熊本城の「源之進櫓」は誰かの名前が冠されたことは当然理解されていたが、その答えはなんと「綿考集録」のなかにあった。
2009・11・14 熊本城・・源之進櫓を書いた。すでにどなたもご存知の事と思っていたら、5年後の2014‐8‐22の熊本城顕彰会の会報「熊本城」に於いて、富田紘一先生が「熊本城見所案内・9」の中で取り上げて戴いた。
下にご紹介する系図は昨日図書館で出かけた折見つけ出したものだが、細川ガラシャに殉死した河喜多石見の一族5家の家系図である。
この中に源之進正季の名前があるが、2代の父藤平(石見)が飯河豊前誅伐の際その仕手に指名され、不幸に討死した前後に出生している。
幼名久四郎、島原の乱にも出陣して働いたが控えめな性格であったらしく、「先祖の働きに比べると大した働きもしていない」と、自らの戦功を言い立てることもなかった。後、「綱利君御幼年の比六斎門の上御櫓一ヶ所御預被成」従類共二居住したと綿考輯録(忠利公・下巻P50~51)は記している。これが今に源之進櫓と呼ばれるものである。
「従類共ニ居住した」とあるところをみると、ここに住んだという事だろうか。
この系図をよく言見ると、源之進正季の子に同名正秋の名前が見える。「寛文九年跡目拝領廿五歳、寛文十一年江戸廿七歳ニ而勤御櫓番四十一歳ゟ」という書き込みが有り、息子の正季もまた、この源之進櫓をお預かりしていたことが判る。
名前を冠した御櫓は僅かしかない。名誉なことではある。
源之進家のご子孫は一時期熊本史談会の会員でもあられた。加兵衛家のご子孫ともご厚誼をいただいているが、帰熊された折は一堂に会され、私もお招きをいただくなど親しくさせて戴いている。
今般このような系図を発見し、新たな知見を得て嬉しく思っている。