「新・肥後細川藩侍帳」の改定作業の中で、現在「魚住氏」でうろうろしている。
播磨屋さんの「武家家伝 魚住氏」によると、魚住氏は「播磨国明石郡魚住」に住していたとされる。
細川家には三つの流れの魚住氏があるが、三流とも播磨との関係は見て取れないが、いずれにしてもその出自はそうなのであろう。
一つの流れは青龍寺以来の「魚住市正昌永」を祖とする「魚住万之允家(南東31-18)」と「魚住格助家(南東31-19)」である。
市正昌永 若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行
百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家
来残居候者共相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、高麗陳其外所々御陳
之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄砲十五挺御弓十五張の頭被仰付候、
豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、
御知行千七百石御加増、都合二千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死
いま一つは丹後以来の「魚住加賀(右衛門兵衛)」を祖とする「魚住勝門助家(南東31-21)」「魚住武兵衛家(南東31-20)」「魚住太郎家(南東31-22)」の三家である。
加賀(右衛門兵衛)
丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節(立石表於鑓下)之御加増千七百石都
合二千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄砲五十挺御預被成候、其後病死
木付に於ける戦功に対し黒田如水から右衛門兵衛への感状 (綿考輯録・巻十五)
一昨日之御働、手柄之段、松佐州・有四郎右御物語候、於拙者満足不過之候、
今日爰元相済候而、明日其地参、面を以万々可申入候、恐々謹言
九月十五日 如水軒 書判
魚住右衛門兵衛殿 参御宿所
右衛門兵衛(加賀)の御子孫にはご厚誼をいただいており、黒田如水の感状を家宝としておられる。
魚住太郎家の9代・勝熊(源次兵衛・勤)三百石・御鉄炮頭
魚住 勤 名は勤、初名は良之、又眞郷と云ひ、源次兵衛と称す。世禄三百石、
藩に仕へ鉄炮頭となる。林櫻園に学びて国体の学を修め、又剣槍及び射を善くす。
我が藩に於ける古勤王の巨頭たり。威信の際に於て勤王党一方の領袖として国事
に盡瘁せり。明治十三年九月歿す。年六十四。墓は上益城郡白旗村にあり。
遺著山陵遥考あり。明治三十五年一月従四位を贈らる。
あと一家どちらの流れにも属さないと思われる「魚住助左衛門家(南東31-23)」もある。郡代などを勤め200石。
付けたし:
さて、NHKのアナウンサー・魚住優氏(福岡局)は女優・浅野温子さんの一人っ子で、父親は作詞家の魚住勉氏であり、勉氏は熊本のご出身、ご先祖様はどちら様なのか、いまだ手掛かりが掴めずにいる。
ファミリーヒストリアで取り上げてもらえないかしら・・・