詰の時廿五年以前に熊本より状参り、一子土之進果候由申来、(山名)十左衛門殿も自筆にて此節忠義の出候所とて、平野九郎右
衛門方へ被仰遣候由にて、拙者居申町屋へ態と参被申聞候、本よりあきれ居候へとも其の三四十日前 恵雲院様七月廿一日御遠行被遊候
土之進は八月十六日にて間もなく覺 恵雲院様の時力を落し、食事給候事土之進事承申候時分に心中にて引くらへ見申候に、神以土之進時
には萬事軽く覺申候故、扨は未奉公勤申にさのみ草臥不申事と日本の神心にてためし申候 御前にも被聞召、江村節斎に御意被成候は最早
唯今より出来たる子は傳右衛門為には成ましく思召候間、養子を取持させ候へとの御意の旨にて、拙宅へ節斎被参候、扨々難有仕合涙を流 し申候は、私儀如御存知歩行より段々御取立被下、子果候とて又養子を仕候事は先祖の儀を存、名字致断絶は不幸と承及申候、如御存知
三盛事親の名迄付居申又喜左衛門も私同前に新知被為拝領居申候、私儀は以段々御恩兄共より重く蒙り存る様御奉公不仕上、養子と申
事ハ老父草の陰にても心に叶申間敷と申候へは、節斎いかにも拙者申趣も尤もに存候、然共兼ての御意に御代に被召仕候衆も代々にて何も
跡の断絶仕候事不便に思召、就中當御代に御取立の衆は尚以不便に被思召候との内々御意にて候、拙者儀は別而御重恩との仰に候へは
右の御意の筋、養子被成間敷との儀は御心に叶ひ申間敷と被申候、誠に左様に兼て御意初て承申候、御家中一同に承申難有に奉存候、然
らは乍御六ケ敷御自筆にて熊本に居申候同名中に連紙にて右の趣被仰遣可被下候、私手前よりは少遠慮に存候儀も御座候と申候へは、扨
々御得心別て大慶仕候、御飛脚立候はゝ御同名方へ可申遣とて則息悰陸に書せ同名中に被申入候、角入初として扨々難有仕合御取持被下
候へと返事も見せ被申候て、しからは養子に誰をかと其時工夫仕候處に、村井源兵衛参被申候は、此間節斎と拙者養子の噂申事に候、差當
り堀内中に無之様に存候、たとへ有之共今度の事は亡妻存生の内にて別て力を落し可被申候、左候へは御同名のうちにたとへ心當有之共
御内方の為と存寄候へは式は弟か甥か、兎角其心寄可然と申候、拙者いかにも尤と存幸に妻の弟有之候、是を願上可申とて其後は熊本へ
も申遣取遣済、其年極月廿八日養子如願被仰出候、ケ様に節斎に申候儀も前々老父咄長谷川久兵衛殿實子被果候て跡養子の事幸孫有之
候取持可申と筑後殿御申候時断申候、筑後殿委細直に御聞承置候、尤成事と感じ被申然らは拙者方より願可申とて久兵衛殿に構はず御願
被成候事兼々承候、日本の神其の時長谷川殿存たるにて無之候へども、老父心に拙者存寄叶可申と壹筋に奉存候へは、右の通恭次第三悦
養子候時弾蔵口上書のことく、拙者養子同名中承難被存返事節斎見せ申候、右の熊本へ連状を被申候を三盛なとにも尋候へども何方に有
之哉見出し不被申候、此後にも自然出申候はゝ傳次に御渡し可有候
この旦夕覺書は、傳右衛門八十歳の時(享保九年-1724)に書かれている。文頭に「廿五年以前」とあるから働き盛りの五十五歳、元禄十二・三年のことであろうか。赤穂浪士の討入りが元禄十五年十二月、彼らの切腹が十六年二月だが、この間の細川家御預かりの事情が「堀内傳右衛門覚書」として残されており、わずか三年ばかり前に子息を亡くしていることに成る。そんな時期の養子話である。
細川ガラシャ
キリシタン史料から見た生涯
安廷苑 著
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻として非業の死を遂げた細川ガラシャ。神父に宛てた書翰をはじめ、海の向こうのイエズス会史料にも、彼女の記録は遺されている。本書は、それらの史料をひもとき、ガラシャの生涯に新たな光をあてる、意欲的な試みである。父光秀の謀叛、秀吉によるバテレン追放令、関ヶ原の戦い直前に襲った悲劇。キリシタンでありながら最後に死を選択した、彼女の魂の真の軌跡に迫る。
第1章 政略結婚と本能寺の変―明智光秀の娘として生まれて(ガラシャが見た風景細川家に嫁いで ほか)
第2章 キリスト教との出会い―教会に拒まれた受洗(味土野からの帰還教会への訪問 ほか)
第3章 婚姻問題とキリスト教―ガラシャを縛る教会の教え(戦国時代の結婚のかたち婚姻に関するヴァリニャーノの諮問 ほか)
第4章 ガラシャの最期は自殺か―キリシタン史料が明らかにするもの(忠興が命じた死ガラシャの最期の真相 ほか)
第5章 ガラシャが遺したもの―細川家の転変を追う(ガラシャの死後彼女の最期は殉教か ほか)
フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」や「オデッサファイル」等を夢中で読んだ後、ある人から「日本では逢坂剛が面白いよ」と勧められて読んだのが、「百舌シリーズ」だった。随分以前の話だ。他にも「者よグラナダに死ね」「カディスの赤い星」等を繰り返し読んだものだった。
最近テレビドラマ等はほとんど見ないのだが、或る時TVをつけたらこれをやっていてちょっと眺めて、以来二三回欠かすことなく眺めている。西島秀俊という俳優は、先の大河ドラマ「八重の桜」の演技を見て、伸びる人だなーと思っていたら案の定ブレイクしたようだ。
私の「倉木刑事」の印象は、もっと体格の良い人を考えていたのだが、西島秀俊のシャープな感じも「有り」だなーと思ったりしている。
「百舌シリーズ」の文庫本も既に処分してしまっていて手元にないが、作中の倉木は案外そんな設定だったのかもしれない。
ちょっと目が離せないドラマではある。(用心の為に録画をしておこうといういうミーハーではないのだが)
百舌鳥のさけぶや その葉のちるや 山頭火
郵便局まで出かけた帰り道、何時ものごとくあっちを見こっちを眺めしながら歩いていると、街路樹の楓の幹に紙きり虫が二匹とまっている。
立ち止まって捕まえようとしていると、車で通りぬける人たちが怪訝そうにこっちを眺めているが、子供心に帰って二匹とも捕獲、次の木でも一匹見つけたが手がふさがっているのでこちらはスルー・・・・家迄4~500mを逃げられないようにしながら、必死の思いで帰宅。観葉植物にのっけて撮影したのがこれ(一匹のみですが・・・)
あとは逃がそうと思っているのだが、ただいま我が家の中を遁走中・・・テレビ台のの下や、カーテンの裏表、本棚の中など虱潰しに探索しているが行方不明、奥方が返ってくる前に放免したいのだが・・・・・・・
史談会の関係でここ一週間ばかり、上妻本「阿部茶事談」の読み下しにかかり、ようやく28枚(56頁)を読了タイピングも完了した。昨日は疲れ果てて21時にはベッドに倒れ込み、なんと10時間の睡眠をとり、今日午前中に終了した。今日偶然にも「松寿庵先生 第103講・阿部一族にみる殉死」が、熊日新聞が発行している生活応援誌「すぱいす」に掲載されていた。
実は最近私は、松本寿三郎先生の「古文書を読む会」に参加させていただいており、昨日がその例会であった。前もって配布されている資料を、出席者が1頁づつ担当して読んでいく。これに即座に松本先生が解説をされるという具合だが、皆さんよく勉強をされていてすらすらとお読みになり、びっくりしている。
史談会と二足のわらじに成ったが、なんとか欠席せずに頑張ろうと思っている。
同御所労御逝去之事
有馬落城の後は海内静謐にして国家安全也しかハ、両公参勤
交替怠り給ハす、今度の御軍功他に異なる由重ても 将軍家の
御感甚だ厚かりけるか宅地を添へ給ひ亦御鷹の鶴其外折に
觸たる賜物品々なりとかや、同十八年春三月 忠利公御参勤の
時節たりといへ共罹病而懼失、江府参勤之期告其趣執政給ふ
即達 台聴三月廿日依 釣命以醫以策自京都遣而療養之す
同二十二日使曽我又左衛門近祐遣之熊本問、其病諸執政奉旨寄書
告之曰
所労之由亦願候趣 上聞候処無御心元被 思召依之以
策儀自京都其元へ被差越候 無油断養生肝要ニ候旨
上意候 猶頓後音之時 恐々謹言
三月廿日 阿部對馬守
阿部豊後守
松平伊豆守
細川越中守殿
所労之儀達 上聞候処無心元被 思召候 上使曽我又左衛門
被 仰含候 恐々謹言
三月廿三日 阿部對馬守
阿部豊後守
松平伊豆守
細川越中守殿
如斯 将軍家甚以御懇意ニ而上使迄有りといへとも御療養叶わせ給ハす
定業限り有て寛永十八年巳三月十七日従四位下左近衛少将兼 05
越中守源忠利公御齢五十四歳にして於肥後國熊本城御逝去
有けれハ国中の嘆きたとゆるに物なし、於他邦も傳へ聞輩は
あわれ名君なりしものをと感悼し奉らすと云事なし
三齋君御悲嘆の余り御追悼の御詠歌あり
行くも道ゆかぬも同し道なれと連て行ぬをわかれとそいう
古老茶話曰 忠利公ハ文武兼備の名将にてまし/\礼・樂・射・御書・
數の六藝ニ達し給ひ、剱術ハ柳生・中條二流其(共)ニ奥旨を御受
極しける、御馬御上手ニて折々曲馬抔御乗馬あり、御馬ニて御湯
漬抔(被)召上、梯碁盤乗り色々の事を御乗遊ハし候を、何れも拝見
せしと也、歌道ハ冷泉為綱卿の御弟子御逝去の時も為綱卿御
追悼の和文にて 一とせ筑紫にことありしにも 忠利公の戦功を
柳営是を賞して関西の簱頭を賜ふとあり
阿部茶事談叓跡録 01
忠利公肥後國拝領之事
たくひありと誰かはいはむ末匂ふ世に名も高き白菊の栄へ
いやます武功の花
羽林源忠利公ハ、参議宰相源忠興公御譲りを受継せ給ひ、豊後豊
前三拾萬石余を領し給ひ、小倉の城在豊前にまし/\けるに、寛永九年九
月十三日 忠利公發小倉為参勤江府に趣せ給ふ所に奉書到来セり。
其文ニ曰
一筆令啓達候、當地御参勤之儀冣前十月中旬於江戸御参候様
ニとの儀申入候得共、貴殿之御事儀早々参勤可然候、為其以飛脚申入候、
恐々謹言
九月十六(三)日 稲葉丹後守
酒井讃岐守
細川越中守殿 土井大炊頭
人々御中
尚々早々御参尤ニ候、以上
右三人連署之外、稲葉利勝唯寄書副之使、速ニ参府(と申候得共御急)
不及申候得共、御いそき御下尤ニ候、去なからあまり御いそぎ候ハゝ路次ニて
不審可仕候間、其御心得尤ニ候、将又三斎此間御そくさいニて候、今日
御目見候、一段御念頃ともニ候、何事も/\面上可申上候、恐々謹言
九月十九日 稲葉丹後守
忠利様
やがて/\奉待候、以上
斯て江府御着座有りけるに、十月三日亦奉書あり其書曰 02
明日御登城候間、其御心得ニ而上屋敷ニ而可被成御待候、時分之儀ハ自是
可申達候、御進物入申間敷候、半袴ニ而御出仕可然候、恐々謹言
十月三日 稲葉丹後守
酒井讃岐守
細川越中守殿 土井大炊頭
人々御中
依之、十月四日御登城有たる所に
将軍家光公忠利公ニ肥後国十二郡豊後三郡都合五拾四万石を賜、是加藤
氏豊臣忠廣之闕国也けるとかや。
御諚曰、我聞、卿父三斎屢竭忠節於 大神君、且卿尽心于我于西域
以奉公我思、父子之勤勞而一切不忘焉、是故授肥後國、忠利公稽首
拝謝して退き給ふ、重而嫡男 六丸君を共ニ御登城有て、奉謝賜大
國、皈国之暇を告給ふ、其時又 将軍家直賜所在大坂之石炮大筒小
筒并玉薬且以所帯之正宗之脇差 手授て、
釣命曰、卿を島津氏有通家好、雖然方今登庸則居何處亦無疑乎、
忠利公拝伏奉謝賜懇意有余、則發江府、十一月至小倉給ふ、於爰、
有吉頼母英貴・米田監物是季・小笠原備前長之・志水伯耆元直
を肥後へ遣し、熊本・八代之両城を令請取、長岡佐渡守興長を豊
前に残し、小笠原右近大夫忠直(眞)に引渡し、同十二月九日肥後熊本の
城ニ御着座有りて、諸士に加恩授地、国政執行ひ給ふ、四民蒙其恩澤、御
政の難有事をよろこひ、萬歳を祝しける、同十四年冬肥後之一島
天草寺沢忠高領地、肥後(前)有馬松倉勝家領内百姓等数千人結黨、
復■耶蘇之邪法する、依之西國甚騒動す、釣命ニよつて
忠利公・光尚公・騎士・歩卒二萬八千六百人之人数卒給ひ、一揆為 03
征伐原城に至り給ひ上使松平信綱・戸田氏鉄と心を合せ、城を攻るの謀
略をなし給ふ 本より 忠利公ハ古今独歩の良将にして敵の動静を察
し給ふに、其言葉符節を合する如くなれハ信綱・氏鉄其外攻手の諸将
其謀を承伏せすと云事なし、諸将の陣営ハ一揆のため夜討数多
有と云共 忠利公の御陳所は大手にして甚だ城に近かりけれ共、其備への
節制厳にして懈怠なけれハ夜打思ひもよらす、其猛威に恐れ落城近き
にあらん事を嘆きける処、寛永十五年二月廿七日鍋島氏上使の下知を
背ひて出丸を攻抜、是を見るより諸軍一同ニ惣攻有り 忠利公の士益田
弥一右衛門一番に乗入其外河喜多・津川・池永・都甲・後藤なと云騎士歩卒
続て攻入一揆も今日を限りと防き、我々敵味方の矢石甚だ烈敷其戦ひ
急也、討死手負甚多しといへ共、其を不顧乗越/\すゝミけるに本丸にして一揆の
大将大矢野四郎時貞をそ陣佐左衛門打取る、岡本安右衛門火を放つて城を
焼く、於爰同廿八日原城落去して西国一事ニ静謐すること 忠利公御父
子の御武功抜群なるにより 釣命有りて其賞不斜、此度之諸将ノ上に
冠たり、御凱陳の後其戦功有し諸士には賞・加恩の地を授け給ふ、又戦死の
輩の遺跡子孫幼少たりといへ共無相違是を給ハり、領国の諸浪士・戦
死の者には其妻子ニ月俸を授給ふ、他国の浪士の軍後熊本へ来る
者にハ設饗応、袷一重・白銀十枚宛賜之各奉謝退出す、此度
戦死二百七拾四人・手負千八百弐十六人也、討死為追善於安国寺佛
事を執行し給ひ 忠利公御父子辱くも自ら御焼香ありけれハ是を
見聞の輩士ハ云不及心なき奴僕雑人に至る迄、領内他邦ニおいても
御仁政の難有事を奉感賞、此君の為に命を捧ん事塵芥よりも惜からすと 04
感涙を流し勇みける、況や高禄を賜ひ朝夕君邊に勤仕して蒙
御高恩を面々忠情を尽さぬハなし
森鴎外の「阿部一族」は、「阿部茶事談」をベースに書かれていることを先に指摘したが、この阿部茶事談の内容のいい加減さがそのまま鴎外によってコピペされ、大家の著作をしてこの事件の顛末がまさに真実を損なってしまっている。
今回の史談会で、この「阿部茶事談」をとりあげるにさいし年表を示してご説明しようと作成したものである。まさに「小説は真実よりも奇」なる事を実感する。
寛永18年
3月14日、寺本八左衛門、枕頭に殉死を願い出る。 ----→家老衆留意
3月17日、藩主忠利死去
太田小十郎正信(18)殉死
4月17日、内藤長十郎元續(17)殉死
4月26日、光貞(光尚)名代、堀平左衛門帰国「今度御供を申出シ候衆」に追い腹禁止を申し渡す(御意に背くなら跡式断絶)
4月26日、原田十次郎直之・大塚喜兵衛尉種次・橋谷市蔵重次(31)・野田喜兵衛尉重綱(69)・本庄喜助重政・林與左衛門定光・
宮永勝左衛門尉宗祐(35)・伊藤太左衛門尉方高 以上八名殉死
4月27日、右田因幡統安(64)殉死
4月27日付、寺本八左衛門正式に願い書差出す
4月28日、寺本八左衛門(54)殉死
4月29日、妙解院(忠利)遺骨、泰勝寺に収む
5月 1日、明石の御鷹春日寺の井戸に飛び込む
5月 2日、宗像加兵衛尉景定・ 同 吉太夫景好 兄弟殉死
5月 5日、光貞遺領相続の命あり、翌日登城御礼
5月19日、光尚江戸発
6月14日、光貞帰国
6月16日以前、阿部弥一右衛門尉通信・津崎五助長泰・井原十三郎吉正・小林理右衛門尉行秀 以上四名殉死
6月17・18日、田中意徳に対し殉死制止
6月19日、田中意徳殉死
6月20日、田中意徳を除く十八人に跡式言渡し
6月23日、田中意徳跡式言渡し
9月29日、光貞参勤の為発駕
寛永19年
4月 妙解院菩提寺(妙解寺)建立の為、家中以下に賦課あり(百石に三歩役、その他は一分半役)
6月12日、光貞(光尚)帰国 この秋、光尚と改名ス
寛永20年
2月13日、妙解院追福の為一寺建立、妙解寺と号す、17日まで取越法要行わる。この月遺骨を移す (江戸東海寺中妙解院同断)
2月17日、阿部権兵衛、焼香の際元結いをはらい、目安を上げる 即刻逮捕の上、組頭・藪三左衛門に御預
2月21日、阿部一族誅伐 、権兵衛も井手口に於いて「縛首」処刑さる。
3月14日、阿部権兵衛召仕以下の者、豊前の者四人、国の者八人、計十三人のうち、豊前以来の三人誅伐、他は放免さる。
もしやと思い「熊本藩年表稿」を見て見たら、これに関する記述がちゃんとあった。
・寛永十六年六月十四日 熊本川尻間の高瀬船通行について、川筋拡張を幕府に願い出る。是日に認可をうく。
・寛永十六年七月十九日 白川より川尻へ船通水道、開通工事予告あり。
先に記す様にこの工事忠利の意志により取りやめとなるが、江戸へ報告の間は工事が進んだことが判るが、翌十七年三月十七日忠利は没する。
高祖父・上田久兵衛が若いころ、長崎→天草→八代に遊学して熊本に帰る折、川尻から船で加勢川を上り砂取で降りてその後徒歩で府中に入ったと日記に記している。川尻から歩いたほうが早かろうにとも思うのだが、疲れていたという事も有るかも知れない。
熊本市内の地図を見ると、白川の上郷あたりから、川尻の加勢川へつなげば約3.5キロほどの距離で開削をしてつなげばさぞ便利だったろうにと常々思っていたのだが、ちゃんと考えていた人が在った。
加藤清正公?・・・いやいや、それは細川忠利公である。堀内傳右衛門の「旦夕覚書」(肥後文献叢書・四 p146)に次のように記されていた。
忠利公御在江戸之時被得上意候て御下国之上にて、白川筋浅き所を御掘せ被成可成事あらば、川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様に
被成候はば、熊本賑やかに可成と思召候てそろそろと御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば、夜中にて御聞被成候て、扨々
夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て、夜中にても罷出候旨被申候へば、其儘被為召何事ぞと御意之時、唯今初て
承申候白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば、今之如く其儘にて川尻船着奉能存候子細は、熊本之町中に駄賃馬持居申者ともは川
尻往来之駄賃取候故前々ゟ馬を持居申候、長六橋邊に船着候ては駄賃馬少く成可申候、左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀成兼可申候、
何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候へば、扨々尤至極に思召候、今度御在江戸之刻御願被成候間、先少々堀候て其後ならぬと
て御止可被成と御意之旨于今其掘懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候
駄賃馬がへると日ごろ馬を持たない下級侍が、自ら馬を飼わなければ馬の絶対数が減るからまずいという話なのだろう。
いわゆる馬乗りと呼ばれる人たちが馬を持っていないということを暗に匂わせている。
それはともかく、これがつながっていれば熊本の水運も随分便利であったろうと思われる。その跡がどこなのか・・・今ではその場所は知る事も出来そうにないが興味ある話ではある。
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秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く (学研新書) |
二木謙一 | |
学習研究社 |
内容(「BOOK」データベースより)
この四五日阿部茶事談を読んでいる。先日熊本県立図書館からコピーしてきた上妻文庫本29ぺーじだが、現在16ページに達した。
一日4ページ程のペースだが、タイピングしながらの事なのでまずまずのペースだろう。判読不明の文字はひとまず■表記をしてどんどん前へ進めている。
時々、藤本千鶴子氏(広島大学教授)の校本と照らし合わせているが、随分と相違するところがあり驚いている。
校本には独自の句読点が入れられているが、意味をなさないところに打たれたりしており、首をひねっている。
森鴎外の「阿部一族」にも目を走らせたりしながら忙しい限りだが、改めて一字/\をタイピングしていると内容を十分に理解することが出来、また見落としていたことにも気づかされ誠に有意義である。
内容的には事実とは違う創作が入ったものとされるが、事件から相当時を経てのものではあるものの、大変大胆な書きようではある。
かって私は、著者を栖本又七郎自身とばかり思い込んでいたが、やはり活字本を信用しているととんだしっぺ返しを喰らってしまう。
やはり原本をして第一とすることを教えられた次第である。
毎日外出することもなく、ただただ読書をしたりPCに対したりしているが、誠に尾籠な話だが最近尾てい骨が痛くてたまらない。
椅子に座布団を重ねて凌いでいるが、間違いなく遠い先祖は猿だよな~等とおふざけ気味に思ってしまう。
ベッドに入ってもお尻の収まりどころがなく、まずは横向きで寝るのだが、いろいろ考え事をするからすぐに眠りに入る事もなく、数回寝返りをうってそして寝入る事になる。真夜中に目が覚めると同様なことで、それでも朝方には何となく真上を向いて寝ているから不思議である。
良くなったのかしらと、尻を動かすとまた痛みが走って起きだすまでは、右を向いたり、左を向いたりと時間の経過が気になってくる。
厄介なことだが、これが加齢というものであろうか・・・・
処で「尾籠」という言葉について昔書いたような気がするのだが、ブログ内検索を懸けても見つからない。
なんでも応神天皇には尻尾がおありで、これを女官が建具の開け閉めの折に挟んでしまい、天皇が「尾籠なり」と声を挙げられたというのである。
これはともかくとして、尾てい骨なんぞ何の役に立つのだろうかと不思議に思うし、進化の過程においても何故残されたのかも不思議で、応神天皇の尻尾なども本家帰りの現象かもしれないな~等と、時折尻の置き所を移しながら思ったりしている。