津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和九年・十一月「京都郡蔵納行事村役人等申状案」

2019-07-15 20:27:19 | 細川小倉藩

             |                    
4京都郡御等蔵納行事村役  
|    京都郡蔵納行事村御理申上候事
 人等申状案       |
  加子役上ケ役     | 一、過去役・上ケ役両手ヲ年々仕、御百性迷惑仕候事
             |
  加子ヲ傭ウ      | 一、所ニ水夫無御座候ニ付、余浦ニ而、加子やとい申、壱人ニ付、三十日切ニ銀子拾五匁、六匁宛ニ
             |   やとい申、是ニ而迷惑仕候叓
             |
  水夫役        | 一、水夫御役目仕候時、一日ニ付、御賃米弐升宛被下候ハ、御采米ニ上納仕候、右之銀子拾五匁、此
             |   米九升ハ加子壱人分ニ而御座候を、御百姓弁、是又、めいわく仕候事
             |
  漁ヲセザルニ菜米   | 一、りやうなとも一切不仕在所ニ、御菜米被召上候、何共、めいわく仕候事
  ヲ徴収サル      |   
             | 一、今度御浦御奉行御改ニ付、当村浪人共ニ、加子三人御座候間、御帳ニ書上ケ申候、残てハ前々ゟ
             |   之御百姓ニて御座候間、上ケ役一偏ニ成共、加子役一偏ニ成共、被仰付可被下候、高七百三石三
             |   斗壱升六合ノ村ニ而御座候条、御百姓相続申様ニ、被仰上可被下候、右之通、御浦御奉行衆・御
             |   惣庄屋衆迄ハ、年々申上候へ共、御分別無御座候間、如此申上候所如件
  浦庄屋        |     元和九年十一月八日                浦庄屋 善兵衛
  上ケ庄屋       |                             上ケ庄や 平右衛門
             |   「右之条々申上候、以上」               御百姓 喜兵衛
             |                                同 甚右衛門
             |                                同 孫右衛門
             |                                同 小兵衛
             |
  惣奉行等用状案    |
  忠利裁許       | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事
             |
  水夫賃米二升     | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣候分は、御さい米ニ指つき、水夫手前へ不取候段、
  兵粮米        |   無紛候間、兵粮米、前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分をも
  陸役         |   此方ゟ披遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御荒仕子人から之事、万小遣ニ申付候、夫
             |   からの事、右五人之水夫手前之分、被成 御赦免之事
  御菜米免除      | 一、御さい米、免被遣候事
             |       以上
             |     元和九年十一月八日          西郡刑ア
             |         宮部久三郎殿         浅山清右衛門
             |         佐方少左衛門殿        仁保太兵衛
             |                        横山助進
             |

          
  

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■細川‐木下‐稲葉家

2019-07-15 06:34:02 | 歴史

  二木謙一・荘久美子校訂「木下延俊慶長日記‐慶長十八年日次記」を楽しんでいる。

                   ã€Œæœ¨ä¸‹å»¶ä¿Šæ…¶é•·å...」の画像検索結果f0122653_13491917.jpg                   
豊後日出藩主・木下延俊と豊後臼杵藩主・稲葉一通とは、それぞれ忠興の妹・娘を正室に迎えている。
「木下延俊慶長日記」(慶長十八年)によると、聟・舅の関係は良好で、度々の交流のほどが記されている。

ところが、元和七年(1621)十月廿六日の忠利宛書状の中に、次のようにあり二人の仲がよくないらしい。
      「稲彦(一通)と木右(延俊)と間悪敷事存候、當所へ被来候ハゝ、中なをし可仕かと存候事」(細川家史料-322 抜粋)
忠興の息・忠利は元和六年に家督しているから、その直後の話だが、忠利も延俊・一通とは大変仲が良かったらしい。
ところがこの時期は木下・稲葉両家とも奥方の加賀・多羅は既にない。
何が原因なのかよくわからないが、両家の寄親ともいうべき細川家としては、何とか両家の中を元通りにしたいと思ったことであろう。

          
                   
   細川幽齋---+-----忠興----+----忠利(1586~1641)
        |                  |
        |      +-----多羅(1588?~1614)
        |            ‖--------信通(1608~1673)
        |       稲葉一通(1587~1641)
        |      
        +------加賀(?~1604)  
            ‖-----+-----於岩(在・江戸 後・松平忠重正室)     
          木下延俊  |
        (1577~1642)  +-----於豊(在・京都 後・北野松梅院に嫁ぐ)
            ‖   |
            ‖   +-----於栗(在・日出 後・足守藩2代藩主・木下利當正室)
            ‖
            ●----俊治(1614~1661)

 

       多羅 慶長十九年九月十七日没 徳雲院玉叢英蘭 27歳
       加賀 慶長九年十ニ月十四日没 松屋寺即庵妙貞 没年齢不詳

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■元和九年・十一月「京都郡菩提村百姓等申状案」

2019-07-14 09:55:38 | 細川小倉藩

             |                    
2京都郡菩提村百姓等 
    |    謹而致言上候事
 申状案         |

             | 一、京都郡ノ内菩提村、高弐百七拾六石三斗五升余、慶長六年としゟ同八年迄ハ、益田蔵人殿御拝領
             |   被成、内ノ御馬乗衆富永忠右衛門尉・伊藤兵右衛門・嶋田與右衛門尉、両三人へ被遣候、伊藤兵
             |                                     あらあらしく・乱暴に
   未進百姓ノ妻人質  |   右衛門尉殿百姓弥二郎と申者、御年貢御未進御座候ニ付、女房しちニ被召取、あらけなく御せつ
   子を殺シ放火自殺  |   かん被成候へとも、別ニ可仕様無之候而、十一ニ罷成むす子、八つニ成候むす子、二人共ニさし
             |   ころし、主ハ家ニ火を付、慶長八年十二月十三日ノ未明ニ、焼死申候、其付、悪所故、蔵人殿御
             |   知行御上被成、慶長九年年ゟ、御蔵納ニ罷成、同十三年年迄ハ蔵人殿御所務被成候、定納り弐つ
             |                      (ママ)
             |   三分ニ当り申候ニ付、弐つ三分ニ、御郡奉行肥後殿御定被成、其上百姓かしけ申ニ付、諸役目等
             |   御免シ被下叓
             | 一、慶長拾四年とし、福田善右衛門尉殿、御郡へ御出被成、御免大分御上被成、三つ成ニ被仰付候、
             |   同十五年年も三つ成ニ定り申候、同拾六年・十七年年、両年は弐つ八分ニ被成、此時も御未進拾
             |                         (財)
             |   五石・廿石宛御座候つレとも、其時迄ハ、牛馬・家材・農道具迄売、納申候へ共、同拾七年とし
             |      尽くす
             |   多年之つかされニ、御百姓めけ申、明拾八年之根付不罷成候ニ付、御郡奉行衆・御郡代・御惣庄
             |   屋以御談合、御郡中御蔵納分ゟ、牛・人を被仰付、荒発被成候、作付之儀ハ、村々百姓作付申候、
             |                                    (朱カ)
             |   同拾八年とし之御免、御郡奉行小谷又右衛門尉殿御検見之上を以、弐つ三米ニ御定被成、其上御
             |   役目半役ニ被仰付候、同十九年年弐つ二分、元和元年年弐つ一分四朱、同弐年年弐つ二分七朱、
             |   同三年・四年、両年ハ弐つ四分、同五年・六年、両年ハ弐つ六分、如此年々御免上り、御百姓い
             |   たミ申候処ニ、元和七年としニ、三分上り申、弐つ九分ニ被召上候、其付、去未進四拾石余出来
             |   申候、稠敷御代官衆御さいそく被成候ニ付、牛五疋・米六石四斗ニ売立、御百姓七人・方々ニ在
             |                                   (京都郡)      (同郡)
             |   郷奉公ニ出申、米九石取立申候、又、御加損米九石被下候、又、拾九石ハ下田村性福寺、下久保
             |       (中津郡)
             |   村新介、大橋村惣兵衛、彼三人手前ゟ、御代官衆御加判被成候て、借米仕、御皆済仕候、此米元
             |   利共当年壱粒も返弁不仕候間、もはやかり申事も不罷成、めいわく仕候事
             | 一、上久保村ノ内、高百五拾石、慶長十八年とし益田蔵人殿ゟ出シ、菩提村同前ニ御上ケ被成候、其
             |   内五拾石余、菩提村ゟ出作仕懸り候、今ハ作仕候儀不罷成候間、御郡代・御代官ニ御理り申候へ
             |   共、上久保村ニ戻り申儀、御分別不被成、彼飛松分、五拾石ニ、弥々めいわく仕候事
   津出ニカシグ    | 一、菩提村、浜辺とおく御座候間、余村ニ替、津出ニもかしけ申候、百姓馬持不申候故、駄賃馬斗ニ
   駄賃馬       |   て下申候、大橋迄、壱石を五升つゝニて出申候、物成百石ニ付、五石ハ御 公儀不知ニ、浜辺ニ
             |   違、駄賃ニ而も御未進出来申候、御免御定之時、か様之御指引も不被成、いなかも海辺之村も、
             |   平等ニ被仰付、めいわく仕候事
             | 一、当春根付之儀、御郡奉行・御代官・御惣庄屋衆ゟ、種々御穿鑿被成候へ共、五拾石余不罷成、御
             |                                      (人脱)
   荒起シ       |   惣庄屋岩熊孫兵衛手永中、御蔵納・御給人ニ不寄、被仰付、牛四拾疋・人百四拾御出被成、荒発
             |   被仰付候、又、夏、牛百疋・人弐百五拾人出申、御代官衆・下郡衆・御惣庄屋、しかと御そい被
   惣作        |   成、惣作ニ被仰付候、又、草手ニハ、京都郡御蔵納中ゟ、人数百五拾人出申、下郡衆御そい被成
             |   御取せ被成候、人数合五百四拾人・牛数合百四拾疋、如此被成候へ共、我々作仕廻候而、おそく
   種子米元利程モナシ |   仕付候間、荒同前ニ御座候間、此田ニ植申種子米、元利ほとも無御座、めいわく仕候事
             | 一、当秋生嶋平三郎殿御拝領被成候、御免相色々御理り申候へ共、御検地之上を以、弐つ四分ニ御定
             |   被成候、左様ニ御座候へハ、御知行御上被成、又、御蔵納ニ罷成候、其付、御奉行衆ゟ御意之由、
             |   御代官衆御申被成、元和七年ノ御免ニ可被成通ニ候、弐つ四分ノ御免ニ而さへ、成不申候、殊ニ
   年貢ノ外ニ本種子  |   御年貢之外ニ、本種子夫米、御薪米、去年ノ御加増米、合四拾石余出申候、是程、当御未進出キ
   夫米薪米加損米   |   申候、是を被召上候ハヽ、御百姓壱人も堪忍難遂存候、是非共御理り被仰上可被下通、御代官へ
   百姓一人モ堪忍ナリ |   申上候へ共、御奉行衆ゟ被仰出候儀、何ニても御理り申上儀不成候と、被仰、庄や孫介・御百姓
   ガタシ       |   弥右衛門尉・茂左衛門、高未進御座候とて、御糺明被成、めいわく相極候、菩提村悪所故、田畠
   定免        |   毛上、年々相替儀無御座候間、定免ニ御定被下、其上御役目等五、三年之間成共、御免被成候は、
             |                               (季)
   役目等免除願    |   以来、御百姓も相続可申かと存候、もはや弐拾年余も、年々ニ節記ニハありけなき御糺明斗ニ、
   古郷難忘候     |   悪所故相申候間、生在所ニて御座候へ共、村ニもあきはて申候、雖然、古郷ほうしかたなく候て、
             |   当年迄ハ堪忍仕候事
             |    右申上通、少茂相違無御座候条、御前能様ニ、御披露被成可被下候、仍申上所、状如件
             |      元和九年十一月十五日               菩提村百姓
             |                                  源左衛門尉
             |        進上                      
             |         御奉行衆中                    弥右衛門
             |                                
             |                                  茂右衛門
             |
             |
   惣奉行等用状案   | 一、来年四月ニ、御土免被 仰付候砌、定免ニ可被 仰付旨、被 仰出候也
   忠利裁許      |      元和九年十一月廿七日        西郡形ア少
   定免        |          宮部久三郎殿        浅山清右衛門尉
             |          佐方少左衛門尉殿      仁保太兵衛
             |                        横山助進
             |

   読むに堪えない百姓衆の苦労がうかがえる。まさに「生かさず殺さず」の世界であり、まだ成熟していない農政のあり様がうかがえる。

   

  

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■NHKのニュースで・・

2019-07-13 20:41:56 | 熊本

    河川洪水 : 熊本県熊本市東区などの地域で、大雨の警戒レベル3にあたる状況です。

インターネットでは終日このようなテロップが流されています。
そんな中、夕方NHKの7時のニュースに、わが家に近い水無川(健軍川)が満水になった状態で放映されました。
洪水警報が出ているので、少々気にはなっていたのですが、まさか全国版で登場するとは驚きです。
今は大した雨ではありませんが、一週間以上の雨になりそうで、梅雨明けは再来週まで伸びそうですが、まずは水無川が安泰でありますようにと願うばかりです。

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■博多祇園山笠「一番流笠の加藤清正公」

2019-07-13 10:43:00 | 徒然

                   

 博多の街は「博多祇園山笠」のお祭りの真っ最中、流れ山笠に力水を掛ける姿も今日は雨の中で必要もなさそうである。
某さんはフィナーレ前日の今日の「流舁き」の、一番山笠・千代流の加藤清正を見るべく博多にでかけるという話だったが、あいにくの雨で取りやめられたようだ。
熊本の復興を願って制作されたと聞くが、熊本県は先月末には「クマモン」ともども御礼に参上している。
明日のお祭り終了と共に解体されると聞くが、今日は博多の熱い男たちと共に博多の街中にその雄姿を見せていることだろう。

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■元和九年・十一月「焼物屋杢左衛門申状案」

2019-07-13 06:22:22 | 細川小倉藩

             |                    (条)
2焼物屋杢左衛門申状案
   |    田川郡弁城焼物屋杢左衛門尉申上候重々事
             |
   二十年焼クモ一切売 | 一、御国ニ、拙者弐拾ケ年、御かけを以、堪忍仕候へ共、もはや在郷ニて、焼物一切売不申候ヘハ、
   レズ        |              はたと 
             |   女子共やしない申候事、不罷成候条、去々年御上洛之時、我等之段、御郡奉行衆迄申上候ヘハ、
   借米借銀ニテ堪忍ス |   御懇之御上意被成候間、忝奉存候而、御留主三年之間、色々借米・借銀ニ而、堪忍申候へ共、何
             |   々と仕候ても、女子をやしない申事不罷成候、何様ニも御上意奉待候、かやうニ候て、うへ死
   本国ニ帰リタシ   |   申候間、左候は、本国ニ罷渡り度候、先年唐人被罷渡候時、母存命之由承候間、其時御いとま申
   母存命中ニ見参シタ |   上度候へとも、被仰上候衆無之候間、今迄堪忍仕候間、母命ノ中ニ、けんさん申度候間、兄弟三
   シ         |   人、女子共、対馬迄御切手可被下候、生々世々忝存候事、左様ニ候ハヽ、日本者、養子・弟子一
   当地ニハ養子弟子ヲ |   両人跡ニ仕付、正月・二月罷渡度候、此等ノ段、可然様ニ、被仰上候而可被下候、以上
   仕ツク       |                               弁城焼物や     
             |     元和九年十一月八日                   杢左衛門尉
             |         御奉行衆中
             |
             |
   惣奉行等用状    | 一、何時成共、切手を書候て可参候、川口御切手被遣旨、被 仰出候也  
   忠利裁許      |     元和九年十一月廿七日        西郡形ア少
             |                       浅山清右衛門尉
   田川郡奉行宛    |        野間次左衛門尉殿       仁保太兵衛
             |        林與兵衛殿          横山助進
             
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ちょっと一言
いろいろ考えさせられる文面である。焼物屋・杢左衛門は異国人であろう。二十年間田川の弁城(福岡県田川郡福智町弁城)で焼物屋を生業としてきたが、
「焼物一切売不申候」生活が成り立たず、家族が飢え死とも為りかねない状況となり、帰国したいというのである。

二十年前というと慶長八年くらいになるが、どういう経緯で田川郡に住み着いたのだろうか。
田川郡福智町は「上野焼(あがのやき)」で有名な地域である。上野焼は、豊前小倉藩主・細川忠興が慶長7年(1602年)に李朝陶工の尊楷を招き、
陶土に恵まれた上野の地(釜の口窯)で窯を築いたのが始まりだとされている。

この杢左衛門も尊楷の弟子ででもあったのだろうか。熊本の焼き物はこの上野焼が源流となっている。
先人の苦労がしのばれる。


  

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■狩野直喜の「軸」

2019-07-12 14:10:52 | オークション

 過日、N君が電話をくれた際、「狩野直喜の軸」がヤフオクに出品されていると教えてくれた。
調べてみると、「鑑定 中国学者・【狩野君山】 三行書 掛軸 熊本・狩野直喜・羅振玉 真作 Yahoo!かんたん決済 注目」とあって、15人が応札、現在18,824円である。
身内としてお軸の一本くらい持っておきたいとは思うものの、只今金欠の真っ只中で、早々にあきらめてしまった。
思い返すと、昭和19年祖父母・父が亡くなった後、父祖の地熊本に帰熊したさい母は200冊ほどの蔵書とお軸を持ち帰っていた。
その中に数冊の君山老(狩野直喜)の書籍が含まれていたのだが、昭和28年の水害で全て流失してしまった。水害は親の仇である。
「軸」はともかく著書はいくつかは手元に置きたいとも思うが、夫々、とても内容が理解できないから、こちらも躊躇している。

           狩野 直喜: 本 - Amazon.co.jp
             ヤフオク:狩野直喜

             日本の古本屋:狩野直喜   

 

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■元和九年・十一月「規矩郡柳村百姓左助等申状案」

2019-07-12 11:43:37 | 細川小倉藩

   表紙 元和年比ト見へ候       「庄屋百姓等申状(訴願目安)案 幷 惣奉行等用状(裁許裏書案」   

1 規矩郡柳村百姓左助   |
 等申状案        |    申上
   柳村慶長十四年ノ検 | 
   地ニ高上リ迷惑畝竿 | 一、規矩郡之内柳村弐拾町分と申在所、慶長拾四年之年、御検地被成候処ニ、田畠元高上り、畝竿詰    
   詰ル        |   り申候而、百姓迷惑奉存候事
   ソノ内訳      | 一、慶長六年之御検地、高百六拾八石八斗八升七合、慶長十四年之御検地ニ、高五拾七石弐斗六升八
             |   合八夕上り申候、高弐口合弐百弐拾六石壱斗五升五合八夕ニ成申候ニ付、百姓迷惑仕候事
             | 一、慶長六年之御検地、御帳面高ニ被仰付可被下候、右之分ニ不被仰付候ハヽ、御奉行を御出シ被成、
             |   有躰ニ上中下之所、無甲乙、畝竿有様ニ被仰付可被下候、百姓下々ニ而迷惑之由、申候へとも、
             |   此通申上儀不罷成候事
   百姓逃散ス     | 一、慶長十四年之御検地、請申百姓多走り申候、至于今、他国ゟ牢人・百姓も此村中ニ壱人も不参候
   他国ヨリ一人モ来住 |   条、何共迷惑ニ奉存候事
   セズ        |              (是門)米田家二代是政弟・藤十郎、寛永九年没・62歳
   元和七年ヨリ米田是 | 一、元和七年之八月ゟ、米田與右衛門尉殿御知行ニ被成候へとも、何にても非分之儀不被仰付候、元
   門知行ス      |   和八年ニ計舛御かへ被成候処ニ、払斗を弦懸斗ニ被成候、延米御座候条、納申候へ共、延米三石
   払舛ヲ払弦懸斗ニ延 |   五斗余、百姓中ニ戻シ被下候、則、銘々物成高割付被下候、如此、有躰ニ被仰付候条、御給人ニ
   米ハ戻サル     |   申分無御座候事
   知行主ヘハ申分ナシ |   右ノ通申上候儀、百姓何共迷惑ニ奉存候へとも、今度 御目安箱御出シ被成候付、如此御理り
             |   上候、以上
             |     元和九年十一月十五日            柳村廿町 左助
             |                            頭百姓 源兵衛
             |                            小百姓 喜介
             |                              同 彦市
             |                              同 惣市
             |                              同 善右衛門
             |                              同 次郎左衛門尉
             |
             |
  惣奉行等用状案    |   高五拾石分、役儀免被遣也
  五拾石分役儀免除   |     元和九年十一月廿七日       西郡刑ア少 (清忠)
             |                      浅山清右衛門
             |         吉田茂左衛門尉殿     仁保太兵衛 (慰英)
             |         平井五郎兵衛殿      横山助進  (重嘉)
             |    

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■久しぶりの図書館行

2019-07-12 08:26:52 | 徒然

 昨日は所用の帰り道に、久しぶりに図書館行き、いつ以来だろうと思うくらいである。
あるお宅の先祖付けをコピーし、折角来たのだから本を借りて帰ろうと思い以下の二冊を借りる。

  ■磯田道史著「近世大名家臣団の社会構造」東京大学出版会、9,400円+税
     武士という身分に生きた人々の具体像をあざやかに描く
     近世武士の中核的存在,大名家臣団を対象にその社会が抱える「違いの構造」を解明.歴史社会学や歴史人口学の成果を活用し,
     さらには「身なり」「しぐさ」の差にも注目.武士という身分に生きた人々の具体像をあざやかに描き出す.

  ■福田千鶴著「近世武家社会の奥向構造」 吉川弘文館、10,000円+税

     近世政治権力の解明には従来の公儀研究(表向=男の世界)に加え、〝奥向〟という日常の政務を行ない、当主と妻子が生活した
     空間の果たした役割を追究する必要がある。表方(おもてかた)・奥方(おくかた)に分かれていた奥向の構造を各職制やその特質、
     一夫一妻の原則、庶出子の処遇といった妻妾制の展開、井伊・真田ら大名家と将軍家の交流などから鮮やかに描き出す。

 噂にたがわずなかなか面白い。値段が高くて購入をためらっていたのだが、現物を確認し購入しようかと思い至っている。
それというのも、前者は 近世大名家臣団の社会構造 (文春学藝ライブラリー) 文春学藝ライブラリーから文庫本が出ていて、値段もお手頃で入手できる。
後者は文庫本化はされないのではないか。古書を安く手に入れるより仕方がない。

下手な小説を読むより、よっぽど夢中にさせてくれる。☆☆☆☆☆

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■殿さまご乱心

2019-07-11 15:39:00 | 徒然

                    
                                              写真:寺島雅子さまの御著「梅鉢草‐思いつくまま‐」から

 元首相・細川護熙様が2014年の東京都知事選に出馬された時、さかんに「殿さまご乱心」の言葉が飛び交った。
此の度の参院選挙には徳川宗家の家広氏が出馬されたようだが、こちらは「上様ご乱心」というところか。
徳川家にかかわる神社関係などが「立憲民主」からの出馬という事で困り切っているようだ。
お二人はまさに貴種であり、非常に近い縁戚関係にある。
家広さまも当選なさらないと徳川家の沽券にかかわるだろうが、むつかしい選挙のように思える。
護熙さまも複雑な思いであろう。


       近衛文麿 -------------- 温子
                                 ‖--------+------護熙
     細川護立-----+-----細川護貞     |
           |            +---近衛忠
           |                ‖
           |             (三笠宮)靖子
           |      

           |             徳川恒孝  
           +-----細川雅子        ‖--------家広
                    ‖ ---------------幸子

                寺嶋宗従

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■Kindle版「忠直に迫る~越前宰相の狂気と正気~ (BoBoBooks)」

2019-07-11 06:56:03 | 書籍・読書

 過日、「元和九年・覚書(閏八月十八日~閏八月廿日)」において、下記のような越前宰相・忠直に関する記事をご紹介した。

               |   (松平忠直)
      松平忠直家中ヘノ | 一、越前之宰相様之衆罷上候時、舟かり申候ハヽ、かし不申、御注進可申上旨、 御意候事、金子喜
      船ノ貸与ハ許サス |   左衛門書状ニ、右之様子申来候を、則、深野左介を以、書状懸 御目候ヘハ、浦々へ可申触之由、
      浦々へ触出ス   |   被 仰出、御郡奉行衆へ申触候事

これに関し、ツツミ様からコメントを頂き、豊前における忠直卿の行動などについてのご教示や、資料などのご紹介を頂いた。
忠直公の配流地は、細川藩領・豊後鶴崎の目と鼻の先である。何らかの交流があったのではないかと勘繰りたくなるが、上記文書のごとく、舟さえ貸すなというのだから、強力な幕府の姿勢が見て取れる。
岡藩中川家の文書が配流後の忠直公の事について詳しく記録しているらしい。
ツツミ様のコメントを頼りにいろいろ調べてみたら忠直に迫る~越前宰相の狂気と正気~ (BoBoBooks)・著者: 吉川博和という本がKindle版で出ていることを知った。
WEB上にその一部が紹介されていた。まずはこれを読ませていただいて、後程Kindle版を読もうと思っている。
忠直卿のあの激しい狂気ぶりは何だったのだろうかと思わせる、豊後における恭順ぶりが嘘のように思える。

このさい、菊池寛の「忠直公行状記」も読んでみようと思い青空文庫の御世話になった。

 

 

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■闖入者

2019-07-10 20:28:49 | 細川小倉藩

 今日はすっかり雨の一日になった。明日は所用で出かけねばならないが、こちらも一日雨らしい。
はて、梅雨明けはいつになるのだろう。
昨日も所用で自転車で出かけたのだが、カンカン照りではなかったが、熱中症とは参らぬが少々くたびれてしまった。
そんな中、朝から蝉が騒がしく鳴くのが聞こえたのだが、今年初めて聞くように思える。
処が今日は、部屋の中に「クマゼミ」が入り込んできた。なんだか蝉もお疲れ気味の様・・
壁に止まらせて写真撮影、その後ベランダの観葉植物の上の止まらせたが、飛び立つ気配がない。
今も少々雨が降っているから、そのうちに元気になって飛び立つことだろう。

                                             

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■治年の後継

2019-07-10 16:41:16 | 歴史

 治年公の後継についてはいろいろ問題があったが、宇土支藩の藩主・立禮が宗家に入って遺領を継いだ。
立禮は治年の正室遥臺院(埴)の弟である。二人の男子が幼かったことによる。
立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。

七月廿三日付の次の様な文書がのこされているが、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とある。
    我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
    然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
    は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」にあるものだが、この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆しているものであり、正式な文書として貴重な史料である。
齊茲の家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。
次男應五郎を跡継ぎにするという事は、嫡男年和でないのが不思議だがその理由が良くわからない。應五郎は六歳でなくなり、年和は廿歳で亡くなって居り、次の代は齊茲実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
宗家に宇土細川家の血が入り宗家嫡流の血が途絶えた。 

   +---宗孝==重賢---治年---+==齊茲---齊樹===齊護
   |         ‖   |
   +---重賢       ‖ ---+---年和
               
   +---清源院         +---應五郎    
       ‖
   +---興里
   |
   +---興文--+--------(治年室)
        |           
        +--------------立禮(齊茲
        |
        +--------------立之-----+-----立政齊護
                   
                    +-----行芬 

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■元和九年・覚書(九月廿一日~九月廿九日)

2019-07-10 06:21:39 | 細川小倉藩

         |     
         
|      九月廿一日

         |
なべノ一年分ノ諸 |  (南条元信室、細川興秋女)                           (成政)     (景延) 
入費       | 一、御様御賄方、一年分ノ諸入目積り立、可懸 御目之旨、坂崎清左衛門・宗像清兵衛被申出候也
         |
三斎へ海鼠腸ヲ進 | 一、三斎様へ、このわた持せ被進候歩ノ御小性寺戸二兵衛、申ノ上刻ニ罷帰、 御返書上申候也
ム        |
         |     
         
|      九月廿二日
         |
中津演能ノ猿楽師 | 一、さるがく衆、来ル廿三日ニ、中津へ被遣候間、大橋ニ而振舞可申旨、長庵を以、被 仰出候、肴
等ヲ饗ス     |   遣、宿振舞也
         |
加藤忠広ノ通行ヲ | 一、加藤肥後守殿御とをり候ハヽ、御注進可申上由、井上六右衛門方へ申遣候也
報ゼシム     |
三斎へ参勤ノ家臣 | 一、来ル廿八日ニ、中津へ御見廻之衆、
         |             (長良)               (勝永)
         |    伊藤金左衛門 小笠原宮内少 佐分利兵太夫 寺尾左助 西川與助 谷助太
         |       (重良)
         |    夫 谷忠兵衛 荒木助左衛門 横山藤左衛門
         |   廿九日ニ、中津へ参候衆、 筑紫大膳 筑紫八十郎
         |
         |     
         
|      九月廿三日
         |
         | 一、今月之末ニ、上方ニ小早御上せ可被成旨、被 仰出候事
         |                                    (惟成)
家光へ献上蜜柑ノ | 一、毎年 公方様へ御上被成候ミつかんよく仕可置旨、御郡中へ可申触由、竹原市蔵、被 仰出候
準備       |   間、則、松本彦市・栗野伝介ニ申渡候事
         | 
         | 一、永井安太夫ニ、御米五拾俵被遣 御諚、御使湯浅太郎介
         |
         | 一、西沢文右衛門おいニ、八人扶持被遣旨、被 仰出候、御使右同人
         |            (忠政)
         | 一、江戸へ御飛脚弐人、森美作様へ御飛脚弐人、来ル朔日ニ可被差上旨ニ候、則、乗申御小早の儀も
         |   可申付旨、竹原市蔵を以、被 仰出候事
         |
         |     
         
|      九月廿四日
         |
宇佐郡永荒新地ノ | 一、宇佐郡永荒・新地之御検地之儀、中路加右衛門・松岡久左衛門ニ被仰出候事
検地       |   
目安箱ヲ一郡ニ一 | 一、十一月朔日ニ、目安箱一郡ニ壱つつゝ御出シ可被成旨、被 仰出候事
箇宛配置セシム  |
忠利国廻リノ予定 | 一、十一月中旬比、御国廻可被成候、御郡中之様子可被 聞召届旨、被 仰出候事
         |
櫓米ノ調査    | 一、二番はゑのひつじぢ米、御茶ニ入候間、御郡奉行衆へ相触、調可上之由、八木杢御使にて、被
         |   仰出候事   〃                                    ひつじ米
         |
鏡ヲ磨ガシム   | 一、御かゝミ一面、とがせ候へと、被 仰出、則、岩田甚太郎へ相渡候、御奉り小谷忠二郎にて候事、
         |
筑紫八十郎知行同 |           (筑紫広門)
夢庵合力米ノ懸リ | 一、筑紫八十郎知行所、夢庵へ被遣扶持方御合力米、御積り被成、被遣候事、来年ハ懸り物御蔵納   
物        |   なミニ懸可申 御意事
         |
         |     
         
|      九月廿五日  (記事なし)
         | 
         |     
         
|      九月廿六日  (記事なし)
         |
         |     
         
|      九月廿七日
         |
忠利留守中ノ支出 |  御留守之時   
ハ河喜多正直へ相 | 一、金銀米銭の儀ハ、少にても出シ申儀、河喜多五郎右衛門ニ相談可仕候、御奉公人抱申儀も、五郎
談セシム     |                 (片山)
         |   右衛門と相談仕候て、抱可申旨、示庵を以、被 仰出候事
         |
         |     
         
|      九月廿八日
         |
谷助兵衛ノ待遇  | 一、谷下総殿助兵衛殿へ、御米五拾石・大豆弐拾石可相渡旨、飯田才兵衛を以、被 仰出候、御知行
         |    〃〃〃
         |   をも可被進之候へとも、先当分御不自由ニ可有之候間、被進之由、申可申入候旨ニ候事
         |                                 〃
         |   (嶋津家久)                            (飯田)
嶋津家久飛脚ニ給 | 一、松平薩摩守様ノ御飛脚両人ニ、銀子壱枚宛可相渡旨、才兵衛を以、被 仰出候事
銀        |
         |

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■箱根を通った藩主夫人や側室たち

2019-07-09 10:45:50 | 歴史

入り鉄炮に出女」といわれるように、特に箱根の関所での女性の通行については、なかなか厳しいものがあったらしい。
細川忠興(三齋)が側室を連れて江戸を上下していたことはよく知られている。
そんな中、箱根の関所役人のやりように腹を立て、これを切り殺すという事件を起こしている。気短な性格だといわれる忠興公だが、その最たるものかも知れない。
この史料では、その日時が判らないが、私はこの女性は「小やや=明智次左衛門女・万姫生母」ではないかと考えている。

           

大名の夫人は元和9年江戸居住が定められ、忠利公夫人以降当然の事ながら定府している。
ところが側室たちは江戸を上下していることが史料によって伺える。藩主が伴っての事だと思われる。

それはその人物が、江戸でも熊本に於いても出産していることから伺える。
例えば綱利の側室仁田氏は、天和2年熊本で伊津(清水勝貞室)を出産し、貞享4年江戸で嫡男・與一郎を、元禄2年には二男・吉利を出産している。
宜紀は21人の子をなしているが、10人が夭折している。そのほとんどがまだ家督前(6子迄)であるという事も面白い。
宜紀には正室は存在しないが、側室は6名が窺える朱書きは江戸生まれ
      ■小野田太郎右衛門女・與幾  1子・竹之助(夭)、3子・亀(夭)、5子・春、名代(夭)、6子・萬次郎(夭)
      ■鳥居氏女・際  2子・倉、蔵(夭)、4子・八三郎(夭)、8子・富(夭)、10子・宗孝、12子・彌々、喜和(宗対馬守義如室)、
              14子・照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)、21子龍五郎(夭)
      ■(姓氏不詳)  7子・村(夭)

      ■安野氏女・民  9子・勝(夭)、11子・八代、花(松平讃岐守頼恭室)、17子・衛世、悦(米田是福室)、18子・津與(小笠原長軌室)、
               20子・興彭(長岡圖書養子・刑部家)
      ■岩瀬氏女・利加 13子・重賢15子・豊、常、岺(織田山城守信舊室)、18子・幾、常、成、錩、軌(細川興里室)
      ■友成氏女・佐衛 16子・紀休

こうしてみると「鳥居氏」「安野氏」「岩瀬氏」等が、江戸と熊本で出産していることが判る。側室たちが「江戸妻」「国元妻」という存在ではなかったことが判るし、大変な旅をして江戸を上下していたことになる。
そのことは治年公の生母・此井(重賢・側室)の話として「船旅に弱くて、中国路をお願いしたが、おしかりを受けて国元には連れて帰らぬぞ」と仰せあったという記録が上月半下の話として残されている。(川口恭子著・重賢公逸話p147)

大名夫人の箱根関所通過について、加藤利之著「箱根関所物語」では、特に細川家の夫人の取り扱いには気を使っていた様子がうかがえる。忠興の話からすると随分時代が下っているが、寛政四年四月、細川治年の没後、その夫人・瑤台院が湯治と称して熊本へ帰国する際に当たってのことが委敷く紹介されている。
女性は「髪改め」がご定方と定められているらしいが、大名夫人らは、御駕籠を関所の上段にあげ、「人見女」が駕籠を開けて中を覗ってそれですませたことが記されている。忠興はそのことさえ、許しがたいことと考えた訳であろう。
切りすてにするには及ばなかったのではないかとも考えるが、戦国乱世の気風が残る時代の荒々しさや大名の気概を感じさせるものがある。
以下の藩主たちにも同様の事が窺えるが、今回はこれまでとする。

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