すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

呑み込まれつつ呑み込む

2024年12月14日 | 読書
 発刊は2006年。見逃すほど忙しかった頃ではないはずだが、関心が他に向いていた時期だったのか。Re94『詩の風景 谷川俊太郎詩集 すき』(谷川俊太郎 理論社)は子ども向けだが面白かった。先週読んだ『赤ちゃん・絵本・ことば』の中で谷川が朗読した「ひとりひとり」という詩を調べ、この詩集に行きついた。

 ひとりひとり違う小さな物語を生きて
 ひとりひとり大きな物語に呑みこまれる


 読み進めたら校歌の詞が5編あり、それもさすがの出来栄えだと思う。例えば「わたしがたねをまかなければ はなは ひらかない」「はみ出せこころ とび出せからだ」という歌いだし。「ごくふつう」の言葉をこれほど巧みに操る人はいない。自ら職人という形容もしたように思うが、作るべき像が見えていたからだ。



 何年振りか忘れるほどに久しぶりの、光のページェント


 拙著第二集の執筆途中にこの一冊に出逢った。つまり夏から読み出し、ようやくページをめくり終えた。しかし今もって、読了した心持ちは一かけらもない。ここらでまずは書名を記しておこう。Re96『不滅の哲学 池田晶子』(若松英輔 トランスビュー)。いったい何をもって「本を読んだ」か、が問われただけである。

 「正しい」読み方などというものは存在しない。けっしてない。(略)読書とは、知識を得る体験ではない。むしろ、知識を「無知」に高める体験である。

 この文章の意図するところを、どんな感覚で身に沁みわたらせるか。「仏教では、言葉の意味を『種子』に喩えた」という記述があり、ブドウを例にして著者は語る。「糧」としてのブドウを食べるためには、果実だけでなく、渋い皮も苦く固い種子も食す。そうすることで精神が培われていくという。吞み込めず苦労した。

生きるの宝石箱を見つける

2024年12月11日 | 読書
 図書館で、ある挨拶のための材料探しをしていたら、詩集の棚にB6版横型の本を見つけた。それはRe91『生きる わたしたちの思い』(谷川俊太郎with friends 角川SSC)。続編のRe92『生きる わたしたちの思い~第2章~』(同前)である。2008年、2009年の刊となっている。初期のSNS「mixi」から始動した。


 そこで、谷川俊太郎コミュニティが作られ、著名な詩『生きる』というトピックが立てられ、その詩をつなげていく試みが呼びかけられた。自分もやったなあと思い出したのは、このトピックの参加ではなく、担任していた教室で子どもたちに向けてだった。あの詩の持つ解放性、拡散性とリズムは、魅力的だった。

 
 「生きているということ いま生きているということ」…作者がその後に記したコトバを、失礼ながら例示と考えると、読者一人一人に湧き上がってくる「生きている」瞬間の切り取りが始まる。そのトピックへの書き込みが「すごいスピードで、それこそ破竹の勢いで(略)刻まれ」たことは想像できる。確かに熱を感じる。


 それはこの詩が、圧倒的に「体感」を表現するにふさわしい形式やリズムを持つからにほかならない。例えば、第2集の最後にある高校生の作品「生きる それは 頭の中一杯に 広がる 『腹へった』」。もちろん、長い一篇の詩と呼んでいいページもある。駄洒落っぽく「生きるの宝石箱やあ~」と形容したいほどだ。




 元アナウンサーを聴き手に行った講演会の記録Re93『赤ちゃん・絵本・ことば』(谷川俊太郎 NPOブックスタート・編)を読んだ。谷川が乳幼児用絵本に取り組むエッセンスがよく伝わる冊子。「声の言語」「無意味」「ナンセンス」…いくつかのキーワードがある。結論は、まず自分が声を出し楽しめるかとなりそう。

歴史は、その書名に

2024年12月06日 | 読書
 11月23日に行われた「野口芳宏先生 師道の碑」の除幕式と祝賀会への参加は叶わなかったが、賛同者として名を連ねたので実行委員会より当日発刊の著書が送られてきた。Re90『教師人生を楽しむ』(野口芳宏・編著 さくら社)。先生の自選論文集と、全国諸氏からの寄稿(野口語録、野口実践)で構成されている。



 自選論文にある随想、論考のどれもを記憶していると喜びながら、その教えがしっかり身についているかと言えば甚だ心許ない。浅学菲才はもちろんだが、コラムにある「素直さ」に欠けているのかもしれない。「秋田の子どもは素直だから学力が高いよ」…かつて師から掛けられた誉め言葉を複雑な気持ちで思い出す。


 見開きの形で紹介された「野口語録」と選んだ方の思いや解釈は、共感できることが多い。長い間に私も似たようなエピソードは限りなくある。身近に接した者であれば、先生の何気ない一挙手一投足に「あっ」と感ずる瞬間が必ずあるように思う。それは、講義や著書に向き合う時、見事に重なり蘇って心に残る。


 実践者、研究者のイチオシ「野口実践」も頷きながら読んだ。松澤正仁先生の記した「気持ちの良い敗北感」は、まさに私自身の出合いも象徴している。複数の方が書いた「幸福の条件」の道徳授業は、模擬授業はもちろん、自校で地域住民が参観するなか、飛び込み授業を行っていただいた思い出がいまだに印象深い。


 退職した翌年、研修会後の宴席スピーチで「野口先生と逢わなければ、こんなに楽しい教員人生は送れなかったと思う」と感謝を述べたら、先生が破顔一笑「嬉しいこと言ってくれるねえ、沼澤さん」と声をかけてくださった。似たような思いを持つ方はきっと数多い。だからこの書名は、多数の歴史の凝縮でもある。

あっち思ったりこっち見たり

2024年12月05日 | 読書
 Re87『魂のみなもとへ』(谷川俊太郎・長谷川宏 朝日文庫)5年前の冬に読んでいて感想を残してある。再読し付加しておきたい箇所が二つあった。一つは「子どもは駆ける」という詩に付けられた「駆ける子ども」の文章だ。かなりの頻度で幼い子と接しているからだろうか。やけに心に響いてくる一節がある。

「子どもが反復を厭わないのも、まるごとの体がいまを精一杯に生きているからだ。(略)いまという時間をまるごと生きるからだは、同じことを何度くりかえしても、そのたびに経験が新鮮なのだ。」

 「精神は反復をきらう」(ヴァレリー)から導くと自然、肉体は反復を好む。理解出来るのは、いかに子どもの精神が自然と肉体から分化していないかだ。ここに教育のヒントがある。さて、もう一つは「結構な死にかた」。これは谷川の詩「しぬまえにおじいさんのいったこと」に集約される。三つあるとだけ書いておく。





 雑誌連載集約のRe88『みらいめがね②』(荻上チキ・ヨシタケシンスケ 暮らしの手帖社)。副題は『苦手科目は「人生」です』…生きづらさという語が頻発されている社会での思考や振舞いについて率直に語っている。基本的に「虫の眼」で事象と言葉を見つめ、それが「鳥の眼」と呼応して鋭い「めがね」だと思う。


 以前から気になっていたRe89『その本は』(又吉直樹・ヨシタケシンスケ ポプラ社)を、目覚めの早い朝の寝床で一気に読みきった。又吉の「第3夜」「第7夜」は印象的だ。ヨシタケは、まさにワールド全開でもはや哲学的と言っていいかもしれない。「本」という物体の正体に考えが巡る。P137の工夫に驚いた。

「最後から二番目の…」という心地

2024年12月04日 | 雑記帳
 『最後から二番目の恋』…続編も含めてもう十年以上前のドラマだ。中井貴一と小泉今日子の主演で、鎌倉を舞台にした物語は本当にお気に入りだった。「事件」らしい出来事はほとんどなく、日常風景を織り込ませ中高年の恋模様を淡々と描いていた。脚本は岡田惠和。かの山田太一から褒める手紙が送られてきたという。


 極楽寺駅が印象的で、鎌倉観光をした折に立ち寄ったことが懐かしい。さて内容はもちろん、この「最後から二番目の恋」というタイトルが洒落ていた。実際にそんな台詞があったわけではない(と思う)が年齢設定からのイメージだろう。では、なぜ「最後」ではなく「二番目」なのか。そんな些末なことに気を留めてみる。





 「最後」の持つ本気度、切実感が、「二番目」と添えたことで多少和らぎ、それが肩の力の抜けた雰囲気に結びつくのだろうか。しかし、実際のところ、その恋が最後かどうかなど、神のみぞ知るである。もちろん、それは恋だけでなく、仕事や趣味、様々な目的行動に限らず日々の暮らし全てに言えるわけだが…。


 先日、段ボールに詰められて刷り上がった拙著が玄関先に届いた。性懲りもなく第2作目である。さっそく取り出して「これが、最後から二番目の本かあ」と呟いたわけではないが、夜に寝床でふいに思い浮かんだ。こう書くと誰かに「えっ、まだ書くつもりなの!!」とツッコミを入れられそうである。…予定はない。


 まとまった原稿がまだ残っているとか、新しいジャンルを計画中ということもない。従って実現可能性は高くないだろう。しかし今回の制作過程はそれなりに充実していたし、学びもあった。何より愉快だった。それゆえ、この齢になっても「最後から二番目の…」にしようかと後付けながら思えることの、この幸せよ。

冬に備える「ココロのヒカリ」

2024年12月03日 | 絵本
 三週続けて、こども園の読み聞かせに通った。今回は「紙芝居」を中心にしようと構想した。時期的にふさわしいと思い「てぶくろを買いに」は取り上げようと決めていた。原作とは少し異なり端折っている部分は惜しいが、初めて買い物にいく子ぎつねへ共感する子は多いだろうし、読み手としての安心感があった。




 もう一つは悩んだ。イソップや笑い話系統も考えたが、今回は久しぶりの宮沢賢治を選んでみた。「どんぐりとやまねこ」である。一種のファンタジー要素があるなかで、魅力的?個性的?な登場人物が惹き付けるのではないか。さらにどんぐりたちの諍いも面白い。園内での争い事を思い出す子もいたかもしれない。



 難しい言葉もあるが、子どもたちはじっと聞き入ってくれた。これも原作と違うとはいえ、賢治のもつ世界観のようなものが惹き付けているか。二作とも紙芝居装置のもつ「結界」の設定、演劇性に触れた気がする。長野ヒデ子氏は「体に響く」という表現をしているが、絵本より自分の声を自分で聴ける気がした。




 最後に「おまけ」という形で、谷川俊太郎・作、元永定正・絵の『ココロのヒカリ』を読み聞かせた。あの名作絵本『もこ もこもこ』と同一コンビの作だがあまり知られてはいないようだ。単純明快なデザインの絵に、子どもたちが見入っている様子が伝わってきた。さすがと思わざるを得ない。絵本の力を感じた。