津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(440)寛永六年・日帳(八月廿四日~廿六日)

2020-12-24 10:45:13 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)廿四日~廿六日

         |                
         |    廿四日  安東九兵衛   
         |
清心円一貝ヲ伊藤 |一、伊藤金左衛門ニ被遣清心円一かい、御封ノまゝ、金左衛門内櫛坂孫右衛門ニ相渡候、
金左へ渡ス    |                         伊藤金左衛門内
請取       |                            櫛坂孫右衛門(花押)
三斎ノ上洛延期ヲ |一、三斎様御上洛相延候間、其心得被仕候へと、鏡善右衛門・白井兵介に申渡候事、
船頭惣奉行へ告グ |
神西某別苻へ湯治 |一、桑原主殿・神西與三右衛門尉、中津へ参上仕候由被申候、與三右衛門尉ハ豊後之別苻へ湯治仕見
         |                 (長門豊浦郡)
         |  可申候、別苻ニ而快気も無之候は、俵山へ湯治可仕と存候通、被申候事、
         | (曽根村、規矩郡) (同郡)
曽根・今井・大橋 |一、そね・今井・大橋御作事之儀、河田八右衛門尉ニ申渡候事、
村作事ノ命    |    (中津郡)
筑前へ走リシてん |一、一昨日、東小倉ノてんりうの小者筑前へ走越候ヲ、今村之新百姓とらへ来候ニ付、右ノ小者さ
りう寺小者一件  |  し候て居申候大わきさしヲ壱腰、右とらへ候百姓ともニ為褒美遣候也、請取切手をとり、御闕所
         |  奉行大靏六左衛門尉・波多里右衛門ニ渡置候也、

         |                
         |    廿五日  奥村九兵衛   
         |                                    (貧僧)
走リシてんりう寺 |一、吉田縫殿登城ニ而被申候ハ、てんりうノ小者町籠ニ入置申、坊主賄費仕候、ひんそうの儀候間、
小者町牢ニ入レ坊 |  何共めいわく仕由、被申候間、急度御誅伐被 仰付候儀にと被申候事、
主ニ賄セシム   |
町奉行坊主迷惑故 |
誅伐ヲ望ム    |
         |  (上毛郡)    宕
求菩提山中坊愛宕 |一、求菩提山中坊愛岩堂をたて申候間、材木拝領仕度由被申通、御郡奉行を以被申候間、御年寄衆へ
         |              (松井興長)
堂ヲ建ツルニ材木 |  も其段被申候へと申候処、式ア殿へ申上候ヘハ、御奉行衆へ今日も可被成御談合候へ共、今日は
拝領ヲ願ウ    | (清田乗栄)                 (沢)
家老ノ裁定ニ異見 |  七介殿へ御用御座候而被成御出候間、則少兵衛参候而、此段申候へと被仰候由被申候、此方申候
ハナシ      |  ハ、御家老衆ゟ遣し候へと被仰上ハ、申分有之間敷候由、申渡候事、
三尺斗リノ打物ニ |一、鍛冶仕事ノ内ニ、弐尺四五寸、三尺斗之打のへ申たる物之ニ、刀ゟ直段たかきもの有之様ニさた
刀ヨリ高直ノ噂  |                           〃
鍛冶ノ直ノ吟味ヲ |  御座候間、左様之直段之儀能々吟味被仕候へと、直段奉行衆へ申渡候事、
直段奉行へ命ズ  |

         |                
         |    廿六日  安東九兵衛   
         |                  (元次)             (与脱ヵ)
江戸ヘノ飛脚持上 |一、江戸へ之御飛脚、今日出船仕候、芦田與兵衛与矢野清右衛門・続亀助安藤市右衛門也、右両人持
リシ物ノ覚    |                              (重政)
         |  上り申候物覚
         |  一、三斎様ゟ 越中様へ被進候御返書 御文箱一つ幷 三斎様ゟ、江戸にて清田九一郎所へ被遣候
         |    しふかミ包ノ小箱壱つ、
         |  一、中津御奉行衆ゟ、三斎様大坂御蔵本御奉行衆へ被遣候状壱つ、
         |    (浅山)(田中氏次)
         |  一、修理・兵庫言上壱つ、
         |  一、金山之衆言上壱つ、
         |  一、伊藤金左衛門言上壱つ、
忠利書状下ル   |一、江戸ゟ御飛脚両人、寺本八左衛門与久野弥兵衛・山河惣右衛門与内田七左衛門、今日下着申候、
大阪ニ詰小早ナク |  我々共へ之 御書成被下候、大阪ニ詰小早無之候て、かり小早にて罷下候也、江戸を去十五日ニ
借小早ヲ用フ   |  立、大阪へ廿日ニ着、其まゝ大坂ゟ廿日ニ出船仕候事、
飛脚ノ行程    |
         |                               (三淵重政)(松井康之女)
         |一、右ノ御飛脚中津御奉行衆貴田権内・高橋兵左衛門へ之 御書壱通、右馬助殿御内へ 御書壱通持
         |  参候事、
請取       |一、右馬助内へ被成下 御書壱通、私請取申候、 右馬助内
         |                        竹内市兵衛(花押)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■久しぶりの雨模様

2020-12-24 09:57:36 | 熊本

 雨が随分降らなかったせいで、乾燥しまくっていたので、わが家では加湿器が活躍している。
そんな中、今日は小雨ながら11月22日以来久しぶりの雨模様である。大した降りではないが、傘をさしての散歩はちょっと腰が引ける。
お昼からの具合をみてのことにしよう。
それでも買い忘れている、年賀状を買いに出かけなければならない。

奥方が買い物に出かけないかと、声をかけてみようかとも思うが、これは自分で出かけずばなるまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(439)寛永六年・日帳(八月廿ニ日~廿三日)

2020-12-23 09:35:48 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)廿ニ日~廿三日

         |                
         |    廿一日  安東九兵衛   
         |
三斎隼ヲ召上グ  |一、当地御鷹師衆打申隼壱居、 三斎様ゟ被 召上ニ付而、今朝次飛脚にて持せ遣候事、
         |  (規矩郡)
筑前へ走越シてん |一、今村之新百性又右衛門尉・助市と申者両人にて、筑前へ走候もの壱人とらへ来申候、いつれの
りう寺小者ヲ捕ウ |  ものにて候哉と尋候処、てんりう所ニ居申ものゝ由申候、彼ものさし居申わきさしヲ、為褒美、
走小者ノ脇差ヲ褒 |  右両人之百性ニ遣候也、但、請取切手をさせ、大靏六左衛門・波多理右衛門ニ当させ遣候也、
賞ニ与ウ     |
闕所奉行宛請取  |
忠利ヨリ三斎へ音 |一、江戸ゟ、杉山藤兵衛与野坂茂太夫・御長柄衆壱人、江戸ゟ只今参着申候、三斎様へ御文箱壱つ、
信 鮭ノ簀巻   |  鮭之すまき壱つ被進之候、則右両人ニ待せ候て、中津へ上申候事、
         |一、右ノ御飛脚ニ我等共へも 御書成被下候事、
誅伐       |一、うさ郡ノ渡茂介、今日誅伐申付候事、
         |                      (三斎側室、郡氏、松井興長室ノ母)
松井興長臼野村ニ |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候は、松丸様御らんとう仕候ニ付而、国東郡うすのにて石
テ松丸ノ石塔ヲ切 |                          (卵塔・無縫塔 
出サシム     |  とうを切せ申出候、左様ニ御座候ヘハ、うすのハ中津の御預入ましり候て在之由承候、式ア少輔
         |  殿御状斗にて埒明か申儀にて御座候や、様子相尋申候由、被仰越候、此方ゟ申候は、式ア少輔殿
         |  ゟ国東郡御郡奉行まて被仰遣候ハヽ、相済可申候間、左様ニ御心得可被成候由、申候也、
         |
                             
                           無縫塔(塔身が卵型をしている事から卵塔ともいう)
                (元明)
使者客人賄奉行暇 |一、住江甚兵衛登城ニ而被申候は、今程は別ノ御用茂無御座候間、此すきニ知行所見廻申度由、被申

ニ付知行所見分ヲ |  候間、御家老衆へ御出候而、右之通被仰付而、御知行所へ可有御越通、申渡候也、
願フ       |
誅伐ニ様斬    |一、今日之御誅伐もの、御大わきさし四腰ためし申候処、四こしともニ胴落申由、田中理左衛門被
         |  申候事

         |                
         |    廿二日  奥村少兵衛   
         |
宇佐郡新地永荒検 |一、うさ郡新地・永荒御検地之儀ニ付而、中津御領と小倉御領との出入之儀、御検地御奉行衆志水次
地ニ中津領トノ出 |  兵衛・蒲田賢斎へ様子被相尋、事済候処、又山村弥一右衛門中津へ参、蒲田ゟ状なとを取、又中
入 事済ミシヲ惣 |  津御領と小倉御領とノ出入之儀相尋、一つ書を仕、此方へ差越申ニ付而、御郡奉行宗像清兵衛を
庄屋差出ルハ不届 |  よひよせ候て、御郡奉行ノ可被存儀を、弥一右衛門尉かやうニさし出候事不届儀候間、清兵衛も
         |  中津へ被罷越、様子くハしく可被相極候、左候て、其次而ニ、重而も弥一右衛門かやうの儀さし
         |  出、いかやうの事を申候とても、■■御承引有間敷候通、委申届可被置由、清兵衛ニ申渡候事、
         |(ママ)
         |一、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■残念な司馬遼太郎の「謀殺」なる一文

2020-12-23 08:24:43 | 書籍・読書

 司馬遼太郎の文章は大変明快で確定的でテンポが良く、読むものを飽きさせない。
多くの愛読者を魅了する所以でもあろうが、読後に違和感も残るのは何故なのだろうか。「司馬史観」という言葉があるが、このマジックに引き込まれないようにしなければならない。
史実と異なるシーンを、まるで真実のように場面展開していく。一瞬これが本当なのかもしれないと錯覚させる。
例えば、彼の著「余話として」の中に、細川忠興が妹婿・一色義有をだまし討ちにした事件を「謀殺」という小文にしている。

それは、義有を新妻・細川伊也(忠興妹)の目の前で殺したというくだりである。それも結婚三日目だとしている。
伊也は弓木城におり、細川邸には来ていない。事件後細川勢が弓木城にかけ付、引き取った。
自信に満ちた筆致が小気味よいが、しかし史実とは明らかに違う。
この事件は細川家の歴史の中で、耳をふさぎたくなる汚点である。
それであるがゆえに、史実に近い形で書いてもらいたかったと残念で仕方がない。
読者に影響力ある司馬氏だけに、なんともいただけない作品でとなった。まさか「創作だから」ということはないと思うが?

私は1980年の第十一刷(文芸春秋社)の単行本を持っているが、この文章は最初オール読物に1960年に初掲載されたらしい。
都合20年この間違いに気づく関係者が居なかったのだろう。それからまた40年、現在は文庫本で発売されているようだが、そのままであれば残念の極みではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■長岡左仲宛細川齊茲書状

2020-12-22 20:43:47 | オークション

                       B-692【真筆】細川斉茲 肉筆紙本 書簡 掛軸/大名 熊本藩細川家第八代当主 越中守 古文書 書画                               
             

                 宛先の長岡左仲は、細川刑部家嫡家の7代・興貞、9代・興泰の名乗り名だが、9代目ではないかと思われる。

                         一筆申入候 我等儀
                    去七日出勤今日参勤之
                    御礼申上被
                    上意難有仕合此段為可
                    相述如此候 恐々謹言
                             越中
                                     四月十一日 齊茲花押

                                         長岡左仲殿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(438)寛永六年・日帳(八月十八日~廿一日)

2020-12-22 10:00:55 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十八日~廿一日

         |                
         |    十八日  奥村少兵衛   
         |
三斎ノ中津侍中へ |一、中津衆へ 三斎様ゟ之御借銀帳壱冊、又御借米之運賃帳壱冊、中津御奉行衆ゟ持せ被差越候を、
ノ借銀帳幷借米ノ |  豊岡甚丞・粟野伝介ニ渡申候事、
運賃帳      |
         |     (作)
造作銀惣割苻ノ目 |一、造佐銀惣割苻ニ成申目録壱つ、右同前ニ参候を、中神與兵衛ニ渡申候也、
録        |
鉄櫓ノ下ノ門番病 |一、鉄矢蔵之下の御門番竹内與右衛門、昨日病死仕候由、相番又右衛門申候也、
死        |

         |                
         |    十九日  安東九兵衛   
         |
         |一、糸川長右衛門尉登城にて申候ハ、瀬戸内へ参、今朝罷帰候由ニ而、登城被仕候事、
中国ノ隼落シ所ノ |一、中国にて、御鷹師衆隼おとし申所之覚、書付可申と存候処、しかとしれ不申ニ付而、書つけす
覚書       |  候、重而所しり申度候旨、河井権丞ニ可相尋候間、権丞ニ能被存知候へと、申渡候也、
         |一、泰勝院殿にて、明日ノ御法事ニ、御奉行所ニ御座候御茶遣し申候事、但、御茶道ハ岩正恵三ニ遣
         |  候事、

         |
         |        (ママ)                
         |    廿日    
         |
         |   (房勝)                            (同重政)
続房勝知行所ヘノ |一、続少右衛門登城にて被申候は、少御隙を被下候へかし、亀助知行所へ参度由、被申候間、御家老
賜暇願      |  衆へ其通被仰理候て、可有御越通、申渡候也、
         |
江戸詰ノ掃除坊主 |一、今日、江戸へ差遣申御掃除坊主五人、長斎・宗閑・玄徳・宗古、今一人は新参坊主成、此者とも
持下ル物ノ覚   |  持下候物之覚
         |  一、我々共言上ノ状三つ、
         |  一、金山ゟノ言上壱つ、
         |  一、式ア少輔殿ゟ言上壱つ、
         |      (秀元)
         |  一、毛利■甲斐守殿留守居衆丞之写壱つ
         |  一、らんノ絵壱包、
         |     右ノ分一つ文箱ニ入候也、
         |  一、以策ゟノ返事ノ文箱壱つ、
         |    (蜂須賀家政)
         |  一、蓬庵様ゟノ御返書ノ文箱壱つ、
         |    (阿片)
あひん      |  一、あひん 大文箱ニ入、三百四拾三匁也、
         |  一、其外、江戸御供衆への状共壱からげ、
野牛ノ塩漬糠漬日 |  一、野牛しほ漬、かす漬、ひニほしたるを三色差上候事、
干シ       |
         |  一、真下七兵衛やとゟ、七兵衛かたへ遣被申候かミ包壱つ也、
         |      (畑)
         |     右長斎ニ相渡、遣申候也、

         |                
         |    廿一日  奥村少兵衛   
         |                             (河田)(矢野)
地震屋完工ス   |一、野村孫兵衛申候は、今日まてニ御地震屋悉仕廻申候由申候、八右衛門・勘右衛門被申候は、罷帰
         |  候而、甘候へ之由ニ付、罷帰由、申候也、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後国細川藩平野家文書 一括

2020-12-22 07:04:20 | オークション

             旧家蔵出し【肥後国細川藩平野家文書 一括】熊本藩/武家文書/細川家臣/書状/覚書/手控/家譜/江戸時代古文書

                                     

  平野家は十六家があり判断が難しいが、「差紙」の冒頭部に「平野治部左衛門」とあることからすると、太郎左衛門を祖とする六家の一つ「平野 大家(南東53-13)500石」のものであろう。

 太郎左衛門を祖とする家は、他に「平野太郎四郎家(南東53-9)」「平野嘉門家(南東53-25)」「平野角蔵家(南東53-24)」「平野甚九郎家(南東53-20)」「平野宣太郎家(南東60-22 一代御中小姓)」などが枝葉を広げている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■通り名(通称)と名乗り名(諱)、そして改名

2020-12-21 11:04:15 | 徒然

 「新・細川家侍帳」改訂の作業の中で気づくことは、名乗り名(諱)がそのお宅の全代を通じて記されているのは誠に少数である。
諸家の先祖附をみても、そのほとんどが通り名(通称)のみで記されている。
「細川藩主要家臣系図」をみると、各代は名乗り名(諱)を以て記されており、名乗り名が判らないものについては「某」と表示して通り名が記されている。
我が家に於いても近世8代の中で、名乗り名が判るのは二人だけである。
最後が「安正」その二代前が「安玄(やすひろ?)」である。通名が「安」であった可能性が見える。
安正は通り名が又太郎で、明治になり一人一称となったとき通り名を選んだ。

 明治維新後の政府高官たちは殆どが名乗り名(諱)を使っているが、これは姓名に荘重な感じが得られるからであろう。
大久保一蔵は「利通」となり、西郷吉之助は「隆盛」となった。
もっとも「隆盛」は古い友人の吉井某が言い出した間違いで、吉之助は自ら「隆永が本当だ」といったが、後の祭りで間違ったまま登録されたのだという。
親しい古い友人でも忘れるほど、「諱」は認知されていなかったことが判る。

「諱」は「忌み名」というように、生前には口にすることをはばかったが、維新とともに改まったということであろう。

通り名(通称)に官名由来の「■兵衛」「■■右(左)衛門」などを使っていた人たちは、明治三年の太政官令で、いわゆる官名の使用が禁じられると、一斉に名前を改めることになる。
式部、勘解由、監物、左馬・右馬、内匠・蔵人・大輔・少輔などもアウトである。介・助・亮・弼・丞等も同様だとされたが、これは運用面では重視されなかったように見える。
改名はさまざまであり、名乗り名を使う人もあれば、新たに名前を創出した人もあり、大変興味深い。

高祖父・上田久兵衛は「休」と改名しているが、久兵衛→休兵衛→休と「久」が「休」に代わっていてなかなか面白い。

有禄士族基本帳では旧名と改名が記されているが「なんでこんな名前になさいましたか?」とお聞きしたいほどである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(437)寛永六年・日帳(八月十六日~十七日)

2020-12-21 07:22:01 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十六日~十七日

         |                
         |    十六日  奥村少兵衛   
         |
江戸邸裏方ノ番人 |一、江戸御裏方ノ御番靍田久左衛門尉登城にて申候ハ、今度江戸御浦御番之替ニ、弐番之ものをも可
交替シ鉄門ノ番ニ |  被遣由 御意之通、先度荒瀬角兵衛申渡候、其分に御座候哉、左御座候は、私儀は鉄之御門番被
付ク       |  仰付置候、似合之用意をも仕度候間、御番引申度由申候間、とく引候へと申渡候事、
田町ノ鷲部屋小屋 |一、田町之わしへやの左右小屋かけを仕り、売買仕ニ付、田町のものとも迷惑かり申通、昨日吉田縫殿
懸撤去ノ一件   |      
掃除奉行ヲ尋問ス |  登城ニ而申候、今朝上林甚介をよひ、彼所之小屋かけの様子ハ其方被存由聞及候、 御意ニ而被
諸牢人煙草刻売ヲ |  申付候哉と相尋候処、甚介申分は、 御意にてハ無御座候、町人にても無御座、諸牢人とも、彼所
願フ       |  ニてきさミうりなと仕度由申候、左候而左御座候は、其近所掃除をもきれいニ可仕由申ニ付而、請
         |                 〃〃〃
         |               (由脱ヵ)            
         |  状をとりをき、こやかけ申付候申ニ付、此方ゟ申候ハ、左候は早々のけさせ被申候へ、其子細は、
侍町       |  侍町ノ中ニかやうニ候てハ見苦敷も候、其上田町ノものともめいわく仕儀候、式ア殿も被成御聞
         |  届、のけさせ可然通被仰付候間、可被得其意由申渡候、甚介申候ハ、彼所をのけ申候とも、又いつ
         |  れへも参、小屋かけ仕にて可有之候、きさミうり御法度にて御座候哉と申候間、たとへ小屋をか
豚小屋跡或ハ大橋 |  け、しやうはい仕候とも、御町奉行ニ相尋、ためいけへ出候ぶたへやノ跡なとにも、こやかけさ
ニ小屋懸ハ可ナリ |  せ被申由候間、左様ノ所ニ成共、又ハ大橋なとにても、こやをかけ来候所ニかけ候ヘハ無申事候
         |  間、其分ニ仕候へと可被申付通、申渡候事、
         |     (杉野)
鷹師隼ノ兄ヲ捕リ |一、御鷹師杉木工左衛門尉、隼ノ兄壱■居、うさ郡布津部浦にて取申候由ニ而すへ、登城仕候事、
上グ       | 

         |                
         |    十七日  安東九兵衛   
         |
波奈之丸ノあまほ |一、なミなし丸のあまほうしの儀ニ付而、北前田辺作右衛門尉所へ、西沢文右衛門・戸中左兵衛遣候、
うしヲ北前ニテ調 |  今朝罷帰候、あまほうし何茂調候而、海辺ニ出シ置申候、見届候而罷帰候、此程舟ニ積候ヘハ、舟
達ス       |  ほそく候て、舟をさりわりのミ入申候而、其舟にてハ成不申候而、又陸へ上候而置申候、追付舟
         |  を借候而まわし可申候由、作右衛門申通申候、多分今晩明日わたりハ、爰元着可仕由、申候也、
鷹ノ餌ニ唐鳩ヲ捉 |一、御鷹の餌ニ、爰元ニ居候唐鳩を取せ、遣候筈にて候へ共、とられさるニ付、竹内吉兵衛所へ申遣
ラシム      |  候ヘハ、則鳩四つ自分之をとらせ、被仕上候、四つノ内三つ吉兵衛者持来候、今壱つハ立候而、
餌差       |  とらへ不申候間、御ゑさしを被下候ハヽ、さゝせ可申由、被申候、先三つ仁助所へ持せ遣候、二
         |                   (杉野)
         |  つハ山本三蔵所へ遣可被申候、〆分ハ木工左衛門ニ渡被申候へのよし、申遣候也、
         |             (規矩郡)
郡奉行へ母ヲ打シ |一、小崎與次兵衛よび候而、志井村の母を打申者ノ儀相尋候処ニ、與次兵衛申候は、数度たゝき候
者ヲ尋ヌ     |             (三淵昭和)
         |  様ニ被聞召付候へとも、内匠殿御鷹野時、一度より外ハ打不申候由被申候、則其通書物を茂仕、
         |  差上候由、被申候也、
召直サレシ兄ヲ中 |一、宮崎又市登城にて被申候は、私兄 御前を被 召直候由、中津ゟ申来候、左様ニ御座候は、私あ
津ニ見廻ウ願   |  に所へ見廻ニ参度由、被申候間、早々被参候へと、申しわたし候也、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■500円で購入できるのに・・・

2020-12-20 12:32:59 | オークション

                    宮津という地に居城を拵え 図録
            

 現在お一人の方が応札されていて3,500円なんですが、じつは発行された京都府立丹後郷土資料館にまだ在庫があって、
500円(郵送料別)で購入できます・・・よく調べてから入札しましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ガラシャ幽閉地・味土野の地に関する疑義論

2020-12-20 10:47:27 | 論考

 先にも記した如く、明智光秀の信長弑逆後明智玉(細川ガラシャ)が幽閉生活をおくったのは、現在では京都府京丹後市大字弥栄町須川であるとされている。
これはヘルマン・ホイヴェルス神父によって明らかにされたとされている。しかしこれは歴史学的・考古学的検証はなされていない印象論であろうが、今日ではこれが定説となっている。
一方ウイキペディア「味土野」にもあるように「玉(細川ガラシャ)は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある」

 それが、今年の三月、丹後郷土資料館の資料課長・森島康雄氏が「丹後郷土資料館だより」に発表された論考「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」である。

 森島氏は細川家の公式記録「綿考輯録」の、「丹波ノ国三戸野ト云フ山里迄ゾ返シケル」の記述をはじめ、その他の地誌検証され現在の味土野説を「史実としてはほとんど成立する余地がない」とされる。
氏は「定説とされてもそれほど確かではないものが多い」とされ「本当はどうなのか」という視点が歴史の醍醐味だとされる。

 すっかり観光地化された現在の「味土野」だが、地元の人々には心中穏やかならざるものがあろう。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(436)寛永六年・日帳(八月十三日~十五日)

2020-12-20 07:34:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十三日~十五日

         |                
         |    十三日  安東九兵衛   
         |
蘇鉄ヲ江戸邸へ搬 |一、蘇鉄、江戸へ持せ下候御鉄炮衆佐分利作左衛門尉与左左衛門尉、只今罷下候由ニ而、登城仕候、
送ス       |  林源太夫茂同前ニ罷下候へとも、是は阿波へ御使ニ被遣候而、すくニ阿波へ被参候、二三日之内
京都ヨリ日雇四十 |                                四百
八人銀子壱貫四百 |  ニ、爰元可被罷下由申候、蘇鉄、京都ゟ日雇四拾八人ニ、銀子壱貫〇五■拾目ニ而、江戸へ届申
五十匁      |  候、そてつ江戸へ持せ届申候而、 殿様被成御覧、殊外御機嫌能御座候由、申候也、
忠利殊外機嫌好シ |
         |                       (下関、長門豊浦郡)
北前へ鉄炮足軽使 |一、松本彦進ゟ、北前へ使ニ遣被申候御鉄炮衆乗せ、関まて渡候御■船頭徳嶋八兵衛也、
ス        |
         |         (正直)
田川ヨリ松茸上ル |一、田川御郡奉行河喜多五郎右衛門ゟ、松茸壱籠持せ被越候也、
         |
鉄炮足軽町人女房 |一、吉田縫殿登城にて被申候ハ、加々山権左衛門与之清太夫女をきり、はらをきり申ニ付而、此中せん
ヲ斬リシ一件   |  さく仕候、せんさく未極不申内ニ、かのきられ申女之男、今朝我等所へ参候而申候ハ、色々せんさ
足軽清太夫ハ間男 |  く仕候ヘハ、かの清太夫ハまおとこに相極申候、私儀ハ一所ニ不罷居候故、壱ヶ付ノ内ニも、五三
         |  日も参たる儀無御座ニ付、其段不存、かやうニ成行申儀、面目も無御座仕合候、我等存候は、はたし
         |  可申を無念ニ存候、私腹をも仕ほとに存候へとも、女無所存候とて、男腹をきり申たる例も無
町人女房ヲ殺スヲ |  御座候間、不及是非候、然上ハ、女を私手ニかけ申度存候間、其分ニ被 仰付被下候へと申候、
願ウ   許可ス |  いかゝ可有御座哉と灯申候間、其分可然候条、ぬし手ニかけ候やうニ可被仰付通、申渡候事、
松井興長筑前ヨリ |一、筑前ゟ、廿四五ニ成申小者壱人走参候、則式ア殿へ被召抱候事、
走来ル小者ヲ抱ウ |

         |                
         |    十四日  奥村少兵衛   
         |
三斎中津侍中へ貸 |一、三斎様ゟ、中津御侍衆へ御銀米御借付被成候分、御帳弐冊被相調、爰元御借米奉行衆へ取立可申
付シ銀米ノ取立ヲ |       中津御奉行衆ゟ
小倉借米奉行へ命 |  付由ニ而、〇被差越候を、粟野伝介ニ渡申候、御借米奉行衆へふれ状を被調、能々可被申渡由、
ズ        |  伝介ニ申渡候也、
         |                         (蜂須賀家政)嫡男至鎮は忠利相婿・共ニ室が小笠原秀政女
蜂須賀家政ヨリ返 |一、林源太夫、唯今阿波より罷下候由にて、登城被仕候、蓬庵様ゟ御返書取被下候、さまさまにて銀 
書  飛脚ニ銀子 |  子弐枚、源太夫弐被下候由申候、
賞与       |
         |                    小谷忠二郎与忠右衛門
         |一、右源太夫、江戸ゟ罷下候御長柄之者一人〇御付候而、御下被成候事、
         |         (人)
         |一、寿光院ゟ、清半や二被遣候御状、持せ遣候事、
         |一、菊野伊織やとゟ、伊織所へ遣候状、未江戸へ不遣候内、伊織相果早漏に付而、やとへもとし被申
         |  候様ニと申、隠岐へ渡候也、
         |    (細川光尚)
光尚書状     |一、従 御六様、高田角左衛門尉ニ被成遣候 御書壱つ、町参右衛門ゟノ書状壱つ、加来左衛門所へ持
         |  せ遣候也、

         |                
         |    十五日  安東九兵衛  
         |
         |  (正直)   (刑)
         |一、藪市正・西郡形部少輔両■人ゟ、使者を以被申越候ハ、今日御番にて登城仕候由、被申越候也、
         |       (清忠) 
         |   (鏡)
大阪詰小早    |一、加々見善右衛門尉登城ニ而被申候は、大阪詰御小早、今日壱艘出船仕せ候、別ニ御用なとハ無御
         |  座候やと尋被申候、別ニ御用茂無之候間、早々出船仕候様ニ可被申付由、申渡候也、
         |                                       (草履)
田町ノ鷲部屋ノ左 |一、吉田縫殿登城にて被申候ハ、田町之わしへやの左右ニ、小屋をかけ候て、たはこ・しゃうりなと
右ニ小屋懸シ煙草 |  売買仕候、惣別田町ハことの外かしけ候て、めいわく仕候ニ、かやうニ御座候ヘハ、猶々めいわ
草履ヲ商ウ者アリ |  く仕候間、小屋をものけ被下候やうニと、被申候田町之ものとも御理申候、式ア殿へも次而御座
田町ノ者撤去ヲ願 |                     〃〃〃
         |  候間、此段申上候ヘハ、のけ候て可然と思召候、併、又悪敷可有之と被申衆も可有之哉と被仰候
掃除奉行へ撤去後 |  由、被申候間、一段尤候間、こやをのけ候やうニ可被申付候、此方ゟも上林甚介ニ申付、掃除仕
ノ掃除を命ズ   |  候へと可申付候由、申渡候事、
         |    (正慶)                         ころし
町人間男セシ妻ヲ |一、加々山権左衛門尉与清太夫きり申女ノ儀、かの男きり〇申候由、被申候事、
斬殺ス      |

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ああ知らなかった・・「上せ」

2020-12-19 11:03:38 | 徒然

 例えば「江戸へ今日上せ候□□」という文章の「上せ」という語句はなんと読むのか、私は、これは「上らせ」だろうと思い込んでいた。
正式に史学や古文書を勉強したことがない私だから、これを知って私の常識のなさを実感させられた。
これは「のぼせ」と読むのが正解である。

 今朝ほど山本博文氏の「江戸城の宮廷政治」を開いたところ、一枚のコピーが出てきた。
元和六年の暮、病み上がりの三斎が愛娘である烏丸万に宛てた書状だった。
「病気ですっかり痩せてしまい、頭が薄くなり、つら(顔)をみれば、そのまま(父)ゆうさいの様で我ながら肝をつぶしている」とすっかり打ち解けた文章である。女性に宛てた書状だから平仮名が多用されている。
その中に「いよ/\ちからつき候を見せてのほせ候ハんととめ申候、正月三かにちすき候ハヽおつつけきちにちしたいのほせ候へく候事」とある。近習の者が上洛しようとする三斎の病状をみて上洛を止めていたことが伺われ、年が明けて三が日以降の吉日を選んで出立するとしている。
このなかに「のほせ」という語句が出てきて「上せ」の事だとピンときた。改めてググってみるとまさに正解であった。

 古文書に親しんで10数年になるが、所詮独学の身にとってはお恥ずかしい次第ではあるが、是で又一歩前進がうれしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(435)寛永六年・日帳(八月十日~十二日)

2020-12-19 09:40:43 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十日~十二日

         |                
         |    十日  奥村少兵衛   
         |
         |一、加来次郎兵衛、をや相煩候由にて、次郎兵衛登城不仕候事、
鉄炮足軽町人女房 |一、加々山権左衛門尉与御鉄炮衆清太夫と申もの、東小倉ノ久八と申ものゝ女房を一刀きり、其まゝ
ヲ斬リ春光寺へ走 |             
リコミ切腹ス   |  春光寺へはしりこミ原を切申候、いかやうの子細にて女をきり、腹をきり候や、御町奉行ニ、せ
町奉行へ調査ヲ命 |             〃
ズ        |  んさく被仕候へと、申渡候事、

         |                
         |    十一日  安東九兵衛   
         |
家老等談合ヲ求ム |一、御家老衆ゟ、御談合被成度儀候間、両人ともニ頼母殿へ参候也、
ニヨリ惣奉行有吉 |
英貴邸ニ赴ク   |       法華
杉某ト法花坊主ト |一、杉藤兵衛と法花坊主との公事之儀、御家老衆被成御聞、被成御談合候事、
ノ公事      |
稲葉家中ヨリノ走 |一、うさ郡ノ彦四郎、稲葉殿御内ゟ走人案内者仕候ものをも、御誅伐ニ相究申候、其外手伝候ものニ
人ヲ案内セル者誅 |  も過怠をかけ申筈ニ相究、書物ニ御家老衆裏書飛成、此方ニ請取置、万書物之段ニ入置申候也、
伐手伝シ者過怠  |
家老等裏判ノ書物 |
万書物ノ段ニ納ム |       

         |                
         |    十二日  奥村少兵衛   
         |                       (煩脱ヵ)
菊野伊織病死ス  |一、菊野伊織者両人罷下候、伊織儀江戸にてたんを相、七月十九日ニ相果申候、則伊織召仕候ものと
         |  も不残罷下候へとの 御意にて、罷下候由申候、修理・兵庫ニ被成下 御書箱壱つ持下候也、
         |  伊織内
         |  〇村上権右衛門・片山太兵衛登城ニ而申候也、
         |                      (枌)
枌板五千石調ハズ |一、沢村大学殿ゟ、使者を以被申聞候ハ、当春曽木板五千石可有御買之由にて、我等も判形仕候、此
         |  儀未調不申候由承候、如何様之子細にて調不申候哉、其後又御用と候て、当町に而も弐百束ノ
         |                       (反故)
         |  判形仕、かい申候、判形仕候儀を不調候ヘハ、はうぐに成申候間、かやう二無之様二候て尤二存
八拾立ノあまほう |  候、又八拾立之あまはうし、是もいまた調不申候之由承候、 殿様御下国ニ而も候ヘハ、頓而入
し  日向ノ材木 |  可申と存候間、北前へ飛脚を成とも遣し、急度相調候様ニ可仕候、又日向への材木ノ儀も調不申
         |  候由承候、是をも飛脚を遣し、調候やうニ可仕由、被申聞候、此方ゟ申候ハ、五千石ノそきの儀も
上方枌ノ相場付  |  上方へ申上せ、寺嶋方ゟ双場付をも差下候、然とも不承合、即時調候ヘハ、御損立申儀も御座候
         |  付、見合、かい下シ申筈ニ、寺嶋ゟ申越候、其後俄ニ御用ニ付而、爰元ニ而も如被仰、調申候、
         |  又北前之あまはうしの儀も此中飛脚を遣し申候、又今日も、飛脚遣し被申候へと、松本彦進へも
         |  申渡候間、定而はや可参と存候、日向へ之儀は未飛脚も遣し不申候、飛脚を遣し候へと思召候ハ
         |  ヽ、遣し可申由、御返事申候事、
御印帳      |一、大学殿へ御印帳判取ニ持せ遣候処、御留守ニ而候間、従是持せ可新之由、返事ニ而候事、

                   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(434)寛永六年・日帳(八月六日~九日)

2020-12-18 16:45:10 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)六日~九日

         |                
         |    六日  加来二郎兵衛   
         |
高瀬川ニテ子籠ノ |一、高瀬川にて、子籠ゟあゆ被召上候奉行ニ、御台所櫛野長三郎差遣候儀は、物を書不申ニ付、御鉄
鮎取立ノ奉行   |          〃
         |  炮衆ノ内にて、物を書申ものを一人可遣候間、申付置候へと、月行司ニ申付候也、
舟釘ノ用御印帳ニ |一、御舟用御釘、御印帳ニ書付、大学殿へ遣候処ニ、留守之由にて箱を置、罷帰申也、
記載ス      |
         |  (加藤)(金子)    (築城郡)(同郡)
郡奉行椎田湊両村 |一、新兵衛・喜左衛門尉被申候ハ、椎田・港両村当年日てりゆへ、少田畠いたミ申候間、御内検被仰
ニ日照ノ内検ヲ願 |  付候様ニと、御郡奉行衆ゟ被申越候、右両村少立毛悪敷候とて、御内検被仰付にてハ御座有間敷
郡奉行等開田ニ百 |  候、沢少兵衛・荒木五郎介・山田次右衛門定田を大分作申候、是をも御百生作分同前ニ御内検
姓同然ノ内検ノ要 |  被仰付候ハて不叶儀候、如何可有御座哉と被申候、又田川新開検地をも被仰付候様ニと、御郡奉 
田川郡奉行新開検 |  行衆度々被申候、是もいつれ成共可被遣由の由候、左候ハヽ、各両人ノ間ニ一人、田川へ御こし
地ヲ願フ 加藤新 |                    〃
兵衛田川郡椎田ヲ |  候て、さ候て、椎田へも被参、様子被見斗、可然様ニ可被申付由申渡候、新兵衛可参由被申候、
モ見分シ帰途自領 |  其次而ニ、もとり殿ニ、主知行之免を究申度由被申候、可然候由申渡候、
ノ免ヲ決メントス |

         |                
         |    七日  奥村少兵衛   
         |
三斎松丸ノ知行ニ |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候ハ、松丸殿御知行之儀、 三斎様ハ不被成御構旨被 仰
関与セズ     |
         |  下候間、此方ゟ御代官被仰付候、先度御郡奉行衆へ、式ア所ゟ早田なとの儀被相改候へと申遣候
         |  へ共、御代官被 仰付儀ハ、各ゟ申遣候へと灯仰聞候間、得其意申候通、御返事申候事、随而
毛利領ニテノ隼落 |  ハ、今度中国にて隼を御とらせ被成儀申遣候処、中国ゟノ返事きこへさる返事ニ而御座候間、隼
シニ聞へザル返事 |  を取ニ遣可申哉、遣申間敷候哉、後刻両人ともニめしをたへ、そろい申候は、式ア殿へ左右を申
アリ 隼落シニ中 |  候へ、左候ハヽ、頼母殿・監物殿へも人を遣し、式ア所へ御寄候へと可申候間、惣談可仕由候
国ニ行ク是非を惣 |  間、是又得其意申候、兵庫めしたへニ罷下候間、登城次第御左右可申通、御返事申候事、
談セム      

         |                
         |    八日  安東九兵衛   
         |
宇佐郡ヨリ松茸上 |一、夜前、うさ郡ゟ松茸持来候、日岡加右衛門送り状一つ、山崎助右衛門・佐田太郎右衛門両人の送
ル        |  り状一つ、次夫ニ而持来也、
仁保慰英門ノ鍵ノ |一、西魚町浜手ノ御門ノかき仁保少普請仕ニ付、かり申度由、被申候間、かし申候、
借用書      |                         頓而明次第返シ可申候、
         |                             仁保太兵衛(花押)
         |                              (慰英)

         |                
         |    九日  加来二郎兵衛   
         |
友田二郎兵衛国東 |一、友田二郎兵衛、国東郡御内検地日仰付候処ニ、少相煩ニ付、参候事ちと延引仕、めいわくの由、
郡検地延引願   |             〃
         |  被申越候、早々御養生候て可被参由、返事申候事、
         |           (紺屋)
捕ヘシ走女ノ弁明 |一、十六ニ成申女壱人、こんや町口へ走出申候を、御番ノ八田部惣左衛門尉とらへ来候、様子相尋候
         |                       (西嶋村、三根郡)
         |  処、彼女申分ハ、私男我等を女房可仕と申、元来肥前之西嶋之ものにて御座候、西嶋ゟ爰元へ、去月
         |  廿鉢日ニつれ参、ひかし小倉新左衛門尉と申ものゝ所ニおき、男ハ上方へ罷上申候、男爰元へ可
         |  罷帰も不存、其上在所ニ親兄弟居申候ニ付、罷帰度存、罷出申候由申候、則御家老衆へつれさせ
         |  遣、其段申候へと申付候処、御町奉行衆へ人ヲ御付候而被遣候由、右ノ惣左衛門尉申候也、
         |                    (長門大津郡)
星出某中風ニ付湯 |一、■星出市左衛門尉中風相煩、快気不仕付、俵山へ湯治仕度由申候ニ付、請人御座候而可被遣由、
治願       |  切りかミにて式ア殿へ申入候、又星出長五郎も市左衛門もをめしつれ、参度由申候、長五郎は小
         |  性頭衆へ申候而、式ア殿へ同道にて參被申候て、可被参由、申渡候事、
       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする