百醜千拙草

何とかやっています

地味に怒る

2022-05-27 | Weblog
ようやく三年がかりの論文を投稿しました。予想通り、第一志望の雑誌は編集室レベルでリジェクト。同紙の姉妹紙に再投稿(この間、週末をはさんで三日)。これがダメなら次の雑誌は悪名高いN出版グループの一つか、臨床医学系雑誌を得意とする雑誌社の一つにするかを考えています。ま、第一志望以外なら、どこに発表しても大差はないですが。この論文は、頼る人手がなく、データの解析、図の作成、原稿書きも、ほぼ全部自力でやったので、なかなか大変でした。だんだんと運動能力や記憶力などが知らず知らずのうちに衰えているのもあります。最近、コンピューター画面を長時間眺めるのが辛くなり、タイプミスが多くなったことに気がつきました。指の協調運動機能の低下に加え、左目の視力が衰えてきており、集中力と思考力と記憶力は多分、ピークの1割ずつぐらいは減小しているようなので、これらの複合作用はなかなかバカにできません。

その後、依頼されていた二つの論文のレビュー。こういう与えられた仕事をこなすタイプのはまだまだ大丈夫です。経験とかで補えますので。
これらは、二つとも、某国からの投稿で、一つはリバイス。ちょっと分野を外れた雑誌でしたが、そこそこのインパクトファクターの雑誌からで、私が初稿をレビューして、出来が悪いのでリジェクトの判定をしたものであることが判明。どうもエディターが私の意見を覆してリバイスにしたようです。原稿の採否の判断は、雑誌のレベルを考えて、その論文がリバイス後にそのレベルに達するかどうかを想像して決めることが多いと思います。この論文には問題点が多すぎて、その理由を挙げて、リジェクトが妥当であると判断したものですが、その判断をエディターが正当な理由なく覆すということは、エディターが私の時間と労力を何とも思っていないということです。当然、そういう誠意のない編集室に二度も時間を割く理由もないので、依頼はサックリと拒否、雑誌はブラックリスト入り。ま、そもそもバカにされて雑誌社の金儲けに利用される私が悪いのですが。

もう一つは、とある学会の機関紙で、その専門分野ではNo2の雑誌。この国からの投稿原稿の九割以上でよくあることですけど、実験方法の記載がなっておらず、結論に沿ったデータを並べただけの評価不能の論文。こういうのは読んで内容を理解することさえ非常に苦労します。それでもなんとか解読して問題点を書き出して、コメントをしようとしたのですけど、論文からとにかく怪しさが漂ってくるのです。それで、ふと、バンドがいっぱいのウエスタンのデータの高画質画像をダウンロードし、二つの別の図で比べたら、明らかに古典的な手口のバンド画像の使い回し。バンドを小さな単位に切り刻んで、それを縮尺を変えたり反転させたりして組み合わせて合成し、画像処理をしてあたかも一枚のゲルのようにしてあります。わざわざ縮尺やコントラストを変えて反転させたり順序を変えたりした上で作ってますから、うっかりミスという言い訳はできません。それにしても、同じ論文の二つの図で使い回しますかね?わざとバレるようにやったのか、それとも単に知恵が足りないだけなのか。いずれにしても、明らかに犯意をもってやったことで、おかげで心置きなく最低評価でリジェクトを押すことができました。

ま、こういうことがあるので、他人のデータは話半分で聞く癖がつきましたし、そもそもこの国からの論文は最初から疑ってかかりますけど、それでも、科学出版というのは、著者がウソをついていないという前提で審査されるものなので、一応、読みにくい原稿に時間を費やして、不整合をチェックしてコメントを書いた後に、実際にこういうことを発見すると地味に怒りが湧いてきますね。

コミュニティーに多少でも貢献するという気持ちで、こうした仕事を引き受けているつもりでしたが、その善意を踏み躙られるような経験をするのは、自分のやってきたことを否定されているような気にもなります(ま、もうそういうことが、多すぎて慣れましたど)。

人間社会ですから、お互いがお互いを利用しあって生きているわけですけど、それでもそこに、誠意は不可欠でしょう。誠意は筋を通すとか建前を重んじるという形になって表れますが、最近は、筋とか建前を軽んじる傾向が強くなったと感じます。人々が人間としての成熟を軽んじ、刹那主義的になり動物化してきた結果なのでしょうか。

腐っていない部分がない業界などそもそもないですけど、私には腐っているものをつまんで捨てたりするだけの気力も体力ももうありません。この世に居場所がなくなっていっても、今後も臭いものにはなるべく近寄らない、危ないところには行かない、嫌なことからは素早く逃げる、というポリシーでやっていくつもりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二流植民地から三流独裁国へ

2022-05-24 | Weblog
バイデンが日本に到着したというニュース。どの報道も当たり前かのように、バイデンが専用機で米軍横田基地に到着して、米軍のヘリで都心へ入ったと報道しています。トランプも同じルートで来日しました。しかし、それ以前の大統領は(一部、例外を除き)成田か関空といった普通の空港から正規の入国手続きを経て来日しています。しかし、トランプにしてもバイデンにしても直接在日米軍基地に入り、軍用機で国内を移動したということは、日本政府の正式な入国手続きを受けていない可能性が高いということです。この意味するところは、バイデンは、日本を独立国と見做しておらず、他国を訪問する大統領としてではなく、米軍の最高司令官として日本という植民地に来たということを示唆すると思います。バイデンは日本の軍拡とアメリカ軍事戦略への参加について話したそうですから、昔ながらのアメリカ軍事産業、戦争商人の代弁者としてきたのでしょう。幸い、バイデンも二期目はなさそうですが、トランプも御免です。

さて、大統領といえば、今年の選挙では、フランスでは極右候補ルペンを抑えたマクロンが二期目大統領、そして、つい先日のオーストラリアでは保守をおさえて労働党が下院の多数を握り、9年ぶりの政権交代となりました。この世界的趨勢を見ていると、全体主義と個人主義が拮抗しているなかで、それでも個人と庶民の権利を国家よりも上に置く政党が支持されているのかなと思います。問題は日本です。世界の中で日本だけ異常な気がします。

参院選が迫ってきました。先進国で唯一、経済政策の失敗で貧しくなった国、日本。ここまで国民が痛めつけられているのに、さらに消費税増税、改憲による全体主義、侮辱罪、などなど、数えきれないほどの悪法を強行採決し、格差を拡大し、国民の自由を奪い、独裁三流国家に向けてまっしぐらの自民党、その首相の支持率が高い。確かに前任者とその前にくらべては穏やかそうで反感を買いにくいとは言え、無能さにかけてはそれ以上です。アベは言うだけ(それもウソを)、スガはしゃべりもできず、そしてキシダは聞くだけ。その間に悪魔のアジェンダを粛々と実行していく自公維。ま、こういう連中が選挙で当選していくのだから、民意といわざるを得ないわけですが、半数の国民は政治や選挙に関心を持つ余裕がないと状況、貧すれば鈍する、下降スパイラルに入ってしまった以上、抜け出すのは容易ではありません。

れいわや共産党や一部の立民がいくら本気で訴えても聞く耳がなければ国民を選挙に向かわせることさえできませんから、残念ながらこの参院選で野党が逆転できる可能性は極めて少ないと言わざるを得ません。

その後の三年間は三流独裁国への道を真っしぐらでしょう。ヘタをすると自民党はこの隙に、改憲し、どこかの国の戦争にわざわざ介入して、非常事態を宣言し、自民党改憲案99条に基づいて、国政選挙を延期し、独裁政権を永久に続けようとするかも知れません。

その間、政権批判は、先日、成立した「侮辱罪厳罰化」でどんどん取り締まり、政府を批判するものは刑務所にぶちこみ、言論封殺する。ロック歌手が大統領を批判したら五万ルーブル罰金刑のような国になる(もうなってますかね?アベ批判で詐欺罪をでっち上げられて収監された籠池さんの例もありますから)。

いずれにしても、三流独裁国家の国民生活がどんなものか想像するのは難しくないでしょう。日本人で北朝鮮で生活したいと思う人は余りいないと思います。そうした国が栄えて、世界に貢献することはありません。

明治以後、国際社会で一定の存在感を発揮してきた日本でしたが、この参院選以後は急速に国際社会から脱落し、そして忘れ去られていくだろうと想像されます。上がれば落ちる、栄えれば滅びる、それは歴史の必然とはいえ、まだ日本が(少なくとも経済や科学技術で)一流国と思われていた時期に青春時代を過ごした者としては寂しい限りです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余剰動物と刑事告発

2022-05-20 | Weblog
以前、動物実験に関しての主にヨーロッパ諸国の対応について述べました。ヨーロッパ諸国ではanimal rightsに関する関心は高まる一方で、動物実験施設を閉鎖する研究施設もでてきました。確か、今年もスイスではこれまでも数回行われて僅差で否決されてきた動物実験全面禁止案の国民投票が行われる予定です。
最近のScienceのフロントページで、今度はドイツでの興味深い動きが報じられていましたので下にその一部を。

、、、、多くの国で、動物愛護団体は何千、何百万という動物が医学実験に使われていることを非難している。ドイツでは、活動家たちは新たな問題を取り上げていいる。研究の基準を満たさないか、研究系統の繁殖の過程で生まれたために、実験に使われることなく処分される多くの動物に注目したのだ。
 ドイツのヘッセン州の検察当局が、地元の大学やその他の機関によるこうした「余剰」研究用動物の殺処分が犯罪に当たるかどうかを調査していることが、サイエンスの取材で明らかになった。この殺処分は、合理的な理由なく動物を傷つけることを禁じた同国の厳しい動物保護法に違反するとして、2021年6月にドイツの動物保護団体2団体が検察当局に複数の訴えを起こしたことから、捜査が開始されることになった。、、、

ドイツの動物保護法は、EUの動物研究規制とともに、脊椎動物を正当な理由なく殺した者に罰金または最長3年の懲役を科すものである。、、、
2年前、EUの研究機関が940万匹の動物を実験に使用した2017年、約83%がマウス、7%がゼブラフィッシュの実験飼育動物で、それらの研究が行われないまま1260万匹が殺処分されたとEUは推定している。その過剰な研究動物の約3分の1がドイツで飼育され、殺されていたと、連邦食料農業省は推測している。
ドイツの過剰な研究動物をめぐる議論は、2019年に高等裁判所が「脊椎動物を経済的理由だけで殺すことはできない」という判決を下したことで盛り上がった。この事件は研究動物ではなく、世界では鶏しか評価しない卵生産施設で日常的に殺処分されている雄のヒヨコが対象だった。、、、

動物保護法に基づく10年前のドイツの判決では、「適切な動物飼育施設が確保されている場合に限り」動物園での繁殖を許可されるとしている。他の動物にも同じ原則が適用されるべきであると彼女は言う。研究機関は、少なくとも余った動物が自然に死ぬまで飼育するべきだが、そうするとすぐに現在の収容能力を超えてしまう。、、、

いくつかの研究機関からは進展が報告されている。ゲーテ大学フランクフルトによると、2017年以降、研究に使われない実験動物の数はほぼ30%減少したという。サイエンスが接触した他のドイツの機関も、同様にその数を減らそうとしていると強調している。

他の国では動物保護規制がそれほど厳しくなく、透明性も低いことが多いため、動物愛護団体の戦術がドイツを超えるかどうかは不明だ。米国では、研究に使われる動物の数さえも把握されておらず、年間1千万匹から1億匹以上と推定されている。その結果、米国の研究所は「社内の倫理委員会以外に数を正当化する(あるいは数える)必要もなく、過剰な動物を殺すことができる」と、ハーバード・ロースクール動物法・政策プログラムの客員研究員である獣医のラリー・カーボーン氏は言う。、、、

人々は、この刑事告訴がドイツの動物研究の将来にとって何を意味するのかを考えている。彼らはドイツの政治家たちに、動物保護規則を明確にし、いつ、どのような淘汰が許されるかを知るよう求めている。「しかし、最終的には良い議論になるだろう。

というわけで、動物を使った実験はますます制限されていきそうです。同じマウスでも、研究のために使われるマウスの命は尊重されるのに、一般家庭で出る害獣としてのマウスの命は誰も気にしません。鶏卵生産のために間引かれるオスの鶏の命にはこだわるのに、鶏肉採取のために鶏を殺すのは問題ありません。一種のダブルスタンダードですが、上にもあるようにこういう議論をすることは意味のあることだと私も思います。

人間は生きるために他の動植物を利用せざるを得ないわけで、動物実験の制限や食肉習慣の制限は、突き詰めれば、あくまで人間が人間自身の(満足の)ためにやっていることだというのは私は同意します。動植物を殺すことは人が生きていく上で必須ですからゼロにはできません。殺生は罪だと教えられるのに、殺生なしに生きてはいけないのが人間ですから、ダブルスタンダードとか偽善であるとか批判して切り捨てて終わりにするのではなく、万人が納得できる結論は得られなくとも、議論を続けていくことそのものに意義があると私は思います。

このヨーロッパ諸国の動きは遠からず、いずれ世界的に広がっていくと思います。こういう運動が広がると、動物実験が自由に行えなくなり、食肉が制限され、その生産価格は上昇します。本来の目的を達成するためには全てマイナス方向に動き、こうした仕事を生業とする人には死活問題となります。しかるに、失われるものがあれば得られるものがあるわけで、ゆえにこの活動が大勢の人々から支援されているのだと思います。経済効率、便利さと物質的豊かさを追求して、人間は動物や人間(奴隷)やその他の自然資源を一方的に利用してきました。それらへの反省の上に人間社会は成熟してきました。動物を人間のために利用することに対する継続的な反省は、動物よりも人間自身の成熟のために必要なのだろうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脱フィンランド化するフィンランド

2022-05-17 | Weblog
フィンランドは100年ちょっと前のロシアとの戦争で一年にわたる抵抗を続けた後、戦争終結の合意に至り、軍事的に中立化することで独立を守りました。このために少なくない犠牲を払いましたが、それ以来、国境を接するロシアからの軍事的脅威に対し、中立を守ることで安全を保ってきました。この大国に隣接する小国の安全保障上の戦略はフィンランド化と呼ばれ、当初、ウクライナもフィンランド化への提案がありました。その隣国スウェーデンも同様に中立を守ってきました。
しかし、両国とも、今回のロシアのウクライナ侵攻がおこってから二週間後には、ウクライナ政府支援を表明し武器などの供給を決めています。

そして、この度、プーチンとフィンランド大統領の会談のあとで、フィンランドは、正式に中立路線をやめて、NATOに加入する手続きを開始すると表明しました。スウェーデンも同様の意思表明。一方、NATO国であるトルコは、トルコ政府がテロ組織と見なし、何十年も紛争を繰り返しているクルド労働者党(PKK)を、北欧諸国が支援しているとして、この二国のNATO参加に懸念を表明。しかし、他の加盟国は概ね賛成、ということで、この二国は一年以内にはNATO国になるだろうと考えられています。

NATOは1949年、ソヴィエト連邦に対抗する形で設立された。ロシアはかねて、NATOを安全保障上の脅威と見なしており、フィンランドの加盟申請に「対抗措置」を取ると警告している。ウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナがNATO加盟を示唆したことを、侵攻の理由の一つに挙げている。スウェーデンは第2次世界大戦中は中立を保ってきたほか、過去200年以上にわたり、軍事同盟への加盟を避けてきた経緯がある。 一方のフィンランドは、ロシアと全長1300キロにわたって国境を接している。これまではロシアとの対立を避けるため、NATO非加盟の方針を貫いていた。、、、

ということで、この両国の動きが意味することは明らかです。もはやロシアはかつての大国ではなく、ロシアに隣接するフィンランドでさえ、フィンランド化を維持しなくとも、NATO諸国の協力があれば、ロシアは安全保障上の脅威ではないと考えたということでしょう。これは、もしキエフが当初の予定通り数日でロシア軍によって陥落していたら、起こらなかったであろうと推測できます。つまり、侵攻後2週間の時点でこの両国は、ロシアは恐るに足らず、万が一侵攻された場合でもNATOの協力があれば撃退が可能であると判断したのでしょう。もう一つは、多分、この両国がプーチンは信用できない人間だと考えているのではないかな、と想像します。信用できない人間と協定を結ぶのは不可能ですから。

プーチンはこれでますます追い詰められました。NATOの東進を阻むどころか、逆にNATO勢力を増やす結果を産み、何も得るものがないまま撤退せざるを得ないような状況に追い込まれつつあります。

短期的には東ヨーロッパの平和を実現するであろうNATO勢力のさらなる拡大は、長期的にはかえってまずい状況を作り出すような気がします。バランスというものがあるわけですから。まず、ロシアが撤退したあと、東西融和が進むとは思えません。ならば、ロシアの豊富な天然資源に頼っている西側ヨーロッパ諸国は不便を被り、その輸出に頼っているロシア経済は打撃を受けるでしょう。自然と露中印の結びつきは強くなり、アメリカは今度は直接中国を相手にしないといけなくなる。アメリカも中露印が組めば、軍事的にかないませんし。また、仮にNATO諸国がロシアをもはや脅威でないレベルにまで押しやった場合にNATO諸国同士が平和に仲良くやれるとはとても思えません。今度は内ゲバがおこるでしょうし。そういう意味で90年体制(ベルリンの壁崩壊のときの東西合意)を維持する形でロシアと西側とのパワーのバランスが釣り合っているぐらいが長期的には良いのではないかと私は思います。適当に敵がいる方が身内はまとまりますし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャンセルカルチャーと戦争

2022-05-13 | Weblog
前回、キャンセルカルチャーを煽る科学雑誌の話をしましたけど、そもそも、これは、#Me too ムーブメントなどで、本来弱い立場にある人々が声を上げる集団的なプロテスト行動から発したものです。物事は何でも二面あり、集団であることはプラスの部分もあれば、マイナスの部分もあります。集団が同方向に動けば、良くも悪くも、しばしばその個の単純な加算以上の効果を生み出します。そして個よりも集団の和を重んじる農耕民族の日本人は、付和雷同することに抵抗が少ないが故に特に危険だと思います。

今回のロシアのウクライナ侵攻に対する西側諸国と日本の態度もそれに近いものがあると私は思います。
ロシアは国際法に違反したという事実があります。それに関して、バイデン政権と多くの西側諸国は強く非難し、経済制裁を開始し、ウクライナにさらに武器を供与するという行動に出ました。日本も与野党そろって同調しました。これはまさにキャンセル カルチャーの国家版です。

大きく違うのは、ロシアはD.S.氏にように、叩きまくって抹殺できるような相手ではないということです。

そのことを深く考えてたのは、日本の政党では山本太郎の「れいわ」だけではなかったでしょうか。ゼレンスキーの国会演説に際し、全面的支持を表明しなかったのは「れいわ」だけでした。それ以外の日本の政党は、ロシアを非難し、自動的かつ短絡的にウクライナ政府支持を表明しました。「れいわ」が、無批判にゼレンスキー、つまりウクライナ政府、支援を表明しなかったのは、そうすることによってロシアを刺激し、状況を一層悪く可能性があると考えたからでしょうし(事実そうなりました)、またウクライナ政府はむしろこの戦争の原因となった当事者であって、本来、真に支援すべきは、その巻き添えとなって苦しむウクライナ国民であってウクライナ政府に支援を表明することはウクライナ国民の救済にプラスになるとは限らないと考えたからでしょう。

そして、武力で参戦しない場合に他国ができる介入は経済制裁ですが、ロシアに対する経済制裁に「れいわ」は反対。その際の説明には関心しました。経済制裁に反対する理由として、山本太郎は、過去の国際紛争における経済制裁の例を解析し、経済制裁はその国民に苦難を与える一方で、それが戦争終結に有効であった例は三割に過ぎず、しかも、その実現にも平均10年かかっているという事実をもとに説明しています。つまり、経済制裁は副作用は強いが効果の薄い手段であるということをデータに基づいて考慮した上の意見表明でした。

一体、どれだけの日本の政治家が、目的を定義し、データに基づいた仮説を立てて、最適のアプローチを選び、結果を想定し、プランBを考えつつ行動する、という科学的手法を使いこなせているでしょうか。こうしたやり方は科学者にとっては、当たり前に聞こえるかも知れませんが、実践するのはプロの科学者であってもしばしば易しいことではないです。

また、この戦争において、目指すべきところが何かを、最もよく考えていたのも山本太郎でしょう。特に自民党の発言を聞いていると、戦争の勝ち負けが何を意味するかさえ、理解している人は多いように思えません。

この戦争においてウクライナがロシアに勝利し、ロシアを降伏させることはあり得ません。ウクライナにとってのゴールは停戦に持ち込んで、紛争の原因になっている問題を先送りにすることでしょう。それがほぼ唯一、国土を救い、国民の生活と生命を守る方法だとゼレンスキーも考えているはずです。つまり、戦争が継続することそのこと自体がすでに敗北です。マトモに戦って勝てる戦力がないのに、戦争を仕掛けられるような状況を招いてしまった時点で負けです。しかし、現在のように一方的に暴力が振われる状況になってしまえば、最終的に勝てないわかっていても国を捨てるという選択をしないのであれば、とりあえず戦う以外にありません。ウクライナはそういう状況にあります。

一方、バイデン政権はロシアが戦争によって弱体化することは目的にかないますから、戦争が継続してくれる方を望んでさえいるかも知れません。ウクライナが荒土となり、大勢のウクライナ人やロシア兵士が死んでも、アメリカに対するダメージは少ないですから、ロシアとウクライナ双方が望んでいる「停戦合意」のための仲裁などやる気もないようです。

日本を振り返りますと、日本の政治家は中国を仮想敵国と考えているようですが、ウクライナがマトモに戦ってロシアに勝てないように、日本がマトモに戦って中国軍に勝てるわけがないです。だだでさえ、こちらは没落国、あちらは急激に発展中、こちらは少子化、中国は日本の十倍以上の人口、軍事予算も中国は世界第三位で日本の五倍、軍人の数も十倍以上、その他あらゆる戦闘能力の指標で、日本とは圧倒的な差があります。日米安保の在日米軍が仮に加勢に入っても焼け石に水でしょう。

政治家がすべきことは、戦争になったときに戦えるように備えることではなく、戦争を起こさないためにどうするか、それでも万が一、戦争になったときに、いかに国民の生活と生命と自由を守るかを考え準備することでしょう。軍拡して先制攻撃も可能になるように改憲をし、戦争になったら最後の一人になるまで戦い抜く、というのは、もっとも短絡的、短慮で最悪の手だと思います。

もっとも、日本で参院選後に自民党が画策している改憲の真の目的は、長期独裁政権を可能にするための緊急事態条項の導入でしょうから、戦争はおそらく単なる口実なのでしょうが。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャンセル カルチャーと敵意の世界

2022-05-10 | Weblog
セクハラで失脚したD.S.氏のNYUでの雇用の可能性を報じたScience誌ですが、その後、D.S.氏のNYUへのリクルートメントに関してNYUの学生と教官の強いプロテストがあり、結果、D.S.氏はNYU医学校と合意の上でNYU教官候補を辞退した、というニュースを報じています。

「キャンセル カルチャー」によって、有名人や一般個人が、徹底的に社会的に抹殺される近年の風潮について、少し前に述べました。今回の件や、それから過去の関連した例、ソーク大のI.V.氏の事件やHarvard MedicalのP.P.氏などのセクハラ事件、などを思うと、これらのスキャンダルをフロントページで大きく報じて、キャンセル カルチャーを先頭を切って煽っているのは、こうした一流科学雑誌の編集部なのではないかと感じざるを得ません。

結局、雑誌は読者の欲する記事を載せようとします。ゴッシップ記事というのは科学の知見以上に人々の欲望を刺激することを雑誌社も当然よく知っているでしょう。しかも彼らには「科学の健全なる発展を支援する」という大義名分がありますから、過ちを犯した研究者を写真入りで名指しで糾弾することは、彼らの使命に一致する(少なくとも表向きは)とその行いを正当化できます。

記事はあくまで事実の記者の解釈ですから、100%公平な報道はあり得ません。そこに編集室や記者の意思、読者や関係者への忖度が反映されます。メディアは第四の権力と言われるように、そのパワーはしばしば破壊的であり、週刊誌や新聞が意図的に個人や集団にダメージを与えるために使われるというのはよくあることです。そして、一旦、有力メディアによってスティグマを押された研究者に与えられるダメージは深刻で、その回復はそのメディアでさえ極めて困難です。ゆえにメディアの記者は良心とともに細心の注意をもって、公平な立場で読者が判断できる形で記事を書く義務があり、その権力をもって、公衆の利益を口実に個人の人権を損なうことを意図してはならないと私は思います。

アメリカでは裁判になった時点で、提出された文書は公文書になり、誰でもその内容にアクセスすることができます。この事件に関してはD.S.氏が研究所と告発者に対して裁判を起こし、それに対して告発者が訴え返したために、コトの詳細は裁判文書として公開されています。告発者の訴状には、告発者の氏名、経歴から、告発者とD.S.氏がどのような会話をして、何回D.S.氏とどこで性交渉をもったとか、などのことがこと細かに記載されており、誰でも見れます。(このシステム自体どうかと思いますけど)そして、今回、この個人の極めてプライベートな情報が満載の裁判文書を、わざわざツイッターで拡散し、D.S.氏を糾弾した女性研究者の人がいました。

しかし、拡散された文書は、あくまで告発者の主張であって、D.S.氏の主張とは食い違っているわけですから、それが事実であるという証拠はどこにもないのです。はっきりしているのは、D.S.氏が指導教官と学生との恋愛関係を禁じた施設のポリシーに違反したということです。

そのツイッターで裁判文書を拡散した人は、「研究に携わる大勢の人がこれを読んで、D.S.氏が告発者の人にしたことを知ってもらいたい」と書いています。この人は、この告発者の訴状にある記述、つまり告発者から見た事件の解釈が疑う余地のない事実であると信じているようです。そうかも知れませんけど、そうでない可能性も十分にあります。その一方の言い分を無批判に拡散し裁判当事者の一方を糾弾するというのは、科学者の態度ではないと私は思いました。相手の言い分、第三者の言い分は無視ですから。

それから、この人は、こうした情報を拡散し非難をすることの長期的な影響を深く考えているようには思えません。人々は、セクハラポリシー違反という事実があるからこそ、水に落ちた犬を遠慮なく叩きます。叩いて、プライベートな情報の入った訴状を晒して拡散します。彼らの目指すところは、罪を犯した個人の社会的抹殺であり、科学雑誌の編集部がそれを煽っているのです。

問題を起こした有力者を、集団で叩きまくって抹殺して問題を解決しようとする態度は、私はまずいことだと思います。一種の集団ヒステリーですから。

こういう傾向が最終的にどのような影響を当事者のみならず、社会全体に及ぼすか、何となく想像がつきます。一つの過ちを犯した場合に、それに応じて粛々と罰を与えられて事件を決着させるのではなく、直接の関係者でない一般の人々にも情報が拡散されて、彼らが懲罰に参加し、個人が集団によって社会的に抹殺されるところまで行き着くなら、人々は萎縮し、お互いを敵と味方に分類して牽制しあうような世界になるでしょう。戦前の日本のような全体主義国家を思い出させます。結果、大学からは自由な発想や創造性は失われ、社会はお互いを監視し合う敵意にみちた場所になるのではないでしょうか。

法律違反、規律違反に反したものは、それに応じた罰を受け、罪を償うべきだと思いますけど、定められた以上の罰を与えられるべきではないと私は思います。過ちを犯さない人間はいないのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘッドライン

2022-05-06 | Weblog
前回、チョムスキーの今回の戦争(ロシアは数日以内にウクライナに対し正式に宣戦布告をするようです)に関する解釈を紹介しました。かつて、著名人とはいえ、一介の言語学者にすぎないチョムスキーが、どのように情報を集めていると聞かれて、情報源は新聞やメディアであって特別なものはないと答えたのを覚えております。複数の情報から仮説を立て、それをpost-hocに検証していくことで事象の本質を解釈するということでしょう。論理と科学的アプローチで言語や社会を解釈するのがこの人のスタイルのようです。

昨日のウクライナ、ロシア関連のGoogle Newsのヘッドラインを並べてみますと、東西の対立とその狭間で苦難にあうウクライナという構造が見えます。

しかし、なぜそもそもアメリカがここまで反ロシア姿勢を強めたのかについては、私はよくわかりません。最初のクリミア半島へのロシアの侵攻時、アメリカの副大統領はバイデンでした。そして、ロシア疑惑のトランプ政権がおわり、バイデン政権になってから反ロシアはエスカレートしています。

ロシアが岸田首相、林外相ら63人の入国禁止
露外務省は入国禁止リストの発表について「岸田政権は過去に例のない反ロシア施策を推進した」と位置づけ、ロシアに対し「侮辱や直接的な脅威を含む、許しがたいレトリックを許容した」と主張した。(ついでに言うと、日本共産党の志位委員長もこのリストに入っています)

ドイツ大統領のウクライナ訪問を拒否
ドイツの国家元首のシュタインマイヤー大統領がウクライナから訪問を拒否された。ロシアに融和的とされる姿勢をウクライナ側が懸念したとみられる。

バイデン氏 ジャベリン工場視察
アメリカのバイデン大統領は3日、ウクライナに大量供与している携帯型対戦車ミサイル「ジャベリン」の製造工場を視察した。バイデン大統領は、ロシア軍の戦車への攻撃に最も効果的な兵器の1つだと称賛し、支援の継続を強調した。

EUが対ロシア追加制裁案 年内に石油禁輸へ

プーチン氏とマクロン氏、ウクライナ情勢巡り会談
プーチン氏は、ウクライナ側の停戦交渉での立場に一貫性がないと批判する一方、ロシアは交渉による問題解決に前向きだと主張し、欧米側がゼレンスキー政権に対し停戦実現へ働きかけを強めるよう求めた。

「編集長襲撃はロシア情報機関の犯行」 米国務長官が言及
ブリンケン米国務長官は3日、首都ワシントンで記者会見し、2021年のノーベル平和賞を受賞したロシア紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長が襲撃された事件について、「米情報機関はロシアの情報機関による犯行と判断した」と明らかにした。

これらのヘッドラインを眺めると、ウクライナは停戦に向けて、妥協案を表明してきているが、ロシアとは条件の合意に未だ至らず、一方で、ウクライナを西側に取り込みたいアメリカとEUはウクライナの徹底抗戦を望み、ロシアとプーチンに対する敵意と非難を煽っているのが分かります。一方で日本はアメリカと西側諸国の後を金魚の糞のようについて回るだけ。ロシアはアメリカのいいなりの世界9位の軍事費を費やす日本が加勢すると面倒だからと牽制。そして、当のウクライナはアメリカと西側諸国の態度に不満を募らせつつある状況が浮かび上がってきます。いまや、アメリカと西側諸国およびそれに追従するだけの日本、これらの国が停戦を望むウクライナとロシアの障害となっているのではないでしょうか。

ロシアの西側に対する反感を大きくし、今回の侵攻にいたったのは、ベルリンの壁が崩壊し冷戦の終結時にゴルバチョフが西側と結んだ約束(NATOの東方拡大はしない)をアメリカとNATOが無視にしたことでしょう。(少なくとも、ロシアはそれを直接の理由に主張しています)
しかし、もう双方、感情的になっていて、30年前の約束は水掛け論となり、子供の喧嘩しているわけですから、簡単には収まりません。ここはアメリカとNATOが大人になって、とりあえずその根本の問題を先送りにし、ウクライナの武力支援の停止を条件にロシア軍の撤退を提案し、他の国連メンバー、フランス、中国、イギリスに仲裁役を依頼するぐらいでないと前に進まなだろうと思います。

そして、この米露の対立の結果として直接の苦しみを受けているのはその狭間に位置するウクライナ。また、欧米と中露印の対立がエスカレートすれば、太平洋を挟んで、日本も米中の狭間、ウクライナの苦しみを味わうことになるかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョムスキー インタビュー

2022-05-03 | Weblog
元朝日新聞記者のジャーナリスト、鮫島浩さんが、ウクライナ情勢についてのノーム チョムスキーの最近のインタビューの要旨を訳されていますので、リンクします。

、、、
ウクライナをさらなる破壊から救うために必要なことは、交渉による解決である。
この戦争が終わるのは二つのケースしかない。ひとつは、どちらか一方が破壊される場合だ。ロシアが破壊されることはない。つまりウクライナが破壊される場合である。もうひとつは、交渉による解決だ。ウクライナの人々をさらなる大惨事から救うため、交渉による和解の可能性を探ることが最大の焦点となるべきである。その際、プーチンや彼の取り巻きの胸の内を覗こうとしてはいけない。それを推測することはできても、それをもとに判断することは賢明ではない。

一方、バイデン政権の姿勢は明らかだ。それは「いかなる交渉も拒否する」というものである。この方針は、2021年9月1日の共同方針声明で決定的となり、その後11月10日の合意で強化された。その内容をみると「基本的にロシアとは交渉しない」と書いてある。そしてウクライナに「NATO加盟のための強化プログラム」へ移行することを要求している。その内容は、ウクライナへの最新兵器供与の増加、軍事訓練の強化、合同軍事演習、国際配備の武器の供与などだ。これはバイデンがロシアの侵攻を予告した前に提示した方針であり、ウクライナ政府がロシアとの交渉を通じて解決する選択肢を奪った。
バイデン政権の強硬姿勢が、プーチンとその周辺を軍事侵攻へ駆り立てた可能性がある。バイデンがその方針を貫く限り「最後の一人になるまで、ウクライナ人は戦え」というのと同じだ。
、、、
ゼレンスキーがウクライナの人々が生き残れるかどうかを気にかけているのは明らかだ。だからこそ、ロシアとの交渉の基礎となりうる妥当な提案を次々と打ち出している。政治的解決の大筋の方向性はロシアとウクライナの双方で以前からかなり明確になっている。もしバイデン政権がロシアの侵攻前から交渉による解決を真剣に検討する気があったのなら、今回の進攻は避けられたであろう。
、、、
ラブロフ発言が意味するのは、ウクライナを「メキシコ化」するということである。メキシコは自分の道を自分で選択することができる、ごくふつうの主権国家として存在している。しかし仮にメキシコが中国が主導する軍事同盟に参加して最先端兵器や中国製武器を米国との国境に配備し、人民解放軍と共同軍事作戦を実施し、中国から軍事訓練や最新兵器を受けるという状況が起きたら、米国は絶対に許さない。、、、しかし、米国は自分自身が絶対に許さないと考えていることを、ロシアに対して実行しようとしたのである。、、、

と、チョムスキーは、今回のロシアの侵攻は、アメリカが招いたものであり、アメリカとNATOが政治的交渉による戦争終結を阻み、徹底抗戦を煽っていると考えていることがわかります。続いて、ロシアに対する敵意を煽ってきたメディアの問題に触れています。メディアの問題は、アメリカ以上に日本で深刻であり、日本の大手メディアはNHKからして、すでにほとんどが政府広報機関と堕しつつあり、本来の機能を失ってしまっています。(鮫島さんが朝日新聞を辞めたのも、森友をスクープしたNHKの相澤さんが左遷され辞職に追いやられたのも、そういう事情でしょう)

(メディアに関して)
、、、国際安全保障を専門とする記者が「戦争犯罪人にどう対処すればいいのか?」という記事を書いた。「どうすればいいのか?私たちはお手上げだ。戦争犯罪人がロシアを動かしているんだ。どうやってこの男と付き合えばいいんだ?」と。この記事の興味深い点は、それが出たことよりも、世論がそのような記事を期待していたため、嘲笑を誘わなかったことだ。

私たちは戦犯の扱い方を知らないのか? もちろん知っている。
米国における最も代表的な戦争犯罪者の一人は、アフガニスタンとイラクへの侵攻を命じた人物である。戦争犯罪者として彼を超える人間はいない。
実はアフガン侵攻20周年にあたる2021年10月に、ワシントンポストがその男にインタビューをした。この記事は一読に値する。そこには、愛すべきおっちょこちょいの爺さんが孫たちと遊んでいる様子、幸せな家族、彼が出会った素晴らしい人たちの肖像画を披露している様子が書かれていた。つまり、米国は「戦犯の扱い方」をよく知っているのだ!
、、、

米国は、なぜ世界の一部しかロシアへの経済制裁に加わらないのかを理解していない。世界地図をみて「制裁国一覧マップ」を自分で作ってみれば一目瞭然だ。英語圏の国々、欧州、アパルトヘイトの南アフリカが「名誉白人」と呼んでいた日本、および旧植民地の数カ国。たったそれだけである。

米国は自国の文明のレベルを上げて、過去の被害者の立場に立って、世界を見なければならない。そうすれば、ウクライナに関してももっと建設的な行動を取ることができるはずだ。(日本はアメリカよりももっと深刻ですが)

(対談は、ウクライナ戦争でバイデン政権が仕掛けるプロパガンダに欧米メディアが加担し、権力者を監視する健全なジャーナリズムが機能せず、好戦的な世論が高まり、戦争の本質が見失われているという問題提起に行き着く。チョムスキーの締めのメッセージは善悪二元論に染まる日本社会にも当てはまると思うので、ここに引用したい。)

米国はいま、最後のウクライナ人まで戦わせようとしている。もしあなたが少しでもウクライナ人のことを気にかけているのなら、この事実を批判するのは正しい行動です。、、、

日本においても改憲して軍装化を進め、どうどうと戦争をできる国にしようとしているのが自民党。自民党は、アメリカに言われるがまま、アメリカからどんどん武器を買って儲けさせた挙句に、日本をウクライナのようにしたいらしい。為政者が日本と国民の安全を守ろうとするのではなく、日本人が最後の一人になるまで焦土になった国土でお国のために戦い続けるような状況に誘い込もうとしているかのようです。そして、恐ろしいことは、多くの日本の国民自身が、戦争をすることは日本を守ることで、最後まで戦い抜くことが尊いことだとでも、メディアに思わされているということでしょう。知恵ある人は、戦争のような状況に巻き込まれるようなヘマはしないし、金持ちは喧嘩しない。戦争になった時点ですでに負けです。

戦争に巻き込まれた時点ですでに恥ずべき失敗を犯したことになるのに、その当たり前のことを与党は言わない。
それは、与党政府は戦争をしたいからだと思います。与党政府が戦争を望む理由は複数考えられます。前にも触れましたけど、9条の改悪と同時に改悪される99条をもとに、9条で可能になった戦争を口実に非常事態宣言を出すことで、内閣が憲法を超えた権力を得て、恒久的な独裁国家を作り出すこと、それから赤字財政の一挙解決。彼らにとっては戦争の大義も勝ち負けも二の次です、ちょうどアメリカの最大の戦犯のように。それに、自民党のこれまでの行いから、彼らが国民と国土の安寧を屁とも思っていないのは明らかですし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cancel culture と second chance

2022-04-29 | Weblog
細胞生物学界の堕ちた星、mTOR manのDS氏。昨年セクハラで研究室閉鎖、研究所追放され、ついにはMIT教授のタイトルも失ったようで、人々の記憶から早くも忘れ去られようといましたが、ニューヨークの名門校、NYUが雇用するかも、というニュース

NYU他の教官や関係者の多くは難色を示しているようですが、一方で、支援を表明するかつての研究員らもおります。そのNYU医学校の学長は、DS氏のリクルートメントに関しての教官へのメールで、「暴徒は、異なる考えを持つ人を強硬に『取り消し』たり、反証が困難な方法で根拠なく個人を攻撃したりしたくなる」と述べたそうです。

この学長のメールで、「(人を)取り消す(キャンセル)」という言葉が使われていますが、この言葉は、"cancel culture" という言葉で表される最近の風潮を踏まえたもので、この文章から、NYU学長は、DS氏を速攻でクビにした研究所と大学および財団のとった行動が性急で行き過ぎたものであると批判的に考えているらしいことが伺えます。

Wikipediaによると、「キャンセル文化 (cancel culture または、call-out culture)」という言葉について、「#MeToo運動の一環として使われるようになり、#MeToo運動は女性(と男性)に、特に非常に力のある個人に対して、公に告発することを促進した。、、、キャンセル文化というフレーズは、社会が攻撃的な行為に対する説明責任を厳密に果たすという認識として使われた」とあります。もっと砕けていえば、力の弱いものが罪を犯した有力者や有名人を集団で吊し上げ、社会的に葬ることを是とする文化とでも言えばいいでしょうか。

人の不幸を喜ぶ気持ちというのは、誰でも多少なりともあるもので、その対象が有名人や成功者であればあるほど、喜びは大きく、そしてその黒い喜びを表現したいと思う人も少なくないです。芸能人が薬物や脱税で捕まったりした後の、匿名のコメント欄など、この手の書き込みで一杯です。

このキャンセリングは、しばしば匿名の集団的行動であり、かつ正当な非難の理由があるがゆえに人は軽い気持ちでこの集団リンチに参加して、容易に「炎上」するのだと思います。結果として、こうした人々の行き過ぎた行動は当初の#Me too運動の趣旨から乖離してしまい、ネガティブな大衆行動を示すものとして「キャンセル文化」という言葉は使われるようになっています。

DS氏に関しては、セクハラポリシーに違反したのは事実としても、今回のように社会的に抹殺されるような処分を受けるべきではなかったと私は思います。男女の仲は薮の中ですから、そもそも、これがセクハラか単なる恋愛問題のこじれが発展したものか私はわかりませんけど、明文化された規則の中に「李下に冠を正すことは、泥棒行為とみなす」とかいてあったのでしょうから、厳密性を尊べば仕方ないのでしょう。

しかし、法律や規則に沿って粛々とやるのが法治国家の原則であるとしても、それを動かしているのは感情をもつ人間です。しかも、この場合、法や規則に沿って粛々と処分が行われたというよりも、所属施設は、ほぼ一方的といえるような形で、DS氏を断罪し解雇しました。噂によると、その年のノーベル賞の可能性が高まってきたところへの不祥事だったので、施設としては受賞が決定的になる前にカタをつけたかったのだという話もあります。これが本当だとすると、規則に沿って粛々とどころか、ポリティカルなモチベーションが大きく作用したということになります。いずれにしても、身から出た錆とはいえ、水に落ちた犬を寄ってたかって叩いたという感じは否めません。法や規則に準じて断罪することが「正しい」ことであるが故に、人は気兼ねなく叩けるわけで、「キャンセル文化」が集団リンチと紙一重である所以でしょう。

それで、以前、トランプがTVのミスUSAコンテストの審査員をやっていたときの事件を思い出しました。優勝者の素行不良が明らかになってタイトル剥奪になりかけたとき、トランプは擁護して、「セカンド チャンスが与えられるべきだ」と述べたのでした。これについては、当時も賛否の議論は当然ありました。コンテストに勝ち残れなかった人々や、大学のポジションを得ることができなかった多く人々、つまり、ファーストチャンスでさえ手にできなかった人のことを考えれば、こうした成功した人々が大きな過ちを犯した後で、セカンドチャンスが与えられることは不公平であるとしかいいようがありません。

しかし、私はそれでも、悔い改めるならば、人はセカンドチャンスは与えられるべきだと思いますし、人を社会的に抹殺するほどに集団で叩くのは良くないことだと思います。誰でも、そうした立場におかれる可能性はあるのですから。キャンセル文化が、正義や公正さという理性的概念を利用した人間のネガティブな感情「不寛容さ、敵意と攻撃性」の表れであることに意識的であることは大切だと思います。不寛容さと敵意、それこそが、今、ロシアとアメリカがウクライナに惨状を引き起こした原因の根底にあるのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐れと右傾化

2022-04-26 | Weblog
フランス大統領選でマクロン再選。対抗馬は極右でプーチンとも繋がりのあるLe Pen。大都市部と東よりではマクロン、北西部でルペンの得票が多かった様子。アメリカの民主党と共和党のように、都市部と田舎で支持政党に偏りがあるのでしょうか。

マクロンの対抗馬が極右というのが、今の世界の潮流を表していると思います。短く言えば「恐れと不安」、「怒りと不満」、「不寛容と敵意」の世界です。
 その逆の理想の世界、「平和と愛」の世界というのは、達成されることは困難です。そのためには、その構成員の大多数がある程度成熟し、同様の価値観を共有する必要があるでしょう。つまり、相手も自分と同じように考えているという前提がある程度保障されることによって、思いやりは生まれ、正のレシプロカリティーによって関係性は安定化するものでしょう。強いて言えば、日本が比較的豊かで、一億総中流と言われた時代はそれにもっとも近かったように思います。逆に、「人を見れば泥棒と思え」という社会では自分も泥棒にならなければ、やっていけません。そして、悪貨は良貨を駆逐するの喩えの通り、質の悪いものの方が、全体に対して、圧倒的に影響力が強いです。何か意義のあるものを作り上げるよりも、それを盗み、破壊する方がはるかに簡単ですから。

世界中で貧富の差が拡大する一方の現在で、愛と思いやりは一部の人々の特権となりつつあります。悲しいことながら、愛と思いやりに満ちた人は、愛と思いやりで報いられるのではなく、むしろ利己的で狡いものに利用されて搾取される方が多い、という現状があり、それが人々をよりdefensiveにさせ、人を疑わせ、内向きにさせて、異質なものへの差別と憎悪を生む原因になっていると思います。

それが、右翼的なものへの人々の親和性を増加させているのではないでしょうか。周りは敵だらけで、やらなければやられる、という恐れがあるからこそ、異質なもの排除し、攻撃的になり、そして、それを正当化するために、なんらかの特性に基づいて自分たちが優れていると信じたがるのでしょう。人種差別者はその差別の根拠を己が属する種は他の種よりも優秀であると信じているからこそ成り立っていると思いますけど、客観的現実は、人種も民族も性別も、人間の出来とは無関係です。

ロシアのプーチンは、アメリカと西側諸国がウクライナを足掛かりに東方に勢力を拡大することを恐れました。ひょっとしたら、彼自身をサダム フセインやリビアのカダフィと重ねたかも知れません。その恐れに支配され、先制攻撃によってそれを防ごうとしたのでしょう。

日本自民党と右翼は、中露印を恐れ、アメリカ軍の二軍として前線で戦争を請け負うことで、アメリカの庇護に頼ろうとしています。軍事費を二倍に引き上げ、改憲によって「戦争放棄」を捨て、自衛隊を先制攻撃も可能な「日本軍」にしたいと思っているようですが、これも恐れによって理性を失っているからでしょう。

そして、イギリスやフランスは流入する移民が生活を脅かすのではないかと恐れ、EUを離脱したり、極右政治家を大統領候補にするようなことになったのだと思います。

「恐れ」は自己防衛本能ですから、恐れることを忘れてはなりませんけど、プーチンにしても右翼にしても、ここで共通しているのは、単に恐れることを忘れないというだけはなく、逆に「恐れ」に支配されて、理性的な思考ができないような状況に陥っているということです。恐れのあまりに、自ら戦争を起こし、国力を消耗し、国際社会から村八分になり、多大な人的、経済的損失を被るのは愚かです。孫子も「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる物なり」と言っております。そんな愚かな戦争に至らぬように、外交というものがあるわけですし。

自民党の改憲にしても、愚かとしか思えません。敗戦後のこの「戦争放棄」の憲法を持つ国が、この80年近く、一度も戦場になることなく、国民を戦争で失うこともなかった稀有な事実を深く噛み締めるべきでしょう。

日本はアメリカの「理想」が組み込まれたその憲法を逆手にとって、「戦争ができない」ことを最大限に利用して、戦後の復興と経済成長に集中することができました。アメリカがそれを不公平だと言っても、憲法を盾にかわすことができました。しかるに、湾岸戦争後あたりから自民党政権は実質的に自衛隊をアメリカの戦争の一部に参加させてきたわけです。思うにこれは日米地位協定と日米合同会議に基づくアメリカの「命令」だったのでしょう。しかし、折角の憲法による「戦争不参加」の口実を自ら捨てて、わざわざ国を不要な危険にさらし、国の体力を消耗させて、アメリカの下働きをしようと、アベ一味と自民党は考えているわけですから、浅慮でなければ売国奴、実態はその両方でしょうが。

普通に議論すると、攻撃したら攻撃しかえされ、戦争になったら、それだけで大変な国力を消耗しますし、負けても勝っても大変です。多分、中国やロシアを敵に想定しているのでしょうけど、そもそも、本気でこられたら、現時点で自衛隊の10倍近い規模をもち、三倍の軍事費を割く核保有国の中国軍に勝てるわけがない。仮に在日米軍が参加したところで、その規模は3万人。仮に勝ったところで、そのダメージからは簡単には回復できないし、中国を制圧し続ける能力も体力もないでしょう。日本は戦争に勝つことよりも、戦争をしない、戦争に巻き込まれないことを第一に考えなければならないです。そのための外交ですが、アベのように、接待したりゴルフするだけで、交渉一つまともにできず、カネをばらまくだけしかできないようでは話になりません。

話をもどしますと、要は、世界的な右翼化、ナショナリズムの傾向は「恐れと不安」の高まりの結果だと思います。困ったことは、恐れに支配された人間は、しばしば論理的思考ができなくなり、短絡的で非論理的な結論に飛びついてしまうということでしょう。

日本で、アベのような人間がメディアを支配し、いまだに愚かな言説を垂れ流し、維新のような単なるアジテーターが人気を集める、という反知性が跋扈しているのは、人々がすでに「恐れ」を理性的に解析することができなくなって、それに支配されてしまっているからかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Paying dues

2022-04-22 | Weblog
三年来のプロジェクトを論文にしようと作業していますが、図を作ったり、データを見返したりという作業は思いの外、時間も手間もかかるもので、ついこうして現実逃避しています。優秀な研究員が実験もデータの解釈も論文も全部やってくれて、こっちは褒めるだけでいいという状況がいつかやってくればいいなと、ずっと夢見ていましたが、そんなことは現実にはおこりませんでした。

面倒なやるべきことを後回しにして、簡単な目先の雑用に時間を費してしまうのは悪い習慣で、嫌気がさすと、わざわざemailを開けて雑用を探し出したりするほどです。それで、とある女性研究者をサポートする組織のフェローシップ応募書類の審査を引き受けたのを忘れていたことを発見しました。どうもこれまでも何度かきていたメールを全部ジャンクメールだと思い込んで読まずに捨てていたようです。締め切りまで時間がないということで、あわてて書類を見ました。応募者はポスドク五年目、数本の筆頭著者論文、二年前にN紙の姉妹紙に一本、BioRxivに発表したものは一流誌で審査中とのこと。研究計画そのものは5ページほどですが、これを書くのにかなりの時間が費やされているのは明らかです。二本の推薦状。これを書いた人は二人とも知っている人でした。普通、推薦状は自分で書いて署名をもらうものだと思いますけど、これは本人たちが自筆で書いたようで、びっしり二ページずつ。

これを見ながら、みんな大変だなあ、とすっかり人ごとのように感じているのに気がついて、ああ、自分は気持ち的にもう現役ではなくなってしまったのだ、と実感させられました。

私は自分で何か作り出すことに喜びを感じますけど、得手不得手でいうと、ゼロから創造することよりも、存在するものを解釈し批評することの方が得意です。実験を繰り返して何らかの発見をすることに興奮を感じますけど、この部分は、悲しいことですが、どちらかというと得意ではないと思います。論文や研究費申請書のレビューは好きではないですけど、うまくできる方です。私の場合、好きなことはあまり得意でなく、得意なことはあまり好きではない、ということです。

そして、私が好きでも得意でもないことが、この業界にはあって、それは、研究を続けていくには、必須のものなのです。つまり、資金獲得競争、論文出版競争、出世競争といった複数の競争にうち勝っていくということです。これらの競争に純粋に学問が関与する部分はごく一部です。

普通は、この現実を必要なものであると受け入れ、割り切って頑張るわけですが、私はもう、アホらしいとしか思えなくなってしまいました。そこまでして研究の権利を手に入れて、多くの動物を犠牲にし時間とカネを費やして実験を繰り返し、ハイインパクト雑誌に科学の成果として発表した知見の半数以上はウソ(再現性がないという意味で)だったというがん研究論文再現性試験の結果を見ると、(驚きませんけど)この競争はアホらしいとしか思えなくなりました。

競争があるのは資本主義社会の常で、どこの世界でもそうでしょうから、私はもはやどこにいってもアホらしいと感じてしまうでしょう。

この熱のこもった応募書類を見て、十年前の自分を思い出しました。彼女らが、短い人生の中で何らかを成し遂げようとして、必死に頑張っているその様子は痛いほど感じるのですけど、素直に頑張って欲しいという気持ちが湧いてきません。研究稼業が私はそれほど素晴らしいものだとは思えなくなったかられです。アカデミアのほとんどの問題は(アカデミアに限らず、どこの世界でもそうでしょうけど)カネで解決できて、カネでしか解決できないものです。そして、カネは全然、足りません。

このフェローシップをもらえる人はおそらく十人に一人以下でしょう。九人の努力は報われません。そう思いながら、評価コメントを書きました。この辺は得意ですから、読んだ相手はイヤな気分になるだろうなあ、とは思いつつも、淡々と弱点を指摘するだけです。

そして、自分が応募者の立場であって、そういうコメントをされた場合に、どうするだろうと、いつも少し考えます。どんな計画にも弱点があるものですが、すぐのその改善策を思いつくような申請書は、十分練れていないものがほとんどなので大体ダメです。そして、簡単に改善策がない場合の多くは、プロジェクト自体の限界です。そういう場合、応募者がどうにもできない場合がほとんどです。それは、多くの場合、種々の外的要因によってそのプロジェクトに落ち着いてしまった応募者の「運」というやつです。

現代社会では、人生はギャンブルで、配られた手札で勝負するしかない、と人は考えます。それを受け入れた上で勝負に勝つために頑張るのを尊いと思うか、そんなギャンブル自体がアホらしいと思うかは、人それぞれ、状況にもよるのではないかと思います。

関係ないですけど、Marvin Gaye で"Life is a gamble"  を。
研究業界も含む現代の社会で生きる人間の宿命が、たった三行の歌詞に述べられています。(1971)

歌詞:
Life is a gamble, oh baby,  
Where you win all rules.  
I'm right, just paid my dues.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

使命に生きる男

2022-04-19 | Weblog
山本太郎、衆議院議員を辞職、参議院に鞍替え出馬のニュース。彼にはいつも驚かされます。

将来、司馬遼太郎のような歴史作家が再び現れて、振り返って平成以後の大河歴史小説を書くならば、間違いなく主人公に選ばれる一人でしょう。そして、55年体制を二度ひっくり返した男、小沢一郎がなし得なかった夢をもし継ぐ人間がいるとしたら、きっとそれは彼ではないでしょうか。

最初に驚かされたのは、その自由党の小沢一郎と組んだ時、二度目に驚いたのは、その自由党を離党し、れいわを立ち上げて、たった一人であの短期間に資金と候補者を集め、全国に旋風を巻き起こし、障がい者を国会に送り込み、国政政党になった時、そして、今回の衆議院の躍進とその辞職。

「れいわ」は、企業や組織の後ろ盾を持たず、市民の支援によって成り立っている戦後日本政治史上初の市民政党であり、それが二度の選挙で衆参で五議席を有するようになっているのです。このこと自体が画期的で歴史的な出来事でありますが、残念ながら、この政党の存在の意義を国民もその他の政治屋も十分に理解しているとは思えません。

一歩下がってより大きな視点で世界を眺めると、近代民主主義が成立した二つの大きな出来事はアメリカの独立戦争とフランス革命であったと思います。市民が立ち上がり、自らの手で戦い、政治形態を変え、近代の民主主義を確立した出来事でした。然るに、戦後日本にアメリカから与えられた民主主義は、日本人国民が勝ち取ったものではなく、今日に至るまで上から与えられ振り付けられたものに過ぎませんでした。だから国民に当事者意識が乏しいのでしょう。れいわという政党とその躍進は、日本における最初の市民革命の最初の炎、または近代日本の大規模な百姓一揆であると評価されるべきだと私は思っています。

山本太郎にわれわれが驚かされるのは、われわれ凡人が常識だと思っている前提(それこそが自分自身の思考と行動を縛っているわけですが)を、彼は意図せずして破壊してきたからです。山本太郎は、「大義 (good cause)」に忠実で、それを実現する最適で最短の戦略を深く考え、ストレートに実行する。かつてコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた田中角栄以上のスケールで。しかもそのコンピューターの計算と行動力は、「人間は本来、自己中心的なものであり、政治家の目的は安定した地位と権力を得ることだ」というようなわれわれの常識や思い込みを遥かに越えてきます。

それは、彼が政治的目的の達成に強い使命感を持っているからでしょう。原発事故の強い衝撃が山本太郎の中の何かを覚醒させ、原発反対運動で芸能界を干されたことがこの国の深い闇と社会問題に目を開かせることになりました。その政治家としての動機はまさに自分自身の肌身の感覚を通じて呼び覚まされたものであったでしょう。政治の腐敗と無能によって国民生活が破壊されてきたことを直接目の当たりにして、強い使命感に目覚め、動かざるをえなくなったのだと思います。彼の持つ「元芸能人」というほぼ唯一の武器をレバレッジにこの10年で彼が成し遂げたものはただただ驚愕に値します。

人間、少なからぬ人が、生まれてきた以上は、世界に貢献し何らかの果たすべき使命を見つけて、それを全うして死にたい、と思うものです。然るに、多くは、自分自身の生活を維持していくことに精一杯で、あるいは果たすべき使命を見出すことができぬまま、若い日の志を忘れていくもので、かくいう私もそういう一人です。だからこそ、使命に生きる人は輝いているし、見るものを興奮させてくれます。

山本太郎の支持者の少なからずが、彼の政策や理念以上にその人生の賭け方に共感していて支持しているのではないかと思います。一方で、ツイッターなどでのコメントを見ていると批判者も多いです。残念なことに、それらの批判で論理的に納得できるような議論になっているものはほとんどないです。だいたいは、無知による的外れな批判、理解できないものの価値を認めたくないという劣等感からの攻撃、使命に生きる人を妬む嫉妬心からの中傷や冷笑、目立つ人間の揚げ足をとって自分を慰める負け犬根性、先入観と偏見(無知の一種)のどれかです。そして、このようなコメントをわざわざ書き込む人が少なくないと言う事実を思うと、今後の日本の政治と社会の先行きに山本太郎ならずとも、楽観的ではいられません。

この参院選が、今後の日本の暗黒の50年を決定づけることにつながる重要な選挙で、その流れを阻止するのはすでに困難な状況にある、という実感をどれだけの国民が持っているでしょうか。生活に追われ、メディアを政権に支配されて、少なからぬ国民は、これまでもアベ一味が着々と内閣が独裁体制を合法的に敷けるように様々な口実を繰り出しては法整備を進めてきたことを、知らないと思います。そして、その仕上げは改憲です。憲法改悪の問題点として主に議論されているのは、9条関連で、戦争を自由にできる国にするという点ですが、自民党の本来の狙いは、99条「憲法遵守の義務」の項目でしょう。自民党改憲案を見てもらうと、99条改憲案が自民党政権による恒久的独裁化を目指していることが露骨にわかります。すなわち、自民党がやろうとしているのは、立憲民主主義を骨抜きにして合法的な独裁的人治国家を作り上げることでであり、日本のナチス化であり、中国化であり、ロシア化です。この参院選で与党が(すでに多数をとることが予想されているわけですが)議会の主導権を握ると、間違いなく自民党は改憲に向けての動きを加速させることになり、最後の頼みの綱は国民投票のみとなります。日本の国民が改憲の本来の目的も知らされず、与党政府の広報部となりさがったNHKをはじめとするメディアに誘導されて、政府の改憲動議に同調する可能性は低くないです。今のロシア国民のプーチンの支持率をみれば、日本人の投票行動も予測できます。自分で自分の首を絞めているのに、その自覚が欠如しているのです。

与党自民党は、公文書改竄隠蔽や統計改竄、国会虚偽答弁、縁故政治に公職選挙法違反、などなど数々の腐敗に加え、増税にスタグフレーションに円安で国民生活も破壊してきたにもかかわらず、一向に野党の支持が伸びず、逆に維新のような自民党のパシリのチンピラ政党(言葉が悪いですけど、この政党をこの他に形容する言葉が見当たりません)が票を集めると言う状況は、山本太郎でなくても悲壮感に打ちひしがれます。つまり、国民投票となった時でも、誘導に乗って、深く考えずに多数に付和雷同してしまう可能性が強いことを示しています。

大袈裟に言えば、現在、日本は戦後民主主義から戦前の独裁体制へと落とされる崖っぷちにあり、この参院選で最後の突きを喰らうことになるのです。そのことを山本太郎以上に深く実感し強く危機感を持っているものはいないのではないでしょうか。肝心の国民がそれを理解せず、山本太郎の国会での一人牛歩や今回の辞任を「単なるパフォーマンス」と冷笑するような状況です。そのパフォーマンスの意義を理解できないのです。私ならとっくに見限ってあきらめているでしょう。多くの野党議員もその限界の中で仕方がないと諦めている。

山本太郎は、そんな困難な状況にあっても、大義を抱き、使命を確信し、持てるリソースを使って最大限の効果を出すこと考え、リスクを取って大胆に行動し、限界を疑い、限界に挑戦してきたと思います。大河冒険政治小説とでもいうような彼の物語が今後どのように発展していくのか、注目していきたいと思います。

すでに長くなっているので、山本太郎本人が衆議院議員辞職の理屈を説明している彼のブログのページをリンクします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シェルブールの雨傘

2022-04-15 | Weblog
どうでもいい話。
戦争と別れの歌の流れで、昔のフランスのミュージカル、「シェルブールの雨傘」を思い出しました。フランス語のトレーニングの一環で最近また観たのです。
ちょうど、ボブ ディランの「風に吹かれて」がヒットした60年代半ばの作で、主演の初々しかったカトリーヌ ドヌーブは今や78歳ですがまだ現役。
このミュージカルでのミッシェル ルグラン作曲の有名な主題歌、「Je ne prouprais jamais vivre sans toi (あなたなしで生きていけない)」は、兵役召集令状によって若い二人の別離が確定的になる場面と駅での別れの場面で歌われます。ちなみに、この雨傘屋の店は、グーグルマップでみると、現在は「シェルブールの雨傘」という店名の雑貨屋になっているようです。通りの様子は60年前とほぼ変わっていません。

この曲の歌詞を見てみると、ヴァースでは、シェルブールの雨傘屋の娘、ジュヌヴィエーヴと自動車修理工、ギイとの交際と結婚を、母に反対されているという状況の中で、ギイがアルジェリアへの二年の兵役に召集されるという事情が歌われます。そして、テーマでは、二年の離れ離れの時間に圧倒される気持ちが歌われ、「あなたなしで生きていけない、離れたら死んでしまう、行かないで」と涙ながらに熱い思いが歌われるわけです。(歌詞とあらすじのリンクがこの方のサイトにあります)

その後、二人は一夜をともに過ごしジュヌヴィエーヴは妊娠に至るのですが、そのあと、ジュヌヴィエーヴはギイの兵役中に金持ちでハンサムな宝石商に見そめられて、身籠ったまま結婚してパリへと行ってしまうのです。

ここのところで、私は呆気にとられました。ちょっと前に「あなたなしでは生きていけない、ずっと待っているわ」って泣いてたのに、半年もたたない間に、しかもその男の子供を妊娠中なのに、他の男と結婚しますかね、ふつう? ま、別の男の子供を妊娠している人と結婚する男も男です。ヨーロッパではよくある話なのかも知れませんけど)

この曲のカバーで良かったものをリンクします。私、日本語以外にはフランス語とロシア語で歌われる曲の音の感じが好きです。(しかし、これは、歌手と曲に依存しますね。それ以外だと、テレサテンの中国語の歌、バルカン半島の民謡の音の響きがいいです)フランス語特有の"R"の音や鼻音は、発音する人によって、美しく聞こえる場合と逆に汚く聞こえる場合があって不思議ですけど、この演奏では、そうした音がとりわけ美しいと思います。

ついでに、透明感のある美声で、日本でも人気があったギリシアの歌手、ナナ ムスクーリが作曲者ルグラン本人と英語でデュエットしたもの (1973)。

当時は欧米の流行歌歌手がアジア市場を積極的に開拓していたじだいでした。これは、ナナ ムスクーリが日本語で歌ったバージョン

ペギー葉山の日本語版

ザ ピーナッツ 英語版。さすがに歌うまいですな。

ザ ピーナッツ 日本語版。16ビートのスペイン風ギターのカッティングの変わったアレンジ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争と別離の歌

2022-04-12 | Weblog
どうでもいい話。
前回、反戦歌のBella Ciaoの話に関しての連想で。
戦争による愛する人と別離をモチーフにした歌や映画は昔からよくあります。人間の持つ最も尊い感情である「愛」や「慈悲」を奪う人間の最悪の行いが戦争であるからでしょう。私が子供のころは、第二次大戦で大不況を抜け出したアメリカの戦争ビジネスが盛んであった時代で、他国に軍事介入しては戦争を煽り、その都度、大勢の人々が殺され、自然と社会が破壊されてきました。当時の主だったところでは朝鮮戦争やベトナム戦争が頭に浮かびますが、以後もアメリカは大小さまざまな国際紛争に軍事介入してきました。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争、アラブの春、、、数え切れません。イランの戦争を支援して儲けた金で中央アメリカのテロ組織を支援して国家転覆に加担したこともありました。今回のロシアのウクライナ戦争の間接的な原因を作り、煽り続けてきたのも、アメリカ(とNATO)であるとも言えるでしょう。

私の子供時代は、そうした戦争、つまり、人間性の破壊に反対するプロテストソングが流行った時代でもありました。特にギターの伴奏で単純なコード進行にのせてメッセージを強く伝えるタイプのフォークソングが流行していました。多分、ボブ シーガーの「花はどこへ行った」やボブ ディランの「風に吹かれて」に代表されるようなアメリカでの反戦歌のスタイルが数年遅れで日本での流行を作ったのだと思います。当時の日本のフォーク音楽は、プロテストソングと同時にユーミンの言うところの「四畳半フォーク」の二つが主流となります。しかし、これらは同じものの裏表ではないかと思います。困難の中でささやかな幸せを見つけるというありふれたテーマはヒューマニティーへの根源的な賛歌であり、反戦歌はそれを脅かすもの(戦争)への直接的な抗議です。

私が子供時代に聞いて非常に強い印象が残った反戦歌は、その四畳半フォークの代表曲といえる「神田川」や「赤ちょうちん」で知られる「かぐや姫」の「あの人の手紙」です。戦争に翻弄される人々を石を投げられる泳ぐ魚の群れに例えていますが、比較的ストレートな歌詞が子供心には衝撃的でした。

ネットで見つけました。第二次対戦中、日本で唯一地上戦が行われて多くの人が犠牲となった沖縄。その沖縄出身の夏川りみさんとのデュエット。夏川さんの透明感のある声、バイオリンを使った伴奏と間奏、最後のアイリッシュ リール風のリフとなかなか凝ったアレンジになっています。

朝鮮戦争時の反戦歌、もともとは北朝鮮の歌だそうです。フォーク クルセダーズの「イムジン河」(1968)

南北朝鮮に民族が分かれてしまったのも、もともとは日本の植民地主義と敗戦後統治をになった米ソのせいでした。東西の緩衝地帯にあるウクライナがかつてのドイツや朝鮮のようにはならぬことを願います。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば恋人よ

2022-04-08 | Weblog
どうでもいい話。
フランス語の朝晩十分のオンラインレッスン、上達ははかばかしくないですけど、まだ続いております。まもなく600日なので、チリツモで200時間を費やしたことになります。なんとか使い物になるまであと600時間、この調子だと五年ですか。別に使う予定はないので、使い物にならなくてもいいのですけど。

この関係でラテン語の専門家の人をツイッターでフォローしております。ラテン語はさまざまなヨーロッパ言語に入り込んでいますし、科学の分野でも解剖学用語はいまだにラテン語そのままです。今はどうか知りませんが、昔の日本の医学校での解剖学では、ラテン語の解剖学用語をドイツ語読みで覚えるというような意味不明のことをやっていました。思うに、かつて解剖学の知識はドイツ経由で入ってきたのでしょうし、またドイツ語なら綴りをそのまま読めば読めてしまうからという理由ではなかったでしょうか。ヘンなのは日本だけに限らず、解剖学用語のラテン語は広く英語圏でも使われているので、おかしな変化が正式に論文などでは使われています。例えば、大腿骨は単数でfemur、複数でfemoraですが、英語ではfemursでもOKです。同様に脛骨は単数でtibia、複数でtibiaeですが、英語ではtibiasでもOK、しかし上腕骨(単数ではhumerus)の複数形は英語でもhumeriでhumerusesはダメです。

さて、最近その方のツイートから学んだラテン語がらみのトリビア。

さらに、「また、『チャオ』の語源であるヴェネト語のs-ciao『奴隷』の語源の中世ラテン語sclavus『奴隷』の元の意味は『スラブ人』です。この中世ラテン語sclavusは英語のslave『奴隷』の語源でもあります。 これは、多くのスラブ人が征服されて奴隷にされたことに由来します。」とのこと。

スラブ人 -> 奴隷 -> あなたの下僕 -> チャオ!という連想ゲームも真っ青の変遷をとったようです。

昔からある反戦歌で「Bella Ciao (さらば恋人よ)」というイタリア民謡をもとにした曲がありますが、歌詞は、イタリア内戦時に戦争に赴く若者が恋人に別れを告げる内容のものです。Ciaoがスラブ人を意味するということなので、スラブ同士の同胞戦争、ロシア-ウクライナ戦争の終結を願って、リンクしたいと思います。

ウクライナ兵士による演奏

ロシア軍音楽隊による演奏

10ヶ国語コンピレーション(イタリア語、日本語、スペイン語、アラビア語、デンマーク語、トルコ語、クルド語、ドイツ語、中国語、英語)

それにしてもプーチンとロシア軍は完全に失敗してしまいました。親欧米政権を親露政権に入れ替えて、ウクライナを中立化させるという目的の達成も難しくなったようです。市民や病院への攻撃が完全に西側諸国の強い反感を買い、それに乗じて武器商人が戦争を煽っているようです。皆が頭を冷やす必要がありそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする