津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■桑田佳祐とかあの指揮者とか・・・

2021-12-16 16:09:32 | 徒然

 毎日飲んでいる薬が昨日一杯で切れたので、今日は朝から病院行き・・
今回は通常検査の予定もなかったので、薬をもらって早々に退散するつもりだったが、「血液検査だけしましょう」ということで、血をとり暫く待つ。
HbA1cが8.8、もう一年以上こんな状態、これは「ごはん食うな、パンくうな、麺類もだめ」の世界である。
Dr曰く「お正月は御餅を食べ過ぎないように・・」と釘をさされた。(食うものがない・・・)
逆流性食道炎の薬を処方してもらう。胃酸をおさえる新しい薬に替った。
そして、「悪くなると桑田佳祐とかあの指揮者(小澤征爾でしょう)とか・・」と仰る。
「おいおい、胃がんってこと」と内心ちょっと驚いたところで、「初期だと内視鏡でかんたんにとれますから・・」「次には胃カメラやりましょう」とさらっとDr。

最近は心臓が痛いとか、左手がしびれるとかの症状はないが、背中なんかも痛たくなってきたし、がたがた・・・
父は早死にしたから比べようがないが、母の86歳は何とか超えたいと願うばかりだ。
やりたいことがいろいろ有るが、あと6年では出来んかもしれんな~

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・3

2021-12-16 06:22:53 | 先祖附

第五章 掃部の子

    一、小三郎とマンショ小西

明石掃部は宇喜多秀家のもとにいた時は秀家の姉を正室としていて、五人の子供がいたとされる。男子三人、女子二人で全員キリシタンであった。
イエズス会の記録によれば、「長男(小三郎))、パウロ内記、末子ヨセフ、カタリナ、レジイナ」と伝わる。
一六〇〇年、関ヶ原の戦い直後、筑前国に入った時に「十歳か十一歳の長男」と父掃部を必要としている「幼い子供たち」と一緒にいたとされる。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

そして、一六一五年の大坂夏の陣後の様子である。(一六一六年三月十五日付、日本発、マテウス・デ・コーロスの報告『続日本殉教録』)
「彼(掃部)の子供たちの中で、長男は修道士になるために私たちの学院にいる。ヨセフという末子は戦死し、その死によって大きな名誉と名声を得た。他の息子(内記)は後に述べるように逃れた。」
まず、長男は一六一五年に二十五、六歳とあり、二男内記より五、六歳上である。
妹のレジイナは陣の後、家康から兄弟について質問をされている。
「何人兄弟かと訊ねられて、四人と答えると、内府様は笑って五人であると言った。」(同上)
「その通り五人です。しかし長兄は修道士であり俗世にはいないのであり、彼を数に入れませんでした。」(同上)

一六一五年にはイエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ肝煎りの有馬や長崎のセミナリオ(初等教育学校)、ノヴィシアード(修練院)、コレジオ(高等教育学校)はすでに破却されており、「私たちの学院」は、マカオの聖パウロ学院(サン・パウロ・コレジオ)を指していると思われる。一六一四年の幕府の切支丹追放令により、十一月、長崎で学んでいた神学生、修道者らは司祭と共にマカオやマニラへ強制渡航された。この時の学友に小西行長の孫であるマンショ小西(一六〇〇〜一六四四)がいた。敬虔なキリシタン行長は、明石掃部と同じく旧宇喜多家家臣であったことも留意したい。

娘のマリアは対馬藩主の宗義智の室となっていたが、行長が反徳川であったため、関ヶ原の戦い後に離縁された。母子は長崎へ向かい、その後、マンショは有馬のセミナリオで学んだ。(『キリシタン時代の日本人司祭』) 
日本追放の時、小三郎は二十五歳、マンショは十五歳であった。

コーロスが長崎で報告書を記していた一六一六年三月には、小三郎はマカオで修道士を目指していたと考えられ、その滞在期間は不明であるが、参考になる記録が残されている。
「ピレス書簡」に、一六一四年十一月、日本から追放されたセミナリオ生徒は二十八名だったが、三年後の一六一七年十月には七人となり、翌年一六一八年は教師一人(内藤ルイス)だけとなったとある。(『キリシタン時代の文化と諸相』)
これはイエズス会司祭らが日本人が修道士や司祭になることに難色を示したことによるが、日本から多くの追放者がいたことからの財政難も理由の一つと考えられる。

小三郎のマカオ滞在はヴァレンティン・カルヴァリョ元日本管区長による神学生教育中止となる一六一八年までのおよそ四年間の内とみられる。
この頃、マンショ小西とペトロ岐部らは司祭になるべくローマを目指すことになるが、彼らが学院で学んだことは不明としている。(『キリシタン時代の文化と諸相』) 
リスボンからインドのゴアへ出航する際に岐部は一六二三年二月一日付の書簡に「霊的なことにも世俗のことにも、マンショ小西をよろしくお願い申し上げます。」と上司に後輩のことを気遣っている。(『キリシタン人物の研究』) 岐部が帰国したのは一六三〇年だった。

ローマで司祭となったマンショ小西は日本を離れてから十八年後の一六三二年、マカオ経由マニラ発で薩摩に上陸する。
小西家と島津家は縁戚関係になり、小西行長の妻の叔父は島津弾正で、島津貴久の三男歳久の養子忠隣のことである。キリシタンであった。(『薩摩切支丹史料集成』)

「(イエズス会の)斎藤神父と小西神父とは、ドミニコ会員ディオゴ・デ・サンタ・マリアと同船していた。彼らの航海は夥しい事故のために、二十日のが五ヶ月に延びた。ディオゴ神父はこの間に一行の髪が白くなったのを見た。彼らは遂に薩摩に上陸し、そこに一六三三年三月まで留まった。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の項)

小西一行はマニラから二十日の航海で日本に到着予定だったが、遭難して五ヶ月も要したのである。おそらく一六三二年六月末から七月あたりの出航で、薩摩には十一月末から年末にかけて到着したと思われる。
「斉藤神父」はパウロ斉藤小左衛門であるが、一六一四年十一月、小西と共にマカオへ追放され、司祭叙階後にマニラから帰国した。しかし、薩摩を出て半年後の九月に天草の志岐で捕縛され、十月二日に長崎で穴吊の刑により落命した。(『日本切支丹宗門史』『キリシタン時代の日本人司祭』)) ちなみに、この十六日後に小倉で捕縛された中浦ジュリアンも同刑となる。(同上)

「ディオゴ」は大村出身の朝長五郎兵衛という日本人司祭であるが、七月に長崎で捕縛され、八月十七日に同じく穴吊りの刑により落命した。(『信仰の血証し人〜日本ドミニコ会殉教録』)

小西らは薩摩に、およそ三ヶ月の滞在となるが、旧暦寛永十年(一六三三)一月頃に離れた。上述の通り、小西以外の二人の司祭は帰国から半年以内に捕縛されている。幕府の執拗な捜索がなされていたのである。しかし、日本人最後の司祭となった小西は一六四四年に処刑されるまで、潜伏して活動を行なっていた。(『切支丹時代の日本人司祭』) 有力な庇護者がいなければ不可能である。

寛永九年(一六三二)五月、薩摩の隣国肥後で加藤家改易の沙汰が下る。そして、細川家転封となるのだが、小倉から熊本へ移ったのは、その年の十二月である。
小西は祖父行長の旧領に忠利が入ってくるまで、薩摩で待機していたのではなかろうか。宇土・八代や天草には旧家臣や多くのキリシタンが潜伏していた。キリシタンを擁護していた忠利のことは、マカオや薩摩で聞き及んでいたとみる。

小西一行が薩摩を去った八ヶ月後の寛永十年(一六三三)九月に明石小三郎の名が薩摩にて上がる。学友小西との再会の喜びも束の間であった。慶長六年(一六〇一)六月、父掃部の主君宇喜多秀家が関ヶ原の戦い後に薩摩入国をし、家久に匿われたことも不思議な縁であった。

    二、矢野主膳と永俊尼

薩摩の名騎といわれた藩主馬術指南役の矢野主膳が家中のキリシタン嫌疑で薩摩藩江戸詰家老伊勢貞昌より尋問された時に、明石掃部の子・小三郎が町人ジュアン又左衛門の家に筆者(書類作成などの手代)となり、潜伏していたことを暴露した。また、又左衛門は竪野永俊尼の家来であったという。(九月十九日貞昌書状『戦国・近世の島津一族と家臣』) 

永俊尼は薩摩藩二代藩主光久の外祖母である。つまり初代家久(忠恒)の側室、後に光久を産むことになる慶安夫人の母である。また、小西家縁故(行長家臣皆吉続能娘)の人物であった。(『薩藩切支丹史料集成』) 神父不在の地に身内であるマンショ小西らが現れたことは、大変な喜びであっただろう。彼らが三ヶ月も滞在できたのは、永俊尼の擁護があったことに他ならない。

「薩摩では、大名(家久)の義母カタリナは、あらゆる懇願に耳を貸さなかった。聟は思うままに任せていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)

禁教令下にもかかわらず、藩主家久は黙認していたが、矢野事件により義母カタリナ永俊尼と明石小三郎の件が幕府に知れることを恐れる。そして、筆頭家老伊勢貞昌は事を秘密裏に進めることになる。貞昌の嫡子貞豊の娘(曹源院)は、二代藩主となる光久の正室であったことから、藩内最大の実力者であった。国元の家老に、「明石掃部の子」としてではなく、「南蛮宗を広める者」として、細心を持って小三郎の捕縛を指示したのである。(『戦国・近世の島津一族と家臣』)

矢野主膳は小三郎が「有馬より御国へ参った由」(同上)と白状した。その年は不明であるが、マカオ帰国から有馬に潜伏していたと考えられる。主膳は元和元年(一六一五)から長崎に赴き、元和六年(一六二〇)十二月の伊勢貞昌書状にも「長崎へ被相越」(同上)とあることから、長崎に関わっていた。この背景には元和二年(一六一六)の幕府による唐船を除く南蛮船の平戸・長崎以外の港での貿易禁止令に関連すると考えられる。

この長崎滞在時に主膳はキリシタンになり、イエズス会日本管区長フランシスコ・パシェコらとの接触はあったものと考えられ、有馬又は長崎で小三郎と会っていた可能性もある。推測の域だが、主膳は司祭と小三郎を伴い薩摩に帰国し、永俊尼に渡したとしたら、元和七年(一六二一)以降になる。前年の年末に長崎にいたことは伊勢貞昌書状により判明しているからだ。(『戦国・近世の島津一族と家臣』)

    三、有馬

一六一四年十一月、宣教師らがマカオに追放される時、管区長カルヴァリヨから、潜伏することにしていた中浦ジュリアンは島原の口之津(南島原市)の布教司祭の任命を受けた。(既に潜伏していた)(『天正少年使節の中浦ジュリアノ』) 一六一七年になるが、「有馬では、フランシスコ・パシェコ、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ、ヨハネ・ダ・フォンセカ、及び日本人ジュリアノ・デ ・中浦の諸師は、大いに用心してキリシタン達を教導した。彼らはまた、肥後の各地や志岐、天草、神津浦の諸島を歴訪した。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、一六一五年に再来日したパシェコは「上長」(駐在所長)として有馬にいた。また、一六二〇年だが、「五人の神父が、有馬で伝道していたが、同地の大名(松倉重政)は、好意を寄せていた。五人の神父とは、駐在所長ペトロ・パウロ・ナバロ、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ、ヤコボ・アントニオ・ジヤノネ、ガスパルド・デ ・クラスト、及びジュリアノ・デ ・中浦であった。伝道中、九月二十九日、神父ヨハネ・デ ・フォンセカが、疲労困憊して絶命した。同じ神父たちは、肥後や薩摩を訪問した。中浦は筑後と豊前に出かけた。」(同上) 

一六二一年に日本管区長になったパシェコは有馬の高来から司祭を派遣することより、往来の危険を低減するために中浦ジュリアンを筑後に定住させた。

「筑後の国においては、イエズス会の一人の神父が定住している。彼はそこから筑前、豊前の国々を訪れている。イエズス会が改宗させた人もかなり多い。」(一六二三年三月七日パシェコ弁明書『秋月のキリシタン』)

しかし、パシェコは口之津で、一六二五年十二月十九日、松浦重政の不在の時、家老らの襲撃を受け捕縛され、翌年に火刑となった。

ついに重政は将軍徳川家光から警告を受け、弾圧に転向することになる。
ここから見えてくるのは、禁教令後の十一年間も南島原は比較的自由に布教活動が可能だった。その信徒の信仰の深さが、後の島原の乱につながる要因の一つとなる。キリスト教に理解を示した重政だが、その圧政から火がついたのは皮肉である。
後述するが、小三郎の弟内記も有馬に入ったことが判明する。

    四、細川忠利と小三郎

興味深いのは、伊勢貞昌が江戸にいた細川忠利に、小三郎の件につき相談をしていることである。筆頭家老と言えども、他国藩主にこのような重大事件の相談をするだろうか。矢野事件発覚から二ヶ月以上経っていることから、藩主家久の命によるものとみていいだろう。小三郎の身辺調査をしている内に忠利と相談すべき何らかの情報を得たと考える。

「猶々細川越中殿へ者今日被成御内談候、彼者いきて居申儀幸ニ候、」(寛永十年十一月十二日伊勢書状『戦国・近世の島津一族と家臣』)

なんと、忠利は小三郎が生きていて幸だったと言っているのだ。

その後、貞昌は薩摩藩年寄衆と相談し、京都所司代の板倉重宗に小三郎を渡すことにした。(十一月十六日書状・同上)しかし、この書状が「遅参着」し、更に書状を送ったのは翌年正月十三日であった。小三郎の京都護送は寛永十一年(一六三四)となった。

忠利は貞昌に、父明石掃部は全国指名手配なので「殊外立入て公儀へも御申肝要之由」(十一月十二日書状・同上)と忠告し、四日後の貞昌書状に京都護送に触れていることから、忠利の策とみて間違いないだろう。
実はこの年七月、将軍徳川家光の上洛があったのである。肥後国転封後初上洛となる忠利は五月九日、江戸を立ち京都へ向かった。肥後八代からは三斎(忠興)が向かった。

忠利は五月二十一日に滞在先の上鳥羽に到着し、筆頭家老松井寄之らと共に七月十一日の家光上洛に備えた。(『綿考輯録・巻三十五』)

さて、六月四日付の重臣長岡監物(米田是季)が熊本から松井寄之に宛てた書状であるが、所々、虫喰い状態である。()の部分は『綿考輯録』編者が推考している。

「(何某)罷下候ニ付貴札悉致拝見(候、先以海陸)御無事ニ去月二十二日大阪へ(御着被成)、翌日鳥羽御越候て被成(御目見候由)、珍重奉存候、」(『綿考輯録巻三十五』)
(何某が)無事に五月二十二日、大阪に着き、翌日、鳥羽で藩主忠利と会うことができ、めでたいことであると伝えている。通常なら「松井寄之」だが、「何某」とは意味深長である。名前を敢えて消したのであろうか。小三郎だろうか。

七月十八日、将軍家光から九州・中国・四国の大名に帰国許可が出るが、忠利だけは足止めをされる。
「我等儀ハ未御暇不出走候」(同上)とあり、「其断難計候事」と忠利は理由が分からないと案じている。しかし、その理由が忠利のキリシタン政策であることを知る。薄氷を履む思いであっただろう。

忠利と三斎は七月二十日に将軍謁見している。(『徳川実紀』)

「きりしたん之儀ニ付而九州にいまた存之様ニ聞召候、はてれん・いるまん并同宿可成程尋出候へとの御諚ニ候、分別を仕、念を入せんさく可仕候、」(『綿考輯録巻三十五』)

(キリシタンの件だが、九州にいまだにいることを聞いているが、バテレン(外国人宣教師)・イルマン(修道士)・同宿(世話人)を取締るのは諚である。よく考えて念を入れて穿鑿すべきである)

何と、忠利は家光から直々に警告を受けたのである。幕府は忠利の緩いキリシタン政策を把握していたのである。慶長十九年(一六一四)の全国禁教令から、二十年も経っていることからしても細川家にとって一大事である。しかし、忠利の江戸証人時代(人質)からの幼少家光との行交を考えると、家光の温情ともとれるが、「身内」忠利の母ガラシャへの思慕からと理解していたのであろう。

忠利と三斎は七月二十九日に帰国の暇を頂き、忠利は八月一日に京都を発して十三日に熊本に到着した。(『熊本藩年表稿』)

忠利は熊本に帰国するや否や、自らキリシタン穿鑿に着手することになり、この頃、絵踏を導入したとされる。(『熊本藩年表稿』)

江戸藩邸留守居に加賀山主馬(隼人の甥)や松野親英(織部・大友宗麟二男親家の息)を配していた。(『江戸城の宮廷政治』) 主馬は寛永十三年(一六三六)にキリシタンから禅宗に転宗するから、この時点ではキリシタンである。(『肥後切支丹史』) また、親英の父・利根川通孝(大友親家)も同年転宗していることから親英もキリシタンであったと思われる(慶長十九年転宗とあるが)。忠利はキリシタン家臣を側に置いていたのだ。

豊前小倉藩時代であるが、寛永五年(一六二八)九月二十四日の「奉書」に「ぶだう酒、昨年江戸へ被遣候程、当年も可被遣様と得」とあり、小倉藩で製造した葡萄酒を江戸藩邸へ送っている。
「ふたう酒作こミ候樽弍つ」(寛永六年九月十八日「日帳」)とあり、一樽は小倉に、もう一樽は江戸に送ったのだろう。ミサ用葡萄酒とみられ、キリシタン家臣とともに、幕府は警戒していたのだろう。

    五、小三郎の行方

小三郎は『薩州旧伝記』に「明石左近」として上町の呉服屋手代で登場するが、同一人物とされる。(『薩藩切支丹史料集成』)

「土持大右衛門宅江大坂落城以後鹿児島上町呉服屋の手代、夜々は折節夜咄ニ参りたる由候、然に其比畿利支丹宗別而稠敷御制禁有之、右手代切支丹宗之由相知レ、此御方ゟ搦取上方江被差上候、其時大右衛門暇乞ニ被参候得者、彼手代大右此内ハ段々叮嚀馳走忝之由相応申候、大右衛門ハ慇懃ニ返答彼是被申候由、右手代ハ如何様成者ニ而候哉と不審ニて存候が、明石掃部子の明石左近と為申秀頼之人ニ而、大坂落城以後当国に忍居被申候、大右衛門ハ其以前ゟ知人ニ而候ニ付、夜々咄ニ被参候由 此人物毎利はつに有之木地がミへ関東ゟ落入御尋之儀稠敷有之只人ニ而ハあらざると夫ゟ被召上候と申説有之候」(『薩州旧伝記』旧伝集六)

(土持大右衛門宅へ大坂落城以後鹿児島上町呉服屋の手代が夜々しげく咄に来た。その頃切支丹宗門は厳しい禁制下だったが、この手代は切支丹宗門である事が知れて、藩主の命で捕縛され京都へ送られる事になった。
その時、大右衛門が暇乞いに行くと彼手代は大右衛門に是迄色々御世話に成ったと礼を言ったので、大右衛門も叮嚀に返答した。
この手代はどの様な者かと疑問に思っていたが、明石掃部の子の明石左近と云う者で秀頼の家来だった。大坂落城の後、当国に忍んでいたが大右衛門はその前からの知人だったので、夜々咄に来たものの由。

此人物は大変利発な素質が見えて、幕府からもしばしば調査があり只者ではないと、それ以後藩に採用されたと云う説もある。)(「大船庵HP」より引用)

小三郎が京都での処刑ではなく、「それ以後藩に召し抱えらた」説があることは興味深い。薩摩藩ではなく、熊本藩かも知れない。確かに、京都へ護送とあるが、その後の記録がない。
イエズス会の修道士(いるまん)の可能性もあり、明石掃部の長男となれば、日本側やイエズス会の記録に残されているはずであるが、今のところ見出せない。つまり、再び逃走・潜伏した可能性がある。これも「忠利の策」であったのか。

『徳川実記』の慶安二年(一六四九)三月二十三日の条である。
「大阪籠城の士後藤又兵衛が子、隠れいたるを、大阪の代官所に搦とり、京職のもとへ送る。齢五十四五なりとぞ」

又兵衛の三男とされる佐太郎が捕縛され、京都所司代板倉重宗のもとへ送られた。しかし、無罪放免となっている。また、五男とされる吉右衛門基芳は医師法橋玄哲として、近衛信尋の待医も務め、伊予川之江に子孫を残した。(『後藤又兵衛の研究』)
推測だが、忠利は板倉重宗と小三郎逃避について話し合ったのではなかろうか。敵将の子とはいえ、宗教家であり、今更徳川家に戦を仕掛けることも考えられない。
後述の林外記の隣人に「明石玄碩」という医師がいたが、南蛮医術を持つ小三郎だったのだろうか。

矢野事件に関した薩摩藩の処分によると、寛永十一年(一六三四)三月八日、永俊尼一家は南海の種子島へ流されたが、種子島氏の保護があり、信仰に捧げたその生涯は慶安二年(一六四九)九月に閉じた。事件の二年後の三月、主膳父子、又左衛門は処刑された。(『薩藩切支丹史料集成』) 事件発覚から三年経っていた。

    六、末子ヨセフと姉

「名誉の死」を遂げた末子ヨセフは大阪の陣の時、享年十六、七歳と思われるが、根拠は『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の「一五九九〜一六〇一年、日本諸国記」に「数日前、(掃部の)出産する妻がまったく回復の見込みのない危篤(状態)に陥ったので、彼(掃部)は早急に大阪の一司祭をそこに赴かせるように懇願した。」とあり、聖体拝領が終わると、奇跡的に回復したとある。しかし、母は産後間もなく死んだとしている。(『続日本殉教録』)

このヨセフの死をコーロスに伝えたのは、共に戦った兄の内記であろう。ここで重要なことは父の死を伝えていないことである。
母モニカと長女カタリナは、モレホンの『続日本殉教史』によると、掃部邸にいたイエズス会士バルタザール・デ・トルレスが「モニカとカテリーナは輿に乗って城内に運ばれました」と大阪城に移動したことになっており、「死」について言及していないが、二人の消息はここで消える。
カタリナの夫とされる岡平内は単独で大阪を脱出したが、父の貞綱(妻は掃部の姉)が捕縛され、自首するが処刑されたとされる。(『史伝明石掃部』)

確かに『駿府記』に「元和元年(一六一五)七月二十九日、今日岡越前守於妙顕寺切腹同息平内梟首明石掃部依為縁座也」とあり、父子ともに死んでいる。しかし、掃部の縁者とあるが、平内はカタリナの夫であろうか。

先述の『武家事紀』の「掃部聟田中長門守」とイエズス会の「内記の義理の兄弟」であるが、その妻はカタリナの可能性がある。
推考だが、関ヶ原の戦いの後に、掃部一族は筑前国へ入り、黒田直之の死後、筑後国へ入った。そこで、カタリナの婿となる田中長門守と出会う。
大阪の陣前に、なんらかの理由によりカタリナも掃部一族に従い、大阪へ向かった。そして、岡平内と出会うこともあり得る。
夏の陣後、掃部の次男内記が筑後の長門守を頼り、モニカとカタリナの死を伝えたと考える。

    七、明石内記

大坂夏の陣後に内記は父掃部と奥州に向かったという伝承がある。司東真雄氏の『奥羽古キリシタン探訪』から引用する。
「寛永十七年(一六四〇)四月上旬に、伊手で捕られられた明石内記は、大阪冬の陣の大阪方切支丹隊隊長明石掃部守重の子であるが、大阪陣中で後藤寿庵の勧めで父子共に仙台入りし、最初高田に落ち、父は安積小三郎、内記は浅香小五郎と変名し、竹駒の玉山金山鉱夫となり、父は(伊達)政宗に随って江戸へ参勤の途中宇都宮で没し、内記は後藤寿庵との交友の便を得ようとしたのか、さらに江刺郡伊手村肝入の菊池六右衛門を頼り来って、十右衛門と改名し、金山に出入し、炯屋を営み鉄砲製造を考えたらしい。このことから匿名がバレて江戸送りを幕府から命ぜられ、途中古川町で罹病し、小山宿で没したと伝えられている。」

又、内記は布教活動をしていたとあり、「内記が、高田へ来て布教をした。内記が、高田へ来て医業を開き、それから竹駒村の玉山金山で堀子をやりながら布教をし、さらに江刺郡伊手村の金山へ来て布教をした。内記が江刺へ去ったのち、気仙地方へ有力な伝導者が入らなかったのか、資料不足なのか、キリシタンを見出すことができない。」とある。

さて、大坂夏の陣で掃部は敵方伊達政宗の家臣後藤寿庵と道明寺の戦いで対峙する。先遣隊の後藤又兵衛基次は政宗家臣の片倉小十郎重綱に既に討たれており(『伊達政宗卿伝記史料』)、延着した掃部らも奮闘するが後退する。翌日、天王寺・岡山の戦いで松平忠直勢と戦うが、行方不明となる。
少し考え難いが、直後、キリシタンであった寿庵の勧めで掃部と内記が仙台に向かったとある。しかし、先述のイエズス会等の記録により内記は陣直後、九州へ向かったことが判明している。

この伝承に信をおけば、内記の広島潜伏後も考えられるが、一六一六年から捕縛される一六四〇年までの二十四年間も仙台藩領に潜伏していたことになる。特に胆沢地区の金山となると、イエズス会司祭のディオゴ・デ・カルバリオは仙台に滞在して後藤寿庵の領地見分村などを訪問しており、また胆沢の下嵐江(おろせ)の銀山に潜伏した。(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項) 江刺郡伊手村の金山も近くであり、カルバリオと接触しているはずである。

内記ほどの敬虔なキリシタンならば、変名したとはいえイエズス会の記録に残るはずである。特に日本を代表するキリシタン明石掃部の記録がないのは不可解である。カルバリオは一六二四年に冬の広瀬川で水牢により凍死している。迫害の嵐の真っ只中にある伊達藩の領地にいることは不可能である。

明石掃部・内記奥州潜伏説の典拠の一つに『江刺郡志』があり、「伝説」の章「伊手村」の「明石掃部守重」についての記述がある。

「大阪落城後奥州に逃れ来り、気仙郡(陸前高田市)より西して山中に道を失ふ。偶々一羽の鳶あり。飛んでは降り降りては飛び行手を示すが如し。守重これを道しるべとして伊手村に至り、赤金菊池氏邸に入る。寄寓すること十餘年。時種子島銃の傳來させし後のことなれば、村民の懇請辭し難く、種子島銃使用の申請書を作製して幕府に送る。これによりて其の所在を知られ遂に捕らへらる々に至りしが、去るに及びて村民深く別れを惜みしと云ふ。」
この伝説は上述の内記ではなく掃部である。さらに『角川日本姓氏歴史人物大辞典三』は「明石内記」について簡潔にまとめている。

「大阪の陣における豊臣方の大名宇喜多秀家の重臣で、キリシタンであった明石掃部守重の子。大阪城落城後に気仙郡高田村(陸前高田市)の玉山金山で堀子となりキリスト教を布教。その後、江刺郡伊手村(江刺市)の肝入を務める菊池家に十余年間寄寓し、名を十右衛門と改て炯屋を営み、請われて鉄砲を製造したという。密告する者があり、捕らえられて江戸送りとなる途中、宇都宮(栃木県)で死亡。布教のかたわら医療技術をもって住民に接し、尊敬の念を集めたという。」(『岩手県姓氏歴史人物大辞典』)

典拠不明だが、掃部と内記の記述が曖昧であり創作の感が拭えないが、父子が生存していたという伝承は興味深い。

    八、内記と有馬

「この戦争中(大坂夏の陣)、又内府様(家康)の死まで、教会は実に静穏であった。」(『日本切支丹宗門史』)

つまり、一六一五年六月から十六年六月にかけての一年間は全国の宣教師らは積極的に布教活動をして、特に転宗者を再び立ち返らせた。中でも先述のオルファネルのようにドミニコ会は顕著な活動をした。

「長崎付近の地方、例えば平戸、五島、薩摩、及び殊に有馬、大村の地方では、宣教師達によって秘密にであったが、福音は絶えず弘布されていた。」(同上)

特に入部間もない肥前日野江藩主松倉重政のキリシタン擁護の姿勢から島原半島は平穏であった。南蛮貿易のメリットが背景にあったとされる。

イエズス会のコーロスによる明石内記の行動報告(『秋月のキリシタン』)を見てみよう。
大坂夏の陣の後、内記は「義理の兄弟のいる筑後に落ち着いていた」が、「そこから、管区長代理の(長崎にいる)ジェロニモ・ロドリゲス神父に手紙を送った」ことが発覚した。ロドリゲスは内記を匿うことを全国のイエズス会宣教師達に指図していたのである。コーロスはこの手紙で掃部の末子の死と内記の生存を知ったものと思われる。

幕命を受けた肥前国大村藩主大村純頼は内記と連絡していた二人を捕縛させ、拷問にかけた結果、「管区長代理が内記と手紙のやりとりをしていること、もう一人は手紙を取りついだことを自白した。」この時、レオナルド木村のことも語り、彼も捕らえられた。レオナルドが捕縛されたのは「一六一六年十二月のことである。」(『イスパニア国王に対するコリャード陳述書』)

また、レオナルドと一緒にいた同宿(司祭・修道士を手伝い宣教の任に当たった日本人信徒)も投獄されたのだが、「彼はディオゴと言い、フランシスコ・パシェコ神父の下で働き、以前は明石掃部に仕えた人である。彼は有馬の地元で内記と一緒にいたところを見られ、また、内記の為に肥後に行くよう船を世話した故に、有罪とされた。」

「どこに内記を隠したを知っているなら、それをはっきり言うように、そうすれば神父に迫っている危険から救うであろう」と言われ、「ディオゴはこれに対して、内記が別れに当たって、自分に広島へ行くことを確言したと白状した。」
このことにより広島にいたことが判明したのである。

さて、「掃部に仕えたディオゴ」はパシェコの下で働いていたとされ、長崎から、その後、平穏な島原半島の有馬に移ったのだろう。先述にあるようにパシェコは有馬で上長(駐在所長)となっていた。残念ながら、内記と小三郎が有馬で出会った記録はないが、内記は一六一五年秋頃に訪ねたと推されること、また、小三郎はマカオにいたと考えられ、兄弟の出会いはなかったと思われる。しかし、その後に有馬に入った小三郎は内記の生存を知り歓喜したことだろう。
内記は小三郎と同じく、中浦ジュリアンに会っていたと考える。当時、筑後にいた中浦と思われる記録がある。

「私は一年間に三度、小倉に行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いたのです。」『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)

命に関わるような危険を冒して信徒に会いに行くことは、命懸けで信仰や司祭を守っている信徒がいることにほかならない。「三度」も行ったのは多くの人キリシタンが豊前国にいたということである。

内記はディオゴ手配の船で有馬から有明海を渡り、肥後に行くのだが、おそらく菊地川を上り、港町の高瀬(玉名)に着いたのだろう。大友宗麟時代からキリシタンが多くいた地(清田領)であり、コンフラリア(信徒組織)が存在していたと考える。
ここから筑後に戻り、さらに秋月街道から豊前国に入り、海路、広島を目指したと思われる。この時、内記一人だったのだろうか。
二人の司祭がいたのではなかろうか。アントニオ石田と中浦ジュリアンである。

内記は潜伏先を頻繁に変えていたのは、確かに摘発の危険を避けるためであるが、大きな理由は宣教師の保護ではなかろうか。
有馬から中浦を豊前、石田を広島に安全に送り届けたのではなかろうか。

一六一五年の大坂夏の陣後に確実に(記録として)豊前に入った宣教師は、先述のドミニコ会のオルファネル、ルエダ、そしてイエズス会の中浦と豊後から入ったとされるペトロ・パウロ・ナバロかフランシスコ・ボリドリーである。(『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)

中浦はその後、数度、小倉に入ったが、一六二四年から小倉城下で捕縛される一六三三年まで、豊前国に潜伏していたと考えられる。

「中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、度々場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)

中浦は島原口之津から肥後、筑後、筑前、豊前と入るが、疲労困憊であった。五十六歳の年である。

「豊前の領主は、長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。」(同年同上)

この宣教師は中浦ジュリアンであることは間違いない。

    九、レジイナ

明石掃部の次女レジイナは大阪城にいた。

「彼女は人質として大阪城中に身を置いていたが、彼女の親切な人となりのおかげで秀頼の母堂(淀殿、浅井茶々)と心を繋ぎ合わせていた。秀頼の母堂は、もし、その戦で良い結果を得たならば、彼女を誰か立派な殿と結婚させようと考えていた。」(ロレンゾ・ポッツェ訳、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第二巻)

しかし、元和元年(一六一五)五月八日、大阪城は陥落し、敵方の兵に囲まれたレジイナは気丈にも掃部の娘と知らせ、徳川家康の元へ連行された。

その後、二条城で家康の側室「オカモ」に預けられたが、八男仙千代、九男義直の母とされる「於亀の方」(相応院)である。(『秋月のキリシタン』)

およそ三ヶ月後の八月四日に家康が駿府に向かって出発する時に、レジイナを呼び、父掃部のことを尋ねた。「父親が戦っている間、私は城の中に留められておりましたので何一つ聞いておりません」と答えた。(同上『日本報告集』)

終戦から三ヶ月経っているが、掃部の生存について確実な情報を得ていなかったのである。

さらに「そなたは明石掃部の娘であるからにキリシタンに相違あるまい。しかし、そなたはキリシタンのままでいるがよい。そして今、そなたの亡父の霊魂をそなたたちの神に託すが良かろう」と言い、着物と金銭を与えて、解放したのである。(同上)

その後、浅井直政(三好直政)に嫁いだとされる。「妻ハ豊臣家の臣明石掃部助全登が女」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)さて、直政(十四歳)も大阪城落城の時、母と共にいた。
「大坂夏の陣落城のとき母と共に千姫君にしたがひたてまつり」(同上)

母はその後、淀君の妹である崇源院(江・将軍秀忠室)とその娘千姫(豊臣秀頼室)に仕えた海津局(浅井一族)である。海津局は千姫と直政たちと炎の大阪城を脱出したのである。
レジイナと直政が婚姻に至ったのは、やはり海津局の判断であろうが、彼女が仕えていた淀殿の「誰か立派な殿」が直政だったかも知れない。

千姫は元和二年(一六一六)に本多忠政の嫡子忠刻(ただとき)と再嫁するが、忠刻は寛永三年(一六二六)に病死した。
忠刻の姉国姫は有馬直純に、妹亀姫は後の小倉藩主小笠原忠真の嫁ぎ、忠真の妹千代姫が細川忠利の室となっている。

さて、大阪城を脱出した直政は寛永三年(一六二六)に将軍家光に召抱えられ、外戚の三好姓に改め、江戸幕府の旗本三好家の祖となる。この年七月、家光の上洛にお供している。
レジイナと直政の間に政盛(一六二四年生)がいたが、「いとけなきより海津に養育せられ」(同上)とあり、何らかの理由により幼少の政盛は祖母海津局に育てられたのである。おそらく、直政仕官の時に、夫婦又は妻のキリシタン棄教が条件となったが、レジイナは拒否し、離縁に至ったのではなかろうか。

江戸では、キリシタン迫害の真っ只中にあり、元和九年(一六二三)に五十人のキリシタンが火炙りの刑で処刑されている。(『日本切支丹宗門史』)

政盛、満二歳の時であるが、一人の姉か妹がいた。驚くことに、この娘は「細川肥後守家臣林外記某が妻」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)となるのである。
つまり、明石掃部の孫が『阿部一族』に登場する「林外記」の妻だったことになる。掃部と細川家との唯一の接点である。このことにより、鴎外の「林外記」像が全く異なる可能性がある。
レジイナは娘とともに、豊前に向かったのだろうか。もし、そうであれば、頼れる人物がいたことになる。直政仕官の年、寛永三年(一六二六)であろう。
なお、直政は寛永七年(一六三〇)、三十歳の若さで病死している。

森鴎外『阿部一族』では、「当主(細川光尚)の御覚めでたく、御側去らずに勤めて居る大目附役に、林外記と云うものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見る事に於ては及ばぬ所があって、兎角苛察(とかくかさつ・細かいことまで詮索すること)に傾きたがる男であった。」とある。

この外記が真の殉死者ではないとした阿部弥一右衛門の相続を嫡子権兵衛にせずに弟達と分割したことが、権兵衛の狼藉に繋がったとされる。つまり、『阿部一族』事件の原因を作った人物とされている。(史実は異なる)

又、阿部一族誅伐隊の表門の射手を担うために竹内数馬を光尚に推薦したのが外記である。数馬はこのことを知り、「好いわ。討死するまでの事じゃ」と言い放ったとされるが、忠利寵愛の数馬が殉死しない自身への当てつけと思ったのである。このように、鴎外の林外記像は阿部弥一右衛門とともに悪評の標的となっているのだが、作為を感じる。

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■師走のお片付け

2021-12-15 13:16:22 | 徒然

 私のデスクの脇にに、キャスターのついた高さ60㎝程の中段一段の天板のないスチールの本棚を置いている。
分厚いスクラップを10冊ほど並べているが、がっちりしているから、その上に直にいろんな資料重ね置きして山になっている。
足元にはキャスター付きのキャリーを置いていて、これにもいろんな資料が二列にそれぞれ高さ20センチほどが折り重なっていて、どこに何があるのやらさっぱりわからない。
奥方から「お正月前だから少しは御掃除してください」と即されて、今日は朝から片付けを始めてみた。
まずはいらないものを捨てようと試みる。古いA4の封筒などを中身を調べながら確認していると、久しぶりに眺める史料に心を奪われて5分10分はすぐ時間を過ごしてしまう。
こういうのを数回繰り返していると1~2時間が過ぎるのは簡単で、つまりは一向はかどらないということになる。
行方不明であった文書のコピーが出てきては、直す(これ熊本弁=片づける、納める)場所を考えて、しっかりここに置いたことを頭に叩きこむ。
インターネットで見つけプリントアウトしたいろんな論考などがぞろりと顔を出す。ペーパーレスの時代などというが、古い人間はやはり「紙資料」が大事物である。これらを一所にまとめていると、またぞろ小山ができた。
パンチングファイルにまとめれば良いのだが、穴があいて文字が読めなくなるのがいやできたが、そんなことも行っていられない。あとでバッサリ穴をあけてとじ込むことにした。
古い熊本史談会の配布資料がたくさん出てきて、これは一部だけ史談会資料に入れ込み後はメモ用紙の箱に入れる。
各地の観光パンフや美術館パンフなども処分し難く、またいろんな方からお送りいただいた史料も顔を見せしばし当時に想いを馳せて見入ってしまう。
どうやら、キャリーの方に綺麗に積み直したということで、お茶を濁した。
なんとか午前中にはかたずけて、昼から散歩に出ようと思っている。

 実は最近奥方が引っ越したいと恐ろしいことを言い出した。地震後緊急避難的に引っ越してきた仮の屋ではあるが、すっかり住み着いてしまい、今更又この本を梱包して外に出すなど、80前の爺様にはとてもできることではない。
「俺が死んでからにしてくれ」と言っているが、どうやら捨てられる運命になりそうな資料の山を眺めると、何とも切ないことではある。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十二)

2021-12-15 08:56:10 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十二)

一説。藤原公國卿早世ありて其子實條卿若かりしかば、和歌の口傳を幽齋に傳へられ
けり。後に幽齋實條卿を田邊の城に迎へとりて養育し、悉く授けられしに、古今集の
説は未傳へられざる中に朝鮮征伐の起りしかば、弓箭取る身は討死の程計り難し、と
て古今傳授の事書きたる書の箱を烏丸大納言光廣卿へ贈られ、預け参らする間、朝鮮
に渡り討死せば實條卿へ給はり候へ、とて添へられし歌、

 人の國ひくや八島も治まりてふたたび返せ和歌の浦浪

 もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへせ和歌の浦浪

光廣卿の返に、

 萬代をちかひし龜の鏡しれいかでかあけむ浦島が筥

其後秀吉遺言して、豊後杵築の男忠興に換へ與へられしかば、光廣卿より筥を
返すとて、

 あけてみぬかひもありけり玉手箱ふたたびかへる浦島の浪

幽齋田邊の城を守られし時、勅命により三條大納言實條卿へ附し傳へられしに、一首
の歌あり、

 古も今もかはらぬ世の中に心のたねを殘す言の葉

以上、常山紀談の記すところ、その儘には信用しかねる點もある。諸本によつて、傳
ふるところ少々づつ違ふ。丹州三家物語・四方の鏡・鹽尻などを參照すると宜しい。

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2

2021-12-15 06:55:48 | 小川研次氏論考

■第四章 明石掃部

          五、田中氏

田中氏の出自は近江国高嶋郡田中村(高島郡安曇町)という説(『寛政重修諸家譜』巻第一三六七)や、浅井郡三川(東浅井郡虎姫町三川)とする説がある。
「三川」説は慶長九年(一六〇四)に吉政が三潴郡の大善寺玉垂宮(久留米市大善寺宮本)に寄進した梵鐘の銘文に「生国江州浅井郡宮部縣子也」とあり、出生地は宮部縣に隣接する三川村とされている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)

さて、『武家事紀』に登場する「掃部聟田中長門守」は一体何者であろう。

一万石の知行から家老格の重臣と考えられるが、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)にも見えない。現在のところ、史料を見出していないが、関ヶ原の戦い後の明石掃部の行動から、田中家との関わりを推考してみよう。

秋月領の布教は一五六九年にイエズス会修道士ルイス・アルメイダにより始まった。藩主秋月種実はキリスト教に対して理解を示していた。一五八二年、念願の教会が建てられることになるのだが、「殿は聖堂を城の下に築くことを望み」、身内から土地や建材を提供させた。(ルイス・フロイス『一五八二年の日本年報』) 

この様なことから、秋月には多くのキリシタンがいた。
一六〇〇年、黒田官兵衛の弟直之がキリシタン家臣と共に秋月に入部するが、一六〇四年にレジデンシア(司祭館)、一六〇七年に聖堂を建立し、「新築は惣右衛門(直之)ミゲルが費用を負担して」いた。(『一六〇七年度イエズス会日本年報』) 

二年間で五、六千人も受洗者がいたという。(『日本切支丹宗門史』一六一四年の項)

禁教令前なので、掃部は下座郡小田村(朝倉市)から堂々と家族らと教会に通っていたことであろう。
秋月で庇護者であった黒田直之は慶長十四年(一六〇九)二月に没する。同じくキリシタンの嫡子直基も二年後に没している。
掃部が筑前国から筑後国へ移ったのは、直之没後直後と見る。
筑後国藩主田中吉政はイエズス会の宣教師に「私は仏教徒であるが、キリシタンの親しい友であり、多くのキリシタンを召抱えてきており、伴天連方と懇意になりたい。」と柳川に修道院と教会建築のための地所を提供していた。(一六〇一、一六〇二年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

また、自ら家臣とともに教会に出向いて、ミサと説教を聞いて、司祭のキリシタンへの優遇希望に対して「そのようにしよう。その点についてご安心ください。私、ならびに私の領国にお望みのことはいかなることでもします。私は教会と堅い親交を結びたい」と返事した。(一六〇六、一六〇七年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

しかし、キリスト教に理解を示した吉政であったが、洗礼を受けることはなかった。(『キリシタン研究』第二十四輯)

小田村にいた掃部は当然、柳川の田中吉政父子と交流があったことだろう。
この時期、掃部の行動範囲はキリシタンが多くいたとされる小田、秋月から田中藩領の柳川、竹野郡田主丸、太刀洗、山本郡木塚(久留米市善導寺)と考えられる。潜伏先は山本郡と推定され、詳しくは後述する。

吉政も黒田直之と同じ慶長十四年(一六〇九)二月に没し、柳川の真教寺(現在の真勝寺)に眠る。墓は本堂の床下にあり、あたかも聖職者を弔うキリスト教会のようである。
父の遺志を継いだ忠政はキリシタンを擁護した。禁教令後の一六一二年に「筑後の柳河には、司祭と修士が各々一人いて、伝道に当たっていたが、この年二百人の洗礼があった。奉行達は捜索をしそうに思われたが、間もなく目をつぶった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

キリシタンを擁護する忠政は掃部と急接近することになる。
さて、「田中長門守」の出自は不明であるが、細川家中に「田中家」所縁のミステリアスな人物がいる。
「田中氏次:兵庫助。江浦城主。のち兄吉政との不和により退去、豊前で細川忠興に千石で仕える。」(『日本版ウィキペディア』)
信憑性に疑問があるが、他にも散見していることから通説となっているのだろうか。しかし、「田中吉政・忠政」の先行研究は多々あるが、依拠する史料が少ないのか、「氏次」に関しては、ほぼ皆無である。
細川家において氏次は田中与左衛門(兵庫、一六四九年没)とされ鉄砲頭千石で仕え(「於豊前小倉御侍帳」)、加増千石となり二千石番頭となった。忠利時代には国惣奉行となる重臣である。
「兵庫」は寛永四年(一六二七)正月元旦「細川日帳」に藩主忠利が「(浅山)清右衛門・與左衛門も、明日名をかはり可申旨、」と「清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成」(『福岡県史・近世編・細川小倉藩(一)』)と命じたことから、與左衛門は「田中兵庫」と名乗ることになった。

さて、「田中氏次」なる人物を次の三点から見てみよう。「兵庫助」「江浦城主」「兄吉政との不和」である。
まず、筑後の「兵庫助」について、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)に「三千百二十石・田中兵庫」とある。
「割帳」の成立は、大坂夏の陣直前に殺害された宮川大炊や田中長門守の名がないことから陣の後(元和元年五月)と考えられ、また、「(知行割帳に)支城に関する言及も見られず、一国一城令の出された大阪の陣以降のものである可能性が高い。」(中野等『筑後国主田中吉政・忠政』)と論考されている。
小倉藩の「兵庫」こと「田中与左衛門」であるが、慶長十九年(一六一四)九月、台風により細川藩江戸屋敷が破損した時に、修理を「田中与左衛門ニ申付」(「部分御旧記」『細川家文書による近世初期江戸屋敷の研究』))とあり、作事奉行だったのか。また、同年十一月の大阪冬の陣前だが、小倉藩の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ(調べ)」(『綿考輯録巻二十七』)の「三番、藪内匠、加賀山隼人組」に「田仲与左衛門(兵庫亮)」とある。同組にはともに惣奉行となる「浅山清右衛門(修理亮)」がおり、「初め二百石」(新・肥後細川藩侍帳)とあり、与左衛門も同格とみる。
つまり、与左衛門は大阪冬の陣前から細川藩に仕えていたことから筑後の「割帳」にある「兵庫」は別人となる。(あくまで「割帳」を陣後成立として)

次は「江浦城主」についてだが、柳川城支城江浦城(みやま市高田町江浦町)は「田中吉政の代其の臣田中河内守城番たり」(『旧柳川藩志』)とあり、家臣で七千石を拝領している。(『筑後将士軍談』)

では、「田中氏次兵庫助」と「河内守」は同一人物であろうか。
参考になるのは同じく赤司城(久留米市北野町赤司)を預かった田中左馬尉清政(一万三千石)だが、吉政の実弟(庶兄の説あり)とされる。(『筑後国主田中吉政・忠政』) しかし、河内守の知行高(七千石)と「家臣」とされることから「河内守」は弟ではない。この時代、藩主が家臣に苗字を与えることは常であった。
また、「兄吉政との不和」についても、慶長九年(一六〇九)十月二十五日付けの寄進状(三潴郡東照寺宛)に「田中河内守」の名があるが、(『筑後国主田中吉政・忠政』) 吉政は同年二月十八日(『寛政重修諸家譜』)に既に没していることから、「不和」は成立せず、「兵庫助」と「河内守」は同一人物ではないとなる。
つまり、小倉藩で仕えた「兵庫」は「江浦城主田中河内守」と別人と考えた方がよさそうだ。

「通説」に従えば一六〇九年以前に「田中氏次(与左衛門)」は親子ほど歳の差のある「兄吉政」と不和になり、浪人後に細川家に仕えたとなるが、しかし、いきなり千石の鉄砲頭とは考え難く、大阪冬の陣直以前(一六一四年)に二百石(推測)で召し出されたと考えるのが妥当であろう。江戸屋敷の作事を仰せ付けられていることから、江戸詰めとも考えられる。

時代は下り、寛永九年(一六三二)十二月、熊本城に入った忠利は田中兵庫・宗像清兵衛・牧丞太夫に国惣奉行を任命しているが、二年後(一六三四)には宗像と牧を罷免してキリシタン河喜多五郎右衛門を当てた。(『熊本藩年表稿』) 
寛永十二年(一六三五)十一月四日、小笠原玄也一家(玄也の父少斎はガラシャ介錯後自害、兄は細川家重臣小笠原備前、小笠原宮内少輔)がキリシタン容疑で捕縛される。これは報奨金欲しさによる農民が長崎奉行に訴えたことによる。忠利が小倉時代から擁護していた玄也らのことが幕府に知れたのである。忠利は何度も玄也に改宗を懇願するが、頑なに拒否する玄也になす術がなかった。親友である長崎奉行榊原職直の働きも虚しく、幕府から極刑の通達が届いた。
玄也らは処刑命令が出るまでの五十日間、座敷牢にいたのだが、田中兵庫の屋敷であった。忠利の配慮としか考えられない。玄也らは形見送りと十五通の遺書を残す。(『新熊本市史史料編第三巻』)
しかし、五十日間の猶予は忠利、職直の意を汲んだ幕府側の配慮でもあったともいえよう。

ここからは推考となるが、一六一七年のイエズス会コーロス徴収文書(小倉編・一六一七年)の信徒代表に松野半斎、小笠原玄也、加賀山隼人、清田志門らと並んで「アンドレ田中」とある。田中兵庫である確証はないのだが、可能性はある。
二ノ丸塩屋町の兵庫邸(現・熊本中央郵便局)に隣接しているのは、後述する大友氏系の清田石見邸(現・熊本県立第一高校)であることも気になる。(『新熊本市史』地図編二十) 

玄也の妻みや(加賀山隼人長女)の遺言の行に歌がある。
「いつもきく物とや人の思ふらん、命つつむる入あいのかね」(『新熊本市史』史料編第三巻、近世』)
(いつも聞けるものと人は思っているが、限りある命を数えている入相の鐘)
夕刻、牢座敷に聞こえて来る鐘の音は近くにある玄学寺・正法院(上鍛冶屋町)であろう。

玄也一家は十二月二十三日に禅定院(現禅定寺・中央区横手)で処刑されるのだが、この寺が田中家の菩提寺になっていることも縁を感じる。
兵庫は嗣子がいなくて、佐久間家から忠助を養子とし、島原の乱で一番乗りの武功を挙げる田中左兵衛とされる。
しかし、上述の「ウィキペディア」に「田中一族には吉政の弟に田中兵庫助氏次がおり、この系統が肥後細川藩士として続いていたが、吉政とは不和だったためか、柳川の田中本家断絶の折にも吉興に嗣子がない折にも養子を送ることはしていない。」とあるが、兵庫には嗣子がいないので齟齬がある。やはり疑念が残るが、ここで止まるわけにはいかないので、ミステリアスな人物として先に進むことにする。
しかし、著者は「掃部の聟」である「田中長門守」と「田中兵庫」が深い関係があるようにみえる。

           六、坂井太郎兵衛

坂井太郎兵衛は筑後の山本郡木塚(きづか・現在の久留米市善導寺木塚)の富裕な庄屋であり、ドミニコ会士の十二年間(一六〇五〜十七)もの宿主であった。屋敷内に教会を建てていたが、禁教令後に破却された後は一部屋を礼拝堂とし「ロザリオの聖母」と命名していた。(『日本キリシタン教会史』) 

「田中長門守」発覚から、さらに幕府による捜査が進み掃部潜伏先が判明することになる。
『日本切支丹宗門史』の一六一七年の項に記されている。

「筑後では、よく信仰の中に育ち、熱烈なキリシタンのパウロ・サカイ・タロビョーエ(坂井太郎兵衛)が、家にヨハネ明石掃部を宿したことを弁明するために江戸の政庁に呼び出された。彼は、その理由を述べて柳河に帰ったが、着早々、同国の奉行の一人イシザキ・ワカサドノ(石崎若狭殿)の前に呼び出された。イシザキは彼に棄教せよと厳命した。彼はこれを拒絶して投獄され、財産は没収された。」
太郎兵衛は一六一七年七月頃に江戸に行き、八月に投獄されたと考えられる。しかし、「宿主パウロ・サカイ」の掃部隠匿について若干異なる二つのイエズス会の報告書の一部を紹介する。

「パウロ・サカイ太郎兵衛という名の一人のキリシタンがいた。この人は、この国に吹き荒れていた迫害の嵐に追われ、彼が命じられていた江戸勤番を解かれ国へと戻った。この国奉行の一人であるイシザキ若狭殿は改めてこの人を呼び、日本国の将軍と筑後の国の領主が定めた掟に従い、イエズスの教えを棄てる様に促した。」(「カミロ・コンスタンツォのイエズス会総長宛、一六一八年・日本年報」)

「そのころ彼は、明石掃部ジョアンというキリシタン武士を自分の家に匿ったということで、国王(将軍)から訴えられた。内府(家康)はこの明石掃部を死刑に処するために、捕らえようとしていたのである。というのは、内府が先年、秀頼に対して起こした二度の戦争(大阪冬、夏の陣)、また、以前、秀頼がまだ幼かったとき、その後見人たちが内府に対して行った戦争(関ヶ原の戦い)のとき、この武士は、名望のある武将として、常に内府に反対の立場をとったからである。しかし、この訴えは偽りで、実際には明石掃部を自分の家に泊めたことはなかったので、彼は筑後の国から江戸へ連行されたとき、たいへん軽い気持ちで出掛けていった。そして、前記の理由で無実なので、その訴えから逃れることはできるだろうが、キリシタンであるという訴えからは逃れ得ないだろうと思っていた。そうなれば、自分の逮捕は彼の非常に望んでいた殉教に道を開くだろう。と考えていた。だが、彼は両方の訴えについて、無罪の判決を受けた。」(「クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛、一六一九年一月三〇日・日本年報」

なぜ、カミロ・コンスタンツォは掃部の件を記さなかったのだろうか。カミロは禁教令による日本追放の一六一四年から二十一年の再入国までマカオにいた。つまり、この報告書はマカオで書かれていたことになる。長崎からの情報はフェレイラと同じはずである。
日本語の誤訳も考えられるが、太郎兵衛の捕縛命令をした石崎若狭守の名もあることから考えにくい。

カミロは一六一一年の末まで、細川忠興から追放されるまで四年間、小倉で活動していたこともあった。
また、後述するが一六一四年の日本追放の時、明石掃部の長男小三郎が同船し、マカオに一緒にいたと考えられる。
敢えて掃部の名を消し、太郎兵衛を「江戸勤番」としたのかも知れない。

一方、長崎で殉教調査を終えたフェレイラは「明石掃部を泊めていない」とし、詳細に報告している。
中立であった外交官レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』に詳細な記録の方を記したと思われる。しかし、当事者であるドミニコ会の坂井太郎兵衛と明石掃部に関する報告は見当たらない。当時、対立していたイエズス会の太郎兵衛隠匿否定説に意図を感じる。つまり、ドミニコ会があえて隠した真実である証拠ではなかろうか。しかし、それは「明石掃部」ではなく「明石内記」の可能性がある。

太郎兵衛は掃部を匿っていたとの疑義から、弁明するために江戸に向かう。
これも推考だが、訴人吉興の情報かも知れない。久留米は吉政の次男吉信が支城城主として入っていたが、慶長十一年(一六〇六)に死去し、吉興が移ったとしている。(「筑後之国やなかわにて世間とりさた申事」『秀吉を支えた武将田中吉政』) また、元和三年(一六一七)頃、公事沙汰の結果か不明だが、吉興は幕命により生葉・竹野と山本半郡(三万石)を分知されたとある。(『久留米市史』)

吉興が領地内での掃部や太郎兵衛らの動向を把握することは容易であったことだろう。

さて、太郎兵衛はいつからキリシタンだろう。まず考えられるのは、かつての藩主小早川秀包(ひでかね)時代である。毛利元就の九男であるが、兄である小早川隆景の養子であった。天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州国分により筑後三郡を領することになった秀包は妻マセンシア(大友宗麟の娘桂姫)と共に敬虔なキリシタンであった。

「坂井太郎兵衛パウロは筑前の旧家坂井氏の出である。」(チースリク『秋月のキリシタン』)とあるが、萩出身の毛利家臣であったという説もある。(『長防切支丹誌』) そうであれば、秀包の家臣だったと考えられ、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い後に西軍だった秀包が去った後に残り、庄屋となったことになる。

この時、久留米城にいた秀包の妻マセンシアと子どもらと宣教師達を助けたのが、シメオン黒田官兵衛である。(『日本切支丹宗門史』) 子どもらには養女がいた。マセンシアの姉の子である。後の宗像大社大宮司宗像氏貞の養子となる益田景祥(かげよし)の後室となる。(「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」『沖ノ島研究』第六号)

関ヶ原の戦い直前のことである。

「シモン(秀包)とマセンシアは当初、寄付したこと以外に、数々の恩恵をかの修道院に与え、司祭居住用の家屋を新たに設け、司祭には荷重であった教会を建てた。」(フェルナン・ゲレイロ編『イエズス会年報集』一五九九―一六〇一年、日本諸国記)

一六〇〇年当初、久留米城下に教会が建てられたが、現在の久留米市役所に位置し「両替町遺跡」として十字架紋瓦や遺構が見つかっている。
また、「領内のキリシタンは別に教会を建てた。」(同上)とあり、この教会は善道寺木塚に居していた坂井太郎兵衛が敷地に建てた教会と考えられる。

「パウロ・サカイ太郎兵衛と言う名の一人のキリシタンがいた。この人は非常に熱心なキリシタンで、彼がキリシタンである事は異教徒の間でも良く知られていた。」(カミロ・コンスタンツォ『一六一八年度イエズス会日本年報』)

しかし、「マトス神父の回想録」に「久留米において秀包が去ってのち、新左衛門ディオゴというキリシタンが家の裏に神父が泊まるための藁葺きの家を建てた。神父はキリシタンの告解を聴くためにそこへ行った時、毎年一ヶ月前後そこに泊まった。」(『キリシタン研究』第二十四輯) とあることも留意したい。

太郎兵衛は筑後キリシタンの柱石的存在であった。イエズス会により受洗したが、後に『ロザリヨ記録』の著者であるドミニコ会士ユアン・デ・ルエダを教会に招き、親交を深め、会士の宿主となり、ロザリオ会の組親となっていた。(『日本キリシタン教会史』) 

慶長十八年十二月二十二日(一六一四年一月三十一日)に江戸幕府による禁教令が発令され、宣教師らは一六一四年十一月七日、八日に長崎の福田湊からマニラ、マカオへ追放された。

「内府(家康)がすべての神父を国外追放に命じた迫害が起こって数ヶ月後、パウロ(太郎兵衛)はルエダ神父の宿主をしていた。五人(家族)とも聖ロザリオ会員であった。」(『日本切支丹宗門史』)

また、ルエダは禁教令下の一六一五年から一六一六年七月までの間に小倉に入ったと思われる。(『ロザリヨ記録』) 

そして宿主になった聖ロザリオ会員のシモン清田朴斎(正成・鎮忠弟)は一六二〇年、家族と共に忠興の命令により処刑された。(『日本切支丹宗門史』)

元和三年(一六一七)の『コーロス徴収文書』の筑後国の段に「坂井右衛門三郎」の名があり、太郎兵衛の身内と考えられる。太郎兵衛は翌年の一六一八年に処刑されるが、この年は獄中にいたと考えられる。信仰を固守するために、太郎兵衛に代わり右衛門三郎が署名したのだろう。
前述のように、信仰に生きる掃部らは当然、筑後国でドミニコ会士司祭のルエダやオルファネルと出会っていることは容易に想像できる。
最後の証人である太郎兵衛は江戸で尋問を受けるが、無罪となり国に戻る。しかし、幕府の監視は続いていたと思われる。つまり、泳がせて「明石狩り」である。

田中忠政は帰国直後の太郎兵衛捕縛を石崎若狭介秀清に命じる。若狭は三六五〇石を拝していた家老である。(「田中家臣知行割帳」)
幕府の監視もあったが、明石一族と領内のキリシタンを保護するための策だったかも知れない。

「殿(忠政)がいかに転宗を命じても、我々の敵、よそ者ともいうべき友人、親戚が説得しても、それは霊魂を亡ぼそうとしたがゆえに、彼は転ぶことも信仰を棄てることもよくしなかったからである。このパウロ(太郎兵衛)は立派なキリシタンであった。それゆえ、殿は転宗させるために彼の逮捕を命じたのである。」(『日本キリシタン教会史』)

信仰を固守した太郎兵衛は八ヶ月間、牢獄にいたが、一六一八年四月十三日に柳川の刑場「斬られ場」(柳川市水橋町)で処刑されたのである。(『日本キリシタン教会史』)

キリシタンを擁護していた忠政であったが、幕府の監視もあることから苦渋の決断であっただろう。しかし、元和六年(一六二〇)八月七日(新九月三日)に忠政は嗣子の無いまま没し、田中家は改易となった。豊臣恩顧の忠政だったが、キリシタン政策に危機感を持った徳川方の処断とも言えよう。
実はオルファネルと小倉藩の人物が繋がることにより、奇妙な相関図が浮かび上がる。

           七、久芳又左衛門(くばまたざえもん)

一六一八年二月二十五日(旧元和四年二月一日)、「ヨハネ・クバ・マタザエモン」は細川忠興により小倉で斬首された。中津城にいた忠利の家老であった。処刑された者は二月二十五日から三月一日までの五日間で二十五人、二歳と六歳の子供もいた。七月には十二人と、この年だけでも三十七人(別に一人牢獄にて衰弱死)もキリシタンという名目で処刑された。(『日本切支丹宗門史』、バルトリ「イエズス会史」抜粋一六一八年補遣『一六.七世紀イエズス会日本報告集第二期第二集』) 

まさに「小倉の大殉教」である。同日、又左衛門と共に処刑された「トマス・クチハシ・ゼンエモン」(櫛橋善右衛門)も忠利の家臣と思われる。
翌日、両者の子が中津で斬首され、三月一日には志賀ビンセンテ(市左衛門)も含む七人が倒磔(さかさはりつけ)にされた。中津で処刑された者は三日間で十二人にも上る。忠利の側近を中心に処刑していることから、まさに忠興の忠利への強い意図を感じる。

「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(オルファネル『日本キリシタン教会史』) 

忠興は何故、この年に大量殺戮を行なったのだろうか。
死刑執行は前年の元和三年(一六一七)に決定されたと考えられることから、まず、イエズス会日本管区長マテウス・コーロスの信徒宣誓書である『コーロス徴収文書』が、この年の八月(旧七月)に成立していたことに注目する。
この秘密文書の忠興側への漏洩の可能性である。

署名した四十八名に、小倉には重臣・加賀山隼人、松野半斎(親盛・大友宗麟三男)、松野右京(正照・大友義統三男、半斎の養子)、清田志門(朴斎)、加賀山主馬、小笠原玄也などがおり(隼人は一六一九年、志門は一六二〇年、玄也は一六三六年に殉教)、 中津には処刑された「久芳寿庵」「櫛橋理庵」(トマスではないが同一人物とみえる)「志賀ビセンテ」もいる。これらの多くの家臣は慶長十九年(一六一四)に忠興による転宗命令に従い、転び証文を出していたが、忠興にとっては驚愕の事実であったことだろう。しかし、多くの重臣側近らは処刑から外されていることから、忠利との関係者を狙い撃ちした可能性がある。

次に忠興は先述した筑後国の田中家公事沙汰騒動に非常に関心を持っており、その後も元和三年(一六一七)十一月十八日に「田中筑後身上の儀、さのミ替事有間敷候事」、また、元和四年(一六一八)六月二日にも「肥後の事、田中事、さしたる儀も之在る間敷と存じ候事」と田中忠政の身上について忠利に警告文の如く執拗に書状を送っている。「肥後の事」は後年改易される加藤忠広を指している。(『秀吉を支えた武将田中吉政』)
これはまるで「お前も田中のようなことをしたら同じ目にあうぞ」とも取れる。
つまり、忠利のキリシタンの擁護への警告である。
コーロス文書の漏洩、キリシタンに関する情報は忠興の内通者からもたらされていたのだろう。

「小倉の大殉教」は嫡子忠利の改心(改宗)への警告でもある。忠利は文禄四年(一五九五)に母ガラシャにより、忠興に秘して兄興秋と共に洗礼を受けていた。(ルイス・フロイス「イエズス会一五九五年度年報」)

忠興にとっては御家存続に関わる重大なことであり、当然の決断である。しかし、キリシタン忠利の心中如何に、親子の確執はここから始まったのかも知れない。さて、忠利の家老久芳又左衛門であるが、『日本切支丹宗門史』の「クバ」は「久保」でなく「久芳」である。

細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)

『萩藩閥閲録』によると、久芳氏は毛利氏の家臣団に見られるが、安芸国賀茂郡久芳(東広島市福富町久芳)を本拠地としていた。又左衛門はこの一族であろうか。
先述の坂井太郎兵衛も毛利家臣であったとあり、坂井氏は「戸野郷」を知行としていた。現在の広島市河内町戸野で、久芳村と隣接していたのである。
二人は繋がっていた可能性はある。では、いつから又左衛門は細川家家臣となったのだろうか。

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦い後、敗軍の将となった西軍の総大将毛利輝元は周防・長門二国への減封となった。この時、加増され豊前に入った細川家に毛利・小早川旧家臣が召抱えられた。乃美(のみ)新四郎景尚(浦主水正景嘉)、包久内蔵丞(景真)、椋梨半兵衛らがいる。又、村上水軍庶流の能島村上系の八郎左衛門(景広)、次郎兵衛、来島村上系の景房、少左衛門が細川家水軍充実のために仕えた。(光成準治著『小早川隆景・秀秋』)

乃美四郎景尚(浦主水正景嘉)は小早川隆景の率いる小早川水軍の舟大将乃美宗勝(浦宗勝)の子である。ちなみに妻は村上景広の娘である。(『萩藩諸家系譜』)

また、他に「東右近介」というものが「卒然として豊前に趣、細川忠興に仕えた。」とあり、「右近介は村上隆重(景広の父)の長男で吉種といった。彼は妾腹の子であったので、弟の景広が正嫡として、芸州笹岡城主を継ぎ、吉種は東家を継いだ。」(『村上水軍史考』)とある。つまり、兄弟ともに細川家に仕えたことになる。
興味深い事に忠興寵臣の「村上八郎左衛門(景広)」がキリシタンであったことだ。『花岡興輝著作選集』)
天正十四年(一五八六)、羽柴秀吉の九州平定が始まるが、この時の軍監がキリシタン黒田官兵衛であった。毛利輝元や小早川隆景らにキリスト教布教の協力を取り付け、下関に教会を建てるに至ることになる。
官兵衛と共に下関にいたのが、日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョとルイス・フロイスである(『日本史』十一・下関で第一巻を書き上げている)

「官兵衛殿は、下関から二里距たったところにある小倉という、敵の城を包囲するために同所を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、昼夜、機会あるごとに兵士たちに説教を聴聞させ、十分に教理を理解し準備された者は、我らがいる下関に遣わして洗礼を受けさせた。」(同上)

この戦場にて「日本には、往昔の国主たちの特許状によって、当初から、全海賊の最高指揮官をもって任ずる二人の貴人がいる。(中略) 彼らの一人は能島殿であり、他の一人は来島殿と称し、官兵衛殿に伴ってこの戦に従っている。官兵衛殿はこの人にキリシタンの教義をすべて聴聞させた。彼は教えを理解すると、洗礼を受けるため、彼とともに聴聞した幾人かの家臣とともに戦場から下関に向かった。」(同上)とあり、「受洗した来島殿」が司祭を安全に航海させたのである。この時の能島村上当主だった村上元吉は関ヶ原の戦いで戦死したので、受洗の確認はできないが、景広らと共にキリシタンになっていたことだろう。
小早川秀包(ひでかね)や熊谷元直も受洗していて、久芳又左衛門も同時期にキリシタンとなったと考えられる。
しかし、慶長十九年(一六一四)の忠興転宗命令に従い、景広と又左衛門は棄教していた。(『花岡興輝著作選集』) 
忠利が江戸から中津城に入ったのは慶長十一年(一六〇六)十二月である。又左衛門はそこから家老職についたのだろう。

余談だが、毛利旧臣から細川藩に仕えたキリシタンがいる。「仁保惣兵衛」である。惣兵衛も景広と又左衛門と同時に棄教している。「輝元公御代分限帳」(『下関市史 資料編一』))の「御馬廻衆」に「仁保惣兵衛 百九十八石九斗八升一合」とあり、同一人物であろう。惣兵衛は寛永元年(一六二四)八月十日『細川日帳』に代官に関する記録がある。
仁保本家筋にあたる仁保隆慰(たかやす)や元豊の系図には見えないが庶家と思われる。
また一族と見られるが「仁保太兵衛」という変わった経歴の家臣がいる。
太兵衛は幼少期には彦山座主忠宥のもとで育てられ、元和二年(一六一六)に二十七歳の時に召抱えられた。元和九年(一六二三)には惣奉行となっている。(『肥後細川藩拾遺』)
出自は『細川家家臣略系譜』には毛利期の門司城番だった隆慰(常陸介)の嫡男元豊(右衛門大夫)の系列とされているが、『萩藩諸家系譜』には、元豊の男子は元智一人だけである。しかしながら、忠興から重用されていることから、一角の人物であったのだろう。縁者に細川忠利に殉死する宗像加兵衛・吉大夫兄弟がいる。(『綿考輯録・巻五十二』)
現在、英彦山神宮の宝物として「華鬘(けまん)仁保太兵衛所納」が現存する。

さて、久芳又左衛門だが、ドミニコ会士ハシント・オルファネル神父の貴重な記録が伝わる。

「ヨハネ(久芳)は既に、一六一四年に不幸にも棄教していた。一六一五年、彼がオルファネル神父を厚遇するや、神父は再び彼を天主に導いた。」(『日本切支丹宗門史』) 

前述の通り、忠興の命により又左衛門は棄教していたのだが、翌年にオルファネル神父によりキリシタンに立ち返ったのである。神父自身による報告書によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(『日本キリシタン教会史』)とあり、神父が又左衛門の家に泊まっていたのは一六一五年の初夏と考えられる。

慶長二十年(一六一五)五月七日(新六月三日)は大阪の夏の陣の終結した日であるが、陣の後と考える。
一六一五年四月初旬、長崎にいたオルファネルはその年の十二月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向に長途の巡歴をしていたのだ。(『日本キリシタン教会史』)

ドミニコ会は一六〇九年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリアに起因)の組を結成し、禁教令後に顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) 特に棄教した多くの信徒がキリシタンに立ち返ったのである。このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。
一六二二年の「元和の大殉教」では、五十五人処刑されたが、宣教師二十一人(オルファネル含)を除いた三十四人の内二十一人がロザリオの組員であったことが物語っている。

オルファネルは筑後のロザリオ組頭坂井太郎兵衛邸に滞在した後に秋月街道の八丁峠を越え田川郡から企救郡小倉を目指したと思われる。しかし、中津に宿泊することになるが、その時の状況を詳細に伝えている。

「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。したがって、キリシタンはパードレ(神父・オルファネル)に会いに行くのが至難の業だと感じていた。しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいることを知ったので、殿の居住地・小倉の市(まち)へ辿り着きたいと思った。
このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パードレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタンは物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないかと懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜になったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使者を送った。

この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(同上)

この時、加賀山隼人が小倉におり、忠利も中津にいたと考えられる。実際、忠利の軍勢は大阪夏の陣には参戦していない。下関で陣を備えて大阪に向かったが、間に合わなかったのである。(忠興は側近とともに先に発ち、家康の警護)

忠興により棄教させられた又左衛門は、再びキリシタンとなっていた。この一連の行動は当然、忠利の知りうるところとみる。
オルファネルはその後、豊後、日向を目指すことになるが、日出藩家老加賀山半左衛門(隼人の従兄弟・一六二〇年殉教)にも会ったと思われ、日向では縣(あがた、後の延岡)藩領に入った。

「日向では、ドン・ミカエル(有馬直純)の叔父ヨハネ・トクエンと、古賀のダミアンによって歓待された。」(『日本切支丹宗門史』) とあるが、藩主直純とも会った可能性はある。

 

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■赤穂浪士討入りによせて「御預人記録」2

2021-12-14 06:40:18 | 史料

 右伯耆守様にて可被成御渡由に付、御近所之儀に■候間、細川和泉守(宇土支藩)屋敷迄、人數寄置可申由申達置、和
 泉
守屋敷へ、人數並駕籠等揃置、伯耆守様へ留守居罷出候處、控居候様御指図に付、御門前に相控居候處、夜五時(8
 時)
四十六人泉岳寺より伯耆守様え参、御門内え御入被成、御楯置、暫時刻押移候而請取、両人並駕籠十七挺、舁人斗
 御門内
へ入候様にと、御徒目付衆を以被仰聞候に付、家老用人も差越候に付、此者も入申度由、留守居より申達候へ
 は、左候は
ば三人共可被罷通由に付、家老、用人、留守居、御門内に罷通、右之外請取人小姓二人、刀屬等入候長持支
 配之歩使番ニ人、駕籠支配歩小姓一人入之、家老用人留守居此三人御徒目付衆案内にて御玄關え上り相居候處、伯耆守
 様並御徒目付水野小左衛門様、鈴木源五右衛門様御列座、家老四人留守居被召出、伯耆守様より、請取人之儀、今日於
 御城被仰渡有之候に付、則御渡被成候間、受取可申由にて、御預十七人名付目録を以、大石内蔵助
一人御呼出、十七人
 揃候上、御渡被成候旨被仰聞候に付、家老御請申上候、先御廣間に控居可申由にて、其席退出御廣間に控居候處、其内
 御預人え被仰渡有之様子にて、其内小姓頭より相斷、駕籠を御門内に入、御預人を両人宛、御徒目付衆同道にて、御玄
 關より被出候を、小姓頭駕に立添、御預人え何となく改申に不及候得共、御法之儀之由致挨拶、懐中をも改、一人宛駕
 籠に乗せ、御門内に揃置、不殘受取候段、御徒目付衆え相達候上、御門くゝりより出、御門外に段々並之、揃候以後、
 留守居並先拂足輕四人、其次小姓頭、先拂足輕十一人、其次用人、左候ひて御預人乗候駕籠十七挺、但一挺騎馬二騎、
 歩小姓二人、足輕十人宛附、大提灯一張、箱提灯二張宛、其跡御用人之道具入候長持二棹爲持之、支配人歩使番並才料
 之足輕四人附之、跡乗小姓頭、惣押家老、夜半過芝下屋敷へ着、座敷之上迄駕籠を舁入、小姓頭、留守居致介添、駕籠
 より出座敷、兩間分差置候、御預人名前左之通、

  大石内蔵之助      吉田忠左衛門
  原 惣右衛門      片岡源五左衛門
  間瀬久太夫       小野寺十内
  間 喜兵衛       磯谷十郎左衛門
  堀部彌兵衛       近松勘六
  富森助右衛門      潮田孫之丞
  速水藤左衛門      赤埴源蔵
  奥田孫太夫       矢田五郎左衛門
  大石瀬挫衛門

一御預人受取候即夜、仙石伯耆守様より、御預人之殘道具、御渡可被成候由申來候に付、早速請取人差で候處、鑓長刀十
 本半弓一張御渡被成候、
一御預人受取相濟、芝屋敷え無異議着之段、松平美濃守様、御用番稲葉丹後守様、留守居を以御届仕、自身可相勤候得と
 も、今晩夜更候に付、以使者御届仕候段申達、仙石伯耆守様、水野小左衛門様、鈴木源五右衛門様えも御届之使者差出
 候、翌十六日、美濃守様、丹波守様、土屋相模守様へ自身罷越、殘老中様えは使者差で候
一越中守、前以芝屋敷え罷越居、即夜御預人え致對面候事、
一即夜より御預人え二汁五菜之料理、晝は菓子をも出、酒は御用番様え相伺候上出候事、
一即夜御預人え小袖二つ、宿衣一通宛、其後小袖一宛、翌年始に二宛、上帯下帯足袋迄遣、小袖等古成、又は損候得は、
 時々新遣、御仕置之節は、小袖二麻上下一具宛、上帯下帯足袋をも遣候事、
一越中守、十五日十六日兩夜、芝屋敷え致逗留候、其後自身罷越居候に不及、家中計差置候様、土屋相模守様ゟ御差圖に
 付、折々日歸に罷越候事、
一翌十六日、御用番稲葉丹後守様え左之趣相伺候處、小書之通御返答御座候事
一昨日私え御預被成候者共之儀に付、奉伺候覺、
  一自然下屋敷近所火事之節は、風之奉公次第、自分別屋敷え遣可申哉之事
    此書付之通、入念儀思召候、大罪人とは違可申候、當分御僉議之内御預之儀候間、其趣旨存申付候様
  一相煩候はゝ、手醫師に藥計用可申哉之事
    此通苦間敷候、
  一少手具候者有之候、先手醫者之療治申付置候、此以後如何可申付哉之事
    右同斷
  一櫛道具望候はゝ相渡、行水、髪さかゆき、爪等取候節、人を付置可申哉之事
    此通苦間敷や、髪さかやき、爪取候儀は、無用可仕候
  一楊枝望候はゝ相渡、たはこも給候様可申付哉之事
    此通苦間敷候、
  一料紙硯望候はゝ、相渡可申哉之事
    右同斷
  一若親類縁者之方ゟ、書状音物差越候はゝ、如何可申付哉之事
    書通は無用、依品苦間敷由、
     以上
               細川越中守使者
    十二月十六日         匂坂平兵衛
 右伺相濟候以後、御預人え火鉢、火燵、行水、風呂等申付候事

     
   此書付通御聞届、入念思召候由
               堀部 重蔵
    實は右重蔵弟に而御座候、他家養子に參り候に付、名字改申候
               成田猪右衛門
  右両人之者、私家來に而御座候、今度御預被成候堀部彌兵衛と申者之又甥に而御座候、依之兩人共に遠慮申付置候
  以上
               細川越中守使者
    十二月十六日         匂坂平平兵衛
 右重蔵、猪右衛門儀、遠慮申付候處、御預人翌年御仕置被 仰付候以後、稲葉丹後守様え留守居を以相伺候處、勝手次
 第召仕候様、乍然當月の御用番様え相伺可然由、御取次を以被仰聞候に付、二月廿日直に御用番但馬守様え参上相伺候
 處、被成御承知、少も御構無之候間、前々之通召仕候様被仰聞候事、

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十一)

2021-12-14 06:34:50 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十一)

 もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへせ和歌の浦浪

 雑部「おなじ時烏丸蘭臺へさうしの箱まゐらせし時」と詞書あり。おなじ時とは、
田邊籠城のとき。烏丸蘭臺とは幽齋の歌弟子烏丸光廣のこと。「さうしの箱」古今傳
授のこと書きたる書冊の箱と云ふ意なるべし。歌意、ここに仔細にあつめ記したる筆
の跡を究め覓めて、精進怠らず、昔の如き盛時に歌道を復したまへや、頼み申すぞ。
「もしほ草」藻汐草は掻き集むるものなるゆゑ、物書き寄せ集むることに用ゐ、やが
て一般の文藻の類を意味す。もしほ草、かきあつむ、跡、かへせ、和歌の浦浪、いつ
れも互に縁語を成す。「昔」幽齋が理想としたる和歌の昔は、二條家の祖なる定家の
時代、更に遡つては古今集の時代までにして、それより以往の上代を意味せず。第四
句、一本に「昔にかへれ」とあり。さて、幽齋傳授の事に就きては、常山紀談巻之十
四に詳細を記してあるので、参考まで全文を左に轉録する。

 大阪の軍兵一萬七千を以て、田邉の城を攻る。細川忠興は奥州に赴き、父幽齋城に
有り。三刀谷孝和大剛の人にて度々切つて出て防ぎ戰ふ。幽齋和歌に長じたる人な
り、古今集の秘訣爲家卿の記されしを殊に秘藏せられしが、兵火の爲に焚けん事を桂
光院智仁親王慮らせ給ひ、使を以て、彼の古今集、源氏物語を禁裏に參らせよ、とな
り。又烏丸大納言光宣卿勅をうけたまはりて城に赴き給ふといへり。則其書を奉る。
とて、

 古も今もかはらぬ世の中に心のたねを殘す言の葉

又烏丸光廣卿の許へ、封じたる歌書をやるとて、

 もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへせ和歌の浦浪

斯る處に前田徳善院を禁裏に召し、田邉の城攻和平の事を勅命有りければ、寄手圍を
解きて幽齋城を出でられけり。光廣卿幽齋の許より送られし書未だ封を開き給はざり
けるが、返し、

 あけてみぬかひもありけり玉手箱ふたたび返す浦島の浪

幽齋返に、

 浦島や光をそへて玉手箱あけてだに見ずかへす浪かな

 

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■緑陰の散歩道消滅の危機

2021-12-13 14:52:06 | 熊本

 今日の散歩は昼食後となった。ダウンでは暑かろうと思いウインドブレーカを羽織って出発するも、歩き出して暫くして後悔させられてしまった。
良い天気で風もなく暑い。お荷物になり邪魔になってしまった。

自衛隊の西ブロックの裏手(東側)の路側帯を歩いてそろそろ自衛隊の東門が近づいて来たところの樹木に、写真のような伐採の告示がしてある。なんと明日から始まるらしい。
赤いリボンが巻き付けられた木が切り倒される。ざっと8割方という感じだ。ちなみに南側に回ってみたら28本の内残るのは7本だけがった。
夏には緑陰を作ってくれる大切な散歩道だったが、何とも無残である。
そして、その間引き跡を思うと、景観的に誠に面白くない状態になる。熊本空港から熊本市内に入るメーンルートだけに大いに考えていただきたいものだ。
過去にも切り倒された樹木は、伐根されることなく残されているから、高木にならない樹木に植え替えるということにはならないようだ。
熊本は「森の都」と呼ばれているが、私は必ずしもそうは思わない。上熊本駅駅頭におりたった夏目漱石が熊本を見た最初の感想がそうだったとされるが・・・その言葉とおりではないように思う。

  

 写真左手が健軍自衛隊の西ブロック、此の歩道+自転車道の右側に2+2車線の自動車道路があり、その右手にも歩道+自転車道がありこちらにも赤いリボンをまかれた木が多数見受けられる。その東側に自衛隊の東ブロックがある。

ほとんどが熊本の県木の「クスノキ」である。写真左の木は「トウカエデ」こちらは大木でもなく衰弱しているとも思えないが、いまではすっかり葉を落としているが紅葉が綺麗だった。

自衛隊の正門通りには数百本の桜が、健軍迄続いているが、この桜の方がときどき枝が折れてぶら下がっていたり、根元に洞ができて切り倒したが良いのではないかと思う木が多数見受けられるが、こちらはその気配がない。
なんだか片手落ちの気がする。

 

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■赤穂浪士討入りによせて「御預人記録」1

2021-12-13 10:03:14 | 史料

     毎年この時期になると、赤穂浪士の討ち入りが思い出される。その中でも討ち入り後の義士については今日まで細川家の手厚い取り扱いが称賛されている。今回は二回に亘り、細川家の記録「御預人記録」の十五日・十六日に就いてご紹介する。


一、元禄十五壬午年十二月十五日暁七時分、浅野内匠頭殿家来之牢人四十六人、吉良上野殿本所屋敷え押入、上野殿并出合
  候家来討果之、不残芝泉岳寺え引取罷在候、其内両人、大目付仙谷伯耆守様え参上、旨趣申上候事、
一、右四十六人之内十七人、越中守綱利え御預被成候、此月例月、御禮登城之處、於 御城、御用番之御老中稲葉丹後守様
  右十七人御預被成旨、被 仰渡候
  御城御退出後、直に泉岳寺え罷越、請取可申旨、御請申達、左候而供之内藤崎作右衛門え申付、御預之十七人、仙谷伯
  耆守様御指図次第、於泉岳寺請取候筈に付、請取に指越候、人数駕籠等用意之儀申含、御城より早速上屋敷え指遣候事
一、御城退出後、稲葉丹後守様え越中守伺公、御用被仰付辱旨申達、直に芝下屋敷え罷越候、外之御老中え、使者留守居を
  以右同断申達候
一、請取人指出候儀、爲案内仙谷伯耆守様え使者、以留守居於 御城御談申候通、請取人泉岳寺え可指越哉、御指図次第、
  人数可指出段申達、請取に指出候家来名前書指出候處、於 御城被仰談候とは違、伯耆守様御宅にて御渡可被成候間、
  愛宕下御屋敷え人数可指越由、被仰聞候、
    請取人支配人
  旅家老            側用人
   三宅藤兵衛 上下三十九人     鎌田軍之助 上下二十一人
  小姓頭            小姓頭
   平野九郎右衛門 上下二十人     横山五郎太夫 上下二十人
  
    受取人
  留守居            留守居 為使者罷越直ニ罷在候
   堀内平内 上下十六人            匂坂平兵衛 上下十六人

    警固人
  物頭             物頭
   原田十次郎 上下九人            牧七郎右衛門 上下九人
  同              同
   須佐美九太夫 上下九人          野田小三郎 上下九人
  同              使番
   志方彌次兵衛 上下九人         富島猪兵衛 上下九人
  使番             同
   堀内傳右衛門 上下九人         林 兵助 
上下九人
  同              同
   池永善兵衛  上下九人         澤 莊兵衛 上下九人
  小姓組            同
   堀内五郎兵衛 上下九人         澤 刑右衛門 上下八人
  同              同
   伴 儀兵衛 上下八人          竹田平太夫 上下八人
  同              同
   松浦儀右衛門 上下八人         氏家平吉 上下八人
  同              同
   木原猪右衛門 上下八人         糸川政右衛門 上下八人
  同              同
   増田貞右衛門 上下八人         寺川助之允 上下八人
  同              同
   本庄喜助 上下八人            吉田孫四郎 上下八人
  同              同
   原田小右衛門 上下八人          藤本藤右衛門 上下八人
  同              同
   波々伯部権八 上下八人        石川源右衛門 上下八人
  同              同
   田中隼之助 上下八人         池部次郎助 上下八人
  同              同
   魚住惣右衛門 上下八人        横井儀右衛門 上下八人
  同              醫師本道
   宇野彌右衛門 上下八人        下村周伯 上下五人
  外科
   岡田玄喜 上下五人           次物書 一人
   歩使番 四人        歩小姓二十人 銘々連人壹人宛

  提灯裁料途中より中心寺     此内八人道具等裁料
   足輕六人          足輕百三十八人
   長柄之者六十二人      足輕小頭一人
   荒仕子三人          此内籠舁長持并道具持之
   家中之者六十一人      仲間百四十七人
   用心駕籠五挺         提灯持之
   提灯四十張         手木之者五人
   棒七十本          駕籠十七挺
   大提灯二十張        長持二棹

    惣人數八百七十五人 
      

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1

2021-12-13 06:39:06 | 小川研次氏論考

 先に小倉葡萄酒研究会の小川研次氏からの論考「阿部一族の一考察」を当ブログでご紹介したが、このたびその加筆分として『明石掃部』をお送りいただいたのでご紹介申し上げる。「かなり妄想的ですが・・」と仰っているが、いつもながらのご勉強ぶりには畏れ入るばかりである。
何故「阿部一族」に「明石掃部」がと不思議に思ったが、掃部の娘が「細川肥後守家臣林外記某が妻」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)とあるとされる。又林外記の室が事件後、隣家の明石家に逃げ込んだことは事実である。
小川氏のこの論考は、私にとってはかなりショックなものであった。
大変興味深いこの論考を4回に亘りご紹介する。

    ■まえがき

 ■第四章 明石掃部
    一 掃部の死
    二 生存説
    三 訴人
    四 家老の死
    五 田中氏
    六 坂井太郎兵衛
    七 久芳又左衛門

 ■第五章 掃部の子
    一 小三郎とマンショ小西
    二 矢野主膳と永俊尼
    三 有馬
    四 細川忠利と小三郎
    五 小三郎の行方
    六 末子ヨセフと姉
    七 明石内記
    八 内記と有馬
    九 レジィナ

 ■第六章 林外記
    一 林外記の出自
    二 清田石見
    三 阿部一族と林外記
    四 大目付林外記
    五 光尚と外記の死
    六 仮説

       (了)


   『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」      小倉葡萄酒研究会 小川研次著

 ■まえがき

 初期細川家において藩主に関わる不可解な未解決事件が二件起きている。
一つは初代熊本藩主細川忠利、二つ目は二代藩主光尚の時代であり、共通点はともに藩主死後直後に起きていることである。
まず、「阿部一族事件」は、上意討ちで一族全員犠牲となるのだが、森鴎外『阿部一族』に詳しい。もう一つは「林外記事件」である。光尚没後、大目付だった外記家族が細川家家臣から殺害される事件である。そして、その実行犯は無罪放免となる。
そこには藩主死後に抹殺しなければならなかった理由がある。そして「真犯人」の存在である。
私は当初、「阿部一族」はキリシタン根絶やし故の上意討ちと考えていたが、「林外記」に触れることにより、その「理由」への疑惑が湧いた。
「阿部一族事件」は「林外記事件」で終結することを知ったのである。それは細川家存亡に関わる大事件であった。
事件の種は小倉藩時代から植えられ、芽が出てくるのである。

  第四章 明石掃部(あかしかもん)  (拙稿『阿部一族の一考察』への加筆)

一、掃部の死

明石掃部(守重、全登)は備前岡山城主宇喜多秀家の客分格の重臣であり、三万三千石余りを領する武将であった。(大西泰正『明石掃部』)
「備前には、又実に立派な人々がいた。この国の大名備前中納言殿(宇喜多秀家)は、三ヶ国を領有し、異教徒であった。しかし、彼に代わって領内を治めていた従兄弟のヨハネ明石掃部殿は、熱心なキリシタンであった。」(『日本切支丹宗門史』一六〇〇年の項)
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで敗走した直後、明石掃部は「キリシタン家臣三百名とともに、親友の筑前国の領主である黒田甲斐守(長政)に仕えるために」筑前国に入った。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』) 
しかし、宇喜多秀家の生存が噂されると掃部と多くの家臣を召抱えた長政は「家康が悪意に解することを恐れ、彼から俸禄を没収することを命じた。」(同上)ところが、父官兵衛(母方は明石一族)は掃部を擁護するために「息子の命令を過酷と考え、その命令の執行を望まず、このことの補償を引き受けた。」(同上)のである。
そして、掃部は官兵衛の異母弟のキリシタンである惣右衛門(直之)の領地秋月に入った。その後、宇喜多秀家が薩摩の島津に押さえられていることが明らかになると、長政は掃部を隠居身分とし、明石少右衛門(次郎兵衛)、明石半左衛門、明石八兵衛、島村九兵衛(十左衛門の父) 澤原(そうのはら)善兵衛、澤原忠次郎(仁左衛門)、池太郎右衛門(信勝)、分(和気)五郎兵衛の八名の家臣に秋月領の知行を与えた。(『史伝明石掃部』)
島村九兵衛則貫は「宇喜多秀家ノ門葉ニ依テ備前ニ居シ、後ニ筑前三笠郡ニ来リ隠ル、」(『諸士由緒』三、北九州市立図書館蔵)とあり、明石掃部一族と共に筑前国に入り、御笠郡(現・筑紫野市、大野城市、太宰府市)にて隠遁していた。
やがて、上述の通り、掃部は隠居「明石道斎」となり、慶長七年(一六〇二)十二月二十三日、長政より知行一二五四石を家臣に与えられた。知行地は「下座郡」とあり、四ヶ村(頓田、中寒水、小田、片延)とあるが、筑後川右岸の秋月街道側(現・朝倉市)である。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』) 

また、「元和分限帳」(一六一九年)にも、同じように記されているが、「道斎ハ明石掃部全誉、慶長五年関ヶ原陣ノ後御家へ来鳥村参居す、慶長ノ末大阪以前御家を立退罷越玉ふ、其節二人の家来ヲ御家に被成下候様願置、澤原氏、池氏也」とあり、掃部は関ヶ原の戦いの後に筑前国へ来たが、大坂冬の陣(一六一四)の前に立ち退いたとある。その時に家臣の澤原と池を黒田藩に召抱えることを願った。

さて、その家臣は澤原仁左衛門(忠次郎))と池太郎右衛門であるが、後述の記録により明石少右衛門(次郎兵衛)、島村九兵衛の嫡子十左衛門、澤原孫右衛門(忠次郎の弟)も黒田藩家臣だったことが判明する。『常山紀談』には、澤原と島村も筑後国を離れたとあるが、疑義がある。
つまり、明石半左衛門、明石八兵衛、分(和気)五郎兵衛は掃部と行動を共にした。
尚、島村十左衛門は黒田家二代に仕えた後に小倉藩小笠原忠真に仕えた。
やがて、慶長十九年(一六一四)、再び掃部は歴史の表舞台に現れた。大坂冬の陣の大阪牢人五人衆の一人として長宗我部元親、後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永と共に豊臣家のために奮戦した。
翌年の大坂夏の陣において敗北を喫することになるが、『徳川実紀』や『綿考輯録』は又兵衛らと共に掃部の戦死を伝えている。

「さなた・後藤又兵衛手から共古今無之次第ニ候、木村長門・明石掃部も手柄ニ而六日討死し、残頭々生死不知候事」(五月十一日細川忠興書状『綿考輯録』巻十九)
忠興は真田信繁、後藤又兵衛の働きを古今無しの手柄とし、木村長門と明石掃部も手柄ありとして褒め称えている。
しかし、「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(五月十八日同上)とあるが、「にけさるハまれニ候、笑止なる取沙汰」としている。

二、生存説

イエズス会士ペドロ・モレホンの『続日本殉教録』(一六二一年刊)の一六一六年の項に掃部の生存疑惑が上がる。
「(大阪夏の陣から)一年過ぎて、すでに内府様(家康)が死んだのち、掃部殿フアン(ジョアン・ヨハネ)及び第二子・内記殿が何処かに匿われていると将軍(秀忠)に告げる者がいた。フアンは著名なキリシタンであり、そのために内府(家康)がこれを殺そうとしたことがあったし、また戦いの敵側でもあったから、厳しい探索が行われた。しかし、息子の内記殿以外、掃部殿の消息は全く発見することができなかった。このために多数の人々が捕らえられた。レオナルド木村というイエズス会のイルマン(修道士)は、彼(内記)に会ったか或いは文通したと噂されたために公儀の牢にいれられ、今日まで長崎の牢にいる。」

この記述はイエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの報告を根拠にしている。(一六一七年二月二十二日付、日本発)大坂夏の陣は元和元年五月七日(一六一五年六月三日)に終戦し、家康の死は元和二年四月十七日(一六一六年六月一日)である。この告発は一六一六年六月から七月と考えられる。イエズス会は掃部の消息に対しては絶望感を持って記しているが、確定的に掃部の死を伝えていない。しかし、負傷した可能性はある。現場にいたイエズス会宣教師の報告である。

「明石掃部は火縄銃の一撃をうけて戦場を離れた。」(ロレンゾ・デレ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛『一六一五、一六一六年度日本年報』)

ドミニコ会士フライ・ディエゴ・コリャードの『イスパニア国王に対するコリャード陳述書』も伝えている。
「特に著名な明石掃部殿と称する武将とその二人の息子(その一人は内記と称する)と共に戦い、その後生死が判明しませんでした。新皇帝(秀忠)は、彼等が生存していて、他日芽を出し、彼や彼の息にたいして何らかの害を為すかも知れぬことを恐れて、彼等を捜索させました。広島地方で、人々がAntonio(石田)というイエズス会の宣教師と共に彼(内記)を見た形跡があったので、二人の追跡者が同じくイエズス会士であるレオナルド(木村)修道士を捕らえました。これは一六一六年十二月のことであります。」
「二人の息子」は次男内記と末子ヨセフであるが、詳しくは後述する。

レオナルド木村の家はフランシスコ・ザビエルが平戸に寄宿していた木村家である。掃部らの追跡捜査の最中に長崎(日本切支丹宗門史は広島)で捕縛され、三年後に長崎の西坂にて火炙りの刑で殉教している。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンと有馬のセミナリオの同期生だった。また、アントニオ・ピント石田も一六〇三年、中浦ジュリアンと伊東マンショらと共に、マカオの聖パウロ学院(サン・パウロ・コレジオ)で学んでいた。(『キリシタン時代の文化と諸相』)

「広島の領主・大夫殿(福島正則)は、(佃)又右衛門という彼の重要な武将であるキリシタンが内記を自分の家に泊まらせていたことを知り、甚だ遺憾に思った。又右衛門にキリシタンであることをやめさせ、皇帝(将軍)の命令に従わせるために、たびたび努力したが、信仰を棄てさせる方法などがないばかりか、大阪方の敗北(大坂夏の陣)のところで述べた様に、パードレ(司祭)・ファン・バウティスタ・ポーロを救い出し、捕らわれていたパードレ・アントニオ(石田)及び内記を自分の家に泊めていたことを知って、大夫殿は他のキリシタンと共に彼を焼き殺し妻子も殺すように命じた。」(『続日本殉教録』)

幕府による明石掃部追跡捜査線上に福島正則の重臣佃又右衛門の隠匿疑惑が発覚したのである。しかし、キリシタンを擁護していた正則であったが、幕府の処断に従わざるを得なかった。流石に関ヶ原で対峙した掃部の息子と聞いて驚いたことだろう。
内記はすでに逃げていたが、又右衛門と同居していたアントニオ石田も捕縛された。(『秋月のキリシタン』) ここで内記の足跡が消える。

三、訴人

イエズス会の記録は山鹿素行(一六二二~八五年)の『武家事紀』(巻第二十六)により具体的に裏付けされる。

「明石掃部ガ居所後ニ色々御穿鑿也、掃部カ領分ハ筑前ノ内小田ト云所也、(中略) 島村十左衛門・惣原孫右衛門ヲ駿府へ被召拷問也、両人不落ヲ父既ニ白状ノ由ヲ告テ終ニ間落ス、 田中筑後守内田中長門守(掃部聟)方へ送リタルノコト、其後筑前へ両人ヲ帰サル、即両人トモニ(黒田)長政家人タリ、長門守(一万石)ヲ拷問ニ及フトイヘトモ、終ニ不落シテ死、」(国立国会図書館デジタルコレクション)

(明石掃部の居所を後で色々と穿鑿した。掃部の領地は筑前の小田という所と分かり、島村十左衛門と惣原孫右衛門を駿府へ呼び、拷問にかけたが落ちなかった。父(島村と思われる)が既に白状したことを告げたら落ちた。田中筑後守(忠政)家中の田中長門守(掃部聟)の元へ送ったとのことであった。その後、二人を筑前に帰したが、二人とも黒田長政の家臣であった。そして長門守(一万石)を拷問にかけたが、ついに落ちず死亡した)

掃部の旧臣島村十左衛門と澤原孫右衛門が幕府の掃部穿鑿のために拷問にかけられ、ついに落ちて、筑後柳河藩主田中忠政の家臣田中長門守の元へ送ったと白状したが、「掃部の聟」である長門守は死を持って庇ったとある。
「田中長門守」は藩主の「同族同苗長門守は一万石を領し、全登(掃部)の女婿であった」(『大阪城の七将星』福本日南) 
さらに、前出の「コーロス報告」に重要な記述がある。一六一五年の大坂夏の陣後のことである。

「パウロ明石内記であるが、まだ二十歳ばかりの若者である。この人は戦乱を脱し、当て所なく各地を変装してさまよったが、遂に義理の兄弟のいる筑後国に落ち着いた。」(H・チースリク『秋月のキリシタン』)
『武家事紀』の「掃部聟」と「義理の兄弟」は一致する。掃部の娘婿が筑後にいて、その人物が「田中長門守」ということになる。
つまり、『武家事紀』は大阪夏の陣以降の事を語っているのである。
しかし、ここで新たな疑問がおきる。掃部の娘は誰だろう。掃部は二人の娘がいたとされ、カタリナとレジイナであるが、この件については後ほど詳述する。
さて、掃部と内記の隠匿を「将軍に告げる者」は誰だろう。
元和二年(一六一六)六月十五日(新七月二十八日)の豊前小倉藩主細川忠興の嫡子忠利への書状に注目する。
「田中の事、内之者祈状(訴状)を上げ申し候由に候、左様ニ之在るべき儀共多くの候、有様ニさへ御耳ニ入り候はば、身上果て申すべく候、筑後の国も身上果て候とて、以外さハぎ申し候由に相聞え候事」(「細川家史料」『秀吉を支えた武将田中吉政』)
(田中家の事だが、家中の者が訴状を幕府に上げたので、調べるといろんな事がわかり、筑後国改易の可能性もあり大事になっていると聞いている)
忠興は公事沙汰(くじさた・訴訟)により、忠政が改易される可能性を語っているのである。
書状の日付も前述のイエズス会の告発時期と重なる。

『田中興廃記』によれば、訴人は相続争いで不仲だった実兄の久兵衛康政(吉興)で、忠政が大阪方に内通していたと訴えたとある。(同上) 幕府からすれば大阪の陣不参と重なり、疑惑が深まったのである。
元和四年(一六一八)になっても公事沙汰の決着はつかなかったようであるが、忠政の勝ちとなり所領が加増されたとも伝わる。(同上)
しかし、矢野一貞著『筑後将士軍談』によると、「康政(吉興)」が「江戸へ訴状ヲ捧ゲ、忠政大阪ニ内通シテ出陣セザル由公聞ニ達ス」そして、「訴訟ノ賞トシテ江州ノ内一万石ノ地ヲ玉ハリヌ、然レドモ後年自ラ其非ヲ悔ヒ、禄ヲ辭シテ浪牢ノ身ト成リテ病卒」とあり、吉興は近江に褒賞一万石の地を拝領している。さらに後年、後悔して禄を辞し、浪人となって病死したという哀話を付記している。
いずれにせよ、忠政は幕府から不信感を持たれ、江戸の藩邸にいたが、閉門同様となり徹底捜査が始まったのである。

イエズス会の明石掃部隠匿告発の報告は一六一六年であるが、『武家事紀』の田中長門守捕縛拷問も同年と考えられ、以降数年間に渡り幕府の穿鑿は続くが、忠政の公事沙汰騒動と重なるのである。つまり、「将軍に告げる者」と「内之者」は同一人物であり、吉興と見て間違い無いだろう。

四、家老の死

吉興の訴えの原因の一つに考えられるのが、「田中筑後殿(忠政)は我が身に降りかかる危険を顧ず、教えを賞賛し、信者には絶対の平和を与えていた。彼は家老の一人がキリシタンを苦しめたといって、死刑に処した。彼は公然と好意を示した唯一の大名であった。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、忠政のキリシタン擁護の姿勢にある。 さらに『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』に具体的に記されている。

「筑後の国の領主、田中筑後(忠政)は、内府(家康)が発した脅迫的な激しい命令(キリシタン追放)により、それに従わない他の殿が所領を失う危険に曝されているにもかかわらず、キリシタンを苦悩させなかった。(中略) 彼は我らの修道院や教会に手をつけず、そのままにしておいた。誰か知らないが、ある人物が大胆にも彼にそれらに手をつけるよう求めたが、彼はただ、顔を曇らせ眼を伏せただけで、その男を面前から遠ざけた。彼は、奉行の一人をある過失を犯したという名目で処罰したが、実際には、この行が荒々しい方法でキリシタンを迫害したからであった。彼は、何人かにキリシタンとして公然と暮らすことを許した。」(「ロレンゾ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛」)

忠政は一六一六年に「大阪内通」で忠政失脚を狙う吉興により告発されたとされるが、このようなキリシタン擁護の姿勢も要因の一つであろう。
「処罰された奉行」は城島の宮川大炊守正成と考えられる。(『筑前国史-筑後将士軍談』)

「領主(忠政)の従兄弟」は「殿中で他の武士と言い争い、分別を失くし、短気を起こして、主君の前で相手に対し刀に手をかけた。日本においては背信行為として許しえないので、主君は即刻死刑を命じた。」(『続日本殉教録』)
「宮川大炊守は主君忠政の兄で上妻郡福島城の城主だった田中久兵衛康政(吉興)と仲が善く、主君の忠政とは事ごとに衝突していたが、元和元年(一六一五)、大坂夏の陣の直前に、柳川城の御殿で、忠政に殺された。」(『城島むかし』城島文化協会郷土文化部編集)

『筑後将士軍談』に「処罰」の原因は二説あり、一つは宮川が忠政の大阪夏の陣遅参に諫言したこととし、もう一つは陣直前、酒席にて小競り合いで宮川が田中大膳に斬りかかろうとしたことから、忠政が斬ったという説である。この説は『続日本殉教録』に近い。

慶長二十年(一六一五)四月晦日付の「覚」は、筑後田中家と佐賀鍋島家との間での「人返し」についての約定だが、宮川大炊と辻勘兵衛尉の名が連なっている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)

さて、夏の陣だが、細川家では四月十一日付の忠興から忠利への書状に「陣用意被申付由尤候事」(『綿考輯録巻十九』)とあり、この頃に各大名へ陣備えの通達があった。しかし、上述のように四月末には、宮川大炊はまだ殺害されていない。つまり、忠政は鼻から出陣する気がなかったのではなかろうか。そうすれば、宮川の陣参戦の諫言が殺害理由なのかもしれない。
いずれも反発した宮川の家臣らが城島城に籠ったために、忠政が軍勢を送り込み鎮めた。このことにより大阪出陣が遅れたという。(『田中興廃記』『筑後将士軍談』)しかし、イエズス会によれば、「奉行がある過失」で処罰されたのは、実はキリシタンを迫害したのが原因であったとしているが、会にとって都合のいい解釈であろう。
教会破却の諫言をした人物は吉興と考えられ、忠政のキリシタン擁護の姿勢に危機感を強く感じたからである。幕府の禁教令下に取った行動は御家を守るために当然の行動である。そしてついに、吉興の告発となるのではなかろうか。むしろ、陣不参の理由は城島出入よりも「大阪内通」説が真実に近いのではなかろうか。
因みに忠政は陣終結後の「元和元年(一六一五)七月二十八日、田中筑後守忠政、御目見」(『駿府記』)とあり、大御所徳川家康に謁見している。陣不参の弁明をしたと思われ、同年八月十六日の細川忠利宛の忠興の書状に「田中筑後今日当地をとをり候、御前済たる由候」(『綿考輯録』巻二十)とあり、この件については解決したとしている。しかし、翌年に吉興から「大阪内通」を訴えられるのである。
推考だが、吉興は忠政の「大阪内通」の相手を筑後に潜伏していたとされる明石掃部とした可能性がある。キリシタンを擁護していた忠政だが、掃部との大きな共通点は豊臣家恩顧であったことである。
やがて、幕府の捜索により、掃部潜伏先とみられる「田中長門守」の名が上がった。

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十)

2021-12-12 07:32:47 | 先祖附


 むつき    い は や そ と せ                   ことぐさ
 正月には五百八十年も在りへむとあふ人ごとの言草にして

春部「慶長五年元旦に」。六十七歳。正月は「お芽出度う、お芽出度う」といふのが、
あふ人ごとの挨拶だと云ふだけの歌ではあるけれども、「五百八十年も在りへむ」の
二句によつて、すつかり新らしくなり、月並ならぬ歌になつてゐる。「彭祖が七百歳」
といふことはあるが、五百八十年と云つたのは、いかなる由來か。古事記に「かれ、
日子穂穂手見の命は高千穂の宮に坐すこと五百八十歳」云々とあり、すなはち彦火火
出見命の御長壽の數を以つて祝した言葉である。それを引いて、室町時代の狂言記に
も五百八十年、萬々年の祝辭を散見する。亂舞狂言を好んだ幽齋として、この言
葉に馴染があつたのだらう。〇この歌とどこか似た古歌一首、慈鐄和尚、

 山里にとひくる人の言草はこのすまひこそ羨ましけれ

 

 いにしへも今もかはらぬ世の中に心のたねを殘す言の葉

 雑部「慶長五年七月廿七日丹後國籠城せし時古今集證明の狀式部卿智仁親王へ奉る
とて」と詞書あり。六十七歳。幽齋は田邊落城と共に古今傳授、三代集極秘、源氏物
語秘訣などいふ二條家相傳の貴重なる古文書が灰燼とならんことを嘆き、一部は智仁
親王に上り、一部は三條西實條に傳へたのであつた。「古今集證明の狀」とは古今集
秘訣を正にお傳へ致しましたといふ證書のこと。おなじく籠城中、實條へも古今傳授
をしたのであつた。智仁親王は、翌慶長六年にも此の傳授を承けてをられる。按ふ
に、古今傳授の内容は幾つかに分れてゐた故、一回ならず行はれたのであらう。歌
              こころ
意、古とても今とても、人間の情に變りはありませぬ世の中に、只今獻上仕りまする
此の古書は、その人間の大切なる心の種を後々までと傳へ殘すところの大和言の葉の
秘訣をしるした寶典でございます、何卒御手許に御留めおき下されて、さらに後々へ
も傳はりますやう、御尊慮を仰ぎ奉ります。「心のたね」古今集序の冒頭「やまと歌
はらぬ」おなじき序の結語「古を仰ぎて今を戀ひざらめかも」。續拾遺集巻第十九釋
教歌の部に、後嵯峨院御製、

 古も今もかはらぬ月影を雲の上にてながめてしがな

桂光院智仁親王は、陽光院の第六皇子にましまし、豐臣秀吉の猶子とならせられ、天
正十七年二月、八條宮と號したまふ。秀吉、別墅を洛西桂里に興して、親王ここに御
す。慶長六年三月、二品式部卿に叙任、寛永六年四月七日薨、御壽五十一。衆妙集の
詞書、正しくは「八條宮智仁親王」云々であらねばならぬ。親王は歌道に於いては幽
齋の御門弟であらせられた。

 

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■劇映画『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』

2021-12-12 07:30:16 | 徒然

             われ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫) 古本 アウトレット

 三浦綾子原作の「われ弱ければ‐矢嶋楫子伝」の映画製作が行われている。
錚々たる出演者で驚かされるが、実は良く存じ上げている方がご出演と聞いてビックリしている。(お名前を出すにはご本人の許諾が必要だろう)
このニュースは承知をしていたが、ご厚誼いただいているK様からパンフをメールでお送りいただいたので、併せて熊本における試写会などの事をご紹介しておきたい。
当日は監督と出演俳優の舞台挨拶を予定されているということですから、常盤さんに会えますよ~~~熊本人参るべし。

                  現代プロダクションのサイト

完成披露試写会

  • 監督と出演俳優の舞台挨拶を予定しております。(常盤さんに会えますよ~~~)
  • 完成披露試写会には当日券がございません。前売券(製作協力券)のみとなります。
  • [熊本県熊本市]熊本城ホール
    開場13:30/上映開始14:00(予定)
  • [熊本県上益城郡益城町]益城町文化会館
    開場13:30/上映開始14:00(予定)

 

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■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟

2021-12-11 14:40:54 | 論考

 かって小倉葡萄酒研究会の小川研次氏より寄せられた「阿部一族の一考察」について、「その二」における「宗像兄弟」に就いて「『宗像兄弟』は当初、大友氏系と見ていましたが、最近の史料により毛利氏系と判明しましたので、差し替えします。」という、原稿の差し替えのご依頼があったのでまずはここにご紹介申し上げる。
尚、2020:03:16日の該当項の差し替えに就いては、後日と致したい。


宗像兄弟(宗像加永衛、宗像吉太夫、年齢不明 五月二日)

忠利殉死者に宗像姓が二人いるのだが、加兵衛景定とその弟吉太夫景好である。宗像兄弟には他に弟二人いたが、藩主光尚の命に従い思い留まった。(『綿考輯録・巻五十二』)

さて、宗像家は「宗像大宮司宗像氏貞之子孫也」(同上)とある。細川家との関係は父清兵衛景延が小倉藩主忠興に仕えたことから始まる。

花岡興史氏「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」(『沖ノ島研究』第六号)によると、宗像大社大宮司宗像氏貞の後室は豊後の大友氏系の臼杵鑑速(あきはや)の娘である。大友宗麟の養女でもあった。

そして鑑速夫婦の三女が備前住人の市川与七郎に嫁ぎ、与七郎は宗像清兵衛と改名する。(「大宮司系譜」) その経緯を考察してみよう。
天正十四年(一五八六)三月四日、氏貞が逝去する。そして大宮司家を継いだのが、養子益田景祥(かげよし)である。毛利氏家臣益田元祥(もとなが)の二男であるが、十歳とされ、幼名は「宗像才鶴」という。(花岡興史) ところが、文禄四年(一五九五)に実兄広兼が急死し、益田家に戻り、小早川隆景の家臣となる。この時に養母と二人の娘が伴ったと考える。奇遇だが、景祥の後室に養母の同系である臼杵甚右衛門統尚(むねなお)の娘が入ることになる。統尚は大友宗麟と奈田夫人の娘と結婚することから、この娘は宗麟の外孫となる。そして統尚夫妻の早死により、久留米藩主毛利秀包と妻桂姫の養女となるが、桂姫は宗麟の娘でマセンシアという洗礼名を持ち、夫婦共に敬虔なキリシタンであった。つまり、マセンシアは姉の子を引き取ったのである。

やがて、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)で敗軍の将となった秀包は妻らと長門国へ向かった。そして景祥と出会うことになる。「イエズス会日本年報」の一五八一年の項に「臼杵殿」の記述がある。
「本年洗礼を受けた貴族の中に臼杵殿Vsuquindonoと称する臼杵の領主がある。この人は異教徒なる一子に国を譲ったが、彼の如き人物であり、また大いに智慮あり且富んでおり、多年当国を治めている故、彼の帰依は大いに評判となった。彼と共に家臣が多数洗礼を受け、その子は我等の友となったので、臼杵全体が帰依することも近かろうと思われる。フランシスコ王(宗麟)は長き前よりこの大身に勧めてデウスの教を聴かせんとしたが、遂に聴聞して奉ずるに至ったのである。」(ガスパル・コエリョ『イエズス会日本年報上』)
「臼杵殿」は誰だろう。臼杵氏は歴代、水賀城(臼杵市末広)城主をつとめていた。七代目の鑑速は一五七五年に没しており、嫡子統景(むねかげ)は叔父鎮続(しけつぐ)と共に一五七八年の耳川の戦いで戦死している。鑑速の弟に鑑続(あきつぐ)がいるが、一五六一年に没しており、残るは末弟鎮順(しげのぶ)である。事実、統景の後を継いだのは鎮順の息鎮尚である。つまり、イエズス会の記録はこの父子のことである可能性が高い。しかし、益田景祥に嫁いだ娘の父は「統尚」であり、「鎮尚」ではないが、同一人物にもみえる。いずれにしても、統尚の娘はマセンシア桂姫に育てられたことから、キリシタンであったことは容易に想像できる。このような家族関係から景祥はキリシタンに理解していたのであろう。

さて、小早川秀秋家臣の市川与七郎は長州から来た氏貞の後室(景祥養母)の三女と結婚となる。ところが、慶長七年(一六〇二)、秀秋の急死に伴い小早川家は無子断絶となり、これ以降、与七郎こと宗像清兵衛は小倉藩細川家に仕えるために妻と共に小倉へ入った。秀秋の実兄は木下延俊で豊後日出藩藩主であり、細川忠興とは義兄弟であった。また、この頃、大大名になった細川家は少なからず毛利家家臣を召し抱えた。村上水軍の村上八郎左衛門景広、二保惣兵衛がいた。(共にキリシタン) また「二保太兵衛ハ宗像兄弟縁者之者」(『綿考輯録・巻五十二』)とあり、身内もいたのである。

清兵衛妻の母は臼杵鑑速の娘で大友宗麟の養女であることから、小倉藩に仕えた宗麟二男親家(客分)、三男親盛、長女ジュスタの系列清田家、長男義統の三男正照など多くの「身内」と親密になったことだろう。つまり、彼らはオールキリシタンであり、清兵衛や妻への影響があったと考えられる。
転宗したキリシタンは「類族」とされ、家族や子孫も監視対象となるが、松野正照(右京)の陪臣に「転切支丹臼杵内蔵助」(『肥後切支丹史』)がいた。臼杵一族だろう。ちなみに清兵衛も肥後では「松野右京組」に属していた。(「新・肥後細川藩侍帳」) 右京は豊前キリシタンの柱石だった加賀山隼人の後継者と目された宗麟三男親盛の養子となっていた。

時代は下り、寛永十三年(一六三六)七月八日、清兵衛は忠利より切腹を命ぜられたのである。理由は「御咎之筋有之」(『綿考輯録・巻五十二』) とあるが不明である。
しかし、その後、継続して四人の子らは召し抱えられた。(同上)

同年七月十三日、忠利は家中のキリシタン家臣らに「切支丹転宗書物」に署名させている。キリシタンから仏教徒への転宗したという証文だが、上述の大友ファミリーを中心に二十七名に上る。(『肥後切支丹史』) 母ガラシャの命日は七月十七日だが、四日前である。
前年十月十八日付の江戸幕府老中酒井讃岐守忠勝宛の忠利書状に切支丹取締りに関する項目があり、経験からか、事細かに記されている。
「きりしたんにて御座無しとの儀の宗躰の証拠を書物に仕らせ、一人ひとり右の通堅め置申候」(同上) とあり、翌年、家中で実行したことになる。
特にガラシャの命日前とは、幕府から厳しい目を向けられていたに違いない。
推測だが、大友ファミリーの清兵衛は夫婦共にキリシタンであったが、署名を拒否したための忠利の処断ではなかろうか。証文の日付の五日前というのも納得できる。また、罪人ならば、そのまま子供らを召し抱えることはできない。
この忠利の恩義があるが故に宗像兄弟全員は殉死を決めたのである。(『綿考輯録・巻五十二』)

しかし、母のことを考えると、夫が切腹、子供ら全員が殉死となると、どのように生きていくのか。二代目藩主光尚はせめて母のため、御家存続のためにも弟二人に生きることを願ったのである。

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚が没した。宗像家三男の少右衛門が二日後の二十八日に殉死したのである。末弟長五郎も望んだが、老母一人にはできないと兄少右衛門に説得されていた。(『綿考輯録』)
宗像大社大宮司宗像氏貞の孫である宗像三兄弟は藩主への追腹の道を選んだのだが、父の生き様と武士の恩義がそうさせたのであろうか。

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■12月初旬の散歩コースです

2021-12-11 10:15:03 | 徒然

 風もなくて暖かい今年の師走は、爺様にとっては散歩も楽しく有難いことです。
近くの公園は落ち葉が折り重なって、絨毯の上を歩いている心地です。
本格的な寒さの到来がないので木々の紅葉もまちまちで、中にはまだ緑々した木々もあり、織りなす色の饗宴も一入です。
師走定番の山茶花も色とりどり花の饗宴を見せていました。

                                               

              

              

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(九)

2021-12-11 09:00:37 | 先祖附

     「歌仙幽齋」 選評(九)

 君がため花の錦をしきしまや大和しまねもなびく霞に

 春部「文禄三年二月二十九日關白殿吉野の花御覧の時人々つかうまりつけるに、花
の祝を」と詞書あり、前出歌と同じ時の作。我等が主君豐太閤の威勢を賀せんがため
であるが、「花の錦をしきしまや」と枕詞へ詞を懸け、更に「山徒しまねもなびく」
すなはちの本の津々浦々まで太閤の威風になびき從ふと言つて、霞のなびくことに詞
を寄せたのである。美しき言葉の組み立が目に付きすぎ、いかにもたをやめぶりて、
征韓役後の秀吉に對する頌歌としては、物足らぬ。これが二條流なのである。初句
「君がため」は秀吉のための意なること明らかで、かやうの歌ひ方、言葉づかひを當
疑ふ餘地がないのである。

 たれか又こよひの月を三島江の葦のしのびにもの思ふらむ

 雑部「慶長二年昌山御不例のよし聞て八月十五夜よぶねにて大阪へくだりけるに三
島江に舟をとどめ葦間の月をながめて」と詞書あり。六十四歳の時の作。昌山は幽齋
の舊主足利義昭、室町最後の將郡なりし義昭、諸国を流浪し、遂には備後鞆の津の安
國寺に昌山道休と號して引籠り、毛利氏の庇護を受けてゐたが、慶長二年十一月廿八
日、六十一歳にて大阪に歿した。此年八月、京都の幽齋は昌山重患と傳聞して、舊恩
を忘れず、大坂までか、或はもつと遙々と備後までも見舞に行つたものらしい。幽齋
の人柄が偲ばれて、美しくおもふ。一首の意、われ以外に何人あつて、今夜の名月を
觀ながら、もの憂き微行の旗をして世間を憚る物思ひをするであらう。かやうに述懐
して、自分一人悲しき月見すると嘆いたのである。「こよひの月を」見る「みしま江」
と詞を懸け、「葦のしのび」は葦の葉のほそくしなふ(撓)ことを忍び、とこれも縣
詞にしたのだ、内容は深きものを藏しながら、近風の技巧を弄しすぎて、さまで悲し
さうに響かない憾みはある。これが當年の流儀なのだから致し方ない。三島江、淀河
西岸の水驛で、葦が殊に多く茂つてゐたと見え、昔から「三島江の葦」と澤山に詠ま
れてゐる。「葦のしのび」といふ言葉は鎌倉時代の中葉から時として和歌に現はれ
る。幽齋が後世の歌を仔細に勉強したことは、かういふ端からも窺ひ得るのである。

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