連日、24時間フル稼働させていたクーラーを今朝ほど消しました。
昨日は外気温が随分下がりましたがそれでも湿度が高くて除湿で動かしていましたが、今日はそれ以上に外気温が下がりました。
今日は22~23度が最高気温だといいますから、7~8度下がって、いつものTシャツ・短パンでは少々涼しすぎて秋仕様の長そで・長ズボンと相成りました。
一週間ほど雨模様の予報が出ていますが、大ぶりの雨ではなく、今朝も曇り空とはいえ明るい空が見えています。
8月の前半はとんでもない暑さが続きましたから、クーラーを切って窓を開けて自然の風を部屋内に取り入れるというのは久しぶりで快適です。
このまま本格的な秋に入ってくれるとは思えませんが、隋兵寒合(ずいびょうがんや)が訪れるという、藤崎宮の秋の例大祭まではまだ三週間ほどありますから夏の戻りが有るかもしれません。
まだまだ油断はできませんね。皆様お身御自愛ください。
草むらでは秋の虫が鳴きだしました。
(元和十年三月)五日
小々性横目ヲ成敗 | 一、小々性衆ノ御横目道休、八つ下刻ニ、御成敗被 仰付候
忠利ノ足袋ノ調整 | 一、御たひ三拾足仕立、相調次第ニ、御跡ゟ江戸へ可差越ノ旨、 御直ニ、藤右衛門ニ被仰付之由候
穂蓼ノ種子ヲ植栽 | 一、速見郡へ、ほたでの種子ヲ取ニ遣、うへさせ置可申旨、被 仰出候事
穂蓼 「たで食う虫も好き好き」の蓼ですが、何にお使いでしょうか?
徒引キノ網 | 一、かち引の網、上方へ持せ被遣候被成御座候ニ付、小早ノ御船頭久兵衛ニ渡ス
| (古保、松井興長室、細川忠興女) (速見郡)
松井興長室ノ人足 | 一、おこほ様中津ニ被成御座候時ハ、木付へ人足ノ儀被 仰遣間無之候間、此方ニ而人足可申付 御
| 意事
金山見分ノ命 | 一、金山へ折々参候而、見つくろいそうろう而、可申付 御意事
| (豚)(山羊)
長崎へ豚山羊ノ用 | 一、長崎へ、ふた・やき取ニ可遣 御意事
諸奉行帳を上グ | 一、前廉、被成御出シ諸御奉行帳、指上ケ申候事
無足人ノ扶持方 | 一、無足人衆ノ御扶持、上ケ申候事
牧場ニハ駄馬ノミ | 一、まき馬参候而、はなしそうろうハヽ、だ馬斗ニて可有之候間、三齋様ゟ参候大かけはなし可申旨、被
三齋ノ大鹿毛ヲ放 | 仰出候事
サシム | 御船頭
大橋鎖上ゲノ御印 | 一、大橋くさり上申候 御印、〇手嶋茂大夫方ニ、相渡申候事
薩摩ヘノ牧馬牽ニ | 一、薩摩へ、牧馬引ニ被遣候時、諸白樽拾四、被遣候事
諸白ヲ持タシム |
| 三月五日 (幸長)
唐人少峯へ貸米二 | 一、少峯、米弐わり半ニ〆かし可被下由、申上候状、野田小左衛門・豊岡甚丞預り申候
割五分ノ利 |
| 三月五日
薮政三ヲ召放ス | 一、薮三左衛門被放御扶持候ニ付、御借米・御懸銀等之事、中津御奉行衆ゟ被申越候状、小左衛門・
| 薮家2代図書弟・2,000石 寛永元年退去、紀州家に仕える
| 甚丞預り置申候事
| 付 (喜左衛門)(平兵衛) (薮正成) (文左衛門)
諸白樽ノ用 | 一、諸白樽ノ儀〇■■■金子・寺嶋方へ遣状一つ、図書所へノ状一つ、長谷部所へ之状一つ、横田権
| 佐ニ言伝遣申事
|
(元和十年三月)五日
忠利出船ス | 一、殿様御出舟、四つ時ニ、御舟ニ召候事
諸奉行等松丸へ移 | 一、諸奉行衆、いつれも松の丸へ移り申候事
ル |
|
(元和十年三月)三日
| (宗茂)
| 一、立花飛騨様ゟ御飛脚参候、則、御返書出申候間、余田忠三郎ニ、持せ遣申候事
| 召し初め
忠利新造ノ船ニ乗 | 一、御舟ニめしぞめ被成候事
初 | (忠政)
森忠政ノ音信物 | 一、森美作様ゟ御使者、萩原平右衛門と申歩之小性参候、杉原三拾束、らうそく五百挺参候、御使ニ
| 壱つ・御道服壱つ
同使者へ贈与品 | 小袖弐つ被遣候事 (吉重)
谷主膳室ニ慶事ア | 一、谷主膳殿御内儀、御よろこび候ハヽ、上方へ御小早可差上候、其時、沢村大学方へ可相尋 御意
レバ上方へ小早ノ | ノ事
用 |
端午ノ帷子ニ出府 | 一、五月之御帷子、江戸へ持下候御奉行、上田忠蔵・村田彦市郎下シ被可申旨、被 仰出候事
ノ奉行 |
鷹師十二人 | 一、御鷹師拾壱弐人御用可申旨、被 仰出候事
鷹山 | 一、御鷹山ニ参候者ハ、定り有之 御意事
| ニ
| 一、森美作様ゟの御使者ニ、舟へ御樽・肴鮑廿、被遣候事
|
(元和十年三月)四日
菊野某草履取 | 一、菊野長十郎ニ被遣ざうり取三蔵、やくニ不立由候間、彼者之おや、当津馬借町ノ孫左衛門返ス由
| 申候て、長十郎内上田弥兵衛つれ来候間、右ノ親ニ相渡候へと、申渡候事
忠利茶屋ニアリ | 一、熊谷平左衛門所ゟ、文箱壱つ、次飛脚ニ而、午ノ上刻ニ参着候を、御茶屋ニ御座候付、本庄宅介
| ニ持せ、進上申候事、御返書、四日ノ酉ノ上刻ニ出ル
立退キシ家臣ヲ連 | 一、中村長右衛門、二月晦日ニ立のき、三月二日ニ下関ニ而、尋相申、召連帰候事
帰ル |
忠利書状三齋宛 | 一、中津ヘノ御書、御歩之小姓被下村六左衛門・星出長五郎ニ持せ遣候
|
共に史談会の会員の澤氏の御作である。「澤家累代の歴史」は澤氏がお宅に残る先祖附その他の文書を10年以上かけて読み下すとともに、関係する所に出かけられたり、またいろいろな器物などの写真を添付し、解説をつけられ見事な出来上りとなっている。
先祖附は文書を特別なソフトを活用して一行づつ切り取り、そのわきに釈文と読み下しを並列するという手の入れようである。
10年かかったというのは、この特別なソフトを縦横無尽に使いこなすのに時間がかかったようだ。
284頁の及ぶ大部で県立図書館に寄贈されるようだが、和綴じ製本も含めて自力で作られたというから驚き・・・その出来ばえに専門家が驚かれていると聞く。
今一冊の「ヒマラヤの東西を分ける世界のドングリ文化」は環境デザイナーという御仕事柄もあろうが、趣味の世界に入られて、世界のドングリ事情を調べるために海外旅行を度々重ねられて、今や世界のドングリ研究者とも交流をもたれるドングリ博士ともいうべきお人である。
6月の史談会例会で世界のドングリ事情をお話しいただき、大好評を得た。企画者として大いに鼻を高くしたところである。
この冊子は、その折の資料をまとめられたものであり、御恵贈を給わった。
少々遅きに失したが、ここにご紹介し御礼申し上げる。
史談会でお話するのに史料として取り出した「天草島原の乱」関係書籍其の他が、デスク横に積み上っている。
そろそろ本棚に戻さなければならないが、改めて眺めてみると結構ある。
・上妻文庫 三齋公江志方半兵衛言上之覚
・細川家家記 忠利公
・図録 新資料による天草島原の乱
・戸田敏夫著 細川家史料による・天草島原の乱
・上天草市・大矢野町編3 天草島原の乱、その前後
・五野井隆史著 敗者の日本史14 島原の乱とキリシタン
・北野典夫著 天草キリシタン史・十字架の旗の下に
・今村義孝著 近世初期天草キリシタン考
・志村有弘訳 島原合戦記
・煎本益夫著 島原の乱 (島原・天草の乱 単行本)
・石牟礼道子著 完本春の城
「志方半兵衛言上之覚」の読み下しに着手したが、こちらは240頁ほどある。
完本・春の城は899頁に及ぶ大部、紀行・草野道と春の城の二部構成になっていて、お目当ての「春の城」が151~764頁に及んでおり、只今チャレンジ中、読了はいつになりますことやら。しばらくは天草島原の乱から手が切れそうにない。
(元和十年三月)二日
大田某等知行替 | 一、大田八郎右衛門・藤本勘五郎・竹原市蔵・窪田善介・安井太右衛門、此五人知行替被遣候、免な
免平均ノ書物惣奉 | (田中氏久)(加藤)(西郡清忠)(浅山) (横山重嘉) 扌に只(控)
行知行方奉行五人 | らしノ書物、猪兵衛・新兵衛・刑ア・清右衛門・助進、五人ノ判形にて遣候、■猪兵衛・新兵衛
ノ連判ニテ出ス | 所ニ在之
惣庄屋加木野某へ | 一、下毛郡惣庄や加木野與兵衛ニ、御知行弐十石被遣候、 御書出渡申候事
知行二十石ノ書出 |
| 一、安藤権十郎・大村伝吉、両人三人扶持ニ、拾石つゝニ而、被 召出候也
天主俵給与 | 一、上田忠蔵ニ、御天主俵拾俵被遣候事
田中某へ御暇 | 一、田中五郎兵衛ニ、御暇被遣候事
| 3代政基 左弟(政有)
| 一、薮右衛門・同嶋介ニ、 御意旨申渡候、則、御請申上候事
| 一、新参被召置候権十郎・伝吉ニ、歩之衆なみニ御かし銀・遣銀可相渡旨、菊野長十郎被申候由、御
| 横目之兵次被申候事
| 一、平井五郎兵衛ニ、住江武右衛門屋敷被遣候事
| 一、田中五郎兵衛■知行、団左兵衛ニ被遣候事
| (延俊)
| 一、木下右衛門尉様ゟ、御飛脚参候、則、御返書出申候事
十郡ノ横目巡見ニ |
小荷駄一疋宛ヲ与 | 一、福田善右衛門、御郡廻り候時ハ、小荷駄壱疋つゝ申付、可遣旨、被 仰出候事
ウ |
松平忠直へノ横目 | 一、豊後御横目衆ゟ之御文箱、次飛脚ニ而参候、三月二日ノ巳ノ下刻之状、同戌ノ上刻ニ参着候、則、
ヨリ来信 | 御返書出申候事
|
参考:秀忠大御所期の豊後府内目付について(上)
秀忠大御所期の豊後府内目付について(下)
三月朔日
| (松井興長)(有吉英貴)
| 一、御舟頭中村二郎左衛門尉罷下候ニ、式ア少殿・頼母佐殿ゟ、御文箱壱つ上り申候事
| (薜)
唐人薜少峯借米 | 一、少峯米之儀、御貸付被成被下候様にと、申越候、利分之儀ニかまひ不申候由、申越事
田川郡上下共ニ奉 | 一、田川郡上下分テ被 仰付候へ共、上下共ニ、両人ニ而可申付候旨、被 仰出候、則、林與兵衛ニ
行林與兵衛等二名 | 申渡候事
| (景広)
| 一、村上八郎左衛門百性之出入、相済申候事
| (造作銀)
造作銀ハ算用所ニ | 一、造佐銀、以来、算用所へ指置候而、可相渡旨、被 仰出候事
テ渡ラシム |
| (朽木昭知)細川幽齋実兄・三淵藤英の息
| 一、三淵與七郎殿内衆下候ニ、式ア少・頼母佐言上之文箱、一つ差上ケ候事
在所へ賜暇願 | 一、大村久兵衛、在所へ御留守ニ参度由申候間、日限相定、可遣旨、本庄久太夫を以、被 仰出候事
| (掘)
金銀ノ鏈掘当ノ時 | 一、金銀ノくさり堀付候共、其まゝほらせ候て、江戸へ注進可仕旨、被 仰出候、慥成せうこ見届不
ノ措置 | 申候内ニハ、無用之由、 御意候事
| 一、小谷忠次郎家指図事
松野親家ノ明屋敷 | (松野親家)
借用希望者ヲ募ル | 一、利根川道孝明屋敷かり度と被申候候ハヽ、かし可申候、望もの有之ハ、其時は宿替可被申事
・はじめ田原常陸介親家。大友義鎮の二男。大友家没落後剃髪して松野道孝と改む。慶長六年忠興に召出され、三十人扶持、合力米百石。
寛永十八年三月二十五日歿。利根川道孝ともいう。松野親盛(半齋)は弟、親英(織部)は子。(御家中傳系)
明家ヲ籤取 | 一、明家共ハ、則、直段相究候而、望候もの候ハヽ、鬮取ニ可申付、御意事
| 一、岩崎太郎兵衛儀、其まゝ置可申旨被 仰出候事
永良長兵衛加増 | 一、永良長兵衛ニ、御加増被遣候事
| (直純) かんノ
有馬直純使者 | 一、有馬左衛門尉殿ゟ、御使者■菅行恵
| 一、団左兵衛罷下候事
|
天草島原の乱に関する史料として、通称「志方半兵衛言上之覚」と称する史料がある。
原本がどこに在るのかは承知しないが、熊本県立図書館には次の三件の写本が収蔵されいる。
上記写真は「佐田文書71 志方半兵衛有馬陣中より吉田ニ被成御座候三齋様江言上之書翰写」である。
その他 1、雑撰録54 志方半兵衛言上之覚
1、上妻文庫47 同上 がある。
雑撰録は宮村典太が佐田氏から借り受けて書写したものである。
上妻文庫は雑撰録をさらに上妻博之氏が昭和11年12月26日から昭和12年正月6日にかけて書写されたものである。
122葉244頁に及ぶ大部である。
細川立允(立孝)は三齋の陣代として出陣するが、志方半兵衛をして寛永14年12月12日付を第一便として、当時京都の吉田山にいる
三齋に島原の乱の顛末を随時報告している。
つまり「志方半兵衛言上之覚」とは戦況報告の書簡集である。
余りの大部であるため、さらりと目を通しただけで釈文も作っていないが、そろそろチャレンジをしながらご紹介していこうかと思っている。
新たな知見が得られるかもしれない。
借りていた本が返す日を超えていた。暑いけれど返すばなるまいとて、午前中すでに炎天の中を自転車で出かける。
本を返し、資料として数十枚のコピーをして、本は借らずに退館。
帰りには、健軍神社前にあった、西南戦争開戦時に熊本隊が出発したとされる場所が取り壊されているという話を聞いて、確認のためによってみる。
たしかに完全に撤去されている。
反対側にあった「出陣の碑入り口」の標柱が基礎もろとも動かされて置かれていて、かろうじてこの木立がその場所であったことを表している。
どこへ動かしたのだろうか。出陣したのはこの場所なのだから、どこかへもっていくという訳にはならないはずだが・・・?
狐に化かされたような話ではある。
22京都郡惣庄屋稲光某 |
申状案 | 申上覚
牢人ヲ開拓ニ移住 | 一、八田山と申新在所へ、牢人〇去年ゟ御郡奉行衆へ申上、うつし置申、田畠壱町見立、開可申候間、
セシム | 御米三石御かし被下候ハヽ、当秋、加四わりヲ上納可仕候事
| 等 権現
等覚寺山伏役儀免 | 一、京都郡ノ内、登覚寺と申山ニ、護見御座候ニ付、山伏弐人居申候、彼山伏申候ハ、作高三拾石ほ
除ヲ願ウ | と御座候、此御役儀御ゆるし被下候様ニ申上候、左御座候ハヽ、せかれとも山伏ニ仕立、彼登覚
| 寺たいてん不仕様ニと、申上候
| 一、登覚寺山御給人ハ、深野左介・荒見弥太夫御知行ニて御座候事
| 右之前、可然様ニ被仰上可被下所、如件
| 京都郡御惣庄や
| 元和拾年正月十九日 稲光五郎兵衛
| 白井兵助殿
| 宗像清兵衛殿
|
惣奉行等用状案 |
忠利裁許 | 右表書之通、白井兵助・宗像清兵衛得 御諚候ヘハ、被 仰出趣之事
| 一、八田山之牢人ニ、御米三石かし可申之旨、被成 御意候間、借状を調、請取可申候事
鍬下年季ハ六年 | 一、八田山開、申年季之儀、御郡奉行衆と吟味被仕、於悪所は、先年御定之ことく、六年目ニ御年貢上
| 納可被仕事
山伏ノ役儀ヲ免除 | 一、登覚寺ノ山伏ニ、御公儀約之分は、被成 御赦免候間、丈夫ニ作可被申付候事
ス |
| 元和拾年正月廿一日 西郡刑ア
| 浅山清右衛門
| 横山助進
惣庄屋稲光某宛 | 御惣庄屋五郎兵衛との
|
| 小六連島(馬島)
惣奉行等用状案 | 一、こもつれ嶋ニて、田地七、八段程、長門之内、大もつれゟ開申、来年ゟ御百姓を仕すへ、人家を
別件 | も立申へきと、申者有之由候、しからハ、竹木をも可遣候、免相之事ハ、彼開申所見届申上、以
| 来共ニ、かのもの共かんにん続候様ニ可申付候間、其通申聞せ、右やくそくのことく、嶋中いか様
| 成共ひらき、以来、御百姓ニなり立候様ニ、可被申渡候、以上
| 元和十年二月四日 西郡刑ア
| 浅山清右衛門
| 石原二右衛門殿 横山助進
|
今回を以て22件の「申状案」は終了しました。次回からは元和十年三月以降の「萬覚書(奉行所日録)」を取り上げます。
かっての肥前有馬氏の居城・日野江城跡である。有馬氏の縣(延岡)転封後入国した松倉氏も、森岳城(島原城)が完成するまでは、この城を居城とした。
所領40,000石身の丈に合った御城であったろう。
400年にわたりこの地を統治した近世初頭の有馬氏の時代は、自らが切支丹でもある有馬氏と共に、多くの切支丹住民が穏やかに過ごしていた。
すべては松倉氏の入部以降の苛政がこの地の住民を塗炭の苦しみに貶めた。
有馬一揆の舞台となった、南島原市の現在である。
21京都郡惣庄屋等申状 |
案 | 申上覚
永荒新地 | 一、御帳ニ付申候永荒・新地之内、所ニゟ悪敷所ハ作仕候而も、種子米ほとも毛上出来不申ニ付、荒
種子米ホドモ毛上 | シ置申候、御年貢米弁上納仕、御百姓迷惑仕候間、御百姓勝手次第ニ、所をひきかえ、開申様ニ
ナシ 開変ヲ願ウ | 御ゆるし可被下度く事
| 一、御郡中ニ、御為ニ成申儀御座候ハヽ、重而吟味仕、可申上候所、如件
| 元和十年正月十九日 京都郡御惣庄屋
| 白井兵助殿 雨窪二郎右衛門
| 宗像清兵衛殿 同 堅島四郎左衛門
| 同 岩熊孫兵衛
|
惣奉行用状案 | 右表書之通、白井兵助・宗像清兵衛得 御諚候ヘハ、御郡奉行衆と立相、勝手次第ニ、開替可申
| 之旨、被 仰出候間、被得其意、可被申付者也
| 元和十年正月廿一日 西郡刑ア
| 右ノ惣庄屋三人へ 浅山清右衛門
| 横山助進
|
久々に復帰再開しました。
■貫 尚八(100石)は「貫 角太郎家(南東11-14)」の7代目で「御小姓組・落合弥次兵衛組・御給仕根役」を勤めた。
家紋は「子持ち丸に七曜」紋である。
■小笠原大部(6,000石)は【丹後以来】の家で、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡流家(備前家)の「小笠原七郎家(南東13-3)」の8代目・美濃長頭
(養子・7代目長栄の実弟・唯之助・大部)である。
別禄千俵で用人を勤め、享和元年十一月兄の跡を継いで跡目し、大目付・中老職・家老職等を歴任し、文化十一年致仕、隠居料百人扶持
家紋は「三階菱紋」である。
■小笠原庄左衛門は「七郎家」の初代・備前長元(長基)の二男庄左衛門・長昌の流れである。丹後以来「小笠原夫五郎家(南東13-4)」の6代・泰助(庄左衛門)か。
家紋は本家同様の「三階菱紋」である。
■小笠原一学は同上二家とは全く異なる小笠原多宮系(細川忠利夫人保寿院の実家、小笠原秀政流)で、「小笠原一学家(南東13-5)」の5代・一学か、家督知行千九百石、大組付、比着座、留守居番頭 天保十一年正月歿・五十二歳
家紋は「丸に三階菱紋」である。
■大木弥助は、加藤清正に近侍して著名な大木弥助兼友の子孫である。「大木摠馬家(南東13-1)」の7代目・弥助兼福(実五代舎人兼秀子)である。
寛政十年七月跡目相続 中着座、番頭、備頭 文政十二年二月致仕、文政十三年十二月二十六日歿・六十二歳。
家紋は「子持ち隅切り角」「浜洲」である。
■大木弥七右衛門は、同上摠馬家の二代・舎人の弟・七右衛門を初代とする「大木桃次家(南東13-2)」の5代・弥七左衛門(七右衛門)か。
御留守居御切米取触頭・大組頭 五百石
家紋は「子持ち隅切り角」は本家同様、今一つは誠に珍しい家紋で名前を知りえない。御存知の方のご教示を給わりたい。
■大城多七郎については同名の人物が先祖附の索引の中に見当たらない。多十郎の誤植ではなかろうか。
多十郎であれば「大城多十郎家(南東13-19)」があり、その5代目であろうと思われる。
「大城壺梁 名は煥、字は文卿、多十郎と称し、壺梁と号す。初め微賎の者なるも学問勝れ、時習館助教となり禄百石を受く。
又詩文及び書を善くす。壺梁先生遺稿あり。文化八年七月二十五日歿す。年七十一。墓は柿原山にあり。」
家紋は「八段鞠挟み」今一つは文字紋であろうが詳細を知りえない。
■大山元格は医家「大山元保家(南東56-7 医)」の4代目・元格(玄格)触役触・本道鍼科兼 高百石之御擬作
家紋は「子持ち丸に四つ石紋」「子持ち六角に四つ□?」
■大塚藤右衛門は「大塚源次家(南東14-18)」の5代目・源次郎(藤左衛門)の事だと思われる。
3代に同名の丹左衛門久成(藤左衛門)が居るが、横井小楠などに大なる影響を与えた朱子学の「大塚退野」である。
家紋は「四方滕(ちきり)」か
■大塚仁右衛門は「大塚平太郎家(南東14-19)」の4代目か。
家紋は「・・・」勉強不足で知りえません。御存知の方はご教示ください。
■大塚七兵衛は「大塚五郎家(南東14-16)」の6代目の七兵衛(金右衛門)御知行取諸御目付 百五十石または7代目の猪久太(七兵衛・五郎右衛門)のどちらか?
人物の特定ができない。家紋は上記平太郎家と同様である。
■大浦嘉平次は「大浦嘉太郎家(南東55-14)」の5代目である。
家紋は、「隅切り平角に四ツ目結紋」である。
■大塚勝助は「大塚為三郎家(南東14-21)」の6代目である。
家紋は「左巴紋」下の家紋は絵柄が判然とせずよくわからない。
■大塚瀬助は「大塚甚太郎家(南東14-22)」の5代目である。
上の家紋はアレンジがすごく名前についてはよくわからない。今一つは「巴文字紋」
■小山善十郎については「細川家家臣略歴」に名前を見つけ出しえない。
家紋は「隅切り角に扇紋」
■小山万次についても「細川家家臣略歴」に名前を見つけ出しえない。
■大槻謙太は「大槻忠太家(南東15-12)」の 4代目・哲太(謙太)三百石当時百五十石
名は清通、好んで周禮を讀む。斎藤、境野等と犬追物を興すに與りて力あり。文化六年五月廿六日歿す。年五十二。
家紋は「丸に三つ地紙」
■大槻三郎助は「大槻軍五家(南東15-14)」の5代目である。
家紋は「丸に二つ地紙」、忠太家と同族である。
■大槻勘十郎は丹後以来の「大槻勘十郎家(南東15-13)」の6代目、上記二家とは祖を異にする。
家紋は「丸に井桁に三?」「丸に木瓜」紋である。
20筑城郡惣庄屋両名申 |
状案 | 申上覚
加子役上ゲ役ノ内 | 築城郡之内、椎田村・湊村・松江村之儀、御加子役・あげ役仕候故、御百姓迷惑仕候、一方御免被
一方ヲ免ゼンコト | (桁)
を願ウ | 成下候様ニ、被仰上可可被下候、以上
| 元和拾年正月十五日 御惣庄や
| 椎田與右衛門
| 同
| 角田彦右衛門
筑城上毛郡奉行宛 | 西郡刑ア少輔殿 佐藤半介殿
惣奉行等宛 | 浅山清右衛門殿 堀江半兵衛殿
| 横山助進殿
|
惣奉行等用状案 | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事
忠利裁許 | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニ賃米弐升宛被遣分ハ、御さい米ニ指次、水夫手前へ不■■取段、無
| は ニ 子
| 紛候間、兵粮米〇前廉のことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀壱人ニ付、拾五匁宛之分をも、此方
| 可 事
| ゟ披遣候然上ハ、陸役之内、用水普請、道作、御荒仕子からの事、万小遣ニ申付候、夫からの
| 事、右拾人之水夫手前之分、被成 御赦免候事
御菜米免除 | 一、御さい米、免被遣事
| 元和十年正月十六日 西郡刑ア少
筑城上毛郡奉行宛 | 堀江半兵衛殿 浅山清右衛門
| 佐藤半介殿 横山助進
|
熊本史談会で「天草島原の乱における高名の証拠状」を取り上げた後も、少々引きずっており離れられず、未読の本や資料を引っ張り出したり、またweb検索をしたりして新資料を発掘している。
有馬の寺沢氏の苛政はさることながら、唐津藩・寺沢氏の飛び地天草における「苛政」と伝えられる治世が如何なるものであったのか、私は勉強不足でよく理解できていない。
実勢20,000石ほどの地で40,000石として課税を続けた「苛政」として農民らが四郎時貞を首領と仰ぎ蜂起している。
この農民のほとんどが切支丹であったため「切支丹一揆」とよばれる所以である。
結果として、ガラシャ夫人の甥にあたる三宅藤兵衛も唐津藩・寺沢氏の城代として「富岡城」に入っているから、責任は免れ得ない。
ちかい縁戚(従兄弟)である忠利としても、天草における一揆は心を悩ませたことであろう。
寺沢氏は天草領を取り上げられたが、本領唐津においては苛政という訳ではない。
しかしながらこのことが自ら死を選ばせて、寺沢氏は大名家として絶家することになる。
いろいろ調べていると寺沢氏と三宅氏は妻木氏を通して親族関係であることが判る。
明智光秀夫人が妻木範煕女氏だから、当然三宅藤兵衛にも濃い血が流れている。寺沢氏は寺沢広高夫人が妻木貞徳の娘であり自死した堅高は正室の子らしい。
三宅藤兵衛は寺沢氏と親しい安田国継の肝煎で寺沢氏に仕えることになるが、妻木氏を通じての因縁もあり、細川家の庇護を離れたのだろう。
血のつながりは別として、松浦氏の苛政に加担する結果となり、切支丹を弾圧して一揆を誘発させた。
そして死に至ったことは、不本意な事であっただろう。
乱後の天草には山崎家治が入部して42,000石を受け継ぎ、農民の移入に尽力した。
山崎家はその功がみとめられてわずか三年で丸亀に加増移封されている。
のちに天草は天領となり、鈴木重成が代官として活躍するとともに、検地をおこない石高を実勢(21,000石)に見合うように半減を幕府に進言し、これが実現した。
これ等の事を幕府に上奏するにあたり切腹をしたと伝えられる(異説も有るが)。
天草の農民が鈴木氏をして「神」とあがめる所以である。