津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十八)

2021-12-24 10:04:37 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十八)

 神の心いさみやすらむその駒になほ草かへとうたふ夜の聲

 冬部「夜神樂」。宮中御神樂、毎年十二月吉日を選び、内侍所にて行はせられる。
夜の御行事とて庭燎を焚く。さて、その奏する神樂歌の中かも、

 その駒ぞや、我に、我に草乞ふ、草は取り飼はむ、轡とり、草は取り飼はむや、
 水はとり飼はむや

といふのをば、聞き給ひては、神さへも御心いさみ立ちたまはん、と武將らしく、勢
よく詠じたのである。題詠の紙樂の歌は古來多いけれども、幽齋の一首、その中に在
つて月並みではない。


 山を我が樂しむ身にはあらねどもただ静けさをたよりにぞ住む

 雑部「閑居」。論語雍也第六に子曰知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者
樂、仁者壽。中村揚齋の論語示蒙句解に云、仁者はおのづから義理に安んずるが故
に、厚重にして、かれこれ、うつりつかず、山野安鎮に似たることあるによりて、こ
れをこのむなり、仁者の體段すべて安静にて常なり、云々。幽齋は山を樂しむ身に
あらず、仁者にあらずと謙遜しながら、やはり山の静けさを愛すといふ。按ふに、彼
は知と仁とを、又もちろん勇とを兼ね備へた人であつた。知と勇とは云ふ迄もないと
して、仁者なりしことも、彼の傳
紀の處々から立證出來る。山に住むとは、形容では
なかろう。田邊の城山に永く住んだのは別としても、京都では吉田山麓に卜居した。
當時、鴨東の地は静かで、吉田も山里だつたのである。

 

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■有吉平吉のこと

2021-12-24 06:41:51 | 人物

 最近WEB上に「明智光秀の丹波支配と国衆」という論考を発見した。
京都先端技術大学の鍛冶教授のゼミの「吉田茉友」という方の論考である。
「令和二年のNHK大河が「麒麟が来る」に決定した」という書き出しであるから、令和元年もしくは一年ほどさかのぼる時期の発表だと推察される。

もう明智光秀の事は「お腹いっぱい」と思っているが、このような論考を見つけるとついつい目が行ってしまう。
その中に、細川家三卿家老・有吉家3代目の有吉平吉(四郎右衛門立行)に関する光秀の書状が紹介されている。
光秀が丹波の士豪、石川主馬助・新三郎・甚介・孫次郎の四名に宛てた平吉の身上に関するものである。

この書状は、大阪城天守閣事務所が所蔵するところであり、平成四年の「秀吉と大阪城展」で展示がなされ、図録にも掲載されている。
                                  

又、私が十数年来探し続け、最近ようやく入手した中垣良朗氏著の「有吉将監」(平成8年発刊)に於いても紹介されている。

     有吉平吉身上之事
     此間各御馳走之由承
     及候雖若輩候 御用にも
     被相立由承及候条 尤之
     儀候 弥於別儀者
     帰参之事藤孝へ御断
     申度候 於御入魂者
     可為祝着候 委曲御返
     事ニ可示給候 恐々謹言
            日向守
     十二月廿四日   光秀(花押)                                              日付が12月24日とあるのは、まったくの偶然である。

      岡本主馬助殿
      岡本新三郎殿
      岡本甚介殿
      岡本孫次郎殿
          御宿人々

 この文書の 「*各御馳走の由承り及び候」 の意訳についてはいささかの差異が見られる。
1、大阪城天守閣事務所では
 * そちら(岡本)で世話になっていることを伺いました。

2、中垣良朗氏著の「有吉将監」では
 * (光秀が斡旋して某家に仕官させた平吉のために)尽力してくれたことに感謝。
とあって、「光秀が斡旋した仕官先は不明である」としている。
大阪城の史料を手に入れ、「解読が及ばず・・・十分詳解していないことに気が付いた」と記される。

3、さて、京都先端技術大学の鍛冶教授のゼミの吉田茉友氏は
「(光秀は平吉を岡本氏に仕官させ)平吉が岡本氏のために用に立っていることを聞き、粗相な行動があれば藤孝の許へ帰参させる」と説明する。

有吉平吉(立行)は永禄元年(1557)の生まれである。
この書状は天正8年(1580)もしくは翌年頃のものと比定(吉田氏)されているから、当時平吉は23・4歳である。

光秀は平吉を「若輩者」と書いているから、もう少々時代は遡るのかもしれない。
各御馳走の由」をこのように意訳するためには、別途なにかしらの史料が存在しなければこのような確定的な判断はできないと思うのだが如何だろうか。
 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十七)

2021-12-23 15:58:43 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十七)

 なき人の面影そへて月の顔そぞろに寒き秋の風かな

 秋部「八月十五日月次會當座に、寄月哀傷」。亡くなつた人の俤までも添へ、吾が
心にそれを思ひ浮かばせて、この夜の月の美しいおもてを眺めるには堪へぬほど寂し
いのに、すずろに、はしたなく、風さへも寒く吹いて、身に沁みることではある。
「月の顔」まことに佳い句とおもふ。月を見ながら人を思ひ出し、その面影を偲ぶと
いふ意味の歌は古來多く、殊に戀歌に夥しいのであるが、單的に月の顔と詠じたもの
みあつて、何人ともことわつてゐないが、筆者は、これは夫人を悲しんだ作にちがひ
ないと睨んだのであつたが、間違つてゐた。細川系圖によれば、幽齋夫人光壽院は沼
田上野介光兼女、天文十三年生、元和四年七月廿六日江戸邸にて逝去、年七十五と

る。すなはち幽齋よりも十歳若く、彼亡後を八箇年ながらへたのであつた。この夫
人は忠興の母で、正室であつたが、幽齋には子女十人あるので、側室もあつたに相違
なきゆゑ、或は側室を思ひ出したかもしれぬ。いづれにせよ右歌は、婦人に對する
非情の吟なること明らかだ。〇ついで乍ら、正室のことを少しく調べる。忠興誕生は
永禄六年十一月十三日於凶徒一條館なるゆゑ、結婚は幽齋三十歳よりも少しく以前、
桶狭間役の頃と考へて、見當はさまで違はぬ筈だ。當時の幽齋すなはち藤孝は將軍足
利義輝の側近で兵部大輔従五位下ぐらゐの身分であつた。夫人の實家沼田氏は同じく
足利幕臣で、外様詰衆、家柄は餘り高くはなかつたらしい。細川兩家記を見ると、永
                                 
禄八年五月十九日將軍義輝殺された時に「或討死或腹切」三十一人の中に沼田上野
を擧げてゐるので、藤孝の岳父は主君に殉死した忠義の士なることを知る。


註:この沼田上野介は藤孝岳父の光兼ではなく、その嫡男光長のことである。藤孝室・麝香の長兄。

 

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■長い事一息つけば・・・・・

2021-12-23 06:25:33 | 徒然

 私が中学生くらいの事で全くうろ覚えの話だが、同居していた母方の祖母が「長い事一息つけば・・・・・」という句があると言っていた。「・・・・・」は五文字であったと思う。その五文字が判れば、その歌の事も判るということだろう。

本は読むべしとつくづく思ったのは、この事が解決する手がかりを今日見つけ出した。というよりも回答を見つけ出した。
本当に久しぶりに、本棚から准院生(実は中野好夫)著の「完本一月一話・読書こぼればなし」を取り出して眺めていたところ、なんと「長いこと一息ついて和田の原」という項を見出した。私は「一息つけば」と覚えていたが「一息ついて」が正解だった。
これは百人一首を読み上げる時、まず作者の名前をあげ、つづいて和歌をよむのだが、作者の名前がすごく長いので一息ついたのち「・・・・・」と続けることを可笑し気に狂句にしたものだった。
作者は藤原忠道、歌は百人一首76番「和田の原漕ぎ出てみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波」である。

                

ところが正式な発声は「藤原忠道・和田の原・・・・・」ではなく、その官名とでもいうのか、「法性寺入道前関白太政大臣」であるため、これにつづけて「和田の原・・・・・」と読むので、名前の紹介で一息つかなければならないという訳だ。

回答は見つかったが、何故祖母がこんな話を知っていたのかが不思議である。もっとも私が幼い頃、祖母は百人一首を取り出してはよく眺めていたことは確かだ。
私は当時絵が描かれている札が「読み札」だということさえ知らなかったほど無頓着であった。
百人一首は脳みそを活性化させるという。少し諳んじてみようかと思ったりもするが・・・・・??
どこかに眠っている百人一首の在処さえ判らない有様である。

 そして余計事だが、NHK熊本局に法性(ほっしょう)アナウンサーが居られることに気づいた。

藤原忠道の入道号である法性寺に何か関係あるのではないかと考えたりしているが、如何だろうか?

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■御恵贈御礼・令和三年熊本博物館企画展「能楽伝承~熊本の能文化~」図録

2021-12-22 09:07:45 | 展覧会

                 

 12月18日から熊本博物館で始まった令和三年冬季企画展「能楽伝承~熊本の能文化~」の図録を、肥後金春流中村家のご当主・中村勝様からお贈りいただいた。深く御礼を申し上げる。
この度中村家に長く所蔵されていた、貴重な能楽資料を熊本県に寄贈され昨年度「熊本県指定重要文化財」に指定された。
これらの能楽資料に加え、永青文庫・松井家・本妙寺そのた多くの機関また個人からの貴重な資料が共に展示され、またとない展覧会となった。
氏の御子息・中村一路氏は金春流のシテ方として将来を嘱望されたが現在体調を崩されている。そのご子息・大雅さんもまた精進を重ねられて父君の跡を襲われるものと期待されている。
ご先祖以来の能の中村家であるが、ご一家をあげて能一筋に精進されている。皆様のご助力を賜りたい。

氏は現・熊本史談会の創設者でもあられる。16年の歴史を紡いできたが、初代の事務局長(当時は会長職は存在しなかった)としてご苦労を成され、今日の史談会の道筋を作っていただいた。
私はご自宅にお邪魔して、この「熊本県指定重要文化財」に指定された資料の一部を拝見させていただいたことがある。
伊達政宗の「鶺鴒の花押」が押された、初代中村政長に宛てた「恐惶謹言」と記された敬意をもっての書状や、錚々たる大名衆の入門の為の血判起請文などまさに名実ともに「重要文化財」としての価値ある資料ばかりである。
今回一堂に会するこれらの史料は、又機会を改めて早々に展観できるものではない。
多くの皆様に会場へ足をお運びいただきたい。

これは熊本の宝と言えるが、能楽に関する日本の宝と言っても過言ではない。日本中の能楽愛好者の皆様にもご来場いただきたいものである。


付け足し:
熊本史談会では令和四年の一月例会に、肥後金春流中村家のご当主・中村勝様(熊本史談会・創設者)をお迎えしてお話を伺うことにしている。
        日時:令和4年1月15日(土曜日)午前10時~11時30分
        場所:熊本市民会館第9号室
        演題:加藤清正と能

私たち熊本人でも、加藤清正が能達者であったと知る人は多くは有るまいと思う。その師たるべき人物が清正に仕えた中村政長である。加藤家改易後、その子・靭負正辰が豊前の細川忠利に召し出されることになる。
それ以来、武家であり能楽師でもある中村家が誕生した。一方では6代目・庄右衛門(恕齋)は時習館訓導や郡政の能吏として活躍し近世肥後の26年間にわたる貴重な記録資料「恕齋日録」を残し、その刊本一・二巻が歴史家の研究資料として多大なる恩恵をもたらした。
又、吉村豊雄元熊本大学教授の「幕末武家の時代相」(上下巻)はこの恕齋を主人公とした、大変読みやすい著書である。併せてお読みいただきたい。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十六)

2021-12-21 08:21:26 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十六)

 吉野山すず吹く秋のかり寝より花ぞ身に沁む木々の下風

 春部「吉野にて人々に代りて」と題せる八首の中。少しく手の込んだ歌である。吉
      ささ
野山では、小竹(篠)を秋風が吹く頃の旅寝よりも、なかなか以つて、櫻花の盛りの時
の方が身に沁みてわびしい、その花を吹く梢の風の下に宿つて。源三位頼政に、

 今宵たれすず吹く風を身にしめて吉野の嶽の月を見るらむ

といふ秀歌あり、新古今集に載つてゐるが、幽齋はそれを本歌に取つた。さうして、
その秋よりも、春の方が更にわびしい、何故かといふに、花を散らす風が身にしむゆ
ゑに、花の散るのが惜しきゆゑに、と大分ひねくつたのである。近體、殊に二條流で
は、かういふ歌を上手と賞めるのである。


 故郷を心かろくも出でやせむ世のありさまの秋の夕ぐれ

 秋部「故郷秋夕」。我が故郷に、じつと怺へてゐもせず、なまじひに、心かろく、
輕率にも出てゆくことになりもしようか、斯かる世間の有様を見かねて寂しくもなる
秋の夕暮には、先づ、かやうな歌意である。これも本歌取で、

 出でていなば心かろしといひやせむ世の有様を人は知らねば

といふ伊勢物語の一首を踏まへたのだ。業平の述懐は、世相のいまはしき堪へかね
て、世外に出て行かうといふのであるのを、幽齋は逆に取つて、山里におちついては
居られぬ、世狀が心がかりなるゆゑ、飛び込んで行かうと云ふのである。ここに、幽
齋の閲歴と此の一首とが關連を持ち、單なる題詠の秋夕では無くなるのだ。

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■最近覚えた俳句

2021-12-21 07:05:24 | 俳句

 「云々」という言葉がある。
文章の最後に「・・・云々」とするが、これは「他人のことばを引いて述べるときに用いる。」とある。
訓は「いう」、音は「うん」だが、「云々」は「うんぬん」であり「うんうん」とは読まない。何故なのか不思議に思うがまだ正解を知らない。
「しかじか」とか「かにもかくにも」とも読むようだが、「うんぬん」で収めるのが妥当なところであろう。

 さて、私は最近歳旦句を調べている中で、芭蕉に「於春春大哉春と云々」というのがあるのを知った。
古文書に親しんでいる私だが、これは読めないなと思い早々に解説を見ると、「ああ春やはる、大いなるかな春とうんぬん」と読んでいる。
句意は「新春が来た、春だ、春だ、春はいいなぁ、」というのである。誠に大らかなことで大いに結構だが、どうやら人様のものを真似をしたものらしい。中国の文學者・米芾(べいふつ)作『孔子賛』に「孔子、孔子、大、哉孔子」というものがある。
「松島やああ松島や松島や」もこの部類かもしれない。

 かって国会答弁で安倍元首相が原稿を丸読みして云々を「でんでん」と読んで物議をかもした。これは論外・・・

            でんでんを「云々かんぬん」言い訳す  津々

 

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■朝散歩とクスノキの切株

2021-12-20 11:26:28 | 徒然

 今朝は朝から少々冷え込んだが散歩に出るころには風もなく晴天となった。
ダウンを着込み手袋をして外に出たが、しばらくするとこれが失敗だったことを思い知る。
ウインドブレーカーでよかった。ダウンをぬぎ、小脇に抱えて歩くことになってしまった。
先に散歩コースの沢山の赤いリボンがいよいよ切り倒されることをご紹介した。どうやらこれは私の早とちりであったらしく、伐採当日の作業を確認して、その翌日には切株を写真撮影した。

                       

 大きな切り株は、ほかの処でも伐根することなくそのままにしてある。この新しい切り株は良いにおいを放っている。
数日たつが其後赤リボンがまかれた木が、切り倒されることには至っていない。どうやらこの一本だけを切り倒したものらしい。
いづれにしろ何時かは切り倒される運命にあるのだろうが、作業はきわめて爽やかなもので、クレーンで支持しながら何度かに分けて切断され、その都度車で運び出される。
一本切るのに半日仕事といった感じ、続けてやるとすれば一月以上かかる作業のようだ。
私の早合点をお詫び申し上げる。

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十五)

2021-12-20 06:32:21 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十五)

 めの前に海をなしつつ朝霧のあらぬところに沖つ鳥山

 詠和歌百首の中。霧深き朝の海景。眼前に濛々と朝霧が渦まいて、海面はそれと見
とめ難い。思はぬところに沖の小島が現はれた。一方、霧がとだえして。「朝霧の」
は此句で小休止し、さて「あらぬところに」となる。朝霧のあらぬところ、霧の少き
ところ、の意ではない。霧の少いところに島が見えると云つたとて、歌ではない。あ
らぬところ、思はぬところ、といふのが一首の生命である。後世、村田春海の有名な
作、

 心あてに見し白雲はふもとにて思はぬ空に晴るる不二の根

などが参考になる。

 

 海原や霞と共にみつしほの浪路はるかに春たつらしも

 春部「元旦試筆に」。大きく美しき敍景で新年を祝してゐる。滄海原は元旦から早
くも、麗らかな紅霞たなびき、それと共に、潮もまんまんと満ちて來て、沖の遙かま
で春の立ち來る風景だわいと、自然の豊かさを春の徴と眺めたのである。「霞と共に」
「春立つ」立つは、春のみならず、霞の縁語にもなつてゐる。結句は古調を帯びなが
らも、「海原や」といひ「霞と共にみつ潮」といひ、全體は近體をなしてゐること、
いふ迄もない。類想の古歌一首、

 天の戸のあくるを見れば春はけふ霞と共に立つぞありける(新拾遺集)

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■御恵贈御礼「くまもとお大師廻り」

2021-12-19 09:55:40 | 書籍・読書

                                                               

 昨日の熊本史談会の12月例会で、会員の福田晴男氏から研究の成果をまとめられた「くまもとお大師廻り」を会員全員にご恵贈給わった。
そのすばらしい研究の成果に敬意を表するものである。
氏は熊本史談会の最古参の会員であるとともに、熊本地名研究会・熊本歴史学研究会の会員でもあられ、永く松本寿三郎先生の許で古文書解読の勉強を続けてこられて、わが会では解読の第一人者といって良い。
氏は「お大師廻り」という古文書に出合われ、その全文を解読され翻刻文と共に紹介され、その熊本城下88ヶ所の地を廻られたうえ、誠に精しい解説をお付けいただいている。A4判全75頁に及ぶ素晴らしいものとなっている。
わが熊本史談会でも、平成25年(2013)には■9月例会(9月21日・土 熊本市中央公民館・5階‐2号室 )で「熊本のお大師廻りと町々‐講演・福田晴男会員」として、ご研究の一端をお聞きしたことがある。
それから8年経過しているが、その間研究を深められ今般の出版の運びとなったものと察せられる。
今年に入りここ数ヶ月御病気でご出席なかったが12月例会ではお元気なお姿でご出席され、お礼申し上げたことだが、ますますお元気でご研究を続けられることを願うとともに、予定されていた講演もお聞きしたいと願っている。
深く感謝申し上げる。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十四)

2021-12-19 07:36:43 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十四)

                     つばさ
 たつ鳥に手放す鷹のとびよるや今こころみし翅なるらむ

 詠百首和歌の中。鳥が立つた、鷹を放つた。鷹は一途に鳥をめがけて、喰ひ迫つ
    すばや                はばた
た。その便捷き勢ひは、たつた今、羽搏き試みた、飛力である。まことに武将の作ら
しい鷹狩の吟とおもふ。乍併、敢へて批評すれば、結句「翅なるらむ」が弱い。やは
り、二條流の歌である。戰國時代に鷹狩の流行したことは勿論だが、殊に信長がこの
遊戯と相撲を愛好したことは有名である。幽齋に鷹狩の歌あるは、もとよりそのと
ころだ。「今こころみし翅といふこと、鷹狩に不案内の筆者として確かなことは云へ
                 こぶし
ないが、おそらく、馬上の狩獵者の拳の上で、はた/\と羽搏き試みた、といふこと
であらう。或は、龍山公鷹百首、 

 すゑなれぬとや山の鷹の足ぶみに足革引の羽風身にしむ                 

の一首の註に「足ぶみをさする時、鳥屋出の鷹いまだ馴れず、久しくとやの内にて
をもささぬにより、とやを出しさしたるにより、むづかしがり足革引をするを云な
るべし。足革を引時は、必鷹の羽をひろげ羽風を立る體也」とある。その羽ばたきか
も知れぬ。「とびよるや」西園寺相國(公經)鷹百首と俗にいひつたふる歌の中に、

 尾の下にとびいる鷹に詰められてはまりにつかぬ鳥ぞ落ぬる

このやうな趣なのであらう。

                                                                               

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■忠利家督後の惣奉行たち

2021-12-18 15:15:28 | 歴史

 寛永初期、小倉細川藩においては66種の奉行職がありその数は198人に達していた。その頂点にあったのが「惣奉行」である。領国の法・規則の公布・年貢諸役の賦課・財政上の諸案件など惣奉行の決済に任せられた。判断不可能な案件は家老に相談を求めることとした。尚家老取り扱いの案件は、上級武士層に関する案件や幕府や禁裏・大名等に関する事のみとされた。
忠利が家督して以降惣奉行は、小篠次大夫、浅山清右衛門(修理)、仁保太兵衛、続兵左衛門、西郡刑部少輔、横山助進、田中与左衛門(兵庫)等が務めた。稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国世代の国づくり」から

■小篠次大夫  元和7年~9年 次大夫は転切支丹であり、その時期は慶長拾九年頃だとされる。
        丹後以来の家だが、その祖は大江広元末流とされる。
        先祖附においては嫡子・七左衛門を初代としている。12代の孫・四人が揃って神風連の乱に加担して自刃した。
        尚、熊本史学 89・90・91合併号に馬場隆弘氏の小篠家に係わる論文が掲載されている。
           「戦国期における石清水八幡宮勢力の展開と寺内町
               肥後藩士小篠家と河内国招提寺内の関係を手がかりに」

■浅山清右衛門 始め清右衛門、元和9年~寛永11年迄奉行職、寛永4年正月忠利の命によって修理亮と改。
        同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
        二代目清右衛門か、延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候。

■仁保太兵衛  幼少より彦山座主忠宥の元で養われ、元和二年召し出し(27歳)
        中小姓、二十石五人扶持。元和三年、知行二百石、馬廻組。
        元和7~9年惣奉行。寛永初年大阪米奉行・同屋敷奉行などを務める。

■続兵左衛門  續亀之助の男、江戸江相詰衆「藤」三百石 (於豊前小倉御侍帳)の記録が残る。
        子孫なしか、詳細不明。

■西郡刑部少輔 大炊介・清忠、清忍(刑部)元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。 
        岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録)
        天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の戦功五百石、岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によ
        つて千石加増、都合二千石、御小姓頭御番頭、多分大炊と云違るとて刑部と改候、

■横山助進   元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。「於豊前小倉御侍帳」には 御弓二十挺頭 三百五十石とある。
        天草島原の乱に於いては幕府上使・板倉内膳正御付として細川家から派遣され、内膳正と共に討死。

■田中与左衛門 柳川藩主・田中吉政弟氏次 寛永3年正月~寛永9年惣奉行
        留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭) (於豊前小倉御侍帳)・・兵庫
        消息:寛文三年正月(元旦)忠利惣奉行ニ改名ヲ命ズ 「日帳」
          (浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を以被仰出、
           則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也
                                (福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十三)

2021-12-18 15:12:20 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十三)

 なく蟬の聲を時雨にまがへてもたちよる森の下露はなし

 詠百首和歌の中。さわがしく鳴く蟬の諸聲は、しぐれ(初冬の驟雨)のやうに聞こ
える。蟬はおのれの聲を雨にまがへ、よそほひ佯るつもりか知らないが、一向に森の
雫は落ちて來ない。蟬聲如雨といふけれども、眞夏の樹葉は乾き切つて露もおちぬも
のをと、洒落れたところが此の歌の狙ひどころである。俳諧に「蟬時雨」といふ語が
ある。古歌には、蝉の涙といふ詞あり、森の露雫は鳴く蟬の涙であらうと譬へたのが
折々あるけれども、蟬の聲を雨の如しと歌つたのは、案外に見出し難い。少しく擧げ
ると、

 村雨の跡こそみえぬ山の蟬なけどもいまだ紅葉せぬ頃 (月淸集)

 雨そそぐ嶺の梢をながむればむら雲かかる蟬の聲々  (千五百番)

 なく蟬の聲ふりたつる夏の日にゆるぎの森は村雨ぞふる (夫木抄)

この中では良經の「村雨の跡こそ見えぬ」が幽齋の一首と最もよく似てゐる。白樂天
に蕭風風雨天・蟬聲暮啾々などあるが、如雨は見付け得ない。さやうの古い事はさて
措き、「なく蟬の聲を時雨に」云々は、幽齋の歌と俳諧との關連をたどる上に見逃し
てはならぬのである。


 風わたる洲崎のよもぎ冬枯れて夕霜しろきをちの川浪

 詠百首和歌の中。まことに手際のよさ敍景歌である。加茂川の冬が直ちに眼に浮
ぶ。「洲崎」川の中洲の尖つたあたり。「夕霜しろき」むろん枯蓬に霜が白くおいた
のであつて、川浪に續く語ではない。「夕霜しろき」と切つてしまつた方が佳かつ
た。「をちの川浪」川上か、川下か、遠くの水が夕暮の薄明の中になほ光つてゐる。
同じく集、冬部、

 河原風ふきにけらしな霜枯の洲崎の蓬をれふしにけり

とある方が、一層で宜しいかも知れぬ。

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■ヤフオク・評価ポイント151という数字

2021-12-17 13:43:07 | 徒然

 私はヤフオクに出品はしていないから、最近のこの 151 という評価ポイントはすべて落札した事による数字である。
中には同じ業者でいくつか落としても評価は1から動かなかったり、面倒くさがって評価をしない業者もある。
そんなこんなを加えると170点くらいはヤフオクで手に入れていることになる。
どうしても手に入れたくて頑張った古文書数点は4~5万円したものもあるが、あとは1,000~2,000円といった処だろうか。
25万とか30万とか使った計算になる。

 古文書と古本が殆どだが、ほかにも下らぬものを手に入れたが捨ててしまったものもある。
前の東京都知事の舛添さんではないが、絵や御軸なども数点手に入れたが飾る事もなく押し入れに眠っている。

古文書が3~40点ほどあるから、本が100冊以上ヤフオクで手に入れていることになる。ちょっと本棚を見回してみると、なんとも薄汚く見える古い本がそうだ。
今盛んにタイピングしている川田順著の「細川幽齋」などは、昭和21年の初版本で、紙質がすごく悪くてページを開くたびにパラパラと切れ落ちてしまう。
もう古本の範疇をこえた古紙である。私にとっては大事な古紙ではあるが、タイピングが終わったら処分しようかと思ったりする。
中には熊本の図書館が所蔵していない本も数冊ある。
夫々の本が大事な私の財産なのだが、さてあと何年一緒に過ごすことが出来るのだろうか。終活も考えなければならない。

 

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4

2021-12-17 06:54:47 | 小川研次氏論考

     第六章 林外記

    一、林外記の出自

寛永二十年(一六四三)二月二十一日(鴎外・四月二十一日)、阿部一族は誅伐されるのだが、外記は新藩主光尚の寵臣とされ、この年の四月二十七日、「一月に一度宛人を派遣し、隣国の様子を見ることを林外記に命ず」(『熊本藩年表稿』)とあり、千五百石の大目付役であった。(「真源院様御代御侍免撫帳」*真源院は光尚)

大目付は家老・中老・惣奉行に次ぐ重職であるが、この頃の細川家では奉行と同格であったようである。
外記は細川家文書に散見されるが、出自は不明である。その系図は当然だが、阿部一族と同じく抹消されている。
「於豊前小倉御侍帳」、「真源院様御代御侍免撫帳」に「林」姓の家臣は多く見られるが、千石以上の者はいない。突然、召し出されたとも考え難い。推定生年を元和六年(一六二〇)生まれとしたら、父親が小倉藩時代から仕えていたと考えるのが妥当であろう。まず、可能性のある「林」なる人物探しをしてみよう。

一つ考えられるのが、「利根川道孝」(一五六一~一六四一年)である。外記からすれば、祖父の年齢であるが、養子も考慮してみよう。

豊後国主大友義鎮(宗麟)(一五三〇〜一五八七年)の二男親家のことであるが、慶長十四年(一六〇九)より百石三十人扶持で細川忠興に客分格で招かれている。(「於豊前小倉御侍帳」) 天正六年(一五七八)、親家は元服した時に、同門名跡「林家」の「林新九郎」と名乗る。(外山幹夫『大友宗麟』) 又、この頃に正室を迎えているが、宗麟の継室となった「ある高貴な女性」(ルイス・フロイス『日本史』)の娘であった。

天正六年(一五七八)早々、宗麟が奈田夫人と離縁し、臼杵城を出ていった時に連れ出して再婚するのが(八月二十八日)、夫人の侍女頭であった「高貴な女性」であるが、前夫との間に娘がいた。前夫は耳川の戦いで戦死する大友家重臣・吉弘鎮信(一五四四~七八)とされる。側室であったが、離縁して奈田夫人に仕えていたのだろう。

「国主(宗麟)がこの女性に愛情を寄せたのは、彼女はすでに四十歳(一五三八年生か)を数えていたから、その愛らしさによるのではなく、国主の意にかなった別の面を有していたからである。すなわちこの女性は、つねに病弱である国主にまるで奴隷のように奉仕していた。彼女はそのほか器用な才覚のす持主で、家事を司ることに秀で、しかも国主の次男(親家)は、この女性の娘と結婚していたから、実のところ息子の義母に当たっていた。」(ルイス・フロイス『日本史』)

「新たな奥方と、国主の次男の妻であるその娘が、キリシタンの教えについて話をすべて聞き終わると、国主はフランシスコ・カブラル師に、臼杵の教会は遠いから、妻は病身で、目下、自由に尊師らの司祭館まで出向いて受洗するわけにはいかぬので、彼女たちに洗礼を施すために来訪されたい、と伝えた。」(同上)

「カブラル師は、二、三名の日本人修道士を遣わして、奥方の部屋のなかに、運搬できる祭壇を設置させ、臼杵の司祭館にあった最良の祭具を彼女の洗礼の為に運ばせた。国主は満足そうに、天蓋を作ったり、祭壇を設けるように命令しながら活発に振舞った。このようにして奥方と娘両名は受洗し、奥方にはジュリア、娘にはコインタの教名が授けられた。」(同上)

実はこの時、宗麟はまだ洗礼を受けていなかったが、その年(一五七八)七月二十五日に受洗、洗礼名はフランシスコである。(同上)二男親家は本人の強い希望で天正三年(一五七五)の十四歳の年にすでに受洗しており、ドン・セバスチャンの洗礼名を持つ。受洗したコインタは十六歳だったと思われ、親家は十七歳となり若き夫婦であった。

さて、三年後の一五八一年のフロイス『日本史』に興味深い記録がある。もう一人の「林」である。
イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが臼杵を訪問している時に、事件が起きる。

「夜明けの一時間に、林ゴンサロと称するキリシタンの貴人の家に火災が発生した。彼は国主フランシスコの娘婿、すなわち国主の二度目の奥方ジュリアの連れ子と結婚しており、臼杵の重だった人物の一人であった。(中略) 彼の妻はコインタと呼ばれていた。彼は二十五歳、彼女は十九歳を数えた。」(同上)

『イエズス会日本年報』(一五八二年二月十五日付、長崎発・ガスパル・コエリョ)によれば、「ゴンサロ林殿と称し、年齢は二十五歳で、夫人は十五、六歳に過ぎなかった」とあり、コインタの年齢が若干異なるが、母ジュリアの年齢(四十三歳)から考えると「十九歳」の可能性が高い。
親家の妻コインタと同一人物であろうか。そうであれば、親家は数年後には離縁していたことになる。

「林ゴンサロ」は志賀親成(ちかしげ・一五五六~一六二二)で林与左衛門宗頓(むねはや)とされ、豊後国のキリシタン柱石となる岡城城主志賀親次(ちかよし)の実兄とされる。また、細川家に仕えた清田鎮乗(寿閑・浄閑)も兄弟とされる。(『戦国武将出自辞典』)

親成は文禄二年(一五九三)の大友家改易後に立花宗茂、加藤清正らを頼り、その後は長崎へ行き、浦上村淵庄屋志賀家の始祖と伝わる。(長崎市指定史跡志賀家墓地墓碑より) 典拠は文政四年(一八二一)に編纂された『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)と考えられるが、親次の息・親勝を養子とし淵村庄屋初代としている。しかし、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂された細川家『先祖附』に親勝は「加藤忠広御代新知二百石」から浪人となり「細川入国時沢村大学方より御連召出二百石」とあり、細川家に仕え、志賀家は江戸末期まで続いている。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

ここから考えられることは、親勝も叔父の親成と立花家、加藤家と同行していた可能性がある。加藤家改易の年寛永九年(一六三二)、同年、親勝は移封後の細川家に召し抱えられのだが、この時、親成は長崎に向かったのだろうか。

さて、親家がコインタと離縁していたと考えられるのは、宗麟の臨終の時のことである。

天正十五年(一五八七)五月六日(日本側史料によると五月二十三日『大友宗麟』)、イエズス会司祭フランシスコ・ラグーナは宗麟の死を悟り、「私は奥方のジュリア様と、その長女および息子のドン・セバスチャンをそっと呼んで彼らに事情を打ち明けました。すなわち私はその時からは、もうこれ以上、国主の生命を長引かせることでは祈らないことにしていました。それのみか国主はお亡くなりになるでしょうし、また多くの理由から、国主にとってはそのほうがむしろよいのだ、ふさわしいのだとの確信を抱くようになっていたのです。」(『日本史』)と打ち明けたのである。

「その長女および息子」は宗麟の長女ジュスタと次男親家である。

「国主の臨終に立ち会った子女は、ドン・セバスチャン(親家)、ジュスタ、レジイナ、モニカ、ルジイナ、それに久我殿に嫁いでいる異教徒の娘、および奥方ジュリア様でした。息子の嫡子(義統)とパンタリアン親盛(宗麟三男)は、当時、日向での戦いに参加していましたので、その場に居合わせませんでした。」(同上)

長女ジュスタは豊前小倉藩で仕えることになる清田鎮乗(寿閑・志賀家)の義父鎮忠に再嫁する。
レジイナは伊東義賢の妻だが、「モニカ、ルジイナ」は宗麟とジュリアとの間に生まれた娘とされる。(同上)

「国主は年老いてから生まれ、娘たちのうちではなくもっとも年下のモニカとルジイナという教名の二人の娘をこよなく可愛がっておられた」(同上)

つまり、親家の妻コインタは宗麟臨終の場にいなかったことになる。しかし、親家には、男子がいた。母はコインタなのか不明だが、慶長十七年(一六一二)、細川家に五百石(のち千石)で仕えた大友親英、のちの松野親英(織部・一六四七年没)である。

また、宗麟三男の親盛は慶長十一年(一六〇六)から細川家に千石で召抱えら、加賀山隼人亡き後の豊前キリシタンの柱石となる人物である。親盛は長兄義統の三男正照(右京)を養子に迎えている。

留意すべきは阿部一族上意討ちの時、藩主光尚が身を寄せていたのが右京邸であった。(『阿部一族』)

文禄二年(一五九三)、宗麟嫡子義統が秀吉により改易された時だが、フロイス『日本史』)によると、「国主の奥方であったジュリア、それに林殿の妻となっている娘コインタが、ごく少数の家来に伴われて、(中略) 毛利の国に旅立った。」とあるが、ゴンサロ林(志賀親成)の妻と考えられる。豊後国から、宗麟の娘マセンシアが嫁いでいた小早川秀包の領地筑後国へ入ったのである。この時、宗麟との間にできたとされる娘モニカとルジイナも同行したと考えられる。

多くの大友家重臣が細川家に仕えたが、オールキリシタンであった。このことが、後々に細川家へ重大な影響を及ぼすことになる。

    二、清田石見

大友宗麟の長女ジュスタ(前夫・一条兼定)の夫は清田鎮忠であるが、その娘(先妻の子とされる『大友の末葉・清田一族』)は涼泉院といい、慶長十四年(一六〇九)に細川家に仕えることになる清田鎮乗(寿閑、浄閑、志賀親成・親次兄弟)を婿養子として迎えていた。そして、二人の娘が幾知(きち)で、のちに忠興の側室となり、宇土藩初代藩主細川立孝と刑部家興孝の母となる。そして、宇土藩第六代立礼(たつひろ)の時、本家を継ぎ第八代熊本藩主細川斉茲となる。つまり、ガラシャ夫人の血筋は途絶え、大友・志賀家の血筋となるのである。

また、幾知の長兄の乗栄(のりひで・七助・石見)は大坂の陣で一番槍の功により、忠興より二千五百石の知行を得ている。(『綿考輯録・巻十九) 室は忠興の妹伊也の末娘である。(『綿考輯録・巻四十二』) つまり藤孝の孫であり、忠興の姪となる。

やがて三〇三五石の大身となり、島原の乱で胸に銃弾(矢)を受けたが、「寛文四年(一六六四)六月御侍帳」に「清田石見組」とみえることから、生存していたと考えられる。実は、『阿部茶事談』の作者(口述者)とされる栖本又七通次は「十挺頭二百石」として清田石見組に属していた。(同御侍帳)

ここで、この二人の不思議な縁についての記録がある。

栖本家は天草五人衆(志岐、天草、栖本、上津浦、大矢野)の一族であるが、天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉九州平定の時、五人衆は島津に加担して一万田の小牟礼城(大分県豊後大野市)に籠城していた。その時に攻めてきたのが志賀親次である。

つまり、石見の父鎮乗の兄弟である。親次は城内にいる天草ドン・ジョアン(天草久種)をキリシタンのよしみで助命するが他の者は皆殺しになると伝えた。しかし、ジョアンは一人助かることを不名誉とし、「全員の命を助けて頂きたい」と返した。

「ドン・パウロ(親次)は、この願いを名誉ある良いものと認め、彼の願いをかなえてやり、ドン・ジョアンに対する愛から全員を許し招待して大いにもてなした。」(「一五八八年二月二十日付フロイス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集第三期第七巻』)

五人衆は親次に深く感謝し、島民とともにキリシタンに改宗することになる。天草は三万人を超えるキリシタン島となった。

翌年、栖本親高は父鎮通と家臣らと受洗し、領民ともに二千二百名以上が入信した。(『フロイス日本史11西九州篇Ⅲ』)

親高の曽孫が又七通次である。又七は加藤家改易後の寛永十年(一六三三)九月から細川家に仕えることになるが(『肥後国誌』)、石見が栖本家の恩人である志賀親次の甥と知り感慨深いものを感じたであろう。また、親次の息・親勝もいた。

このような関係から、又七もキリシタンに理解があったと考えられ、『阿部茶事談』は水平思考によるアプローチが肝要である。また五人衆の一族である天草十太夫、上津浦六左衛門も細川家に仕えた。両人は寛永十三年(一六三六)にキリシタンから仏教徒に転宗している。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)

さて、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂されている『先祖附』に石見の嫡子「外記」が記されている。細川藤孝の曽孫にあたり、忠興にとっては姪の子で幾知の甥となる。この「外記」が「林外記」とは確定できないが、不可解な点がある。

石見の跡式相続は嫡子「外記」ではなく、二男の主馬(乗治)とあるが、「外記」は「病身ニ有之、御奉公難相勤候ニ付」とあり、主馬も相続を「御断申上、浪人仕」となり、病死している。帰農したとされる二人の兄弟に何が起きたのだろうか。

藩が元キリシタン(転びキリシタン)を監視するために作成した「私家来清田石見母転切支丹涼泉院系」(類族帳、『肥後切支丹史』)に石見は「寛永二十年(一六四三)死」と付記されているが、上述の「御侍帳」にみえること、また慶安四年(一六五一)以降に作成されたと考えられる「二ノ丸之絵図」(『新熊本市史、別編第一巻上』)に屋敷があることから、間違いであろう。

「類族帳」には石見、主馬、そして曽孫の宗也の名があるが、「外記」は記されていない。

宗也は主馬を相続したと考えられるが、不明である。宝永三年(一七〇六)に六十二歳で没している。菩提寺は流長院(現在中央区坪川)と記されているが、石見叔父の五郎大夫(五百石)も同寺に眠るとある。

主馬の室は重臣・沼田延之の娘であり、二男は延之の弟・延春の養子となっている。沼田家は忠興の母方(沼田麝香)となり、細川家重臣として中核を担っていた。

「外記」や主馬の母は細川家、弟は沼田家という名門「清田」家であったが、大身(三千三十五石)の石見の跡式相続はなされていない。つまり、事実上の御家断絶に等しいのではなかろうか。

「清田家」は寛永七年(一六三〇)から鎮乗(寿閑)の四男左近右衛門(石見弟)が三百石で仕え、主馬(石見二男)の息である源左衛門(養子)、そして甚右衛門(養子)と継ながる。この甚右衛門は松野親英(織部)の三男である。つまり、宗麟二男親家(林新九郎、妻コインタ)の孫となる。

左近右衛門は志賀親成(林与左衛門、宗頓、妻コインタ)の甥にあたる。先述の二つの「林」家が繋がっているのである。

推考として「外記」は清田家だが、小倉で生まれ(推定一六二〇年)、忠利により召し出され、江戸にいる光利(光尚)に付けられた。後に父・石見から分知し、同門名跡「林」姓を名乗った。肥後国へ転封後、島原の乱の功により知行加増し、忠利没後に光尚により千五百石の大目付の重職を担うとしたら、謬見だろうか。

    三、阿部一族と林外記

寛永十四年(一六三七)十月に勃発した島原の乱の様子である。二十六日、長岡監物(米田是季)が沼田勘解由(延之)を招き囲碁の会を催していた折に西南の方角から大砲の音を聞いた。翌日、飽田郡小嶋村より島原辺りから火が出ており鉄砲の音が聞こえてくると伝えたのが、郡奉行の阿部弥一右衛門と田中勘之助であった。(『綿考輯録巻・三十七』)

寛永十五年(一六三八)二月に幕府軍の総攻撃より反乱軍は壊滅した。終焉の地となった原城跡は二〇一八年七月に世界文化遺産登録となり、永遠にその悲劇を世界に伝えることになる。

さて、本丸一番乗りを果たした細川軍であるが、忠利は家臣らの功績を讃えている。

同年五月七日、花畠御殿(藩主邸)にて、忠利から三人が陣刀を賜っているのだが、「田中左兵衛」「林太郎四郎」「阿部市大夫」である。三人とも「光利君衆」、つまり、忠利の嫡子・光尚(光利)の初陣に伴ったのである。(『綿考輯録・巻四十九』)

左兵衛は先述の田中兵庫の養子(佐久間忠助)とされ、島原の乱で本丸一番乗りを果たしたといわれる。(公儀は益田弥一右衛門)(同上) 

元和七年(一六二一)十二月十四日、忠利は三歳の六(光尚)を連れて江戸に向かった。小倉藩藩主として初めての参府であった。
この時、左兵衛は光尚付きの小姓として随行したと考えられ、やがて新知百石を受けた。(「於豊前小倉御侍帳」) このことから他の二人より七、八歳年上だったと思われる。太郎四郎と市大夫は光尚(一六一九年生)とほぼ同じ歳と考える。
山本博文氏著『江戸城の宮廷政治–熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡』が左兵衛の一番乗りを詳細に伝えている。

「幻の一番乗り」として、「光尚の歩頭(かちがしら)田中左兵衛は、光尚に命じられ、志水久馬らとともに益田(弥一右衛門)より先に本丸への乗り入りを敢行している。海手の隅脇から堀のない石垣を上がり、一番乗りと名乗って本丸に入った。」しかし、「同じく乗り込んだ志垣小伝次らは討たれ、左兵衛も負傷した。」ここで後退するのだが、「のちに一番乗りと認定された益田弥一右衛門はまだ石垣の下にいた。」左兵衛は益田に「我は先刻より城中にて相働き、かくのごとく手負いたる故むなしく帰るなり、働きて高名せよ」と言い放った。こうして、益田は上使により一番乗りと認定された。その後、気遣った忠利は左兵衛に「手ずから金熨斗つきの陣頭を賜い」、「益田に倍々し御取り立てなさるべく候間、遺念あるべからず」との誓文を添えたという。知行五百石から千五百石に加増され小姓頭を拝命された。左兵衛は生涯「一番乗り」を口にしなかったという。

さて、陣刀を賜ったのは左兵衛一人ではなく、上述の三人である。つまり、他の二人は左兵衛に随い一番乗りを果たしている可能性がある。

「林太郎四郎」は林外記である。興味深いのは「市大夫」で、阿部弥一右衛門の三男である。(『阿部一族』) 三人の原城での様子が伝わる。

「田中左兵衛・林太郎四郎・阿部一(市)大夫三人共ニ堀ニ着働候と被遊、」(『綿考輯録・巻四十九』)とあることから、三人が一番乗りだったことは大過ないだろう。また、「馬乗手負」(『綿考輯録巻・四十八』)に「近習田中左兵衛」と「浪人分阿部市大夫」とあり、この時、二人は負傷したのは間違いないが、市大夫は浪人であった。

次に八月一日だが、島原の乱の武功により阿部弥一右衛門の四男「阿部五大夫」、九月一日は二男「阿部弥(五)兵衛」、十一月二十四日に三男・市大夫もそれぞれ新知二百石を拝領している。(同上) つまり、四男は年齢不詳だが少なくとも二男、三男は浪人であった可能性がある。

外記の加増の記録はないが、当然加増されたとみるべきであろう。

一方、弥一右衛門の長男権十郎(権兵衛)は藪図書組にいたが、「手負」(『綿考輯録・巻五十五』)で、「小姓組頭道家左近右衛門の組下で左手の指四本を打ちひしがれ、忠利・光尚の命令により小屋へ引き返して養生した。」(『真説・阿部一族の叛』)とあり、投石で負傷し功を立てることができなかった。同じく投石で脛を怪我し離脱した剣豪がいた。小笠原勢として参戦していた宮本武蔵である。(『宮本武蔵有馬直純宛書状』青梅市蔵)

また父・阿部弥一右衛門は知行方奉行沖津作大夫と共に、軍需物資の徴収と輸送を担当していて、戦線にはいなかったとされる。(「新撰御家譜原本真一」『真説・阿部一族の叛』)

さらに、「金子一枚御小袖二羽織一」が「従光尚」の田中左兵衛、林外記、和氣久右衛門に与えられている。「十一月二十四日従肥後守様御褒美御拝領御衆」(「拾集記」『肥後文献叢書第四巻』) 市大夫は浪人だったから外されていたのだろう。
「和氣久右衛門」は改名前は明石源左衛門であった。(『綿考輯録・巻四十九』)その姓から、宇喜多秀家・明石掃部の旧家臣であったと考えられる。
ちなみに、「清田石見」は「後御吟味役」として家老たちと並んでいるが、被弾したことは先述した。(『綿考輯録・巻四十八』)

また、「原之城御吟味之御奉行」に、忠利に殉死する寺本八左衛門、元キリシタンの奥田権左衛門(加賀山隼人甥)、須佐美権之丞も連なっている。権左右衛門と権之丞は島原の乱の前年に転宗していたのである。(『肥後切支丹史』) 

    四、大目付林外記

外記は大目付だが、家老らから外記宛の書状があり、あたかも藩主光尚の代理者の如くである。
外記に関する史料「覚書」を見てみよう。
まず、正保三年(一六四六)九月二十六日付けの細川行孝の書状である。
宛先は田中左兵衛と林外記であるが、連名されていることから、その重責を知ることができる。(「新・肥後細川藩侍帳」)

正保二年(一六四五)五月十一日、三斎(忠興)と幾知(石見妹)の子・立孝(立允)が三十歳で急逝する。八代藩の独立を夢見ていた父三斎(忠興)は愛息子の死が祟ったのか、追いかけるように、その年の十二月二日に逝去した。

立孝の遺児宮松丸(帯刀・行孝)は八歳であったが、藩主光尚は宇土藩立藩を江戸幕府に働きかける。やがて正保三年(一六四六)六月、行孝は宇土、益城郡に三万石の知行を領し、宇土藩が成立する。

そして、行孝は八月に将軍徳川家光の御目見となるのだが、この宇土藩立藩に関する報告を感謝を込めて光尚にしている。同日、外記らにも同一内容の書状を送っている。

次は井門文三郎・興津弥五右衛門・福知平右衛門の外記宛書状である。興津は森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』でその名は知れるが、翌年の正保四年(一六四七)、三斎(忠興)に殉じるために命日十二月二日に自害する。弥五右衛門の二男・小才次は清田五大夫(石見叔父)の曽孫・惣右衛門の養子となる。

書状には立藩のために尽力した三斎寵臣の長岡河内や立孝家老の志方半兵衛門の離職についても言及している。
長岡河内は村上景則のことで、父は慶長六年(一六〇一)に一万石で細川家に仕えた村上水軍備中笠岡城主景広である。景広はキリシタンであったことは先述した。
景則は大阪の陣において清田七助(石見)に次ぐ、功を挙げた。(『綿考輯録・巻十九』) 慶安二年(一六四九)、景則は離藩し長崎で浪人となったが、時の老中堀田正盛に召し出されている。

次は、松野親英は正保四年(一六四七)に没し、その相続に関する覚書が存在するのだが、宛先が林外記である。(『熊本縣資料近世編二』)
親英の知行千石を松野縫殿助(亀右衛門)と善右衛門で相続することの覚書である。三男は先述の甚右衛門で清田家に養子に入っている。

    五、光尚と外記の死

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚は三十一歳で急逝するのだが、嫡子六丸はわずか六歳であったことから幕府への封地返上を遺言していた。しかし、翌年の慶安三年(一六五〇)、国元家老らは六丸の跡目相続に尽くすことになる。

『熊本藩年表稿』から時系列に見てみよう。
「同年二月三日、稲葉能登守、跡目相続について幕府の動向の趣を林外記に伝う。是日、林外記、細川家の家老に伝言す(家譜続)」とあり、江戸にいた外記も相続に関して尽力していた。やがて、「四月十八日、幕府、遺領相続を命ず。長岡式部、同勘解由これをうく。光尚、遺言により封地返上を願うも特に許可さる。また政治は家老にて行わせ、幕府目付及び六丸の親戚小倉城主小笠原忠真をして監督させる旨を命ず。」
ついに、六丸(綱利)相続がなされたのである。伝えられたのは、松井興長と沼田延之であるが、幕府目付と忠利の義兄小笠原忠真の監督という条件が付いた。幕府目付に能勢小十郎頼隆、藤田数馬之助長広が任ぜられた。

「六月二十八日、幕府目付並びに小笠原忠真、熊本着」
この時、細川家家臣の佐藤伝三郎は目付の能勢小十郎に「御附」している。(「林外記討果之節書置」『真説・阿部一族の叛』)
そして、三日後の「七月一日、佐藤伝三郎、意趣ありて林外記討ち果たす」(『熊本藩年表稿』) 事件が起きるのである。(家譜続・八月一日としている)

林外記の家臣による緊迫した事件現場の状況が伝わる。
後藤市右衛門と原武左衛門の「御尋ニ付而申上覚」(『津々堂のたわごと日録』)である。伝三郎が朝五つ(八時)過ぎに外記邸を訪ねてきたが、二人きりで内密の話があるとのことだった。やがて刀がぶつかる音が聞こえてきたので、部屋へ行くと外記と伝三郎が差し違えたとみえ、二人の子(男子)と共に果てていた。(実際は伝三郎は生存) 
やがて市右衛門らは「女房衆居申候所江参」、「奥之口」を打ち破り、「外記女房衆召連明石玄碩所江参申候」とある。

さて、外記の屋敷が突然襲われたのだが、妻らは隣家の医師明石玄碩邸に逃げて助かった。八月八日に熊本を去ったとある。(「細川家日帳」同上) 母レジイナも一緒だったのだろうか。将軍家光に仕えていた兄弟政盛を頼ったのであろうか。いずれも悲傷の旅路に違いなかった。

また玄碩は万治二年(一六五九)に 「知行被差上候」とあり、六百石の禄を失っている。いずれにせよ、隣人外記家族とは何らかの関係があると考えられる。もし、南蛮医学を身につけた明石小三郎だったとしたら、そしてレジイナも一緒だったら隣家に妹と姪がいたことになる。
外記一家殺害の理由も明らかでなく、伝三郎は無罪という不可解な事件である。
光尚の死が契機であることは間違いないが、明らかに何らかの強い意志が働いていることを感じざるを得ない。

伝三郎「書置」(七月一日)によれば「病気で死ぬより、いっそ国家の大患である外記を殺して死ぬのが奉公である」と言い、家老の暗黙の了解と援助の下に行われ、家老米田監物、六丸の後見役小笠原備前の計らいで、お構いなしとされたという。(『真説・阿部一族の叛』) 
このことから、伝三郎個人の動機でないことはわかるが、家老らによる横暴な外記排除とも考えにくい。やはり、光尚の死と六丸相続に関係することであろう。
六丸相続の条件の一つに「明石狩り」があったのでなかろうか。そうすれば、黒幕は六丸相続のキーマン小倉藩藩主小笠原忠真が浮かんでくる。徳川家康の鬼孫と言われた人物である。

大坂夏の陣の折、忠真の父・秀政と長兄・忠脩は戦死している。つまり、豊臣方明石一族は敵となり、敵討ちの相手である。細川家中から排除しなければならない。
忠真は掃部の旧臣・島村十左衛門を召し抱えた時(一六三二年以降)から、明石一族のことは知っていたと思われる。
しかし、明石玄碩が小三郎としたら何故殺されなかったのか。それは独り身の高齢な医師であり、弟子らがいたからと考えられるが、消息不明となる。

『阿部一族』の結幕は一族上意討ちではなく、林外記一家の死を以って迎えたのである。ここに、『阿部一族』事件の真相の鍵がある。しかし、森鴎外『阿部一族』には林外記の討死についての記述がない。それは、依拠した資料に記載がなかったと思われる。長年、『阿部茶事談』は加筆修正されているからである。(藤本千鶴子「校本阿部茶事談」)

林外記の妻は明石掃部の孫である。それは、明石掃部一族との関係を意味する。

『阿部茶事談』の成立要因は「「阿部一族は明石一族」という史実を隠蔽するために物語化したことでなかろうか。しかし、忠利の死により「明石狩り」が行われ、光尚の死により完結されたと考えるならば、阿部弥一右衛門こそ、明石一族でなければならない。弥一右衛門は「初めは明石猪之助」であった。(『綿考輯録・巻五十二) 

    六、仮説

「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(『綿考輯録巻十九』)とあるが、同じく大野治長の次弟主馬(治房)にも伝わる。

大坂夏の陣直後の五月二十七日の細川忠興書状に「大野主馬舟にて西国表へ罷退候由」(同上)とあり、主馬が逃亡したということで、豊前領内で徹底捜査をし、主馬を捕縛するようにと命じている。

さて、三十四年後の慶安二年(一六四九)二月八日付の京都所司代板倉重宗の触書(「森家文書」『大和下市史』)により、大野主馬一族の存在が明らかになった。

近江にいた主馬の嫡子宗室と母いんせい(主馬の妻)が捕縛されたのである。主馬の行方についてキリシタンと同時に厳しい穿鑿が行われたが、主馬は見つからなかったようである。

「箕浦誓願寺記」(『大阪落城異聞』)に詳細に記されている。

近江国坂田郡箕浦村の誓願寺の住職の妻が主馬の長女であったことから、主馬妻子の捕縛に繋がったとある。また主馬の二男三男もいたことが判明した。

板倉重宗の取り調べによると主馬は大阪城中で家族らと五月六日に今生の別れの盃を交わしたとあり、「定て主馬のこの世には有まし」と宗室は父の死を伝えた。落城の折、長女十歳、宗室八歳、二男六歳、三男二歳とあり、母が子供らに女性の衣装を着せて逃げたという。

幕府の沙汰は「男子皆打首、女子ハ助命」となった。三条川原での処刑には板倉重宗も立ち会ったという。

大野一件を阿部一族事件と重ねると奇妙な一致をみる。
ここからは大胆な推測による私見だが、被弾した明石掃部は大阪城で二男内記と水盃を交わした。そして内記は西国へ逃れた。

内記こと明石猪之助は宇佐郡山村惣庄屋与右衛門の養子となり弥一右衛門と改名した。中津にいた忠利の段取りである。元和二年(一六一六)の春頃であろう。宇佐郡の郡奉行だった宗像清兵衛景延は秘密裏に事を進めた。清兵衛は旧小早川秀秋の家臣であったが、小早川家改易後に細川家に仕えた。室は宗像大社大宮司宗像氏貞と大友氏系の臼杵鑑速の娘(大友宗麟養女)の末女である。

妹レジイナが娘と共に兄を頼って豊前へ入ったことや山村惣庄屋の「身内」が百人近いのも、旧臣や使用人がいたことを考えると納得できる。オールキリシタンである。
豊後との国境に位置する村々を管轄した与右衛門はキリシタン組頭であり、宣教師らを保護していた。また身体が不自由になった中浦ジュリアンも匿っていた。
隣接する日出藩主木下延俊の家老加賀山半左衛門は敬虔なキリシタンであり、小倉藩重臣加賀山隼人の従兄弟であった。中浦が籠で行き来していたことだろう。
特に延俊は豊臣方として戦った弥一右衛門と親交を深めた。

元和四年(一六一八)、忠興は忠利の家老久芳又左衛門を筆頭に多くのキリシタン家臣らを処刑した。また、翌年には加賀山隼人や日出藩の半左衛門父子らも斬首された。
しかし、忠利は棄教しなかった。元和七年(一六二一)、小倉城に入った忠利はキリシタン家臣を要所に配し、宇佐郡には側近の上田忠左衛門や河喜多五郎右衛門に当たらせた。
母ガラシャの菩提寺秀林院を建立し、毎年、司祭を潜伏させて追悼ミサを挙行し、忠左衛門の弟太郎右衛門に必要な葡萄酒も造らせた。

寛永九年(一六三二)、肥後国転封が決まった時に忠利は弥一右衛門を侍身分にし、同行させたのである。
妹レジイナと林外記の妻となる娘も従った。

翌年の春には小西行長の孫である司祭マンショ小西が熊本へ潜伏した。ガラシャの追悼ミサが行われたのは言うまでもない。

寛永十一年(一六三四)には、弥一右衛門の長兄小三郎が熊本へ入ってきた。兄弟の再会は三十数年ぶりであった。また、そこにはマンショ小西がおり再会を喜んだ。
南蛮医術を学んだ小三郎は明石玄碩と名乗る。やがてレジイナの娘と結婚した林外記と玄碩は塩屋町で隣人となる。

ここで、細川家家臣の屋敷地図「山﨑之絵図但二ノ丸塩屋町之内茂有之」(『新熊本市史』別編第一巻上)で、登場人物の屋敷を見てみよう。
絵図の成立は付箋で「明暦前後」(一六五五〜五八)とあるが、慶安三年(一六五〇)七月に討たれた「林外記」の名があることから、それ以前に成立と考えられる。おそらく正保年間(一六四五〜四八)あたりからだろう。
旧阿部弥一右衛門邸は斉藤文大夫となっているが、隣人は栖本又七である。忠利時代から大差はないだろう。

さて、寛永十二年(一六三五)七月十二日付の乃美主水と河喜多五郎右衛門への忠利書状に「竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付きて書中見候、こけらふきに申し付くべき候事」(「綿考輯録・巻三十六」)とあり、この塩屋町に最も近い「竹の丸」に母ガラシャの菩提寺を移すことにしたのである。命日の五日前であるが、柿吹きにしてほしいと命じている。

実は忠利は熊本入封間もない寛永十年(一六三三)二月、本丸修復のために花畑御殿に移っている。(『熊本藩年表稿』)
これは寛永二年(一六二五)六月十七日に起きた熊本大地震の影響で石垣などが崩れており、危険であったためである。余震も長く続いており、大雨でさらに被害が広がった。
しかし、翌年寛永十一(一六三四)八月、京都での将軍謁見から帰国して、すぐに「花畑館より熊本城(本丸)へ帰る」(『熊本藩年表稿』)とあり、修復したのであろう。

また、(加藤)忠広の時には花畑御殿は竹の丸と坪井川の上で廊下続きになっており、「それゆえ妙解院様(忠利)御本丸御住居内も」(『綿考輯録・巻三十六』)花畑御殿を行き来することができたとある。
その竹の丸に母ガラシャの菩提寺を建立したのである。花畑御殿にいる時にインスピレーションを得たのだろうか。

さて、この竹の丸に最短距離と言うよりも、ほぼ隣接しているのが林外記邸である。先述したが、隣人は医者明石玄碩であり、目の前が小笠原備前(小笠原玄也の兄、清田石見と義兄弟)、近くに清田石見と田中兵庫、阿部弥一右衛門と栖本又七は隣人同士である。
また、小倉藩で葡萄酒造りに関わった上田太郎右衛門の甥とされる忠蔵、『阿部一族』の竹内数馬も塩屋町である。
花畠御殿を囲むように配置されているこれらの屋敷位置は忠利の意向によるものだったと考えられる。
これは偶然ではなく、その深い繋がりがあるが故に「隣人」なのである。

阿部弥一右衛門の「隣人」栖本又七による『阿部茶事談』を成立させることにより、阿部一族上意討ちを正当化したのである。それは抹消しなければならない真実があったことに他ならない。

寛永十八年(一六四一)三月十七日、細川忠利は没する。十九人の殉死者がでる。
いわゆる「追腹」であるが、キリシタンは自死が最大の罪とされている。しかし、阿部弥一右衛門ことパウロ明石内記はその罪を越えても武士の義を通した。
黄泉の国でも藩主に仕えたいという「情腹」である。(藤本千鶴子『真説・阿部一族の叛』)
そして、忠利の三回忌の後に阿部一族は上意討ちとなる。徳川家による「明石狩り」である。
忠利の義兄小笠原忠真から忖度された忠興の命令により実行されたとみる。藩主光尚が逆らうことができない人物はただ一人祖父の忠興である。光尚はこの時、松野右京邸にいた。大友宗麟の嫡子義統の三男である。義統の弟である親盛(半斎)の養子となっていた。右京は寛永十三年(一六三六)、キリシタンから禅宗に転宗していたが、信仰は続けていたと思われる。しかし、なぜ光尚はここにいたのか。父忠利との約束があったのではないか。阿部一族を守ることである。それが不可能になり、絶望したのである。

先述の「第二章・阿部弥一右衛門」にて宇佐郡山村の弥一右衛門の墓の建碑時期を寛文九年(一六六九)以降としたのは杵築藩主松平英親がこの地を放した時であり、また英親は小笠原秀政の孫であるからだ。つまり忠真の甥である。
ところが、明石家の血は絶えなかった。掃部の孫と結婚していた林外記と子供らがいた。しかし、光尚の死により抹殺されたのである。
小笠原忠真から忖度され、家老政治となった細川藩は「阿部一族事件」の正当化のために『阿部茶事談』を成立させた。

阿部弥一右衛門と一族、栖本又七、林外記らを相反させ、歴史から「明石一族」と「キリシタン」を抹殺したのである。細川家存続のために当然のことである。
しかし、忠利と光尚は禁教令下であったが、キリシタン明石一族を守ったのである。ガラシャの御霊がなす業であったのか。
『阿部茶事談』の登場人物の魂救済のために隠れた真実を伝えることが、泉下の忠利と光尚の願いではなかろうか。

                      (了)

 

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