津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■源之進櫓と河喜多家

2022-11-22 06:17:28 | 先祖附

 熊本城の「源之進櫓」は誰かの名前が冠されたことは当然理解されていたが、その答えはなんと「綿考集録」のなかにあった。
2009・11・14 熊本城・・源之進櫓を書いた。すでにどなたもご存知の事と思っていたら、5年後の2014‐8‐22の熊本城顕彰会の会報「熊本城」に於いて、富田紘一先生が「熊本城見所案内・9」の中で取り上げて戴いた。

 下にご紹介する系図は昨日図書館で出かけた折見つけ出したものだが、細川ガラシャに殉死した河喜多石見の一族5家の家系図である。

                      
この中に源之進正季の名前があるが、2代の父藤平(石見)が飯河豊前誅伐の際その仕手に指名され、不幸に討死した前後に出生している。
幼名久四郎、島原の乱にも出陣して働いたが控えめな性格であったらしく、「先祖の働きに比べると大した働きもしていない」と、自らの戦功を言い立てることもなかった。後、「綱利君御幼年の比六斎門の上御櫓一ヶ所御預被成」従類共二居住したと綿考輯録(忠利公・下巻P50~51)は記している。これが今に源之進櫓と呼ばれるものである。

「従類共ニ居住した」とあるところをみると、ここに住んだという事だろうか。
この系図をよく言見ると、源之進正季の子に同名正秋の名前が見える。「寛文九年跡目拝領廿五歳、寛文十一年江戸廿七歳ニ而勤御櫓番四十一歳ゟ」という書き込みが有り、息子の正季もまた、この源之進櫓をお預かりしていたことが判る。
名前を冠した御櫓は僅かしかない。名誉なことではある。

   源之進家のご子孫は一時期熊本史談会の会員でもあられた。加兵衛家のご子孫ともご厚誼をいただいているが、帰熊された折は一堂に会され、私もお招きをいただくなど親しくさせて戴いている。
今般このような系図を発見し、新たな知見を得て嬉しく思っている。

 

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■久しぶりの図書館行き

2022-11-21 17:48:03 | 徒然

 天気に誘われて図書館に出かけてみた。いつもは自転車なのだが、肩の痛みがあるので歩くことにした。
途中でマスクを持っていない事に気付き、コンビニで購入はポケットのがらがら銭、図書館でコピーする際財布を探すがない。
よくよく考えたらどうやら自宅のデスクの上に置き忘れたらしい。これではコピーできないぞと、マスク購入の残金を確認して60枚ほどは出来そうだと一安心。
処が、コピーできると思っていた「錦嚢移文」は古文書原本なのでコピー(20枚ほど)できずにデジカメ撮影し、かえってコピー代に余裕が出来たが、「上妻文庫」のコピーを36枚ほどして、疲れて終わりにした。
往復約6.7㌔を歩いたが、久しぶりで右足のあどが痛くなり、帰りは近くの公園で5分ほど休憩しながらも何とか歩きとおした。
炭水化物を極力減らして、運動をして、HbAc1の値をとりあえず10以下迄落そうと必死である。

デジカメ撮影文・コピー分の内容は、追々ご紹介していきたい。

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■宇土細川家借銀に関する一札(2)

2022-11-21 07:33:52 | 史料

 

                                          正切手相違無之ニ付差之事も候ハゝ勝手次第
             大坂表米市場賣払候起 又者致蔵出候者
             随分無之旨大坂表蔵屋敷役人共ニ手数為
             差出申事ニ候 猶又右別段信用金子五千両
             相調候上返濟之儀者是を廻米高之外ニニ而
             千石宛十ケ年之間不拘凶作臨時出方二毎
             暮無相違可致廻米候 尤右別廻米千石ニ而者
             毎暮致利拂元銀返濟者冣初者壱番登り
             ニ茂参兼候得者年賦之様ニ茂相聞候得共右金子
             五千両口々ニ而取次有之事ニ候得者品能差繰
             を以不差様ニ被取計候ハゝ所詮者十ケ年
             然者元利無滞相濟事ニ候 且又大金之事故
             必定一時ニ者相調申間敷候得共少々密ニ而候茂
             約諾相聞次第品々大坂表蔵屋敷役人共ゟ
             可申越候 尤別廻米之儀者千石之割を以調達限
             ニ而ニ應シ無相違毎歳廻米可致候 右之通相極

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 は同じ文字一つと、■の二文字を解読するのに苦労しております。ご教示下されば幸いです。
      今日中には解読を済ませたいと思います。

                 閊(つかえ)と解読、「差支」でよいと思いますが、こんな文字に遭遇するのは稀ですから苦労しました。11:57
      ■の二文字は「約諾」と読んでみました。
         これで何とか読み解きましたが、意訳がちゃんとできるか更なるチェックをしたいと思います。12:45

      

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■旧長曾我部家臣の人々

2022-11-20 11:18:08 | 人物

 HN椿女様から嬉しいご報告を頂戴した。
志水久馬助の養子となった吉田弥右衛門の弟について」(志水元五邸-コメント欄)というお知らせであったが、この吉田氏が幕末の土佐藩を動かした吉田東洋の一族であるとの事である。
ご自身のご研究に当方サイトの「新・細川藩侍帳」がお手伝いできたという事は、サイトを運営するものとして、こういうご連絡は最高にうれしい。
内容については椿女さまのブログ「肥後細川家に仕えた吉田次郎左衛門貞重の子孫」をご覧いただきたい。

 長曾我部家から細川家家臣となられたのは、長曾我部元親の弟・吉良親貞ノ子・親実の子・源右衛門を祖とする「町家」、またその一族である「梅原家」(長曾我部宮内少輔泰信)、元親の家老職を勤めた久武蔵之助親直の子、千介を祖とする「久武家」、元親記を表した立石助兵衛の「立石家」などがあるが、志水(凍)家にも長曾我部家家臣・吉田氏の血が流れていた。
吉田家と志水家の当時の関わり合いがどこにあったのか、大変興味深い。

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■俳句鑑賞・菫ほどな・・・

2022-11-20 07:30:01 | 俳句

                                  

                

 ちょっとした狂い咲きだろう、鉢植えの菫が花をつけている。
そもそもの始まりは、義父からもらった平鉢にこんもり群れ咲き誇る菫だった。
もう半世紀も前の事だが、直ぐ枯らしてしまい再生を試みたが、いまだ群れ咲く菫を見ることはできないでいる。

ただ一鉢だけ、放っぱなしだが枯れもせず元気に育っているのが、この鉢である。
「やはり野におけ蓮華草」という言葉があるが、やはり植物は自然に育つのが一番よく、よほど熟練しないと平鉢に群れ咲く状態を作るのは難しい。

              ほどな 小さき人に生まれたし  夏目漱石

 菫の花が大好きな私は、漱石のこの句も大好きだが、当初はこの句の意味がよく判らずにいた。
意訳としては、「道端にひっそりと目立たずともたくましくさいている菫のように、そんな人間に生まれたいものだ」とされている。
「ほどな」の「な」を正岡子規は嫌ったと言われているが、私は漱石先生に組したいと思う。
随分、菫に対する意味合いが強調されているように感じる。そして、なにかしら漱石先生の鬱々たる心情の中の作品ではなかろうかと感じる。

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■御侍帳・家紋から考える(60)

2022-11-19 07:22:22 | 家紋

                           

                新・肥後細川藩侍帳【み】の部

■右田庄之助は、(南東50-10)右田 徹家の7代目、弘化四年一月(小姓役)~嘉永五年八月(病死)用人。家紋は「丸に五つ木瓜紋」

■右田三郎助は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に扇紋」
■右田源太郎は、             同上

■水野駒之助は、(南東50-18)水野 傳家の7代目・駒之助(善左衛門・久左衛門)。家紋は「寛永通宝紋」「細丸紋」■水野八左衛門は、(南東50-20)水野治平家の8代目・八左衛門(九左衛門)。家紋は「寛永通宝紋」「違い角紋」

■水野清左衛門は、(南東50-19)水野傳作家、5代・6代が同名で人物の特定が出来ない。家紋は「三つ二階菱紋」

■水野養庵は、御医師(南東57-29 医)水野大有家の5代目。家紋は「丸に沢潟紋」   

■水足勘助は、(南東49-20)水足勘十郎家の5代目・左太吉(左助・勘助)。寛政十二年八月(御側取次)~文化九年十二月 用人。
       家紋は、「隅切り平角に七宝紋」

■水足五郎兵衛は、(南東49-10)水足五市家の5代目、名は至房、黒石村の人にして、藩に仕へ物頭列となる。山林仕立方を以て功績あり。
       家紋は、「名前不詳」

■水谷数太は、(南東49-14)水谷三郎平家の7代目・数太(孫右衛門)。家紋は、「鉄炮角に三つ引き紋」「下り藤紋」  

■水橋五郎大夫は、御船頭 (南東58-18 船)水橋亥熊家の5代・もしくは7代目、同名で特定できず。
       家紋は、「丸に三つ引き紋」「木瓜紋」

■蓑田祐吉は、【丹後以来】(南東49-3)蓑田軍八家の10代目・祐吉(甚之允)。家紋は「矢筈紋」   

■美濃部亀平は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」

■三浦太郎左衛門は、(南東49-21)三浦九郎家の5代・もしくは7代目、同名で特定できず。家紋は「丸に三つ引き紋」

■三苫茂助は、(南東49-17)三苫苫三家の5代目、家紋は「隅切平角に丸紋」

■南 両右衛門は、(南東49-16)南 斎家の2代目。家紋は記載なし。

              新・肥後細川藩侍帳【し】の部

■清水縫殿は、細川綱利の生母・清光院の父・清水道是を祖とする、(南東52-1)清水九郎家の6代目か。4,000石、
       文化七年十二月~文化九年十二月 備頭大頭、文化九年十二月~文政五年一月 大御目付、文政五年一月~文政五年八月 備頭大頭を勤めた。
       家紋は「隅切り平角に井桁紋」

 

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■俳句鑑賞、二人の「鶏頭」

2022-11-18 16:01:58 | 俳句

                

 散歩の途中にある花畑の一角に、強烈な燃えるような赤い鶏頭の花が「赤々しく」今が盛りと咲いていた。
鶏頭と言えば私はすぐ、加藤楸邨や正岡子規の次の句を思い出す。

           一本の鶏頭燃えて戦終る  加藤楸邨
           鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

 二人の句が鶏頭の数の違いもさることながら、楸邨の心象の中にある風景と、子規の淡々とした目の前にある風景の対比も面白い。
前者は、戦いに敗れた虚無感と、もう戦う事はないという安心感のなかで、呆然と立ちすくむ姿が浮かぶ。そんな場面に戦いの事など知らぬ気に、強烈な赤い色の鶏頭がいつもと変わらず咲いていて、自然の営みも穏やかな世界になる様に、人々の生活も苦しいながら平穏な世の中の到来を待つ思いがあふれているように思える。
後者は、場所であったり、時間であったり、作者の想いであったり、情景を考えさせられる。
二人の巨人の作風の違いを越えたこの句が、それぞれに大好きである。

いつも鶏頭を眺めると、何故にこんなに赤々敷く、トサカに似ているのかと思い句を作ってみたいと思うが、これは難題中の難題で私の手には負えない。

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■師匠・高田先生の間違い

2022-11-18 07:03:48 | 書籍・読書

   今年大活躍したヤクルトの村上宗隆選手は、村上水軍の末裔だろうと一人で決め込んでいる。
                                                               
その村上氏については、師匠のDr高田先生の著書・「宮本武蔵玄信の実像」の記事に、村上氏の一族が武蔵の後継者として二天流師範を数代にわたり勤めたことから、記事や写真と共に系図(p213)があった。
何度か眺めたことがあるのに今迄気づくことがなかったが、今回は見た途端系図に違和感を感じた。
記事にはこれらの関係が詳しく説明してあるのにかかわらず、系図では明らかな間違いが見て取れる。
「先生、やっちまいましたね・・・・」校正の段階でも見落とされたのだろう。
相当の部数が世に出ていると思うが、困ったものだ。正しい系図を作成してお配りしようかしら・・・

                       間違い系図

                 1、下段右端の八郎右衛門尉と東右近大夫は同人で隆重(景則)の嫡男。
         2、二男とある長岡河内(村上縫殿介・景広)は隆重の二男、八郎右衛門の弟。
         3、村上吉之允正重は八郎右衛門の嫡男である。            

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■遂に出ました-血糖降下薬処方

2022-11-17 14:41:30 | 徒然

 今日は薬をもらうために病院行く、投薬目的なのだが一応診察を受けねばならない。
Drが一年分ほどの検査記録に目を通しながら、血液検査をしましょうといわれる。
採血して暫くすると、よばれてHbAc1の値が10.8にあがったことを告げられた。「入院しますか?」と一言・・・
「えっ」と思ったが、つづけて「徹底して食事管理をしてください」「血糖を下げる薬を処方しておきます」と言われてしまった。
平常値は上限6.8とされるHbAc1値が、一年ほど前の値で8.8、以降上がり続けてこの始末・・お灸を据えられてしまった。
「メトホルミン塩酸塩錠250㎜錠」を朝夕1錠づつ、処方薬局でも縷々説明を受け、これは本気で頑張らなければと肝に銘じた。
「朝・トースト1枚+ヨーグルト、昼・ほぼ麺類、晩・御飯一膳+(肉とか魚とか野菜もろもろ)」と、自分では標準だろうと思っているが、果物とかお八つとかが余計かな?
帰って奥方に報告すると、テーブルの上の果物やお八つの御菓子類を引っ込められてしまった。
仕方がない。お正月も来ることだが食事制限(糖尿食)を仕、運動も仕、体重も落としてHbAc1を6.8%以下にしようと決意した。
脳梗塞とか、心筋梗塞とかで身体に異常をきたすのが一番怖い。肩の痛みを忘れてしまっていた。
日記にデータを残すのが一番かなと思い準備している。

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■御侍帳・家紋から考える(59)

2022-11-17 07:19:28 | 家紋

                               
                                                     新・肥後細川藩侍帳【み】の部

溝口蔵人は、細川忠利室保壽院(徳川秀光養女千代姫)弟・小笠原忠眞家臣溝口美作貞康養子式部政房を祖とする、小笠原多宮家分流の
      (南東49-2)溝口三五家、代々が蔵人を名乗り人物の特定は出来ない。家紋は「丸に井桁紋」

宮村典太は、(南東50-3)宮村典太家の7代目。家紋は「隅切り立角に宮文字紋」。
       10代目同名半之允(典太)は、雑撰録、吹奇与勢、盤桓随筆、塩藻草など膨大な古記録を残した。
宮村新兵衛は、(南東50-4)宮村七五三家の7代目・久治(新兵衛・三之允)。家紋は同上。

宮部市郎右衛門は、【青龍寺以来】(南東50-15)宮部市象家の6代目、家紋は「隅立角に■■紋」
宮部久右衛門は、【青龍寺以来】(南東50-16)宮部玖一郎家の7代目、家紋は「丸に隅立角に■■紋」「違い角紋」

宮本伝右衛門は、【丹後以来】(南東49-5)宮本傳蔵家の5代目・傳太兵衛(傳右衛門)。天明四年~文化二年・各地郡代、~九年まで副奉行、
       九年~十一年迄奉行職を勤めた。家紋は「丸に片手蔓柏紋」「丸に隅立小角紋」  

宮本五郎助は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「蛇の目紋」

宮川金右衛門は、(南東50-5)宮川 仲家の8代・八郎兵衛(養子 金右衛門)。家紋は「丸に■■紋」
宮川幸之助は、同上分家、(南東50-6)宮川庄兵衛家の3代目。家紋同上
宮川九十郎は、同上分家、(南東50-8)宮川兵吉家の6代目か?家紋は「寛永通宝紋」「 同上 」

宮川加平太は、(南東50-7)宮川幹次家の6代目。家紋は「組み合わせ角紋」

■宮脇彦左衛門は、(南東49-7)宮脇源作家の6代目。家紋は「   」

■宮原平右衛門は、(南東49-11)宮原 平(ヒトシ)家の3代目・次郎大夫(平右衛門)か。家紋は「隅立平角に蔦紋」

■宮崎円次は、御馬方(南東59-22 茶・鷹・馬)宮崎敬次家で、5代・7代が同名で特定できず。家紋は「   」    

■宮前宗磧は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「   」

■南 彦兵衛は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「南文字紋」
■南 漸は、御医師(南東57-31 医)南 元方家の5代目・名は直、大方と称し、冠山と号す。軒技の術を修め當世に名あり。其の治療効験
      人口に膾炙せり。再春館句讀師より師役医学吟味副役より本役となる。天保五年九月朔日没す。年七十五。
      家紋は同上。 

■南 驪斉は、御医師(南東57-30 医)南 李斎家の5代目・名は棣、萬年と称す。村井家の出にして良庵の養嗣子となり、次局医員たり。
      浜町様(齊茲)の御匕役を勤めた。家紋は同上  

 

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■名句鑑賞「季語なしの名句」

2022-11-16 09:55:13 | 俳句

            田圃から見ゆる谷中の銀杏かな  子規

 子規にこんな句がある事を知った。口に出して読んでみると「銀杏=いちょう」であろう。
眼前に広がる風景の中に大きな銀杏の木が見える。ここでは銀杏の木の状態は伺えない。冬の木立なのか、早緑の葉をつけた頃なのか、黄色の葉にみちた大木なのか、木の周囲に風に落ち葉が舞い厚い黄色いじゅうたんが敷き詰められているのか・・・・
つまりこの句は「無季」俳句である。読む者にその風景を連想するように促しているようにも思える。
田圃も霜柱の立つころなのか、田起こし前の蓮華の花の絨毯の頃なのか、大木を水面に移す田植え前の水が張られた時期なのか、田植えの跡の風にそよぐ稲穂の成長をも連想させる。
秋になって稲穂が黄色に頭を垂れるころ、銀杏も同様黄色に映えて、稲穂と溶け合い競い合っているのかもしれない。
そう考えると壮大な幾つもの組み合わせの季節の移ろいを想像させる。
季語としては、「いちょう=無季」「ぎんなん=秋」とされるが、正岡子規のこの無季の句は大傑作だと思った。

 さてこの銀杏の木は、谷中墓地の大銀杏ではないのだろうかとふと思ったが如何だろうか。
いずれにしても子規が生きた時代、まだ江戸の情景が残されて居たろう。そんなことまで連想させる。

 

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■宇土細川家借銀に関する一札

2022-11-16 06:49:11 | 史料

 かって■久しぶりの古文書落札を書いたが、競いあって落札した事もあって、当時は写真を公開することを控えていた。
相当の時間も経過したので内容を確認しながらご紹介したいと思っている。
現物は275㎝にも及ぶ文書で、安永五年(1776)宇土細川藩が大阪商人から、返済中の借金・五千両に加えて銀300貫を借り入れたく、主たる藩士21名の連署による借入願の文案ともいうべき一札である。
宛名は永瀬七郎右衛門・木屋卯兵衛とあるが、前者の先祖は肥後の浪人で天正年間大阪へ出て其後財を成したらしく、材木商「木屋」の名をもって商売は隆盛を極め、大阪北組惣年寄などの要職を勤め、大坂横堀の開削などにも尽力して永瀬姓を拝領したとされる。木屋卯兵衛についてはよく判らないが番頭か?。
文章が長大であるため5~6回に分けてご紹介する。登場する細川和泉守とは、宇土藩主細川立禮(タウヒロ)である。
天明七年(1787)には細川宗家において、義兄・治年の遺蹟を相続して齊茲となった。

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                                                              一札

              一細川和泉守勝手向大坂表ゟ仕送り方之儀者
               各存知之通用在之者共ゟ致出金年々無滞
               以廻米勘定相濟來候 然所於国元借物之分
               品能相建候様之以對談夫々相濟付候 次者此上
               臨時出方之手當等致出来大益之筋も有之候

               依之右之通是迄相定り有之候用達仕遣り方
               之外ニ今般別段之訳を以金子五千両随分軽キ
               利足相極十三ヶ月限り弁積りニ而致借用
               度候ニ付調達方各江相頼申付候 尤口之借入
               引當等之儀者大坂表此方蔵米正切手買持
               之者江右口之金子借請為引當此方蔵米
               正切手其時之米直段ゟ三俵ニ付拾分引之割
               を以石数為相渡 尤右正切手者此方ゟ賈渡候
                     (つづく)

    

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■下津家-有吉家-加々山家

2022-11-15 06:32:09 | 先祖附

 今日は熊本史談会で発足当時から6~7年大変ご尽力いただいた、荒尾史談会会長(当時)の下津様からお電話をいただいた。
下津さまも所蔵されている資料などに就いて、いろいろ終活をなさっていてその経緯などお話しいただいた。
その中で、東京下津家の家系図が姿を出したことの話に及んで、その系図にある下津棒庵の娘が、三卿家老・有吉家に養女となり、奥田藤次郎に嫁いだことが判ったというお話である。
下津さんは有吉家のご当主とも大変親しく交流されており、この件は確認されている。
奥田藤次郎とは誰なのかというお問い合わせであった。
わがブログ内で検索を掛けると二件ヒットした。組頭であったことが判り、これをヒントに奥田氏関係を調べる。
奥田氏は元・加賀山氏、小倉で殉教した加々山隼人正の弟・加々山源左衛門の四男の家系が奥田氏を名乗っていることを思い出した。
わが新・肥後細川藩侍帳の(南東55-18)奥田権三郎家の権左衛門・正方の奥方が、有吉家五代貞之女とあった。
つまり藤次郎とは権左衛門正方が同一人物である事が判明して一件落着。
折り返し、下津さんにお電話してご連絡、驚きの声を上げて居られた。その他上妻文庫145に「奥田権左衛門家由来記(著者未詳)」が存在することを確認、近々図書館に出向き、コピーを取得したいと考えて居る。
たった一つの情報が、絡んだ糸をほどいて正確な答えに導いてくれる。

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■本日は鼻かぜです

2022-11-14 15:42:53 | 徒然

 今日は鼻かぜで、大量のティッシュを消費し、少々頭痛もしてきました。
ティッシュが以前からすると量目が減り割高感がすごいなか、消費量を抑えねばなりませんが、出物腫物所かまわずの世界ですから、こればかりはどうしようもありません。
原因は昨日のことです。熊本市は市長選挙選挙の日、朝から行く途中で小雨が降り出し、投票後は散歩の予定を切り上げて帰路に着きましたが、15分ほどぬれそぼり、今朝になってから大くしゃみを連発し、奥方のひんしゅくをかっています。
私のくしゃみは強烈で、近所でも評判になるくらいですが、これが連続すると疲れもします。
喉もイガイガし始め、のど飴をなめて、カーディガンを着込み靴下をはきましたが、少々遅きに失した感じです。
肩の痛みも相変わらずで、大くしゃみの時は腕を抱え込んで予防しますが、結構応えます。
コロナ4回目も肩の痛みでまだ受けていませんし、インフルエンザの予防注射も今年はやめておこうかと思ったりしています。
来週位からは九州も冬の気配が増してきそうです。ものみな値上がりの中、ティッシュの大量消費にならないよう、御風邪など召しませぬようご自愛くださいませ。

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■一年前の記事から

2022-11-14 07:43:43 | 人物
 
■切支丹宗門改め「中根典助」

                            江戸期 『 切支丹宗門の儀 長岡監物殿へ 』 熊本藩士 古文書                   中根家に於......
 

 上は一年前に取り上げた記事である。ご大身中根家(1,000石)の10代・典助の「宗門改め」に関する「覚」である。
この時期文中にある如く、公儀(幕府)の御法度書の仰出しがあったことに伴い、家中の者が一斉に提出したものと思われ、同様の史料が熊本大地震後の一時期、オークションで出回ったことがある。
私もいくつか落札をした。
文面は共通するものが多いが、当時読み下しをしていなかったようなので改めて記して置きたい。

                   覚 
              一切支丹宗門之儀従前之無懈怠今以
               相改申候 先年従
               公儀被 仰出候御法度書之趣奉得其意候
               弥以私家内末々男女ニ至迄堅相改
               由候処不審成者無御座候 尤毎歳觸状
               判形取置候 若相替儀御座候ハゝ急度
               可申上候 為其如斯御座候以上
            
                 文化六癸未年三月 中根典助(花押)
                   長岡監物殿

 長岡監物とは二番家老の米田是陸のことである。切支丹宗門改めに関し担当したものと考えられ、すべての人の提出先も同様である。

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