百醜千拙草

何とかやっています

Preprintでのピア レビュー

2022-02-11 | Weblog
2/7のScineceのフロントページで、悲しいニュース。今度は、バイデン政権のサイエンスアドバイザーとなったEric Landerの醜聞と辞任。主に女性の部下へのいじめと侮辱のこと。たいへん残念です。私が初めて彼の名を知ったのは、MITのWhitehead Instituteで遺伝学研究者として活躍していたころで、以後、学会などで、何度か彼の話を聞いたことがあります。非常に話がうまく、カリスマに満ちた人でしたので、こんな一面があることを知って驚きました。昨年のDS氏の事件といい、Whiteheadには白人男性優越主義みたいなものがはびこっているのでしょう。思うに、DS氏もセクハラで昨年失脚することがなければ、10年後にはLanderのような立場になっていたのでしょう。Whiteheadに限らず、この界隈の有名研究者のこの手の事件には枚挙がないわけで、つい二日前にも同じ町内の有名大学の教授がセクハラで訴えられたというニュースがありました。多分、これは氷山の一角のさらに一角にしか過ぎないのでしょう。

記事の中では、Landerは「ジキルとハイド」的性格で、外面がよい一方で密室では豹変するとコメントされていました。ま、野心的で成功街道の真ん中を疾走する研究者はエゴも大きく、自然と他人を見下すような態度が密室ででてくるのでしょう。残念ながら、人間的成熟と研究業績には相関はなく、アカデミアではむしろ有名な成功者ほどクソ野郎が多いというのは、この世界に長くいた私の印象ですが、今回の事件は、ただただ残念です。今回は、アカデミアの狭い世界ではなく、政権のアドバイザーという立場で、規模が違う扱いで、主要メディアで拡散されましたから、今後のBroad Instituteでの彼の立場にもかなり影響するでしょう。

さて、話を戻します。現在、ピア レビューが雑誌への掲載と結びついており、雑誌のランクによって研究者が評価され、その評価にそって金やポジションが配分されるというシステムになっているわけですが、その問題について思うところを書いてきました。

つきつめれば、資本主義の原理で世界が動いており、アカデミアの研究業界でも同じく、金と地位を奪い合う競争の勝敗を決めるために、研究者の評価をどう行うかということだと思います。今のシステムが不公平で非効率であることは論を待ちません。ま、資本主義というのは不公平さを作り出すことによって成り立っているわけですが、そこを置いておいても、そもそも、雑誌のランクで業績を評価するということが間違っていると思いますけど、どうしてもメトリックスが必要なのであれば、pre-printでも比較的公平な評価システムを導入することは可能だと思います。

実際的で具体的な妥協案として、例えば、pre-printサイトを使って、評価を受けたい論文は著者が数を限定して選択し、評価希望論文として発表し、評価は評価者のコメントに任せるという方法にすればどうでしょう。評価者は無論ピアになるわけです。そして、論文の責任著者には、評価を希望する論文数 x 3ぐらいの数の他のpre-print論文を実名で評価することを義務付け、ピアレビューの義務を果たさないと、投稿者の論文は評価されないようなシステムを導入すれば、うまくいけば、一つの論文は複数の読者によって評価されるでしょう。オープン サイエンスの時代、ピア レビューも実名で公開してやればいいです。そうすれば、レビューを書く方も相手の立場になってリーズナブルなコメントを書くでしょう。レビューを通じてレビューアの研究者も評価されるというオマケもつきます。また評価を受けることができなかった論文は、そのこと自体が評価となるようにすればいいでしょう。これなら、研究成果の発表を遅らせることなく評価を得られますし、評価は雑誌のレベルではなく直接論文に対して与えられることになると思います。また、出版のために、レビューアの要求するしばしば不必要で無意味な実験などをする必要がなくなります。

そもそも、所詮、研究者もカネやポジションを求めて競争せざるを得ないので、メトリックスが必要で、競争があるからメリットがあっても追求されない研究があり、競争があるので、信用できない論文が増えると考えられます。そして、信用できない、再現性がない、怪しい論文が有名雑誌に掲載された場合のネガティブなインパクトというのはバカになりません。STAPの時のようにすぐにインチキがバレるようなものならダメージは少ないですけど、再現実験が容易でないことを利用して意図的に不正を行ったベル研究所のJan Hendrik Schönのような人々も少なからずおりますから。

しかし、本当にこの金とポジション争奪競争は必要なのでしょうか。限られたリソースを効率的に振り分けるために競争が必要だ、という考えに我々は縛られすぎていると思います。本当にリソースは限られているのでしょうか?私は実はそうは思っておりません。この辺を話しだすと話の収集がつかなくなるので、今回は、これで一連のピア レビューの話は終わりにしたいと思います。
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ピア レビューとpre-print (2)

2022-02-08 | Weblog
ちょうど、先月投稿したリバイス原稿が再びリバイスになって返ってきました。そこについてきた理不尽なレビューアの要求にウンザリしましたけど、結局、現在のピア レビューなど、このレベルのものなのです。レビューアが実験の実際を理解していない場合に、非常識で理不尽なコメントを書くのもよくあることで、とりあえず、エディターにメールしてさりげなく根回ししておくことにしました。

このピア レビューの話、つらつら考えていくと、結局、アカデミアも含めてどんな世界であっても、所詮、この世は、金と力と色に名誉と、人間の欲望のエネルギーで動いているのだなということを改めて思います。こういうのはジャンクフードのようなもので、若い時は渇望するものでも、もう私の年では、胃もたれと胸焼けで気分が悪くなるのがオチです。

さて、少なからぬ人が矛盾を感じている論文出版のシステムですけど、そろそろ変わってもよい時期だと思います。
研究論文の出版には、少なからぬ研究者ボランティアによる編集作業やレビューの時間がついやされております。論文の作成や投稿プロセスは簡便になり研究のグローバル化によって中国などから投稿原稿の数は飛躍的に増えたにもかかわらず、この部分は、昔と変わらず一部の研究者の良心と義務感に依存しており、出版プロセスのボトルネックとなっていると思います。しかも、こうした状況下でレビューアの数も質も低下してきていると思います。

これらの問題を解決するためにも、私は、論文掲載の採否をピア レビューによって決めるやり方はもうやめたら良いと思います。そもそも研究者の善意の奉仕活動に依存しないと成り立たないシステムで、そのサービスの供与者と受益者のインバランスが大きくなりすぎた現在では、ピア レビューや編集を積極的に引き受けようとする人も少なくなる一方でしょう。そしてこのプロセスを利用してビジネスをしている出版社やその他の関係者の思惑がシステムを歪めている上、ピア レビューは徐々に意味の乏しい儀礼的なものに過ぎなくなってきているばかりか、しばしば不必要で意味の乏しい実験をレビューアが自身の興味ゆえに強要するパワハラとでもいうべき悪習が研究者の時間と労力を削るという弊害もおこしています。ついでに言うと、研究費配分におけるピアレビューによるメリットベースの評価法も益よりも害の方がおおきいと私は思っております。これは何年も前にコンピューターシミュレーションで、ピアレビューによる研究費配分はランダムに配布するよりも悪いことが示唆される研究がありましたが、この話はまた長くなるので別の機会にします。

研究成果を雑誌を通じて発表し、その採否にピアレビューを通すというやり方には明らかな問題があり、投稿論文の絶対数の増加、データリッチで複数の分野にまたがるような論文が増えてきた現状で、このシステムは不完全であるばかりかムダが多すぎると思います。ふつう、論文はランクの高い雑誌に投稿して、リジェクトされたら、別の雑誌に投稿する、ということを繰り返して大多数のものが、どこかの雑誌に着地するわけですが、今のシステムでは投稿の度にレビューアの労力は消費され、時間は経過していくというわけで、できの悪い論文ほど、多くのレビューアの労力を消費することになります。どうせどこかの雑誌に拾われるのなら、これは時間と労力のムダです。総じて出来に悪い論文でも、重要な知見が含まれていることはしばしばありますから、どこにも発表されなかったら、その知見は存在しないとほぼ等しいです。

その替わりに、例えば、各研究者は研究成果はオンラインでレビューなしで発表すればいいです。すでにbioRxiv やmedRxivなどのpre-printサイトがありますから、そのプラットフォームを利用すればいいでしょう。あるいはNCBIのPMCやPubMedのデータベースにマージさせるというような形でもいいかもしれません。これらは従来の多額の掲載料と購読料を払う雑誌社を通じた研究成果の発表方法よりもスピーディーで、はるかに低いコストで運営可能ではないでしょうか。もちろん、preprintの弊害というものもありますし、これは前回紹介したNat Medの記事でも考察されていますが、研究者のレベルでいえば、preprintの有用さに疑念の余地はありません。

ここまではいいのですが、そもそもランクの高い(インパクトの大きい)雑誌になぜ、研究者が発表したがるのかということです。研究者がNatureブランドが好きだから、Natureはあのように高飛車なのでしょう。それは、論文の評価が研究者の評価、ひいては、研究費とポジションに結びついているからであるのは自明です。結局は金と力と、たまに色(研究室の上司が異性の部下にほにゃららラララということはよくあるようですから)ちゅーわけで、これらに無縁でかつ胃もたれ胸焼けの私は、余計にバカらしくなってしまうわけです。

ま、しかし、人間の欲望は研究のエネルギーのもとですから、これを止めるわけにはいきません。ランク付けが現行のシステムで必要なのもやむを得ません。しかし、研究者の評価にを掲載雑誌のランクを使うという悪習は簡単にやめられるはずです。影響力の大きい人、たとえばNIHにディレクターなどが、トップダウンで研究者評価に掲載雑誌のインパクトを考慮してはならないと、一言、言えば。

その辺の話はまた次回。

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ピア レビューとpreprint

2022-02-04 | Weblog
ピアレビューと論文出版の問題について、長々と書いてきました。私はピア レビューを通じて論文の出版の適否を決めるやりかたを廃止することを提言してこの話を終わろうと思って、その話を書き始めたところでしたが、最近のNature MedicineのフロントページでCOVID研究におけるpre-printの役割について考察した記事があったので、ちょっと予定を変更して、それをリンクしたいと思います。Pre-printは出版前の原稿をレビュープロセスを経ずに公開しますから、ピア レビューのない発表方法であり、かつ高額の出版料とも購読料とも無縁です。この発表方法の弱点や欠点も当然ありますけど、私は益の方がはるかに大きいと思います。

ところで、生命科学における研究のトレンドを出版論文数によって解析したデータをしばらく前、Twitterで目にしました。論文出版のデータベースが使える期間内での解析ですけど、COVID関連の論文数は圧倒的でした。二位はたぶん結核関連の研究ですが、何十年にもわたるがん研究やその他の研究分野をはるかに圧倒する数の論文がこの二年ほどで出版されたのです。それが起きた理由の一つのはpre-printにを通じた迅速な知見のdisseminationであったと私は思います。

下の記事で、今回のCOVID研究発表の経緯を通じて、著者は、オープンサイエンスのあり方、ピアレビューの問題、研究論文によって研究者の評価が行われることの問題、科学的厳密さと迅速さやインパクトのコンフリクトが論文の質に与える影響など、例をあげてバランスのよい考察をしています。オープンサイエンスの流れは加速するのは間違いないでしょうが、そこで生まれるであろう問題はオープンサイエンスそのものから生じているのではなく、研究者の発表研究の評価方法の問題でから派生すると思います。もっと踏み込んで言えば、研究や研究者を評価してランク付けしてポジションやカネを競わせる業界の資本主義的システムにつきものの問題であると思います。

ちょっと長いので、半分以上端折りましたが、興味のある人は原文をDeepLしてみてください。

中国・武漢で発生した肺炎の集団事例を知ってから2週間以内に、世界保健機関(WHO)はSARS-CoV-2と呼ばれることになる新型コロナウイルスに関する最初のガイダンスを発表した。その数日後、オープンアクセスのプレプリントサーバーbioRxivにCOVID-19に関する最初のプレプリントが掲載された。この研究は、入手可能なわずかな情報に基づいて、ウイルスの感染性をモデル化しようとするものであった。、、、、

COVID-19に関する論文は、パンデミック発生から4カ月間で19,389件も共有され、その3分の1がプレプリントで、フィルターを通さず、誰でも見ることができる。この数は、科学者たちがCOVID-19の治療薬の発見、ワクチンの開発、ウイルスの変異体との格闘を急ぐにつれて、着実に増えていった。プレプリントは、迅速なデータ共有に役立ち、研究を促進することになった。しかし、それは同時に、科学的プロセスの内幕を新たな読者にさらし、パンデミック研究の最良と最悪の状態を露呈することにもなった。、、、「われわれはオープンサイエンスの道を進んでおり、その道はさらに加速される」、、、 「私たちの選択は、それを止める止めないではなく、どう責任を持って進めるかだ」

、、、プレプリントの利点で、明らかに際立っているのは、英国のRECOVERY試験の最初の結果である。、、、デキサメタゾンは薬局の棚にあるような安価で一般的なステロイド剤で、呼吸補助を受けている重症患者の死亡率を最大で1/3まで減少させた。「昼休みに発表したら、お茶の時間には、(デキサメタンソンが)イギリス全土で使われていた」、、、、デキサメタゾンが世界的に大きな影響を与えたにもかかわらず、ホービー氏は、プレプリント出版のスピードは諸刃の剣であると言う。危機的な状況下での迅速なデータ共有が可能になり、研究者はフィードバックを受けて研究を改善することができる。しかし、プレプリントは、拙速な科学から生まれた魅力的な結果が、批評を受ける前に一般の読者に届くという門戸を開くものでもある。

、、、もはやオンライン上に存在しない一つのプレプリントがある。2020年4月初旬にSSRNサーバーに投稿されたこの観察研究では、抗寄生虫薬イベルメクチンが生存率を向上させることが示唆された。このデータ(現在は信用されていないSurgisphereデータベースのもの)は、当時のアフリカ大陸での症例数よりも多くのアフリカ人患者を含んでいた。しかし、この研究論文は5月に消える前に、ペルー政府に提出された白書に引用され、COVID-19の治療にイベルメクチンを使用することが推奨され、その翌週には、国の政策として採用されてしまった(ただし、これは後に撤回された)、、、その影響は大きかった。イベルメクチンの人気は、この薬がきちんとテストされる前に急上昇してしまい、この誇大広告が甚大な被害をもたらしたのだった。
、、、
査読の問題 - パンデミックの出版ペースは、査読の欠点も拡大させた。査読に通ることが質の高い科学と認定されることとイコールであると考えるならば、ジャーナル出版物は未審査のプレプリントよりもはるかに危険である可能性がある。、、、ヒドロキシクロロキンの場合、「方法論的に重大な欠陥」があるフランスの研究が、投稿から1日も経たないうちに2020年3月に出版が認められ、この薬剤の世界的な需要を煽ることになってしまった。、、、9ヵ月後、ヒドロキシクロロキンはCOVID-19の治療には役に立たないという有力な証拠があるにもかかわらず、依然として通常レベル以上に処方されていたのである。そして、この論文は撤回されていない。、、、また、世界で最も権威のある医学雑誌『The Lancet』と『The New England Journal of Medicine』に掲載され、撤回された2本の論文は、調査の結果、大規模な実データが捏造されていたことがわかった。サージスフィアのスキャンダルは、科学とピアレビューのあり方そのものに疑問を投げかけることになった。
、、、、
プレプリントの提唱者であるゴパラクリシュナ氏は、オープンサイエンスの推進は、研究の質を向上させるためのより深い努力と手を携えて行わなければならないと述べている。これには、データの完全な共有、試験開始前の研究プロトコルの登録報告書の公開、透明性と説明責任を高めるために政策決定に使用されたモデリングの公開などが含まれる。

ゴパラクリシュナ氏はまた、研究者や大学、研究機関が問題のある研究慣行について議論することさえ嫌がることを懸念している。、、、、「私たちは論文の数で報われているのであって、科学の質や厳密さ、査読への貢献で報われているのではありません」と彼女は言います。学術界の「Publish or Perish(発表するか、廃業するか)」精神が、研究者に大げさな研究や中途半端な研究を早く発表する逆インセンティブを与えていることにChaccour氏は同意しています。、、、

"Publish or Perish"、つまり"弱肉強食"の競争社会で、限りあるカネをポジションを奪い合うというアカデミアのシステムそのものが、科学研究のインティグリティを損なう根本原因であって、ピア レビューだとか規制強化とかの対症療法をいくら重ねても根絶はできないでしょう。むしろ、そういう部分に割かれる研究者自身の時間や労力はマイナスではないでしょうか。というわけで、続きはまた今度。



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ピア レビューの崩壊 と出版ビジネス

2022-02-01 | Weblog
というわけで、ちょっとした愚痴のつもりでしたが、思いのほか、ピア レビューと論文出版の話が長引いてしまいました。

この論文出版の矛盾だらけのシステムは崩壊寸前だと思います。遠からず、研究発表の方法は変わっていくでしょう。コロナによって学会がオンライン化したことによって人々の科学コミュニケーションへの意識もこの二年で随分変化したのと同様に、従来のピア レビューと(主に)商業雑誌をプラットフォームとする研究成果の発表スタイルも、何かのきっかけ一つで激変する可能性があると思います。

一昨年、NatureはOpen-accessオプションを追加する計画を発表し、その出版料が約$11,000になるという話がありました。この金額には多くの人にショックを与えましたが、多くの研究者の人は出版システムについて不満を持ちつつも基本的に受け入れざるを得ないという態度です。一方、商業雑誌のやりかたに異を唱えて声をあげる人も昔からいて、PLoSやeLifeなどの試みが行われて、一定の成功を得てはいますが、まだまだNatureブランドは強いです。

下のツイッターに投稿された動画は、眼科研究者兼コメディアンの人がNatureのこのOpen-access化について風刺したものです。

Natureの全ての記事をオープンアクセスにするのならともかく、一部の記事をオープンアクセスにしたところで、想像するに多くの人は研究施設や大学の購読を通じて記事にアクセスするでしょうから、Natureの購読料収入に大きな変化があるとは思えません。オープンアクセスを望む論文になぜこれだけ高額の出版料が必要なのか理解困難です。

この一人ショートコントの中で語られているように、研究者が、Natureなどの有名雑誌に発表したいというのは、それが研究者のカネやポジションや名誉に結びついているからです。論文サーチシステムが発達した現在では、知見をシェアするために購読者が多い雑誌を利用するという本来の目的は二次的なものになっていると思います。雑誌社、とくにハイ プロファイルな商業雑誌はそれを利用してビジネスをしているわけですが、そもそも税金が主な原資であるアカデミアの研究の発表のために雑誌社に、一本150万円近くの掲載料を払うことが正当化できるでしょうか。Natureに載せるためなら高額の掲載料も喜んで払う研究者がいるから、NPGはこのレベルの額を設定するのだと思います。

オンラインジャーナルであるNature Communicationsが$5,000以上の掲載料を正当化しようとした時のロジックも妙なものでした。他の雑誌でもカラー印刷料などを含めれば、それぐらいの費用になるからその値段は高くはないというような議論で正当化しようとしていましたが、そもそもNature Communはオンラインジャーナルですからね。多分、Natureの上位雑誌は、オンラインジャーナルのNature Communが$5,000以上するのだから、紙媒体でも発行するNature上位雑誌のコストはその二倍が適正だとでもいうのでしょう。

さて、NPGは極例でしょうけど、利潤を追求する商業雑誌を通じて、研究を発表することにそもそもの問題があると考える人も多いと思います。本来、雑誌社にとって雑誌のコンテンツは商品であり、消費者に商品を売ることと引き換えに購読料を通じて利益を得るというのが建前です。しかるに学術論文においては、雑誌社は発表のプラットフォームを提供しているだけで、実際には、研究者がコンテンツを無料で提供し、その編集を行い、掲載料を払い、そして購読料まで払っていますから、雑誌社の利益はほとんど不労所得であるとも言えます。

下の二年前のツイートは、論文出版を、乳牛(研究者)と牛乳(論文)と農夫 (出版社)に例えたもので、なかなか喩えが面白いので、ツイッターで盛り上がりました。

このツイートのレスポンスをまとめた記事がありますので、興味のある人は見てみてください。レスポンスのツイートの一つにでてくる「鶏」は何の喩えなのでしょうか?


この論文出版プロセスは既得権益者の抵抗さえなければ、比較的簡単に解決できると思います。

長くなったので、つづきはまた次回にします。

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ピア レビューの崩壊と中国

2022-01-28 | Weblog
ちょっと前からのピア レビューの話の続きですが。
中国からの大量の論文は現在のピア レビューシステムの不調の大きな原因の一つであろうと私は考えております。これは中国が悪いとか、雑誌社の金儲け主義が悪いとかいう話ではなくて、単に、世の中は状況に応じて変わっていくものであって、現在は50年前と比べて、科学研究のグローバル化もコミュニケーションの方法や技術も随分変化しているのに、その出版プロセスのコアの部分はその変化に応じきれていないということだと思います。

かつて、論文はタイプで、図は写真を張り合わせて印刷したものを郵便で送り、Faxでやりとりしていたころは論文の作成も投稿もレビューもそのやりとりも、現在の数倍の時間と手間がかかっていたと思います。そんな状況では、投稿する側もダメもとで投稿しまくるというやり方はしなかったと思います。多くの手間と時間をかけて原稿を用意し、高い国際郵送料を払い、何ヶ月も待ってリジェクトの返事をもらうことになるなら、投稿者は論文の質をできるだけ上げて、リジェクトされにくい投稿先を熟慮した上で投稿したでしょうから。現在はインターネットとコンピュータソフトのおかげで、原稿のフォーマッティングも図の作成も投稿そのものも非常に簡単になりました。それが、かえって質の悪い論文が多くレビューシステムに流れ込む一因になっていると思います。

最近は随分、改善してきましたけど、これらの中国から大量に投稿される論文の質が総じて悪いという問題がありました。それで、中国の研究は信用できないという先入観ができて、さらに中国人研究者を論文出版プロセスに積極的にリクルートするのを躊躇う理由の一つになっていたのではないでしょうか。この先入観には十分な根拠があるわけです。私も二流雑誌に投稿される少なからぬ量の中国からの論文を見ましましたが、10年前の中国からの論文は総じてひどいものでした。科学論文の基礎的事項は無視、フォーマットも英語もでたらめ、不注意ミスはてんこ盛りで、読むだけでも苦労するようなレベルでした。言葉の通じない人に話しかけられて無理やり会話させられるような感じのイライラ感を感じたものです。最近は出来の悪い論文には出来の悪いレビューで対応していますけど、それでもそんな論文を読むのは時間を喰う上に得るものはほとんど何もありません。

思うに、これは、中国での論文至上主義に基づく激しい出版に対するプレッシャーと、国のサイエンス教育の問題、それから中国(や東洋の農耕民族の)実利主義のコンビネーションによるものだと思います。日本も含む東洋によく見られる実利主義というのは、過程の厳密さや原則への忠実さよりも、研究者にとっての目的達成を優先する態度で、これは西洋科学のreductionism、ボトムアップのアプローチと相性が悪いと思います。論文出版には強い結論が必要ですので、普通は強い結論を得るために様々な実験を繰り返して批判的に仮説をテストしていくという作業が必要ですが、実利主義者はしばしば逆のアプローチを取ろうとします。結論が先にあって理屈を後付けするやり方、と言えば言い過ぎかもしれませんけど、あたかも結論にあわせて都合のよいデータを選択して配置しているのが見え見えで、個々のデータの厳密さと論理に欠ける論文が多い、というのが中国からの科学論文の全般的な印象でした。

当然ながら、アカデミアの職業研究者にとって、論文を発表する一つの大きな目的は、研究内容のdisseminationという本来の意味以上に、研究費とポジションと出世という実利があります。そうした実利追求と科学的厳密さや正直さはしばしば相反しますので、実利主義と過当競争の組み合わせがあるところでは、とりわけ厳密さの欠如や不正が起こりやすいと想像されます。

かつて日本からの論文もそういう目で見られていたと思います。日本からの論文は信用できない、日本の製品は安いが粗悪だと思われていた時代がありました。同じ内容であっても日本の研究室から出すと論文のランクが二つ下がる、と随分昔、アメリカ帰りの研究者の人がぼやいていました。日本からの論文は信用できないという評価が逆転したのはそう昔のことではありません。(残念ながら日本からの研究が高評価を受けていたのも、すでに昔の話となりつつあるようですが)ですので、多分、これから十年もたてば、中国からの論文の評価も上がり、それにつれて中国人研究者のコミュニティー活動への貢献も増えていくであろうとは予測されます。事実、最近みる中国からの論文は10年前よりはずっと質のよいものが増えてきたと思います。

というわけで、最近のピアレビューシステムの不機能には複数の厄介な理由があると思います。また長くなってしまいましたので、続きは次回。
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ピア レビューとホームズ事件

2022-01-25 | Weblog
ピア レビューと出版ビジネスの話の続きを書こうと思っていましたが、二週間ほど前にNatureのフロントページでカバーされていた今月始めにあったElizabeth Holmesの有罪評決の記事を目にしたので、少し。この事件はバイオテク業界の人ならよくご存知かと思いますし、詐欺事件として大手新聞にもとりあげられたので、彼女の写真を見た人も多いと思います。若くてブロンド美人、革新的アイデアでハイインパクトなビジネスを展開するスタンフォードの才女、それが15年前の彼女のイメージでしょう。

この事件は、新規科学技術をネタにしたニュービジネスに関しての詐欺事件ですが、ここまで大規模な詐欺事件に発展したのは、Natureによると、ピア レビューが働かなかったことだと分析しています。しかしながら、ピア レビューはdue deligenceを助ける一つのシステムにしか過ぎないと思います。論文であれビジネスであれ、騙す方が悪いのは間違いないですが、結局は、簡単に騙される方にも非があります。これだけ多くの投資家、薬局、それから従業員などの関係者がいながら、ごく初歩的な問題を誰も真剣に考えたり検証したりすらしなかったというのは驚きです。研究者や企業者のカリスマ性は容易に事実に対する批判的な眼を曇らせるのでしょう。有名研究者だから、大手の企業や投資家や有名人がついているから、という理由で、その主張を盲目的に信じてしまう人間心理ですね。しばしば有名研究室からあやしいデータが出版されるのも同じメカニズムなのでしょう。

ふつう、二十歳かそこらの若い女の子が現実も知らずに描いた餅の絵にホイホイとカネを出す方も出す方です。もしこの人がブロンド美人ではなく、スタンフォードでもなかったら、カネを出した方もビジネスのパートナーとなった方ももっと慎重だったであろうと思います。

弁護するつもりはないですけど、Holmes本人も最初から騙すつもりはなかったでしょう。若さゆえの成功への野心で、猪突猛進し、絶対に失敗できないと思い込み、小さなウソが積み重なって、引くに引けない状況に追い込まれていったのではないだろうかと思います。

DeepLで一部翻訳。

エリザベス・ホームズ評決:研究者が科学への教訓を語る

血液検査に革命を起こすと約束した悪名高いバイオテクノロジー企業の最高経営責任者、エリザベス・ホームズが詐欺罪で有罪になった。セラノスの創業者は意図的に投資家を欺いたと、米国連邦陪審は約4カ月に及ぶ裁判の末、昨日結論づけた。ホームズはおそらく、最高で20年の禁固刑と高額の罰金を科されることになる。彼女にはまだ判決は下っていない。

この事件は、バイオテクノロジーの起業家が投資家にアプローチする方法を形作ることは間違いないと、Nature誌に語った研究者たちは言う。そして、ピアレビューを通じて初期の研究を検証することの重要性をはっきりと示している。
、、、
ホームズは2003年、カリフォルニアのスタンフォード大学を中退する直前、19歳でセラノスを創業した。彼女の目標は、血液検査を消費者が直接受けられるようにする会社を作ることだった。標準的な診断機器を操作するために必要な、大きな針や血液のチューブをなくしたいと考えたのだ。そのために、わずか数滴の血液で200以上の検査ができる装置を開発したという。

このように、ホームズは野心的で魅力的な人物であったため、メディアは実験室診断にかつてないほどの関心を寄せるようになった。、、、
カリフォルニア州パロアルトに本社を置く同社は、約9億4500万ドルを調達し、従業員数は800人以上にまで成長した。また、いくつかの大手小売業者との契約も結んだ。2013年、薬局チェーンのウォルグリーンはアリゾナ州の店舗にセラノスの「ウェルネスセンター」を置き始め、最終的に40カ所を設置した。

投資家も一般大衆も、セラノスは受け取った血液サンプルを斬新な機械で分析しているのだと信じていた。しかし、実際には、同社のプラットフォームで実施できる検査はごくわずかであった。残りの検査は、他社が開発した従来型の血液検査装置を介して行われていた。そのため、指を刺して採取した血液を希釈して量を増やす必要があり、検査結果の信頼性に欠ける。

シアトルにあるワシントン大学の診断学開発者兼研究者であるポール・イェガーは、「一滴の血液からすべてを得るという考え方には、根本的な欠陥がありある」と言う。

2015年、ホームズの策略は崩れ始めた。ディアマンディスがセラノスを罵倒した後、ウォールストリート・ジャーナル紙の記者ジョン・キャレルーがセラノスの機械の欠点を派手なニュース記事で暴露したのだ。、、、

セラノス社のスキャンダルは、本や映画、ポッドキャストなどの刺激的な題材を提供している。しかし、それ以上に重要なのは、この物語が、血液診断会社や起業を志す科学者への訓話になっていることだ。、、、ホームズの破滅の一因は、「セラノスの技術を専有物とし、それを公表せず、コミュニティと共有しようとしなかった」ことだ。ホームズがピアレビューに参加していれば、投資家を欺く前に技術の問題点を発見できたかもしれない、と専門家は言う。そうすれば、ホームズは方向転換を余儀なくされるか、会社を閉鎖せざるを得なかったかもしれないが、犯罪を犯すこともなかったかもしれない。このように、科学は何度も何度も自己修正し、私たちを救ってきた」とイェガーは言う。、、、「問題は、このようなことが二度と起こらないようにするために、我々は何を学ぶことができるのか、ということです。

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ピア レビューの崩壊 (2)

2022-01-21 | Weblog
前の話の続きのピアレビューの問題の話を書こうとしたら、ちょうどとある中流雑誌からリバイス論文のレビューの依頼がきました。しばらく前、リジェクトが妥当と返事をした論文でした。リバイスで出版すべきレベルに達する可能性があると思われる論文には私はリジェクトの評価は基本的にしませんので、この論文は私的には救済の余地なしと思ったのに、編集者はリバイスが妥当との判断をしたということです。不思議に思ってもう一人のレビューアの評価を見てみましたが、私とほぼ同様の評価でした。
リジェクトが妥当と評価した論文が返ってくるということはこれまでも何度か経験があります。エディターが論文著者のかつてのメントアであったということがありましたし、また三流雑誌で明らかに論文掲載のノルマがあると思われる場合もありました。一定数を出版しないと、雑誌社は運営していけませんからね。しかし、これらの例では、雑誌社の商業的理由や縁故主義でピア レビュー システムが歪められているということになります。しかもレビューという作業はボランティアですから、ボランティアの善意を踏み躙る行為であるとも思います。とりあえず、今回は、すでにリバイスで改善の見込みなしと評価した論文なわけで、そのリバイス原稿を私が再び評価するのは適切ではない、と言って断りました。こういうことが続くとレビュー活動の無意味さを感じざるを得ないです。

そんなこんなで、レビューのような奉仕活動が時間と労力のムダだと思う人が増えたということにことに加えて、絶対的なレビューア数の不足が状況を更に悪くしています。とくに中国からの凄まじい量の論文が欧米にベースを置く雑誌に投稿されることによって、これらの雑誌のピアレビュー プロセスが目詰まりを起こしています。これらの雑誌の編集者は多くは中国人ではない関係で、中国からの論文は、自然と欧米や日本のレビューア中心に回され、結果、中国人研究者がレビュープロセスに寄与する機会が少ないことがレビューアと投稿者の不均衡を産んでいると思います。

中国人研究者がレビュープロセスに十分寄与していないことには、複数の理由もあると思いますが、私の経験から思う一つは、中国人の名前の問題です。中国人には同音異語となる名前が多過ぎて、英文表記だと多くの異なる研究者の区別がつきません。中国人研究者が有名ジャーナルに掲載されるような仕事をした場合でも、それが誰の仕事なのかは名前だけでは覚えにくく、検索もしにくい、ということで、欧米のEditorや編集部が、レビューアやエディターを中国人の中から選ぶのが単純に難しいという状況があるのでは、と思います。レビューアやエディターを選ぶ時の業績などは名前ではなくORCIDなどの共通の研究者IDを使って管理していくのは一つの解決策だと思います。

総じて、中国からの投稿が問題の大きな原因であるのは間違いないと思うのですけど、これはそもそも、科学研究というものが西洋のものであって、日本や中国の後発国の参入は本来、想定されたものでなかったわけで、仕方がない面があります。かつて、日本が西洋型の科学研究スタイルを取り入れて、積極的に英語で科学研究コミュニケーションをするようになったのは、戦後の経済成長と同期していると思います。それまで、日本の研究はもっとローカルで日本人は日本語で日本人に向けて必要な研究情報を発表していました。思うに中国も最近まで同じようだったでしょう。それが、中国の急激な経済成長に伴って日本の十倍以上の人口を持つ中国が、西洋型研究を自国に取り入れて西洋型スタイルで発表しだしたのですから、半世紀前に日本が英文論文を量産しはじめたころとは桁違いのインパクトを及ぼしているのは想像に難くないです。

また長くなりそうなので、残りは今度にします。
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ピア レビュー 崩壊

2022-01-18 | Weblog
今年を最後にこうした活動から手を引くつもりなので、最後のご奉公のつもりで、論文のレビューや編集活動はできる範囲でやっていますけど、もう、このピアレビューのシステムは破綻していると感じざるを得ません。

軽い気持ちで数年前に引き受けたとある二流雑誌のエディターですけど、論文ハンドルの依頼は週に2本ぐらいやってきます。幸い多くが専門と離れているという理由で断ってはいますけど、月に二本というノルマやその他の事情でときどきは引き受けることになりますが、その都度、結構、時間と手間が必要になっていつも後悔することになります。

その雑誌の統計では、二人のレビューアを確保するのに、平均7人に声をかければよいということになっていますが、私の経験ではその二倍以上は必要な感じです。今回のは、ハンドリンングを引き受けてからすでに十日以上経ちました。これまで、17名に頼んで、なんとか一人確保しましたが、6人に断られ、10人はスルー、あと一週間たってももう一人が見つからなければ、自分でやるしかないかなあ、という状況です。これではエディターをやりたい人もレビューアをやりたい人もいなくなるでしょう。

かつて、研究者がこのような役割を引き受けるのは、自分の論文を出版するときには誰かにレビューをやってもらわないといけないので、研究活動をお互いに支えあう重要な活動だと認識されていたからだと思います。通常、論文レビューの活動は業績に加えられるようなものではないですが(最近はPublonなどでレビューも研究活動の実績として認めようとする動きがありますが)、一方で、出版前の研究にいち早く触れることができる「特権」だともと考えられていました。これらの手間はその「特権」に対する必要経費であり、誰かがやらざるをえない必要不可欠の奉仕行為と考えられてきました。そこには同じ研究分野に属する研究者としての「お互い様」意識があったのであろうと思います。

しかるに、競争が激しくなって奉仕活動は時間のムダだと考える人が増え、Pre-printがルーティンとなってきた現在では、レビューや編集活動は、特権ではなく誰か自分以外にやらせるべき雑用だとみなされるようになりました。研究資金やポジションへの競争が激化するこの業界では、コミュニティー意識はうすまり、同じ分野にいる人間は仲間ではなく敵であり、ボランティア行為は見返りのない時間と労力の無駄であると考えられるようになりました。つまり、研究者が自分自身の利益を確保するのに精一杯で、業界全体を考えるような余裕がなくなったということだと思います。

一事が万事で、このことをみても、すでに現在のアカデミアというシステムそのものが崩壊しつつあると感じざるを得ません。ま、カネや運営がすべてに優先する社会において、アカデミアの精神を維持していくのは容易ではないです。とりわけ、資金が絶対的に足りていない現在では。いまや、研究のために資金を集めるのではなく、金を集めるために研究をダシにつかっているという方が現実をよく示していると思います。

ピアレビューの話のマクラのつもりでしたけど、ちょっと長くなりそうなので、続きはまた次にします。
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動物利用への意識変化

2022-01-14 | Weblog
ヨーロッパでは動物実験に関して、その全面廃止も含む規制の強化の動きが高まってきているという話を少し前取り上げました。人間には侵すべからず基本的人権があって尊重されなければならないという近代民主主義国家のイデオロギーが拡大して、動物にも同じく基本的権利があってそれを無闇に侵してはならないと考えるのは、そもそも人間がもつ「他を思いやる心」ゆえだと私は思います。過去を振り返って将来を予想すると、動物を人間が利用するということに関して、ますます人々は意識的になって、その結果として規制は強まっていくでしょう。

人間による動物の利用の一番は食料としてだと思います。動物の肉や乳や卵を食べるのはそれが人間の体に必要な物質を取り込むのに効率がよいのに加えてアミノ酸が豊富で美味であるからだろうと考えられます。そういう観点から考えると、人間にとっては人間の肉を食べるのが栄養的には最も理にかなっていると考えられるわけですが、現在、人肉を食べるのは禁じられています。そこには物質的な合理性以上にこれを禁忌とする理由があるわけです。思うに、自分が殺されたり、食べられたりしたい思う人は余りいないでしょうから、されて嫌なことはしたくないという心理的なレシプロカリティが働くのでしょう。

そうした意識の拡大のせいか、食料として動物を消費するということを嫌って、少なからぬ人々が、肉食の快楽を捨てて、菜食主義やビーガンになることを選択しています。いずれにしても、植物にせよ動物にせよ、他の生き物を食べて自分の血肉に変えずに人間は生きていけないわけですから、何を食べて何を食べないかという線引きはある程度、恣意的なものにならざるをえません。しかし、大切なのは、多分、その「気持ち」でしょう。人がされて嫌なことは他人にもしないと思うと同じように、自分がされて嫌なことは動物や他の生き物にもしたくない、というのは人間が大人の想像力を持っている証拠だし、またそれを実践することは、多分、精神上に良い効果があると思われます。

このような動物の権利への人々の関心の高まり、あるいは、動物虐待を目の当たりにして感じる不快感を何とかしたいという欲求によって、食料に供される動物の飼育も、一般消費者らの声を受けて変わりつつあります。

アメリカ、マサチューセッツ州、カリフォルニア州などでは、卵の値段が今年になって二倍ほどに上がっています。この原因はひょっとしたら今月から始まった法的規制のせいかも知れません。これらの州では、鶏卵採取用の鶏をケージで飼うことが法律で禁じられました。これによって、おそらく単位面積あたりの鶏の飼育数は減少し、また飼育や卵の収穫の手間などのコストも上昇したのではないだろうかと想像します。

子供のころ、町をはずれた山の麓の農家が採卵用の鶏を飼っているのを見たことがあります。鶏は金属の格子のついた狭いケージの中に入れられ、産んだ卵は自動的にケージの下に回収されるようになっていました。まさに、鶏が卵を産む機械として飼われていたのを見て、子供心にイヤな気持ちになったのを覚えています。私は閉所恐怖症なので、自分があのケージに一生、閉じ込められている様子を想像すると窒息しそうな怖さを感じました。おそらく多くの人もケージ飼いの様子を目の当たりにしたら、嫌悪感を感じるとおもいますけど、そうしたケージ飼いされた鶏の卵を食べたくないという一般消費者の声は数年前から高まり、それが農家の飼育法にも影響を与え、さらに今回、法制化にまで至った模様です。

また、同州では豚肉を取るための豚、や仔牛肉を取るための仔牛の飼育に関してもまもなく同様の法律が施行される予定です。これらの動物を狭い生殖させるためだけの空間で飼育することが禁じられるようです。

肉食をやめれば、この辺の問題は解決するわけですけど、食文化に関することであり、すぐに人類が肉食をやめることはないでしょう。肉体的な快楽である肉食を主義の前に抑制するのは簡単なことではないですし、また、肉食には栄養的な利点もありますので。しかし、想像するに、少しづつ、世界は肉食の抑制の方向に向かっていくと思います。主義的なものを別にしても、食料として肉を生産するのは野菜や穀物をつくる数倍のコストと自然の破壊を伴いますから、地球的な食糧危機に対応するためにも、肉食を減らして穀物と野菜中心の食事にするのは理にかなっていると思います。
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Sci-hub 訴訟がもたらすもの

2022-01-11 | Weblog
昨年末のニュース記事に関してですが、、、

普通、学術論文を読みたいと思えば、所属する組織の図書館を通じて、購読している雑誌にアクセスすることになると思いますけど、これが個人である場合とか、小さな組織で多くの雑誌を購読できないなどの場合だと、論文のアクセスは容易でなくなります。雑誌は研究者が知見を広めるためのプラットフォームであるのに、雑誌社のビジネス上の都合でその知見へのアクセスが限られるというのは、本来の目的にそぐわないわけですが、特にカネが絡むことは法律で規制があるのでやむを得ません。

しかし、多くは税金が原資の公的資金で行われてきた研究成果を高額購読料を支払わないとアクセスできないという問題は、何度も取り上げられ、いくつかの解決策が模索されてきました。アメリカでは随分前から、税金を使って産み出された論文は、発表半年以内に国立図書館のサイト、PMCを使って無料公開することが義務付けられていますし、それ以前からオープンアクセスの商業出版でないジャーナルのPLoSなどの試みがあります。最近は、商業雑誌でもオープンアクセスで、運営費用を主に掲載者からの掲載料で賄うタイプの雑誌も随分増えました。

こうした正攻法で論文アクセスの問題を解決していこうとする動きは喜ばしいことですが、時間も手間もかかる話で、研究者の立場からすれば、とにかくすぐに読みたい論文にすぐにアクセスできるサービスというのはひたすらありがたいです。このニーズに応えようとしたのか、約十年前に、カザフスタンの二十歳すぎの女子コンピュータプログラマーによって作られたSci-Hubは、出版された科学論文を各地のサーバーを通じて網羅的に公開して、無料で論文が瞬時にアクセスできるサービスを開始しました。

研究者にとっては便利極まりないサービスで、このサイトは急速に世界中に広まりました。思うに、創始者はカザフスタンという国で論文へのアクセスが高い購読料によって制限されているという状況をなんとかしたいと考えただけだったのかもしれませんが、当然ながら、複数の大手出版社から、著作権侵害を理由に、これまで11の国で敗訴、それらの国ではアクセスはブロックされています。Sci-hubのツイッターアカウントも昨年、閉鎖されました。もちろん、これらの国は法治国家ですから、違法となれば、法に従うのはやむを得ません。研究者の便宜よりも法の遵守が上ということになっていますし。

というわけで、これまで、著作権侵害で連戦連敗のSci-Hubですが、最近始まったインドでの裁判では、インド特有の「教育に必要な書物の複製は違法としない」という法律のために、今回は違った結果になる可能性があるという話が紹介されていました。
 論文に発表される知識が研究者の食べ物であると例えると、それを商品として扱う出版会社が利益を確保のためにアクセスを制限するために、食糧不足が起きているとも言えます。極端に言えば、今回のインドでの裁判の争点は、飢えを救うためにやむを得ずパンを盗んだジャン バルジャンの罪をどう考えるか、という話にも多少通ずるものではないかと思いました。

さらに、もしも今回のインドでの裁判でSci-Hubが違法でないと判断された場合は、音楽配信によって音楽ビジネスが変わったように、論文出版ビジネス業界そのもの変えるきっかけとなることも期待されます。論文出版社最大手のElsevirの非常に高額な購読料は、アカデミアではすでに悪評高いです。主に税金で研究者によってなされた研究成果を研究者が評価した上で完成品となったものが論文であり、その発表のために、通常、研究者側は掲載料を支払います。そんな税金や研究者の努力によってできた論文を彼らは「商品」として売り、さらに研究者側から購読料を集めるという商売をしているというわけですが、それが悪どいレベルなのか、活動を維持するために不可欠のコストを分散した結果なのかは、私にはわかりません。ただ、購読料という壁が知識の伝播を阻んでいるという事実は存在します。論文の原資が主に税金であることを考えると、論文を出版する出版社の利益は制限されるべきだと私は思いますし、購読料は廃止して掲載料だけで運営するオープンアクセスのシステムを採用するべきだとも思います。そうなれば、Sci-hubは必要とされないのですから。

長くなったので、本題ははしょります。興味にある方は、続きはNatureの記事をお読みください。この記事は無料です。



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なんでこんなことをやっているのだろう

2022-01-07 | Weblog
小さな論文のリバイス投稿しました。小さな論文とはいえ、この実験のために4つの新しい遺伝子変異マウスを作って解析し、ちょっと特殊なRNA-seq解析のためにパイソン プログラマーを探し、それなりに時間と労力はかけたので、形にはなって欲しいと思っています。臓器別での専門分野のジャーナルに出すとウケが悪いのはわかっているので分子別での専門分野のジャーナルに出したものです。

それにしても、狭い分野で自分の陣地を守ってきた専門家のコメントというのは鷹揚さがなくて剣呑ですな。この論文もそんなマニアックなレビューアに回ったようで、難易度は高くはないものの三人から沢山の細かい点を突っ込まれて、そこそこの量の実験を要求をされました。

マニアックレビューアが彼らの興味で実験を要求するのは、「通してやるから、それなりの誠意を見せろ」みたいな、不良グループの儀式的性質に近いもので、今回、要求された実験も、多くは論文の結論をサポートするのに不可欠とはいえないものでした。しかし、いくら立派な理由があっても、レビューアに口応えするのは、「忙しい中を時間を割いて原稿を読んだ上で、専門家の見地から論文の改善点を指摘した」レビューア様のエゴを傷つけ、さらなるリバイスか、悪ければリジェクトという結果に陥る高いリスクを伴うので、言われたことは基本的にやるしかありません。

このプロセスは多くの人がバカバカしいと思っていると思いますけど、私は、ピア レビューで論文を出版するという活動自体が、バカバカしいと感じるようになってしまいました。これだけ、再現性のない論文が一流誌に出るということ自体、現代の資本主義的、自由競争的側面が激化するこの業界では、従来の論文出版のシステムが破綻しつつあるという証左ではないでしょうか。ま、しかし、一歩下がってみれば、研究活動に限らず人間の活動というのは本来、やっている本人以外はバカバカしいと思うようなものがほとんどであるとも言えるわけですが。

論文の結論をサポートするのに必ずしも必要でない実験がリバイスでしばしば要求される問題は広く認識されており、論文出版のための通過儀礼に過ぎず、時間と金と労力の無駄であると、多くの関係者が感じつつも、長らく看過されてきました。しかし、近年、ようやくこの問題がまともに議論されるようになってきました。最近レビューを引き受けたある中流雑誌は、レビューアへの注意点として、結論をサポートするのに絶対的に必要でない実験は要求しないこと、実験が必要な場合でも三点までに限定するように、という但し書きがありました。

私の場合、この研究プロジェクトが論文になったところで、よくて自己満足以上のものは得られません。リバイスの原稿を直しながら、つい、なんでこんなことをやっているのだろうなあ、とつぶやいていました。

しかし、研究をしたり論文を書いたりするということは、私にとっては、多分、ラジオ体操のようなものだと思いあたりました。毎日、なにがしらかの作業をして時間を過ごすことそのものが目的なのだと思います。何もしないでいると人間は生死の問題の直面して精神が耐えれないので、日々の作業と気晴らしや暇つぶしが必要なのでしょう。
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あけましておめでとうございます

2022-01-04 | Weblog
あけましておめでとうございます。

というわけで今年も始まりました。
今年は個人的には変化の年になる予定で、人生の1/3以上を過ごした場所を移動するつもりです。寂しい気持ちがないわけではないですけど、一方ではとても楽しみでもあります。

現実には、家族の問題、健康の問題、金の問題がそれなりのマグニチュードで存在しておりますが、自分ではどうしようもない部分が大きいので、あまり心配しないようにしています。いずれにしても、これらの問題もこれから起こってくるであろうさまざまな問題も、どんなに遅くても、私の予定寿命の時期がくれば、全てが一挙に解決するので、これらは単に時間の問題であるとも言えます。

とういわけで、年の数字が一つ増えて、新年を迎え、感じることは、私のさまざまな問題は解決に向けて着実に進行しており、そして、また新たな経験をする機会を与えられたということです。将来、寝たきりになったときに思い出して退屈しないですむように、できるだけ沢山のさまざまな経験をしておきたいと思っています。

門松は冥土の旅への一里塚、ともいいますけど、極楽浄土という目的地に向けての旅が楽しくないわけがありません。若い時、初めて南国へ旅行に行った時の空港の賑わいを思い出しました。(毎年同じようなことを言っているようなきがしますが)

みなさま、よいお年を。
Bonne année et bonne santé 





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貧すれば鈍する

2021-12-31 | Weblog
私はツイッターでニュースや情報を集めていますけど、最近、頻繁に目にするニュースからは感じるのは、日本人が排他的になり、社会がギスギスとして住みにくいところになっていっていきつつあるということです。

しばらく前の、武蔵野市での外国人住民の住民投票参加権の否決も驚きました。外国人の国政参政を認めるかどうかというような話ではありません。地域住人として合法的に住んでいる人の住民としての意見が投票という意思表示行動を通じて考慮されるべきではないか、という問いかけに対する決議だったわけですが、当然、可決されるものと思っていたのが否決という結果になって、驚くと同時に非常に心配になりました。この結果は、同じ市内に住む住民を国籍によって差別するという市が意思表示示したということです。
この議題の採決の前に、「日本が外国人に乗っ取られる」と主張している人が街頭でアジっている様子を見ましたが、理性的な議論は乏しく、感情的に差別発言を繰り返すのを見て、つくづくイヤな気持ちになりました。

一方、ニューヨークでは非市民にも投票権を与えるという決議が採択。「人権」というのは人間の基本的権利であり、投票権は社会に合法的に住んでいるものの人権の問題にも関わっているので、将来的には、国籍に無関係に住民が政治に参加する権利がおそらく世界的に認められる方向に向かうと予想します。歴史の流れをみれば必然的にそうなるでしょう。日本だけが逆行しているようです。

そもそも、日本では、国会議員でさえ、憲法や人権に対する意識や認識に明らかな問題のある人が多いのが問題です。国民民主の玉木代表、この武蔵野の外国人住民投票権案の否決をうけて、「否決されて安心した」と述べ、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべき」と強調したらしいです。この人は、日本国憲法に「人権」は、国籍を問わず尊重されなければならないと明記されていることを知らないらしい。こういう言葉が口が出るということは、多分、人権という言葉の意味も知らない可能性が高いですね。

このような憲法遵守の義務も憲法の意義も無視するような者が、憲法をかえようとしているのが恐ろしいです。そもそも憲法はこのような連中が勝手なことをしないようにと設定されたものですからね。

私は、憲法については国民の多数が変えるべきところがあると同意するなら、慎重な熟慮の上で変えればいいと思っています。しかし、憲法も意味もその内容も知らず、それを守る努力もしないばかりか、最低限の人間としての倫理観もわきまえない連中には、どんな理由があっても触ってもらいたくないですね。

話がズレました。この排他的になっていく日本の社会と連動して、日本に長年住む外国人の日本脱出を決心したというツイートを目にすることも増えました。ヘイトの対象になっているアジア系の人々に限りません。何人かの日本に住むフランス人によるスレッドからは、彼らが日本を去る最も大きな理由は、日本の社会と人々の排他性と日常的に感じる差別のようです。外国人の彼らにとって、日本が楽しく安心して暮らせる国ではなくなってしまったと彼らは感じているようです。

事実、しばらく前にInterNationsの海外在住者による投票結果を紹介しましたが、彼らが住みたい場所として東京や日本は非常に評価が低く、その理由として、人々がフレンドリーでない、言葉が通じない、ということをあげています。言葉の問題はともかく、私は日本人はシャイではあっても、基本的に他人に親切で思いやり深い民族だと思っていました。そもそも日本は、十年前は「おもてなし」の国だったはずではなかったのでしょうか。

それが、いつのまにか、自分中心で排他的で他人に冷たい国になっていっているような感じがするようになってしまいました。思うに、その原因は一重に「貧乏」だと思います。生活に余裕がなく、現状に不満、将来に不安しかない状態では、人にやさしく思いやり深くあることは難しいでしょう。

欧米では、日本は、世界で唯一、経済政策の失敗で貧しくなった国だと評価されており、経済学で"Japanization"と言えば、長期停滞とデフレを意味し、高い失業率、弱い経済活動、ゼロに近い金利、量的緩和、人口高齢化などの症状を示す状態を表現する言葉になっています。

基本的に経済の発展と衰退には自然の波がありますけど、それらが行きすぎないように政策によってコントロールしてくのは政治の役割です。諸外国の経済学者は、日本政府がその政治的な役割を果たしていないばかりか、逆に状況をさらに悪くするように動いていると評価しているわけです。無能でウソつきのナルシシストを8年も好き勝手にさせれば、こうなるのでしょう。

内需が6割の経済を占める日本で、経済活動が弱くデフレが続く理由は明らかでしょう。一般国民が貧乏になったからです。政府が消費税を増税し、大企業の減税の穴埋めに使い、国民を支援しないからです。国民が貧乏だから企業も経営拡大に投資ができない、投資ができないから史上最高の内部留保というカネの澱みを生み、せっかくの量的緩和が意味をなさなさずアベノミクスの大失敗に終わったわけです。いますぐ、減税の穴埋めに使った消費税分を企業からとりあげて国民にばら撒いたらどうでしょうかね。企業の売り上げも上がり、澱んだ金も流れ出すでしょう。あいにく、アベの傀儡政権はいまだに企業減税で賃金が上がると言い続け、経済政策の失敗を認めようとしないようです。

ま、日本は一応、民主主義国家ということになっており、選挙によって、もっとマシな政権を選ぶこともできたのですから、自民党や維新に議席を多く与えた国民の自業自得と言えばそのとおりなのですが。
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構造的問題としての再現性の欠如

2021-12-28 | Weblog
8年越しのCancer paper reproducibility projectの総括が出たようです。  これはeLifeを発表プラットフォームにして開始されたプロジェクトで、約10年ほど前に出版されたがん研究関連の50本ほどのハイインパクト論文の再現性を検討するというプロジェクトですが、eLifeでの報告をScineceとNatureがフロントページでカバーしているのを目にしました。
 予想はしていましたけれど、ハイインパクト論文の出版が研究者のキャリアも研究費も生活を決定するアカデミアの研究業界で、こういう結果が出るのは、当然だと思います。これは氷山の一角で、この業界の出世システムを知っている研究者なら、他人の論文のデータには(再現性がないという意味で)ウソがかなりの率で混じっているというのは常識でしょう。また、自己顕示欲が強く、自分の利益のためには原則を捻じ曲げるのに何のためらいもない人間は全人口の数%ぐらいの高頻度でいます。国会で100回以上ウソをつきまくった二代前のどこかの国の総理大臣とか、あまりにウソがひどいのでSNSから締め出された前大統領とかのような自己愛性異常性格者が有名研究者である場合も少なくありません。そうした性向をもつ研究者が意図的に行うデータ操作によって再現性がないデータが一流紙に発表されるような例だけでもかなりあるだろうと思われます。加えて、データを操作する意図はなくとも、結果を都合の良いように過大評価したり、見栄えのするデータだけを採用したりする「厳密性の欠如」によって結果が歪んでしまうような場合などを加えると、かなりの例で論文にはウソが混じっていると考えられます。
 この記事でコメントした複数の人が、この再現性の悪さは衝撃的だが、「予想外ではない」というなコメントをしています。これは、科学実験というものの性質に起因する問題に加えて、ポジティブでインパクトのある結果を得ることに対する研究者自身の強い志向性がデータに反映することを皆が知っているからでしょう。科学的に厳密であることにはコストと時間がかかり、「インパクトのある論文をできるだけ低コストで数多く出版すること」を第一の目標とするアカデミアの研究者の利益にしばしば相反します。「結果主義」、「論文至上主義」によって研究者の評価がなされているアカデミアの構造が研究不正や厳密性の低下を生み、再現性の乏しい論文につながっていると思います。
 また、Natureをはじめとする商業誌は、高い読者数を維持して広告料を集め、ビジネスを発展させる上で、ハイインパクトの論文、つまりより多くの人を「あっ」と驚かせるような論文を載せたいというインセンティブがあり、研究者の方にもNatureなどの一流誌といわれる雑誌に出版したいというモチベーションがあるので、「本当だったらすごい話」が選択的これらの雑誌に採用された挙句、やっぱりそんなすごい話がゴロゴロ転がっているわけがない、というオチになるのだと思います。つまり、この問題は研究者個人の問題である以上に研究業界の構造的問題です。残念ながら、こうした問題に対して雑誌や研究費を出す側や研究所は、研究者への規制や罰則を強めるという非常に近視眼的な対症療法に飛びつきます。直接の実行犯の研究者を責めるのが一番簡単だからでしょう。しかし、厳密な研究を行って正直なネガティブ データを出してもポジションや生活が守られるなら、研究者が「本当ならすごいけど、じつは怪しい話」を発表しようとするモチベーションはもっと低くなるでしょう。怪しいデータがこれほど多く一流誌に掲載されるという現象を引き起こしているメカニズムは業界の論文第一主義であって、これに対する根治治療をしないと、この問題は永遠になくならないと思います。

Natureのフロントページから一部。

基礎がん研究においてハイインパクト論文の結果の再現性を検討するための2億円と8年間をかけた試みが、不穏な結果となった。評価された実験の半分以下しか再現性は確認できなかった。このプロジェクトは、これまでに行われた最も厳密な再現性研究の1つであり、曖昧な研究プロトコルや非協力的な著者などのハードルによって、この取り組みは5年遅れ、当初の検討論文の半分しか検討できなかった。
 協力体制の欠如と、実験開始後のプロトコルの変更や見直しの必要性が、大きな負担となった。平均して、1つの研究を再現するのに197週間を要した。さらに、1回の実験にかかる費用は53,000ドルに上り、これはチームが当初割り当てた金額の約2倍にあたる。、、、
 分析によると、再現実験を試みたうちの46%だけが、オリジナルの発見を確認することができた。また、平均して、当初の報告より85%も小さい効果しか観察されなかった。、、、
 RPCBのプロジェクトリーダーであり、Center for Open Scienceの研究ディレクターであるTim Erringtonは、「本当の問題は、ノイズの中からシグナルを見つけ出すために費やされる時間、費用、労力だ」と言う。、、、

というわけで、再現性の検討に2億円と8年の月日をかけた研究成果、当初の報告の半分未満しか再現できず、しかも再現できたものでもその効果は当初の論文の主張のたったの15%しかなかったという結果。ただし、これらの再現性のない論文の筆頭著者や責任著者はこれらをネタにポジションを得たりグラントを獲得したりしたでしょうから、彼らにとっては意味があったわけです。
 一流雑誌に載るようながん研究プロジェクトは一本に、数年の期間と数千万円のコストはかかっているでしょう。50本のハイインパクト論文を出版するのに10億円として、その再現実験に2億円、結果、相当な数で再現性が確認できなかった、という結果を、一般の人がみれば、やらない方がましと判断されるかも知れません。

なんとなく、デジャビュを覚えると思ったら、アベノマスクでした。500億かけて役立たずのマスクを用意して、満足に配布もできず、使用もされず、大量の在庫が出たら、その保管料に年に6億、あげくに20億かけて検査をしたら15%が不良品、で結局廃棄。国民からすれば、無駄遣いの上に無駄遣いを重ねた愚策中の愚策でしたが、その数百億のかなりの部分を中抜きした縁故業者にとっては十分目的は果たせたというわけです。
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癒着宣言

2021-12-24 | Weblog
今日、流れてきたツイッターでのニュース、日本も大阪も末期状態と思わせる話。

このたび大阪府と株式会社読売新聞大阪本社は、教育・人材育成、情報発信、安全・安心、子ども・福祉、地域活性化、産業振興・雇用、健康、環境など8分野にわたる連携・協働を一層促進させ、地域の活性化と府民サービスの向上を図っていくために、包括連携協定を締結することとし、以下のとおり締結式を行いますので、お知らせします。
 出席者  大阪府知事 吉村 洋文 株式会社読売新聞大阪本社 代表取締役社長 柴田 岳。

と、どう考えてもこれは、堂々とメディアと権力の癒着宣言、しかも大阪府の広報で行っているとしか思えない話。「包括的連携」という言葉が、やましさ満々です。コラムニストの小田嶋さんは次のようにツイート。


普通はこんなことを広報で大っぴらには言わないもので、あまりに堂々と癒着宣言するものだから、常識の方をうたがわざるを得なくなったということでしょう。

常識は教科書的知識と現実の問題の認識に基づいて人々に広く共有されます。メディアの社会的役割と、メディアの利益相反についての認識ですけど、メディアは第四の権力であり社会の木鐸であるというのが従来の教科書的理解です。三権が分立しているのは、権力の暴走をお互いに制御する目的であり、メディアがもつパワーを考えると、メディアの独立性というのは第一に守られるべき性質のものです。しかるに、新聞社が府政という権力と連立、つまり包括的に提携するということは、少なくともメディアの社会的役割におけるインテグリティを放棄すると宣言したに等しいと思います。NHKの偏向報道に見られるようにメディアと権力の癒着の問題は日本では深刻ですが、その癒着を宣言するバカはいません。山本太郎はテレビやメディアはスポンサーで運営が成り立っているからそこに利益相反が生まれるので視聴者はそれに意識的であるべきだと述べています。NHKの場合は総理大臣が運営委員を任命するという問題があり、政権が運営に口を出してきました。森友でスクープを飛ばした大阪NHKの相澤記者がNHK東京本部の不興を買い、左遷され退職に至ったのは有名な例です。アベが官房副長官の時にNHKに圧力をかけてNHKのドキュメンタリー番組に介入し放送内容を改ざんさせた問題、「NHK番組改変問題」で一挙に有名になったNHKの政治介入、それを報道したのが当時の朝日でした。アベの朝日嫌いはこれが原因かも知れません。

それから、大阪府が一新聞社と包括的連携をすることを広報するということ。普通は、府政と新聞社が包括的に連携するということは、警戒すべき事態と捉えられると思います。これは、読売新聞の報道は大阪府に都合の良い情報が選択され、都合の悪い情報は抑制され、報道が偏向することを意味しますから。
この広報を大阪府が出したということは複数の可能性を示唆すると思います。つまり、大阪府知事と読売新聞がともに非常識だったので、癒着を示唆する広報を出すことの問題を認識しなかったという可能性。それから、問題は認識していたが、大阪府知事と読売新聞は、国民は彼ら以上に愚かな存在なので、この包括的連携(つまり癒着)を問題にしないだろうと考えた可能性。そして、それらの組み合わせ。

これまでのイソジンとか雨ガッパの行動を見ていると、もっともありがちなのは、大阪府知事と維新は、この広報の問題を理解しておらず、逆に何らかの政治的成果だとさえ思っている可能性が高いような気がします。一方、読売新聞と言えば、これで一部の国民の反感を買って評判と売り上げを落としても、府政からうける優遇の方が勝るだろうと算盤をはじいて、カネの前にメディアの矜持を捨てさったという可能性ではないでしょうか。アベに都合の悪い証言をした前文部官僚の前川さんの人格攻撃をするために、週刊誌なみの下ネタをでっちあげて大々的に報道した新聞社ですから、読売に矜持などないものねだりもいいところでしょうが。

いずれにしても、国民や府民がバカにされているのは間違いないように思います。無論、バカにされる方にもそれなりの問題があるわけです。

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