■並河志摩守氏則(宗為)
加藤家重臣、10,297 石で禅定寺の大檀越である。寛永7年7月25日歿。月秋院要津一玄。
宗為の嫡子である金右衛門(志摩守宗照)は、加藤忠広廣配流の後牢浪、のち土佐藩主・山内忠義に2000石で仕えた。
熊本に残った子孫は米村氏を名乗り細川家に仕えた。
■三宅角左衛門 ? ~1631
加藤家の先手三組の大将としての活躍する一方、特に普請奉行として活躍。築城工事については石垣つきの名人との評が高く、飯田覚(角)兵衛とともに加藤家の両角と呼ばれた。朝鮮役の際には豊後杵築城救援を命じられたが、渡海を望み出兵を渋って清正の怒りに触れ知行を召し上げられる。のち宇土城攻めの際に小西の勇将南条元宅との一騎打ちを演じるなど奮戦、この功により再び知行を得た。
「八代切支丹史」によると、当時角左衛門は八代奉行であり、加藤清正の切支丹迫害により殉教しのち列福した南五郎左衛門(シモン・ミナミ・ゴロザイモン)、竹田五兵衛(シモン・タケンダ・ゴヒョウエ)の二人の内、竹田五兵衛は心の友であり改宗を勧めこれがかなわぬと国外逃亡さえも勧め助けようとしたとされる。
■南條元清(元宅)
伯耆羽衣石(うえし)城主・南條元続の弟・元清。左衛門督のち伯耆守を称し、元宅と号す。初め伯耆岩倉城主、羽衣石城代。朝鮮役の際に甥元忠の名代として出兵したが、元忠の家臣の讒言により失脚、小西行長に預けられた。関ヶ原の際には行長の弟・行景の下で宇土城を守備、攻め寄せた加藤清正の豪将三宅角左衛門と槍を合わせた。小西家改易後は加藤清正に仕え伯耆守を称し、六千石を領した。
慶長19年(1614年)没、法名は「惟安元宅居士」。
■南條(藤八郎)元信
南條元宅の嫡孫。南条元宅は嫡子が病気であり嫡孫・藤八郎に跡目を継がせる意向をもって死去したが、側室の子作十郎周辺の者が動いて元宅の意向は成就しなかった。
藤八郎は加藤家を去り、細川三齋を頼り、「南条家は名高き家ニ付」の故をもって細川家(小倉藩、のち熊本藩)に「三千石可被下由ニテ被召抱」られ、「成長之上ニ而与五郎様御女お鍋殿を藤八郎へ被遣、五百石御知行御添被下候」
「於豊前御侍帳」には頭衆として「三千石 加茂 南條左衛門元信」とある。また鍋については「五百石 なべ 廟所禅祥(定)寺 忠興公御二男也長岡與五郎興秋女・南條大膳元信妻円乗院 大膳后改左衛門」と記す。「福岡県史・近世史料偏-細川小倉藩」所載の「日帳」によると寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が記載されている。「おなへ様御祝儀ノ御使者」が「御乳人」に書状を届けた記録である。この年内に結婚したのであろう。
元信については「藤八郎名を大膳と改め、其後御国へ御供ニ而罷越唯今木下屋敷被為拝領」と「藻塩草」は記す。寛永二十年(1643)細川忠興末子勝千代(三歳)を養子とする。元信は万治三年(1660)隠居、寛文九年(1669)キリシタンと疑われ長崎に送られたが無実で帰国するも、城内竹之丸質屋に留め置かれた。天和二年(1682)死去した。室・鍋は元禄二年(1689)まで長生きした。
■庄林隼人佐
隼人佐の先祖は粟田関白道兼の三男の従五位下丹波守藤原兼信にさかのぼるという。その一族小山権太郎兼凞という人物が足利尊氏の許で軍功を上げ庄林の姓を賜った。庄林隼人はその権太郎の後胤で加藤清正に召し出された。
一方、東京大学には、隼人佐について詳しく紹介する「庄林氏由来」という文書が存在する。
これによると、隼人佐は摂津国多田の人で高槻城主・高山右近に16年間奉公し、その後仙谷秀久につかえた。佐々成政が肥後国の治世に失敗して、小西行長・加藤清正がそれぞれ肥後半国を拝領した時、隼人佐は加藤家に仕えたとされる。天草攻めや文禄・慶長の朝鮮の役などで功名を上げた。宇土城攻めに当たっては「大手堀田黒門口は寄手一番侍の頭加藤百助持口也、武者奉行庄林隼人相添也 」という記録が残る。
庄林家資料としては「 庄林曽太郎家・先祖附」と「庄林氏由来」が存在するが、内容を異にしているのは生母を異にしていることによると思われる。
「曽太郎家・先祖附」によると、隼人佐の嫡男・淡路が病没したため、妹に益田家から婿を迎え明治に至っている。 一方「庄林氏由来」によると、初代・隼人佐は加藤清正の妊娠している妾を召し下され、男子であれば跡を継がせよとあったものの女子が生まれたので、これに後加藤与三右衛門の嫡子太郎平を養子となし二代目隼人(一方)とした。
この太郎平は中川壽林に育てられているが、父与三左衛門は亡き人であったのかもしれない。
又、太郎平の姉(妹?)おこうは、加藤清正の養子であった「百助=水俣城代」の室となり「若上様」と呼ばれた。
初代・隼人佐は加藤家の没落を悲しむように、寛永八年死去した。尚、屋敷は城内二の丸、現在の熊本県立美術館の場所にあった。
■庄林淡路
庄林隼人佐の嫡男である。(庄林曽太郎家・先祖附)
「熊本県史料・近世編二 p403」で忠利が三家老に宛てた書状
(初代隼人嫡男)庄林淡路相果候由不便成儀候 跡職知行等無相違隼人ニ遣候間可得其意候
いまたせかれ之事ニ候間縁者・親類之内萬事肝を煎申候而遣候様ニ申付可然候 左様之者無
之候ハゝ皆として申付可遣候 隼人(2代目)所へも跡職無相違申付段遣候事
(寛永十弐年)二月廿九日 忠利
尚、屋敷は城内二の丸、西大手門正面の場所にあった。
付け足し:2代目庄林隼人について
寛永九年、細川忠利の熊本城入りを案内した隼人は2代目である。翌十年に至り細川忠利によって召し出された。
寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
(綿考輯録・巻三十五)
正保2年に細川三斎が亡くなると、時の藩主光尚から召し放ちとなり熊本を離国した。