津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■四百石・志方逸次家先祖附

2023-12-04 07:26:39 | 先祖附

                                      

                   四百石 志方逸次

         一先祖赤松家ニ而御座候 播州神吉之城主神吉
          八郎 上野介祐則 同民部少則實 同ク
          民部少輔則氏弟播州志方之城主志方
          左馬介後丹波則繁初櫛橋と申所攻取其家を
          主子志方右衛門尉繁廣天正六年五月諸将を
          引請及合戦落城仕候 此節播磨七家大形
          ( 一行コピー欠落 原本確認後補足 )

          志方上月別所明石等ニ御座候 右衛門尉落城
          仕候付世忰 初代六助二歳ニ而一命を遁丹波
          国穂壷之城主赤井悪右衛門養育ニ而盛長仕
          居申候処悪右衛門病死ニ付同国長生院与申仁江
          罷越居申候
          三斎様被為及聞召十五歳之時於丹後被召出
          御知行被為拝領御昇頭被仰付候 悪右衛門陳中
          振申候大長刀于今私家ニ持傳申候 右志方

          六助小牧御陳朝鮮御陳岐阜御陳之時
          右之御役儀相勤筑紫御陳之節就中働
          有之高麗御陳之節ハ城江乗候時石討之
          手傷負病申候処御懇之以御意養生被
          仰付御薬等御直ニ被為拝領快気仕関ケ原
          御陳大阪御陳之節茂右之御役儀相勤申候
          三斎様被遊御隠居候後茂六助若手ゟ之
          働等度々被仰出立身可被仰付者ニ候を始終

          小身ニ而被召置候段御懇難有御意御座候
          御国替以後八代ニ而者御軍役之外無役ニ而
          罷在 寛永二十年病死仕候
          二代目
         一志方半兵衛儀右六助嫡子ニ而御座候 於豊前
          十八歳之時
          三斎様被召出相勤申候 関ケ原御陳之節
          御供仕於戦場甲付之首討捕高名仕首帳ニ
          附申候由御帰陳之上為御褒美新知

          五百石被為拝領御弓被成御頭候 其後御鉄炮
          被成御頭段々御役替御加増被仰付御替ヱ御指物
          引両之御幕被為拝領候 御指物者大白熊之御差物也
          御指物引両之御幕只今至迄所持仕居候
         一慶長二十年五月大阪之城落城之時
          三斎様者御手廻計被召連昼夜御■舩ニ而
          御上り被遊兵庫ゟ陸地被遊御登候節茂半兵衛
          儀者御側ニ被召連候 御家中諸勢者中国

          陸地を御登せ被成候付
          三斎様大阪江被遊御着候御跡ゟ追々着之御
          手傳申候 御合戦之刻者御先手藤堂和泉守殿と
          御同備ニ而御座候
          三斎様御手廻之面々も和泉守殿御先手
          同前ニ手合候面々ニ者清田七助・佐藤将監・
          藪三左衛門・村上縫殿助・佐方与右衛門・續勝助・
          續亀之助・乃美主水・朽木与五郎・志方

          半兵衛右何茂関ケ原御陳大阪御陳之刻
          鑓太刀打甲付之首討捕無比類高名仕候付
          御直段々難有御意共御座候而御加増一廉可
          被下由御直被仰渡候 半兵衛儀関ケ原御陳
          大坂御陳ニ手柄仕候為御褒美後御知行千石
          被為拝領有馬御陳之刻者御人数半兵衛引廻
          可申旨被仰付候而細川立允様江御附被成被遣候
          右候而城乗之日者立允様有馬本丸之流尾

          升形ニ一番ニ奉着御昇之揚時分触候而御馬
          印を揚候得と御昇頭原傳右衛門ニ致下知御昇を
          張と立允様御座候所ニ呼登せ申候 於此所
          御昇頭原傳右衛門御昇小頭藤原と申者能働
          御當家諸手ニ御勝レ被遊九曜之御昇本丸江
          壱番ニ入候者半兵衛働候由承傳申候 尤
          御昇有所ニ至迄一ニ之■壱人茂無御座候 御帰陳
          之上

          三斎様御直ニ有馬之様子委細被聞召■■■
          御感被思召上之旨難有御意ニ而今度之為
          御褒美半兵衛儀
          三斎様御家老役被仰付候間御礼申上候得者
          當時八代江細キ御様子ニ而被遊御座候間御加増
          不被下候 責而御家老ニ被仰付ゟ外之儀無御座候と被
          思召御家老被仰付候 此後自然之儀有之
          御人数被遣候者長岡河内・佐方与左衛門・志方

          半兵衛此三人之内壱人ハ八代江罷在弐人者
          御陳二可参候 半兵衛儀ハ何時茂御陳ニ罷立可
          申旨御直二遊御意候 右之様子者以来人      志方半兵衛言上之覚
          存知候由承傳申候                 
          三斎様江ハ被遊御隠居
          妙解院様御家督被遊御下国候節御供ニ半兵衛
          被召連段々難有被仰付二而罷下申候 下着仕候上
          妙解院様江半兵衛奉願仕候者

          三斎様殊ニ御懇ニ被召仕たる儀二御座候間
          三斎様御在世之間者 御隠居様被相勤候様
          被仰付被下候者難有可奉存旨奉願候処ニ願之通
          被仰付中津江罷越
          三斎様江勤上申候 御国替以後茂八代江御供仕
          参相勤申候
          三斎様御逝去之後
          真源院様江御暇申上候処嫡子半右衛門二三百石

          二男十兵衛ニ三百石被為拝領半兵衛ニハ五拾人
          扶持被下置段御懇之御意ニ而御鷹場之内
          猟等を茂被遊御免候間随分息災ニ仕居申候
          重而可被召出之旨御直被成御意候処其後
          於江戸御逝去被遊候 猟等御免之儀御家老中ゟ
          被下候御書付只今至迄所持仕居申候
          真源院様御逝去後御家老中迄御暇
          願之書差上申候得共御暇不被下候 就夫

          半兵衛生而申上候ハ御暇不被下候者嫡子半右衛門二
          私先知千石私弟志方小左衛門ニ新知貮百石
          被為拝領 私儀者只今之通被仰付被下候様ニと
          申上候処如願御知行被下半兵衛儀茂申上候通ニ被
          仰付万治二年病死仕候
          三代目
         一高祖父志方半右衛門儀親半兵衛先知千石被為
          拝領外様御弓貮拾張被成御頭相勤申候 寛文
          七年病死仕候

                (以下略)

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■三斎の死去と「庄林隼人佐」らの御暇

2023-12-03 07:39:46 | 人物

 三斎の死去後、三斎に仕えた人々は自らの運命に身を任せて、新たな人生を進むことになる。
細川本家に戻ったり、新たに創家された宇土支藩に仕えたり、自らの判断で離国したり又は御暇を頂戴するという人々もあった。加藤清正に仕えたのち細川家に召し出された庄林隼人や新美八左衛門などにとっては「御暇被遣」という処分となった。
私は三斎の死去に当たり御暇になった人物が初代ではなく、二代目隼人佐(一方)であることを、今般再確認するなどしたところである。

           一、庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候 
             閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
             則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
             衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
             八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
             共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
             丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
             候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
             尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
             御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
             頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
             へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
             御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
             へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
             脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
                  (以下略)    
               六月十九日         松井佐渡守
                      林 外記殿

 今回はその庄林隼人に触れてみたい。
庄林隼人佐・一心のご子孫・庄林曽太郎家の先祖附をみると、隼人佐の先祖は粟田関白道兼の三男の従五位下丹波守藤原兼信にさかのぼるという。その一族小山権太郎兼凞という人物が足利尊氏の許で軍功を上げ庄林の姓を賜った。庄林隼人はその権太郎の後胤で加藤清正に召し出された。
一方、東京大学には、隼人佐について詳しく紹介する「庄林氏由来」という文書が存在する。
これによると、隼人佐は摂津国多田の人で高槻城主・高山右近に16年間奉公し、その後仙谷秀久につかえた。佐々成政が肥後国の治世に失敗して、小西行長・加藤清正がそれぞれ肥後半国を拝領した時、隼人佐は加藤家に仕えたとされる。天草攻めや文禄・慶長の朝鮮の役などで功名を上げた。
「 庄林曽太郎家」先祖附と「庄林氏由来」で内容を異にしているのは、生母を異にしていることによると思われる。
「庄林氏由来」によると、隼人佐は妻を亡くした(曽太郎家?)後、加藤清正の妊娠している妾を召し下され、男子であれば跡を継がせよとあったものの女子が生まれたので、これに後加藤与三右衛門の嫡子太郎平を養子となし二代目隼人(一方)とした。
この太郎平は先にお墓をご紹介した中川壽林に育てられているが、父与三左衛門は亡き人であったのかもしれない。
又、太郎平の姉(妹?)おこうは、加藤清正の養子であった「百助=水俣城代」の室となり「若上様」と呼ばれた。

隼人佐は加藤家の没落を悲しむように、寛永八年死去した。横手の禅定寺にある庄林隼人のお墓はまさに初代隼人佐一心のものである。
                                                      11月16日撮影
                        


 2代目・隼人佐一方は、寛永九年細川忠利の肥後入国に当たり城内の案内役を勤め、直後に家臣として召し出された。
隼人佐室は清正女と「庄林氏由来」は記すが、詳らかなことは判らない。

正保二年、細川三斎の死後、旧加藤家家臣の出である隼人佐や新美八左衛門などはお暇を遣わされ、隼人佐は妻子を熊本に残し離国している。

                 庄林家相関図

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■シハス

2023-12-02 13:15:00 | 徒然

 十二月に入ると「喪中」のはがきが届いたりして無情な時の移ろいをを感じさせるが、「師走」という言葉を聞くと何となく心せわしさが生じてくるから不思議なものだ。
 シハスの「シ」は「年」、「ハス」は「ハテ=果」、つまりシハスとは「年が果てる」の意だと聞いた。
「師走」とは語呂合わせの当て字なのだろうが、これは伊勢神宮の「御師」が年末になると暦を配るのに各地に忙しく馳せ走られることから「御師が走る=師走」となったという説があるそうだが、説得力がある。
我が家には当の昔、奥方がカレンダーを購入してきて、現在は裏返しにしてあと一枚になった月めくりのカレンダーの後ろに隠れている。あとひと月の我慢を願っている。
お節料理も十一月のはやい時期に注文済だし、奥方も昔のように出たり入ったりすることもなく、インターネットでいろいろ注文するなど気楽に構えているようだ。

 私といえば、熊本史談会の11月例会を担当したが、これがおしゃべりのし過ぎで時間内に終わらず、12月にも時間を頂戴してお話をすることになった。とんだ年収めである。
そのほかといえば今年くらいまでは頑張ってみようと思う年賀状の準備と、我が家の事では5ヶ所のサッシュのガラス磨きくらいである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川三斎の死

2023-12-02 07:11:43 | 花押

                                                               

 正保二年(1645)十二月二日、父・幽歳と共に戦国時代を勇敢に生抜き、豊前小倉藩399,000石から、大国肥後(一部豊後領)国540,000石の太守となった細川三斎(忠興)が波乱の人生の終焉を八代の地で迎えた。享年83
その果敢な行動力は、豊前における隠居領・中津時代から、息・忠利の肥後入国に当たっての隠居領・八代に於いても、藩中に藩があるがごときであり、三斎のふるまいには、息忠利時代、また忠利亡き後の光尚時代も本藩を大いに悩ませるものであった。
 八代に於いては、溺愛した五男・立允(立孝)に隠居領を相続させ八代藩の分立を企てたが、忠利の死去に際しても分藩は幕府の認めるところとはならず、また立允が三斎に先んじて死去したためとん挫した。
三斎の死去後、その意思を受けて八代藩の創立を目指して村上河内などの遺臣らが画策したが、これらもかなうことはなかった。
時の藩主・光尚により、藩政の改革に手が付けられ、八代城主に筆頭家老・松井興長を配し、立允(立孝)の子・行孝は宇土の地に移し、30,000石をもって創家して宇土支藩となした。

 藤孝ー忠興ー忠利ー光尚ー綱利と続いた細川嫡流は、綱利の男子がそれぞれ死去し、弟(新田藩主)利重の二男(宜紀)を養子に迎え、宜紀ー宗孝ー重賢ー治年と新田藩系が続いた。
治年の男子も亡くなると治年の正室・埴の弟・宇土支藩藩主立禮を宗家藩主として迎えた。
立禮は名を変え齊茲ー齊樹ー齊護ー韶邦ー護久と宇土支藩系に受け継がれて今日に至っている。
忠興が溺愛した立孝の子孫の血が当代細川家の源であることを思うと不思議な感じがする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ご恵贈御礼「第20回・全国藩校サミット 文京大会」記念誌

2023-12-01 08:43:37 | 催し物

               

 全国藩校サミット・熊本事務局の牧様(史談会会員)から、本年の「第20回・全国藩校サミット 文京大会」の記念誌を頂戴した。
厚く御礼を申し上げる。
熊本では平成20年の第7回大会を開催している。なつかしい思い出が頭をよぎる。全国に旧藩時代に存在した藩校は81存在するという。
それぞれの地の教育に多大な貢献をした藩校だが、明治維新とともに大方の藩校は姿を消した。
しかしその影響は営々とその地の文化形成などに大きく寄与している。
今後ともさらなる努力をされて、このサミットが続けられることを切望する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■鎖国令と正保四年ポルトガル船長崎来航

2023-12-01 06:21:17 | 歴史

 寛永15年(1638)の天草島原の乱に於ける細川家の奉公ぶりは、軍役を上回る出兵とともに人的被害や経済的負担はその後の藩運営に危機的影響をもたらした。
それから9年後の正保4年(1647)、今度はポルトガル船が長崎に来航、戦にはならなかったものの出兵の総数は 11,301人に及び、その内加子が4,896人、船の数は447隻に及んだ。

 寛永16年にはいわゆる「鎖国令」が出されて、ポルトガル船の来航は禁じられた。
翌17年には貿易再開を申し立ててポルトガル船が来航している。私は最近まで知らなかったが、この時徳川幕府は使者61人を殺害したという。

黒人などの水夫などは帰国させた。
幕府はその報復を恐れて18年~19年と福岡藩や佐賀藩に長崎の警備が申し付けられた。遠見番所などが設けられた。
そんな中正保4年、ポルトガル船2隻が長崎に来航したのである。遠見番からの報告を受けて九州の大名に出兵が求められた。
          正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 1
          正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 2

      

「来るべくして来た」ポルトガル船だが、7年前の多くの同胞の死の報復のためで在ったのかは定かではないが、そのことを盾にした貿易再開交渉が行われたのは間違いなかろう。
幕府は徹底的な拒否に徹し、九州各藩の出兵を要請してポルトガル船の国外退去を促した。
実質的に作戦の差配をしたのは、細川藩の家老・長岡監物(米田是季)だが、船橋で湾を封鎖するとともに、「藁や薪」を積ませた多くの小舟で取り囲ませて放火の準備をしながら退去を促した。
湾の奥深くにある「出島」は、かってポルトガル商人のために建設された人工島である。時は移りオランダ商人の居留地となっていた。
ポルトガル船は、交渉の行き詰まりと船の危険な状態にかんがみ、むなしく長崎を離れて帰国の途に就いた。
戦費の負担など藩主光尚の苦労は絶えなかったが、2年後の慶安2年(1649)の末に死去することになる。


          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする