竹内数馬討死家来嶋左衛門か事 付副頭添嶋九兵衛討死之事
今度阿部兄弟か討手蒙り、無比類働き討死せし竹内数馬長政か先
祖は、享禄年中摂州尼ケ崎ニて細川高国の手ニ属して討死をし、武勇
隠れなかりし嶋村弾正四代の孫ニして、竹内吉兵衛の末子也、此竹内
吉兵衛と云者武功勝れしかは、於豊前 宰相忠興公領知千石ニて
被召出、男子五人有て何も被召出けると也、中ニも数馬ハ幼年より
忠利公御小児姓ニ被召出甚だ御意に叶ひける、嶋原一揆の時も供奉
して二月廿七日落城の折からも十六歳ニして働有、手疵を蒙りたりけ
るが、其武者振りよろしきよし柳川之城主立花飛騨守殿是を見
届け感状を送り給ふと也、御凱陳之上此度戦功之面々御褒美有
ける折々ニ、数馬も三百石の新恩を蒙り、千百五十石の身上ニ成ニけるか
當御代御側御鉄炮三十挺頭にして今年廿一歳、血気壮年の若武
者此度討死と思ひ定めける、其意趣を聞ニ数馬ハ 忠利公之御近習
にして甚御意にも叶ひたり、又林外記と云者有て當御代双ひなき御
出頭にして 光尚公御側をさらす、御政道の筋にも口入セしかは如何成る 15
故にや竹内数馬とハ連々不和なりけるか、数馬ハ外様と成り居けるに外記
ハ當御代肩を並る者なし、此度の討手をは誰ニかハ被仰付候ハんと御讃談之
席にて外記申けるハ、誰かれとなく竹内数馬ハ御先代御取立之者也
御高恩身ニ餘り此度何ぞ御高恩を報せさらんや数馬こそと申けるニゟ
扨こそ数馬ニ極りけるか、高見も竹内相役たるにより同く討手の役を蒙
ける、此趣を数馬傳へ聞て心得ぬ外記か言葉哉、此度御恩を報せよとハ
我元ゟ御先代御取立の者成事ハ世のしる所也、殉死をも可致者の生なから
へ居るとや思ふらん、殉死の面々ハ分て御高恩故有面々也、我臆病にして
生なからへ居には非す 君にも外記か申処尤と思召せはこそ、其侭討手被仰付
つらめ、御先代拝趨の輩ハ腰抜けて當御代何の用ニも立ぬ身也、生なが
らへて何かせん、潔く討死するより外なしと憤を含ミて退出しけるとそ
聞へける 光尚公ニも今度討手を蒙ると面あてなる外記か申様と、数馬
事原城にても手柄有武勇無比類必す無怪我首尾好仕て罷帰
れと追々 御懇命の仰有けるにも、唯難有とのミ御請を申上けるが、
既ニ本日の夜ニ成けれハ沐浴して身を改めて、月代を剃髪を櫛りけるが
白菊と云名香を拝領して持けるをあくまてとめ木にして、偏に討死の
覚悟成しける故、白無垢に白きたすきをかけ、白絹を以て鉢巻を強く
しめ 忠利公ゟ御手つから拝領せし関の兼光の無類の業の脇差
を帯し、又重代の村正の二尺二寸有ける刀の兼て覚有業物を帯
添、左の肩に討手相印の角取紙を付、千餘石の軍役の人数討ニハ譜
代の乙名嶋右衛門・副頭添嶋九兵衛・野村庄兵衛其外仕手の面々 16
一同にぞ出立ける、数馬草鞋を蹈ける時其緒を男結ひニしつかりと結
すてを小刀ニて切て捨けると也、廿一日未明に阿部か屋敷ニ押寄門前ニて
馬を乗放し表門を押破り手鑓提け真先に進ミ入、阿部兄弟の者
共ハ打手をば態と入立て討取んとや思ひけん表の方ニハ敵一人もなし
数馬人数を下知して玄関・長屋・臺所其外屋敷内ニ配て自身ハ臺所
の内をさして馳入けれ共阿部兄弟の者一人も見へす、鎖の口を細目に
引立置ける数馬押明て猶奥深く進ミ入らんとす、其時譜代の乙名島
徳右衛門立阸てて云様、殿ハ今日討手の惣大将ニ非や敵の謀とをも知
す無躰ニすゝミ及事無勿躰御先仕らんと鎖口を押明て真先ニ進ミ
入兼而待設けたる事なれハ鑓を以したゝに突右衛門眼に當て急
所の深手なれハよろ/\として数馬に倒れかゝらんとせしを数馬取て押
退け怒声ニていえあさる足手まといひなしと云侭に鑓引提て進ミ入け
るに左右ゟ鑓付る、元ゟ討死と覚悟せし事なれハ少もひるます討死
す、生年二十一歳無比類働惜むへき者也、副頭添島九兵衛と本組
頭の先途を見届ると名乗て大に働討死す、島右衛門ハ最前ニ手負
けるか数馬と一所ニ討死ス、其外野村竹内数馬か家来ハ思ひ/\に働けると也
又云 予か父ハ十二歳ゟ 光尚公御近習ニ在て、其日は松野右京助
宅へ御成也、御供ニも行たり、未明ニ御供中御玄関前揃有之時分ニ
阿部屋敷へ打手の面々押寄たりと聞へ大勢の聲御殿へ聞へたり
光尚公御意にも仕手者共か只今寄せたるハとの(御言葉を)御側ニて聞たり
其後御駕一丁斗りも御出浮(御途中にて)歩衆馳来り、只今竹内数馬討死
仕たるとの注進有り、是を聞召上られ甚惜ませ給ふ、其後の御意ニも 17
数馬事ハ思召違ニて仕手ハ被仰付との事也、世上にも林外記か讒故
数馬ハ討死したりとの沙汰也、此林外記ハ御出頭にて大目附役ゆへ
家老衆を始として門前賑々敷中/\言葉に述かたし、人大に恐
れあへり、然るに 真源院様御逝去御懇意の衆中何も殉死
の時外記ハ多分一番に殉死なるへしと諸人思ひしに曽て切腹せす、
其時諸人の物笑ひニ成り臆病者と沙汰して初の威勢ニ引替て御
家中出入の者なし、長岡監物殿斗初に替す懇意にて外記追
腹せぬを人皆臆病とて見限りたれ共、我ハ左様ニハ不思、外記何たる
所存にて切腹せんに居るやらん外記か心にならねハ知り難し、士ハ一期の
後ならてハ其人の善悪は知れぬ迚前/\の通り也 綱利公御代
年号追而可考 八月朔日伊藤十之允外記を打果す、跡ゟ伊藤一家押寄
踏潰す家断絶也
付紙 外記を打果したるハ十之允ニ非す、十之允末弟佐藤傳三郎也、本名伊藤氏也、濃州
大垣之城主伊藤丹波守家司佐藤重左衛門宗直武功之士也、丹後守伊藤氏を授く、伊藤
重左衛門宗直と名乗関ヶ原落去之後伊藤重左衛門千石三十挺ニて 忠利公へ被召出子供
不残三百石宛ニて被召出嫡子十之允三百石嶋原ニて討死二男儀太夫佐藤忠左衛門先祖、三男
左内伊藤角左衛門先祖、四男佐藤傳三郎百五十石此者林外記を打果す、慶安三年八月朔日也
佐藤十之允跡ハ今ハ百五十石ニ成る組附伊藤七郎右衛門也
又云数馬兄竹内八兵衛と云者仕手ニハあらて阿部やしきへ来り働けるが
事済て後、御吟味の時八兵衛儀仕手(不)被仰付處、押て阿部屋敷へ参候事
いかゞとの御意なり、其時八兵衛弟数馬を仕手被仰付候間無心元存
参候由也、其時尤の事也、然共数馬討死の時ハ一所に居候やとの御尋
有けるに、場所違ひ討死の時不存と云、弟を無心元跡ゟ参候程ニ而打死
打死致すもしらぬとハ不都合の事、第一御下知を背其上右之不埒 18
の申分旁閉門被仰付也
又曰 添嶋九兵衛ハ初鉄炮衆ニ而有馬御陳之時ハ立石七兵衛組ニ而
手ニ合御帰陣之上添嶋九兵衛・千場作兵衛・野村庄兵衛何も御褒
美御袷単物・白銀五枚完拝領す、其後新知百石宛拝領也、昔ハ御
側三十挺一組也、今ハ十五挺に分れたり、添島男女の子供二人有嫡子
九一郎ハ八九歳なりけれ共遺跡無相違拝領す、幼年ニて病死妹に
御扶持方被下後ち他ニ嫁して男女一人出生す、若年之時分ハ亡父由緒
を以て竹内吉兵衛ニ預置添嶋灘平とて小姓奉公す、其後阿蘇
坊主ニ成り幸方坊と云、母ハ尼と成て妙膳と云て老極して御扶持方
差上候時彼の幸方坊還俗して添嶋市右衛門と名乗引續願御奉公
公ニ召出正徳年中成り
又曰 白菊の名香ハ 忠利君の御取出候木なり
御歌に
○ たくひ阿りと誰かハいはん末匂ふ世に名も高き白菊の花
此同し木を伊達正宗ニて柴舟と云哥に
○ 世のわさとうきを身につむ柴舟のたかぬ先よりこがれ出らん
禁中にては藤はかま、哥に
○ ふじはかまならぶ匂ひもなかりけり花は千種に色かわれとも
小堀遠州初音と名付られし哥に
○ 聞たひにめつらしけれハほとゝきすいつも初音の心地こそすれ
此四種の名香本一木にして異名也、数馬も御児小姓故此白菊の名
香拝領して所持せしを討死の時留木にせし也 19
竹内屋貞夜話云、数馬ハ予か大叔父也、竹内ハ在名也、元来ハ嶋村と云、
享禄年中摂州尼ケ崎にて討死せし嶋村市兵衛と云、此市兵衛河
内八隅氏へ仕て武功有ける時、八隅氏を授て八隅市兵衛と云、其後
竹内越と云所を領地せし故に竹内名字を改て竹内市兵衛と名乗、市兵衛
子を竹内吉兵衛と云、此者武功の働度々にして紀州太田の城水攻の時
なとも働有り、秀吉公ゟ白練に朱の日丸の陣羽織拝領す、初小西
攝津朱に仕へ居たり、朝鮮にても武功有、日本と和平の時も行長ゟ
人質として朝鮮に三ヶ年居たり、此時金銀膳椀なども国王ゟ給り
其外宝物等貰ひたりしか、御家に被召出候、御入国已後手取屋敷ニて
類焼す、小西氏滅亡の後清正公へ本知千石ニ而被召出勤居たりしか共
吉兵衛心に不叶事有て熊本を白昼ニ立退く、此時討手を気遣ひ
鉄炮に玉薬を込め火縄に火を付混と討手の用心せしか共無別条、
豊前小倉に落着、諸大名衆方々抱へ可申由なりけれ共 忠興公御
懇意ニて本知にて被召出、其子に又竹内吉兵衛と云予か父也、兄弟
五人有て御入國已後段々被召出、次男竹内七郎左衛門・後七百石二なる、
同次太夫、同八兵衛、末弟ハ竹内数馬也、有馬御陳ニも嫡子吉兵衛ハ
御用ニ而宇治へ罷越居候故御供不申上、七郎右衛門初め残りハ皆御供申
上か、七郎右衛門ハ 光尚公へ勤仕する、有馬御陳の時ハ時疫を煩いひ食ニハ
すり湯抔飲て城乗の御供申上けり、運強けれハ人ハ死なぬものと
老年になりても折々噺たり、次郎大夫は吉兵衛働き兄弟四人御褒
美銘々品有り、数馬ハ十六歳ニして御供申上る、御児小姓衆御馬廻り
に居たりけるか先手ニ参り度旨再三申上けるに御腹立遊し小忰 20
うせおれと御意有けれハあつと云て馳出す、其時あれ怪我さす
なと御意有跡ゟ彼是續く、数馬ハ猩々緋の陣羽織を着居たるが
先へ進ミ行ハ鉄炮烈敷故乙名羽織の裾を引留めけれ共進ミ行故
乙名一人草履取一人主従四人也、乙名数馬と一同ニ石垣ニ付城を乗る
数馬手負たり、御凱陳の上三百石御加増都合千百五拾石ニなる、
関兼光の御脇差 忠利公ゟ拝領して所持せり、無類の業物ニて御秘蔵
なりけれ共、数馬御意に叶ひ居ける故拝領す、御登城の時分拝領の
後にも兼光を借せと御意有て御指被成御登城の事も度々也、つる
胴抔も御斬せ被成り候ニ能落ちたり、弐尺八寸直焼無銘にして横鈩目
貫二ツ有り一ツハにて埋て有り、銀九曜の三ツ并の目貫赤銅ふ金
拵也、目貫ハ竹内次太夫ニ相続させられ候よし申傳也、数馬男子なく
幼少の女子二人有、討死跡式養子被仰付候へ共不行跡御知行被召上候、私ニ曰竹内
作兵衛と云者有これ也女子出家故に予が祖父吉兵衛方へ引取、幼少ニて病死断絶、
二郎太夫・八兵衛も後年御知行差上候、七郎右衛門ハ代々相續之所ニ正徳年
中 宣紀公御代両竹内御暇いつれも家断絶、右之数馬拝領脇差も
本家吉兵衛方相續す、又摂州尼ヶ崎にて嶋村弾正討死之時故郷ニ
形見ニ送りたる三原正盛の刀弐尺四寸五歩是も本家竹内ニ相續す私云吉兵衛
初浅右衛門と云竹内吉兵衛御暇被下後にハ八隅見山と改め剃髪し兼光の脇
差ハ去方ゟ御所望也、三原正盛の刀行衛不知此刀ニ付而は家説奇怪の
咄多く 竹内尾火ハ竹内吉兵衛閉怒嫡子也、病身故弟弥右衛門家督此弥右衛門御暇被下
竹内数馬ニ立花飛州ゟ給ハりし
感状ハ数馬・渡ア新弥・渡部新之允先仲光小内膳三人連名也、仲光氏
相傳と云