第五章 掃部の子
一、小三郎とマンショ小西
明石掃部は宇喜多秀家のもとにいた時は秀家の姉を正室としていて、五人の子供がいたとされる。男子三人、女子二人で全員キリシタンであった。
イエズス会の記録によれば、「長男(小三郎))、パウロ内記、末子ヨセフ、カタリナ、レジイナ」と伝わる。
一六〇〇年、関ヶ原の戦い直後、筑前国に入った時に「十歳か十一歳の長男」と父掃部を必要としている「幼い子供たち」と一緒にいたとされる。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
そして、一六一五年の大坂夏の陣後の様子である。(一六一六年三月十五日付、日本発、マテウス・デ・コーロスの報告『続日本殉教録』)
「彼(掃部)の子供たちの中で、長男は修道士になるために私たちの学院にいる。ヨセフという末子は戦死し、その死によって大きな名誉と名声を得た。他の息子(内記)は後に述べるように逃れた。」
まず、長男は一六一五年に二十五、六歳とあり、二男内記より五、六歳上である。
妹のレジイナは陣の後、家康から兄弟について質問をされている。
「何人兄弟かと訊ねられて、四人と答えると、内府様は笑って五人であると言った。」(同上)
「その通り五人です。しかし長兄は修道士であり俗世にはいないのであり、彼を数に入れませんでした。」(同上)
一六一五年にはイエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ肝煎りの有馬や長崎のセミナリオ(初等教育学校)、ノヴィシアード(修練院)、コレジオ(高等教育学校)はすでに破却されており、「私たちの学院」は、マカオの聖パウロ学院(サン・パウロ・コレジオ)を指していると思われる。一六一四年の幕府の切支丹追放令により、十一月、長崎で学んでいた神学生、修道者らは司祭と共にマカオやマニラへ強制渡航された。この時の学友に小西行長の孫であるマンショ小西(一六〇〇〜一六四四)がいた。敬虔なキリシタン行長は、明石掃部と同じく旧宇喜多家家臣であったことも留意したい。
娘のマリアは対馬藩主の宗義智の室となっていたが、行長が反徳川であったため、関ヶ原の戦い後に離縁された。母子は長崎へ向かい、その後、マンショは有馬のセミナリオで学んだ。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
日本追放の時、小三郎は二十五歳、マンショは十五歳であった。
コーロスが長崎で報告書を記していた一六一六年三月には、小三郎はマカオで修道士を目指していたと考えられ、その滞在期間は不明であるが、参考になる記録が残されている。
「ピレス書簡」に、一六一四年十一月、日本から追放されたセミナリオ生徒は二十八名だったが、三年後の一六一七年十月には七人となり、翌年一六一八年は教師一人(内藤ルイス)だけとなったとある。(『キリシタン時代の文化と諸相』)
これはイエズス会司祭らが日本人が修道士や司祭になることに難色を示したことによるが、日本から多くの追放者がいたことからの財政難も理由の一つと考えられる。
小三郎のマカオ滞在はヴァレンティン・カルヴァリョ元日本管区長による神学生教育中止となる一六一八年までのおよそ四年間の内とみられる。
この頃、マンショ小西とペトロ岐部らは司祭になるべくローマを目指すことになるが、彼らが学院で学んだことは不明としている。(『キリシタン時代の文化と諸相』)
リスボンからインドのゴアへ出航する際に岐部は一六二三年二月一日付の書簡に「霊的なことにも世俗のことにも、マンショ小西をよろしくお願い申し上げます。」と上司に後輩のことを気遣っている。(『キリシタン人物の研究』) 岐部が帰国したのは一六三〇年だった。
ローマで司祭となったマンショ小西は日本を離れてから十八年後の一六三二年、マカオ経由マニラ発で薩摩に上陸する。
小西家と島津家は縁戚関係になり、小西行長の妻の叔父は島津弾正で、島津貴久の三男歳久の養子忠隣のことである。キリシタンであった。(『薩摩切支丹史料集成』)
「(イエズス会の)斎藤神父と小西神父とは、ドミニコ会員ディオゴ・デ・サンタ・マリアと同船していた。彼らの航海は夥しい事故のために、二十日のが五ヶ月に延びた。ディオゴ神父はこの間に一行の髪が白くなったのを見た。彼らは遂に薩摩に上陸し、そこに一六三三年三月まで留まった。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の項)
小西一行はマニラから二十日の航海で日本に到着予定だったが、遭難して五ヶ月も要したのである。おそらく一六三二年六月末から七月あたりの出航で、薩摩には十一月末から年末にかけて到着したと思われる。
「斉藤神父」はパウロ斉藤小左衛門であるが、一六一四年十一月、小西と共にマカオへ追放され、司祭叙階後にマニラから帰国した。しかし、薩摩を出て半年後の九月に天草の志岐で捕縛され、十月二日に長崎で穴吊の刑により落命した。(『日本切支丹宗門史』『キリシタン時代の日本人司祭』)) ちなみに、この十六日後に小倉で捕縛された中浦ジュリアンも同刑となる。(同上)
「ディオゴ」は大村出身の朝長五郎兵衛という日本人司祭であるが、七月に長崎で捕縛され、八月十七日に同じく穴吊りの刑により落命した。(『信仰の血証し人〜日本ドミニコ会殉教録』)
小西らは薩摩に、およそ三ヶ月の滞在となるが、旧暦寛永十年(一六三三)一月頃に離れた。上述の通り、小西以外の二人の司祭は帰国から半年以内に捕縛されている。幕府の執拗な捜索がなされていたのである。しかし、日本人最後の司祭となった小西は一六四四年に処刑されるまで、潜伏して活動を行なっていた。(『切支丹時代の日本人司祭』) 有力な庇護者がいなければ不可能である。
寛永九年(一六三二)五月、薩摩の隣国肥後で加藤家改易の沙汰が下る。そして、細川家転封となるのだが、小倉から熊本へ移ったのは、その年の十二月である。
小西は祖父行長の旧領に忠利が入ってくるまで、薩摩で待機していたのではなかろうか。宇土・八代や天草には旧家臣や多くのキリシタンが潜伏していた。キリシタンを擁護していた忠利のことは、マカオや薩摩で聞き及んでいたとみる。
小西一行が薩摩を去った八ヶ月後の寛永十年(一六三三)九月に明石小三郎の名が薩摩にて上がる。学友小西との再会の喜びも束の間であった。慶長六年(一六〇一)六月、父掃部の主君宇喜多秀家が関ヶ原の戦い後に薩摩入国をし、家久に匿われたことも不思議な縁であった。
二、矢野主膳と永俊尼
薩摩の名騎といわれた藩主馬術指南役の矢野主膳が家中のキリシタン嫌疑で薩摩藩江戸詰家老伊勢貞昌より尋問された時に、明石掃部の子・小三郎が町人ジュアン又左衛門の家に筆者(書類作成などの手代)となり、潜伏していたことを暴露した。また、又左衛門は竪野永俊尼の家来であったという。(九月十九日貞昌書状『戦国・近世の島津一族と家臣』)
永俊尼は薩摩藩二代藩主光久の外祖母である。つまり初代家久(忠恒)の側室、後に光久を産むことになる慶安夫人の母である。また、小西家縁故(行長家臣皆吉続能娘)の人物であった。(『薩藩切支丹史料集成』) 神父不在の地に身内であるマンショ小西らが現れたことは、大変な喜びであっただろう。彼らが三ヶ月も滞在できたのは、永俊尼の擁護があったことに他ならない。
「薩摩では、大名(家久)の義母カタリナは、あらゆる懇願に耳を貸さなかった。聟は思うままに任せていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
禁教令下にもかかわらず、藩主家久は黙認していたが、矢野事件により義母カタリナ永俊尼と明石小三郎の件が幕府に知れることを恐れる。そして、筆頭家老伊勢貞昌は事を秘密裏に進めることになる。貞昌の嫡子貞豊の娘(曹源院)は、二代藩主となる光久の正室であったことから、藩内最大の実力者であった。国元の家老に、「明石掃部の子」としてではなく、「南蛮宗を広める者」として、細心を持って小三郎の捕縛を指示したのである。(『戦国・近世の島津一族と家臣』)
矢野主膳は小三郎が「有馬より御国へ参った由」(同上)と白状した。その年は不明であるが、マカオ帰国から有馬に潜伏していたと考えられる。主膳は元和元年(一六一五)から長崎に赴き、元和六年(一六二〇)十二月の伊勢貞昌書状にも「長崎へ被相越」(同上)とあることから、長崎に関わっていた。この背景には元和二年(一六一六)の幕府による唐船を除く南蛮船の平戸・長崎以外の港での貿易禁止令に関連すると考えられる。
この長崎滞在時に主膳はキリシタンになり、イエズス会日本管区長フランシスコ・パシェコらとの接触はあったものと考えられ、有馬又は長崎で小三郎と会っていた可能性もある。推測の域だが、主膳は司祭と小三郎を伴い薩摩に帰国し、永俊尼に渡したとしたら、元和七年(一六二一)以降になる。前年の年末に長崎にいたことは伊勢貞昌書状により判明しているからだ。(『戦国・近世の島津一族と家臣』)
三、有馬
一六一四年十一月、宣教師らがマカオに追放される時、管区長カルヴァリヨから、潜伏することにしていた中浦ジュリアンは島原の口之津(南島原市)の布教司祭の任命を受けた。(既に潜伏していた)(『天正少年使節の中浦ジュリアノ』) 一六一七年になるが、「有馬では、フランシスコ・パシェコ、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ、ヨハネ・ダ・フォンセカ、及び日本人ジュリアノ・デ ・中浦の諸師は、大いに用心してキリシタン達を教導した。彼らはまた、肥後の各地や志岐、天草、神津浦の諸島を歴訪した。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、一六一五年に再来日したパシェコは「上長」(駐在所長)として有馬にいた。また、一六二〇年だが、「五人の神父が、有馬で伝道していたが、同地の大名(松倉重政)は、好意を寄せていた。五人の神父とは、駐在所長ペトロ・パウロ・ナバロ、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ、ヤコボ・アントニオ・ジヤノネ、ガスパルド・デ ・クラスト、及びジュリアノ・デ ・中浦であった。伝道中、九月二十九日、神父ヨハネ・デ ・フォンセカが、疲労困憊して絶命した。同じ神父たちは、肥後や薩摩を訪問した。中浦は筑後と豊前に出かけた。」(同上)
一六二一年に日本管区長になったパシェコは有馬の高来から司祭を派遣することより、往来の危険を低減するために中浦ジュリアンを筑後に定住させた。
「筑後の国においては、イエズス会の一人の神父が定住している。彼はそこから筑前、豊前の国々を訪れている。イエズス会が改宗させた人もかなり多い。」(一六二三年三月七日パシェコ弁明書『秋月のキリシタン』)
しかし、パシェコは口之津で、一六二五年十二月十九日、松浦重政の不在の時、家老らの襲撃を受け捕縛され、翌年に火刑となった。
ついに重政は将軍徳川家光から警告を受け、弾圧に転向することになる。
ここから見えてくるのは、禁教令後の十一年間も南島原は比較的自由に布教活動が可能だった。その信徒の信仰の深さが、後の島原の乱につながる要因の一つとなる。キリスト教に理解を示した重政だが、その圧政から火がついたのは皮肉である。
後述するが、小三郎の弟内記も有馬に入ったことが判明する。
四、細川忠利と小三郎
興味深いのは、伊勢貞昌が江戸にいた細川忠利に、小三郎の件につき相談をしていることである。筆頭家老と言えども、他国藩主にこのような重大事件の相談をするだろうか。矢野事件発覚から二ヶ月以上経っていることから、藩主家久の命によるものとみていいだろう。小三郎の身辺調査をしている内に忠利と相談すべき何らかの情報を得たと考える。
「猶々細川越中殿へ者今日被成御内談候、彼者いきて居申儀幸ニ候、」(寛永十年十一月十二日伊勢書状『戦国・近世の島津一族と家臣』)
なんと、忠利は小三郎が生きていて幸だったと言っているのだ。
その後、貞昌は薩摩藩年寄衆と相談し、京都所司代の板倉重宗に小三郎を渡すことにした。(十一月十六日書状・同上)しかし、この書状が「遅参着」し、更に書状を送ったのは翌年正月十三日であった。小三郎の京都護送は寛永十一年(一六三四)となった。
忠利は貞昌に、父明石掃部は全国指名手配なので「殊外立入て公儀へも御申肝要之由」(十一月十二日書状・同上)と忠告し、四日後の貞昌書状に京都護送に触れていることから、忠利の策とみて間違いないだろう。
実はこの年七月、将軍徳川家光の上洛があったのである。肥後国転封後初上洛となる忠利は五月九日、江戸を立ち京都へ向かった。肥後八代からは三斎(忠興)が向かった。
忠利は五月二十一日に滞在先の上鳥羽に到着し、筆頭家老松井寄之らと共に七月十一日の家光上洛に備えた。(『綿考輯録・巻三十五』)
さて、六月四日付の重臣長岡監物(米田是季)が熊本から松井寄之に宛てた書状であるが、所々、虫喰い状態である。()の部分は『綿考輯録』編者が推考している。
「(何某)罷下候ニ付貴札悉致拝見(候、先以海陸)御無事ニ去月二十二日大阪へ(御着被成)、翌日鳥羽御越候て被成(御目見候由)、珍重奉存候、」(『綿考輯録巻三十五』)
(何某が)無事に五月二十二日、大阪に着き、翌日、鳥羽で藩主忠利と会うことができ、めでたいことであると伝えている。通常なら「松井寄之」だが、「何某」とは意味深長である。名前を敢えて消したのであろうか。小三郎だろうか。
七月十八日、将軍家光から九州・中国・四国の大名に帰国許可が出るが、忠利だけは足止めをされる。
「我等儀ハ未御暇不出走候」(同上)とあり、「其断難計候事」と忠利は理由が分からないと案じている。しかし、その理由が忠利のキリシタン政策であることを知る。薄氷を履む思いであっただろう。
忠利と三斎は七月二十日に将軍謁見している。(『徳川実紀』)
「きりしたん之儀ニ付而九州にいまた存之様ニ聞召候、はてれん・いるまん并同宿可成程尋出候へとの御諚ニ候、分別を仕、念を入せんさく可仕候、」(『綿考輯録巻三十五』)
(キリシタンの件だが、九州にいまだにいることを聞いているが、バテレン(外国人宣教師)・イルマン(修道士)・同宿(世話人)を取締るのは諚である。よく考えて念を入れて穿鑿すべきである)
何と、忠利は家光から直々に警告を受けたのである。幕府は忠利の緩いキリシタン政策を把握していたのである。慶長十九年(一六一四)の全国禁教令から、二十年も経っていることからしても細川家にとって一大事である。しかし、忠利の江戸証人時代(人質)からの幼少家光との行交を考えると、家光の温情ともとれるが、「身内」忠利の母ガラシャへの思慕からと理解していたのであろう。
忠利と三斎は七月二十九日に帰国の暇を頂き、忠利は八月一日に京都を発して十三日に熊本に到着した。(『熊本藩年表稿』)
忠利は熊本に帰国するや否や、自らキリシタン穿鑿に着手することになり、この頃、絵踏を導入したとされる。(『熊本藩年表稿』)
江戸藩邸留守居に加賀山主馬(隼人の甥)や松野親英(織部・大友宗麟二男親家の息)を配していた。(『江戸城の宮廷政治』) 主馬は寛永十三年(一六三六)にキリシタンから禅宗に転宗するから、この時点ではキリシタンである。(『肥後切支丹史』) また、親英の父・利根川通孝(大友親家)も同年転宗していることから親英もキリシタンであったと思われる(慶長十九年転宗とあるが)。忠利はキリシタン家臣を側に置いていたのだ。
豊前小倉藩時代であるが、寛永五年(一六二八)九月二十四日の「奉書」に「ぶだう酒、昨年江戸へ被遣候程、当年も可被遣様と得」とあり、小倉藩で製造した葡萄酒を江戸藩邸へ送っている。
「ふたう酒作こミ候樽弍つ」(寛永六年九月十八日「日帳」)とあり、一樽は小倉に、もう一樽は江戸に送ったのだろう。ミサ用葡萄酒とみられ、キリシタン家臣とともに、幕府は警戒していたのだろう。
五、小三郎の行方
小三郎は『薩州旧伝記』に「明石左近」として上町の呉服屋手代で登場するが、同一人物とされる。(『薩藩切支丹史料集成』)
「土持大右衛門宅江大坂落城以後鹿児島上町呉服屋の手代、夜々は折節夜咄ニ参りたる由候、然に其比畿利支丹宗別而稠敷御制禁有之、右手代切支丹宗之由相知レ、此御方ゟ搦取上方江被差上候、其時大右衛門暇乞ニ被参候得者、彼手代大右此内ハ段々叮嚀馳走忝之由相応申候、大右衛門ハ慇懃ニ返答彼是被申候由、右手代ハ如何様成者ニ而候哉と不審ニて存候が、明石掃部子の明石左近と為申秀頼之人ニ而、大坂落城以後当国に忍居被申候、大右衛門ハ其以前ゟ知人ニ而候ニ付、夜々咄ニ被参候由 此人物毎利はつに有之木地がミへ関東ゟ落入御尋之儀稠敷有之只人ニ而ハあらざると夫ゟ被召上候と申説有之候」(『薩州旧伝記』旧伝集六)
(土持大右衛門宅へ大坂落城以後鹿児島上町呉服屋の手代が夜々しげく咄に来た。その頃切支丹宗門は厳しい禁制下だったが、この手代は切支丹宗門である事が知れて、藩主の命で捕縛され京都へ送られる事になった。
その時、大右衛門が暇乞いに行くと彼手代は大右衛門に是迄色々御世話に成ったと礼を言ったので、大右衛門も叮嚀に返答した。
この手代はどの様な者かと疑問に思っていたが、明石掃部の子の明石左近と云う者で秀頼の家来だった。大坂落城の後、当国に忍んでいたが大右衛門はその前からの知人だったので、夜々咄に来たものの由。
此人物は大変利発な素質が見えて、幕府からもしばしば調査があり只者ではないと、それ以後藩に採用されたと云う説もある。)(「大船庵HP」より引用)
小三郎が京都での処刑ではなく、「それ以後藩に召し抱えらた」説があることは興味深い。薩摩藩ではなく、熊本藩かも知れない。確かに、京都へ護送とあるが、その後の記録がない。
イエズス会の修道士(いるまん)の可能性もあり、明石掃部の長男となれば、日本側やイエズス会の記録に残されているはずであるが、今のところ見出せない。つまり、再び逃走・潜伏した可能性がある。これも「忠利の策」であったのか。
『徳川実記』の慶安二年(一六四九)三月二十三日の条である。
「大阪籠城の士後藤又兵衛が子、隠れいたるを、大阪の代官所に搦とり、京職のもとへ送る。齢五十四五なりとぞ」
又兵衛の三男とされる佐太郎が捕縛され、京都所司代板倉重宗のもとへ送られた。しかし、無罪放免となっている。また、五男とされる吉右衛門基芳は医師法橋玄哲として、近衛信尋の待医も務め、伊予川之江に子孫を残した。(『後藤又兵衛の研究』)
推測だが、忠利は板倉重宗と小三郎逃避について話し合ったのではなかろうか。敵将の子とはいえ、宗教家であり、今更徳川家に戦を仕掛けることも考えられない。
後述の林外記の隣人に「明石玄碩」という医師がいたが、南蛮医術を持つ小三郎だったのだろうか。
矢野事件に関した薩摩藩の処分によると、寛永十一年(一六三四)三月八日、永俊尼一家は南海の種子島へ流されたが、種子島氏の保護があり、信仰に捧げたその生涯は慶安二年(一六四九)九月に閉じた。事件の二年後の三月、主膳父子、又左衛門は処刑された。(『薩藩切支丹史料集成』) 事件発覚から三年経っていた。
六、末子ヨセフと姉
「名誉の死」を遂げた末子ヨセフは大阪の陣の時、享年十六、七歳と思われるが、根拠は『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の「一五九九〜一六〇一年、日本諸国記」に「数日前、(掃部の)出産する妻がまったく回復の見込みのない危篤(状態)に陥ったので、彼(掃部)は早急に大阪の一司祭をそこに赴かせるように懇願した。」とあり、聖体拝領が終わると、奇跡的に回復したとある。しかし、母は産後間もなく死んだとしている。(『続日本殉教録』)
このヨセフの死をコーロスに伝えたのは、共に戦った兄の内記であろう。ここで重要なことは父の死を伝えていないことである。
母モニカと長女カタリナは、モレホンの『続日本殉教史』によると、掃部邸にいたイエズス会士バルタザール・デ・トルレスが「モニカとカテリーナは輿に乗って城内に運ばれました」と大阪城に移動したことになっており、「死」について言及していないが、二人の消息はここで消える。
カタリナの夫とされる岡平内は単独で大阪を脱出したが、父の貞綱(妻は掃部の姉)が捕縛され、自首するが処刑されたとされる。(『史伝明石掃部』)
確かに『駿府記』に「元和元年(一六一五)七月二十九日、今日岡越前守於妙顕寺切腹同息平内梟首明石掃部依為縁座也」とあり、父子ともに死んでいる。しかし、掃部の縁者とあるが、平内はカタリナの夫であろうか。
先述の『武家事紀』の「掃部聟田中長門守」とイエズス会の「内記の義理の兄弟」であるが、その妻はカタリナの可能性がある。
推考だが、関ヶ原の戦いの後に、掃部一族は筑前国へ入り、黒田直之の死後、筑後国へ入った。そこで、カタリナの婿となる田中長門守と出会う。
大阪の陣前に、なんらかの理由によりカタリナも掃部一族に従い、大阪へ向かった。そして、岡平内と出会うこともあり得る。
夏の陣後、掃部の次男内記が筑後の長門守を頼り、モニカとカタリナの死を伝えたと考える。
七、明石内記
大坂夏の陣後に内記は父掃部と奥州に向かったという伝承がある。司東真雄氏の『奥羽古キリシタン探訪』から引用する。
「寛永十七年(一六四〇)四月上旬に、伊手で捕られられた明石内記は、大阪冬の陣の大阪方切支丹隊隊長明石掃部守重の子であるが、大阪陣中で後藤寿庵の勧めで父子共に仙台入りし、最初高田に落ち、父は安積小三郎、内記は浅香小五郎と変名し、竹駒の玉山金山鉱夫となり、父は(伊達)政宗に随って江戸へ参勤の途中宇都宮で没し、内記は後藤寿庵との交友の便を得ようとしたのか、さらに江刺郡伊手村肝入の菊池六右衛門を頼り来って、十右衛門と改名し、金山に出入し、炯屋を営み鉄砲製造を考えたらしい。このことから匿名がバレて江戸送りを幕府から命ぜられ、途中古川町で罹病し、小山宿で没したと伝えられている。」
又、内記は布教活動をしていたとあり、「内記が、高田へ来て布教をした。内記が、高田へ来て医業を開き、それから竹駒村の玉山金山で堀子をやりながら布教をし、さらに江刺郡伊手村の金山へ来て布教をした。内記が江刺へ去ったのち、気仙地方へ有力な伝導者が入らなかったのか、資料不足なのか、キリシタンを見出すことができない。」とある。
さて、大坂夏の陣で掃部は敵方伊達政宗の家臣後藤寿庵と道明寺の戦いで対峙する。先遣隊の後藤又兵衛基次は政宗家臣の片倉小十郎重綱に既に討たれており(『伊達政宗卿伝記史料』)、延着した掃部らも奮闘するが後退する。翌日、天王寺・岡山の戦いで松平忠直勢と戦うが、行方不明となる。
少し考え難いが、直後、キリシタンであった寿庵の勧めで掃部と内記が仙台に向かったとある。しかし、先述のイエズス会等の記録により内記は陣直後、九州へ向かったことが判明している。
この伝承に信をおけば、内記の広島潜伏後も考えられるが、一六一六年から捕縛される一六四〇年までの二十四年間も仙台藩領に潜伏していたことになる。特に胆沢地区の金山となると、イエズス会司祭のディオゴ・デ・カルバリオは仙台に滞在して後藤寿庵の領地見分村などを訪問しており、また胆沢の下嵐江(おろせ)の銀山に潜伏した。(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項) 江刺郡伊手村の金山も近くであり、カルバリオと接触しているはずである。
内記ほどの敬虔なキリシタンならば、変名したとはいえイエズス会の記録に残るはずである。特に日本を代表するキリシタン明石掃部の記録がないのは不可解である。カルバリオは一六二四年に冬の広瀬川で水牢により凍死している。迫害の嵐の真っ只中にある伊達藩の領地にいることは不可能である。
明石掃部・内記奥州潜伏説の典拠の一つに『江刺郡志』があり、「伝説」の章「伊手村」の「明石掃部守重」についての記述がある。
「大阪落城後奥州に逃れ来り、気仙郡(陸前高田市)より西して山中に道を失ふ。偶々一羽の鳶あり。飛んでは降り降りては飛び行手を示すが如し。守重これを道しるべとして伊手村に至り、赤金菊池氏邸に入る。寄寓すること十餘年。時種子島銃の傳來させし後のことなれば、村民の懇請辭し難く、種子島銃使用の申請書を作製して幕府に送る。これによりて其の所在を知られ遂に捕らへらる々に至りしが、去るに及びて村民深く別れを惜みしと云ふ。」
この伝説は上述の内記ではなく掃部である。さらに『角川日本姓氏歴史人物大辞典三』は「明石内記」について簡潔にまとめている。
「大阪の陣における豊臣方の大名宇喜多秀家の重臣で、キリシタンであった明石掃部守重の子。大阪城落城後に気仙郡高田村(陸前高田市)の玉山金山で堀子となりキリスト教を布教。その後、江刺郡伊手村(江刺市)の肝入を務める菊池家に十余年間寄寓し、名を十右衛門と改て炯屋を営み、請われて鉄砲を製造したという。密告する者があり、捕らえられて江戸送りとなる途中、宇都宮(栃木県)で死亡。布教のかたわら医療技術をもって住民に接し、尊敬の念を集めたという。」(『岩手県姓氏歴史人物大辞典』)
典拠不明だが、掃部と内記の記述が曖昧であり創作の感が拭えないが、父子が生存していたという伝承は興味深い。
八、内記と有馬
「この戦争中(大坂夏の陣)、又内府様(家康)の死まで、教会は実に静穏であった。」(『日本切支丹宗門史』)
つまり、一六一五年六月から十六年六月にかけての一年間は全国の宣教師らは積極的に布教活動をして、特に転宗者を再び立ち返らせた。中でも先述のオルファネルのようにドミニコ会は顕著な活動をした。
「長崎付近の地方、例えば平戸、五島、薩摩、及び殊に有馬、大村の地方では、宣教師達によって秘密にであったが、福音は絶えず弘布されていた。」(同上)
特に入部間もない肥前日野江藩主松倉重政のキリシタン擁護の姿勢から島原半島は平穏であった。南蛮貿易のメリットが背景にあったとされる。
イエズス会のコーロスによる明石内記の行動報告(『秋月のキリシタン』)を見てみよう。
大坂夏の陣の後、内記は「義理の兄弟のいる筑後に落ち着いていた」が、「そこから、管区長代理の(長崎にいる)ジェロニモ・ロドリゲス神父に手紙を送った」ことが発覚した。ロドリゲスは内記を匿うことを全国のイエズス会宣教師達に指図していたのである。コーロスはこの手紙で掃部の末子の死と内記の生存を知ったものと思われる。
幕命を受けた肥前国大村藩主大村純頼は内記と連絡していた二人を捕縛させ、拷問にかけた結果、「管区長代理が内記と手紙のやりとりをしていること、もう一人は手紙を取りついだことを自白した。」この時、レオナルド木村のことも語り、彼も捕らえられた。レオナルドが捕縛されたのは「一六一六年十二月のことである。」(『イスパニア国王に対するコリャード陳述書』)
また、レオナルドと一緒にいた同宿(司祭・修道士を手伝い宣教の任に当たった日本人信徒)も投獄されたのだが、「彼はディオゴと言い、フランシスコ・パシェコ神父の下で働き、以前は明石掃部に仕えた人である。彼は有馬の地元で内記と一緒にいたところを見られ、また、内記の為に肥後に行くよう船を世話した故に、有罪とされた。」
「どこに内記を隠したを知っているなら、それをはっきり言うように、そうすれば神父に迫っている危険から救うであろう」と言われ、「ディオゴはこれに対して、内記が別れに当たって、自分に広島へ行くことを確言したと白状した。」
このことにより広島にいたことが判明したのである。
さて、「掃部に仕えたディオゴ」はパシェコの下で働いていたとされ、長崎から、その後、平穏な島原半島の有馬に移ったのだろう。先述にあるようにパシェコは有馬で上長(駐在所長)となっていた。残念ながら、内記と小三郎が有馬で出会った記録はないが、内記は一六一五年秋頃に訪ねたと推されること、また、小三郎はマカオにいたと考えられ、兄弟の出会いはなかったと思われる。しかし、その後に有馬に入った小三郎は内記の生存を知り歓喜したことだろう。
内記は小三郎と同じく、中浦ジュリアンに会っていたと考える。当時、筑後にいた中浦と思われる記録がある。
「私は一年間に三度、小倉に行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いたのです。」『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)
命に関わるような危険を冒して信徒に会いに行くことは、命懸けで信仰や司祭を守っている信徒がいることにほかならない。「三度」も行ったのは多くの人キリシタンが豊前国にいたということである。
内記はディオゴ手配の船で有馬から有明海を渡り、肥後に行くのだが、おそらく菊地川を上り、港町の高瀬(玉名)に着いたのだろう。大友宗麟時代からキリシタンが多くいた地(清田領)であり、コンフラリア(信徒組織)が存在していたと考える。
ここから筑後に戻り、さらに秋月街道から豊前国に入り、海路、広島を目指したと思われる。この時、内記一人だったのだろうか。
二人の司祭がいたのではなかろうか。アントニオ石田と中浦ジュリアンである。
内記は潜伏先を頻繁に変えていたのは、確かに摘発の危険を避けるためであるが、大きな理由は宣教師の保護ではなかろうか。
有馬から中浦を豊前、石田を広島に安全に送り届けたのではなかろうか。
一六一五年の大坂夏の陣後に確実に(記録として)豊前に入った宣教師は、先述のドミニコ会のオルファネル、ルエダ、そしてイエズス会の中浦と豊後から入ったとされるペトロ・パウロ・ナバロかフランシスコ・ボリドリーである。(『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)
中浦はその後、数度、小倉に入ったが、一六二四年から小倉城下で捕縛される一六三三年まで、豊前国に潜伏していたと考えられる。
「中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、度々場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
中浦は島原口之津から肥後、筑後、筑前、豊前と入るが、疲労困憊であった。五十六歳の年である。
「豊前の領主は、長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。」(同年同上)
この宣教師は中浦ジュリアンであることは間違いない。
九、レジイナ
明石掃部の次女レジイナは大阪城にいた。
「彼女は人質として大阪城中に身を置いていたが、彼女の親切な人となりのおかげで秀頼の母堂(淀殿、浅井茶々)と心を繋ぎ合わせていた。秀頼の母堂は、もし、その戦で良い結果を得たならば、彼女を誰か立派な殿と結婚させようと考えていた。」(ロレンゾ・ポッツェ訳、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第二巻)
しかし、元和元年(一六一五)五月八日、大阪城は陥落し、敵方の兵に囲まれたレジイナは気丈にも掃部の娘と知らせ、徳川家康の元へ連行された。
その後、二条城で家康の側室「オカモ」に預けられたが、八男仙千代、九男義直の母とされる「於亀の方」(相応院)である。(『秋月のキリシタン』)
およそ三ヶ月後の八月四日に家康が駿府に向かって出発する時に、レジイナを呼び、父掃部のことを尋ねた。「父親が戦っている間、私は城の中に留められておりましたので何一つ聞いておりません」と答えた。(同上『日本報告集』)
終戦から三ヶ月経っているが、掃部の生存について確実な情報を得ていなかったのである。
さらに「そなたは明石掃部の娘であるからにキリシタンに相違あるまい。しかし、そなたはキリシタンのままでいるがよい。そして今、そなたの亡父の霊魂をそなたたちの神に託すが良かろう」と言い、着物と金銭を与えて、解放したのである。(同上)
その後、浅井直政(三好直政)に嫁いだとされる。「妻ハ豊臣家の臣明石掃部助全登が女」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)さて、直政(十四歳)も大阪城落城の時、母と共にいた。
「大坂夏の陣落城のとき母と共に千姫君にしたがひたてまつり」(同上)
母はその後、淀君の妹である崇源院(江・将軍秀忠室)とその娘千姫(豊臣秀頼室)に仕えた海津局(浅井一族)である。海津局は千姫と直政たちと炎の大阪城を脱出したのである。
レジイナと直政が婚姻に至ったのは、やはり海津局の判断であろうが、彼女が仕えていた淀殿の「誰か立派な殿」が直政だったかも知れない。
千姫は元和二年(一六一六)に本多忠政の嫡子忠刻(ただとき)と再嫁するが、忠刻は寛永三年(一六二六)に病死した。
忠刻の姉国姫は有馬直純に、妹亀姫は後の小倉藩主小笠原忠真の嫁ぎ、忠真の妹千代姫が細川忠利の室となっている。
さて、大阪城を脱出した直政は寛永三年(一六二六)に将軍家光に召抱えられ、外戚の三好姓に改め、江戸幕府の旗本三好家の祖となる。この年七月、家光の上洛にお供している。
レジイナと直政の間に政盛(一六二四年生)がいたが、「いとけなきより海津に養育せられ」(同上)とあり、何らかの理由により幼少の政盛は祖母海津局に育てられたのである。おそらく、直政仕官の時に、夫婦又は妻のキリシタン棄教が条件となったが、レジイナは拒否し、離縁に至ったのではなかろうか。
江戸では、キリシタン迫害の真っ只中にあり、元和九年(一六二三)に五十人のキリシタンが火炙りの刑で処刑されている。(『日本切支丹宗門史』)
政盛、満二歳の時であるが、一人の姉か妹がいた。驚くことに、この娘は「細川肥後守家臣林外記某が妻」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)となるのである。
つまり、明石掃部の孫が『阿部一族』に登場する「林外記」の妻だったことになる。掃部と細川家との唯一の接点である。このことにより、鴎外の「林外記」像が全く異なる可能性がある。
レジイナは娘とともに、豊前に向かったのだろうか。もし、そうであれば、頼れる人物がいたことになる。直政仕官の年、寛永三年(一六二六)であろう。
なお、直政は寛永七年(一六三〇)、三十歳の若さで病死している。
森鴎外『阿部一族』では、「当主(細川光尚)の御覚めでたく、御側去らずに勤めて居る大目附役に、林外記と云うものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見る事に於ては及ばぬ所があって、兎角苛察(とかくかさつ・細かいことまで詮索すること)に傾きたがる男であった。」とある。
この外記が真の殉死者ではないとした阿部弥一右衛門の相続を嫡子権兵衛にせずに弟達と分割したことが、権兵衛の狼藉に繋がったとされる。つまり、『阿部一族』事件の原因を作った人物とされている。(史実は異なる)
又、阿部一族誅伐隊の表門の射手を担うために竹内数馬を光尚に推薦したのが外記である。数馬はこのことを知り、「好いわ。討死するまでの事じゃ」と言い放ったとされるが、忠利寵愛の数馬が殉死しない自身への当てつけと思ったのである。このように、鴎外の林外記像は阿部弥一右衛門とともに悪評の標的となっているのだが、作為を感じる。