津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩 

2017-04-20 07:11:01 | オークション

                図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩 

 

        図録 しながわの大名下屋敷 お殿さまの別邸生活を探る / 品川区立品川歴史館 2003年 仙台藩伊達家 岡山藩 熊本藩

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■池田忠雄公来邸

2017-04-19 15:54:17 | オークション

                   熊本藩初代 細川忠利 正月廿九日付道二老宛消息 大倉好斎極 読有


                         今晩火とほし時分松平
                         宮内殿我等所は御出候ハンとの            松平宮内
                         事候間御隙候者入来可為
                         満足候尚々待申候恐々謹言
                           正月二十九日  忠(花押)
 
                                    細越中
                             道ニ老 床下    忠利 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(七)

2017-04-19 09:01:45 | 史料

 茶湯 細川家歴代の当主は、とくに茶湯の嗜みが深かった。それは忠興が千利休の高弟で七哲の一人に数えられ、その茶湯の系統を三齋流とよぶほどだったからである。したがって前からたびたび触れているその書状には、政治向き以外では茶事にふれたものが甚だ多い。
 茶事はひとりで、あるいは親密な内輪だけの催しならば、風雅な遊びである。これは精神的な修練を加えてみても、それはその人間の内面の問題であろう。しかしこれが他に客を招待しての茶会となると、前述した能と同様に社交の場としての意味が加わり、事実またそのような茶会が甚だ多かった。
 江戸で茶の数寄が流行しはじめたのは元和三年~五年の頃かららしい。細川家でも土井利勝はじめ幕府年寄を招待したり、浅野長晟を招き、その相客に心を配るというようなこともあり、秀忠・家光など将軍家から招きを受ける機会も多かった。
 茶湯にとって欠かせないのは茶道具である。床懸けの軸物・花活・茶碗・釜・茶杓などそれぞれに工夫を凝らさなければならない。細川家には家蔵の名品も多いところから、父子間で家定筆の和歌・春甫の墨蹟・利久作の竹筒の花入「車僧」などをめぐって色々と説明や批評が交わされる。目利として掘出物を誇るのはこの道の常であるから、将軍秀忠が掘出しの「紫の茶入」のひらきに招待してくるかと思うと、忠利も掘出物の肩付を忠興に見せに来る。時には偽物をつかまされることもあり、忠利から利休の茶杓といって送られてきたものを「利休の手にもとられさる茶杓にて候、しらぬ物か似せたる物也」と忠興が極評するという具合で、道具にたいする関心はことに深かった。
 利休の茶の本旨は詫び茶であろうが、富と権勢を誇る時の支配者たる将軍や大名たちの社交の場となれば、それは名物の茶道具を揃えて誇示するという風のものも多くなってくる。それは招待客が貴人であればあるほど著しくなる道理である。江戸大名たちの間での再興の貴人といえば、それは将軍家であるから、将軍や大御所を大名屋敷に迎えて接待する、いわゆる「御成り」は最高の名誉であり、その饗応は 善美をつくしたものになった。将軍家の御成は、三代将軍の時代になってから御三家・有力大名にたいして相次いで行われたものであるが、細川家は、この頃二代忠利・三代光尚と当主が比較的続いて没するという不幸があったために、ついにそのことが無いままに終った。しかし家格からすればおそらく当然迎えたであろう家柄である。そこで最高の儀礼的社交の場としてのその様子を、他家の例ではあるが簡単にみておこう。
寛永元年四月五日、家光が蒲生忠郷邸に臨んだ時の情景を、『徳川実記』は次のように記している。

 四月五日、松平下総守忠郷の邸に初めて臨駕あり、水戸宰相頼房卿、藤堂和泉守高虎御先にまかりむかへ奉る。兼日この設として御成門を経営す。柱には金を以て藤花をちりばめ、扉には仙人阿羅漢の像を鏤(ちりばめ)る、精微描絵のごとし、当時の宏麗壮観その右に出る者なかりければ、年へて後までも衆人此門を見に来るもの日々多し、字して日暮しの門とはいへりとぞ。此日快晴なりしに、堂室便座簾■(巾に莫)闈帳錦羅衆人の眼を驚かさざるといふ事なし。ことに宋徽宗宸翰鷹の掛幅、達磨の墨蹟をはじめ、書画・文房・茶具古今の奇珍を雑陳せり、実(げ)にや忠郷が祖父宰相氏郷は、織田殿の聟にて封地百万石にあまり、殊更和歌茶道の数寄者にて、賞鑑の名高かりしかば、和漢の奇貨珍宝を蓄積する所理りなしとて皆人感賞す。床には柴船という明香を、大麒麟の銅炉にくゆらせたり、御饗の酒肴山海の珍味をつくし、配膳はみな近習の輩をしてつとめしむ、御膳はてて庭上におり給へば桜花猶咲のこり、(中略)時に忠郷御路地口よりいで迎へ敬屈し、先導し数寄屋に請じ奉り御茶を献ず。頼房公・高虎も伴食す、石砌及び水盤、燈籠等苔滑に薛羅(せつら)はひまつはりしを以て、いつの間にかく古色をたくはえしとてことに御感あり、御茶はてて猿楽御覧ぜらる、供奉の輩にも供給のさま供御に滅せず。(後略)

引用が長くなったが説明の要はあるまい。他家の例からみると、これに大名側からの献上、将軍側からの下賜が加わることが多く、それに饗応・茶事・猿楽と続くのが恒例の型となっている。御成の行事は当時の大名のもつ文化的教養の集約的表現とをみりことができよう。 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(六)

2017-04-18 06:23:53 | 史料

  天下統一の業を進めた信長・秀吉・家康をはじめ、当時の武将には猿楽の愛好者が多く、みずから演能する達者な大名も少なくなかった。したがってこの時代から非常な隆盛を見せることになるが、能がいわゆる武家の式楽化するにつれて、芸術的には初期の慶長頃から発展性を失いつつあり、隆盛といわれるものの、内容は普及が主なものになったようである。それはともあれ、細川家も幽齋以来、歴代能の愛好者であったし、したがって家中の武士にも筆頭家老松井康之・興長はじめ堪能な者が少なくなかった。とくに幽齋や忠興は、足利義昭・信長・秀吉・家康に近かったから、能役者の中心である四座の役者たちの演技に接する機会も多く、その鑑賞眼は高かったようである。たとえば忠興は、寛永八年三月の手紙の中で宝生勝吉について「其もの花金剛(鼻金剛・金剛氏正)子にて候故、五段之埒を不破次第をよく舞申候、中にも四段目之かへり足の所、扇之取様能御入候、宝生入道仕か本にて候、能可披見候」と演技の細部の見どころまで注意を与えたり、同じ手紙で、喜多長能の能が上達しないのは、結局不精、つまり稽古不熱心の故だと厳しい批評を下したりしている。また別の手紙に、「鵺(ぬえ)」の仕舞の所作について、観世宗節の書物に普通のと異なった形付が記されているが、太刀を拝領して持ち帰るとき、左手に持つか右手に持つかを小笠原長元に尋ねて詳しく書付けて送るよう忠利に依頼している。小笠原家は松井家などに次ぐ細川家の重臣で、これも能の嗜みが深かったのであろう。
 細川家で能が演ぜられるのに種々の場合があった。最も単純なのは藩主の慰みの場合もあれば、単独の場合もあれば、同時期に江戸なり国許なりに滞在している時には親子そろって楽しむこともある。みずからシテを勤めるほか、家臣中の堪能な者が参加を命ぜられた。囃子方は太鼓、鼓などに役者を抱えていたほか、これも家臣中の心得ある者に命じた。一家の内で演じている間は慰みであるが、他人を招くとなると社交の意味を持つようになる。寛永八年、当時まだ六丸と称した光尚が、はじめて将軍家光に面謁した後、祝儀の能を催したり、幕府年寄衆を屋敷に招待したり、あるいは少年の光尚を主人役にして、土井利勝の子供を招待するということもあれば、島津家久が参勤で帰国するからといって暇乞の能に招待されるということもある。その間、江戸状中でも何かといっては能の行われることが多かった。このように頻繁に能が上演されると、各家で抱えている能役者はもちろん不足する。忠利も幕府年寄衆の招待の時には喜多七大夫長能を呼んでいるが、江戸の能楽師たちは多忙を極めた。当然諸大名からの報酬も多額にのぼり、彼らの生活は驕奢をきわめ、観世新九郎豊勝の京の家の立派なことは驚くばかりであったという(寛永八年三月忠興書状)
 大名家では、島津家が禁中能大夫虎屋長門を抱えたように、既成の能役者を召し抱えることもあったが、細川家でははじめそのようなことはなかった。京都在住の能役者たちに相当の扶持を宛行っておき、必要時には呼び下すようなことをしたらしい。元和九年に梅若六郎を小倉に招いたこともあり、忠利は六郎とその子九郎右衛門とは親しかったようである。
 しかし寛永四年八月、忠利は新しい能の師として中村政長に入門し、起請文を書いた。(中村家文書)政長は四座には属さないいわゆる「近代シラウト芸者」(四座役者目録)であるが、肥後の加藤忠広に抱えられ、この時は家を子の正辰に譲って自分は自由に活動していた。翌々寛永六年十月、政長は忠興に謁し彼に能を教えた金春安照からの相伝の書物を見せ、また二日間にわたって「高砂」以下の能を演じたが、忠興はそこに安照の芸風を見出し、少々初心のところを直せば誰にも劣らぬ上手になるだろうと評している。(政長宛幷忠利宛忠興書状)やがて寛永九年加藤家が改易となり、そのあと細川家が肥後を領することになると、正辰は千石の高い知行で士分として細川家に召し抱えられ、以後江戸時代を通じて細川家における「能の家」として活躍した。(表章「肥後中村家能楽関係文書について」)
 慶安二年 の七月、藩主光尚の病気回復を祝って江戸邸で能が催され、この時正辰は父政長もついに演ずることのできなかった大曲「道成寺」を勤めることになった。当日は能には口のうるさい永井日向守直清も招かれてくることになっており、光尚はじめ家中一同正辰の顔を見ると「大事ぞや大事ぞヤ」というので、彼も落ち着かない。時間は当日江戸状中で能があるので役者を揃えるため夜能ということになった。
当日の役は脇を金剛座の高安太郎左衛門、金引きは金春座の春日四郎左衛門、大鞁観世勝九郎、太鼓金春惣右衛門、小鼓観世清六、笛観世少兵衛という一流の顔ぶれであった。いよいよ上演の段になると、馴れているはずの高安太郎左衛門さえぶるぶると震えているので、家中の者たちは案じたが、幸い正辰は少しの粗相もなくこの難曲を演じ終り、永井直清からも光尚からも賞詞を得て面目を施した。(綿考輯録)
このように江戸は、一つの文化的坩堝(るつぼ)の役割も果たしていたのである。 

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■ご紹介「天草本いそっぽの物語」

2017-04-17 17:31:12 | 書籍・読書

 

  天草本いそっぽの物語
   かとうむつこ
    海鳥社   

 

商品の説明

内容紹介

イソップ作の『蟻としぇみ(アリとキリギリス)』、『狼とわらんべのこと(狼と羊飼い)』、『犬が肉を落としたこと(よくばりな犬)』など、およそ100の物語を収録。安土桃山時代の衣装を着た愛らしさいっぱいのさし絵。鳥、狼、羊、人々が織りなす愉快な寓話絵本『平成・イソップ物語』。

著者について

福岡県柳川市に生まれる。福岡教育大学美術科卒。同大在学中に福岡県展県にて知事長受賞(油絵)。西日本女流絵画展、文部省県展選抜展招待出品など絵画活動後、高校教諭として勤務。1971年アーティストとして米国永住権を取得。現在、サンフランシスコ在住。1980年~86年、サンフランシスコに「ギャラリー・シオー」開設。2014年、童話「神さまって ほんとうにいるの?」が日本こどもの絵本研究会選定図書に選ばれる。2015年、福岡県朝倉市美奈宜の杜に「ギャラリー・シオー」開設。柳川同人誌「ほりわり」の表紙絵を25年担当。北原白秋生誕百周年を機に、同誌に童話を発表し始める。絵本、童話、歴史小説を出版、個展を開催するなど作家、画家として活躍中。
【著書】
かとうむつこ童話集I~III(東京図書出版会、2003、2004、2006年)、『急ぎ御文参らせ候―寶樹院殿悲話哀話』(西日本新聞トップクリエ、2013年)『神さまって ほんとうにいるの?』、(銀の鈴社、2014年)『三つの星』(銀の鈴社、2015年)、『お花のお見舞い 天使のお見舞い』(銀の鈴社、2015年)ほか

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(五)

2017-04-17 09:15:02 | 歴史

 鷹狩 山野を跋渉して、飼い馴らした鷹に猟をさせる鷹狩りは、古来武士の好んだ遊戯であった。戦国時代には一時衰えたというが、徳川家康が天性の鷹狩好きで、若年のときから死没の直前まで、暇さえあれば鷹野に出るという風であったから、これに倣って諸大名の間にも盛んに行われるようになった。秀忠も鷹狩りを行ったが、次の三代将軍家光もまた大の鷹狩り好きであった。これはしばしば夢にみたほど尊崇していた祖父家康の好尚を見習ったものであろうが、家光がその一生の間に行なった鷹狩は数百回に及ぶであろうといわれている。
 忠興は、慶長八年四月忠利に宛てた手紙の中で「其方如存、我々鷹ふ(不)すきに候故、鷹数無之候に付」と書いている。鷹狩りは好まないので所持している鷹の数も少ない、と言っているのであるが、家康・家光ほどの熱中とは見みえないが、結構しばしば鷹狩を催していることは、現存する書状などによって知られている。山野に鷹を放って獲物を狩ることは、それ自身で一つの豪快なたのしみであるが、しかし当時の大名の鷹狩りは、それだけではすまない点があった。鷹狩りが武士の、それも大名を中心とする上級武士の遊戯として定着してくると、それに伴う様々の儀礼を生じ、大名間の交際の一手段としての面を生じたからである。忠興は慶長七年伏見城にいた家康から鷹を拝領した。この後しばしば鷹の拝領があった。忠利・光尚にも折りにふれ鷹が下賜された。これは当時としては大きな栄誉を意味していた。鷹の下賜ではなく、鷹狩の獲物である鶴・雁・鴨・うずらなどが下賜されることもしばしばである。中でも鷹の鶴拝領は最高の名誉であった。忠興が領国の九州に在国中に鶴の拝領があった時などは、おそらく塩漬にしたその鶴が早飛脚で届けられたりしている。将軍ばかりではなく、蜂須賀至鎮その他の大名からの贈与があり、また細川家からも贈り、時には秀忠に鷹狩り用の勢子犬二匹を献上したこともあった。
 鷹や隆の鶴拝領などよりも、一層の栄誉とされたのは鷹場の拝領である。忠興は元和三年に帰国の時、秀忠から手鷹を拝領し、帰国の途中で放鷹することを許された。道中の放鷹は、将軍以外には禁ぜられていたから、これは大きな恩遇であった。さらに忠利の時代寛永七年、家光から下総国小金・深屋の二ヶ所で高場を拝領した。江戸の周辺地域には将軍家の御鷹場があったほか、御三家や有力大名を限って高場が与えられたが細川家もそれに加えられたわけで、忠興もこれには喜び、早速まだ十歳そこそこの孫光尚を連れて出かけた。帰宅後、忠利に宛てた手紙には「先書に如申、御鷹数又こかねと申て当地より六里程在之所にて御高場被下に付、則参候て雁物数させ申候、面白さ中々申も疎に候、塩雁不珍物に候へ共、拝領之鷹にとらせ申候間、一ツ進之候、可有賞翫候、中三日之間に廿四とらせ申候、六(光尚)をも召連参候へは、うれしかり候事可被察候」とある。こうして鷹狩は、上級武士の身分を象徴するものとなっていった。 

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御恵贈御礼「東大史料編纂所研究紀要第27号抜刷 寛永一六年細川忠興の人質交代」

2017-04-17 08:36:34 | 史料

 東大史料編纂所の林晃弘先生から、研究紀要第27号抜刷 「寛永一六年細川忠興の人質交代ー新収史料 細川忠利・同光尚書状の紹介を兼ねてー」を御恵贈たまわった。伏して御礼を申し上げる。同論考については、研究紀要第27号に掲載されていることは承知していた。
これは購入をせねばなるまいと思っていた矢先のことで、おおいに驚いたことであった。
先般東大史料編纂所では細川刑部家の祖・興孝に宛てた細川忠利・息光尚の書状を購入された。
この書状を以て長い間證人として江戸にあった興孝に関する史料が補強され、今般の論考に至ったとされる。
その内容は大変興味深い。他の男子に比べ三齋に疎外された
興孝の無念さは如何ばかりであったろうかと忖度するのである。
「注」にある引用史料等をあわせ精読しようと思っている。
 

                  東大史料編纂所研究紀要第27号
       細川忠利書状  細川興孝 (「刑部殿」)宛 
         細川光尚書状  細川興孝 (「細刑部様」)宛 

 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(四)

2017-04-16 10:12:33 | 熊本地震

 南蛮趣味 忠興の妻明智氏は、キリシタン史上に有名なガラシャ夫人である。彼女のキリシタン改宗は天正十五年(1587)忠興の九州出陣中のことと伝えられるが、帰陣した忠興は入信に強く反対したといわれる。明智氏の入信には、忠興の弟興元(茂木細川家の祖)が一時キリシタンであったことが影響しているというが、このような環境の中にあって忠興自身はついにキリシタン信仰にははいらなかった。しかし禁教令のまだゆるやかな段階では、家臣団中にもキリシタン武士はいたようである。その多くは幕府の禁教令の強化とともに忠興・忠利が棄教を命じたのに従ってキリシタンから離れたと思われる。しかし中にはあくまでも信仰を棄てずに、殉教した者もあった。忠興が諱の一字を与えたほど重用した加賀山隼人正興長良はその例で、元和五年(1619)妻子一族と共に小倉で処刑されている。
 キリシタン信仰に伴って渡来したいわゆる南蛮風俗は、信仰と離れて当時の一つの流行であった。これには忠興も強い興味をもち、種々の珍奇な品物を入手して使用していたようである。具体的な使用法などについては微証を欠くけれども、忠利と取り交わした書状中には「南蛮のねどこ」「南蛮の鏡」「南蛮手拭」「南蛮の料理」「南蛮の酒」「南蛮の漬物」「南蛮の笛」「南蛮の花の種」などの文字が散見するし、ビロードの陣羽織や、「かるさん」なども着用していた。手紙の様子では、忠利もこれらのものを使用しており、両者の間で融通しあっていたように思われる。
細川家の南蛮趣味で特に目につくものの一つに、ローマ字印の使用がある。ローマ字印は大友・黒田その他の大名に使用例が知られており、それ自体はとくに珍しいものではないが、細川家では忠興・忠利・光尚の三代が揃って使用しているほか、家中の重臣層の中にまでその風が広がり、ローマ字印の使用者がいた。忠興は眼病のそこひを患っていたので時々視力が悪くなることがあり、書状などに花押を署するのに都合が悪いときこのローマ字印を押捺したことなどが用例上判っているが、忠利などは決裁する書類や帳簿に一面に押印して了承の証としたものが多数残存している。また藩の重臣層が下僚の伺にたいして合議決裁を下した場合、その決済の各条に承認の印を連印している中に、細川藩筆頭家老の松井興長や小笠原長元らのローマ字印が使用されているのも珍しい例であろう。ローマ字印の使用された期間が、他家の場合何時頃までであるのか今知識がないが、一般的には禁教の強化と共に早く使用を避けたのではないかと思われる。しかし細川家の場合は寛永年間を通じてその使用が続けられているし、その使用が最終的に停止されたのは慶安元年(1646)六月になってからのことであった。すなわち、この月家老の長岡佐渡(松井興長)が国許家老へ宛てた書状中に、藩主光尚がそれまで使用していた南蛮字の印判の使用を止めたので、自分仕様の南蛮字印判も当月十一日限りで改替する旨を告げ、「其元之衆何れも南蛮字之印判之分は御替候様に承候」と、光尚の意向によってローマ字印の使用を止めるよう指示した。おそらくは、細川家のローマ字印廃止は最も遅かったのではあるまいか。

                   参考:熊本大学学術リポジトリ「細川家のローマ字印」 

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■熊本地震1周年

2017-04-16 09:07:14 | 熊本地震

 昨晩から一年前のブログを読んでいる。車中泊のつらさや度重なる余震、重労働の水運び、給食の配布に並んだことなど走馬灯のように浮かんでくる。一日も欠かさずよく書き残したと思っている。
全国の皆様から思いがけない励ましのお言葉や、救援物資などもお送りいただいた。改めて深く感謝申し上げたい。
ようやく熊本城天守閣の復旧工事に手がついた。天守閣の完成までは何とか元気でいたいものだ。
石垣は復旧までは20年かかるとも言われている。数万個の石を元の位置に戻すというのだから気の遠くなる作業である。

しばらく静かであった余震が、この時期になって小さいながら集中して起こっている。
まだこわれていない断層があるとかで、5~6クラスの余震の可能性があると伝えられている。
もう本当に願い下げにしてほしい。
鎮魂の日は良いお天気になった。外では幼い子供たちが元気な声を上げて走り回っている。安らかな毎日が続くよう願わずにはいられない。
 

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■松寿庵先生・第232講

2017-04-15 06:23:25 | 史料

                             

                                  上が今日の記事           下がちょうど1年前の記事です。     

                                                                 

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■熊本地震一周年『熊本明治震災日記』を読もう

2017-04-15 06:22:36 | 熊本地震

熊本地震から1年、被災した私たちはいろいろな教訓を得た。まだ完全な終息は見えないが、またいつ来るかもしれない震災に備え、教訓を無駄なく後世へ伝えなければならない。明治22年7月22日に発生した熊本明治地震も、大きな被害をもたらしていたにもかかわらず、我々はまったく知識としていなかった。熊本都市政策研究所は、大西市長の発案により今般水島貫之が記した「熊本明治震災日記」を発刊された。
まさに時をえたものである。1周年を迎えるこの時期、改めて127年前の惨事について勉強し記憶にとどめるべきであろう。
出版にあたっての熊本都市政策研究所のHPからその内容についてご紹介する。 

【現代語訳】『熊本明治震災日記』の刊行について

【現代語訳】熊本明治震災日記
 
   都市政策研究所では、このたび「平成28年熊本地震」に係る調査研究の一環として、明治熊本地震に関する詳細な記録である『熊本明治震災日記』(水島貫之著・明治22年発行)の現代語訳版を刊行しました。
『熊本明治震災日記』は、明治22年7月28日に発生した明治熊本地震に関して、当時の様々な被害状況、行政機関や被災した市民の動向等が克明に記録されたものです。日記では、現代の私たちが体験した震災時の状況と相通じるものが読み取れ、過去の地震の記憶を後世へ受け継いでいくと同時に、今後の防災・減災対策につながるものと考えています。
過去の災害を後世へ伝える資料として多くの方に手にとっていただき、ご一読いただければ幸いです。
 

【現代語訳】『熊本明治震災日記』の内容

 1 『熊本明治震災日記』とは

『熊本明治震災日記』は、白川新聞(後の熊本新聞)の創始者で熊本県近代文化功労者である水島貫之(みずしま かんし)によって、地震直後の明治22年10月に、自身が設立した印刷会社である活版舎より発行されています。

構成は、序・緒言のあと、地震発生日である明治22年7月28日から8月31日までの35日間にわたる日記が書かれ、そのあとに「震災日記逸事」として日を追っての日記の中で触れることができなかった新聞記事の抜粋が収められ、最後に東京から赴いた地震学者・研究者が県庁等に寄せた学術的な報告資料が収録されています。
この日記では、地震の被害状況や県庁・市役所・警察署といった行政機関の地震への対応をはじめ、恐怖心から屋外で夜を明かしたことなど震災時の市民の動き、その後の余震での混乱、デマ・流言に翻弄される市街の状況と、その混乱が市民への情報提供によって収まっていく様子などが記されています。

 2 現代語訳にあたって

日記の現代語訳にあたっては、原文の文意や雰囲気を損なわない現代語文になるように留意したほか、必要に応じて脚注を加えています。その上で、小見出しを設けて時系列で関心のある事項を探すことができるようにしたほか、目次と索引を加え、さらに多くの地名が登場することから、当時の熊本市街と熊本県の地図を収録するなど、読みやすく親しめるよう工夫しました。

販売のお知らせ   都市政策研究所 TEL:096-328-2784 FAX:096-326-8954 
                                                     toshiseisakukenkyusho@city.kumamoto.lg.jpメール                 

   【販売開始】 平成29年1月4日(水) より

   【販売場所】 熊本市役所本庁舎地下売店
   【販売金額】 1部 1,000円

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(三)

2017-04-14 07:13:48 | 歴史

 武家故実 戦国騒乱の間に下剋上してきた大名の多い中で、室町以来の名家として故実に通じていることは、新時代において細川家の有利な一つの武器であった。幕藩制秩序と共に、新支配者層にも儀礼を整える必要が生じていたからである。時代は少し遡るが、文禄の朝鮮出兵ののちいったん講和交渉がすすめられ、慶長元年(1596)に楊方亭・沈惟敬らの使節が秀吉の大阪城に登城したことがあった。この時接見の儀式に奏者役を勤めたのは忠興であったが、この頃から細川家は故実典礼の家として認められていたのである。そしてこの事は、江戸時代にはいってから、徳川氏に対しても他の諸大名に対しても有利な条件であった。家康は忠興に「長松は鄙(ひな)にて育ち作法不骨に有之候間、宜しく御異見頼み思召す」といって少年期の秀忠の作法進退の指導を頼んだし、家光に長男家綱が誕生したとき、父幽齋から伝来した武田家式の故実をもって産着を調製し献上したり、翌年この幼児に対して「御果報御武勇は東照公、御齢は三齋(忠興の入道後の号)にあやからせ給へ」と祝言を述べたりしているのも、家柄を見込まれてのことである。(綿考輯録)故実の知識は献上物の時などにも役立ってくる。慶長十九年(1614)の五月、忠興は将軍秀忠に紫の絹・錑(もじ)の蚊帳地十疋・小袖の棚などを進物として献上した。この小袖棚の使用法について、忠興は「御小袖のたなは、つねのものは匂をするふせごのやうに存候、むかしの公方には御小袖のだいにて御にほひをなされ、即其御小袖を御座之間に此台にのせてをかれ候事に候、左様之儀佐州も大炊殿も被存間敷候、公方之御そばに在之御道具之由、其方直々被申か、さなくは誰にても能被申候はん衆を以可被申候、匂のふせごと計被存候てはと存候ての儀に候事」(細川忠興書状)と述べ、将軍の側近者の誰も知らない公方用の特殊の小袖棚の使用法を伝達するように忠利に命じている訳で、文化的伝統の薄さに弱みを持つ側にとっては、このような献上は貴重なものであったに違いない。
 さらにもう一つ、細川家は自分の故実知識を売り込むだけではなく、別に人材そのものも斡旋口入している点も見逃せない。将軍秀忠の夜詰の衆、いわゆる御伽衆の一人に曾我尚祐という人物がいた。いわゆる室町幕府に仕えた家柄で、尚祐は足利義昭に仕えたが、義昭の没落してのち転々とし、文禄四年(1595)細川幽齋の推挙によって秀吉に仕えるようになり、秀吉に足利家の故実を伝えたという。その尚祐が慶長五年以後は徳川氏に召出され、家康から「公方家の法式を問せられ、故実等所用せられるべきにより」秀忠に附せられたのであった。(寛政重修諸家譜)。新興の幕府としては、威儀を整えるために故実家を求めていた訳である。そしてこの曾我尚祐と子の古祐は、幕府内部の情勢を細川家に報ずる最も主要な情報源の一つでもあった。 

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■定彦さんのこと、謎解き

2017-04-13 08:43:19 | 熊本地震

 

 朽木家は細川幽齋の兄・三淵藤英の五男を祖とする。七代昭恒は養子で、実は郡織衛眞峯(四代)の四男である。
昭恒の継嗣(八代)は昭久、これは松井家八代の営之の末子である。昭恒にはいま一人の養子・昭信があったがこの人物は宇土細川家六代・興文の末子なのだが病身であり、実家に帰っている。その曾孫興麿が朽木家に12代として入っている。
「肥後藩主要系図」では見えないが、昭恒には定彦なる男子がいた。八代昭久は養父の子である義弟。定彦を順養子としたいと考えいろいろと根回しをしている。ところが何故か本人がうんと言わない。
結果として定彦はこの話にはのらず、細川刑部家の分家筋に養子に入っている。
これらの経緯を記す文書が数点ヤフオクに出品され、何度かコメントしてきた。
昨晩定彦自身の書状だと思われる文書をヤフオクで落札した。これですべての経緯が判明するとは思えないが、細川家に連なる高禄武家の家を継承する複雑なありようが垣間見えて大変興味深いものがあった。一点だけ競り負けて入手できなかったが、四点ほどが手元にある。
詳しく読み解くには少々時間がかかりそうだが、完読したいとおもっている。
悪友に言わせると「それが何だ・・・」ということになるのだが。 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(ニ)

2017-04-13 08:42:57 | 歴史

  ニ、文化生活の種々相

 忠興・忠利・光尚の初期三代の中でも、初代の忠興は多方面に才能をもつ人物であった。細川家の家史である「綿考輯録」に、「弓馬軍礼の故実は御家伝の蘊奥を極められ、御編書の類も多し、又御詠歌・連句・御狂歌等も数々伝り、茶湯は利休か奥義を尽され、御作の茶器等人これを尊ひ、御著述ものも有之由、御画を被遊候事は探幽も不及と誉奉り、蹴鞠は飛鳥井家の奥意御授り、乱舞も諸流の秘事を得られ、刀劒の御作世に伝わり、甲冑の製等は御家一流の伝普く知所なり、惣而武具の御物数寄はいふに及はす、衣服もろ/\の器物の制、ものに応して御名誉の御事とも悉くは伝はらさるは残念の至也」と記しているのは、藩祖を讃えるための誇張を割り引けば必ずしも不当なものではなかったと思われる。忠利・光尚が父や祖父、また前述したような細川家を取巻く婚姻関係の中で強い影響を受けたことはいうまでもない。この三人の行動を調べるについては、残念ながら日記類は残っていない。しかし三者の間に交わされた二千通をこえる大量の書状が残存している。書状は日記と異なるので限界はあるが、これらや「綿考輯録」その他によりつつ、彼ら文化的関心どのようなものであったかを探ってみよう。

 古典 和歌・連歌等古典の教養豊かであった幽齋は、その死後忠興に多数の古典類を残した。それは定価筆といわれる「新勅撰和歌集」をはじめとする多くの歌集の写本、「岷江入楚」(みんごうにっそ)、や「伊勢物語」「吾妻鑑」などの写本、歌論書などで、その中には幽齋自身の歌集や書写本も多数まじっていた。これらの典籍はその後贈与等で相当移動はしたが、いまなお細川家に伝わるものも多い。しかし忠興が筆写した典籍類はほとんど伝わらない。忠興は父幽齋のようには積極的な関心はなかったのであろう。前述したように幽齋は古今伝授を他に相伝したが、忠興には伝えなかったのも、そのためであるかもしれない。元和三年(1617)頃と思われる書状に、忠利の手許にある六冊本の「万代和歌集」について「其方も不入、我々もいらぬ物候、烏丸弁殿へ遣度候」と書いているのは、この種のものにたいして、忠興の執着がうすかったことを示すものかも知れない。しかし折に触れての感慨を和歌にたくすることは、当時の常人以上ではあったろう。たとえば文禄の役で朝鮮に出陣し、いよいよ帰国となったとき、戦死した家臣の墓に詣でて「ひとたひの 別れのみかはあとをたに 知らぬしらきの山に残して」と詠じ、また元和六年家督を忠利に譲って隠居が決定すると「やすからぬ おもひの家は出にけり しか住はてん柴の庵に」と詠むなどしているのがそれをしめしている。このような正統的な和歌のほかに、諧謔をまじえた狂歌風のものもある。忠興はある経緯があって、隣国の黒田長政とは犬猿の仲であったが、そのことをよく知っている親友の藤堂高虎が、黒田の悪評を書いた手紙に狂歌一首を添えて寄越した。一読してそれみたことかと快哉を叫んだ忠興が作ったのが「藤堂和泉守よりのふみの内に、黒田筑前道をつけかへてはち(恥)をかきたると聞へしほとにとて、関の戸をとむれは黒田荒果て、ひらかてはしる今の百姓、と申越され史返事に、はゝからす(烏)黒田の稲をおしつけて、道をなしても人は通らん」であったという。(綿考輯録)
 近世朱子学の祖といわれる藤原惺窩の和歌集のうちに「細川内記の東にくたるとていとまこひにきたれりけるか、すゝろふ涙のおちけれは」と題する和歌一首が載せられている。内記とは忠利のことで、忠利はこの歌にたいする返歌として、「いまそしる 心の花のなかき春は ときはいつかとわかぬかきりを」と詠んだ。一書に、惺窩に儒学を学んだ武家として、細川忠利、浅野長重、曽我古祐、小畑孫市(小幡直之)、城昌茂の名をあげているが、この和歌の贈答をみると師弟の親愛の情を察することができると共に、元和時代に、早くも忠利が朱子学の教養を身につけはじめていることが注目される。忠利の和歌の師は冷泉為綱といわれるが、その他禅僧沢庵にも帰依し、沢庵と親交のあった柳生宗矩とも親しかった。細川家に現存する忠利宛柳生宗矩の兵法免許に、沢庵の花押の白紙が添えられているのは、この三者の密接な関係を物語るものであろう。 

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(一)

2017-04-12 14:53:49 | 歴史

 東京大学史料編纂所教授・法政大学名誉教授の村井益男氏が、「江戸時代図誌」シリーズの(4-江戸一)に於いて「大名の文化生活‐細川家三代を中心として」を発表しておられる。少々長きにわたるが労を惜しまず数回に分けてご紹介する。

  大名の文化生活ー細川家三代を中心としてー   

  一、江戸と武家文化
 近世の江戸文化について、西山松之助氏はこれを三つの類型にわけて考えられると指摘しておられる。すなわち時期的には、(一)十七世紀、(ニ)十七世紀末から十八世紀初頭にかけて、(三)十八世紀から十九世紀にかけてと、三区分され、文化の性格としては(一)は武家文化、(ニ)は武家的文化、(三)は市民文化あるいは町人文化、と規定し得るという。本稿において以下少しく述べてみようと思うのは、このうちの(一)十七世紀の武家文化に関するものであるが、ここにいう武家文化とは、同氏によれば「新しく貴族化した武士たちの社会に、莫大な文化人口が創出され、そこに伝統文化・武家文化の広汎な展開が見られた」という枠組みをもつものである。江戸における武家文化展開の基盤として、これをもう少し敷衍すれば次のようにも指摘できよう。
 第一には、彼ら自身一定の文化の担い手であり、かつまた巨大な文化的需用の起動力でもある大名領主が、江戸に集中した点である。慶長五年(1600)の関ケ原合戦の勝利、慶長八年の江戸幕府創設という過程で、それ以前からすでに進行しはじめていた外様大名の江戸参府は定着したものとなった。また一族・近親者のうちから証人を選んで江戸に置くことが一般化すると、その証人たちの居宅として、また大名の在江戸中の住居として、幕府は江戸城周辺に邸地を与えたので、諸大名の江戸在留期間は次第に延長し、それはやがて寛永の「武家諸法度」による大名妻子の江戸定住の強制・参勤交代制の確立によって、大名の生活の主たる舞台は江戸ということになった。
 第二には、大名の姻戚関係のもつ意味である。「寛政重修諸家譜」などの系図をみれば判ることであるが、戦国・安土桃山期の大名の妻は、一族・有力家臣または同盟関係にある近隣豪族の家から迎えることが多い。しかし江戸時代に入ってからの結婚は、このような地縁・血縁関係をこえて拡大する。かりに藩地は東北と九州に離れていても、生活の主要部分は江戸に集中しているのであるから問題にならぬ訳である。したがって徳川家は京都の宮家・公家と婚姻を結び、有力大名の女は将軍家養女として他の有力大名に嫁ぎ、親藩・譜代大名と外様大名、外様と外様、譜代と譜代という風に家の格式に応じて網の目のように交互にからみあった婚姻関係が成立してくる。もちろん個々の婚姻成立の背景には、それぞれ政治的思惑のからんだものも少なくない訳であるが、それはそれとして、結果的には表側からみればそれぞれの親藩、譜代、外様の別を残しながら、内側では領主層としての一体化・親密化が強化されているとみられよう。そしてこれら大名社会の奥向の世界、女性の世界が江戸に開けてきたことも、江戸の文化に一定の影響を与えたと思われる。たとえば尾張徳川家に伝えられた「初音の調度」(三代将軍家光の女・千代姫の婚礼調度)などにみられるように、その調度の主がたとえ三歳の童女であり、実際には使用されなかった装飾品であったにせよ、やはりそれは当時の大名社会の需用が生み出した一つの文化的産物であるといえよう。
 第三には、江戸が大名・領主層の主要な居住地となったことによって、彼らの文化的要素をみたすために学問・技芸などの所有者が江戸に吸引されたことも重要であろう。個々の大名については触れないが、幕府の場合でいえば儒学の林家、歌学の北村家、刀剣の本阿弥家、漆工芸の幸阿弥家、絵画の牧野家、能楽の四座各大夫家などを呼び下しているのがそれで、彼らは幕府将軍家の要求をみたすのを基本としながらも、それだけに限らず余力をもって他の諸大名家などにも出入りし、文化の供給者となっていた。
 以上述べてきたような江戸の条件を考慮しながら、以下に大名細川家の文化生活をみてゆくのであるが、その前にまず細川家の家柄や文化的環境について一覧しておく必要がある。
 細川家は関ケ原合戦の後、慶長五年秋豊前小倉城主三十六万石、のち寛永九年(1632)加藤忠広改易の後をうけて肥後熊本城主五十四万石に転じた。江戸時代二百数十藩中六位を占める有力大名である。京都の南方にあたる山城国長岡郷の小領主からここに至るまでには様々の曲折があったが、それはおくとして、当時の諸大名中でもすぐれて文化水準の高い家であった。それには細川家の家系・姻戚関係も大きく影響していると思われる。初代の藩主忠興の父は細川藤孝(幽齋)である。室町幕府に仕えた旧家であると共に、幽齋自身は中世歌学の秘説「古今伝授」の継承者であった。彼はこれを三条西実隆の子実澄から相伝し、桂離宮の建設で有名な八条宮智仁親王・中院通勝・烏丸光広・三条西公国・同実枝・武家では島津義久(竜伯)らに伝えた。そして忠興の妻は明智光秀の女玉、有名な細川ガラシャ、妹には公家で神道家の吉田兼治に嫁した伊也、大名木下延俊に嫁した加賀などがいる。木下延俊は、幽齋の門人であり安土桃山時代の歌人として有名な木下勝俊(長嘯子)の弟にあたる。忠興の長男忠隆の妻は加賀の前田利家の女(これは後に離婚)、嗣子となった三男忠利の妻千代姫は小笠原秀政の女であるが、二代将軍秀忠の養女として輿入れしてきた。女の一人万は烏丸光賢に嫁し、そこに生まれた孫女の一人禰々は忠利の子で三代藩主光尚に輿入れし、もう一人の孫女は飛鳥井雅章と結婚している。このように細川家は、とくに公家との姻戚関係が深いのが一つの特徴であるといえよう。 

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