津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原子力ムラ・もう一つの闇

2014-06-23 08:12:12 | 書籍・読書

 この本は我が熊本史談会の中野会員の実弟・中野昭二郎氏の著作である。先の史談会の例会の席上でご紹介をいただいた。
先の地震・津波による福島の原発の被害は、遠く九州に住んでいるとメディアの報道で知るのみで、いろんな意味での被害に遭われた方々の御苦労が、実感として受け止められていないことは申し訳ないことだと感じている。しかしながら九州にある二つの原発の施設の再稼働問題は、近隣住民には深刻な問題として受け止められている。将来のエネルギー問題を真剣に考えることが求められる時代を迎えているが、よくよく考えると我々は原子力に係る知識は遠い次元の事として知らずに来た。この御著を読み意識を新たにする良い機会だと考えて只今読書中である。
 

                                      関東大震災の暴挙は終わっていない原子力ムラのもうひとつの闇

 

■紹介

原子力ムラの住人達は最高学府の高度の教育を受けて、超大企業や中央官庁に要職を得た、専門エリート意識の強い人々ばかりと言っていい。それなのに、その原子力ムラのなかでもトップを占める選りすぐりのハイセンスな嗜みを自負する集団のなかで、あってはならない「手談のヘイトスピーチ」が公然と、かつ決定的に行なわれた。
その実態を臨場感十二分に内部告発する、ノンフィクション・ドキュメント。
東日本大震災前夜の原子力ムラの奢りと高慢ぶりを直視できる、貴重な一冊。

■目次

はじめに 1

第1章 市ヶ谷にて — 原子力囲碁大会 — 5
第2章 キックオフ 12
第3章 日本棋院理事長室 22
第4章 ねぶた祭り 27
第5章 朝鮮半島と日本列島 36
第6章 終結しない議論 47
第7章 師走の御徒町 57
第8章 アトムネットワーク 71
第9章 情報途絶 77
第10章 4月の椿事 88
第11章 関西人の実力 98
第12章 緊急世話人会 105
第13章 聖断と波及 114
第14章 法による決着 140
第15章 原子力と倫理 157
第16章 歴史と真実 261
第17章 新たな戦い 285

あとがき 295

(参考)登場人物リスト 305

■著者プロフィール

中野 昭二郎(ナカノ ショウジロウ)

昭和43年京都大学工学部原子核工学科卒業。同年科学技術庁入庁。
英国ブリストル大学留学、研究開発局総合研究課長、民間企業常務取締役等を経て、
現在は原子力関係NPO法人の役員。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■落髪令とは・・・?

2014-06-23 07:09:54 | 歴史

 大相撲で人気の遠藤関が、先場所曲がりなりにも髷を結って登場した。さて来場所は大銀杏を結えるのか大変興味深い。(無理だろうな・・・)
吉田拓郎に「僕の髪が肩まで伸びて・・・♪♪」という歌があるが、お相撲さんが洗い髪に成ると、髪の長さはそんなものではないらしい。

もう随分前の史談会でのS講師のお話だが、遊行上人が肥後の北の国境・南関に入られたとき、熊本では藩主家で不幸があったらしく、侍はすべて元結いを切り、斬ばら髪でおまけに月代をそれないため何とも表へ出かねて、上人を家の中から御迎えしたという話が残っているとお聞きした。

忠利公が亡くなられた(寛永18年3月17日)後、江戸からの使いが到着し4月13日「落髪令」が出された。山本博文著・殉死の構造によると「藩士の内知行取りが落髪し、知行取の嫡子および切米取りの者が元結いを払った」とある。
先の遊行上人の話はこの時の事ではないと思うが、国境の出先の役所の切米取りの役人の状況ではないかと推測される。
さて「落髪」とは一体どういう状況なのだろうかと長年考えているが、資料もなく時を過ごしている。
辞書を引くと「落髪=剃髪」とある。丸坊主になるという事だろうか。さてそうなると、髷が結えるようになるまでは半年・一年ではとても済まないように思うのだが・・・・御城下は丸坊主の侍が往来していたかと思うと、いささか異様な風景ではある。精々「髻を払う」とか・・・?そんな感じなのだろうか。
この「落髪令」の詳細について、どなたかご存じあればご教示いただければ幸いである。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大石内蔵助(?)、細川藩士の出自等を尋ねる

2014-06-22 07:41:23 | 人物

 赤穂浪士に関する「堀内傳右衛門覚書」に、大石内蔵助と思われる人物が細川藩士数人の出自などをたずね、是に答えた一項は大変興味深い。(p308)

坂崎忠左衛門殿は、いか様の筋目にて候哉と御尋候に付、忠左衛門親清左衛門と申候は故越中守代児小姓にて、懇に召仕段々取立、當越中守代にも心に叶、其後家老に被申付、以後家督を嫡子に譲り致隠居候て病死仕候、嫡子病気に有之知行を上候、忠左衛門は二男にて幼少より段々取立、懇に召仕候、只今は大方親の身體程に結構に被召仕候
三宅藤兵衛殿はと被尋候、藤兵衛儀は少わけ有之者にて、定て御聞及可被成候、明智日向守殿は先祖越中守と少すうき有之、日向守殿内に明智左馬助と申候て名高き者有之候、藤兵衛は其子孫にて御座候、其故様子よく召仕候
長瀬助之進殿はと被申候、是は三齋代小谷又右衛門と申候て名高き者有之候、足軽に具足を着せ武者足軽とて五十人宛仕立、右又右衛門預申候、其末にて側に召仕申候
堀尾万右衛門殿はと尋被申候、是は堀尾山城守殿の末にて、幼少より心に叶、懇に側に召仕候
(宮村)團之進殿はと尋被申候、是も代々召仕候者之忰にて、幼少より心に叶、段々御取立結構に仕候と申候へは、度々御出被成候、扨て能御辨舌、奇麗なるおし立てとほめ被申候
横山五郎太夫殿はと被尋ね候、五郎太夫は定て御聞及も可有御座候、嶋原陣場にて板倉内膳正様御討死の砌、祖父横山助之進と申て物頭仕候を、内膳正様え被付置候て、一所に討死仕候、其子孫にて御座候、懇に召仕唯今小姓頭に申付候、助之進同前に伊藤十之允と申す者も討死仕候、其子孫只今伊藤又右衛門と申て、側に召仕候
平野九郎右衛門殿はと被申候、是も祖父以来代々能召仕候、只今小姓頭申付候、遠江守様の平野にて御座候
中瀬助五郎殿はと被申候、是は御聞及も可有御座候哉、三十年斗前摂州芥川にて十三四歳の時、親之敵を首尾よく討申候、少譯も有之幼年より召仕、小姓頭勤候 と夫夫致返答候へは、扨々御大家様と感被申候事 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■花嫁の父の涙

2014-06-21 16:18:34 | 人物

          酒井左衛門尉様江光姫様御祝言の日は芝の御広間御番にて詰居申候、拙者(堀内傳右衛門)前四尺程間有之折節遠江様被成御座候
          御敷臺の上左の方のぬくい板には蜂須賀飛騨守様御座候、皆共詰居候御廣間一間上に左京大夫様讃岐守様刑部様御兄弟何も被成御
          座候、飛騨守殿夫へ御座候ては皆共是にありにくゝ御座候、是へと左京大夫御あいさつ被成候へは飛騨守様御手つかれ私儀は勝手に
          是か能御座候由御こしの御跡より被成御座候筈故右の御挨拶と存候、しはらく仕候て 妙解院様(忠利公)御出被遊御からかみを少御明
          け御こし出候を御覧可被成と思召御右の方御覧被遊候へは御一門様方被成御座候故行列を見可申との御意にて御急き飛騨守様被成
          御座候向御右の方御玄関の戸を御とらへ御覧被成候内に御落涙を見申候、是は午前様被成御座候はゝと被思召上たると奉存、其儘落
          涙仕難儀を仕候、其前に承候へは奥にて御一人の御世話と承及申候、扨亦其前に水戸様奥へ御出被成光姫様御供に被召遣候女中何
          れも上中共に御召出し御意被成候は何も女にても能承候へ、右衛門殿は小身には候へとも先祖の武功により如此皆共も安楽に被成御
          座候、越中殿は家も能大にて候、左衛門尉は小身にても右の通候間此趣を女にても能存候て必々何事によらすせまきの廣きのと部屋々
          々の事にても不申様に心得候へと委細の御意と其前承及ひたる衆何も扨々御太切思召如斯 御前様御存生ならはと拙者式迄奉存候故
          右の節落涙難儀いたし候、唯今調候内にも其時同前に落涙仕候

 これは旦夕覚書(p214)にある文章だが、綱利の娘・光姫の祝言の際の有様で大変興味深いものである。
文中妙解院とあるのは明らかな間違いで、妙應院(綱利)のことである。
綱利の正室・本源院はこの時期すでに亡いとされるが、その没年は延宝三年である。(32歳)水戸中納言頼房の実娘であり、嫡子である松平讃岐守頼重の養女として綱利に嫁いでいる。文中に出てくる水戸様とは、光圀公であろうか。華やかな顔ぶれの婚儀が行われたことが判るが、貴重な証言ともいえる文章である。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第104講

2014-06-20 09:31:54 | 史料

 阿部弥一右衛門の不幸は、短期間のうちにあまりにも出頭した事であろう。その事がねたみを買ったという事はあったのかもしれない。
森鴎外の小説は、弥一右衛門が廻りからの誹謗中傷の中で切腹に至ったとしているが、これとて本当かどうか判らない。
奉行所の日帳は「御供衆、達而御留めなさるとの仰せ渡され、御花畠に而、何れも御揃いて仰せ渡され候」として、四月廿六日の十三人の中に弥一右衛門の名が記されている。森鴎外は忠利があたかも弥一右衛門を嫌っていたかのように書いているが、忠利が亡くなる二タ月ほど前には、忠利は弥一右衛門宅を訪れるなどしており、この指摘はまったく当たらない。

 この事件の発端は弥一右衛門の切腹問題ではなく、三回忌の席で嫡子権兵衛が髻を切り目安を上げたという不届きな行為が発端である。
これに伴ういろいろな出来事を「阿部茶事談」の編者・渡部権太夫が面白おかしく書き上げ、これを鴎外がコピペして小説「阿部一族」が出来上がっている。

明日の史談会ではこの「阿部茶事談」をとりあげてお話しようと思っている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 九(了)

2014-06-20 06:51:06 | 史料

            高見権右衛門働下知之事 并阿部兄弟不残討捕人数引揚之事              25

去程ニ高見権右衛門重政は竹内数馬一同に裏門を押破り攻入けるに

竹内数馬一手の輩ははや屋敷内に充満せり、権右衛門ハ裏より表のおく

数馬と入違ふて突て入、其時数馬ハ討死しけれは、阿部一塚の者共最前ハ

奥ニ籠り居たりけるか今ハいつをか期すへき迚不残表をさして切て出けるか、弥五

兵衛ハ又七郎ニ鑓突られ引て入か、七之允も討死す、五太夫・市太夫其外譜代の家来

共多年の恩を奉すと呼はつて思ひ切て働きける故討死手負も多かりける、権

右衛門下知をなして自身も十文の字の鑓を以相手を構す突伏る、権右衛門ハ兼て思慮

有者なりけれハ懐中に髪鏡を入て居けるに、だれかハしらす鑓を以腹をした

たかに突しか、其鏡ニ當りて身ニハ無恙、家来一人半弓を以権左衛門鑓脇を詰、頻ニ

矢を放しけるか、後ハ刀を抜て切て廻りけるに是も深手を負ひ討死す、今其声明を

知らすして意恨なれ、千場作兵衛も大に働き深手を負ひ気労れ、咽かハき

ける故少し気力を助て働かんと水仕処ニ至り水瓶に差懸り水を呑て少し

咽をうるほしける、何も必死に成て仕手の面々相働く処ニ、今日の御目附を

蒙りし畑十太夫ハ大臆病者なりけるが、阿部屋敷門前にも不至かるかに町を

隔て乗廻り色を失ひ震ひ廻りしかハ諸人の笑草に成ける、阿部一族郎

従身命を不惜防くちいへ共勢ひ尽て、五太夫・市太夫も討死し又ハ手負切

腹し一人も残無く討取しかども権右衛門下知なり猶も迯隠て居る者も社

あらめと屋敷のくま/\不残さかし求めけれ共残黨一人もなかれハ焼討

のしるしとして小家を潰し火をかけて、尤火災近隣に移らさることく防の

火も鎮りけれハ手負討死を改て引揚ける、添頭に千葉か行参を知しらず尋

求けるに水仕前ニ刀を杖について半死半生の躰なりしを下人肩ニかけて退 

ける、此働き御賞美有けると也、末の卉(刻)に及て事落着しけれは直に         26

今日の御成先松野右京亮宅に伺公して阿部兄弟不残討取候由

言上する所ニ 御前に罷出へき旨被 仰出御書院の庭ニ畏て居ける時言上

の趣委細被 聞召上候其方も相働き手負たりと見へたり、一段骨折候との

御意也、権右衛門難有旨御受を申上今日仕手働の甲乙一々言上せしにも

栖本又七郎阿部阿部弥五兵衛を討取、七之允の為に手負無比類働と

上る、数馬討死之由御尋被遊けるに場所違ひ不存と申上添島九兵衛

をば御直ニ申上ける時、何れも出精骨折御満足に被 思召上候、罷帰

休足可致よし被 仰出権右衛門退出、其後御褒美として御加増三百石

拝領させらる

又曰 高見権右衛門松野右京宅へ仕手の面々同道して不残伺公せしに

働たる衆ハ火を消したる時の灰と血とによごれ顔なとも黒く中/\

其男ふり見事なるがさしたる働きもなき衆と見へた炭はかり

に成たるは見苦しかりし、権右衛門ハ羽二重の衣裳血のりに成て水

落しの近くゟ原にかけて血流れて有しを御覧被遊、其方も働

手負けるにやと御意有りし也。是鑓にて突れし時の手疵ニ今高見家に

            此節懐中せしはな紙共血に成た

るなり、鑓ハ十文字代々持鑓なり

又曰 高見氏ハ藤原姓ニて蒲生手の方の一族也、本名和田氏也、代々

近江の和田に在城せし也、和田但馬守・同小兵衛尉其子庄五郎明

智氏ニ仕へて武功有、明智氏滅亡之後御當家に勤仕慶長五年

九月岐阜関ヶ原にて働有之此節ハ 与一郎忠澄(隆)に付居たる故 

御流浪被遊候時も直ニ付添、高野山京都へ被成御座時も御奉公申          27

上候、其後 忠興公従豊前被召候ニ付小倉ニ参り御知行五百石御

番頭相勤御意ニて高見と改む、其子高見権右衛門重政有馬御陳

之節御側物頭にて戦功有、然れ共御軍法を破りたる御咎有て

御役被 召上其後又御側物頭有事、寛永廿一年三百石御加増

松平下総守忠弘公の御前御藤様御出生の女中後真如院と云後権右衛門ニ

被下高見権之助其外出生、権之助代二百石拝領御使番其後八代

御番頭其子高見三左衛門其子同権右衛門也

愛敬氏追加三 巻末尾に加フ

   又曰 畑十太夫は器量骨柄逞敷、新田義貞の十六騎の其一人畑

   の子孫ともいうべき男ふりなりしかハ猶畑ハ今度定て手柄有んと

   沙汰せしに想ひの外大臆病の挙動也、依之御追放と云、其後御家中ニて

   十太夫と云名付者なし畑か汚名を悪んで也、近年天草甚右衛門十太夫

   と云名乗りし、是ハ又畑とは違ひ先祖武功有佳名を慕ひけると也

   又曰 新免武蔵と云剱術者 光尚公御伽にて御前ニ有けるハ畑阿部

   兄弟討手御目附御 仰付候時御次ニ出畑に云様、扨々和殿ハ冥加者

   随分手柄をめされよとて云て背を打けれハあつと云ておひへ、色草葉

   のことし、袴紐とけて有を結んとせしに手ふるひ結ひ得さりしと也、此事

   其後御前に於て御咄申上大に笑ひしと也

愛敬氏追加四 巻末尾に加フ

   又云 誰とハ知らす、親ハ御馬廻り組、子息ハ御近習なり、阿部近所也
   御意ニハ其方親屋敷共近所也、阿部兄弟焼討と申付候間在宿有て親

   共と随分火災等無之様ニ見繕ひ可申由ニて當番也けるを御帰し

   被成、仕手ハ人数極りたり、御下知なきにかの屋敷へ参るへからすとの

 

   御意なり、前夜ゟ在宿にて廿一日ニハ父子共仕手拝命の如くニて阿部        28

   屋敷火かけ候時は屋根に上り守り防被申候事、火鎮りて後世上の

   沙汰ニハ、某こそ折節御前ゟ御心有て勤番も御免在宿被 仰付

   ニ(候)處御賢慮の意味をさとらすして火用心斗して手に合す、是も

   臆病故なとゝ評判有り、其仁是を聞てそこにて思ひ當り、扨々

   無念の仕合せ、一筋に御下知なきに彼屋敷へ不可参との御意一通りニ

   承りて忝き御意□(人偏ニ未・味)をさとらす武運に不叶無是非とて御暇の願

   有しに、御意ニハ今度其方事何そ越度無之御下知なきに彼等

   か屋鋪へ参可働様も無之其方御下知を守り火災を隣に移らせ

   さる様と被仰付候通守り見繕たる事ニて致臆病儀無之、只今之通

   相勤可申候、併し若き者之儀以後心を付相勤可申との御意難有迚

   御逝去の時殉死申上たると云う、此仁臆病故阿部屋敷へ不参に非す、武

     道心懸うすくして忝御意味さとり不被申の一偶を守り機変無

   して一度評判にあい申され候、然れ共過て改るに憚る事なく殉死

   致され會稽の恥を雪かれしとの事

   私ニ曰 右之外阿部屋鋪責被 仰付か衆有といへ共、手に合不被申衆

   は名も不聞と也、是に記す衆中は何も働有し衆迄也  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本県立図書館蔵「拾玉雑録」リスト

2014-06-19 09:39:47 | 人物
熊本県立図書館の蔵書リストを眺めていたら、横田氏連成る人物が「拾玉雑録」なる書写文書を残していることを知った。
実は寺本直廉が「拾玉雑記」を著しているのだが、この所在を捜している内に偶然遭遇した。
上妻博之先生の「肥後文献解題」をみても出て来ないし、横田氏連とは先にご紹介した■横田吉左衛門・覚を著したその人である。
内容はまだ拝見していないが、他の資料と重複するものがかなり見受けられるが、貴重な史料であることは間違いない。
熊本県立図書館は7月から改装工事の為に長期の閉館になる。その前にちょっと眺めて置こうかと思っている。 
拾玉雑録・巻一 
   1 故諺記
   2 お志も覚書
   3 肥後天草城主名附同軍之覚 (著者未詳)
   4 智嚢 (作者不詳)
 
拾玉雑録・巻二
   1 黒船一巻 正保四年肥前長崎就黒船漂着続平右衛門覚書
   2 森岡貢物語 (著者未詳)
   3 御納戸日記 (著者未詳)
   4 牧 丞太夫覚書
   5 国朝旧章録抜書    
拾玉雑録・巻三
   1 国朝旧章録之内抜書
   2 故老雑話抜書 (編者未詳)
   3 忠興公東国御紀行
   4 朝鮮征伐人数附 (著者未詳)
   5 秀吉公御代細川越中守忠興骨折申所々之覚 (著者未詳)
   6 家康公御代忠興骨折被申候所々之覚 (著者未詳)
   7 細川越中守内沢村才八今八大学幼少之成立覚 (著者未詳)
   8 延宝九年九月十三日御巡見奥田八郎左衛門殿戸川杢之助殿柴田七郎左衛門殿当
   9 泰勝院様百五十年御忌御追善和歌 宝暦九己卯年八月二十日
拾玉雑録・巻四
     1 旧説記聞 (著者未詳)
     2 阿部茶事談
     3 有馬陣覚書 (著者未詳)
拾玉雑録・巻五
        1 太田道潅伝 (著者未詳)
     2 筑前国正助伝 (著者未詳)
     3 三刀谷監物伝 (著者未詳)
     4 大友家由緒 (著者未詳)
     5 嶋津家由緒 (著者未詳)
     6 東照宮御遺訓附録 (著者未詳) 
拾玉雑録・巻六
        1 南関紀聞
        2 中原雑記 (著者未詳)
拾玉雑録・巻七
        1 細川記 (著者未詳)
        2 古今雑聞書 (著者未詳)
拾玉雑録・巻八
        1 熊本より隣国への行程 (著者未詳)
        2 大嘗会覚書 (著者未詳)
        3 黒船漂着之節船数覚 (著者未詳)
        4 大阪夏陣御褒美之覚
        5 武具附之覚 (著者未詳)
        6 加藤家高麗陣備定
        7 有馬陣御行列
        8 御領内寺社数並寺社料之覚 (著者未詳)
        9 御郡高並手永附 (著者未詳)
       10 八代洪水御書附 (著者未詳)
       11 影板渡様之覚 (著者未詳)
       12 源氏八領御鎧縅毛之事 (著者未詳)
       13 従秀吉公清正候へ感状之覚
       14 魚住道庵覚書 
拾玉雑録・巻九
       1 本朝武家勲功記前編抜書 (著者未詳)
       2 長崎以来記 (著者未詳)
       3 北関始未記 (著者未詳) 
拾玉雑録・巻十
       1 深草元政之文
       2 沢庵和尚法語
       3 江戸大火之節文通 (著者未詳)
       4 時代狂歌 (著者未詳)
       5 楽迦記 (著者未詳)
       6 五穀大平記
拾玉雑録・巻十一
       1 幽斉公御狂歌
       2 達麿の賛
       3 幽斉公蝨御詠
       4 五十首狂歌 長崎一見 河喜多雑記之内
       5 詠百首狂歌
       6 狂歌五十人一首 (高朝親王等)
       7 狂歌五十人一百の外の狂歌 (伝教大師等)
       8 狂言詩語 (著者未詳)
       9 魚類三十六首歌仙
       10 花洛の部
       11 西肥之部 
拾玉雑録・巻十二
       1 武家深秘録 (著者未詳)
 
拾玉雑録・巻十三
       1 玉露餘滴 (著者未詳)
       2 浪花太平記 (著者未詳)
拾玉雑録・巻十四
       1 諸神書和歌秘伝 (著者未詳)
       2 徳川世祀 (著者未詳)
       3 御巡見様御国中御通筋里程附 (著者未詳)
       4 諸候伯御居城 (著者未詳) 
拾玉雑録・巻十五
       1 秀頼事記 (著者未詳)
       2 大阪聞書 (著者未詳)
拾玉雑録・巻十六
    1 樋口元賀狂歌追加
    2 阿蘇御田植祭礼田歌
    3 霊感院様御入国之節被仰出候御書附
    4 寛政七年江戸評定所出火之節之江戸より文通
    5 寛政帝綸言
    6 肥後孝子伝之儀二付薩州赤崎源助より高本慶蔵江噺伝之趣
    7 寛政帝御製 芦北御廻覧の節女嶋の宮で
    8 愛甲十右衛門追善の俳偕句
    9 男成の社司伊豫守が歌
    10 安永八年薩州桜嶋燃出候節外聞より之書付
    11 於ろしや国の人皇国へ来らん事を願ひけるに下し給わる一札
    12 和藤内唐土より援兵を乞に捧る書翰
    13 五拾人狂歌
    14 寛文七年正月十九日江戸詰之佐渡殿江之状並天野屋方より指越候覚書
    15 天野屋藤左衛門覚書
    16 堀平太左衛門殿江被仰出御書附
    17 肥後国水災
    18 文化二丑年十二月ヲロシヤ船壱艘寛政五年ニ給る処の信牌を所持し長崎ニ来る
    19 天正十八年二月秀吉公北条征伐の條
                                   (了)
 

 

 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 八

2014-06-19 07:13:48 | 史料

   ○栖本又七郎阿部弥五兵衛を討取同七之允鑓合働手負之事 付又七郎

    妻女仁愛有事

阿部か南隣は栖本又七郎屋敷にして、平日阿部とハ通家の好ミ深かりける、

又七郎性質元来潤恕として文武を嗜む者也、妻も貞潔にして仁

愛有ける人なれハ年の始より其ことふきの折からハ阿部か妻子に酒肴

贈り月の夕雪の朝には折ふれ交り遊山物もふてにも道を同く

して、情深く交らひけるがゆへ、阿部妻子幼き者共ハ又七郎夫婦の人をバ

叔姪のおもひをなし馴なしミけるか、阿部一家の者共刑人と成て後ハ 上を

憚り又七郎夫婦の人も心に隔ハなけれ共、心の外に疎々敷ぞなられける

又七郎元来情有る人也けれは、妻女に申さる様ハ此度阿部兄弟刑人と

なりぬる上ハ 上を憚り我等ハ忍ひても問ひかたし、妻子の事ハ強て

左而己(さのみ)御咎も有まし夜更け人静りてしのひやかに問給へ、彼等一家滅亡

近きにありと申されけるに又七郎妻女申さるゝには、彼等に常々馴なしミ

けるも今更よしなき事のミ思ひ替し申、女性幼きもの共の事いとあわれ

絶かたくてとひたく存しか共うえを憚り心の外に打過たり、女ハさのミ苦

しかかるなし、忍ひてひそかに幼き者共をは(い)とへと宣ふこそ嬉しけれとも

密かに問慰められしかハ阿部一家の女性幼き者共、其情け深き事を

かんし、世は春なから一家の者共御咎の身と成りぬれハ秋霜と剱の

下に消ぬとも、今更嘆てかへらぬ事也、唯亡き跡一遍の御手向も御

夫婦をのみ頼申由也けれは、いとあわれに思はれける、既に二月廿一日屋

敷責と聞へける時又七郎ハ此度討手の御内意や蒙られけん又ハよし 

御下知は背く共、隣家主君の咎を蒙りやしき責とて討手の面々              22

馳集るに、己か屋敷を堅め火災をのミ慎ミ安閑としてあらぬも勇士

の翻意に非す、何ぞ傍輩のよしみを以て主君に忠義なからんや後

に御咎はさもあらばあれ、年来手練の鑓の術此時なりと思いれけん

廿日夜更け人静まりて後ひそかに堺の垣縄の結目を切置て廿一日未

明に討手の面々阿部か屋敷ニ押入とひとしく件の垣を踏破りて大身の

槍を提て兼て屋敷の案内は知たり、何くに兄弟の者共有やらんと

尋ねしに、弥五兵衛家来を下知して臺所の前に有り、又七郎言葉

をかけいかに弥五兵衛兼々鑓の手練を心見たし、我等か手並を可見と有り

けれは、申にや及ぶと互に鑓組して一足も引なと恥しめて、勝負ニ及

けるか又七郎ハ鑓の術抜群なりしかハ、弥五兵衛胸板をしたゝかに突通せバ

弥五兵衛ハ鑓を捨て引退く、又七郎言葉をかけ臆病なり弥五兵衛

そこを引なと有けるに、遁るゝにあらす腹を切るなりといゝ捨て、内ニ入所ニ

弟七之允馳来り、又七郎ニ渡り合暫く鑓を合せ戦ひけるに、又七郎か高

股をしたゝかに突く、又七郎手負戦ならす、七之允ハ又七郎一人の敵にあら

ざれハ其所を立退きけるが、誰か為に討れけるか又ハ切腹をや仕たりけん、

一族一同に滅亡す、又七郎ハ深手なれハ働成りかたく鑓をはかなぐり捨

たれ共歩行叶かたく打臥たり、誰とハ知らす是を見て又七郎手負た

るや遖れ見事、早や引退れよと申けるに又七郎ハ是を聞てふ甲斐無

言葉かな、引程の足あれハ先に進むなりと申ける、勇気の逞しくぞ聞へける、譜代の

家来馳来り肩に懸けてぞ退きける、今日の討手の甲乙を高見権右衛門

言上せしにも栖本又七郎を第一の功とぞ申ける、依て早速又七郎組頭 

谷内蔵之允を上使として栖本又七郎宅に至り被 仰渡趣は今度阿部            23

権兵衛兄弟之儀ニ付働無比類之段、高見権右衛門申上委細被 聞召上御満

足に被 思召手疵随分養生可致之由也、其後又谷内蔵之允御花畑ニ

被 召出御意之趣ハ今度栖本又七郎阿部権兵衛兄弟共之儀被 仰付

候処精を出し首尾能仕廻骨折申候段、具ニ被 聞召上候 御直ニ右之段

可被遊 御意候得共御家老中先被 仰渡候旨米田監物組頭谷内

蔵之允へ被申渡難有次第也、又七郎手疵も快気有ける上、正保元年

六月御前ニ被 召出段々今度相働手柄を致、手疵も快く一段之儀

被 思召上候、未だ疵も残居候ハゝ当時様も仕可然由、御懇意之被仰渡ニて

御鉄炮十挺御頭被成候段御直ニ被 仰渡、猶又御意ニハ府中ニ罷在ニては

晴やかに有之まし府外ニ罷在て山沢に逍遥し水石を翫て緩々

保養可仕、望ニ任せて何方ニなり共山荘の地可被下由なりけれハ、又七郎は

重ね々(々)御懇の御意身に餘り難有由申上御前を退出す、是を承ける

面々扨/\御手柄哉と称美しけれハ、又七郎申けるハ此度段々結構ニ

被 仰付難有存る也、傳へ聞元亀天正の頃ハ戦国の細注ニして城

攻野合の合戦ハ武士朝夕の茶飯のことく阿部兄弟か如き事ハ茶の

子/\朝茶の子成らんと笑われけん、いつれも其男気をぞ感しける、

御意に任せて益城郡小池村と云所ニ在宅有度よし願有ければ

御免有りて運の薮山共ニ不残拝領させらるへきよし有けるに、又七郎ハ

元来廉直の人成りける故、曽て其儀ニ不及かゝる難有御意こそ無

けれ、草も膽我大君の御領内殊弐竹は御軍用の一ツにして

自然の時ハ竹束の御用の為随分建直へき也、平日の用は勿論 

然るに我是を拝領して制止を加へん事本意ニ非す、御用支なきこそ            24

我本意なれ、山居の楽ミには夕への嵐・朝の松の落葉を拾ハせ

雪の降へをふるうて石鼎に枯枝をたき世恵を忘るゝこそ、気味

淡薄にして面白し迚、薮山拝領之儀ハ御辞退申上候由

光尚公被 聞召上弥御感ニて武勇のミにあらす、又七郎ハ風雅の

意味廉直の者也と御意有て薮山共ニ永/\又七郎子孫まて

御預と被 仰付ける、其後彼地に住居して子孫今に繁昌也

   又曰 栖本天草志岐の三家は元来肥後の一島天草郡の領

   主にて年暦数代を経たりしに、小西行長肥後半国領地有ける

   時に志岐天草ハ誅伐家系断絶す、栖本ハ其後御當家ニ勤

   仕也、酢的館と云て古城跡に居間に有と云家の紋鷹の羽也

   予か若年の頃迄ハ又七郎存生故阿部事の物語を問へ共辞て

   不語、強て問尋れハ物語有し故直談を聞ゝ予の宅ハ栖本氏

   屋敷の向う也、代々通家の好ミ有よし咄なり

   又曰 栖本氏譜代の家人天草平九郎と云者も箙を負ひ半弓を

   以て働き玄関の前にて討死す、此子孫枯木町に居住して代々

   栖本氏の被官也、今ハ行衛をしらす

   又曰 光尚公今度の仕手の面々働の甲乙委細御吟味之上阿部

   兄弟其外の死骸迄井手の口に引出し白川にて洗わせ疵の跡迄

   御吟味に、栖本氏鑓付候弥五兵衛胸板の疵跡うら表に突抜れは

   紛れなかりけるに一入手柄の程揺焉して 公にも満足の由

   御賞美也との事なり

 愛敬氏追加二 巻尾ニ加フ

 

 

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■江戸・東京の都市史: 近代移行期の都市・建築・社会

2014-06-18 07:08:37 | 書籍・読書
江戸・東京の都市史: 近代移行期の都市・建築・社会 (明治大学人文科学研究所叢書)
 
                       東京大学出版会


ちょっと値段が高いので本屋さんで内容を確認して買ったがよいかもしれないが、すごく興味ある本である。
建築が本業であることと、歴史狂いしている私としては今是非とも読んでみたいと思っている本の一つである。

    

江戸・東京の都市史 近代移行期の都市・建築・社会

松山 恵
ISBN978-4-13-026608-6, 発売日:2014年04月上旬, 判型:A5, 386頁

内容紹介

遷都,そして首都化という大きな時代の転換期のなかで,江戸から東京となる過程にはいかなる動態があったのか.武家地の処遇,銀座煉瓦街の建設,皇大神宮遥拝殿の造営論争などに着目し,明治初年から明治20年の激動期における生活空間としての首都東京の展開を明らかにする.

 

主要目次

序章   
I 首都化――「郭内」における「輦轂の下」の表出
第一章 「郭内」と「郭外」――首都・東京の祖型 
第二章  再考・銀座煉瓦街計画
第三章  「皇大神宮遥拝殿」試論
II  明治東京、もうひとつの原景――「郭外」の諸相
第四章 明治初年の場末町々移住計画をめぐって――交錯する都市変容の論理
第五章 旧幕臣屋敷の転用実態――朝臣への払下げと町人資本による開発
第六章 日本各地の「神社遥拝所」の簇生について
第七章 広場のゆくえ――広小路から新開町へ
III 江戸―東京と近代都市計画
第八章 東京市区改正事業の実像――日本橋通りの拡幅をめぐって
第九章 東京市区改正条例の運用実態と住慣習――土地建物の価値をめぐる転回とその波紋

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 七

2014-06-18 06:56:52 | 史料

        竹内数馬討死家来嶋左衛門か事 付副頭添嶋九兵衛討死之事

今度阿部兄弟か討手蒙り、無比類働き討死せし竹内数馬長政か先

祖は、享禄年中摂州尼ケ崎ニて細川高国の手ニ属して討死をし、武勇

隠れなかりし嶋村弾正四代の孫ニして、竹内吉兵衛の末子也、此竹内

吉兵衛と云者武功勝れしかは、於豊前 宰相忠興公領知千石ニて

被召出、男子五人有て何も被召出けると也、中ニも数馬ハ幼年より

忠利公御小児姓ニ被召出甚だ御意に叶ひける、嶋原一揆の時も供奉

して二月廿七日落城の折からも十六歳ニして働有、手疵を蒙りたりけ

るが、其武者振りよろしきよし柳川之城主立花飛騨守殿是を見

届け感状を送り給ふと也、御凱陳之上此度戦功之面々御褒美有

ける折々ニ、数馬も三百石の新恩を蒙り、千百五十石の身上ニ成ニけるか

當御代御側御鉄炮三十挺頭にして今年廿一歳、血気壮年の若武

者此度討死と思ひ定めける、其意趣を聞ニ数馬ハ 忠利公之御近習

にして甚御意にも叶ひたり、又林外記と云者有て當御代双ひなき御 

出頭にして 光尚公御側をさらす、御政道の筋にも口入セしかは如何成る         15

故にや竹内数馬とハ連々不和なりけるか、数馬ハ外様と成り居けるに外記

ハ當御代肩を並る者なし、此度の討手をは誰ニかハ被仰付候ハんと御讃談之

席にて外記申けるハ、誰かれとなく竹内数馬ハ御先代御取立之者也

御高恩身ニ餘り此度何ぞ御高恩を報せさらんや数馬こそと申けるニゟ

扨こそ数馬ニ極りけるか、高見も竹内相役たるにより同く討手の役を蒙

ける、此趣を数馬傳へ聞て心得ぬ外記か言葉哉、此度御恩を報せよとハ

我元ゟ御先代御取立の者成事ハ世のしる所也、殉死をも可致者の生なから

へ居るとや思ふらん、殉死の面々ハ分て御高恩故有面々也、我臆病にして

生なからへ居には非す 君にも外記か申処尤と思召せはこそ、其侭討手被仰付

つらめ、御先代拝趨の輩ハ腰抜けて當御代何の用ニも立ぬ身也、生なが

らへて何かせん、潔く討死するより外なしと憤を含ミて退出しけるとそ

聞へける 光尚公ニも今度討手を蒙ると面あてなる外記か申様と、数馬

事原城にても手柄有武勇無比類必す無怪我首尾好仕て罷帰

れと追々 御懇命の仰有けるにも、唯難有とのミ御請を申上けるが、

既ニ本日の夜ニ成けれハ沐浴して身を改めて、月代を剃髪を櫛りけるが

白菊と云名香を拝領して持けるをあくまてとめ木にして、偏に討死の

覚悟成しける故、白無垢に白きたすきをかけ、白絹を以て鉢巻を強く

しめ 忠利公ゟ御手つから拝領せし関の兼光の無類の業の脇差

を帯し、又重代の村正の二尺二寸有ける刀の兼て覚有業物を帯

添、左の肩に討手相印の角取紙を付、千餘石の軍役の人数討ニハ譜 

代の乙名嶋右衛門・副頭添嶋九兵衛・野村庄兵衛其外仕手の面々            16

一同にぞ出立ける、数馬草鞋を蹈ける時其緒を男結ひニしつかりと結

すてを小刀ニて切て捨けると也、廿一日未明に阿部か屋敷ニ押寄門前ニて

馬を乗放し表門を押破り手鑓提け真先に進ミ入、阿部兄弟の者

共ハ打手をば態と入立て討取んとや思ひけん表の方ニハ敵一人もなし

数馬人数を下知して玄関・長屋・臺所其外屋敷内ニ配て自身ハ臺所

の内をさして馳入けれ共阿部兄弟の者一人も見へす、鎖の口を細目に

引立置ける数馬押明て猶奥深く進ミ入らんとす、其時譜代の乙名島

徳右衛門立阸てて云様、殿ハ今日討手の惣大将ニ非や敵の謀とをも知

す無躰ニすゝミ及事無勿躰御先仕らんと鎖口を押明て真先ニ進ミ

入兼而待設けたる事なれハ鑓を以したゝに突右衛門眼に當て急

所の深手なれハよろ/\として数馬に倒れかゝらんとせしを数馬取て押

退け怒声ニていえあさる足手まといひなしと云侭に鑓引提て進ミ入け

るに左右ゟ鑓付る、元ゟ討死と覚悟せし事なれハ少もひるます討死

す、生年二十一歳無比類働惜むへき者也、副頭添島九兵衛と本組

頭の先途を見届ると名乗て大に働討死す、島右衛門ハ最前ニ手負

けるか数馬と一所ニ討死ス、其外野村竹内数馬か家来ハ思ひ/\に働けると也

   又云 予か父ハ十二歳ゟ 光尚公御近習ニ在て、其日は松野右京助

   宅へ御成也、御供ニも行たり、未明ニ御供中御玄関前揃有之時分ニ

   阿部屋敷へ打手の面々押寄たりと聞へ大勢の聲御殿へ聞へたり

   光尚公御意にも仕手者共か只今寄せたるハとの(御言葉を)御側ニて聞たり 

   其後御駕一丁斗りも御出浮(御途中にて)歩衆馳来り、只今竹内数馬討死 

   仕たるとの注進有り、是を聞召上られ甚惜ませ給ふ、其後の御意ニも        17

   数馬事ハ思召違ニて仕手ハ被仰付との事也、世上にも林外記か讒故

   数馬ハ討死したりとの沙汰也、此林外記ハ御出頭にて大目附役ゆへ

   家老衆を始として門前賑々敷中/\言葉に述かたし、人大に恐

   れあへり、然るに 真源院様御逝去御懇意の衆中何も殉死

   の時外記ハ多分一番に殉死なるへしと諸人思ひしに曽て切腹せす、

   其時諸人の物笑ひニ成り臆病者と沙汰して初の威勢ニ引替て御

   家中出入の者なし、長岡監物殿斗初に替す懇意にて外記追

腹せぬを人皆臆病とて見限りたれ共、我ハ左様ニハ不思、外記何たる

所存にて切腹せんに居るやらん外記か心にならねハ知り難し、士ハ一期の

後ならてハ其人の善悪は知れぬ迚前/\の通り也 綱利公御代

年号追而可考 八月朔日伊藤十之允外記を打果す、跡ゟ伊藤一家押寄

踏潰す家断絶也

付紙 外記を打果したるハ十之允ニ非す、十之允末弟佐藤傳三郎也、本名伊藤氏也、濃州

   大垣之城主伊藤丹波守家司佐藤重左衛門宗直武功之士也、丹後守伊藤氏を授く、伊藤

   重左衛門宗直と名乗関ヶ原落去之後伊藤重左衛門千石三十挺ニて 忠利公へ被召出子供

   不残三百石宛ニて被召出嫡子十之允三百石嶋原ニて討死二男儀太夫佐藤忠左衛門先祖、三男

   左内伊藤角左衛門先祖、四男佐藤傳三郎百五十石此者林外記を打果す、慶安三年八月朔日也

   佐藤十之允跡ハ今ハ百五十石ニ成る組附伊藤七郎右衛門也 

   又云数馬兄竹内八兵衛と云者仕手ニハあらて阿部やしきへ来り働けるが

   事済て後、御吟味の時八兵衛儀仕手(不)被仰付處、押て阿部屋敷へ参候事

   いかゞとの御意なり、其時八兵衛弟数馬を仕手被仰付候間無心元存

   参候由也、其時尤の事也、然共数馬討死の時ハ一所に居候やとの御尋

   有けるに、場所違ひ討死の時不存と云、弟を無心元跡ゟ参候程ニ而打死 

   打死致すもしらぬとハ不都合の事、第一御下知を背其上右之不埒          18

   の申分旁閉門被仰付也

   又曰 添嶋九兵衛ハ初鉄炮衆ニ而有馬御陳之時ハ立石七兵衛組ニ而

   手ニ合御帰陣之上添嶋九兵衛・千場作兵衛・野村庄兵衛何も御褒

美御袷単物・白銀五枚完拝領す、其後新知百石宛拝領也、昔ハ御

側三十挺一組也、今ハ十五挺に分れたり、添島男女の子供二人有嫡子

九一郎ハ八九歳なりけれ共遺跡無相違拝領す、幼年ニて病死妹に

御扶持方被下後ち他ニ嫁して男女一人出生す、若年之時分ハ亡父由緒

を以て竹内吉兵衛ニ預置添嶋灘平とて小姓奉公す、其後阿蘇

坊主ニ成り幸方坊と云、母ハ尼と成て妙膳と云て老極して御扶持方

差上候時彼の幸方坊還俗して添嶋市右衛門と名乗引續願御奉公

公ニ召出正徳年中成り

又曰 白菊の名香ハ 忠利君の御取出候木なり

御歌に

○       たくひ阿りと誰かハいはん末匂ふ世に名も高き白菊の花

     此同し木を伊達正宗ニて柴舟と云哥に

○       世のわさとうきを身につむ柴舟のたかぬ先よりこがれ出らん

     禁中にては藤はかま、哥に

○       ふじはかまならぶ匂ひもなかりけり花は千種に色かわれとも

     小堀遠州初音と名付られし哥に

○       聞たひにめつらしけれハほとゝきすいつも初音の心地こそすれ

此四種の名香本一木にして異名也、数馬も御児小姓故此白菊の名 

香拝領して所持せしを討死の時留木にせし也                   19

竹内屋貞夜話云、数馬ハ予か大叔父也、竹内ハ在名也、元来ハ嶋村と云、

享禄年中摂州尼ケ崎にて討死せし嶋村市兵衛と云、此市兵衛河

内八隅氏へ仕て武功有ける時、八隅氏を授て八隅市兵衛と云、其後

竹内越と云所を領地せし故に竹内名字を改て竹内市兵衛と名乗、市兵衛

子を竹内吉兵衛と云、此者武功の働度々にして紀州太田の城水攻の時

なとも働有り、秀吉公ゟ白練に朱の日丸の陣羽織拝領す、初小西

攝津朱に仕へ居たり、朝鮮にても武功有、日本と和平の時も行長ゟ

人質として朝鮮に三ヶ年居たり、此時金銀膳椀なども国王ゟ給り

其外宝物等貰ひたりしか、御家に被召出候、御入国已後手取屋敷ニて

類焼す、小西氏滅亡の後清正公へ本知千石ニ而被召出勤居たりしか共

   吉兵衛心に不叶事有て熊本を白昼ニ立退く、此時討手を気遣ひ

   鉄炮に玉薬を込め火縄に火を付混と討手の用心せしか共無別条、

   豊前小倉に落着、諸大名衆方々抱へ可申由なりけれ共 忠興公御

   懇意ニて本知にて被召出、其子に又竹内吉兵衛と云予か父也、兄弟

   五人有て御入國已後段々被召出、次男竹内七郎左衛門・後七百石二なる、

   同次太夫、同八兵衛、末弟ハ竹内数馬也、有馬御陳ニも嫡子吉兵衛ハ

   御用ニ而宇治へ罷越居候故御供不申上、七郎右衛門初め残りハ皆御供申

   上か、七郎右衛門ハ 光尚公へ勤仕する、有馬御陳の時ハ時疫を煩いひ食ニハ

   すり湯抔飲て城乗の御供申上けり、運強けれハ人ハ死なぬものと

   老年になりても折々噺たり、次郎大夫は吉兵衛働き兄弟四人御褒

美銘々品有り、数馬ハ十六歳ニして御供申上る、御児小姓衆御馬廻り 

に居たりけるか先手ニ参り度旨再三申上けるに御腹立遊し小忰           20

うせおれと御意有けれハあつと云て馳出す、其時あれ怪我さす

なと御意有跡ゟ彼是續く、数馬ハ猩々緋の陣羽織を着居たるが

先へ進ミ行ハ鉄炮烈敷故乙名羽織の裾を引留めけれ共進ミ行故

乙名一人草履取一人主従四人也、乙名数馬と一同ニ石垣ニ付城を乗る

数馬手負たり、御凱陳の上三百石御加増都合千百五拾石ニなる、

関兼光の御脇差 忠利公ゟ拝領して所持せり、無類の業物ニて御秘蔵

なりけれ共、数馬御意に叶ひ居ける故拝領す、御登城の時分拝領の

後にも兼光を借せと御意有て御指被成御登城の事も度々也、つる

胴抔も御斬せ被成り候ニ能落ちたり、弐尺八寸直焼無銘にして横鈩目

貫二ツ有り一ツハにて埋て有り、銀九曜の三ツ并の目貫赤銅ふ金

拵也、目貫ハ竹内次太夫ニ相続させられ候よし申傳也、数馬男子なく

幼少の女子二人有、討死跡式養子被仰付候へ共不行跡御知行被召上候、私ニ曰竹内

作兵衛と云者有これ也女子出家故に予が祖父吉兵衛方へ引取、幼少ニて病死断絶、

二郎太夫・八兵衛も後年御知行差上候、七郎右衛門ハ代々相續之所ニ正徳年

中 宣紀公御代両竹内御暇いつれも家断絶、右之数馬拝領脇差も

本家吉兵衛方相續す、又摂州尼ヶ崎にて嶋村弾正討死之時故郷ニ

形見ニ送りたる三原正盛の刀弐尺四寸五歩是も本家竹内ニ相續す私云吉兵衛

初浅右衛門と云竹内吉兵衛御暇被下後にハ八隅見山と改め剃髪し兼光の脇

差ハ去方ゟ御所望也、三原正盛の刀行衛不知此刀ニ付而は家説奇怪の

咄多く 竹内尾火ハ竹内吉兵衛閉怒嫡子也、病身故弟弥右衛門家督此弥右衛門御暇被下

                 竹内数馬ニ立花飛州ゟ給ハりし
感状ハ数馬・渡ア新弥・渡部新之允先仲光小内膳三人連名也、仲光氏 

相傳と云

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 六

2014-06-17 08:21:11 | 史料

 

             阿部一家之者共権兵衛命乞越天祐和尚へ内々ニ願置叓

偖も権兵衛は述懐の至り、よしなき事を仕出し今更後悔すといへ共其甲斐
                の程も尤とそ聞へける   

なし、妻子兄弟嘆の程も尤とそ聞へける、阿部弥一右衛門ニ五人の男子有、嫡子権兵衛・次男弥

五兵衛・市太夫・五太夫・七之允也 公の御機嫌以の外悪しかりけれハ権兵衛事

薄氷を踏思ひをなし、妻子兄弟一日も安き心なく気遣ひの餘り其頃

天祐和尚の法事ニ付下向有りけるに、密ニ権兵衛妻子兄弟嘆きけるニ今

度権兵衛述懐の余りよしなき事を仕 上の御咎め甚以重く禁籠ニ及

候、此上いか様の御仕置ニあわんも難計何卒御仕置の筋御沙汰もあらハ偏に助

命の願ひを頼ミける、天祐和尚も権兵衛か主恩を忘れ上を不恐不届

なれども、跡の親類の嘆き哀れに思ひ給ひけれハもし権兵衛身命に

御たゝりあらは其時愚僧助命の願をなし弟子共なすへき也、気遣う事勿れ

と頼母敷宣ひけれハ少ハ心も晴やかに天祐和尚の命乞を頼ミにして霊仏

霊社に祈願して権兵衛か身上恙なかれと千々の祈りをなしけれ共

権兵衛の不忠祈るにしるしなく阿部一家滅亡に及ぬ、天祐和尚も此事を

心にこめて何卒折を見合せ、助命の願ひも有度其事となく逗留し

徒に月日を過されけれ共 光尚公も天祐和尚の逗留ハもし権兵衛御仕 

置もあらハ助命の願もやと御賢察有けれハ御仕置の筋権兵衛事ニ於ハ           12

制の限と成て重て何の御沙汰もなし、かゝる不忠の者自然助命ありては

御政道も立かたく亦大寺の住職一跡にもかへて助命願有てハむつかしくいかゝ成

と思召けるも御尤なれ 光尚公ハ和尚御遁なさる折からも何とそ折

をもうかゝひ被申けれ共、右の賢慮なりけれハ少も左様の色見へたる時は

四方山の御咄に成つて権兵衛の事出さるついてなし、天祐和尚も心斗ハ

廣大の利益おと思ハけれ共、唯空敷過されける、官寺の住職久

久逗留寺務繁多なれハ無是非帰京ニ及ハれける、是を聞て阿部

一家の者共力を落し願も空敷そなりける

 

 阿部権兵衛御仕置之叓 付兄弟共屋敷へ取籠事

阿部一家の者天祐和尚の頼母敷宣ひし言葉を心に懸けて権兵衛か助命

の願を待けるに、案に相違して空敷帰京有けれハ、頼も尽て一家の

浮沈此時也とかたつを呑て居たりけるに、権兵衛上を不憚の仕方其

罪難遁井手ノ口に引出され縛首をそ討(れ)ける、己の心ゟとハ云乍ら是非

なき次第也、妻子の嘆き云に言葉なし、於爰阿部弥五兵衛を始として相残

兄弟共嘆の涙ニ怒を含ミ、権兵衛上を不恐仕形御咎の趣ハ奉至極と

いへ共、親弥一右衛門数ならぬ共先君へ對し殉死の一人也、御仕置に被仰付とも

侍の作法に被仰付ニおいてハ上に對し御恨ミを可申上様なし、然るに盗賊様

のことく諸人の眼前白昼に縛首を刎られし事無御情御仕置也、此上は

残る兄弟共とても其の侭ニては被立置まし、譬ひ無御構被立置共本家の

跡縛首を討たれ何の面目有てか、忠勤を励ミ朋友ニも面を向んと憤を含

て兄弟権兵衛屋敷ニ一所ニ取籠る、此事達 尊聴なは定て討手向 

へし、さらば去年以来の鬱憤を散し仕手の面々と花々敷勝負を決             13

し、勢尽は尋常に切腹せんと門戸を閉て居たるける

 

          竹内数馬高見権右衛門其外之面々阿部兄弟討手被仰付叓

去程に阿部弥五兵衛を始として同市太夫同五太夫同七之允等兄弟己か屋

敷ニ引籠り、上を奉背由沙汰有けれハ、屋鋪の様躰見て参るへき由蒙

仰外聞横目の面々追々被差越、彼守候やしきの様躰沙汰の通りニ相違

なく覚悟を極めし躰ニて居候由委細及言上けれハ 光尚公被

聞召上、不届の奴原を急度御誅伐有へきよし御沙汰有て仕手の面

面ニを被 仰付、先表門ハ御側頭竹内数馬長政知行千百五拾石御鉄炮三十

挺の頭也、并副頭添島九兵衛百石野村庄兵衛百石役十石御加増、裏門ハ高見権右衛門

重政五百石後千石被成御側物頭竹内数馬同役三十挺頭也、副頭ニハ千場作兵衛

百石後五十石御加増御目附畑十太夫、阿部屋敷近隣の輩ハ當番たり共在宿して

銘々屋敷を相守り火災を慎ミ御下知なきに仕手ニあらすしてかの屋敷へ

猥に馳入へからす、落人等無之様ニ専ら心を付無油断諸事可相心得との

厳重の御沙汰有、別而向屋敷両隣りの面々ハ御下知の趣を堅く相守、

尤物見とし彼屋敷ニ参る者堅く御禁止也、出田宮内少・松山権兵衛等ハ

組を引連れ阿部屋鋪廻りの警固夜前ゟ夜廻り被仰付無怠慢廻り

ける、及深更侍分之者と見へて面を深く隠し塀を越て忍ひ出る折

節丸山三之允と云廻り役の者見合ひ早速討留る、手首尾宜敷達

尊聴ニ御褒美有とかや、阿部兄弟の者共明日ハ打手向ふ由聞へけれは

兼て覚悟の前なれハ、屋鋪内掃除残る所なく仕舞見苦敷物等ハ

焼捨て本日の暁ハ一族の老若男女打寄て最期の酒宴をなし囃子を 

しけるが、酒宴囃子果て銘々銘々妻子幼児ハ不残刺殺し、屋敷内ニ            14

穴を掘死骸を一所ニ埋め、夫ゟ兄弟四人共恩顧の郎従共一所相集

鐘鞁を鳴し高念佛を唱へて夜の明るをそ待ける

  又云阿部屋鋪ハ山崎斎藤又(助・勘)太夫屋敷也、阿部弥一右衛門千石余ニ身躰

  嫡子権兵衛・五太夫・市太夫も原城の働御褒美新知二百石宛被下

  ける故大形二千石ニ近き身上也、兄弟何も一所ニ居ける故人数も多

  かりけると也、向屋敷ハ山中又左衛門・南隣ハ栖本又七郎・外山源左衛門

  平野三郎兵衛屋敷也、其外之屋敷ハ不記之


(注頭)又曰丸山三之允ハ佐分利加左衛門組之足軽也、原城ニても心馳有て
    忠利公御目見申上御言葉の御褒美あり、大筒打丸山一平か先祖也

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お安く読む・中公新書「歳時記百話--季を生きる」

2014-06-16 21:47:53 | 書籍・読書

 

          歳時記百話 - 季を生きる (中公新書)
 
                    中央公論新社


歳時記百話

季を生きる

高橋睦郎 著

歳時記は俳句を詠む人だけのものではない。季節を知り、人生を生き抜くため、私たちが祖先から受け継いできた知恵が詰まっている。すべての日本人の心情と生活の原点なのだ。本書では四季を彩る花々を中心に、雲雀などの鳥、薫風などの気象、涅槃会や酉の市など年中行事、そして芭蕉忌に至るまで、一年の折々にあらわれる豊富な事物を、古今東西の句歌詩文を通して味わう。巻末に俳人・宇多喜代子氏との対談を収録。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■阿部茶事談 余滴

2014-06-16 14:04:09 | 人物

 高見権右衛門家の事

阿部茶事談に登場する権右衛門は二代目権右衛門である。その奥方は松平下総守忠弘に嫁した、忠利女藤姫附の御女中で在った。
又、権右衛門の曾孫・権右衛門は養子で井関左傳次の子であり、宮川團四郎孫であるという。(旦夕覚書p266)
この井関左傳次は與右衛門の嫡子だそうだが、その系統は侍帳では絶えているように思われる。
  ○ 井関与右衛門  有吉頼母允組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                四百五十石 寛文七年七月二十一日 煩ニ付知行被差上候 跡目被仰付候 (
 


 高見 怘(マモル) 【丹後以来】 (南東22-4)
     和田但馬守
     和田兵衛尉(新九郎)
     和田長左衛門
    1、和田庄五郎・重治(高見権右衛門)
         江戸江相詰衆 「丹後」和田 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・高見権衛門
            
 始ハ大和大納言秀長の小姓なりしを御もらい被成、文禄二年弐百石被下、関原事の
             後忠隆君の御供仕加賀に罷越、高野山にて御剃髪の後筑前中納言ニ居、秀秋御卒
             去の後浪人いたし候処、慶長十六年帰参、五百石拝領なり、御番頭被仰付、其砌高
             見権右衛門と改、高見ハ母方の名字なり
             阿部兄弟仕者被仰付たるハ右権右衛門子の権右衛門なり(綿考輯録・巻十四)


             原城にて武功の面々御褒美被下候
                               黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)

    2、高見権右衛門
        (1)鉄炮頭 三百五十石 御側弓鉄炮頭并組外衆 (肥後御入国宿割帳)
         
阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、後加増三百石
        (2)御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)
        (3)八百二十一石 (真源院様御代御侍免撫帳)
    3、権之允
    4、三右衛門 
(松井家蔵八代町図に八代御城附として屋敷の表示が見える)
    5、権右衛門 養子・井関左傳次・息 
    6、藤太(権右衛門)
    7、権之助
    8、右源太      
享和二年三月~文化二年七月(病死)中小姓頭
    9、数衛  文化十一年十月(中小姓頭)~文化十三年 用人
           権右衛門
              
名は武久、通称権右衛門。英邁剛毅の士にして、藩に仕へて使番、
              中小姓、用人等を勤む。食禄千五百石。 
              天保十一年十二月二十二日没す、享年五十六。

    10、嶋之助(権右衛門)  旧知九百五十石
           天保十三年(中着座)~安政二年三月 小姓頭(初嶋之助)
           安政二年五月~安政二年十月 番頭
           安政四年閏五月~万延元年十二月 用人
    11、嶋之助   無役着座 九百五十石
              細川慶順公御書出(文久元年・万延二年)九百五十石
    11、尚熊(怘)  九百石

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 五

2014-06-16 06:54:43 | 人物

        光尚公御家督御相續之事并拾九人之遺跡被 仰付御憐■(表示不可)之事

かきりあれはけふぬきすつるふち衣はてなきものハ涙なからに、御中陰の日

数へけれハ同年五月五日 光尚公御家督御相續有て将軍家御拝

謁目出度かりし事共にて、多年勤労の面々御代替之時にあい、新知御加

恩(増)役替其人の勤め品々ニより御恵ミあり中にも此度先君殉死の十九人

の遺跡未だ幼少の男子たりといへとも無相違遺跡家屋敷も被下置老母 

後家等の男子なき輩には月俸を給り家屋敷拝領、作事も 上ゟ被仰付何ニ付ても      10

少も難儀に及はさる如くに被仰付候事偏ニ御仁心の程難有事共也、是偏に

先君に奉對忠情を尽せしを感し思召ての御事なるに、阿部弥一右衛門か於遺跡ハ

嫡子阿部権兵衛其外相残候弟共ニ千余石の御知行を夫/\に割授給ふ、嫡子

権兵衛ハ始権十郎と云時於原城働有て新知弐百石拝領す、其弟市太夫・五太

夫も是又原城ニて手柄ありて弐百石宛被下置、市太夫ハ始ゟ 光尚公ニ勤仕セり

何も有難旨面には歓の色有とはいへ共、別而嫡子権太夫ハ亡父の遺跡おのれ一人ニ

相続せすして、弟共分知之事不平にして案外の至りかなとつふやきけるが

述懐の恨甚敷亡父以来の世上の評判彼是世の中物憂やおもひけん、おのづから

世の交りも疎に成り鬱々として月日をは送りける

 

        妙解院殿御一周忌御法事 附殉死の子供御焼香申上候節阿部権兵衛述懐髷を切事

光陰矢ノ如くいつしか寛永十九年三月十七日ハ 先君妙解院殿御一周忌ニ當りけれは自京都大徳寺

天祐和尚下向有て重き御作善有けると也、御當日ニハ 尊君への御焼香

遊し夫ゟ忝も 光尚公十九人の位牌にも御焼香遊しける、かゝる難有御

吊にあふ事忠情を感し思召の故也、誠に冥加の程恐れ有、殉死十九人の子

供年齢も御焼香を申上候程の者ニハ御焼香被仰付、、騎士の列は御紋付御

上下同御時服拝領し着して御焼香を申上候、御焼香不申上御寺詰難成

後家女子の類ハ御香奠を拝領す、誠ニ以御仁恵の鰥寡孤獨に及事難有

共也言語筆紙にも述がたし人皆感涙を催す中に

かりける事〇なるに阿部権兵衛か所存こそ本心ならぬ事共也、親々の存生座配

のことく次第を守り御焼香申上ける時阿部権兵衛ハ尊靈御焼香申

上けると一同ニ己か髷を押切て備へ置て退出す、詰衆之を見て法外の仕方 

これ本心の事にあらすと各立懸り押留て其子細を問うに遁世の由             11

述懐の情をのぶといへ共、時節所柄を不顧かゝる厳重の御法会の座席前

代未聞の事共也、則 光尚公達 尊聴けれハ甚以御機嫌悪敷早速

禁籠被 仰付、残る兄弟共権兵衛儀かゝる不所存 上を不憚仕方御咎之趣兎

角述るに言葉なく唯恐入、門戸を閉静まりかへりて居りたりける、権兵衛身上御仕置の筋いかゝ

被仰付候やらんと親族打寄安き心も無き内に空敷月日を送りける

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上妻本「阿部茶事談」 四

2014-06-15 08:05:25 | 史料

      ○阿部弥一右衛門評判悪敷叓

此度殉死十九人の面々は忠情ニおいて何れ甲乙可有様も無処阿部

弥一右衛門壱人世上の評判におふこそ是非なかれ、其故を尋るニ

忠利公御病中志之面々何も殉死の願有、此弥一右衛門も多年の御高恩幼名(明石)     09

猪之助と申時ゟ御懇意ニて御取立遊され今千餘石を領知して子供も有

馬御陳の働にてそれ/\に被召出新知をも被下置し事なれハ今度難黙止、多年の

御高恩可奉とおもひ殉死の願を致しけるに 忠利公如何成思召にや

志ハ御満足ニ思召といへ共おなしく具ハ存留り 光尚君に忠勤を励ミ

可申由被仰出けれハ、此度の御別れ是非なく思ひ留りけるか自然事あらん折

にこそ 光尚君御馬先にて年来の御恩を可奉報と悲嘆の涙にくれなから

惜らぬ命をなからへて君命の重きを守りけるに、世の嘲哢には弥一右衛門事厚キ

御恩を蒙りし者なれハ、今度御供可申上処殉死御免なき迚も一途ニ御供と存

極る、殉死ならハ腹を切へきに口にてハ追腹も致し真実の殉死ハなからぬ者也

弥一右衛門か追腹は腹の皮かれ瓢たんニ油をぬりて切れよかし抔、悪口のミの評判

にして、狂歌落書なと人の口にのりけれハ弥一右衛門是を傳へ聞、扨々不及是非

事かな口惜や何おしかるへき命にあらねとも君命の重き故命(?)なからへ居るのも

自然の御用にも可立との所存也、少も命を惜しむへきに有す、武運に不叶仕合也

いてさらハ瓢箪に油をぬりて口の悪敷やつばらに腹を切て見せんとて御免

なきに押て殉死をそ遂たりける

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする