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読解と読書のやさしくない関係

2020年03月23日 | 教育ノート
 作家などがエッセイで、自作の小説や論考が大学入試の読解問題に取り上げられていて、その設問に対して所感を述べる(たいていは正解に対する疑問)ことがよくある。詳しい中身まで書いている場合が少ないので、ナルホドだから読解というのは難しいもんだね…といった結論になりがちのような気がする。


 『ちくま』4月号では、詩人最果タヒが連載でそのことを取り上げている。自分の書いたエッセイが入試に出題され、「あんまりに自分の文章が難しくて」と面白いことを語っている。著者と出題者の観点のずれはよく指摘されることだが、その相違を見事に言い切った一節があった。

 国語の読解問題とは結局は、「この文章が伝えようとしていること」とか「読み手が受け止めること」を問うのではなく、とことん「何が書かれていて、何が書かれていないか」を問うものであり、契約書をちゃんと勘違いせずに読めるか的な、そういう「正確な読み」を試験しているのだろうなと思う。P60


 確かにその通りと思いつつ、そういえば30年も昔、初めて3年生を担任して、最初の物語文の授業を思い出す。「想像の翼を広げる、豊かな読み」の子のお喋りを「そんなことはどこにも書いていない」と否定し、涙ぐませた未熟な教員だった。分析批評に手を出し始め、限定的で幅も余裕もない授業をしていたなあ。


 先日読んだ『本を読めなくなった人の~~』にも記述があったが、読書において「正しい読み」という視点は、実は一通りではない。個人に帰すると言っていいだろう。文章から読み取れるのはあくまで限定的であり、それを最果はこんなふうに記している。

 読書とは自分だけの正しさを見つける行為で、国語の試験は間違えないことこそが目的なのではないかなあ。


 わが師が言うところの「妥当さ」をどのレベルまで突き詰めていくか。読解の授業づくりはそこを一つの起点に置く必要がある。読解と読書は安易に結びつかないことを、今さらながら痛感する。