津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■成瀬家と土肥家

2022-11-13 09:04:12 | 人物

 「肥後先哲遺蹟」を読み返しているが、成瀬昨淵(次郎左衛門・久敏)の項をよんでいる中、「細川家家臣略系譜」と照合しているとその人物が登場しない。
よくよく読むと旧姓は土肥氏であり明治になって成瀬氏から旧姓に戻されていることが判った。
元々は「江州」を出自とする家で、土肥実平等の著名な人を輩出した氏族であろうと考えて居るが確たる証拠は伺えない。
土肥氏は、柳川の田中吉政に仕えたが田中家が没落後浪々されている。その後浪々の苦労をして数代を過ごしている。

細川家への召し出しは光尚公の時代と遅い。熊本史談会会員のI氏・O氏・K氏三氏は従兄妹さんだが、たしか共通のご先祖様に土肥氏があるとお聞きした。藩政期には成瀬氏であったとは御存知ないかもしれない。
冒頭の人物・成瀬昨淵は「新編肥後国誌」十八冊を著述した人物として知られる。
肥後國誌は森本一瑞 遺纂とされているが、この成瀬昨淵の著作は、これに先んじる事50年も以前と言われる。
森本一瑞がこれを底本としたことは間違いなかろう。

 次郎左衛門は養子であり同族・成瀬小右衛門の弟である。(明治に至り松井と改名)
実は養父五助が寛文5年(1665)家来を手打ちにして浪人した。どういう伝手があったのか、日光御門主の詫び言により天和2年(1682)帰参、次郎左衛門が五助の養子になったのが貞享4年(1687)、元禄2年(1689)に跡目相続している。

土肥治部左衛門ーーーーー彌左衛門ーーーーー治部左衛門ーーーー+ 
                        |
   +ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+
    |    1代
     +ーーー+ーーー四郎兵衛ーーー成瀬五助===次郎左衛門ーーー角大夫ーーー平次ーーー藤大夫ーーー藤大夫ーーー吉司ーーー伍助ーーー唯十郎ーーー土肥宇宙
     |            (実・成瀬小右衛門弟)
             |        1代
             +ーーー与三右衛門ーーー成瀬次右衛門ーーー十助ーーー次部左衛門ーーー次右衛門ーーー次郎助ーーー嘉久馬ーーー十助ーーー治部左衛門(土肥都楽

■成瀬小右衛門ーーー権之進ーーー小右衛門ーーー伊八郎(角兵衛)ーーー径ーーー直助ーーー太郎(市之允)ーーー小右衛門(松井了平

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 土肥宇宙は号・樵石、元田永孚の誘いを受け宮内省に奉職、後・学習院女子科で書道を教えた。室は能勢氏。
その息の土肥春曙(本名・常元)は演劇家(俳優)、坪内逍遥や島村抱月の下で「シェイクスピア」などを演じるなど名を知られた。

 

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■熊本史談会11月例会御案内

2022-11-13 06:38:31 | 熊本史談会
 熊本史談会11月講演会につきましては、藤崎八旛宮宮司・岩下 通弘様を講師にお招きして、下記の如くお話を伺います。
コロナ第8波が心配される中、室内の換気を行います。温かくしてお出で下さい。どうぞよろしくお願いいたします。
 
                    記
 
        期日:令和4年11月19日(土)午前10時~11時45分
        場所:熊本市民会館 第6会議室
        演題:「神社神道と藤崎宮の歴史」
        講師:藤崎八旛宮宮司 岩下 通弘様             
 
        一般参加自由:
               参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
          資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
          尚、開会前に当会例会を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
          又、当日はコロナ対策の爲、マスクの着用とご記名をお願いいたします。
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■御侍帳・家紋から考える(58)

2022-11-12 08:53:48 | 家紋

                       

                                  新・肥後細川藩侍帳【ゆ】の部

■弓削平八は、(南東48-30)弓削 新家の7代目、番頭などを勤めた。家紋は「隅切り立角に風車紋」

■弓削勘十郎は、同上分家(南東48-31)弓削友助5代目。家紋は「隅切り立角に三つ星紋」  

■弓削太郎右衛門は、同上分家(南東48-32)弓削文吾家の9代目。「隅入り平角に■■文字紋」「隅入り平角に左三つ巴紋」

■湯池龍彦は、(南東48-33)湯地一二家の6代目。家紋は「丸に■■紋」「   」

■幸(ゆき)円助は、(南東48-34)幸 準蔵家の3代目・圓助。家紋は「隅入り立角に三つ星紋」

                                  新・肥後細川藩侍帳【み】の部

■宮島丈助は、(南東49-22)宮嶋平三家の2代か。家紋は、「隅切り平角に左二つ巴紋」

■三渕栄次郎は、細川幽斉実弟・長岡伊賀守好重を祖とする(南東49-1)三渕永次郎家の10代目・永次郎・澄瑞(実・八代澄盈子 志津馬・十左衛門)
      5,000石で備頭大頭・中老などを勤めた。家紋は石に鶺鴒紋「撞木十字紋(桛久留子)紋」 

■三宅栄蔵は、明智光秀の女婿・弥平太秀満(明智左馬之助・光昌)を遠祖とする、初代はガラシャ夫人の甥・藤兵衛、(南東50-1)三宅平太郎家の8代目・英蔵。1,500石で番頭を勤めた。家紋は「丸に三つ引き紋」「剣細桔梗紋?」  
■三宅八郎右衛門は、同上分家(藤兵衛二男家)、(南東50-2)三宅新十郎家の8代目。家紋は「丸に三つ引き紋」「隅切り立角に丸に三つ引き紋」?

■三野嘉右衛門は、(南東49-6)三野新弥家の6代目・次郎(嘉右衛門・四郎左衛門)。家紋は「五ケ木瓜に左三つ巴紋」「隅立平角に竜胆紋」

■三池善大夫は、(南東50-13)三池丈平家の7代目・貞八(善大夫・仁左衛門)。家紋は「組み合わせ角に杏葉紋」
■三池源十郎家は、同上分家(南東50-14)三池丹治家の6代・勇之進(源十郎)。家紋は「隅切り立角に杏葉紋」

■三牧小仲は、(南東49-12)三牧孫七家の5代目。家紋は「隅切り平角に■■」

■三井新助は、(南東49-9)三井弥内家の5代目。家紋は「隅切り平角に梶の葉紋」

■三浦新五兵衛は、(南東49-4)三浦平衛家の6代目・大八(新五兵衛)。家紋は「丸に三つ引き紋」

■三重平大夫は、(南東49-8)三重 茂家の初代が平大夫を名乗っているが、該当年代に該当者がいない。(再考)
      家紋は、「隅切り立角に二つ石紋」

 

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■力の合成と分解

2022-11-12 07:30:20 | 徒然

 肩の痛さに悩まされ続けている。
これが長くなってくると、建築を生業としている者として、いろいろ気付くことがあって、肩関節に架かる重力と角度が関係しているなと思うに至った。
もう20年ほども前の事だが5~6年間、ある資格講座の講師を務めたことがある。
その一つに「インテリアコーディネーター」があったが、「人体各部の重さ」があったが、これは何かしら試験問題に出ていた。
これを覚えておくと、例えば椅子の座面に架かる重さを知ることが出来るという訳だ。
「二の腕・腕・手」(片腕)で約8%だとされる。頭も同様だが、私は「ううあたま(大頭)」だから、この法則は当てはまらない。
つまり私の体重からすると6㎏だが、この重さが重力となって腕を引っ張っていることになる。
散歩で腕を振って歩くなど言語道断で、ズボンのポケットに手を突っ込んだり、右手で左腕を抱え込んで歩かなければならない。
夜はと言えば、肩を支点になにがしかの重さがかかっているから、是を0にするために。腕をなるべく水平に保つ必要がある。
中学校で習う「力の合成と分解」を頭に思い浮かべながら、毛布を左腕の下に引っ張り込んで、台にするという作業を毎晩やっている。

大袈裟な事とお思いだろうが、これで私の肩痛については説明できそうである。
もっとも腕や手に「痺れ」があるのは、なんとも説明がつかない。あと何ヶ月つづくのか・・・・地獄を味わっている。

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■三渕家家紋、名前は・・?

2022-11-11 06:55:59 | 家紋

                                                                          

   次回「御侍帳・家紋から考える(58)」でご紹介する細川幽齋公の御実家の三渕家の家紋は上のようなものである。
約9㎜角の小さなものが紹介されている。一般の家紋帳などでは紹介されていない。
この家紋は細川家の六つの家紋として綿考輯録に紹介されているが、一発でお分かりの方は、大変な細川家通と認定申しあげる。
取り上げている家紋は「御侍帳(家紋入り)」(熊本藩侍帳集成所収・15)なのだが、原本にどのような大きさで書かれているのかはよく知らないが、小さいながらよく雰囲気は表されている。拡大してみよう。

                  

 正式な名前は「岩に鶺鴒紋(岩上鶺鴒紋)」という。細川家では今ではお使いになる事はないと思われるが、記録として残されている。
もっとも綿考輯録には次のように紹介されているのだが・・・・(左下、最近ある有料家紋サイトではこの細川家の六つの家紋として紹介されているようだ。)

                                                                   

 「石叩き」ともよぶ鶺鴒、我が家の近所でも年中よく見受ける。長い尾で盛んに地面をたたいているが何のため?
ちなみに伊達政宗の花押が「鶺鴒の花押」と呼ばれてつとに有名、細川忠興宛の政宗書状にも雄渾な花押が見られる。
            ■なんでも鑑定団「細川忠興宛 伊達政宗書状」

又、過去のヤフオクでは「岩上鶺鴒図」等が出品されていましたね~。画讃は本居宣長でした・・・・

              

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■御侍帳・家紋から考える(57)

2022-11-10 08:37:46 | 家紋

                         
          新・肥後細川藩侍帳【き】の部

木村八之允は、(南東48-13)木村辰二家の5代目。家紋は「隅立平角に村文字紋」

木村嘉源太は、「細川家家臣略系譜」に名前が見つからない。家紋は「菱に杏葉紋」「三つ矢筈紋」

木村唯蔵は、(南東48-22)木村得太郎家の4代目、郡代・副奉行・奉行職などを勤めた。
        家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「七つ割平四つ目紋」

木岐村次は、御船頭(南東58-51 船)木岐武左衛門家の7代目。家紋は「四つ石紋」「   」

木原彦左衛門は、(南東48-12)木原勘七家の5代目。家紋は「丸に  」「三つ目結紋」  

清原仁五次は、(南東48-24)清原仁吾次家の5代目か。家紋は「隅切り平角に抱え柊紋」

木野庄兵衛は、(南東48-15)木野庄九郎家、庄兵衛名乗りの人が多く人物の特定に至らない。家紋は「五徳紋」

貴田權内は、加藤清正十六人衆の一人・貴田孫兵衛を祖とする(南東48-6)貴田権内家の7代目・寿三郎(権内)か。
       家紋は「二つ地紙紋」?  

衣笠十右衛門は、(南東48-11)衣笠十九郎家の8代目・十右衛門(十之允)か。家紋は「四つ目菱紋」

清田源左衛門は、主計鎮乗(入道寿閑)を祖とする(南東48-8)清田弥八郎家の5代目・金次郎・親房(養子 実・堀内助五郎弟 源左衛門)
       清田氏は大友一族で、家紋は「杏葉紋」

清田角次郎は、主計鎮乗の兄・五郎大夫を祖とする(南東48-9)清田 直家の7代目。家紋同上

清田儀左衛門は、同上分家(五郎太夫流四代・清田惣右衛門・弟)又右衛門正常を祖とする(南東48-10)清田 本家。
     儀左衛門名乗りの人物が多く人物特定は出来ない。家紋同上

清田茂左衛門は、主計鎮乗の三男家といわれる(南東48-4)清田丹治家の6代目・新九郎・安明(茂左衛門)。
      家紋は「丸に  」 

                    +--鎮隅(天正15年・1587)豊前長野一揆に出陣し、戦死
           ●      | 
               ‖-------------+--五郎大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・直家)
      清田掃部鎮忠 (寿閑) ・
           ‖-------------+--●(夭折2歳?)         
 大友宗麟-----ジェスタ       |               
           ‖       +--マグダレナ(殉教・列福)(レオン・パジェス著、日本切支丹宗門史・下巻)
      (一条兼定)     |         
           ‖       +------凉泉院    大坂陳一番槍高名・石見
      (一式氏女)         ‖--------+--七助乗栄(室・忠興妹伊与の娘)・・・・・・・・・・・・・→(二百石・弥八郎家)       

                 +----主計鎮乗    |                            
                 |         +--与三右衛門(刑部家附)
                 |         |   
                 |         +--左近右衛門
                 |                      |
                 |         +---幾知(圓通院)      +--立孝・・・・・・・・・・・・・→(宇土細川家)
                                                |                    ‖ -----------------|
                                                |               細川忠興            +--興孝・・・・・・・・・・・・・→(細川刑部家)
                 |
                 | 実兄                  初代               
                 +----志賀親次------虎左衛門------少兵衛・親勝・・・・・・・・・・・・・→(二百五十石・志賀太郎家)

                      (細川家家臣志賀氏系図、サイト白鷺×城下町を参照されたし)

 

清原寿吉郎は、(南東48-23)清原 次家の6代目。家紋は「丸に抱え柊紋」

清成四郎助は、田原刑部少輔を遠祖とする(南東48-17)清成武街家の7代目。家紋は「左三つ巴紋」

北里五郎左衛門は、(南東48-19)北里八郎家の5代目・ 八郎(五郎左衛門)。家紋は「左三つ巴紋」「檜扇紋」 

北村常太郎は、(南東48-7)北村甚十郎家の8代目・常太郎(甚左衛門・甚九郎)。家紋は「三つ丸紋」

北垣市郎左衛門は、(南東48-18)北垣准次郎家の7代目・良八(市郎左衛門)。家紋は「右一つ丁子巴紋」

北川藤作は、(南東48-20)北川荘三郎家、5・6代目が同名で人物特定できず。家紋は「地紙に  」

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■ぎんなんとアンクルトリス

2022-11-10 07:08:11 | 徒然

                       

               人居や ぎんなんあてに トリスかな    津々 

 数日前奥方が「ぎんなん」を買ってきました。私は専用のぎんなんペンチがあるほどの好物で、これで殻にあらかじめ割れ目を入れ、使い古しの封筒に10~15粒を入れ、レンジで1分ほどチンします。袋の中で適当に破裂してよい按配です。
翡翠色の実にちょっと塩を振りいただくと、少し苦味のある柔らかな口当たりが最高です。

最近、アンクルトリスがデザインされた「トリス」が発売されたので、懐かしく購入してみました。
何といっても私の酒の味のスタートは「トリス」でしたから、半世紀以上前の味を楽しみました。

 

               銀杏を煎りたる翡翠色愛づる  大橋敦子

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■昨日の天体ショー

2022-11-09 07:12:09 | 徒然

 昨日の皆既月食は89年ぶり、+天王星食は天正八年(1580)以来という事で、ちょっとびっくり。
442年ぶりだなんてピンと来ないが、これは見えないとしても89年ぶりの方を観なければばなるまいと構えていた。
良い天気で雲一つない一日だったが・・・処が、わが住まうAPは真南に向いているので東西に長く、欠け始めのころは月がベランダからは見えず、時折表の廊下に出て眺めねばならない。
夜空が好きな奥方は、何度も外に出ては食の進み具合を報告してくれる。さらばと写真撮影を試みるが手振れがひどくて良い写真が取れない。
肝心の皆既になったころには、建物の陰に隠れてほとんど見えなくなった。ベランダ側に月が回ったのは皆既が終わり、半月程に復したころである。
建物の屋根ギリギリのところに顔を出したが、ベランダから身を乗り出す形で写真も撮れない。
就寝前完全に復元した月を眺めて天体ショー観察終了。

写真の成果はいまいちだが、シャッタースピードが遅いにもかかわらず一応画面の中には取り込めたし、爺様の腕前としてはこんなもので良としたい。

      

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■資料拝受のお礼

2022-11-09 06:45:52 | 徒然

 他力本願という言葉は、元来は浄土真宗の言葉で、他力とは「如来(阿弥陀仏)の本願力」だという。
我々がよく使う「人の力を当てにして事を為す」という事ではないが、ただこういう解釈も一方で定着していることも確かである。
19年前の7月に立ち上げたこのサイトも、当初は「他力本願的」という言葉を冠していた。
まさに「人様の力をあてにして」出発したのである。いろんな情報やお力を得たいとの心底からの私に想いであった。
以降19年、本当にいろんな方々のお力添えがあって我がサイトの今日がある。
しかし、「他力本願」などと安直に申し上げては罰が当たると思い、現在は削除し、自らを叱咤激励して頑張っている。

 先に11月5日に長岡京市で、■長岡京市・ガラシャ祭りが行われることを書いた。
自らが参加が出来るわけではないが、お近くの方にはご出席いただきたいと願っての事であった。
この記事を御覧になった京都市上京区にお住まいのKさまが、このシンポジウムに参加され、いろいろ資料を送りましょうと仰っていただいていた。
今般、そのパンフや史料、また販売されていた書籍まで購入してお送りいただいた。一緒にお送りいただいたUSB資料が大変貴重な資料となった。
まことに有難い次第で、只々感謝を申し上げる次第である。

                                   

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■外郎売り

2022-11-08 10:00:04 | 徒然

 

 市川海老蔵の「団十郎襲名披露公演」の中で、息子の勘玄君も新之助を名乗り、3分以上にもわたる早口言葉を披露して話題になっている。
これは歌舞伎十八番の「外郎売り」の中にある「早口言葉」である。
私は10年ほど前までは、こんなことは全く知らず、名古屋名物の「ういろう」を売る話とばかり思っていた。
ういろう=外郎で薬のことであり、これに曽我十郎が絡んでいるという事を知ったのは10年ほど前の事である。
一時期小田原在住の方と交流が有り、「小田原外郎売り」について教えてき、いろんな催しなども開催されていることを知り、その後慌てて調べて「早口言葉」の事も知るに至った。
御菓子の「ういろう」はこの薬を飲んだ後に、口直しに食したものだともお教えいただいた。

今ではYoutube等でも先代団十郎さんやアナウンサー、劇団の役者さんなどが登場してこの早口言葉にチャレンジしたり、解説をされたりしているものも多くみられるようになった。
この長いことは「寿限無」など足下にも及ばない。私は「寿限無」とか「般若心経」くらいは諳んじていたが、最近後者はやや怪しくなってきた。
覚え物はなるだけ幼少の時期が良いように思う。大人になるとどうしても意味合いを考えてしまう。
新之介こと勘玄君はまだ9歳、成田屋の未来は明るい。

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■「組井桁紋」+「獅噛」・・何方のお宅?

2022-11-08 06:55:35 | 歴史

 ヤフオクに細川家家臣のものとされる「陣羽織」が出品されている。
大名格の方が付ける美麗なものではないが、背中にある「組井桁」の家紋や、素晴らしいデザインの「獅噛=しかみ」に心を奪われてしまった。

 ところで何処のお宅のものだろうか?細川家家臣の家紋帳を眺めると、「井筒紋」は井上家・井沢家・井田家・原田家・奥田家(加賀山流)・片山家(医師)・安井家の7家が確認されたが、「組井筒紋」であるかどうかは確認できなかった。
 「獅噛=しかみ」については「獅子の前額部から前歯までの威嚇的形相部分」と説明されているが、こちらは何となく優しい顔つきであるように思える。
拡大してみると太い糸で刺繍がなされていて見事なものである。

  

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■ダイエット食は「武家の食卓」

2022-11-07 10:18:36 | 書籍・読書

 かってこのブログで、熊本のタウン誌・「すぱいす」に連載されていた「松寿庵先生とれき女様の江戸咄」を、「68回~最終243回」まで、掲載したことがある。
(ブログ内検索で松寿庵で検索してください)

「すぱいす」は熊本日々新聞が発行しているが、許可は得ていない。確信犯であって、お叱りを受けるかもしれないとは考えて居た。
しかし最終回に至ってもお叱りはなかった。そればかりか、松寿庵先生(松本寿三郎・元熊大教授)のお相手をされたれき女(松下康恵氏)氏から、このブログ掲載以前、熊本日々新聞の夕刊に連載された「歴史コラム・江戸咄」をまとめた「松寿庵先生江戸咄」という文庫本をご恵贈いただいた。
この文庫本はいつも私の身近にあって、時折ページを開いている。

 二三日前締め切りのヤフーオークションに「■汁■菜」の献立らしい古文書が出品されていて、少々心を動かされた。
というのもこの本の第2項に「奉公人の数まで決めた石高」があり、つつましい食事事情であったとしている。
最後にれき女のコメントがあるが、「亭主のために実行したい武家の食卓」とあって、思わず笑ってしまった。
ここでは「二汁三菜」と書いてあるが、これは、同上コメントからすると、「一汁三菜」なのではないか?
これならダイエット出来そうだ。私とて小禄ながら武士の端くれ、「武家の食卓」にチャレンジしてみようかと思ったりした。

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■御侍帳・家紋から考える(56)

2022-11-07 06:42:14 | 家紋

                                 

                                                    新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

財津大助は、(南東46-11)財津儀角家の8代目。家紋は「鬼浜洲紋」

財津尉太は、(南東46-21)財津十次郎家の6代目。家紋は同上

財津小十郎は、(南東46-18)財津藤右衛門家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「州浜紋」

財津才蔵は、(南東46-20)財津市之進家の6代目。  家紋は同上

財津猪兵衛は、(南東46-12)財津九八郎家の10代目。家紋は「鬼州浜紋」

財津三左衛門は、(南東46-16)財津源之進家の7代目・日田山左右 名は永晟、三左衛門と称す。元財津氏晩年日田山左右と改称す。
      藩に仕へ食禄百五十石。祖父以来八代御城付なりしが其孝心を賞せられ、番士となりて熊本に出さる。後天守方目付、
      同支配頭を勤む。又藩の旧記に精しく藩譜採要十三冊を撰す。安政二年八月十三日没す。享年七十五。墓は寺原壽昌寺。
      家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅入り立角にもみじ紋」

財津団平は、(南東46-14)財津八郎家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅切り立角に州浜紋」

財津善内は、(南東46-13)財津善之允家の6代目。家紋は「四つ州浜紋」

財津団四郎は、(南東46-17)財津新八家の6代目・兵内(團四郎)。家紋は「隅立角に州浜紋」

財津永八は、(南東46-15)財津民助家の8代目・栄八か?。家紋は「一つ右丁子巴紋」

財満七右衛門は、(南東47-9)財満七左衛門は7代目・藤作(七右衛門)。家紋は「丸に(満の氵なし)文字紋」

指田次郎左衛門は、「細川家家臣略系譜」に記載なし、指田次郎左衛門家の初代か??。家紋は「隅切り立角に井桁紋」

境 喜三次は、(南東45-30)境 任八家の初代??。家紋は「丸に地紙紋」

                                                    新・肥後細川藩侍帳【き】の部

木下三郎右衛門は、豊臣秀吉室高台院の甥・日出藩主木下延俊の三男を祖とする、(南東48-1)木下嘉納家の7代目・3,000石、小姓頭、番頭、留守居大頭などを勤めた。
     家紋は「替り八つ日足紋」「木下家独楽紋」

木村万之允は、(南東48-2)木村半平家の6代目・万之助・豊信(万之丈)。中小姓頭、小姓頭、留守居番頭、佐敷番頭などを勤めた。2,500石。
     家紋は「平四つ目結紋」「松笠菱紋」
木村清兵衛は、同上分家、(南東48-3)木村十内家の4代目・百十郎(清兵衛)。家紋は同上

木村恵一右衛門は、(南東48-16)木村恒彦家の6代目・一郎太郎(恵一右衛門)。家紋は「隅切り立角に違い鷹の羽紋」

木村吉九郎は、(南東48-14)木村荘三家の5代目。家紋は「松笠菱紋」「丸に(T)文字紋」

木村九郎吉は、(南東48-5)木村又三郎家の6代目。家紋は「丸に三つ浜洲紋」「隅切り平角に木文字紋」

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■「阿部一族」と、御犬曳き・津崎五助の殉死

2022-11-06 12:38:42 | 論考

    御厚誼をいただいている北九州在住の小川研次氏には、過去に於いていろいろな論考をお寄せいただいた。
その一つに、「阿部一族」に関しても以下のような多くの論考を当サイトでご紹介をしてきた。

                 ■「阿部一族」の一考察(1)
     ■「阿部一族」の一考察(2)
     ■「阿部一族」の一考察(3・了)
     ■秘史・阿部一族(1)
     ■秘史・阿部一族(2)
     ■秘史・阿部一族(3)
     ■秘史・阿部一族(4‐了)
     ■阿部弥一右衛門
     ■宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑 
     ■「田川キリシタン少史」-(1)
     ■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・3
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4
     ■森鴎外『阿部一族』の一考察

 今回は御犬曳き五助の殉死に係わる一稿だが、この五助に関しては大友宗麟の曾孫にあたる松野縫殿助が
介錯を勤めて居り、私は大いなる違和感を感じていたが、今回の論考を拝見し納得するに至った。

小川氏のご研究に感謝を申し上げる。

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       四、津崎五助長季(年齢、殉死日不明)

    森鷗外本『阿部一族』でも有名な六石二人扶持の御鷹方「御犬牽」の五助である。
    忠利が鷹狩りの際に伴っていた猟犬の世話係りであった。殉死場所の高琳寺で犬に
    向かって、「おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれ
    はそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死
    んだ。どうじゃ。おぬしもおれといっしょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬に
    なっても、生きたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、
    食うなよ。」と言った。しかし、犬は「五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食お
    うとはしない。」五助は「それならおぬしも死ぬるか」と言って「犬をきっと見つ
    めた。犬は一声鳴いて尾をふった。」そして五助は不憫に思った犬を脇差で刺した
    のである。このエピソードは『綿考輯録』や『忠興公御以来御三代殉死之面々』に
    も記されており、『阿部茶事談』に拠ったと思われる。但し、『綿考輯録』では
    「岫雲院」は「春日寺」となっており、鷹の殉死は「御葬送之節」だが、鷗外本は
    「荼毘の最中」としている。
    五助の介錯人は松野縫殿助(親政)である。父は親英(織部)、祖父は大友宗麟二男親家
    (利根川道孝)で細川家に仕えた敬虔なキリシタン一家である。
    ここで、五助の出自だが、推考してみよう。
    天正七年(一五七九)に親家が国東郷の田原氏を相続した時に、反大友の狼煙を上げ
    た田原親貫と戦うことになる。(田原親貫の乱) 翌年、勝利を得た親家は旧田原家の
    津崎氏を加判衆にしている。(「津崎文書」『大分県史料』)また、津崎氏宛の親家
    の「感状」「安堵状」「書状」の写があるが、津崎善兵衛宛書状の奥書に国学者後
    藤碩田による「明治二年八月廿七日寫終」とあり、「此津崎氏ハ熊本在土」と加筆
    している。(同上)
    また、『於豊前小倉御侍帳』に「津崎善右衛門」があるが、大友一族と共に細川家
    に仕えたと考えられる。大友家との関係から五助はこの津崎一族の可能性は高い。
    五助の法号は「心了助庵」(『綿考輯録・巻五十二』)で「助庵」は洗礼名「ジョア
    ン」(ヨハネ)でキリシタンであったと推される。
    聖書の「ラザロと犬」(ルカ福音書16章19-31節)の話を彷彿させる。貧しいラザロ
    は金持ちの家の門前で食物を待っていた。そこへ犬もやってきてラザロの身体の
    できものを舐め始めたのである。やがてラザロと犬は天国へ行ったという。
    「五助と犬」は『阿部茶事談』に於いて最もキリスト教的な描写である。
    元文元年(一七三六)八月、津崎家が「奥田権左衛門家士水野孫三と申者之三男を
    養子いたし貞次と申候」(同上)とあるが、キリシタン権左衛門正慶(加賀山隼人甥)
    の四代目同名正英である。この代で断絶となる。(「奥田権左衛門家由来記」『肥
    後細川藩拾遺』)
    但し、「私家来転切支丹奥田権左衛門系」類族としてキリシタン穿鑿の対象となっ
    ていた。(『肥後切支丹史』)
    気になるのは、後述する阿部弥一右衛門の条に「一説、津崎五助より跡に付候由」
    (『綿考輯録・巻五十二』)とある。

    推測だが、弥一右衛門は「(先に)跡に付候由」とし、「跡」は痕跡の意で過去の現
    象のしるしである。つまり、弥一右衛門は五助より先に殉死していたのではなかろ
    うか。五助の殉死日について『綿考輯録』編者は判断しかねているが、「日帳」か
    ら判断すれば弥一右衛門と同じ四月二十六日であるが、それ以前とも考えられる。
    あえて弥一右衛門の条に五助を記したのは五助の殉死についての関連があったと考
    えられる。五助がキリシタンであったならば、自死は深い罪となる。その迷いがあ
    ったのではなかろうか。ここでは弥一右衛門がキリシタンであったことは論じない
    が、そうであれば可能性はある。
    『三斎公御以来御三代殉死之面々』に高琳寺(現在廃寺)に「霊犬之塚」が存ずと付
    記している。
    鷗外は「高琳寺」に触れた時、少年期を過ごした故郷津和野の同名の寺を想ったこ
    とだろう。ここは明治元年(一八六八)から六年までの五年間、長崎浦上のキリシタン
    が配流された場所である。現在は乙女峠マリア聖堂として殉教の悲劇を伝えている。

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■「袖引き九兵衛」の晴れの舞台、そしてその死

2022-11-06 06:47:01 | 人物

 慶安2年(1649)12月26日、細川光尚は31歳という若さで死去した。
長男の六丸(綱利)はまだ7歳と幼かったため、光尚は幕府に対し応分の働きが出来ないと「如何様になっても公儀の望み通りに願いたい」と申し出て息を引き取った。
残された家士の動揺は如何ばかりであったろうか?、重臣たちは幕府に対し、六丸の家督相続を認めてもらうために奔走した。
江戸に在った沼田勘解由、熊本からは家老松井興長の養嗣子・若干17歳の寄之、足軽大将・都甲太兵衛そして梅原九兵衛などが急遽江戸へ下り、特に九兵衛はかって親交深い酒井雅楽頭との折衝に当たった。
梅原九兵衛は実は長曾我部盛親の一族であり、長曾我部宮内少輔泰信と名乗っていた。長曾我部氏没落後浪人し、梅原十助という人物の養子となった。のち、柳生但馬守(宗矩)に仕えて剣の道にも秀でていたため、柳生氏の推挙により細川家家臣となっていた。
今回の細川家存亡の大事にあたり、家老・松井佐渡興長はこの九兵衛をは密かに呼び寄せて存念を語り、万事を託したのである。
「肥後先哲遺蹟」は次のように記している。
     
   其方事兼て酒井雅楽頭忠世の御入魂たる故に、江戸に於て晝夜となく、忠世の屋敷に出入する身なれば幸の便なり、
   今度江戸へ馳上り、彼邸へ参上して、様々に御頼を申上候て、佐渡存念の趣委く申含、自然此願叶まじきに於ては、
   席を不去して、其方覺悟仕べしと申候、九兵衛申は、委細仰の趣承りぬ、先以新参の私、ケ様の御使をも相勤可申者
   と、御見立に預候事、忝仕合、武士の本意と存すれば、此節の御奉公、随分共相勤可申と申候、(中略)
   其後九兵衛江戸へ到着し、酒井雅楽頭へ参向し、忠世の側近く寄申候は、今度六丸(綱利)未幼年たるを以て、肥後
   守跡式御減少にも成べき由、風聞も仕、二つには何とやらん、細川帯刀へ分知をも仰付らるべしとも相聞候、此儀實   
   説なるに於ては、長岡佐渡を始、家中の者共、一圓に難奉得其意、其故は先祖以来、別ては三齋関ケ原表の一亂の節、

   度々御奉公をも相勤、御代々御懇意を蒙り、相續て故越中守(忠利)にも、右の趣を以て、肥後國一圓拝領せられた
   る所に、越中守殿 肥後守の誤か 短命にて御奉公をも不申上段、可仕様も無之、若今度分知仰付らるゝとの上意を承りた
   る上にて、何かと愚意を申上候は、公義へ奉對恐多存じ奉候間、前以御内々奉願候、願くば忠世公の御執奏を以て、
   先規の如く、肥後國一圓に拝領せられるに於ては、家老共を始、何れも難有奉存候、随分共六丸を守立、御奉公をも

   仕候様に育上度存念の趣、潜に私を以て奉願候、萬一願通には仰付られ難き御意を承るに於ては、其方了簡とは、是
   又如何可仕哉と尋られ候時に、九兵衛頭を上、私了簡とは、外にはござなく候とて、懐より小釼を取出し、右の手に
   持、左の手にては忠世の袂に取付べき勢をなし、是の如くに仕る外無之と、面色を變申候へば、雅楽頭高聲に、やれ
   やれ九兵衛かたくろしや、肥後國一圓に、前の如く不賜して可相濟哉、國士は扨々かたましとて、御笑なされ候に付、
   九兵衛押返し、彌左様にござ候やと申候へば、何が扨今の通少も相違あらじと云、其時九兵衛懐釼を捨、末席に下り、
   只今の御意の趣、六丸へ申聞せば、六丸後來身を終る迄、忠世公の御厚恩、何とか忘れ申べき、次では家老共を始、
   一家中の末々迄、嘸難有可奉存、随て私も平日の御懇意に募り、慮外を働き過言仕申候、御機嫌の程も奉恐入候、然
   れども忠義の至誠と思召れ、御免を蒙ると申て、九兵衛は席を立、酒井家の者共、此體を傳聞、袖引の梅原と云、

 細川家存続のために最大の努力をし、家中の尊敬の的になったと思われる九兵衛だが、その死は誠に痛ましいものであった。
                ■袖引き九兵衛の死                  
   

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