百醜千拙草

何とかやっています

善人に悪いことが起こるとき

2021-07-16 | Weblog
知り合いの息子さんが突然死したというお知らせが回ってきました。詳細はわかりませんけど、その辛さは察するに余りあります。知り合いであるご本人も難病でこの数年、苦しんでおられました。随分前に、自宅のパーティーに伺った時は、典型的な幸せ一家でした。陽気で人気者の旦那さんに美人の奥さん、広い庭の大きな家にかわいい子供。ああ、あの時の男の子か、とぼんやりと思い出しました。きっと立派な青年になっていたはずです。その知り合いの人は、それからしばらくして別の部署に移動になって疎遠になったのですが、難病を患ってその部署から辞してからまた時折顔を見るようになりました。陽気で気さくだったのに、陰りがちで病気もあって笑顔も減りました。つい最近はその病気が原因とおもわれる転倒事故で骨折して入院したところだったのです。

数年前にも、うちの子供の親友のお兄さんが突然死したことがありました。うちの子も可愛がってもらっていて人柄もよい若者でした。若くして子供ができたが、奥さんが家庭も子供も顧みない人でまもなく離婚し、両親に協力してもらいながら乳児を育てていましたが、ある朝、起きてこなかったそうです。善き人は逝くという言葉はありますけど、通夜での両親の落胆ぶりは目を覆うばかりでした。

善人に悪いことが起こる時、われわれはその解釈に悩みます。善人も悪人も良いことも悪いこともなく、世の中のできごとはニュートラルなのだという考え方もありますけど、人間として生まれた以上は意味を求めるもので、辛いできごとには、なんらかの納得できる解釈をしなければ先に進めません。

昨日は家内がかつての仕事上の知り合いの人と久しぶりに食事に行ったそうです。聞いてみるとカウンセリングからの帰りだったようでした。この方は小規模ビジネスのオーナーでいろいろと問題のある従業員に悩まされていた話は以前から聞いていました。私生活では、一度目の結婚と離婚を経験し、その後のボーイフレンドは薬物濫用が見つかってゴタゴタの末に別れ、二人目のボーイフレンドは、新居に引っ越して同居を初めて数ヶ月で、単独事故で亡くすという目にあっており、どうもそのショックからまだ立ち直れていないようで、カウンセリングに通っているとのこと。

これらの話に別に結論はありません。誰にでも思いがけぬ辛いことが起こります。当事者がそれぞれの人生の困難をそれぞれに解釈して乗り越えるしかありませんけど、現実は一つしかない以上、「今現実に起こっていることが最善のことである」という仮定からできごとを解釈するのが実際的なのだろうと私は思っています。そうすれば、ポジティブな未来を予想せざるを得なくなりますし。ま、自己暗示のようなものですが。
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東洋と科学の成熟

2021-07-13 | Weblog
前にもちょっと述べましたが、東洋の文化と科学は馴染みが悪いという話。科学は西洋で生まれ、仮説を懐疑的に検討していくことで「真実」を明らかにしようとする世界を理解するためのアプローチといえるのではないかと思います。それがあっという間に世界に広まったのは、そのアプローチとそれによって得られる知識が役に立つからです。
「役に立つ」というのは東洋においては非常に重要な価値観です。特にプラグマティカルな中国や日本では、「役に立てば、理屈はどうでもいい」という考えもまだまだ健在です。例えば、東洋医学や漢方はどちらかといえば、役に立つことがまず先にあって、理屈は後付けであったりします。これは西洋の科学のアプローチと対照的です。

近代の東洋は社会もライフスタイルも学問も西洋のスタイルを真似することで発展してきました。それで、形は真似ても中身がそぐわないという場合はよくあります。科学にしてもそうで、その精神や考え方は西洋のキリスト教文化が深く影響しると思いますけど、その部分は東洋では軽んじられている、と私は思います。

中国からの科学論文は凄まじい勢いで増えているのですけど、そうした論文を査読した経験から、中国からの論文の多くは、まだまだ、質に問題があると私は思っています。研究者が論文を出すのは業績と地位や金が結びついているからですけど、研究には、ウソをつかないこと、再現性を確認すること、倫理や規制を守ること、などのルールがあり、そのルールを守るのは、科学の精神を尊ぶ研究者の良心に委ねられています。しかるに、こうした科学の精神や研究者の良心は、しばしば出版という実利的な目的と相反し、故に、研究不正は後を絶たないわけです。

実利を重んじる中国で、論文の発表が即、金や地位や名誉に直結しているような場所では怪しい論文が大量生産されるのは当然の帰結と思われます。さらに悪いことに、適当で怪しい論文を出版しても問題がなさそうだとなるとそうした質の悪い論文を出すことを躊躇わなくなり、この傾向が加速することになります。ちょうど日本の政府与党のみたいなものですか。

7・9号のNatureのフロントページでは、最近の中国のとある研究を批判しています。

オスのラットと妊娠したメスのラットを縫い合わせて、液性因子を共有させ、オスを妊娠状態にする、という実験です。その上で、メスの子宮と胎児をオスに移植し、オスの体内で胎児が発育できるかを調べるという研究です。二匹のマウスやラットを縫い合わせる実験というのは液性因子の影響を調べるために、以前から行われていますが、動物にとっては大変なストレスです。今回の実験は、加えてオスの妊娠状態のメスを縫い合わせるという実験ですから、その意義や倫理面に多くの批判が集まった模様です。また、記事では、二年前のヒトの胎児に遺伝子編集を行って、世界的にバッシングを受けた中国での事件が引用されていました。

遠藤周作の小説で「海と毒薬」という戦中のアメリカ人捕虜を使った人体実験の実話に想を得た小説があり、キリスト教世界である西洋とそうした絶対神信仰のない日本の倫理観の違いがモチーフになっていますが、思うに、これは東洋に共通する同様のメンタリティに由来するのではないでしょうか。日本も今の中国も、その行動基準に絶対的基準を持たず、赤信号はみんなで渡れば怖くない感覚の人々が大勢いると思いますけど、その東洋的やり方は、原理原則、厳密性を尊ぶ科学とは馴染みが悪いと思います。

西洋人からすれば、明らかに倫理性に問題のある実験を行うにあたって、おそらく生体解剖をした日本人も、今回のような実験を行った中国人研究者も、その実験の意味をそれほど深く考えていなかったのだろうと思います。科学的実験を行うにあたっての精神、ソフトの部分が欠如していると言えるかも知れません。

一部の良心ある中国人研究者は、中国の科学はすでに偏見にさらされているのに(その偏見には十分根拠があるわけですが)、こうした問題のある研究を発表するのは、さらに中国のイメージを悪化させると心配しているようです。
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米中対立と研究資金

2021-07-09 | Weblog
ちょっと前の6・24号のNatureのフロントページ。アメリカの公的研究資金は医学、生命科学はNIH、その他の基礎科学、物理、化学などはNSFが主な供給機関となっておりますが、今回、アメリカ議会上院でNSFなどへの科学研究にかなりの額の予算増大が可決されたとのニュース。NSFの年間予算はおそらく$10 bilぐらいかと思いますけど、今後5年でNSFを中心に$120 bil の予算がつくとのこと。
研究者にとっては喜ばしいことです。
が、その動機はどうも対中国。この予算案はいくつかの条件の上に可決、その一つが中国がアメリカの知的財産を盗用、不正利用することを防ぐための条項でした。

近年の中国共産党政府率いる中国に対するアメリカの警戒感は相当なもので、アメリカ永住権を申請中の知り合いの中国人によると、トランプ以降、審査がストップしていてどうなるかわからないとの話。バイデンも中国への警戒は強く今後の米中の政治的対立は続くような感じがします。

ひとつには、コロナウイルスの研究所流出疑惑があると思います。武漢には武漢ウイルス学研究所(WIV)という研究所があり、そこでのウイルス研究にアメリカのNIHの資金も使われて共同研究が行れていたということを複数のアメリカ一般紙がしばらく前に記事にしたことから、COVID19のコロナウイルスは中国が作った生物兵器だという陰謀説が広まったことがあると思います。私、個人的にこの説の一部は本当ではないかと思っています。生物兵器の開発であるとか意図的にばら撒いたということはないと思いますけど、ウイルスが研究所由来である可能性は高いのではないかと思います。

武漢での中国の初期行動は非常に迅速でした。WHOが新型コロナウイルスによる新しい疾病を確認するやいなや、武漢に患者を隔離する病院を突貫工事であっという間に新設し、都市封鎖をして封じ込めを図った中国は、このウイルスの危険をあらかじめ知っていたかのようです。また、WIVのホームページの情報によると、COVID19より前に抗コロナウイルス薬の開発基礎研究をアメリカと共同で行った論文も出版されています。ということは、WIVではおそらくSARSやMERSのようなコロナウイルスによるepidemicを予測してコロナの研究が行われていたと考えられ、ひょっとすると今回の新型コロナは、WIVでのコロナ研究のために、偶然または意図的に今回のウイルスをコウモリから単離していたのかも知れません。つまり、WIVでの研究材料としてたまたま単離したウイルスが事故によって研究所外に流出したという可能性です。中国がアメリカの資金を使ってこっそり生物兵器を開発していたということでは多分ないし、意図的にばら撒いたということでもないだろうと私は思います。あるいはWIVはまったく無関係かも知れません。

いずれにせよ、近年の中国共産党の強権的な振る舞い、香港での中国政府の行動、中国統一の野望と台湾侵攻の可能性などを考えると、アメリカが中国を強く警戒するのは理解できます。加えて、人間は感情の動物で、トランプがチャイナ ウイルスと連呼し、中国起源のウイルスだというだけで、アメリカでアジア人全体への差別が広がったぐらいですから、議員や専門家であっても中国への警戒心は感情の領域でも大きくなってきたのだろうと想像できます。

そう思うと、中国共産党がこれからも強権的な独裁的政治を追求していくなら、米中の対立の緩和は遠いと思います。その迷惑を被るのは普通の中国の研究者や学者、それから彼らと共同研究しているアメリカの研究者でしょう。

ちなみに先日の中国共産党結党100年記念に、日本共産党は祝辞を送りませんでした。日本共産党の志位委員長は、民族虐待、言論弾圧の独裁政権の中国共産党を「共産党」の名に価しないと強く批判。一方、自公幹部は祝辞、立民も儀礼だからと言い訳しながら祝電を贈ったとのこと。
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付加疑問についての付加的疑問

2021-07-06 | Weblog
ちょっと前のリテラの記事

、、、すでに全国の自治体からワクチン供給不足の悲鳴があがっていた6月27日、河野大臣はお得意の英語で発信している自身のTwitterアカウントに、世界のコロナ関連データを集計している「Our World in Data」の「人口100人あたりの1日のワクチン投与量」(7日間平均)の表を貼り付けた上で、こんな投稿をおこなったのだ。
〈Vaccination in Japan. Not bad, isn’t it?〉(日本のワクチン接種。悪くないでしょう?)
 、、、、だが、あまりに当たり前の話だが、この表で最下位のアメリカや低い水準のイギリスといった国は今年1〜2月の段階から接種をスタートさせており、すでにかなりの量を接種し終えている。対して日本は、それらの国から遅れに遅れて接種をスタートさせ、ここ最近になって急激に右肩上がりとなっている。、、、

問題のツイートの返信欄、見てみましたが確かにボコボコですな。

私、最初に「ん?」と思ったのは、"Not bad, isn't it?"と表現です。私はこれは、否定のあとの付加疑問なので、"Not bad, is it?"の誤りだと思ったのですけど、どうも色々解釈の仕方があるようで、"Not bad"は"good"のことであるから、"isn't it?"が正しいという人もあるようです。つまり"Not bad"というのを"It is not bad"という文章の省略形ととらえるか、一かたまりの言葉として捉えるかによって、否定にも肯定にも解釈でき、その解釈によって"isn't it?"か"is it?"が選択されるということです。ま、どっちでも誰も気にしないでしょうけど。ちなみに、英語でTag questionは、こうした典型的な例にとどまらず、多くのバラエティーを含むようです。例えば、It is good, yes (no)?といったのもそうで、この場合、付加される言葉は肯定でも否定でもいいです。"Do me a favor, will you?"というのもあります。この場合は、付加疑問というよりは、単に"Will you do me a favor?"という文章の倒置形と解釈すべきなのかも知れません。一方、"Let's play together, shall we?" の場合は、単純な倒置と解釈すると"let's"が冗長ですから、付加疑問と考えるべきではないかと思いますし、とすると付加疑問は否定系となるのが自然ではないかと思います。しかし、"Shall not"の省略形、"shan't"はあまり使われているのを見たことがないので、慣例上、否定形にしないのかも知れません。とはいえ、付加疑問だとすると動詞が一致していないのもおかしいですが。

そういえば、現在形一人称のBe動詞の"am"が動詞の場合の付加疑問もあまり目にしません。私が記憶にあるのは、ミュージカル"Oklahoma"でのペルシャの行商人Ali Hakimのセリフ、"I am a peddler, ain't I?"です。"Ain't"は口語の否定文では非常に柔軟に用いられますが、おそらく"ain't"の唯一正式な使用法は"am not"の省略形のみだと思います。

ちなみに、フランス語で"isn't it?"にあたる付加疑問、"n'est ce pas?"は、前の文章の肯定否定、動詞の種類などと呼応しないので、単純に文の終わりにつければいいようです。
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頑張ったり頑張らなかったり

2021-07-02 | Weblog
今日が申請提出の締め切りで、この一月のほとんどをこの申請書を書くのに費やしてきました。大変非生産的なことです。

前回の申請やそのアイデアのもとになるデータを集めるために費やした時間を考えると二年以上はかかっています。その間にコロナがあり、色々な事情で人が去っていったこともあり、この申請書のために他のプロジェクトはほとんど進まずという辛い状況でした。そんな状況で、当たるか当たらないかわからない申請書を書くためにそれだけの時間をかけるというのは、われながらバカだなあと思います。

しかし、どうせ人生は死ぬ時までの暇つぶしなのなら、何かしながら暇をつぶす方がつぶしやすいのかも知れないと感じています。

限りある人生の時間をどう考えるかは個人の価値観です。短い限られた時間は貴重であり、寸暇を惜しんで志すものに向かって邁進すべきだ、と思う人もあれば、その限りある時間を楽しんで過ごすことを優先すべきだ、と思う人もあるでしょうし、ま、どっちにしろ暇つぶしに過ぎぬ、と思う人もあるでしょう。私自身もこれらの間を行ったり来たりしていましたけど、今は最後の感覚がもっともしっくりしますね。

振り返れば、高度成長期になり、モーレツ社員や企業戦士という言葉が生まれ、「24時間戦えますか?」という栄養ドリンクのコマーシャルが流れ、Karoshiが英語となった前世紀後半の日本は異常な時代でした。ほとんどキチガイ沙汰です。しかし、思うに日本人は過剰に働くことによってある種の「快感」を得るような生理メカニズムがあるのだろうと思います。働くことは割と生産的な暇つぶしとも言えますし。

私の子供のころにはすでに受験戦争があり、夜遅くまで塾通いをする小学生がいました。一生懸命仕事をすれば儲かる時代で、「頑張ることは良いことだ」という価値観が比較的無批判に社会に広がっていました。私も頑張らないと罪悪感を感じたりする世代です。その後、バブルの崩壊とともに頑張っても報われないケースが増え、今度は「結果責任」になりました。頑張っても頑張らなくても結果が全てで、結果は自己の責任で受け入れよ、みたいな冷ややな資本主義社会の現実を反映したような言葉を聞くようになりました。呆れるほどの価値観の転換です。

思うに正しい態度というか(正しいも間違っているもないのですけど)は、その間でしょう。中庸、バランスの大切さは年を取って理解できるようになりました。適当に頑張って、適当に休み、成果がでればよかった、でなければ残念だ、それでおしまい。そういうのがいいです。「この世資本主義社会は弱肉強食の競争社会で、必死で頑張らないと生き残れないのだから、甘えたことを言うな」と真顔で説教する人が前世紀末にはいて、そういうことを聞くたびにいや〜な気分になっていましたけど、いまは、あなたはあなた、わたしはわたし、触らぬ神に祟りなし、という感じです。

とりあえず申請書は終わったので、次の暇つぶしにうつることにします。二、三の頼まれごともありますし。何か別のことをするのは楽しそうです。


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偏見と理性

2021-06-29 | Weblog
先日、昔の研究者の知り合いからメール。本題は別の話でしたが、ついでに書いてあったコロナワクチンについて懐疑的なコメントに、ちょっと驚きました。その後のやりとりから感じたのは、科学者と言えども、自分の先入観や感情の前には、科学的データも過去に積み重ねられた研究知見よりも、自分の気持ちに近いanecdotalな新聞記事の方を重視するのかもしれないということでした。

コロナのRNAワクチンはこれまでで世界中で30億がこの一年の間に使用されており、その効果も副作用の発生率に関してもすでに膨大なデータの蓄積があって、科学者なら簡単にそのデータにアクセスできるので、その有効性や副作用発生率の数字は瞬時に知ることができます。今回のように、新しいメカニズムの新薬がこれだけの短期間にこれだけ大量に使用されたことは歴史になく、副作用について敏感になるというのは理解できますが、ネットでみても、分子生物の知識があり、ワクチンの作用メカニズムが理解できるはずの科学者でさえほとんど根拠のない陰謀論にすぎないような理屈を捻くり出してワクチンの危険の可能性を議論している人もあって驚きます。かれらはどうも最初から「ワクチンは悪」という結論から出発してその結論に都合のよい話だけを寄せ集めて議論しているようです。

思うに、人間は己の信念や思い込みからは簡単に自由になることは難しいということなのでしょう。トランプのように自分に都合の悪い事実はフェイクであって、都合の良いウソは真実だというような人は少なくないということでしょう。

とはいえ、私自身にもRNAワクチンに関しては多少の逆向きの偏見があるかも知れません。ファイザーワクチンの技術供給元になっているドイツのBioNtechの技術はハンガリー出身の科学者、Katalin Karikóらの研究がもとになっています。今年初めのZoomでの小さな講演会で彼女の話を直接聞く機会がありましたが、彼女の研究人生はドラマです。とくに、アメリカの名門大学の教官として採用されたのに、このRNA医薬のアイデアが誰からも支持されず、研究費も貰えず、結果としてテニュアを拒否され、アカデミアの研究者として失格の烙印を押されるあたりの下りは、涙なくして読めません。興味のある方は、去年の記事ですが下にリンクしますので、DeepLなどで読んでいただけたらと思います。これは一般向けですが優れた記事で、いかに彼女らが、RNA ワクチンの免疫反応を抑えることに成功してブレークスルーに至ったかなども説明されています。アメリカの科学ジャーナリズムのレベルの高さに驚かされますね。


話がずれました。理性と知性を備えてはいても、人間は偏見や思い込みから自由になるのは難しいという話でした。人間は感情の動物であり、感情は理性でコントロールするのはしばしば難しいといういつもの話でした。

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快楽主義

2021-06-25 | Weblog
しばらく前、ストア派のセネカの言葉について思うことを書きましたけど、私には合わんなあ、と思いました。時間を惜しんで努力して何かを成し遂げることに意義があると思うかどうかは個人の価値観によるでしょう。

知り合いの女性は旧帝大を一つ、そのあと地元の国立大学医学部を出た才女なのですけど、「私には向上心がないから」と言って、現在は専業主婦のマイペース生活を楽しんでおられます。学生時代によく遊んだ友人には試験勉強は寝転がって教科書を一回読むだけという人がいました。その才能や頭脳を使って何かを成し遂げたいとか金儲けをしたいとか地位を手に入れたいとかという俗人の欲というものが、これらの人々には乏しいようですけど、本人はそれで満足しているようです。むしろ頭がいいからこそ地位も名誉も金にも興味があまりないのかも知れません。

人は、幸福を得ようとしてものや金や地位などを外界に求めようとしますけど、幸福とは幸福感のことであって、結局は心の持ちようです。つまり、最上の幸福は「心の平和」であろうと私は思います。頑張ってアドレナリンを出して何かを成し遂げてドーパミンを出すのが幸福という人もいるだろうし、そんなことをせずともじんわりセロトニンやオキシトシンで幸福が保てる人もあるでしょう。

さて本題に戻って、ストア派と対照されるのがエピクロス派の快楽主義ということになっています。その「快楽」とはすなわち「心の平和」であること(アタラクシア)なのだそうです。ということで、私は快楽主義で行きたいと思います。

というわけで、今日はセネカではなくエピクロスの名言を。

 心の安らぎを得ている者は、自分自身に対しても他人にも迷惑をかけない

わずかなもので満足できぬ者は、何ものにも満足できぬ

正義のもたらす最大の実りは、心の平静なり

貧乏にあまんずるは栄誉ある財産なり

それから、もっとも有名なエピクロスの言葉は「隠れて生きよ」らしいですけど、私は共鳴しました。つまり、外界ではなく、自分の心の安寧に注意を向けるべきであるということだと思います。「わずかなもので満足できぬ者は、何ものにも満足できぬ」とか「貧乏にあまんずるは栄誉ある財産なり」というのは、逆に一見、ストア派の言葉のようにも聞こえますけど、心の持ち方の大切さを言っているのだと思います。一昔前、清貧の思想とかミニマリズムとかが流行りましたけど、思うに、本来、貧乏であることや持たないことそのものがよいのではなく、持たなくても心の平静を保つことができる能力の尊さを強調しているのだろうと考えられます。

少し前、FIREについて少し述べました。現在の資本主義社会では、自由な時間を確保して安心を保つための資金というのはかなりの額が必要であり、その資金を思うように使うわけにもいかないのですが、それでもこの生活スタイルを選ぶ人が増えたということは、物質の時代の終わりにあたって世界的に自由と心の平和(すなわち快楽)の重要さの認識が高まってきたということではないかと思います。
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終末コスト

2021-06-22 | Weblog
前回、アグレッシブな貯蓄で早期に資産形成して投資運用益で生活を賄うFIREの話をちょっとしました。資産は基本的に使わない前提で生活設計するのですが、その金を使わざるを得なくなる時期がくるというのを言い忘れました。4%ルールで資産の4%を年間の生活費として使えば、資産は減らないのですが、それでは賄えない時期が来ます。

アメリカの投資会社のシミュレーションでは、その時期のコストを年間一千万円以上、その期間は平均6年と見積もっているようです。つまり、死亡前の6年間にかかる介護、医療費用のことです。つまり、アメリカで人並みに死ぬためには、それまでに必要な生活費用に加えて六千万円以上が必要ということになります。資産の4%に加えて67歳からは公的年金の支給を受けることができますが、年間一千万円には多分とどきませんし、また、運悪く人生最後の高コスト期間が6年以上続く場合を想定すると、一億円の資産で慎ましく過ごしたとしてもまだ不安があります。

日本においては、社会保障の点ではアメリカよりはいまのところ状況はマシでしょうけど、今後経済的に低迷していって、生産人口が減少し超高齢化社会が到来することを考えると、政府は例によって「自己責任」論を振りかざして、社会福祉を切り捨てていき、そのうちにアメリカ並みの高額介護医療費用を個人負担せざるをえなくなるようになる可能性もあると思います。そもそも「自己責任」とか「自助共助」という言葉を平気で口にして恥じない政府というのはタダの税金泥棒です。税金 = 年貢だとでも思っているのでしょうな。

大企業は海外でビジネスをするようになっていますから、国内最大の産業が医療と介護となる日も近いかも知れません。医療介護サービス業で内需経済が回っていくならそれはそれでいいのではないかと思いますけど、介護や医療は社会保障の一環でもあるわけですから、長期的計画に基づいて国や公的機関がコントロールしていく必要があるでしょう。残念ながら、この国の政治や役所は長期的視野にたって全体の利益を考えるということが得意ではないのに加え、やっているふりだけはするという困った性質を持っているわけですが。
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高回転型から低回転型へ

2021-06-18 | Weblog
終身雇用、年功序列という制度が崩壊し、年金制度が破綻しつつあり、貧困化する中で、副業や資産運用を積極的に行うのが当たり前となってきました。Gig economyという言葉が使われ出してしばらく経ちますけど、ネットの発達で個人同士で仕事をやりとりするような形で働く人が増え、会社や組織を介さずに収入を得る人も増えました。ネットでのビジネスの場合、場所は関係ないですし、コロナでリモートワークが増えたこともあり、さらにこの傾向は加速しそうです。

となると、多くの人が個人事業主となり個人が自分自身の一生の経済問題に責任を持つ時代になります。そんな中でFIRE(Financial independence, retire early)と呼ばれるような生き方を目指す人が増えました。(この手のライフスタイルにラベルを貼るやり方は、どうかと思うのですけど、20-30年ほど前に流行ったハイ コスト ライフ スタイル、DINKS (double income, no kids)を思い出すと、世の中の移り変わりの激しさを感じますね)

消費は美徳、経済を回すために地球資源はどんどん利用すればよい、というような高回転型ライフスタイルを支持する人は現在では激減していると思います。地球温暖化や石油資源の枯渇、激しくなる環境汚染、人口爆発にパンデミック、一つしかない地球でこれからも人類が生きていこうとするならば、人類が生きていける環境をできる限り維持するよう、エネルギーやものの消費、それにともなう廃棄物の産生を抑え、再生可能な低回転型ライフスタイルを選択すべきと考えるのは当然だと思います。

FIREは、若いうちから貯蓄と資産形成に励んで、引退資金を早くに貯め、資産の運用益で生活をまかなうことで、早期引退して自由に過ごす時間を増やすというアイデアのようです。ということは、金やものよりも時間、瞬発性より持続性を重視するラ低消費、低回転型のライフスタイルといえるでしょう。若い時から貯蓄に励めば、当然、慎ましやかな生活になりますし、引退後の運用益で生活費を賄うのであれば、やはり慎ましく生活しないといけません。その貯めた金は基本的に使うためではなく、心の安心と時間の確保のためにとっておくものという考えだと思います。逆に言えば、その金で安心を買っているとも言えるわけで、その代償が慎ましい生活ということだと思います。

そこで中心となるルールが4%ルールと呼ばれるものです。つまり、生活費を運用益でまかなうために年間に資産の4%までなら比較的安全に引き出せるということで、これはアメリカなどでの年間投資利益が5-6%と見積もって出された数字です。

とすると、資産が一億円あれば、年間の運用利益が500-600万円と見積もられ、4%の400万円ぐらいを毎年引き出して使っても、資産を一定水準で保て、インフレにも対応できるという計算です。ということでそこそこの資産形成をできるだけ早く達成することが鍵になってきます。アメリカなどでは401kやIRAなどの税金優遇のある貯蓄制度を目一杯利用して若いうちから貯蓄する癖をつければ50-60歳ぐらいまでに一億円規模の貯蓄は可能だと思います。一億円もなくても運用できる資産がその半分ぐらいあれば、半年働いてあとの半年寝て暮らすという生活も可能ではないかと思います。ま、私もそういう生活をしたいなあと考えているのですけど。

ただ、投資の運用益に依存するこのやり方は、皆がこの方式で慎ましく生きるようになると、当然、経済規模は縮小し、投資運用益も減っていくでしょうから、あるところで成り立たなくなるでしょう。そのときには、また共産主義思想が復活するかもしれません。
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could've been worse

2021-06-15 | Weblog
最近ずっと低調な話が続いてますけど、ブログを書くとか、人と話すとかという行為は、運動するのと同じで、精神にプラスの効果があると思います。私もそのためにやっているようなものです。溜まっているものを出して圧を下げるというガス抜き効果です。基本的に知り合いと飲み屋で話をするのの延長という感じで書いているので、愚痴、自慢、見栄、泣き言、悩み、おもしろ話、ゴシップ、たまにいい話などを一方的に書いております。

私も知らない人が書いているブログなどをちょこちょこ見にいきます。匿名で大っぴらに人にはしゃべれないような話を吐き出しているようなのがとりわけ面白く、しばしば共感を覚えます。このコロナ以降、生活が一変し大変な苦労をしている人も多いと思います。私自身も、コロナは随分、精神的にきました。昼間に人と雑談をすることなくなくなったのが大きいと思います。Zoomでの会合はありますけど、会議室でガヤガヤという雑談はできませんから、ガス抜きの機会が失われ、生活が非常に単調になり、そしてその間に肉体的に健康を害したこともあって、生き方を変えようと考えはじめました。少なくとも、それが私の今の「希望」の種になっています。

しかし、希望が叶って生き方を変えても、そう明るい未来がやってくるとは思えません。とうか、私の場合、希望というのはほぼ100%に近い確率で期待通りに成就しません。それで希望的に考えるのではなく、客観的に眺めて、いろいろな考えられる限りのシミュレーションをして計画を立てたりするのですけど、必ず思いもかけないところに見落としがあって、現実は100%その見落とした部分を突いてきます。結局、客観的に控えめに見積もった結果のさらに5割減ぐらいで終われば良い方です。

というものの、私自身は基本的に運がいいと思っております。しかし、その運がいいというのは、手放しの幸運でなく不運があっての幸運という感じです。禍福は糾える縄の如し、ともいいますけど、それともちょっと感じが違います。下のようなアメリカンジョークがありますけど、強いて言えば、不幸中の幸い (It could have been worse)というか、大雨の中の一瞬の晴れ間 というようなのが、私の運がいいというのに近いかなあと思います。ま、そもそも人生の出来事のそれぞれを「不幸(または幸運)」と考えるのは個人の勝手ですけど。

「フランク、トムのことを聞いたかい?昨夜、家に帰ってきて、妻が他の男とベッドにいるのを見つけて、2人を撃って、それから自分を撃ったんだよ」
「それはひどいな」フランクは言った 「でも、それは不幸中の幸いだった」
「この状況で、いったい何が幸いなんだ?」と困惑した友人は尋ねた。
フランクは答えた 「もしその前の晩だったら、俺が撃たれていた」
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落とした蒟蒻

2021-06-11 | Weblog
変わりない日々で、働いて、食べて、寝る生活です。今日は久しぶりに興味深いデータが出たので気分がいいです。だからといってこれに将来性があるかどうかは別問題ですけど、将来のことばかり考えていたら今日が生きていけません。

不安は尽きないものですけど、昼間はいろいろ目先の作業や関心ごとに注意が向いているので、自然とマインドフルネスになるのでいいのです。ですけど、明け方の4時半ぐらいに嫌な気分で目が覚めるのが困ります。うつや気分障害のときの早朝覚醒なのでしょうか。

これは未来への希望が年々縮小しているのと関係していると思います。明るい未来が描けないと心は過去に向かい、苦い思い出を反芻することが増えます。昼間の顕在意識では、心から「どうでもよい」と考えているようなことでも、無意識のレベルではまだこだわっていたりするものがあるようで、それが明け方に出てくるようです。後で思い返して、明け方の夢うつつ状態のときに、どうしてあんな馬鹿げた考え方をするのだろう、と不思議に思うのですけど、それに付随するネガティブな気持ちというのは気分の悪いものです。

そういえば、杉浦日奈子さんの漫画で、死ぬ前に井戸に落とした蒟蒻が気になって成仏できない幽霊の話がありました。最近の明け方の私の精神状態はこれに近いのではないかと思いました。その日の夕食に楽しみにしていた蒟蒻料理が食べれないことはその時の重大事かも知れませんけど、人生のスケールで考えたら本当に取るに足らないことです。でもきっと、そんな「くだらないこと」と考えているようなものでも無意識がこだわっているということもあるのでしょう。

いずれにしても、朝にすっきりと希望に満ちた気分で起きれないのは、この井戸に落とした蒟蒻のせいのようです。たかが蒟蒻だと思っているのが却って悪いのかも知れません。蒟蒻供養でもしてみようかなどと思っております。

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期待と希望

2021-06-08 | Weblog
前回の「期待を持つことによって今日の時間を無駄にしている」というセネカの言葉に関連して。これは、確かに一理あります。期待というは自分の外に希望を持つということなのでしょう。

最近、また精神科医でユダヤ人のビクトル フランクルの「夜と霧」の一部を読み返す機会がありました。印象深いのは「希望」に関する話で、ユダヤ人強制収容所で最後まで生き延びたのは希望を捨てなかった人だったとあります。希望を失った人から死んでいくのですけど、希望にも複数の種類があるようです。興味深いのは、あるクリスマスの翌日に大勢の人が死んだという話です。それらの人々はクリスマスには開放されるらしいという噂に希望を持っていた人々でした。彼らはその「期待」を裏切られたことにより希望を失ってしまいました。一方、自分自身の中に希望を持っていた人は希望を失わずに済みました。フランクル自身は、精神科医、心理学者としての立場から、生き延びて、この収容所生活について著作や講演を行いたいという希望があったようです。事実、夜と霧は世界的な大ベストセラーになりました。つまり、クリスマスには開放されるかもしれないというような他者に依存する希望ではなく、自分自身の内にある希望は自ら持ち続けることをやめない限り失われないということです。

ということで、希望を失わないためにも他者に期待しないというのは重要な心構えだと私も思います。他人と過去は変えられないともいいますし。自身の中に希望を持ち続けることが生きる上で大切だと思いますが、それが困難に思うときもしばしばあります。しかし、希望の芽というのは心が落ち着けば、焼け野原にも自然と生えてきます。それを潰さないようにするために、他者に期待しない、そして他人を気にしないことは大切だと思います。私も、不安な時に心の安静を保つために、オポノポノとかマントラとか、試してみましたけど、 実際にやってみて有効だと思ったのは、「ゲシュタルトの祈り」の文句の一部、「私は私のことをする、あなたはあなたのことをする、、、、私は私、あなたはあなた」を思い浮かべることでした。

ストレス過剰になると、他人と比べることで、焦燥感や劣等感を感じ、視野狭窄になって全か無か思考に陥りがちになりますので、そんな時に唱えることができる二、三の言葉を覚えておくといいと思います。
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人生の短さについて

2021-06-03 | Weblog
若い頃、旅行先の書店で中島義道さんの本「人生を半分降りる」を買って以来、数冊の中島さんの作品を読みました。友達になるのは難しそうな人だなあと思いながらも、本は面白く、飛行機の中でグレゴリア聖歌を聞いている間に人生を半分おりると決心した、みたいなキザっぽいエポソードが若い私にはなかなかツボで、それがきっかけでグレゴリア聖歌を聞いてみたりもしました。カント哲学が専門のようですけど、ストア派のセネカの言葉がよく引用されていたのを覚えております。

最近、老後をどう生き延びてどういう形でこの世から去るかということをよく考えるようになりました。体力と気力の衰えを実感するとと気弱になるもので、「何があってもなんとかなる」という五年前にはあった気分を維持するのが難しくなりました。昔を振り返ることが多くなり、人生は意外に短いものだなあ、と思う一方、これから先を思って、人生まだまだ長いなあ、とため息をつくという困った状況です。

そんなこんなで、セネカの「人生の短さについて」の中のいくつかの言葉を思い出しました。名言というのは双刃の刃です。若い時は背中を押されて元気づけられるのに、年をとって俯きだした今は背中を押されたら転倒して大腿骨骨折です。

「ノート」に公表されている佐々田 法男さんのこの本に関してのエッセイにとりあげられた二、三の言葉をその中から抜き出しておきます。

われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。、、、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。・・・われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。

次に財産のことに移ろう。それは人間の苦難をもたらす最大の原因である。・・・財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らねばならぬ。

さすがはストア派ですね。ただ、今になって振り返って思うのは、確かに私は大量の時間を無駄に非生産的なことに費やしてきて、実際に後悔していますけど、もう手遅れです。資本主義社会の現代では、財産を持たないことはそのこと自体が持続性の苦痛の種だし、期待を持つことは失望につながりはしますけど、不安しかもたない人間よりははるかにマシではないだろうかと感じています。

時間を浪費してしまったという後悔は誰しもがするもので、私も若い頃に志したことの1%も成し遂げぬまま人生が終わりそうですけど、ならば、もう一度やり直したいかと聞かれたら、「結構です」と答えるでしょう。最近、数年後に引退を予定しているある女性教授は雑談の中で、「年を取っていてつくづくよかったと感じる」と言うのでした。その気持ちがわかるようになりました。結局、いろいろなことをして暇をつぶしてきたが、人生は短かかったなあ、と思いながら終えるのがベストなのではないか、と思うようになりました。
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こどもの国

2021-06-01 | Weblog
呆れた話。


、、、、コンドームも今大会は15万個が用意された。担当者は「HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染予防の啓発活動を目的に置くもので、村内で使うためのものではない。母国に持ち帰り啓発をしていただくためのもの」と強調した。、、、

その選手村に配布されるコンドームには浮世絵が印刷されているそうです。装着すると浮世絵が現れる仕組み。呆れるを通り越して、怒りが湧いてきますね。
だいたい、なぜスポーツと平和の祭典で、選手にコンドームを配ってエイズの啓発をしないといけないのか?かりにエイズ予防啓発目的でも、選手村に浮世絵のコンドーム15万個、ってもうこれはセクハラです。海外では浮世絵と言えば歌麿の春画という連想が強いでしょう、ウタマロ コンドームをオリンピック選手に配る国、もう完全に壊れてますね。やっていいことと悪いことの区別もつかない、こどもの国。情けない。

コロナの感染制御も満足にできず、ワクチン接種も周回遅れ、医療崩壊しつつあり、つい最近アメリカには渡航危険度最高レベルに引き上げられたばかり、緊急事態宣言が出されている国で、世界中の国と日本人の8割が反対しているオリンピックを開催するというのが気狂い沙汰。こどもでもやってはいけないと判断できることを止められない、こども未満がリーダーをやっている国。

コロナのデータを見ると、日本では新規感染者の数と死亡者数が比例関係にあるのに、ワクチン接種の進んだ国では新規感染者に対する死亡者数は低くなっているのが興味深いです。ワクチンは重症化を抑えているのでしょう。

そのワクチンのアグレッシブな接種で新規感染者と死亡者の抑制に成功したイスラエルですけど、どうも、政権交代濃厚でネタニヤフの退陣間近との話。右派に一部が寝返ったそうです。日本も、公明党とまだ良識のカケラが多少残っている自民党議員の方は、内閣支持率16%の日本のポンコツ政権の沈む泥船から逃げ出すなら早い方がいいでしょう。トランプが去り、ネタニヤフが去っていき、プーチンもそろそろ、ポンコツは時間の問題、世界的にも政権交代の時期でしょうか。権力を持てば腐敗は避けられないのです。派閥政治が働かなくなった自民党は長期のアベ政権の時代から腐敗が進行し続けてもう焼却処分するしかないという状態まで達してしまいました。腐敗を定期的に掃除するためには政権を移す必要があります。




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ズビズバー

2021-05-28 | Weblog
久しぶりに昔の師と話をする機会があり、現在の問題と将来の話を少ししました。自分では、悪循環の中にいるときはこういうものだろうと軽く考えていましたけど、人に話してみると結構、客観視できるもので、そこそこひどい状況だなあと実感しました。私は、なにかとあきらめが悪い方で、いつもそれが多くの場合マイナスに働いて、傷を深めることになります。また、危険や機会に対してパッと反射的に動くのが苦手で、行動する前にいろいろ考えている間に手遅れになって痛い目にあいます。この下手な考えのためにパッと反射的に動けないのと諦めが悪いというコンビネーションは結構最悪で、泥沼にハマるとなかなか出られないのです。私のその師は対極で、危険を察知しそれを避ける能力や最小限の努力で最大の成果を得る行動法は驚くばかりです。全てが色々な角度から非常に合理的に計算されています。昔は、家が同じ方面なので同じ電車に乗り合わせることがよくありましたけど、家に帰るという一つの行動だけでも、驚くべき計算の上に行動が制御されており、昔の武術の達人なみの無駄のなさで帰宅するのでした。

てなわけで、最近、低調な話が多くなりがちなので、ホントにどうでもいい話。以前に紹介した昭和のヒット曲、左卜全とひまわりキティーズの「老人と子供のポルカ」ですけど、以前から、歌い出しの「ズビズバー パパパヤー」という歌詞が気になっていました。パパパヤーはなんとなく、トランペットのファンファーレの擬音ではないのかと思ったりしたのですけど、「ズビズバー」は何なのでしょう。

一番ありがちと思うのは、これはもともとはDoo Wopのスキャットとから取ったのではないかという可能性です。当時はアメリカン ポップスをはじめとする洋楽が大量に流入した時代で、キングトーンズのような和製ドゥーワップ グループもありましたから、「ドゥワッ ドゥワ」とか「シュビ デュバ」といったスキャットを左卜全のイメージに合わせて、わざと訛らせたものと考えるのが自然だろうと思います。作詞作曲は早川博二さんで十五年ほど前に亡くなっておられます。ご存知の方は教えてください。

ズビズバ ーが気になったのは、この間、昔のポップス曲に「Zou bisou bisou」という曲があることを知ったのがきっかけです。この曲は英語版とフランス語版がともにヒットし、日本でもカバーされていますので、「ズビズバー」はひょっとしたらこの曲からの発想という可能性もわずかながらあるのではないかとふと思いました。この曲は、1960年に、フランス語版はGillian Hills、英語版は「Zoo be zoo be zoo」のタイトルでソフィア ロレーンが映画の中で歌ったようです。日本では森山加代子さんや中尾ミエさんがカバーしています。

60-70年代の外国の曲というのはクリーム メロンソーダのようになぜか懐かしい感じがするのですけど、なぜでしょう。

ジプシージャズのAvalon Jazz Bandのカバーで

森山加代子 版

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