津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後墳墓録ー(4-1)禅定寺・加藤家臣

2023-12-11 06:41:38 | 掃苔

 ■並河志摩守氏則(宗為)
 加藤家重臣、10,297 石で禅定寺の大檀越である。寛永7年7月25日歿。月秋院要津一玄。
宗為の嫡子である金右衛門(志摩守宗照)は、加藤忠広廣配流の後牢浪、のち土佐藩主・山内忠義に2000石で仕えた。
熊本に残った子孫は米村氏を名乗り細川家に仕えた。

 ■三宅角左衛門 ? ~1631 
 加藤家の先手三組の大将としての活躍する一方、特に普請奉行として活躍。築城工事については石垣つきの名人との評が高く、飯田覚(角)兵衛とともに加藤家の両角と呼ばれた。朝鮮役の際には豊後杵築城救援を命じられたが、渡海を望み出兵を渋って清正の怒りに触れ知行を召し上げられる。のち宇土城攻めの際に小西の勇将南条元宅との一騎打ちを演じるなど奮戦、この功により再び知行を得た。
「八代切支丹史」によると、当時角左衛門は八代奉行であり、加藤清正の切支丹迫害により殉教しのち列福した南五郎左衛門(シモン・ミナミ・ゴロザイモン)、竹田五兵衛(シモン・タケンダ・ゴヒョウエ)の二人の内、竹田五兵衛は心の友であり改宗を勧めこれがかなわぬと国外逃亡さえも勧め助けようとしたとされる。

 ■南條元清(元宅)
 伯耆羽衣石(うえし)城主・南條元続の弟・元清。左衛門督のち伯耆守を称し、元宅と号す。初め伯耆岩倉城主、羽衣石城代。朝鮮役の際に甥元忠の名代として出兵したが、元忠の家臣の讒言により失脚、小西行長に預けられた。関ヶ原の際には行長の弟・行景の下で宇土城を守備、攻め寄せた加藤清正の豪将三宅角左衛門と槍を合わせた。小西家改易後は加藤清正に仕え伯耆守を称し、六千石を領した。
慶長19年(1614年)没、法名は「惟安元宅居士」。

 ■南條(藤八郎)元信
南條元宅の嫡孫。南条元宅は嫡子が病気であり嫡孫・藤八郎に跡目を継がせる意向をもって死去したが、側室の子作十郎周辺の者が動いて元宅の意向は成就しなかった。
藤八郎は加藤家を去り、細川三齋を頼り、「南条家は名高き家ニ付」の故をもって細川家(小倉藩、のち熊本藩)に「三千石可被下由ニテ被召抱」られ、「成長之上ニ而与五郎様御女お鍋殿を藤八郎へ被遣、五百石御知行御添被下候」

「於豊前御侍帳」には頭衆として「三千石 加茂 南條左衛門元信」とある。また鍋については「五百石 なべ 廟所禅祥(定)寺 忠興公御二男也長岡與五郎興秋女・南條大膳元信妻円乗院 大膳后改左衛門」と記す。「福岡県史・近世史料偏-細川小倉藩」所載の「日帳」によると寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が記載されている。「おなへ様御祝儀ノ御使者」が「御乳人」に書状を届けた記録である。この年内に結婚したのであろう。

元信については「藤八郎名を大膳と改め、其後御国へ御供ニ而罷越唯今木下屋敷被為拝領」と「藻塩草」は記す。寛永二十年(1643)細川忠興末子勝千代(三歳)を養子とする。元信は万治三年(1660)隠居、寛文九年(1669)キリシタンと疑われ長崎に送られたが無実で帰国するも、城内竹之丸質屋に留め置かれた。天和二年(1682)死去した。室・鍋は元禄二年(1689)まで長生きした。

 ■庄林隼人佐
隼人佐の先祖は粟田関白道兼の三男の従五位下丹波守藤原兼信にさかのぼるという。その一族小山権太郎兼凞という人物が足利尊氏の許で軍功を上げ庄林の姓を賜った。庄林隼人はその権太郎の後胤で加藤清正に召し出された。

一方、東京大学には、隼人佐について詳しく紹介する「庄林氏由来」という文書が存在する。
これによると、隼人佐は摂津国多田の人で高槻城主・高山右近に16年間奉公し、その後仙谷秀久につかえた。佐々成政が肥後国の治世に失敗して、小西行長・加藤清正がそれぞれ肥後半国を拝領した時、隼人佐は加藤家に仕えたとされる。天草攻めや文禄・慶長の朝鮮の役などで功名を上げた。宇土城攻めに当たっては「大手堀田黒門口は寄手一番侍の頭加藤百助持口也、武者奉行庄林隼人相添也 」という記録が残る。

庄林家資料としては「 庄林曽太郎家・先祖附」と「庄林氏由来」が存在するが、内容を異にしているのは生母を異にしていることによると思われる。
「曽太郎家・先祖附」によると、隼人佐の嫡男・淡路が病没したため、妹に益田家から婿を迎え明治に至っている。                   
一方「庄林氏由来」によると、初代・隼人佐は加藤清正の妊娠している妾を召し下され、男子であれば跡を継がせよとあったものの女子が生まれたので、これに後加藤与三右衛門の嫡子太郎平を養子となし二代目隼人(一方)とした。
この太郎平は中川壽林に育てられているが、父与三左衛門は亡き人であったのかもしれない。
又、太郎平の姉(妹?)おこうは、加藤清正の養子であった「百助=水俣城代」の室となり「若上様」と呼ばれた。
初代・隼人佐は加藤家の没落を悲しむように、寛永八年死去した。尚、屋敷は城内二の丸、現在の熊本県立美術館の場所にあった。

■庄林淡路
 庄林隼人佐の嫡男である。(庄林曽太郎家・先祖附)
 「熊本県史料・近世編二 p403」で忠利が三家老に宛てた書状
    (初代隼人嫡男)庄林淡路相果候由不便成儀候 跡職知行等無相違隼人ニ遣候間可得其意候

    いまたせかれ之事ニ候間縁者・親類之内萬事肝を煎申候而遣候様ニ申付可然候 左様之者無
    之候ハゝ皆として申付可遣候 隼人(2代目)所へも跡職無相違申付
段遣候事

      (寛永十弐年)二月廿九日          忠利
 尚、屋敷は城内二の丸、西大手門正面の場所にあった。 

 付け足し:2代目庄林隼人について
 寛永九年、細川忠利の熊本城入りを案内した隼人は2代目である。翌十年に至り細川忠利によって召し出された。
     寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
        庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                            (綿考輯録・巻三十五)
 正保2年に細川三斎が亡くなると、時の藩主光尚から召し放ちとなり熊本を離国した。

 

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■12月9日忠利熊本入城す

2023-12-10 08:27:50 | 史料

 細川家の熊本移封に伴い、忠利一行が豊前から熊本に入ったのが寛永九年十二月九日のことである。
翌十日には忠利は早々に江戸に在る嫡男・六丸(光尚)に書状を発している。
「事のほかに広い囲みで、江戸城のほかこんなに広い囲みは見たことがない」とその喜びの心情を率直かつ簡明に記している。
この年光尚は14歳であり、熊本に入国するのは寛永十四年年末、天草島原の乱の勃発によるもので、熊本城に入場することなく戦場に赴いた。

 

              以上
            我事十二月
                 九日ニ
            熊本へ入城申し候
            可心安候 事外
            ひろキ圍にて候
            城も江戸之外ニハ
            これほとひろキ
            見不申候 又十一月
            十五日之状相とゝき
            跡より又可申入候
            其方も登城之
            よし丹州                                    丹州・・稲葉丹後守正勝(小田原城主、春日局嫡男)
            御さしつの
                 よし
            尤ニ候恐々謹言
              十二月十日 利(花押)

                六返事
                  

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■国友次郎という人

2023-12-10 07:51:58 | 人物

 瀬戸到誠氏の研究成果の一つに「資料紹介『遊学一巻帳』(一)(二)」がある。
これを眺めながら、膨大な藩費を受けて遊学を果たした人たちは、その後どのような人生を送ったのだろうかとふと考えた。
これは熊本大学に寄託されている「永青文庫」の史料の中にあるものを瀬戸氏がまとめられたものである。
氏にはこのほか、「幕末維新期の肥後藩における遊学生群像」「幕末肥後藩における洋学受容」「幕末期の肥後藩における海外渡航、海外留学」「 幕末肥後藩西洋砲術家池辺啓太に関する疑問点」「幕末肥後藩と長崎海軍伝習」「荘村助右衛門について」などの論考がある。

 さてその内容を見てみると、108名の名前が記されている。一番目に付くのは、長岡監物家来・井上多久馬だろう。のちの「井上毅」である。
そうして、私にはもう一人気になる人物がいるのだが、国友次郎なる人物である。
最近この人物について検索をしてみると、その肖像や業績などを知ることができる。
皇居三の丸尚蔵館が所蔵する「明治十二年明治天皇御下命人物写真帳・海軍」に次の写真が紹介されている。    https://shozokan.nich.go.jp/collection/object/SZK001477-039
その業績については別に、海軍関係のサイト「人名辞典くな」に次の記載があった。

    国友次郎Kunitomo Jirou、-1904(熊本).大佐.
    大佐1884.2/8龍驤艦艦長  85.11/7艦長  86.6/23浦賀屯営長  87.4/25大和艦艦長  10/27東艦艦長
    88.1/28旧東艦残務取扱 
1902.7/1後備役  04.6/7死去(56歳).

 実は10年ほど以前になるであろうか、国友家の関係者からご連絡をいただき、ご自分の身内に「戦艦三笠」の艦長を務めた人物がいる、先祖の事を知りたい」というお話があった。
三笠の艦長であればすぐわかるだろうと考えたが、これはどうやら龍驤艦の間違いではないかと思われる。
さてその「遊学一巻帳」によると、この国友次郎という人物は国友儀平(国友儀兵衛・南東33-9)の弟であり、自勘(自前)での遊学を申し出たらしい。
そして1年の西欧留学の費用は1,500両に及び、外務省や大蔵省からその返済について盛んに熊本藩庁に催促がなされている。
幕末期の1両の価値は暴落しており3~4,000円だというから、それでも600万円といったところか?
100石取りのお侍の生活ではとても一括返済はむつかしかろう。
また、その費用は留学生15人が現地の豪商から洋銀で8,000弗を借金しているため、一人当たり533弗33セントを返還せよとしている。
1,500両≒533弗なのかはよくわからない。弟の勉学のために留学させたのはよいが、兄・儀平さんの困惑ぶりが見て取れる。
しかし、海軍の大佐にまでなり、龍驤艦などの艦長まで勤め上げられたのも、この留学の結果であることは間違いない。

 

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■肥後墳墓録-(3)岫雲院春日寺

2023-12-09 07:12:40 | 掃苔

 熊本駅・新幹線口近く(熊本市西区春日3丁目2)にある細川忠利公が荼毘に付されたお寺として知られる。
臨済宗大徳寺派の寺院だが、菊池氏初代菊池則隆春日大明神を勧請し、その神護寺として建立したと伝わる。
地元では親しみを込めて「かすがんじ」と呼ばれている。一時期御堂は荒廃していたが、再建された。
大友宗麟家系三家のお墓があることで知られる。

 1、松野右京家
    宗麟の嫡子・大友義統の嫡家とする家で、嫡男が死去したため三男・右京を祖とする一族の墓地である。
 1、大友親家之墓
    利根川道考の名で知られる大友宗麟の二男である。細川家には客分として仕え、嫡子・親英が召し出され初代とする。殉死者のお墓が並ぶ。
    初代・親家以降のお墓は、上林町・宗岳寺である。
 1、大友親盛家(東松野家)
    大友宗麟の三男の親盛は、細川家に召し出されて松野半斎と名を改めた。その一族の墓地である。
    2代目は兄・大友義統の庶子・正照を育て養子とした。12基のお墓がまとめられている。

          かっての岫雲院春日寺

 参考:松野一族略系図

                              義統五男        再興 
 大友宗麟---+---大友義統---+--- 義乗---+---義家(無嗣断絶)==*義孝・・・・・・・・・・→ (旗本大友家・高家)
                  |        |              |
       |        |           +---義親ーーーーー縫殿介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣五百石・吉田淳家)
       |        | 義統三男
                  |       +----松野右京---+----主殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 二千石・松野孫三郎家
       |               | 
       |               +---*義孝(嫡家相続)
       |               |
       |               +---義冬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (旗本松野家)
       |
       +---利根川道孝---松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 千五百石・松野亀治家
       |             |           
       |             +----善右衛門----又右衛門・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 五百石・松野一葉家)
       |
       +---半齋--------八郎右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・-→ (細川家臣 千七百石・松野八郎家

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■図書館コピーで肩を痛めました

2023-12-08 16:14:34 | 熊本地震

 今日はよい天気で風もなく少々コピーをしたいものがあって昼食後図書館行き・・・
都合2.5家の先祖附を61枚コピーした。2.5家というのは最後の1家は途中でやめてしまったからだ。
というのは原本が約500頁ある重たいものを、1頁ずつコピーするためにその都度ひっくり返さなければならない。
ここ一両日なんとなく調子が良かった肩の具合が、途中で悪くなりあと30ページほどは次回と相成った。
江津湖散歩もせず痛みに耐えながらアシスト自転車を漕いで帰宅したが、我が家に着くころには耐えがたいくらいに痛くて仕方がない。
最近の症状は筋肉痛的なものではなく、整形外科的な痛さで温めると少しは痛みが和らぐ。
そこで頭髪用のドライヤーを肩にあてて、洋服の上から1~2分熱くなるくらいに温めて手で押さえているとそこそこ痛みが和らぐ。
肩が痛いと首にきて、首が痛くなるとやや体が前のめりになって爺様スタイルとなる。
掛け声をかけるわけではないが、よっこらしょと気合を入れた姿勢を正すことになる。
すっかり賞味期限(?)がすぎた、下着の上から貼り付けるホカホカカイロを張り付けてみたりしている。
次のコピーはいつにしようかと思案している。

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■漱石先生の「なかなおり」

2023-12-08 09:30:10 | 書籍・読書

 今年は沢山の喪中はがきを頂戴した。10通にも及んで驚いているが、それぞれの御身内のご遠行に対し心からお悔やみを申し上げる。

 明日大正5年12月9日は文豪・夏目漱石が亡くなられた日である。
そう気づいて数日前から御夫人・夏目鏡子氏の著(松岡譲筆録)「漱石の思い出」を読んでいる。

明治41年9月14日「吾輩は猫である」の猫が死んだとき、漱石は有名な「猫の死亡通知」を出している。
    辱知猫義久々病氣の處療養不相叶昨夜いつの間にかうらの物置のヘツツイの上にて逝去致候
    埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御
    會葬には及び不申候 以上

              九月十四日

 そんなユーモアにあふれた漱石先生は自らは胃痛もちで、明治末年にはわざわざ病気療養のためにと出かけた修善寺で、胃潰瘍による大出血で危篤状態に陥っている。
奇跡的に生還した漱石先生は、大正5年11月ころら吐血を繰り返すようになり、鏡子夫人に大いに手を焼かせながら、また大文豪の命の灯を何とか消さないように周囲の人々が尽力している。
鏡子夫人の回想の中に「中なおり」という言葉が出てきて一瞬何のことだろうかと思ったが、危篤状態の中に一時気が戻ることをそういうらしいが、「中治り」が本当らしい。
祈祷師を呼んで気合を入れると良いといったのは見舞客の和辻哲郎氏、長男は写真を撮ると生き延びると言い出し鏡子夫人は写真屋を読んでいる。
漱石先生は面変わりした父の顔を見て泣き出す娘をなだめ、長男には笑顔を返し、お見舞いの方々の名前を聞いてはもう目はとじたままで「ありがとう」の言葉を残して旅立たれた。

 漱石先生の遺骸は解剖に賦されている。胃の出口(噴門部)に50×15mmという潰瘍と小腸に出血痕が認められたという。
大文豪・夏目漱石はロンドン留学中には孤独な生活の中で神経衰弱をおこし文部省は「夏目は精神に異状あり」として帰国させている。
ユーモリストとは思えない繊細なお人柄であったことが胃弱の体質となったと思われる。
娘婿・松岡譲氏の筆録ながら、鏡子夫人の漱石先生の臨終前後の立ち居振る舞いは、強い意志に支えられた強い幕末明治を生きた女性像を見る思いがする。
漱石先生没後107年を明日むかえる。

 

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■ご恵贈御礼-歴史玉名研究会「歴史玉名 第105号」

2023-12-07 17:51:06 | 書籍・読書

         

  歴史玉名研究会会員・平田稔氏から会誌「歴史玉名 第105号」をご恵贈給わった。厚く御礼申し上げる。
氏は今般研究ノートに「一八六〇年米国製銅メダルと高瀬の侍・木村鉄太」を発表された。
この銅メダルとは、熊本市の釈迦堂にある清田家が所蔵されているものだが、民放の番組で金庫を開けたら出てきたといういわくつきの品物である。
これが、遣米使節団の団員に米大統領から献じられた品物だということが判り、その団員の一人である熊本藩士・木村鉄太の研究者である平田氏が、清田家を訪ねられるにあたり、私も同行した次第である。
清田家のご当主にいろいろお尋ねになり今般の論考が成果となった。10ページにも上る論考であり、氏の研究課程を垣間見たものとしては興味深いものがある。

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■ご恵贈御礼-家系研究協議会「家系研究 第76号」

2023-12-07 12:44:09 | 書籍・読書

  

 家系研究協議会の会誌「家系研究 第76号」をお送りいただいた。深く感謝申し上げる。
内容は誠に多岐にわたり、会員の方々が真摯に研究された成果であり、ご興味ある方にはぜひともごらんいただきたいとご推奨申し上げる。
最近HPも新しくなり、運用の幅も大いに広がったように見受けられる。更なるご発展をお祈り申し上げる。

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■肥後墳墓録-(2)阿弥陀寺

2023-12-07 07:16:10 | 掃苔

 浄土宗・阿弥陀寺熊本市中央区細工町3-34
 天正の頃(1573~1592)、清正公領国の時、飽田郡南阿弥陀寺村より白川のほとり(今の東・西・紺屋阿弥陀寺町付近)に移転し建立された。
しかし度々の洪水から、慶長の頃(1596~1615)に現地に移った。
遊行上人の来遊に当たってはその宿所とも成っている。

  1、阿蘇惟光  阿蘇大宮司。文禄元年(1592)梅北一揆勃発の際島津歳久・梅北国兼等との結託を疑われ、同2年秀吉の命で12歳で命を落
         とした。

  1、飯田角兵衛 加藤清正公四天王の一人といわれ、築城の名人ともたたえられた。熊本城・飯田丸にその名を遺す。
  1、長尾豊前  加藤清正家臣で愛藤寺城代を勤めた。  

  1、梅原家   初代は高知の長曾我部一族の梅原九兵衛、柳生但馬守の許より細川光尚の招聘により召し出し。
         光尚亡き後の、嫡子六丸(綱利)の遺領相続に尽力した。
  1、大石家
  1、鎌田家
  1、清水家   細川綱利の生母・清高院の父・清水道是を初代とする。慶安2年肥後入り。
         2代目は嫡子、3代目は養子で清閑寺大納言国宗四男(又、妙解寺住職弟)で御一門扱いとなった。

  1、村井家
  1、野田家

                                             (内容については随時記入)

 

 

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■私のHbA1c

2023-12-06 15:41:37 | 徒然

 私はちょうど一年前、HbA1cの値が一向に改善せず、行きつけのDrから「入院します?」と言われてしまった。
「えっ」と思い食事制限を始めた結果、3月には6.5まで下がり現在ではそろそろ安全値にあと一息といったところである。
体重も70㎏を出たり入ったりだが、BMI値も24.7と肥満からは抜け出した。
今朝病院に行くと血液検査があり、帰りにくれたのが下の表である。
一番高い時は10.6~10.4あり8.6がちょうど一年前、努力の結果3月には6.5、8月は6.3そして今回も6.3という経過である。
こういう数字が出てくると何となくうれしくなり、これを維持しようと頑張るから好循環である。
 最近奥方が膝が痛いと言い出した。肥満である。3㎏やせるといって食事制限を始めた。
炭水化物を断っているようだが、1㎏ほど減ったらしく大いに頑張っている。私の食事制限がお手本になっており結構なことだ。
それでも、TV番組やインターネットを眺めては、おいしそうなものを見つけると心が動くらしい。
お正月も近く、元の木阿弥にならないように食べ物には心しなければならない。

        私のHbA1c

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■黄門忌と細川綱利

2023-12-06 13:22:28 | 熊本地震

 元禄13(1700)年の今日12月6日は、あの黄門様・水戸光圀公のご命日である。
公は徳川御三家水戸家の徳川頼房公の二男であるが、水戸家の跡を継がれた。父公が将軍に光圀公を先にお目見えさせたせいで光圀公が継嗣子となったと理解しているが、「何故?」という思いはある。
同母兄の松平頼重が讃岐国高松藩の初代藩主となったため、光圀公は自らの嫡男を兄・頼重の養嗣子とし、水戸家三代目は頼重の嫡男を養嗣子として迎えた。
長序の礼を尽くされたことでも知られる。
そんなお二人の妹が細川綱利の正室・久姫(本源院)、松平頼重の養女として細川家に嫁がれた。これは将軍家綱の意によるものであった。
つまり、綱利は徳川家康の孫女聟であり、頼重・光圀とは義兄弟ということになる。
親しい交流を示す書簡も存在するようだ。

さてTVでおなじみの「水戸黄門」の助さん(佐々助三郎)が熊本へ入ったときは、綱利が色々便宜を図るように指示したようだが、熊本では唯一「日本紀竟宴和歌全二巻」(現・国指定重要文化財)を見つけ、「扨々見事成物ニ御座候」と大感激をしている。

  

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■肥後墳墓録-(1)安国寺

2023-12-06 07:04:37 | 掃苔

 「肥後墳墓録」とは少々大げさなネーミングだが、まずは熊本市内各地のお寺様に存在する、細川藩士関係ほかの
お墓のリストを作ってみようと思い立った。
なんといっても師匠・高田泰史Drの「平成肥後国誌」にお世話になる事になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、蒲生秀行供養塔  安国寺は細川家の肥後入国以前は弘真寺であったが、これは秀行の弘真院殿覚山浄雲大居士と
          いう法名からきているとされる。
          秀行女・崇法院が加藤忠廣室であり、亡き父を偲んで供養塔を建立したものであろう。
          崇法院の生母・徳川振姫の供養塔は、出町・往生院にある。
          

1、利休居士塔  江戸期の肥後在住の茶道関係者が建立したものである。   

1、有馬陣戦死各霊之墳
1、上総沖溺死者供養碑
1、小倉陣戦死者供養塔
1、東国戦死之碑

1、高麗門連招魂碑 神風連の挙に参加した地元・高麗門連の方々の名前が刻まれている。
          植野常備・平上平馬・上野継緒・小篠一三・山田彦三郎・西川正範・大石虎雄・
          小篠清四郎・高田健次郎・小篠源三・井上豊三郎・兼松群起・米良亀雄・兼松繁彦

1、宇野家        
1、加賀山主馬墓 加賀山家3代主馬首可政のお墓である。初代加賀山源左衛門は元・高山右近に仕える。3代は初代の三男。
1、兼坂家  細川光尚代の召出し。9代兼坂止水は  
1、朽木家  細川藤孝の実兄・三淵藤英の五男・昭長を祖とする熊本朽木家の墓地である。  
1、小林家
1、住江家
1、続家   
1、長束家  豊臣家五奉行に一人、水口岡山城主・長束正家を祖とする肥後長束家の墓地である。
1、沼田家  旧熊川城城主で足利家家臣、細川藤孝の傳役を仰せつかり細川家の根本家臣となった。
1、乃美家
1、益田家       豊前召出、二代弥一右衛門が有馬陳で実質一番乗りを果たし、1,150石を拝領した。 
1、町家(長曾我部) 長曾我部元親の二男・源右衛門を祖とする。長曾我部の「ちょう→町=まち」を姓とした。
1、溝口家  初代蔵人は細川忠利室保寿院の弟、小笠原家家臣・溝口家の養子とり綱利代の召し出し。
1、弓削家  

   諸家の説明については順次書き込むことにする。まずはリストのみにて・・・

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■細川三斎の葬儀と殉死者

2023-12-05 13:20:48 | 熊本地震

 正保2年12月2日に死去した細川三齋の葬儀は、今日12月5日に泰勝院(泰勝寺)で執り行われた。
施主である孫の光尚は、父・忠利については妙解時を建立して墓所としたが、祖父・三斎は三斎自身が建立した父・藤孝(幽齋)が眠る泰勝寺に葬った。

 蓑田平七正元、久野与右衛門宗直、小野伝兵衛友次、宝泉院勝延、興津彌五右衛門の五人の殉死者が出たが、この日、そのうちの二名蓑田平七宝泉院勝延がそれぞれの地で、殉死した。
その一人蓑田平七の介錯を頼まれたのが、当家初代の兄・磯部長五郎である。

   綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)では、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸(井門)文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿勤も有之、御暇申候も有之、熊本被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候

 【参考】
 正保二年十二月二日申ノ刻、於八代御城御逝去
    同  十二月五日、於泰勝院 今之泰厳寺之地、其節之泰勝院也 御葬礼有之、追々殉死の面々都合五人左之通
   ・十二月五日 蓑田平七正元(23歳)
   ・十二月八日 久野与右衛門宗直
   ・十二月某日 小野伝兵衛友次(25歳)
   ・十二月五日 宝泉院勝延
   ・正保四年十二月二日 於京都大徳寺 興津弥五右衛門景吉(54歳)
  

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■「季節柄の赤穂義士物」地図散歩

2023-12-05 06:58:35 | 地図散歩

              

 11月の史談会例会に、山鹿市にお住いで(財)中央義士会の理事をされているM様のご出席をいただいていた。
名刺交換をした後、ぜひ当会で赤穂義士に関わる講演をお願いしたところだった。
昨日、「切絵図・現代図であるく江戸東京散歩」を眺めていたら、巻末に近いところに「古地図で楽しむ忠臣蔵の世界」が4頁にわたり掲載されていたので見入ってしまった。

 私は中央義士会監修・発行の「赤穂義士の引揚げ」という書籍を持っているが、引っ越し以来、行方知れずのこの本をおおごとして捜索、ようやく見つけ出して久しぶりに拝見したという次第である。これも大変詳しく凱旋のルートが紹介されている。
頁をめくっていたら、「刊行に寄せて」に、先の山鹿のMさまが「山鹿も勉強します」という一文を乗せられていてビックリしてしまった。
山鹿は「堀内傳右衛門覚書」を著した堀内傳右衛門が、義士の遺髪を収めた日輪寺があるところであり、お話によると熱心な会員の方々が集まられて顕彰に励まれているとお聞きした。


 付けたし
赤穂浪士はこと成就して泉岳寺へ向かう途中、旧浅野家藩邸(現・聖路加病院一部)近くを通ったと認識していたが、どうやらこれは私の間違いで、当時あった「軽子橋」は廃橋となっており、これを渡った後対岸から旧藩邸を拝んだというのが正解らしい。直進すると築地本願寺である。
知らない土地ながらも、地図散歩はなかなか楽しい。

   

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■【公儀升之儀御觸書】

2023-12-04 07:34:38 | オークション
                                                           先年従(より) 公儀升之儀被 仰出候
                                                           以後尤何茂釣升用来候(刃)勿論也
                                                           然共古キ升未割捨有之由二候間
                                                           今度急度不残可割捨尤古升
                                                           雖不用若其儘召置候輩有之而
                                                           後日にも令(セシメ)露顕可處罪科之条
                                                           得其意可申付候也 付(つけたし)自今以後四斗
                                                           俵二可申付候是亦相遣於有之者(は)
                                                           同断可申付候已上
    
                                                                         延寶二年八月十一日
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