百醜千拙草

何とかやっています

データ無辺誓解釈

2022-11-11 | Weblog
一月前に専門雑誌に投稿した論文、Negative dataなのでサクッとリジェクトされるだろうと思って待っているのになかなか返事が来ません。

この場合のNegative dataというのは、仮説から導き出される結論にそぐわないデータが出たということです。こうしたNegative dataは評価すること自体がしばしば困難ですし、評価できた場合、つまり「仮説が正しいと証明できなかった」のではなく、「仮説が誤りであると(ほぼ)証明できた場合」であってもその価値を示すのはしばしば容易でなく、出版は困難です。

このプロジェクトも三年ほどかけて、結構面倒な実験をやり通したものですが、Negative dataに終わりました。ただ、この結果に価値はあると思ったので、データを2つのfigureに絞って投稿しました。この実験をするには1年以上は最低かかるので、もしも次に同じような実験をやろうと誰かが考えた場合にこのデータは参考になるはずです。実験そのものの意義を評価してもらえたらチャンスはあるかもしれません。BioRxivには出していますが、今のところ特に反応はなし。ダメだったら報告書を書いて終わりです。

BioRxivの論文は、大量に発表される論文の中でその質を測る簡便な指標がありませんから、なかなか読んでもらえません。茫漠たる電子文書の宇宙の砂漠に投じられた砂粒のようなものです。しかし、正式に出版されたものでも、ほとんどの論文は、砂漠の一粒、大河の一滴にしかすぎません。私が興味を持っている分野だけでも毎週、300本ぐらいの論文が科学雑誌に出版されていますが、読む側にとってみれば、せいぜいそのうちの数本に目を通すぐらいが精一杯です。限られた時間内でどれを読むかを決めるときには掲載雑誌のレベルを見て私はトリアージしますが、BioRxivなどではそれができないので、BioRxivに出された論文の読者はその内容に最初から興味を持っている人の一部に限定されてしまうのだと思います。

Negative dataの出版は、以前から複数の人がその意義を喧伝し、実際、Journal of Negative Resultsなどいくつかの雑誌出版が試みられていますが、やはりNegative dataに関する研究者の抵抗は大きいものがあり、試みは成功とは言えません。15年ほど前、私の興味を持っていた分野で有名な分子があり、その生体での機能を知るためにノックアウトマウスのデータを皆が知りたがっていました。問題は機能的にオーバーラップする遺伝子が10以上存在するということで、あるグループは大変な苦労をしてそのうちの4つ以上をホモで欠くマウスの作成に成功したという噂を聞きましたが、それでも形質変化はマイルドで、そこから強い結論を得ることができなかったので、そのノックアウトのデータは現在に至るまで正式に発表されていません。

こうした場合、発表されていないからといって有意義なデータが存在しないということではありません。データそのものは有意義でも、データから強い結論が導き出されないと、科学論文としての価値が低いと評価されてしまうので、研究者の方も出版の労力に見合わないと考えて出版を諦めるということになりがちです。しかし、そうした意義あるデータが個人の実験ノートの中だけに埋もれて忘れ去られるぐらいなら、Preprintにしてとりあえず電脳空間に投入しておく方がマシではないかと私は思います。

すでに、この広大無辺のデータの宇宙には無数の解釈困難なデータが散らばっており、解釈を待っております。そうしたデータをマイニングし複合的、多角的に解釈して、人間が理解できる形に変換することを可能とするAIや情報伝達プラットフォームが開発できたら、科学研究は劇的に変化するでしょうね。
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プロジェクト復活?

2022-11-08 | Weblog
気の乗らない書き物の日々で仕事は進まず、平坦な人生に刺激が欲しいなあ、などと思っていたら、小児科医の先生からメール。

数年前から、神の書いたシナリオにしたがって、私は臨床遺伝学の人と一緒に希少遺伝疾患のモデル化とメカニズムの解析のようなことをやるようになりました。この先生は、数年前からとある原因不明の病気を持つ患者さんの主治医をされており、その患者について、以前にやりとりしたことがありました。今回、その両親に第4子が生まれたが同様の病気があるようだということで連絡をいただきました。

近年、ゲノムシークエンスによる遺伝子解析が容易にできるようになって、遺伝性疾患と考えられば、Linkage解析を行えない例でもある程度のアタリがつけれるようになりました。この病気も当時で一家系に二例、DNAが手に入ったのは一例だけの症例でしたが、新規疾患ということでゲノム解析を行った例です。両親と患児のトリオ解析で候補の遺伝子変異はかなり絞り込めました。その中で原因変異である可能性が最も高いと考えらえた遺伝子が、私にとって興味深いものであったため、先走って別の専門家も引き入れ、複数の動物でモデル化し分子機能解析をしようとしたものです。あいにく、それなりの労力をかけて解析したのですがヒトの病気をうまく再現できず、結局、結論が出ないまま撤退したものです。症例数が限られている家系で、遺伝子変異が見つかった場合、病気との因果関係を証明するため大抵は何らかのモデルをつくって機能解析をするという作業が必要なわけですが、遺伝子解析と異なり、この実験的な部分ははるかに時間も労力も費用もかかりますので、ヒト遺伝学研究での大きな課題となっています。モデル化するために、培養細胞や、ハエ、線虫、脊椎動物ではゼブラフィッシュ、哺乳類ではマウスなどがよく使われますが、マウスモデルでさえ人間とはかなり生理は異なるので、うまくモデル化できない場合がかなりあります。その場合に、アタリだと思った遺伝子変異が実はハズレだったという可能性と単なるモデル化の失敗であったという可能性の見分けは難しいです。この時はマウスとゼブラフィッシュで疾患モデル化を試み、培養細胞と非細胞系生化学的解析を行いましたが、結局、マウスではうまく病状が再現できず、ゼブラでは何かありそうだがmorpholinoの非特異的反応であることが否定できず、細胞、分子レベルでは興味深い機能異常があるが、それが症状と結びつかどうかわからない、という辛い結果に終わりました。

今回の患者さんについては、当のご両親にとっては心の痛む深刻な話ですけど、我々にとっては、この病気を解明する新たな手がかりなので、ちょっと興奮しています。そして、この病気の遺伝子解析そのものを考え直す価値があるのではないだろうかと考え始めました。というのは、当初は近親婚で両親に異常がないので、常染色体劣性遺伝と考えて、その方向で変異の評価を行ってきたわけですが、現在まででこの両親から生まれた四人の子供のうち三人が発症しているという結果になっています。常染色体劣性遺伝だと発症頻度がちょっと高すぎますので、むしろ優勢遺伝の方が数は合いますが、そうすると両親が健康であることの説明が必要です。例えば、Imprintingされた遺伝子の変異など、常染色体劣性遺伝以外の可能性も検討してみる価値があるのではと思い始めました。とすると今回の患者さんのサンプルは原因究明への貴重なデータを提供してくれるのではないかと期待しています。

あいにく、私自身がこの例を追求していくことはできいので、別の人に回すことになりのですが、それを任すに適当と思われる人と近々、別件で会う予定になっております。これも神によってシナリオが書かれていたのかもしれません。
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冬のヨーロッパ

2022-11-04 | Weblog
しばらく前に、久しぶりに昔の知り合いから電話がありました。昨年に新しい大学に移り、研究が回り出したので、ある実験手技について教えて欲しいとのこと。別に私が開発した技術ではないですけど、ちょっと細かい手技の習得が必要なので、直接指導してもらうのが早道だと思ったのでしょう。年末までだったら暇だからいいよ、と返事。ついでに、3月締め切りのグラント応募にも参加してほしいという話。私は来年の春からはアカデミアの研究活動から足を洗い、時間に縛られる出稼ぎサラリーマン生活をする予定なので、グラントや研究活動は協力したくてもできることは限られるので、その話は会った時に話をしようということになりました。ということでオフシーズンの北欧を訪れることになりました。 

三年前に行った時は初秋で、気候も良く、パリからストックホルムに行って、その後ドイツを観光で回ってきました。今回はスウェーデンはストックホルムとヨーテボリの二か所になるので、合計5日ぐらいで、後の1週間ぐらいは別の場所をウロウロしてみようかななどと思い計画を立て始めました。

 観光では、前回はライプチッヒのトーマス教会に行きたいという目的があったので迷うことはありませんでしたが、今回はどうしても行きたいと思うところがありません。ベルギーのルーベンとパリには寄るつもりにしています。そこにいる知り合いに最後に会っておきたいと思うので。そのうちの一人は私も少しだけ協力した5年越しのプロジェクトを最近S紙系の雑誌に発表したところです。
Leuvenの知り合いは自分の住む街を非常に愛しており、昔、別の国出身の恋人と別れたのもその恋人にLeuvenに住むことを強要したせいだろうと私は踏んでいます。ここはブリュッセルから近いですが、オランダ文化圏のフランダース地方に属し、科学が盛んな小都市で、ここの大学にはウチの分野ではNatureを連発するハイプロファイルな研究室の一つがあり、彼女も元はその研究室の学生でした。 

パリにもう一度立ち寄りたい最大の理由は、前回ルーブルで見れなかったモナリザを見ることです。15年ちょっと前、大ヒットした「ダビンチ コード」という推理小説がありました。それはルーブルでダビンチの「ウィトルウィウス人体図」を模した形で死体が発見されたという事件が発端で話が進みます。その小説に出てくる黄金率、1.61は当時の私にとってちょっと別な意味を持つ数字で、ルーブルのモナリザを見たいのは、多分そのせいです。 

それで、モナリザが目的の一つなら、今回の観光テーマはダビンチでどうか、と考えました。ならば「最後の晩餐」は外すわけにはいかぬと思い、とりあえずチケットを購入。購入には個人情報の提出が必要です。これは500年前の壁画で保存が難しく入場制限があってチケットの数が限られているからです。

というわけで、12月のヨーロッパ旅行、まだ飛行機もホテルも電車も何も予約していませんが、この日の正午にミラノのチケットオフィスの前に身分証明書を持って立っていなければならない、ということだけは決定しました。
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人生いろいろ

2022-11-01 | Weblog
週末は5年ほど会っていなかった昔のポスドクだった人がサプライズでやってきました。現在は遠方の病院の形成外科のプログラムの4年目だそうで、会議でこちらにくる機会を利用して立ち寄ってくれました。この人とはほぼ音信不通になっていたのに、昨年の年末に突然、クリスマスと新年の挨拶をテキストしてくれて、不思議に思った覚えがありました。私もその時は型通りの返信をして忘れていました。

髪の毛がショートになっていて、髪型が変わったのでわからなかったというと、「ケモしてたから」と言われてビックリ。二年前に卵巣癌が見つかって治療中、とサラリと言われて、何を言えばいいのかと思っていると、私にテキストしてくれたときはちょうどケモのコースの途中だったと言われました。病気が見つかったあと、ひょっとしたら死ぬかもしれないという気持ちと向き合うことを強いられた結果、「自分の命は贈りもの」だという啓示を得て以来、心は穏やかになり、体が元気だった時よりもはるかに幸福を感じれるようになった、と話してくれました。それで、ケモの合間にふと私を思い出してテキストをしたのだと。「禍福はあざなえる縄の如し」というのが適切な表現かどうかわかりませんけど、この困難によって彼女は心の平安を得る切っ掛けになったと言うなら厄災にも良い意味があったということです。いずれにしても、今は幸福で充実した日々を送っているらしいことを知って嬉しかったです。今後、形成外科医としてのキャリアを目指す彼女はニッコリと笑って抜け出した会議に戻って行きました。

その余韻が残っていた中、カレンダーに見慣れぬZoom会議の招待。何かと思えば、これも五年以上も顔を見ていない10年以上前にウチで働いていた技術員の人に関係したことでした。彼女は有名大学卒業後ウチに来て技術員として2年弱働いてくれました。もともと大学院へ行って獣医になりたいと言っていたのですが、勤め始めて一年ぐらいのとき、ちょうど母親に末期肺がんが見つかり増した。思うところあったのでしょう、技術員を辞め、予定を変更して看護学校に行き始めました。その後はとある大学病院の手術室担当のナースとなったという辺りまでは知っていました。そして昔の知り合いと結婚し、数年前一度、顔を見せてくれた時には医学部に行こうかと考えているという話を聞きました。今回は、どうもとある大学の大学院 (PhD)に応募したらしく、その入試の面接官が私を面接に招待したようです。過去に何度か就職の時に推薦状を書いたことがあるので、きっと私を推薦者として応募書類に書いたのでしょう。一緒に働いたのはもう10年以上の前の話だし、この大学院入試に際して推薦状を書いたわけでもないし、ましてその面接に私が顔を出すのも場違いと思うので、この招待は見なかったことにしようと思います。

ところで、このカレンダーにスケジュールを送るやり方というのはどうも馴染めません。カレンダーを常に使っている人は便利だと思うのでしょうけど、私のような人間はスケジュールが送られていることに気が付かず、当日に警告メッセージがいきなり出てびっくりします。

彼女の人生も波乱万丈です。当初は獣医学の研究をする予定でした。しかし、母親の深刻な病気と死がその予定を変え、そして紆余曲折の10年以上が経ってから大学院に戻ってきました。その間、ナースになり、結婚し、病院で昇進し、いろいろなことが有ったのだと思います。

同じように時間が過ぎていく中「人生いろいろ」だな、と自分の平坦な人生を思いました。私の人生が平坦だから、きっと、彼女らもふと思い出して何かのついでに会いにきてくれたりするのでしょう。
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シンクロニシティ

2022-10-28 | Weblog
朝の3時間をかけて3行。今やっている論文の作業はこのペースが続いています。この論文(というか、書き物)は、preprintに出して、時間ぎれになって終了になると思いますが、三年ぐらいはやっていたので、データはそれなりにあります。残念ながらストーリーとしてうまくまとまらず、もし雑誌に投稿した場合にはよくてMajor revisionで、追加実験を要求されるのは間違いないのですけど、それをやっている時間も材料も人もありません。そんな状況なので、モチベーションが湧かず、他にも色々と別の考えることなどがあって、グダグダしている間に時間が経って1日が終わるという状況になっています。この論文がどういう風に終わっても、研究分野の将来にも私の将来にも大きなインパクトもなく、個人的な満足感もないというのはわかっているので、何とか義務感だけでやっておりますが、発展性の見込めないことに時間を費やすというのはあまり楽しくはないです。ま、暇が潰せてよかったと考えるようにします。

先日発表した新規希少遺伝性疾患の論文について、共同研究者の人からメールが送られてきました。そこにあったPubMedのリンクを見ると、我々の論文と並んで、我々のケースと同じ遺伝子の変異に関する論文が全く別のグループによってJCIに発表されていました。このプロジェクトを始めたのは3年前ですから、今の時期に論文が発表になったのは全くの偶然です。多分、もう一つのグループも同様でしょう。このような激レア遺伝疾患を研究するプロジェクトが全く独立して行われ、何の打ち合わせもなく、同じ月に論文となって発表されるという偶然は、私は初経験なのでちょっと衝撃でした。あらかじめ知っていたら、こちらもJCIに投稿したのになあ、と思った次第。ま、雑誌はどうでもいいですけど。やっぱり、世界は誰かがシナリオを書いていて、我々は神の見えざる手に操られているのかも知れません。そう思っておくのが精神衛生にも良いように思います。

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甲板の椅子を並べ替える

2022-10-25 | Weblog
「(タイタニック号の)甲板の椅子を並べ替える」という表現は、本質的な問題の解決につながらないムダなことをすることの喩えによく使われます。これは愚かな行いへの批判ではありますが、本質的な問題に対してできることは何もないという絶望的状況を鑑みると止むを得ないと思わせる部分もあります。

一方で、できることややらねばならぬことは一杯あるのに、わざわざどうでもよい仕事に時間とカネを費やしたうえに、椅子の並べ替えでさえやってるフリしかできないという同情の余地なしの某国の与党政府もあります。が、今日の本題は某国政府の無能と腐敗の話ではなく科学出版の話。

先週末、ツイッターから流れてきてかなり大きな議論になったのが、科学雑誌のeLifeの出版ポリシーの変更についてでした。Natureなどの商業出版の金儲け主義に対抗してアカデミアが主体となってPLoSやこの雑誌が出来て、効率的な科学知見のdiseminationを目指して活動してきていますが、今回それをさらに変更するという話。

論文を有名雑誌に載せることは、研究者にとって研究費の獲得や昇進やポジション獲得に密接に関わっており、有名雑誌はの限りある紙面に論文を載せるために自然と競争は激しくなり、不必要に厳しいレビューアからの要求を満たすことが求められます。そのために重要な知見がタイムリーに発表されず、本質的にムダな実験などを強要され、時間とリソースが無駄になっているという現実があります。

この特に有名雑誌におけるピア レビューのシステムが、科学知見の速やかで効率的なdisseminationを阻害ししているという問題は随分前から問題視されており、その批判は正当なもので、現在のPreprintにとりあえず発表するというトレンドはそれに対する解決法の一つだと思います。eLifeもそうした科学出版の不条理に対して、レビュープロセスの公開など野心的な試みを従来から行なってきている雑誌です。

しかし、先に述べたように、論文出版は知見のdisseminationという目的以上に、研究者の評価のメトリックスに使われるという現実があります。有名雑誌に数多く論文を載せることが、研究者の研究資金や職、つまり「カネ」に直結しています。現実に研究資金もポストの数も圧倒的に足りないという激しい競争があり、それに勝ち抜くためのポイントが有名雑誌に論文を発表することですから、有名雑誌に論文を載せることは簡単であってはならず、そのことが論文出版において本来の知見の伝播を非効率にしていると思います。とすると、科学出版の非効率さのそもそもの原因は、突き詰めれば、研究者の数に対して「カネ」が足りていないことです。そして、カネの不足という本質的な問題は、国家的政策を通じてでしか解決困難なものなので、ただちにそれを解決する有効な方法はないという状況にあります。

ですので、今回のeLifeの試み、「アクセプトもリジェクトもしないでレビューされた論文は直ちに出版する」は、論文出版の迅速化には多少有効かもしれませんけど、そもそも論文出版が非効率であるのは、カネの相対的不足による研究者間の激しい競争があって、その勝敗が論文出版にかかっているからであるという本質が無視されているように思います。(というか、この本質的問題に対して一出版社は何も出来ないという状況であると思います)結局、このeLifeの編集方針の変化が本質的に科学出版のあり方を変えるかと言われたら、これ他のツイッターでコメントを寄せている人々の多くと同じく、私も懐疑的ですし、正直、椅子の並べ替えレベルの話で、逆にメトリクス的に混乱を招くだけではないかと思います。

私は、原著論文はすべてPreprintサーバーのみに発表して、オンライン上で分野の専門家が相互評価をつけるシステムにすればいいと思っています。自分の論文を評価しせもらうためには他人の論文を評価することを義務付ければピアレビューはフリーのpreprintのプラットフォームでも成り立つでしょう。そして、商業雑誌や学会雑誌などは、二次的に原著論文を解説する場にして、基本的に総説論文のみを掲載するようにすればよいと思います。ま、このようなアイデアにこの巨大な科学論文出版ビジネス業界が賛成するわけないとは思いますが、それでもビジネスとして成立すると思います。

この記事の一部をDeepLします。
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eLifeでは、査読したすべての論文を、査読と評価とともにReviewed Preprintとして公開することで、論文を独立させることにしました。、、、この新しいeLifeの姿は、著者がすぐに利用でき、1月からは私たちの唯一の運営方法となる予定です。
、、、
研究結果を精査にかけることは、科学的プロセスにおいて不可欠なステップです。そして、査読者に著者の方法、データ、推論における欠陥を特定し、修正する手助けをしてもらうことは、本質的な価値を持つものです。しかし、この精査を出版決定に結びつけると、プロセスが歪み、事実上、推奨が要件に変わってしまいます。その結果、著者はしばしば不要と思われる実験や分析を行い、自分が信じているアイデアや洞察を作品から取り除いてしまうのです。
、、、
最も重要なのは、論文を学術雑誌に掲載することに重点を置いた結果、学術雑誌の名前が事実上の研究キャリアにおける通貨となり、何を出版したかではなく、どこで出版したかに基づいて科学者を判断する慣習が制度化されたことです。、、、
このような病理に直面し、世界中の科学者が、科学出版と科学におけるその地位をより良くするために具体的な行動を起こしています。、、、

この新しいモデルの本質的な要素、つまりプレプリントを独占的に審査し、公開査読と評価を作成することは、すでにeLifeの編集プロセスの中核をなしています。現在行っている最大の変更は、査読後に採否を決定しないこと、そして当然ながら査読者に出版推薦を依頼しないことです。、、、

投稿されたすべてのプレプリントを審査する能力はありませんが、審査に出した論文はすべてReviewed Preprintとして公開します。これは、著者の原稿、eLife評価、個々の公開査読を含むジャーナル形式の論文です。、、、

というわけで、プロセスとしては、投稿された論文をエディターがレビューに回すかどうかの判断をし、レビューされたものはレビューが終わった時点で出版料($2,000)を取って、レビューを含めてをつけて出版し、reviewed preprintという体裁になるということです。この出版形式がどのように研究者のメトリックスに使用されるのかは興味のあるところですが、問題は最初の部分で投稿されたものはどうもエディターが取捨選択するらしいという点でしょう。つまり、レビューアは評価をするだけで採否の意見は言わない(この辺はNatureとかと一緒ですね。違うのはエディターも採否の判断を行わないという点ですかね)。詳細が不明ですけど、レビューに回りさえすればreviewed preprintとして出版するというのなら、これはエディターの独断だけで採否が決まるということを意味するのかも知れません。そういうことであれば、この雑誌の論文の質の保証が怪しくなり、雑誌の評価は下がり、誰もこの雑誌に発表したいと思わなくなるかもしれませんね。あるいは、reviewed preprintという出版様式が正式な査読付き出版であると評価されるのならば、投稿数は増えて評価が上がるかもしれません。
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ベーシック インカム

2022-10-21 | Weblog
前回の話を少し掘り下げようと思って書き始めましたが、政権批判のおかげで、本論に入る前に長くなりすぎましたのでBIの話はまたの機会に回します。

憲法で定められているように、国民は納税、教育、勤労の義務がありますが、一方で、国民の安全と生活を保障するのは国家の義務です。そしてパレンス パトリエの概念が近代民主主義国家に共有されるものとすれば、そもそも国民がその義務を果たせるように、教育を受けさせ、勤労機会を与えるのは国家の義務でもあります。

しかるに、今の日本政府はその義務を果たせていません。元祖ポンコツのスガは、国家が国民に果たすべき義務を果たせていない己の無能を恥じるどころか、自助、共助、自己責任だ、と開き直りました。税金泥棒と言われても仕方がないでしょう。(事実ですが)

単に無能というより、与党の党利党略のために故意にその義務を無視しているのが現状です。己が利益のために国を荒廃させ、国民の生活を破壊し、国富を売り飛ばす、ということをやり続け、結果として日本を社会、経済、環境において二流国にしてしまいました。権力は腐敗するものです。派閥政治が機能しなくなってきたこの20年ほどの自民党では、腐敗は進む一方で、その腐りに腐り切った政権が安倍政権とその後に続いた政権であったと言えるでしょう。しかし、そういう政党をのさばらせたのも日本人ですから、政治腐敗は民意であったと言われても仕方ないですが。

長期的に見れば、日本の国民が豊かで幸せであることは国力に直結します。日本の国際的地位や信用は上がり、ビジネスでも国防においてもプラスになります。事実、20年前は、日本人は信用できる、日本製は安心、日本は先進国、というイメージが海外にあり、日本円も強かったので、外国では日本人であるというだけで随分、得をしました。無論、そのイメージは私より上の戦後成長を支えた人々が築き上げたものです。例えば、紡績機械を作っていた会社が自動車を作り出し、そして北米で車を販売し出したのは60年代ぐらいでした。その信用ゼロの状況からたった二十年ほどで、海岸沿いの都市部では日本車でない車の方が珍しい状況に変化したのですから、これは日本企業がゼロから築き上げた信用と実績の一例です。

その日本への国際的信用が失われつつあります。その最大の理由は政治の無能です。少なくとも国際的に日本の失墜は「誤った経済政策」つまり政府の責任であると評価されています。そして、その政治の機能不全の原因は与党の腐敗であると断じて良いと私は思います。

例えば明石市が示したように、国民が喜ぶ政策をすれば、国民は豊かになり、結果として政府も税収も上がってWin-Winのはずです。しかし、結局与党の政治家は自分が死ぬまでの数十年の間だけ、自分さえよい思いができればよいと思っているのでしょう、目先に海老があれば貪り喰ってしまい、それで鯛を釣ろうとする知恵を出す気もないようです。長期の繁栄などどうでもいいと思っているから、20年以上かかる子育てというプロセスの支援でさえ、一回ポッキリのクーポンでお茶を濁そうとする。呆れ果てますね。これは本気で少子化対策をする気はさらさらなく、アベ式の「やってるフリ」をしつつ、クーポン事業者に票の見返りに中抜きさせるのが目的でしょう。好意的に解釈すれば一種の景気対策での公共事業とも言えなくもないですが、ほとんど本来の目的を達する効果がないのが問題です。

これまでも、自民党政府は、経済対策、雇用政策として、必要もない道路工事、ダム工事、再開発などなど、金を利権業者に流して一瞬の雇用を作り出すということを長年やってきました。そうして、自然を破壊し、木を切り倒し、道路を渋滞に巻き込み、騒音を作り出して、要らないことをしてきました。しかし、経済対策が目的にせよ少子化対策が目的にせよ、最も簡単で最も効果の高い「直接現金給付金」や「消費税減税」は頑なにやりたがりません。思うに、これをやってしまうと、景気が良くなり少子化が解消されて、「問題」が解決してしまい、与党政府が理研業者に金を回すための口実がなくなってしまうからでしょう。利権団体と票、与党政府は、その権力維持のためには、むしろ問題が解決しない方が望ましいと思っている、それが経済政策の失敗の原因だろうと私は思います。

だから自民党は、アベ式、全てやってるふりで、いつも「道なかば」。国会では、のらりくらりと言い訳し、都合の悪いことは嘘とハッタリ、挙句に逆ギレ、証拠文書は、偽造、捏造、改竄、隠蔽のフルコース。自分の地位と権力が維持できれば、国民の生活も国益も政府のインテグリティもどうでもいい、それが彼らの本音でしょう。

そうした独裁政権の国々がどのようなことになったかを見てみれば、このまま自公政権をのさばらせたら非常にまずいことになると実感されるのではないでしょうか。ナチス ドイツ、フランコ政権のスペイン、イスラム革命後のイラン、中国共産党下の香港、プーチンのロシア、、、明日は我が身です。

前置きが長くなってしまいました。前回の話のベーシック インカムの話をしようかと思っていましたが、その時間がなくなってしまいました。ベーシック インカムはまだまだ実験的な制度で、実施に当たってはその受給資格、対象、給付額や財源などの問題の議論が必要ですけど、給付額を最低限の生活の保障ができるレベルに低く設定すれば他の社会保障財源のやりくりで実現は可能だと思います。続きはまたの機会に。
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マイナンバーとベーシックインカム

2022-10-18 | Weblog
マイナンバーカードに健康保険や運転免許などなど、個人情報を一括してしまおうという話が出て、先の国葬のように反対の声が上がり、署名活動まで始まりました。国民が真剣に危惧するにはそれだけの理由がありますが、中でも「政府が信用できない」、「政府がこんな事業を遂行できる能力があると思えない」というのが最大の理由でしょう。

そのほかにも、いくつか反対の理由はあります。

まずは法的な問題。国民皆保険制度の元では、これはマイナンバーの強制になるので、マイナンバーは任意とする法律に違反します。それから、保健証番号があれば保険診療が受けることができるという法律があるので、マイナンバーを取らないことを選択した国民が保健医療を受けれなくなることになる可能性があり、これは権利の侵害になるということ。
第二に、システムの問題。個人情報を金融口座情報などと一括して管理することになるが、その安全はどう保障するのか、という問題。
そして第三に、ロジスティックな問題。そのカードを紛失したり盗まれたりしたらどうするのか、あるいは個人情報が遺漏した場合にどう対処するのかという問題。
最後に、これはすでに報道されていますが、システムを作る業者の利権に絡んでいるといういつもの自民党の問題。つまり、税金の中抜きのための「やってるフリ」プロジェクトであるということ。

ソーシャル セキュリティー(社会保障)番号で個人情報を紐づけているアメリカでも、ソーシャル セキュリティーカード(ただの紙切れですが)を持ち歩くこともなければ、保険証も運転免許も別々に管理しており、SS番号がこれらに明記されることも今はありません。ソーシャル セキュリティーカードは大切に保管してむやみに持ち歩かないことを推奨されています。

このように多くの人が多くの理由でマイナンバーカードへの情報一本化に反対していますが、結局、この案に反対する最大の理由は「政府が信用できないから」なのです。
そりゃそうでしょう。国会で平気で嘘をつきまくり、憲法は守らない、法律は破り、国会を軽視し閣議決定で何でもやりたい放題、公文書は改ざんし、統計数字は操作され、情報開示請求をすれば、全部、海苔弁で出してくるような政府を信用しろという方が無理です。そもそも、前科が多すぎる。消えた年金問題、安倍は「最後の一人まで調べてお支払いします」と約束したが、やはり口から出まかせのウソ。年金台帳でさえまともに管理できないし、失態を犯しても知らぬふり。

さて、政府の無能と利権の話は置いておいて、アメリカのように国民背番号制を導入するのは、国と国民の双方にとってメリットとデメリットがあります。国民にとってのデメリットは、この番号が銀行口座、納税情報、運転免許などのさまざまな個人情報と結びついていることでしょう。今の日本政府の能力では個人情報の漏洩は最大の懸念ではないでしょうか(情報がきっちりと守られるなら、メリットでもあるわけですが)

アメリカでの社会保障番号は、基本的に社会保障を受けるのに必要な番号で、納税記録から納めた社会保障税(年金)の総額とクレジット数に応じて支払額が決まります。国からの年金給付やサービスを受けるのに必要な番号です。然るにマイナンバーに国民は不安は感じてもあまりそうしたメリットが目に見えません。なので、この背番号制を普及させるには、国民にとってメリットがあると納得してもらう必要があります。

その比較的簡単なやり方があります。ベーシック インカム(BI)を導入することです。BIは国が国民全員に給付金を振り込むわけですから、振り込み口座に納税記録とリンクしたマイナンバーが必要であるといえば、拒否する国民はまずいないでしょう。つまり、保険証も運転免許もマイナンバーカードに一本化するからマイナンバーを使わないと困ったことになるぞ、と脅す北風戦略をやめて、逆にお金をあげるからその口座に番号をつけてください、という太陽作戦をやれば良いのです。

それで、本題、BIは実現可能かという話。日本の現在の税収でBIが可能かどうかは専門家がすでに多くの議論をしていて、簡単に言えば、社会保障制度(年金と生活保護)の大部分をBIによって代替させることで可能と考えられているようです。BIで労働意欲が削がれるのではないか、という懸念はおそらく杞憂でしょう。BIは精々今の国民年金支給額レベルぐらいに設定されることになり、それだけでは生きていくので精一杯というレベルなので、労働のインセンティブが損なわれることはないと思われます。もう一つ、BIは破綻を防ごうとすると、給付はその国民または永住者に限る必要があるので、自然と外国人の受け入れは制限されることになります。あるいは、外国人にはアメリカの社会保障と同じく、10年以上のクレジット数の納税がなければ受け取れないという縛りをつける方法もあります。外国人の受け入れが制限されることは良い面も悪い面もありますから、ここはもう少し考える必要があります。また、BIは公平に国民に給付され、生活保護の大部分をなくしてしまうわけですから、生活保護の不正受給問題や逆に生活保護支給拒否問題も解決し、ワーキングプアと貧困の問題を改善するでしょう。

もうすでに長くなったので、続きはまたの機会に。

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パレンス パトリエ と パターナリズム

2022-10-14 | Weblog
キシダ政権、これまでではっきり見えてきたことは、キシダはスガ以上のポンコツであり、アベ以上の厚顔無恥ということです。露骨な利権のための政策を躊躇いもなく次々に繰り出してくるこの政権に、私は強い危機感を感じています。この政権が国民にやってきたこと、やろうとしていることをみると、無表情で子供を気絶するまで殴り続ける精神異常者を思わせます。国葬、統一教会、国防費の増加、高齢者の健康保険負担の増額、消費税増税、健康保険証の廃止、、、ここまで国民をボコリ続けてきた自民党をまだ支持する日本人って異常なM体質なのでしょうか。M体質の大人がプレイを理解した上でいじめて欲しいと言っているなら何もいうことはありません。普通に幸せに暮らしたいと思っている我々は、そんな人々の住むところからはなるべく離れて暮らすという選択をするまでです。しかし、そのような自由がなく、無理矢理に苦しい生活を強いられる弱い立場の人々や子供は守られなければなりません。

つい最近も統一教会の二世の方が、親に信仰を強制され生活をコントロールされて非常に不幸な未成年時代を過ごされたことを発表されて、統一教会を解散させて欲しいと訴えていました。安倍の殺害容疑者も同様です。未成年の子供であった頃には人生の選択の余地なく、この団体に家庭と自分の人生を破壊された人です。

自己責任論を押し付けられない子供や弱い立場の人をその人権を尊重しない親や社会から守るのは国家の責任です。これはParens Patriaeと言葉で知られる国家の義務です。然るに、本来、人々の基本的人権と生活を守るべき国の行政の長が自らの票と権力の欲のために、率先してカルト集団の広告塔となって、弱い立場の人間の人生の破壊に加担してきたということは、どんなに強い言葉で非難してもし切れぬ言語道断の所業であり、その一事のみを以ってしても自民党は地獄の業火によって焼き尽くされるべき極悪反社集団である、と私は感じています。

これまでの他の自民党の悪事、すなわち国民から税金を吸い上げる一方で、票を持っているオトモダチ企業に国家事業を通じて国家の富を付け替えるという自民党の売国政策に比べて、統一教会問題がこの3ヶ月あまり、ずっと追求され続けているのは、弱者の人権蹂躙に政権与党が積極的に加担してきたというただのカネの問題以上の問題だからではないかと思います。

パレンス パトリエの義務を日本政府は果たせていない上に、自民党政権はこのいわば、親としての保護義務、を似て非なる概念、パターナリズム(家父長主義)に意図的にすり替えようとしています。子供の権利保護のための支援をする義務が前者であるなら、後者は(父)親は「子供のためを思って」という建前によって子供(国民)の意思に無関係に行動などを強制する独裁主義のことです。

この家父長主義は日本の封建時代の社会システムであり、擬似民主国家である日本とはよく馴染みます。こうして腐敗した自民党政権は、その権力をとことん非民主的、利己的に行使してきました。

思うに、同様にこの手口を使ってきたのが、統一教会(世界平和統一家庭連合)です。なぜこのカルト集団が「家庭」にこだわるのか、それは父親が頂点にある権力構造(家父長権)によって力の弱いものを支配する構造を作っていくことが教団のヒエラルキーを維持する上で都合が良いからではないでしょうか。つまり教主を頂点に信者を搾取するこの団体は、「子供のためを思って」という建前で、絶対権力をふるう家庭の父親という下の単位とフラクタル構造になっているのです。教団がこの搾取構造を正当であるとするためにはその下位構造である家庭の中にも同様にヒエラルキーを存在させる必要があるいう理屈ではないでしょうか。だから、この教団の信者はその子供の意思を蹂躙することを躊躇わないのでしょう。親が子供にすることは全てが善いことであり、それは教団が信者にするのが正しいのと相似だからである、そのように洗脳されているのでしょう。

安倍はかつて、国民的から税金を「吸い上げる」と口を滑らせました。これがこの男の本音をよく語っています。政府与党とそれに絡む利権友達は国家における家長であり、その子供である国民を搾取するのは「正当」だと思っているのです。そしてその理由は、それは子供のためのことを思ってだからだ、というわけですが、その詭弁がまかり通るのは根拠は選挙の票です。民主主義の手続に則って選ばれた政党、政治家が行うことは民意であるから正しいのだ、と自民党は主張するわけです。しかし、実際に自民党を支持しているのは全国民のせいぜい20%に過ぎません。しかもその多くの票は、利権と引き換えに国民の税金で「買った」票です。

国家の一方的な権力を国民に受け入れさせようと詭弁を弄する自民党と信者からカネを巻き上げて献金するのは信者のためだと強弁するこのカルト教団が強い親和性を持っているのは、そもそもこれらの集団が同じ体質(家父長制度による非民主的独裁主義を目指す)だからでしょう。
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マクドの話

2022-10-11 | Weblog
どうでもいい話。

日本の長期にわたる経済停滞と先の見通しがたたない円安で、日本はどんどん安い国になってきています。ものの値段が安いということは賃金が安いということを意味するので、世界中で売られている物の価格を比較することによってその国の賃金レベルが推測できます。

ビッグマック指数で世界の国々を比較すると、ビッグマックがもっとも高いのがスイスで日本円では925円、ドルで$6.7という値段。フランスを含むユーロ圏やアメリカで650 - 700円程度。かつてはかなりの経済格差があったアジア諸国でも日本と変わらないか高いぐらいになっています。フィリピンでは380円。数十年前はフィリピンの田舎ではビールが40円、コーラは10円で飲めました。今は日本との差がかなり小さくなってきているようです。

大昔の高校時代、学校のそばにマクドナルドハンバーガーが出来ました。当時で、ビッグマックが400円弱ぐらいだったと思います。現在410円だそうですから、この数十年、日本の経済が停滞していたことを示すのでしょう。

学校のそばだったので、自然と溜まり場になりました。その店は2-3階に食事席があって文化祭などがあったりすると打ち上げと称して大勢で3階を占領してして騒いだり、ポテトのタダ券を集めて、みんなでテーブル一杯に積み上げたフライドポテトを貪り食うというようなイベントをやったりしてました。そのうち店がタダ券をあまりくれなくなりました。それからアルバイトの店員のお姉さんにありえない注文をするという遊びも流行りました(男子校だったもので)。「メロン豆腐といちごどんぶり」とかオーダーするわけですが、当時は鷹揚なもので、店員も素直に笑ってくれたり、悪ノリしてくれたりして、楽しかったです。今だったら、冷たい目で見下されて、二度と来れなくなってたかも知れません。ま、関西だったので。

それで、当然ですが、われわれはマクドナルドのことをマクドと呼んでいました。これは私の想像ですけど、関西で「マクド」と呼ぶのは、関西での挨拶の「まいど」に発音が似ているからではないかと思っております。当時のちょっと砕けた友人は「まいど!」とやってきては「マクドでイモでもしばかへんか?」と誘って来たものでした。

それで、最近、例によっていつものフランス語教育ビデオを見ていたのですけど、そこでマクドナルドはフランスでもマクド(McDo)と呼ばれていることを知りました。この場合「マ」と二音節で発音されるので、関東の人が話す「なんちゃって大阪弁」のような音になります。

確かに「マクドナルド」は長くて言いにくいです。ちょっと調べたら、世界でも色々に呼ばれていることを知りました

アメリカ:Micky D's
カナダ: McDick's
オーストラリア:Macca's
ドイツ:Mekkes
香港:Mak Kee
フランス:McDo
メキシコ:McDona's
ルーマニア:Mec
スコットランド:McD's
日本:マック、マクド

やっぱり「マクド」がシンプルで間違えにくいと思いますね。マクディーズ、マッキーもわるくないですけど、メッケとかは、どういうヒネリなのでしょう?
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クリック ケミストリー

2022-10-07 | Weblog
ノーベル化学賞はClick chemistryでした。
正直、ん?という感じ。確かに有用な技術開発ではありましたけど、ウチの分野、生物学研究への応用という点では、例えば、過去のGFPの発見ほどのインパクトはないように思います。あるいは、医学生物以外での化学の分野でのインパクトはもっと大きいのかも知れません。まだ多少の時間がかかるでしょうが、この技術が将来に疾患治療などへ応用されることも期待され、それが実現されるとその意義は広く認識されることになるのでしょう。

昨年のPiezoを思い出してみても(何らかの裏事情があったとの噂もありますが)、ノーベル賞は少しずつ発見のインパクトが小粒になっているような気もします。これは、学問分野の細分化、専門化が進んで、ユニバーサルに大きなインパクトを持つ発見というものが相対的に少なくなったからでしょうか。あるいは私の無知ゆえなのかも知れません。

単にテクノロジー開発という点で見れば、20年前の遺伝子の大量並行シークエンシング技術の開発は、非常に大きなインパクトがありましたし、8年前のシングルセル シークエンス技術の開発も現在の生物学研究に大きな影響を与えています。シングルセル技術といえば、数十年前に開発されたフローサイトメトリーのインパクトも非常に大きいです。ただし、こうした技術的イノベーションというのは、何らかのブレークスルーを起こした「発見」の組み合わせによって生まれるもので、そこにオリジナルな発見があるかどうかがノーベル賞の基準になっているのかも知れません。無論、ノーベル賞受賞の条件が生存者のみ三名までという制約も受賞対象研究を限定することになっているでしょう。

インパクトという点では、「RNAワクチン」は、発見とかアイデアのオリジナリティーの点でちょっと難がありますけど、少なくとも社会における影響は非常に大きかったので、今後、RNAワクチンがその他の感染症やがんへの免疫療法に広く使われていくことになれば、将来的にはノーベル賞になる可能性は高いのではないかと思います。

さて、ノーベル文学賞も先ほど発表がありました。フランス人作家Annie Ernauxが受賞とのこと。思えば最近のノーベル賞作家で私が知っているのは、ボブ ディランぐらいですね。文学賞と言えば、村上春樹が毎年名前に上がりますし、作品は外国で広く読まれているのでインパクトは十分と思うのですが、来年はどうでしょう?
相性というのがあるのでしょうけど、残念ながら私は村上春樹の良さが理解できず、読んでいていても途中で「ムリ」と感じてしまうレベル。サリンジャーとかは今読んでも楽しめるので、村上春樹もイケてもいいような気がするのですけど、何ででしょう。どうも、私は村上春樹とはクリックせず、ケミストリーも感じないようです。

しかし、彼が大勢の外国のファンを通じて日本のイメージを上げてくれることで、日本人の私も彼のおかげを被っているとも言えます。受賞する日がくれば、素直にうれしく感じるだろうと思います。
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受賞

2022-10-04 | Weblog
ようやく論文がアクセプトになりました。この雑誌は2年前にできたもので、この間初めてIFらしい数字がついたのを見ましたが今のところ1未満です。そもそも希少疾患を扱う研究が多い分野なので、N紙姉妹紙を除けば、この雑誌の親雑誌は分野トップですがIFは10ちょっとしかないような分野ですからIFが低いのは仕方がないです。今後、我々の論文のように親雑誌にリジェクトされた論文が流入していくと、雑誌のレベルは上がっていくのではないかとは予測されます。大手企業がバックにいるベンチャーのIPOを買ったみたいなものでしょうか。

論文がアクセプトになったからと言って、昔のように数年の努力が形になって純粋に嬉しいという気持ちは感じなくなりましたけど、共著者の若い人のキャリアや学位にも多少関係することなので、義務を果たしてホッとはしました。机の上をちょっと整理しました。あと、二つ三つ書かねばなりません。一つは一応雑誌に投稿するつもりですけど、フォローしている時間がないのでPre-printで終わるかもしれません。何からの形にできればそれでいいと思っています。

先週受賞式が行われた今年のラスカー賞はインテグリンでした。つい先ほど、今年のノーベル医学生理学賞はヒトの進化遺伝学のSvante Pääbo氏と発表されました。ヒネリが効いていますな。昨年のDS氏のスキャンダルで芽が消えたmTORはそのうち賞になるのでしょうか。こういった学術賞によって学問研究の意義が多少なりとも世間に知られて若い世代や多くの人々を刺激するというのは人間の社会にとって有用なことだと思います。日本の国際学術賞では、最も知られているのは、先日亡くなった稲森さんが創設した稲盛財団による京都賞ではないでしょうか。京都賞の授賞式はノーベル賞に先立って来月行われる予定です。

かつては自分も賞に値するような発見をしたいと思ったものでした、論文もハイインパクト雑誌に出したいと思っていましたが、今となっては、なぜそんなことを大切にに思っていたのか、不思議です。多分、名誉欲とか承認欲求とかエゴとかそんなものなのだったのでしょう。アントニオ猪木が亡くなる前の映像で、無欲の境地について語っていましたが、欲があるということは人間が生きていく上での大きな推進力なのでしょうけど、年を取ってそれを失っていくというのは果たして幸せなのでしょうかあるいは不幸なのでしょうか。

先週は、久しぶりに昔一緒に働いていた複数の人々からコンタクトがあったり、サプライズで研究室に立ち寄ってくれたりしてくれました。振り返れば、かつて彼らと一緒に共に時間を過ごし、何らかのことをしたということは私の人生の一部でもありました。彼らが昔のことを忘れずにいてくれて訪れてくれたりすることは私にとっての何よりの賞であることを実感しました。そういう賞ならもっと欲しい欲求はまだあります。

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当たり前のことができない

2022-09-30 | Weblog
日本円、一ドル150円に向かうかというような円安で日銀が円買い、ドル売りの介入。ザルの穴を手で塞ぐようなもので焼石に水。水を止めるとかザルを変えるとかしないとどうにもならないのに、いつもの小手先の誤魔化しのやってるふり、結局は成り行き任せでどんどん状況を悪くするというのは日本政府の伝統なのですかね。

一ドル85円だった頃とさらに昔の固定相場制の頃の一ドル360円の時代を覚えている人間にとっては、この円の価値の変動は感慨深いです。戦後日本の高度経済成長、Japan as No1、そして絶頂を迎えバブルの後、経済は停滞から急激に衰退。戦後の焼け野原から脅威の復興と繁栄のを達した日本が、政治腐敗によってあっという間に学問も人々の生活も先進国から脱落。これだけのことが半世紀あまりの間に起こりました。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色ですか。 

私は経済学者ではありませんけど、その素人脳で考えても日本政府の経済政策はメチャクチャです。無能なのではなく政治腐敗による意図的なものだと思います。だからタチが悪い。デタラメな経済政策によって起こされた経済不振のメカニズムは非常に単純な話だと思うので、ちょっと長くなりますけど、整理してみたいと思います。

今回の急激な円安は、円が弱くなっただけではなくドルが高くなったせいでもあります。今年のアメリカの金利引き上げの影響で、実際ドル以外の外貨も下げています。アメリカでは、昨年まで記録的な低金利で30年固定ローンの年利が3-4%というレベルでした。この低金利時代に入る15年ほど前は6%以下であればホームローンは安いと言われていましたが、去年まで超低金利だった30年ホームローンの年利は今では、6-7%に戻っているようです。この差は30年蓄積すると大きく、例えば昨年に50万ドルのローンを組んだ場合の支払いと今年の利率で30万ドルちょっとのローンを組む場合との支払いは同じレベルになるそうです。カネというものは幻なのですけど、われわれの生活に及ぼすその力は現実です。アホらしいですな。

金利の引き上げは、借金を難しくしてカネの流通を減らす目的で行われます。同様に、税金(特に消費税など)を引き上げることは同じ効果があります。なので、金利を上げたり増税したりすることは景気を冷え込ませ、株価を下げます。事実アメリカ株はこの一年で20%以上下げ、コロナ前の水準に戻ってしまいました。

アメリカが金利を引き上げたということは、アメリカでは景気が加熱しすぎてインフレが度を超えつつあると判断したということでしょう。実際、アメリカでは物価上昇が著しいです。今後、この金利政策が成功すれば、段々とアメリカの景気は悪くなり、物価上昇は止まるはずで、そうなればまた金利が下がり株価が上がるというサイクルを繰り返すと思いますけど、それまでは金利の高いドル買いが進むでしょうからドル高円安は続くと思われます。

同じ理屈で言えば、日本でも金利を上げれば、円買いが進んで円高になるはずです。しかし、この不景気では金利を上げることはできません。この間、普通預金の金利を見て改めて驚きました。0.001%だそうです。一千万円預けて一年の利子が百円です。金利が低いのは不景気だからですから、円安を何とかしたいのならば、国内の景気をまず上げることが必須です。輸出国とは言われていましたが、実は日本のGDPの6割は内需ですから、まずは国内でモノやサービスが売れ、カネが社会で円滑に循環しなければなりません。

景気を上げるためには、国民の可処分所得を上げればよいわけですから、普通は減税し、国がカネをバラまき、カネの流通を上げるということをすれば良いはずです。他の国ではやっています。減税は世界90カ国でコロナによる経済停滞に対する対策として行われてきました。なのに、日本では逆に消費税を上げました。そしてますます景気を停滞させました。メチャクチャです。プライマリーバランスがどうとか防衛費増加が必要とかいう財務省や自民党は、今、飢えて死にそうなのに、食費を老後の貯蓄や警備費用に回して、餓死する方がいいとでも思っているのでしょう。

バラマキはアメリカでは、無差別に小切手を直接国民に配り、経済活動を維持しました。日本では5万円の給付金を出すだけでも貧困家庭を選りすぐり、業者を介入させて中抜きさせます。それでは経済刺激効果はありません。こうした経済政策は、政府が、無差別にタイミング良くに直接国民に十分な量をバラまかないと意味がありません。アベノミクスでの金融緩和はバラマキで景気をよくするはずでしたが、国民に行き渡らず、企業に流れ内部留保となって単に企業の貯蓄になりました。確かに雇用は増えたようでしたが(ただこの数字もベノミクスの効果を盛るために、統計を改竄されたせいで、信用できません。 公文書の改竄や隠蔽が堂々と行われも咎められないような、 本当の三流独裁国になってしまいました、、とほほ)、結局、不安定で低賃金の非正規雇用が増えただけで、経済活動は活発化しませんでした。その一方で消費税を上げるというようなことをしました。例えてみれば、アクセルは踏んでいるがガソリンは不完全燃焼で動力にならず、その一方でブレーキも同時に強く踏んでいるという状態です。それでは、前に進むどころか日本経済が止まるのは当然です。

不景気だ、円安だと言いながら、バラマキもマトモにできず、減税もしない、それも自民党の利権体質と財務省の緊縮財政によって権力を維持したいと願う利己的な理由です。

一方、多少の希望もあります。日本に経済政策で成功し注目を集めている自治体があります。明石市です。明石市は住民の流入と子供の出生増加にによって、人口は毎年増加、出生率は1.7という驚異的な数字を誇っています。この理由は市の子供に投資するという政策で、子供を持つ家庭への特典を増やし子供を育てやすい街を作ろうとしてきた市政の政治主導による成果です。子供は未来の財産という観点から子供に投資し、子育てをしやすい環境を作り上げた結果、子供の人口や若い家庭が増え、結果、子供の教育や習い事を提供するビジネスが発達し、経済活動が活発になり、それが市の財政を潤すという好循環を作ってきました。こうして、不景気の時には、必要かつキーとなるところに呼水となるカネを回していくことで、好循環を開始させるのが政治がすべきことです。明石市が特別スゴイ技を使ったのではなく、当たり前の政策を市民の利益のために実行してきたというだけなのです。明石市長は乞われて、明石での成功事例を国政レベルでも説明してきました。しかし、利権でがんじがらめで己が票のことしか頭にない自公政権と自省の権力維持にしか興味のない財務省は、このごく当たり前の政策をやろうとしません。そもそも「憲法や法を破らない、国会で嘘をつかない、公文書を改竄したり隠蔽したりしない、人を脅したり貶めたりしない、賄賂を使わない、、、」人間として基本の「き」さえできないのだから、当たり前のことが当たり前にできないのも当然なのでしょうけど。
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悪徳の栄えとその終わり

2022-09-27 | Weblog
どうやら、エリザベス女王の国葬以上の税金が投入され、国民の過半数が反対し、予定出席者の半数が欠席し、外国の主要要人は誰も来ない、この違法「なんちゃって国葬」は強行されるようです。現時点で「#最後の最後まで国葬に反対します」のハッシュタグをつけたツイートが10万をこえ、これが終わってもなんちゃって国葬の違法性の追求は終わらないでしょう。国会は、このキシダ版モリカケサクラで延々と引っ張られることになります。

参院選で自民党が議席を維持しまずまずの結果に終わった時、キシダは安堵したでしょう。今後の無風の三年間、アベ式でやりたい放題だと思ったでしょう。予定外の安倍氏の殺害も、このことによって清和会に代わり宏池会の代表として長期に権力を振う地位を手に入れると同時にモリカケサクラと醜聞にまみれた安倍の不祥事を過去のこととして葬ってしまえば、一挙両得、全てが都合の良い方向に動いているとでも思ったことでしょう。

人間、しばしば絶頂の時に判断を誤って転落に転ずるものです。素人の株式投資と同じで、ついに自分の時代がやってきたと思った瞬間、転落はすでに始まっているのです。後年ふりかえった場合に、おそらくこの違法国葬の強行がキシダ転落の始まりであったと思い返されることになるでしょう。しかし、キシダと自民党にとっては転落ですけど、国民にとってはようやく悪夢の自民党政権の崩壊始まりをつげる夜明けの光と解釈されることになるのではないかと思います。

ソ連では、スターリンが1953年に死んでフルチチョフがスターリンの独裁体制の批判を始めるのに三年かかりました。日本においては、官僚人事権、NHK役員任命権などを駆使し、ムチと飴によって行政やメディアを支配し、国家を私物化、ネポティズムによって長期独裁政権を築いてきた安倍は、カネと力でつながった「オトモダチ」で周囲を固める一方、大勢の敵と遺恨を社会に蓄積させました。「信頼と誠実さ」の上にではなく、「欺瞞と利害関係だけ」で成り立っていた安倍政権というのは、まさに砂上に築かれた楼閣でありました。地上の栄養を吸い尽くし代わりに毒素を撒き散らして枯れていった徒花でした。

日本経済の低迷と安倍政権の腐敗の話をした時、知り合いのドイツ人は、安倍がそんなにとんでもないやつだとは知らなかった、と言いました。外国人が知らないのは当然ですが、メディアがただの政府広報になってしまっている日本でも、毎日の生活に忙しい人は、TVのニュースでの印象だけで判断しますから、安倍が何をしてきたかなど詳しくは知ってはいないのです。田舎の人々と話をした時、外交が得意な立派なリーダーだと勘違いしてしている人が結構いました。安倍政権に代表される自民党の利権体質や腐敗が総括され強い批判に広く晒されるにはまだ多少の時間がかかるかも知れません。

結局、禅譲で政権が回ってきたキシダは安倍式をそのまま引き継げば良いとでも思っていたのでしょうが、あいにく、安倍式ももう限界、そしてキシダにはそもそもカリスマというものがない。それがキシダの計算違いでしょう。この違法で民意に反く「なんちゃって国葬」が強行されるのは、自民党独裁政権の近代立憲民主主義への冒涜に他ならず、忌々しい限りです。しかし、同時にこれは自民党腐敗政治の終焉への象徴となるのかも知れません。
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le verlan

2022-09-23 | Weblog
どうでもいい話。

昔、医者がエラそうにしていたころ、患者さんや一般の人には理解できないように一部の単語をドイツ語をいじった言葉に変えて会話するという習慣がありました。入院はアウフ、退院はエント、食事はエッセン、ゲロはエルブレというような感じです。今はドイツ語ではなく英語が医学用語のスタンダードになり、医療現場も多少オープンになって、多分こうした習慣は廃れたのではないかと思います。

同様に、音楽業界や芸能界の業界用語というのもありました。私は業界の人間ではないので、ジャズマンが書いたエッセイなどからそうした言葉を知りましたが、例えば一万円、二万円をチェーマン、デーマンと呼ぶような音階を数字に当てはめたり、言葉の一部を省略して、例えば「前借り」(アドバンス)を「バンス」と言ったりします。そういえば昔、深作欣二監督の「上海バンスキング」という映画もありました。それから、もっと多いのは音節の前後を入れ替えるヤツです。森田はタモリ、日本はポンニチ、食事はシーメという具合です。これらの業界用語がどのように発達して根付いていったのか、あまり深く考えたことはなかったのですけど、先日、フランス語の(レッスンの)ビデオを見ていて、ちょっとその歴史に興味が湧いてきました。

というのは、フランス語でも「シーメ」があるということを知ったからです。フランス語のシーメはもちろんメシのことではなく、メルシ(Merci)のことで、その音節をひっくり返したものです(Cimer, 実際にはシーメアと発音される)。同様に「Ouf」は「Fou (crazy)」、「Muef(カノ女)」は「Femme (女)」の音節を逆にしたものです。またバンスのように一部が省略される場合もあるようで、例えば、アメリカ人 [アメリカン americain]は「リカン」となります。

こうした言葉をフランス語では le verlanと呼び、起源は中世に遡るそうです。Wikipediaによると「広く使われるようになったのは1970年代に入ってからで、verlanという言葉の登場自体も1950年とされている。、、、1970年代から1980年代にかけて、郊外でよく使われていたverlanは、その住民のアイデンティティのひとつとなった。疎外感を感じた若い世代は、黒いジャケット(1950年代にロッカーが反抗的なイメージを示すために着用した衣服)やベルランの使用を普及させた。、、、」とあります。[verlan という言葉(発音的にはヴァロン)が、"l'envers(逆向け、発音はロンヴァ)"という言葉の音節をひっくり返したものです]

というわけで、verlanが市民権を得て、フランスで流行し始めたころと、日本でバンドマン用語が使われ出したころとはほぼ一致するのではないかと想像します。とすると、日本の業界用語の起源は中世ヨーロッパ発の言葉遊びではないだろうかと思ったりするのですけど、どうでしょう?誰か知りませんか。
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