百醜千拙草

何とかやっています

XX比べ

2022-09-20 | Weblog
キシダ内閣支持率29%というニュース。リーマンショックの時の株価の落ち込みよりもひどい急落ではないでしょうか。ま、当然の結果だと思いますけど、まだ、この味のない毒入りパスタを支持する人が三割近くいるというのが、むしろ驚きです。

経済対策にしてもコロナ対策にしても、ロクになにもしない。「しっかり考えたい」と言うだけ。これは、「責任を痛感している」とか「責任は私にある」と言うだけ言って、一切、責任を取らず、何もしなかった安倍よりもひどいです。

ようやく出した低所得家庭に5万円の補助もみみっちい。経済政策なのだから、一律に直接ばら蒔けばよいし、もっと良いのは消費税の減税をすればよい。こうした政府が直接国民の可処分資産を増やす政策は、もっとも簡単にできて時間と手間がかからないのに、あえて対象を絞ったりポイント還元のようなわざわざ手間がかかって非効率なシステムにしようとする。それは利権業者に予算の多くを中抜きさせるためでしょう。この自民党の利権体質は徹底していて、今回、支持率急落の直接の原因となった安倍の「国葬」でさえ、例の桜を見る会を仕切っていた業者にやらせるそうで、もちろん国会の承認も得ず法整備も無視して強行されるこのなんちゃって国葬に、組織票と引き換えにまだ予算総額さえ明らかにしない税金が投入されることになっています。ここまで国民をバカにして支持率が落ちない思っていたのなら、そうとなバカでしょう。

夏に帰省した際、田舎の保守的な親戚と雑談していて思ったのは、こうした従来自民党支持で、国の決定には不満があっても基本的に従い、秩序と和を尊ぶ人々でも、政権のやっていることがおかしい、間違っている、という認識は十分にあるということでした。それが支持率に反映されていると思います。多分、自民党はかれらの認識をかなり過小評価していたのではないかと想像します。昔の自民党政策の恩恵をうけてきた田舎はそう簡単に自民党を裏切らないとでも思っていたのではないでしょうか。私より一〜二回り上の田舎の世代でさえ、自民党政治の異常さは認識しています。まして私の世代以下でニュースに気をつけている人は言うまでもありません。

愚かな人は、どんな馬鹿げたことであっても一旦、口にしたことは撤回して謝罪してやり直すということができない、という性質があります。自分が間違っていると自覚しても、それを改めようとしないのが愚か者の特徴です。自民党政権がそれでしょう。

この「なんちゃって国葬」はもはや強行するしかなくなりました。何度か引き返すチャンスはあったのに、愚かなキシダ政権は自殺する道を選び、この支持率になっています。政権の自殺です。いや玉砕と呼んで欲しいですかね。

国民の大多数が反対する「なんちゃって国葬」、参加する人が少なすぎて、あわてて無差別に招待状を発行し、それに欠席や無視の意向を示す招待者のツイートなどが次々と拡散されています。面白かったのが、加計問題で国会で安倍に不利な証言をした元文部次官の前川さんにも招待状が届いたという話。この件で安倍政権は読売に陰湿極まりないデタラメ記事を書かせて、前川さんの人格攻撃を行い、証言の信憑性を貶めようとしたのです。どこの世界に権力を悪用して自身の保身のために一個人の人格攻撃を行うような陰湿な政権のなんちゃって国葬に参列する被害者がいるのでしょう。

その前川さんの東京新聞のコラム記事。
「戦前最も不人気だった国葬は山縣有朋のそれだそうだ。一万人収容できる会場に千人ほどしか来なかったという。安倍元首相の国葬(国葬儀)には最大六千人程度の参列者を想定しているそうだが、山縣の不人気記録を更新しないことが政府の最低目標だろう。、、、」

さて、同様に森友での不当国有地払い下げ事件で、詐欺犯に仕立て上げられて刑務所に収監された籠池さんには招待状は行ったのでしょうかね?あるいは、同じく安倍の関与を誤魔化すために公文書偽造を強要されて、自殺に追い込まれた赤木さんの奥さんには?

こうやって書いていると、安倍政権のXXっぷりが思い出されますが、それをなんちゃって国葬にするキシダのXXっぷりも相当です。
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リバイス

2022-09-16 | Weblog
ようやく二度目のリバイスを投稿しました。最近は、一回のリバイスでサックリ受理されることが少なくなりました。直近の論文を数本思い出してみましたが、全て一回のリバイスで通ったことがありません。そのリバイスも大抵、追加実験を要求されるので、実験に1-3ヶ月、論文の書き直しに1-2週間、投稿後の評価にさらに1ヶ月と一回のリバイスサイクルは2-4ヶ月ぐらいかかるので、二回リバイスを食らうとアクセプトまで最初の投稿から半年から一年はかかります。今回は5月に出したので、これでアクセプトになれば5ヶ月ほどでしょう。前回の論文もほぼ半年、その前のは一年以上かかっています。

近年は論文のデータ量も増えていますし、複数の専門にまたがっているという理由もあるでしょうけど、レビューアの要求はどんどん厳しくなってきているような印象があります。
ま、私はアカデミア研究の世界から、跡を濁さずに立ち去って、残りの人生は個人的な幸福を追求するつもりなので、もう何かを言う立場ではなくなる予定ですが、日本の政治と同じく、アカデミア研究の世界のシステムは、色んな面でもう限界でしょう。論文出版ビジネスの問題、研究商業化へのビア研究費の問題、レビューシステムの問題、中国産論文の問題などなど、山積みです。

ま、問題というのはどんな時代でもあるものでしょうし、これでアカデミアが終わることはないとは思います。しかし、何でも上がれば下がり、興これば亡びするのはこの世の常です。現にウチの研究分野は、20年前の最盛期を覚えている私にとっては、その盛り下がりようは目を覆うばかりで、おそらく今後も少なくとも十年は復活することは余程のことがない限りあり得ないと感じざるを得ません。(無論、先のことはわかりませんけど)そんな中でモチベーションを維持するのは難しく、研究という分野でモチベーションを失えば、基本的に終わりです。

人間の知的好奇心がまずあって、それから経済的欲、権力欲、名誉欲、そういった様々な欲に引っ張られて、近代の学問というものは発展してきました。人間はパンのみに生きるものにあらず、とは言いますけど、今の現状を見ると、まずはパンの確保ができなければ、好奇心もその他の欲も育つ余裕は生まれないのだろうなという感じがします。日本の学問的地位の低下も少子化も原因は明かで、一言で言えば、与党政府の凄まじいばかりの腐敗によって経済政策を故意の誤ってきたことでしょう。その他の先進国の政策と比較してみれば、日本が衰退するのに何の不思議もありません。政治によって日本は没落しました。その点から言えば、山本太郎の言うように、日本は政治を変えることによって復活もできるのです。それを阻んできたのは、民主主義に馴染めない他ならぬ国民でした。言うまでもなく、このまま沈没するのか、復活へと向かうのかは彼らの選択にかかっています。
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ゲームのコマ

2022-09-13 | Weblog
先週、昔の知り合いの知り合いの日本人研究者からコンタクトがありました。PhDの人で、特任教授という立場で某大学で研究されています。任期のあるポジションのようで、話の目的は、どうも想像するに将来、パーマネントの職に就くための戦略的なことに関する相談のようでした。まだ小学生のお子さんが二人いて、キャリア的には学位を取ってから十年、ビッグ ペーパー言えるものはなさそうでしたが自分で研究費は取ってこれているとの話。

大変だなあ、と思いましたが、実は十数年前の私のような立場です。客観的に振り返って見れば、その当時の私の状態では、研究者として今の歳までキャリアが続く可能性はかなり低かったと思います。私が今までやってこれたのは単に運がよかっただけです。しかし、若い時にはなかなか客観的に自分を見ることは難しいし、そもそも、人間は自己を過大評価するものなので、当時の自分は「まだまだこれからだ」ぐらいに思っていたのですから、深刻な認識のズレがあったと言わざるを得ません。今の私が当時の私にアドバイスするとしたら「子供もいるのだから、別の道を探した方が良い」と言っていたでしょう。もしも、早々と転職していれば、別の人生になっていたし、子供の人生も変わっていたでしょう。今は振り返って、後悔もありますけど、まずまず乗りきったと思えるので、結果オーライですけど、一歩まちがっていてれば、結構困難な状況に終わっていた可能性は高かったと思われます。

何とかなるかダメかは、やってみないとわからないし、研究にしてもビジネスにしても努力と成果が相関するというものではないので、必死で頑張れば道が開けるとは言えないです。やる、やらないを決めるのは最後は、本人の直感に頼るしかないと思われます。経験上、ギリギリの判断においては理性的分析的な判断というのはあまり当てにならないものだと私は思いますので。

研究を志し、大学院を含めて十数年の研究キャリアを積み重ねて、中堅に入りつつあるその方が、研究者として安定したポジションについて、思うような研究を追求しつつ、家族を養い生計を立てていきたいという気持ちはよく分ります。しかし、世界中でアカデミアの研究環境は20-30年前に比べて、悪化の一途を辿っていると思わざるを得ない状況です。ツイートのラインに出てくるアカデミック キャリアの悲惨な状況をネタにするアカデミア ジョークのツイートはあまりにリアルで笑えません。事実、アメリカやヨーロッパでは大学院生やポスドクでアカデミック キャリアを望む人は減少の一途です。

それで、私は質問された事柄に関して私の知るところと将来の見通しについて私見を率直に述べさせてもらいました。単純に考えて、限られたポジションと金を争い合う戦争という現実があるわけですから、一部の勝者と多数の敗者が産まれるシステムになっています。そんな中で家族の生活と将来を守り、かつアカデミア研究者としてのキャリアを追求していくことは、劇団の役者ほどではないにせよ、困難になる一方です。

彼の気持ちはよく分かりますし、耳ざわりがよくて希望を与えるような話ができれば良かったのですけど、心にもないことを言うわけにもいきませんし。話の中で彼は「戦う」という言葉を何度か口にしました。戦いに負ければ、彼の夢は失われ、家族が飢えるかも知れないのです。私は、競争によって勝者と敗者を作り出し、勝ったものには負けることへの恐怖を植え付け、負けたものには自尊心を傷つけて勝者への嫉妬を生み出すような資本主義の競争原理に基づく社会は、マルクスが言うように、歴史の必然によって将来には別の形態に置き換わると信じていますが、それには人類全体の成熟がまだまだ足りません。おそらく私や彼が生きている間におこる可能性は極めて低いと思われます。

理想は、資本主義のゲームの中でゲームのコマとして戦わされるような立場を避けつつ、自分の願望を実現し義務を果たして行くやり方を生み出すことだろうと思うわけですけど、もちろん、末端の我々にすぐにゲームのルールを変える力はありません。幸い今の私には、生死のかかった競争というものは勝っても負けても後味の良いものではないなあ、と思える多少の自由がありますけど、戦いの中にいる人に、そんな話をするわけにもいかず。

とりあえず、家族の健康と生活というのはトップ プライオリティだと私は思うので、それをまず考えるべきではないだろうか、という話をしました。
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生きがいについて

2022-09-09 | Weblog
休暇から職場に戻り、溜まった仕事をぼちぼちとやり始めました。休暇中はそれなりに楽しかったのですけど、職場の昔のルーチンに久しぶりに戻るのも気分が良いものです。遠からずここを離れる予定ですが、長年いたこの職場という居場所を失うのは残念です。

多くのフルタイムで働く人々に当てはまることだと思いますけど、大人になっての主な人間関係は職場を通じてのものだと思います。職場で顔を合わせて無駄話をする人々や、そこから進んで友人になった人々、それらの人々が現在の私の人間関係の9割です。仕事から完全リタイアした場合に、収入以上に失う大きなものが社会での居場所、つまりこの人間関係です。

今回の休暇中、子供が独立し、そしていずれ引退した後に何をして残りの人生を過ごすか、ということをいろいろと考えました。限られた時間、限られた体力と財力、限られた人的、社会的リソースの中で、どう満足した時間を過ごすことができるのかということです。何かを成し遂げたいとか出世したいとか勲章が欲しいとか胸像を作って欲しいとか国葬されたいとか、そう思うのは、結局、満足感や幸福感を得たいという欲求を外部に求めようとするからでしょう。極論を言えば、幸福というものは心の状態ですから、どんな状況にあっても幸せに生きることは(理論上は)できるし、また、人間、誰でも遠からず天国に行くことになっているのですから、残りの人生をどう過ごすかなど、悩むだけ時間の無駄なのかも知れません。

とは言え、人間ですから色々考えます。何かプランを立てることは精神衛生にも良いですし、日々を生きるモチベーションを上げると思います。かつて柳田充弘先生が書いていたブログはある時から「生きるすべ」というタイトルになりました。その時はどうして、そんな名前にしたのだろうと不思議に思いましたが、今は何となく理解できます。「生きるすべ」とは、結局、毎日を生きていく上での心のより所のことでしょう。「生きがい」というのとほぼ同意であろうと思います。つまり、生きることに対するモチベーションを上げてくれるものです。

25年ほど前の本で、福島大学の経営学者である飯田史彦氏の「生きがいの創造」というベストセラーがありました。これはその後シリーズになり「生きがいのマネジメント」「生きがいの本質」などと本が続きました。しかし、この本で述べてあることは経営学とは無関係で、内容は、いろいろな「生まれ変わり」や「この世以外の世界」や「物質を超えた生命」の存在を示唆するエピソードや証拠を集めた本です。

この時も、どうして「生きがい」は、この世を超えた世界の話と繋がるのかと不思議に思いました。「生きがい」は死ぬまで毎日を過ごしていくための心の拠り所と考えれば、この世にそうした心の拠り所を見出せない人もいるでしょう。ならば、この世を超えた世界を想定して、そこからこの世を見下ろしてみて、生きるモチベーションを得ようとするのもアリなのだろうと理解しました。かつて、生きるのが辛い時、私も昔の人と同じく死んで極楽浄土へ行くことを心の拠り所として日々を過ごしていました。そのうち死ぬ時がくるから、それまでの辛抱だとか思いながら。

そうやって、現世で手頃に「生きがい」が見つからない場合は、この世を超えた世界を考えることによって生きがいを創造する。死んだら終わりではないならば、老いて病んで死んでいく日々にも意味がある、と思えるということでしょうか。
生きがい、生きるすべ、は生きるための手段です。シニカルに言えば、生老病死の四苦を忘れるための暇つぶしと言っても良いかも知れません。生きる手段が「生きがい」なら、それでは、生きることの目的は何か、という疑問につながります。"人生の意味"はスヌーピーが犬小屋の上で空を見ながら思索する時の究極の問いであったなあと、漫画を思い出しながら、庭の椅子に座って私も考えてみました。そして結局、生きることの意味が何であるかは重要ではないと思い当たりました。多分重要なのは、その具体的な内容ではなくて、人間は生きることには意味があると思える気持ちそのものではないかと思いました。そして、誰もが生きているだけで意味があるということを、全ての人が認め合うような社会になって欲しいものだと思いました。
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アドラー心理学入門

2022-09-06 | Weblog
古本屋でアドラー心理学入門(岸見一郎)という本を見つけたので読んでみました。結局、アドラー心理学とは何かはよくわからなかったのですけど、どうも、いわゆる「成功本」に書いてあるような内容とオーバーラップしているらしいということを感じました。

この手の成功本で、私が感銘を受けたのはマイクロソフト ワードの開発者、リチャード ブロディーの書いた「Getting past OK (日本語訳 - 夢をかなえる一番よい方法」で、私は、この本から自分の人生のあらゆることの責任を自分に求めることの重要性を学びました。これはアドラー心理学においても重要視されている点だと思います。結果を出すことにフォーカスして逆算すればそういう結論に到達します。

加えて、二、三、興味深い記述があったので、ランダムに。
「人が根本的に理想として持っているのは「所属」しているということ、共同体に受け入れられているということである、とアドラー心理学では考えられています。しかし、このことは何もしないでただ受動的に受け入れられるというのではなく、積極的に受け入れてもらうということです(p112)」

人間の悩みは最終的に人間関係に行き着きます。人間が社会的動物ある以上、人間の心理は人間と人間との関係から生まれる心の動きのことなのかも知れません。日本人が定職をもち、高齢になっても働き続けることを尊いと思うのは、働くことによって、共同体への帰属を得やすいからではないだろうかと思います。一方で、働かないということに関する罪悪感情は何とかすべきだと思います。仕事以外での共同体づくりに日本人がもう少し上手くなり、遊んで暮らすことに寛容になれば、社会はより豊かになるのではないだろうかと思います。

「私がアドラー心理学から学んだことは、政治的なスローガンとしてではなく、実質的な意味での民主主義の重要性です。かつてナチスは近代の民主主義憲法の典型であるとされるワイマール憲法のもとで合法的に誕生しました。民主主義はこのように民主的な手続きを経て自殺することができるのです(p182)」

心理学を学ぶことによって、民主主義の重要性を知るということが、この心理学の特徴を表しているように思います。どこかの国に「ナチスの手口に学べ」と言った口と根性の曲がった老人がいましたが、この人は漢字を読むのも難がありました。そう思うと、教育、教養というのは大切だなあと思います。心理学も民主主義も繋がっているわけですから。
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大きな乗り物

2022-08-31 | Weblog
今日は短く。京セラの稲盛和夫氏、90歳で死去とのこと。
戦後、日本の偉人の一人であると評価しない人はいないと思います。一技術者から会社を起こし、独自の経営哲学を発展させました。通信業界に革命を起こし、業種を超えて日航の経営再建を指導、数々の著書を通じて、経営者のみならず、広く世の中を啓蒙した指導者の一人であったと思います。

近年、総理大臣から率先して「今だけ、金だけ、自分だけ」でもいうような風潮とは対極にある考え方によって、戦後の日本企業は発展してきました。稲盛氏が経営の神様になった最初のきっかけは、零細企業であった時に、技術者の夢を追求し、会社の成功を達成すること以上に、社員の生活の安定と幸福を満たすことの重要性を実感させられた事件からだろうと思います。社員が幸せでない会社は一時的には成功しても持続して繁栄することはないでしょう。一緒に生きる人々が幸せでなくて自分一人の幸福はあり得ません。衆生無辺誓願度 ですか、そうしたスケールの大きな人類愛とでもいうようなものがその経営哲学の基礎の部分にあるように感じます。

今の日本には、その大乗の思想とでもいうものが十分ではないようです。現在ほど、第二、第三の稲盛さんのようなリーダーが日本に必要な時期はないのではないか、と感じた次第です。
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働かなくても良い社会

2022-08-27 | Weblog
久しぶりに大阪に住む親戚と会って、軽い気持ちで時事雑談していて、日本の経済の低迷の話になりました。その彼は企業のサラリーマン、特別恵まれた環境にあるわけではありません。10年以内にやってくる定年退職後の年金生活、親の介護と自分の健康、子供の将来に日々不安を抱えながら生活する、ごく普通の人です。

ところで、今回、久しぶりに空港を利用して違和感を感じたのは、外国の空港ではあり得ないような多くの数の高齢の人々が至る所で人々の交通整理をしていることでした。外に出ると、街中は殺人的な気温と湿度と太陽光線で、5分と日向は歩けません。そんな中で、真っ黒に日焼けした70は超えていそうな男性が、警備員の服を着て至る所に立っています。これも外国では見ない光景です。

私は、父が早くに亡くなった後、母が一時期子供を養うために、朝早くからの肉体的に辛い仕事をやっていたことを思い出しました。父の会社経営はあまりうまく行ってはいませんでしたから、亡くならなかったら、遠からず会社を畳んでいたでしょうし、そうなっていたら収入のために夏の暑い中に警備員のような辛い仕事をしていたかもしれません。高齢になった自分の親が、生活のために肉体的に辛い仕事につく、ということを想像すると、苦しい気持ちになります。

それで、これが生活のためであるならば、高齢者が殺人的な暑さの屋外で肉体労働しないといけないような社会は異常だ、という話をしました。てっきり同意してくれると思ったら、彼は、それは真面目に働いて老後にしっかり貯金をしてこなかった方が悪い、というのでした。彼は一サラリーマンで、毎日コツコツ働いて生活する普通の市民です。だからこそ、真面目に働かず老後に苦しむ人は自業自得だし、まして不正に補助金や生活保護などを受け取る一部の人間は許せない、と考えているようでした。ま、この不公平感からくる気持ちはわからんでもないです。

しかし、誰でも今の世の中、一歩間違えれば、年老いてから炎天下で警備員をしなければならない立場になりかねないです。私も彼もそういう側の人間で、週に一日だけ働いて残りは公用車でスパ通いしているような市長や、レイプ事件を握り潰して昇進したがヘマで辞任しても退職金8000万円の警察庁長官や、コンサル料一声5000万円の元オリンピック組織委員理事のような人間とは対極の立場にいるのです。彼の「不公平感」は、なぜか、デタラメをやってはそのツケを庶民に負わせる支配者層には向けられず、同じ労働者クラスの同胞に向けられているようでした。

彼が感じていると思われる、一生懸命働いて生活している自分たちと、真面目に働いてこなかった人が、同じ扱いを受けるのは不公平だと思うのは理解できます。また一方で、彼は真面目に仕事をして生活して収入を得ていくことは尊いことだと信じているようです。多分、多くの日本人は真面目に働いて経済的自立をするということは尊く、仕事は自立した大人のアイデンティティーの大きな部分だと考えていると思います。しかし、こうした考え方は、一方で、安定して金を稼げない人間の価値は低いとか、障がい者は社会のお荷物だとか、というような短絡的で愚かな思考を正当化する根拠にもなっている場合があると思います。そういう主張をする人は、誰でもいずれは、仕事ができなくなって、金を稼げなくなり、他人の世話にならないと生きていけなくなるという現実を、深く考えていないのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、私は、人々が遊んで暮らせる世の中を目指すべきだと思っています。結局「仕事をする」ということは、「金を稼ぐ」とか「誰かの役に立つ」とかという実利と結びついているので「遊ぶ」こと以上の意義があると思われているかも知れませんけど、「暇つぶし」であることに変わりはないです。生活に必要なものやサービスは、機械化やAIで非常に高効率でまかなうことができるのです。そう思えば、世の中の仕事で必要不可欠な仕事は2割ぐらいでしょう。6割はあってもなくてもいい仕事、残りの2割はない方がよい仕事というような構成だろうと思います。

だから、政府が、本来やるべき仕事をし、格差の是正と富の再配分を然るべく行えば、社会を維持するのに絶対に必要な2割の仕事を分担して、週に1日働けば最低限、生きていくに十分な収入が得られるような社会を実現するのは可能だと私は思います。残り8割の時間は、思い思いに遊んだり、ボランティアをしたり、芸術活動やスポーツをしたり、いろいろ学んだり、学問的活動をしたり、科学研究や技術開発などの人間的で創造的な活動に充てば良い。また、週に7日働いても働き足りないというような仕事が好きな人は、沢山いますから、そういう人は好きなだけ働けば良いです。一方で、仕事は嫌いだが生活のために自分の時間を売っているという状態であるならば、それは不幸です。そういう面白くない仕事に就いている人はできるだけ少ない労働で生活ができる世の中になって欲しいと思います。そして、ない方がマシな仕事、例えば二束三文で仕入れた壺を高額で売りつける仕事とか、を生活のためにしているような人がいない世の中であって欲しいと思います。

高齢者が生活のために炎天下に警備の立ち仕事をしなければならないのであれば、それは政府が無能です。それどころか、自民党政権は、組織票をもつ企業やカルト団体を優遇するために、消費税という悪税で、持たざる者から厳しく取り立てて、持てる者を優遇することで、格差を広げ、景気を減退させてきました。これは怠慢とか無作為とかいうレベルではなく、悪意を持って意図的に一般の人々を弾圧してきたと言って良いでしょう。
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老後の孤独

2022-08-26 | Weblog
休暇中でもお構いなしにやってくるレビューの依頼を、片っ端から断る快感といったらないですね。全くの駆け出しの頃は、どんな雑誌からでも依頼を受けたら嬉しかったものでした。仕事を評価してもらえて業界の役に立てたと感じることで、承認欲求が多少満たされたということだと思います。

しかし、一つ多分一年前ぐらいにレビューをした論文のリバイスが再投稿されたので見てくれというメールがあり、これは、流石に引き受けないとまずいだろうと思い、とりあえずRebuttalを見ました。比較的新しいN誌グループの雑誌で、N紙 > N紙姉妹紙 > NC と段階的に落とされたが、SRや他の系列の無名雑誌には行きたくないという著者のニーズをを拾い上げるための雑誌です。論文そのものは、流行りのオーガノイドとオミックスを組み合わせた研究で、データは多いのに結論はパッとしないというよくあるパターン。オミックスデータを色々弄ってパッとしない結論をあたかも意義があるように見せかける「目眩し」戦法を取っているのですから、Rebuttalも推して知るべし、東大霞ヶ関論法も真っ青の論点ずらしと言い訳の嵐、Rebuttalだけでシングル スペース37ページ、論文そのものより長いです。大体、Rebuttalの始めの一ページを割いて、この論文の意義とレビューアに「誤解」を招いたことを釈明している時点で勘弁してくれという感じ。まるで自民党議員の言い訳を聞いているようで、もうレビュー拒否でいいか、と思い始めました。このレビューアをうんざりさせて、読む気を失わせ、一種の洗脳状態に持ち込む、目眩し戦法は実際に有効なので、こういうことをする著者がいるのですけど、やめて欲しい。人の時間を何と思っているのでしょう。国会で「イエスかノーでお答えください」と聞いているのに、延々と前置きを喋って時間を潰し最後まで質問には答えない「安倍論法」のようだ、と言えばさすがに言い過ぎですが。

さて、今回の休暇の主な目的は家族のことです。老いていく親との時間が限られていることが徐々に肌身に感じられるようになったこと。実母に関しては施設暮らしは一人ぐらしよりも過ごしやすいようで、安心はしています。実家に一人いて、昔のガラクタに囲まれて親と一緒に過ごした頃をつらつら思い出すと、もう今更どうにもできませんが、数々の親不孝の後悔に心が痛みます。
義父もしばらく前から一人暮らしですが、近くに家族がおらず、認知症も始まっているのに、集団生活は難しいという難しい状況が続いております。
核家族化し、仕事によって土地を離れる子供のために、親世代は孤独になっています。親の世代までは親戚同士が近所に住んで、交流し助けあっていました。私の子供の頃は盆暮正月には親類の子供がわやわやと集まり楽しい時間を過ごしたものでしたが、我々の世代は核家族化して全国各地に散ってしまい、すっかり繋がりも細くなりました。そんな中で、実家で一人暮らしする親世代が増えています。
年老いて、連れ合いを無くし、家族から離れ、仕事からは引退し、交際する友人もいなくなって、孤独な日々を過ごすということは、若い人であれば、独房に入れられるのと同様の苦痛ではないだろうか、と思います。

今回、親を見ていて、後悔と共に、遠からず、自分がそういう立場になるのだということを実感しました。昔から、一人でいる方が好きでしたが、高齢になり、孤独を選択するのではなく強制されるようになったら、どういう気持ちで日々を送ることになるのかは想像がつきます。その時に、孤独そのものを防ぐことは困難だろうという予測はあるので、孤独でも大丈夫なように生きる戦略を自分なりに考えようとしています。

ま、そもそも人間は孤独なものであります。であるからこそ、人間は、仕事を含めて「気晴らし」や「暇潰し」が必要なのでしょう。本来、孤独な存在でありながら、孤独に恐怖するのが人間です。死ぬとわかって生きているのに死ぬのが怖いのが人間で、この肉体を持つ孤独な精神の感情というものは、なかなか、御し難いものだと思います。
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暇を潰す

2022-08-20 | Weblog
実家に一人帰っての休暇中です。といっても、これまでと違い、実家には私一人です。一人ぐらししていた母は、昨年、大腿骨頚部骨折の後、実家で一人暮らしは不可能ということで、妹の嫁ぎ先に近いところでの施設生活。コロナのため、施設の面会も制限がかかっているので、会いにいくこともできず、結局、実家で私一人、手持ち無沙汰の日々を送っております。

用事のない日は、朝、起きて、朝ごはんを食べて、洗濯、掃除をしてコーヒーを飲んだら、もうすることがありません。TVは30分と見ていられませんので、メールとTwitterでニュースを確認しても30分。仕方がないので、図書館まで行って、読書をしたり昼寝をしたりして過ごし、ブラブラしながら買い物をしながら、帰って晩御飯を食べて、また本を読んだりして、1日が終わります。中学生の頃もこんな風に時間を過ごしていたなあ、と思い出しました。当時はネットもないですから、時間を潰すのは読書。と言っても無限に本がある訳ではないので、同じ本を何度も読み返していたのを思い出しました。
当時と今との違いは何か、と考えると、それは「将来の可能性への希望」でしょう。しかしながら、当時も今も、時間を持て余してやることは「気晴らし」の「時間潰し」であることには違いありません。
例えてみれば、デートの約束の1時間前に着いてしまった時のような「希望のある時間潰し」とデートが終わって、帰りに乗る電車が1時間後だった時のような「時間潰し」の差でしょうか。そして、それでは楽しいデートの時間は何だったのか、と思うと、やっぱりそれも「暇つぶしの気晴らし」に過ぎないのでした。今回の休暇が終わった後、今後、死ぬまでの時間をどのように過ごすべきかなどとぼんやり考えていました。そういうことを考えながら暇を潰すのもアリだなあとも思います。

結局、どんなに有意義に時間を過ごしたと思ってもそれはやっぱり暇つぶし、時間の無駄と思うような過ごし方をしても、やっぱり暇つぶし。一歩、離れて眺めれば、人生とは暇つぶし以外の何ものでもないのだなあ、と新ためてスッキリした気分になりました。ならば、どんな人生でも生きているだけで尊いのです。思うがままに自由に暇を潰せばいいのだ、と思い直して、今晩は冷奴をつまみに酎ハイでも飲んでちょっと酔っ払うことにしました。
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お盆

2022-08-16 | Weblog
今年のお盆、法事や親戚の付き合いで忙しくしていました。この1週間のことを思い出して、キシダの内閣改造のことと、オリビアニュートンジョンのことを書いていたら、なぜか、全部消えてしまいました。

再び書く気がなくなったので、キシダ改造内閣に関しては、「呆れ果てるほど愚か」あるいは、「誰も真意を読み取れないほど深い」のどちらかであろうという感想にとどめておきます。今後、どうなるのか読めませんけど、三年の無風があるので、いつものように適当に誤魔化せば、国民は統一教会のことも忘れるだろうし、消費税増税を断行して国民を貧困層と支配階級に完全分断して抑えつければ、独裁政治で思うがままだとでもタカを括っているのかもしれませんが、足元を掬われて次の選挙まで保たないような気もします。いずれにせよ、驕れるものは久しからず、自民党が壊滅する日はそう遠くないと思います。これほど無能で邪悪で不誠実な党が与党であることがそもそもあってはならないことですから。

オリビアニュートンジョン、乳がんで死去のこと。昔の歌手はTVやラジオの歌番組が娯楽だった子供時代を懐かしく思い出せます。綺麗な外国のお姉さんが美しい声で歌う「そよ風の誘惑 (Have you never been mellow)」は子供心に衝撃的でした。その後、GREASEの大ヒット。さらにエアロビクスブームの時のPhysical、とイメージチェンジごとに大ヒットを飛ばしたのを驚い見ていたのを思い出します。ま、それ以上には、何の思い入れもないのですけど、お盆ですので、故人を偲んで。

HAVE YOU NEVER BEEN MELLOW

YOU'RE THE ONE I WANT (GREASE)

PHYSICAL
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アダムとイブ

2022-08-09 | Weblog
毎日、毎日でてくる統一教会と自民党の不純交友関係に関するネタ、すごいですな。
貧しかったころの韓国で資金集めに苦労していた統一教会が金ズルとして日本を始め欧米諸国に進出したわけですけど、政治に取り入っていく入り口が「反共」であったという話。教祖は北朝鮮で生まれ、南北分割によって故郷を失い、「反共」となったという話ですけど、その辺りの理屈が私はちょっと理解できません。結局は、戦勝国だったアメリカとソ連が朝鮮を二つに分けることになった結果ですし、そもそもその原因を作ったのは大陸を侵略した日本でしょう。とすると日本や米ソへの復讐は理解できますけど、共産主義に反感を持つ理屈はなんでしょう。共産主義というよりスターリンの独裁政権に対する反感でしょうか?

いずれにしても、その真の目的を隠して文鮮明は「反共」の名の下に、アメリカによる日本の間接支配を任されていた安倍の祖父、岸信介に接近し、以来、密かに、しかし深く自民党に巣食うこととなります。

ふと、ベルリンの壁崩壊の記念として描かれた、ソ連のブレジネフとドイツのホーネッカーが、熱烈なフラタニティー キスを交わす壁画を思い出しました。これ、文鮮明と岸信介におきかえれば、とっても気持ち悪くなります。




しかし、自民党がここまでカルトと癒着していたというのは驚きですが、次から次によくもまあ出てくるものです。政権に首根っこを抑えられてきたNHKでさえ、一月遅れの及び腰ながら、ようやく自民党と統一教会の黒い関係を報道し出しました。安倍が殺害されたがゆえに、新たに明るみに出た自民党の深刻な腐敗、しかも安倍自身がこのカルト団体の組織票を割り振って党内の権力を維持していたと言う話。とことん腐りきっていた安倍と自民党。なのに、この国賊を国民の半数の反対を押し切って違法に国葬だそうで、自ら墓穴を掘るキシダ。まだ自民の本性を理解できず自民を保守国民政党だとでも思って支持している国民とキシダのバカ比べとなってきました。

統一教会問題が大きく騒がれたのは20年以上も前、てっきり弱体化したから報道されなくなったのかと思えば、実は政権の中枢に入り込んで共生することで、組織票の見返りとして自民党の庇護のもと、変わらず壺商法で日本人被害者を出し続けてきたという驚きの内容。報道されなくなった理由は「政治(自民党)の圧力」。もう自民党は解党するしかないレベルです。この統一教会ネタは当分、止まらないし、これで国民が目が覚めないようなら、この国が滅ぶのも自業自得と言えるでしょう。

ところで、その統一教会ですが、韓国はアダムの国で日本はアダムに仕えるイヴの国だという教義をもっているらしいです。ま、それで日本人から壺商法でカネを巻き上げて貢がせているのを正当化しています。一方で、「かつて韓国を植民地にした日本は韓国の兄貴分で対等ではなく上位。韓国を指導しないといけない」と目玉が飛び出るような低脳発言をしたのが、やっぱり安倍派の自民党議員でかつて衆議院副議長もやったという衛藤征士郎。自民党議員のクソっぷりには驚きませんけど、こんな人間が議員とは、もう恥ずかしくて死にそうになりますな。バカとかクソとかいう言葉を使うのは気が引けますけど、他に適切な言葉が見当たりません。

ところで、話題変わって、どうでもいい話。一日十分のフランス語学習、まだ何とか続いていますが、フランス語特有の前置詞の変化というのは厄介なものの一つです。例えば、「J'habite en France(私はフランスに住んでいます)」と言う文でのフランスの前置詞は「en」で、イタリアもドイツもロシアでも前置詞は「en」ですが、日本は「J'habite au Japon」で前置詞は「au」となります。カナダやポルトガルも「au」しかし、韓国は「en Corée du Sud」で「en」です。
このように前置詞が国によって変わるのは国名の性別が異なるからで、「en」は国名が女性名詞の場合に使い、「au」は国名が男性名詞の時に使われます。とすると、「日本」は男性名詞、「韓国」は女性名詞ということで、どっちかというと日本がアダムで韓国がイブの方が統一性があって良いのではないか、とふと思ったのでした。ちなみに国名が複数形である国、アメリカ合衆国とかフィリピンとか、の前置詞は「aux」となります。

明日から休暇をとるので、更新は不定期になるかも知れません。

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右と左

2022-08-05 | Weblog
参院選の前、スタンドアップ コメディアンの清水宏さんが「れいわ」の応援演説の時に、今、国は、保守とリベラル、右と左に分断されているのではなく、上と下に分断されていて、多くの国民は右翼ならぬ下翼なのだ、という話をしていました。

まさに、その通りだなと思います。金持ちか金を持っていないか、搾取する側かされる側か、支配者側か、支配者に使われる側か、そうした上下の関係で分けられています。そして国民の大多数が下翼という一億総下流時代ですけど、少数の上翼、支配者層、金持ち層は、政治家と結託し、メディアをコントロールして、圧倒的多数である下翼同士での対立を作り出し、彼らの団結を阻む「分断統治」の戦略をとっています。下翼同士の中で、小金持ちと貧乏人へとさらに階層分けして対立させ、下には下があると思わせて上に対する不満を反らせているようです。下翼の下層に属する人々は救われません。彼ら自身が社会のこの構造によって、下層に釘付けにされていることを感じているでしょう。そんな現実に希望が持てない彼らが、惹かれるのが「日本スゴイ」妄想、その延長としての右翼的思想、であって、結果として恵まれない人々がネトウヨ化していくのではないかと想像します。こう想像するのは、今回の安倍殺害犯、山上容疑者の供述や手紙やツイートからです。

かつて大勢の日本人が「普通」と考えていた人生、大学生活を楽しみ、卒後は就職し、結婚して家庭を作り、ローンで家を建て、週末は飲み屋で上司の愚痴を言って憂さを晴らし、定年まで働いてから、退職金と年金で老後を過ごし、余った年金で孫におもちゃを買ってやる、というような生活、このうちの何一つも叶わぬまま、孤独に年を重ねてアパートの一室で孤独死に至るような人々が増えているようです。30年の政府の誤った経済政策のために、人々は前世紀の後半の頃には普通と考えられたような人生を送ることさえ難しいという国になってしまいました。そして、恵まれない人々の人生は、山上容疑者のように、自分では如何ともし難い出自や環境によって人生の早い段階で決まってしまい、そこから自力で挽回するのは極めて難しい状況にあります。

現在、山上容疑者に減刑の嘆願署名が数多く集まっているようですが、これは大勢の人が彼の境遇に同情し、彼の苦しみを共有してたことに加え、彼と全く真逆の立場にあった被害者に対する怒りの表れではないでしょうか。恵まれた環境に生まれたにも関わらず、その地位を利用して我欲と党利のために、数えきれぬ犯罪的行為を重ね、国家の根幹たる原則を破壊し、統治機構を腐敗させ、ここまで国力を衰退させた男と、その男が票のために協力していた反社会カルト宗教団体に人生を破壊されて下層に追いやられた加害者という関係です。法治国家ですから、どんな理由があっても無法な殺人は許されないことですが、その殺人に至った動機を理解するのは困難ではありません。

脱線しましたが、その恵まれない人々、下翼の中の下層にいる人々に対して、国は何もしません。そういう人々がいる方が国は都合が良いのでしょう。その救いのない生活の中で彼らがすがる希望の一つが、「日本スゴイ」妄想ではないかと思います。そんな人々が、やがて日本版中華思想や右翼思想に馴染み、ネットでヘイト発言することで憂さ晴らしをする「ネトウヨ」と呼ばれる人々へとなっていくのではないでしょうか。
勝手な想像で言わせてもらうと、ネトウヨという人々は、保守系政党の右翼寄りの人々、安倍のような人間が好きなのでしょう。事実、山上容疑者は、統一教会との繋がりを知るまで、自身をネトウヨと自称し、安倍政権を支持していたそうですから。

ところが、安倍は保守でもなければ、真の右翼ではありませんでした。極論すれば、国や国民のことなど何一つ考えていない、金と権力のためで右翼で保守のフリをしていただけの利己的な詐欺師に過ぎず、ネトウヨの皆さんやその他の政治に興味のない人々は、単にこの男や自民党に騙されて利用されていただけだったというのが、正しい解釈でしょう。事実、右翼団体、一水会は、今回の統一教会と自民党の癒着を厳しく批判しています。三島由紀夫は自決前、2.26事件の首謀者の霊がついていると言われたそうですけど、ひょっとしたら山上容疑者には三島の霊がついていたのかもしれません。

また脱線してしまいました。本当は、保守とリベラル、右翼と左翼、Pro-lifeとPro-choiceというような形で政治的、思想的スタンスを色分けすること自体が歪みの元なのではないか、という話をしたかったのです。

私は自分では「保守」的だと思っており、政治は保守的に進めるべきだと考えています。憲法も法律も、まず遵守してみて、都合の悪いことがあれば、必要に応じてボトムアップで変えていくべきだと思っております。その点で言えば、三島由紀夫や安倍は戦後憲法はアメリカが日本に押しつけたもので、変えなければならない、とラジカルに国の精神から変えていこうと主張していたようで、こうした右翼的思想は保守ではなく、むしろ「革新」と言えるのではないかと思います。

私は、リベラルかと言われたら、違うと思いますが、リベラルの人々が持つ価値観の多くは共有しているものが多いと思います。私は、夫婦別姓も同性婚も賛成です。それは憲法に基本的人権の尊重が謳ってあるからです。保守であり国根幹である憲法を守ることを第一の原則におくならば、夫婦別姓も同性婚も認められなければならない、と私は思います。夫婦別姓であるとか同性婚を認めないということは「違憲」であると考えています。

右翼の正確な定義を私は知りませんけど、日本という国が優れた特別な国であるとの信仰をもとに全体主義、国家主義を主張する人々が右翼だとすると、私は右翼ではありません。私は保守的ですから憲法にある基本的人権は、尊重されなければならず、それを国家が侵してはならないと思います。左翼というのもどう定義されるか知りませんが、一般に「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」と考えられているようですから、その点からすると、私は左寄りの保守でしょうか。

そもそも、このような分類に意味はないのでしょうけど、分断を煽ったりするには都合が良いのでしょう。一般に保守政党と言われていた自民党ですけど、私のこうした考察からすると、小泉以来の自民党は「保守」政党ではないし、三島同様に改憲を望む安倍自民党は、右翼でもない。三島の改憲はアメリカ植民地からの自立を願ったものでしたが、安倍自民のそれは単に彼らの権力の増大のためだけのみみっちいものでした。事実、安倍はアメリカ大統領には下僕のようにゴマを擦る対米自立どころか、植民地の番頭だったわけですし。

今の自民党は自党の利益のためには何でもする「カルト政党」という言うのがより正しいと思います。右翼的思想を利用するのも反社会集団と堂々と手を組むのも、政治を単なる金と権力を得る道具としているだけで、彼らは「政治家」ですらないと言えるでしょう。反社会的カルト集団は、統一教会も自民党も権力に近寄らせてはなりません。
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シシュフォスの壺

2022-08-02 | Weblog
論文のリバイスの作業しており、まもなく投稿できそうです。
投稿したのはアメリカヒト遺伝学学会機関紙が最近作った新雑誌で、インパクトファクターはまだありません。この雑誌が将来的にこの分野でどのような位置付けになるか不明ですが、(われわれの論文のように)親雑誌にリジェクトされた論文の受け皿となるならば、中堅雑誌と呼ばれるぐらいには育つのではないかと思います。私にとっては、こうした論文をチマチマ書くのもこれが最後かもしれないので楽しみながらやってます。

この論文は、臨床、病理、臨床遺伝学、実験遺伝学と3カ国、4グループの共同作業で、連携がなかなか難しく苦労しました。臨床データにも遺伝学データにも実験データにもそれぞれに難があるので、盗塁と送りバントと犠牲フライで一点を目指す戦略を取らざるを得ず、欠点をデータの厚みでカバーするというスカッとしない論文です。内容的には小さな論文なのに、この出版戦略のおかげで、Supplemental documentは30ページ近くになってしまいました。例えれば、美味しくないのに見た目と量だけはあるパスタをひたすら喰わせて、レビューアーの闘志を奪い、時間切れ優勢で判定勝ちに持ち込むという感じですか。

料理でいえば素材の味を最大限に引き出し、一口で唸らせる一品、テニスで言えばライン上に突き刺さるダウン ザ ラインのパッシング、野球で言えば、ライナーホームラン、研究を志したときはそんな論文を書いてみたい、と思っていましたが、結局は、無限パスタ、ロブの応酬、送りバントで終わりそうです。

ま、それでも手間と時間をかけた研究の成果を論文という作品にまとめるのは楽しい作業です。少しずつ進歩しているのを実感できるというのは精神衛生上いいです。

人間、精神を最もやられるのは意味のない作業を強いられることらしいです。共同研究で協力した別のグループが、非常に面白いデータを出して、一年ほど前、N紙に論文を投稿しました。その頃、レビューアに山のような理不尽な実験を要求されたと聞いて以来、進捗を知りませんでしたが、つい最近、筆頭の人から、二度のリバイスにも拘わらず、結局リジェクトされて、振り出しに戻ったと聞きました。この一年ほどの間に、おそらく数々の実験を行い、原稿を書き直ししたはずですが、あいにく、こうした苦労は報われることなく、シシュフォスの岩のように、また麓まで戻ってしまったのです。

良い作品にしようと努力することには意味があると思いますけど、本来、面白い研究の成果を広く、人に知ってもらいたいと思って書いた論文を、一年に渡る努力の末にリジェクトされるというのは精神にくるでしょう。結局、この面白い知見はいまだに人々に広く知られることもなく、よってこの分野の進歩にまだ寄与することもないという状況にあります。

ところで、サイエンスというものが急激に発展したのはこの100年ほどのことですけど、何事も始めがあれば終わりがあります。私の分野はそもそも細胞外基質蛋白を研究していたグループの人々を中心に始まり、細胞生物、シグナル伝達、関連する疾患を研究する臨床や遺伝学の人々が集まって、80年代ぐらいから発展しはじめて、多分2005年ぐらいにピークを迎えました。その後、2011年に関連する主要疾患に広く使われてきた薬のパテントが切れて以降、急激に分野の縮小が始まりました。こうなると、いくら学問的に面白い疑問がいろいろ残っていたとしても、資金の獲得もビジネスへの展開も困難になる一方で、人々は去っていき、人が去ればさらに研究レベルも落ちていくという負のスパイラルに入っていきました。極端にいえば、私の研究分野は「オワコン」というやつです。一部の人は今後も残ってそれなりに活動してはいくのでしょうが、最盛期を築いた人々はすでに多くが実質的に引退し、若い世代は育たずで、分野がかつてのような賑わいを取り戻すのは難しいと思います。私はそもそもこの分野の中でもマイナーなテーマでやってきたので、この分野に対する使命感も愛着も特になく、年々厳しくなる規制や資金繰りもあって、楽しく思うことよりも虚しく思うことが増え、潮時だとつくづく感じたので、アカデミア研究から足を洗い、違ったことをすることにしました。長年、家族に迷惑かけてまでやってきて、それだけの価値がある仕事だと数年前までは思っていましたが、今は「洗脳から解けた統一学会信徒のような心境」といえばちょっと言い過ぎですけど、ま、壺の価値などあって無いようなものだ、ということをあらためて実感しております。今後は、壺は眺めるだけにして、何か別のことを学んで新しい経験し、死ぬ時まで楽しく日々を過ごせたらよいなあと思っております。
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権力闘争と消費税

2022-07-29 | Weblog
統一教会で埋め尽くされたツイッターは終わるところを知らず、おかげで参院選前から随分長らく政治関係の話題になってしまいました。今後はこの手の話を減らしたいと思っておりますが、その前に、ちょっと前に消費税と派閥の話をしたので、今後、キシダ内閣が転覆することなく継続した場合に何が起こるだろうと考えたので書いておきたいと思います。もちろん、予測などというものは意外な形で裏切られるもので、だから世の中は面白いとも言えます。

結局、日本の政治というのは、国民と国のために行うべきことでありますが、政治家自身の権力闘争がほとんど全てです。だいたいエゴが大きく権力や金銭欲が強い人間が集っていますからそうなります。与党においては権力闘争に勝利するために起こるさまざまな策略が政権人事や政策を決めていると言っても過言ではありますまい。そのような、山本太郎が言うところの「永田町の論理」は本来の民主主義国家で論理的になされる国家運営とは程遠いものであり、論理というよりむしろ不条理そのものとさえ言えます。永田町界隈に詳しい記者や評論家はそうした視点からも、今後の政治を予測するわけで、今回はその辺を含めて床屋政談をやってみたいと思います。

納税は憲法で定められた国民の義務ではありますが、国が徴税する目的は、財源のためではない、という話を参院選前にしました。お浚いすると、徴税の目的は、景気の安定化、経済格差の是正、政策的目的(例えば喫煙率を低下を目的に煙草の効率な税金をかけるなど)、そして通貨の固定、です。「徴税によって財源ができて国民サービスが行われている」という概念を国民が信じてくれることによって、本来、口座のタダの数字であったり、紙切れに過ぎない日銀券に一定の価値と信用が維持できます。

ま、こういう回りくどい話をせずとも、実際に「金」は「力」であることを皆が知っています。札束を積めば、多くの場合他人を服従させることができます。選挙前にばら撒けば有権者の投票行動を変えることもできるし、政治家に献金すればカルト宗教の広告もやらせることができる。「金」が「力」であるが故に、金をコントロールできるものが支配者となる世の中です。

なぜ、大手新聞が与党の批判をしないのか、それは電通を通じて入ってくる政府広報などの政権が流してくれる「金」でしょう?なぜ、大手新聞がカルト宗教団体の批判を控えるのか、それも彼らからの広告収入という「金」でしょう?

その「金」のパワーを高めるためには、「金」の希少性を保つことが必要です。
国は、金の希少性を保つために徴税をします。消費税の増税というのは基本的にそのために行われていると考えてよいでしょう。徴税によって通貨の流通を減らし、金のパワーを上げる。金のパワーが上がれば、人間も含めた「もの」の価値が相対的に下がるのです。それが日本の不況の元凶と言ってよいでしょう。「もの」やサービスを作り出すのは国民であり、金を増やしたり(徴税によって)減らしたりしているのは国です。金のパワーが上がって嬉しいのは国、悲しいのは国民です。その国の中でも、金のパワーを最も濫用しているのが財務省と言えます。財務省は各省の予算を通じて、政府内で大きな権力を持っています。その権力のためには金のパワーが大きい方が都合が良い、それが、財務省がさまざまな屁理屈(国の借金とか社会保障財源とかプライマリーバランスがどうとか)を捏ねては、国民生活を破壊しながらも、消費税を増税し、緊縮財政を敷く主な理由であると思います。

この緊縮財政を続けたい財務省、は、菅、野田の政権時代に民主党まで巻き込んで消費税増税を決めました。まさにその理由で、立憲民民主は、れいわや共産党の様には、消費税の減税をあまり声高く言えないのです。日本経済を破壊してきたのが、悪税である「消費税」であるとわかっていても、過去のこの三党合意のために、思い切って動けない、この点によってこの党には未来がないと私は断じざるを得ないです。

さて、55年体制時、自民党は与党であり続け、常に政策をコントロールする側でした。しかし政策は官僚に丸投げ、やっていたことは党内派閥争いです、それが最も激しかった角福戦争などは朧げに覚えております。その福田派を起源とする派閥が安倍の属する清和会でした。この派閥は、ここまで日本政府内のアメリカ代理人として働いてきました。話によると、安倍はサクラのほとぼりが冷めてから3期目をやるつもりで、後継者をわざと育ててこなかったために、安倍の死後、清和会は烏合の衆という様相となり、慌ててブリンケン国務大臣が来日して、次の後継者としてとりあえず宏池会系のキシダにつないだと考えられています。宏池会系といえば麻生です。この人は、安倍という清和会のリーダーがいなくなったために、堂々とキシダとタッグを組み、宏池会系の再結集を図ると予想されています。清和会はアメリカに見放され、親分を失って壊滅、そして麻生・岸田を中心に「大宏池会」構想が復活し、自民党で最大権力を持つ派閥になるのではないか、という憶測です。こういう自民党内の権力バランスの変化が、政策にどう影響するかというのが今回のテーマです。長い前置きでしたが結論はシンプル。知られている通り、麻生は非常に財務省に近いわけです。そして、改憲という面倒ごとには統一教会の安倍ほど熱心ではないでしょうから、おそらく消費税増税に政権のプライオリティーは置かれ、改憲は頓挫するであろうと思われます。

ま、その前に国葬でやらかしたキシダの支持率が急降下して、統一教会で火だるまになって政権がコケるという可能性もゼロではないと思いますが。
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逆転の気配

2022-07-26 | Weblog
自民大勝の参院選の後、私は日本の未来に大変、悲観的でした。安倍政権によってとことん壊された日本の統治機構の腐敗はとどまるところを知らず、ちょうど、がん細胞が見境なく、宿主を蝕んで最後は自らも一緒に殺してしまうかのように、自民党とその利益共同体が、国民から栄養を吸い上げ、国の健康を危険な状態まで損なってきました。その国民といえば、そのがん細胞の危険性を自覚するどころか、それをまるで味方であるかのように思い込んで応援する始末。まるで統一教会の教祖に、財産や自己の自由を捧げて食い物にされているのに逆にそれを悦ぶ洗脳された信者のようです。客観的に見れば、どこをどうみても、安倍政権は政治家としてどころか、人間としてクズのあつまりでした。その路線をキシダという唯一できることが「聞くだけ」という安倍以上に無能なロボットが引き継いでいくことが決定し、今後の三年で、自民党というがん組織は日本という国にトドメをさしてしまうだろうと思っていました。
ところが、自民党と統一教会の関係が顕になるにつれ、「無風の三年で自民党がやりたい放題」という予想を一気に覆しかねない事態がおこりつつありそうな気がします。神は思わぬやりかたで、現世に介入してくるのかも知れません。

自民党はずっと消費税増税と改憲をしつこく訴えており、その改憲案を見た野党や有識者がその危険を非難してきましたが、ここに来て、自民党の改憲案というのはそもそも統一教会の改憲案のコピーであったことが明らかになりました。


こうなると、自民党と統一教会が日本国民を食い物にして票を集めるお互いの目的のために手を組んでいたという程度の話ではなく、自民党はこのカルト教団に内部からコントロールされていた洗脳レベルの汚染度であったと考えるべきなのかもしれません。

今回の安倍氏殺害事件のインパクトを私はかなり過小評価していたのではないかと、最近のニュースを見ていて思うようになりました。この銃弾は、ひょっとしたら日本の歴史を大きく変えるかも知れません。この事件から派生するになる主に三つの事柄が相乗作用によって、自民党を追い込むことになるのではないかと想像しています。

一番大きいのは、安倍氏自身の死去です。これによって悪い意味で影響力が強かった自民党の官僚組織へのコントロールがはずれつつあるような兆しを感じます。先日のオリンピック汚職が再燃したことは、これまで安倍が抑えていた案件の捜査が解禁されつつあることを思わせます。これまで、内閣人事局を通じて安倍のパワハラの屈辱に甘んじてきた官僚組織がその死去によって 抑えが外れる可能性を感じます。これが本当に起きているのなら、キシダには安倍のようなパワハラ力はないということを意味していると思います。つまり、安倍というフタがなくなって、腐敗した生ゴミバケツからシュールストレミングのように、爆発的に中身が出てきつつあり、それをキシダは止められないということです。止められない理由はリーダーシップの欠如に加えて、そもそも安倍とは派閥が違うことがあるだろうと想像します。鈴木エイトさんの調査では、統一教会と関係の深い自民党議員は安倍の清和会に圧倒的に多かったという話です。つまり安倍の一味というのは強い一人の親分とその力を笠に来ただけのチンピラのようなもので、頭がなくなればただの烏合の衆だったのではないでしょうか。その連中がやりたい放題やった後始末を派閥の違うキシダはできないのでしょう。

二つ目は、国葬をゴリ押しして、安倍を祭り上げることで安倍の腐敗政治の数々を一挙に葬ってしまおうと考えたことでしょう。この案は誰が考えたのか知りませんけど、アベノマスクなみの浅知恵でしょう。結果はご覧の通り、アンケートでも国民の30-50%が反対しており、違法である国葬を閣議決定だけでゴリ押ししているのだから、スムーズに行くわけがなく、逆に野党を始め多くの国民の反感を誘発し、反対デモが各地でおこり、大学では反対看板が立ち、海外のメディアも批判的に伝える始末。これで、過去を封印して安倍の問題はなかったことにしようとするのは逆効果になっています。法的根拠がなく、安倍の悪事の封印が目的であるのが見え見えの正当性のない国葬を強行すれば、封印とは逆に、それこそモリカケサクラのように延々と追及が続いて、自民党の腐敗が掘り起こされるだけでしょう。スガなみのポンコツのキシダがそれに耐えられるとは思えません。

そして、三つ目はいうまでもなく、安倍と統一教会との繋がりです。山上容疑者は「ネトウヨ」と自称し、安倍の右翼的思想と共鳴し、二年弱前まで、安倍政権を支持していたのです。ところが、安倍の右翼思想はほとんど統一教会の教義と合致していました。日本が優れた国であると信じて、その(アメリカからの)真の独立を願うことが右翼思想の中心にあると思いますけど、その右翼が期待した安倍が、実は右翼は右翼でも韓国の右翼、「韓国はアジアの中で選ばれた国であり、日本は韓国の前に跪かねばならない」とするこの韓国カルト集団に昵懇で、霊感商法で日本人から巻き上げたカネを韓国へ流す手助けをしていた、というのは、日本の普通の右翼にとっては、思想的にも許されぬ話でではないでしょうか。このことが広まれば広まるほど、多くのネトウヨと呼ばれるような不遇な人々は、ちょうどこの山上容疑者の心変わりのように、逆に自民党への反感を強めていくのではないかと思います。つまり、彼らや日本会議の右翼思想を現実化してくれると思って支持していた安倍自民党が、実は、単に権力欲と金銭欲のために彼らを利用していただけで、その実は、アメリカの代理人であり韓国カルトの手先の売国奴に過ぎなかったと評価をかえていくのではないでしょうか。

山上容疑者はあと数ヶ月、精神鑑定のために留置されるそうですが、おそらく、政権は、この事件を山上容疑者の精神喪失という形で、不起訴に持ち込もうとすると思われます。裁判になって、裁判の記録が詳細に明かされることを恐れているでしょう。裁判になれば、注目を集めざるを得ず、その間、自民党と統一教会の繋がりを延々とほじくり返されることになるからです。ですので、最終的に山上容疑者が起訴されるかどうかが、司法への自民党の支配がどれだけ続いているかを測る一つの指標になるのではないかと思います。

官僚組織が本来の仕事をするようになれば、さすがにメディアもそれに追従するでしょう。そうなれば、キシダには止めようがないでしょう。腐った大木は一気に崩れ去るかもしれません。
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