百醜千拙草

何とかやっています

後悔していること

2021-05-25 | Weblog
若い時に実家を遠く離れて20年以上が経ちました。私の父はそれよりさらに10年ちょっと前に亡くなっており、以来、母は、父と建てた家で一人暮らしをしていました。表札には私の子供が生まれた時に、私の家族の名前を書き加えてあって、多分、いつか私も家族も帰ってくるかもしれないと思ってのことだったでしょうけど、その字もすっかり褪せてしまいました。

母も元気なうちは、一人暮らしでもいろいろな活動に参加し、友人との交流もあってそれなりに楽しくやっていたようでしたが、八年ほど前に調子を崩して長期入院して以来、すっかり活動性も落ち、友人との交流もなくなり、その後、車の免許も返上して、自宅から動かなくなりました。以来、毎年、実家で二週間ばかりを一緒にすごすようにしていましたが、年々と少しずつ調子は悪くなってきています。

昨年のコロナ以降、私は単身で実家に帰って一緒に住むことを真剣に考えはじめました。来年の半ばぐらいまでには、こちらのことにカタをつけれるだろうし、さすがにコロナもおさまっているのではないだろうか、と考えていたのです。あいにく、いつもの「やっているふり」の日本のコロナ対策は先進国中最低で、終息するどころか、このままでは原発事故と同じで、半永久的に危険と共存していくことになりそうです。

コロナおかげで、昨年は実家に帰るのを見送り、今年の秋ぐらいにと考えていたのですけど、そうこうしている間に、母が数週間前に自宅で転倒し骨折して入院することになりました。手術して、つい数日前にリハビリ病院に転院となりましたが、もともと活動性が低い状態でこうなっているわけで、どこまで回復するか、そしてまた自宅に帰って一人で生活ができるのかの見通しは微妙です。妹の住む場所から比較的近く、また出入所の自由が利く施設が見つかったので、退院後はとりあえず、そこに移るという話に落ち着きそうな感じですが、その後はどうなるかわかりません。活動性が上がらなければ、そのまま自宅に戻ることは叶わないかもしれません。

もう手遅れですけど、今になって、私の勝手で遠く離れて二十年も一人暮らしをさせてしまったことを後悔しています。同じような理由で、義両親にも随分不孝をしてしまいました。"Hindsight is 20/20" とはいいますけど、振り返れば、人生の色んな局面で、私は、あまり賢くない選択を数多く重ねてしまい、多くの人に迷惑をかけ、悲しませることになってしまったなあ、と思います。

最近は、先のことを思うより昔のことを思い出すことが増えました。一生の中でそういう時期に差し掛かったということなのだろうと思っています。
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一喜一憂

2021-05-21 | Weblog
いろいろ自分ではどうしようもないことが重なり、それでもできることはやろうと頑張ってはいるのですが、それさえも思いがけないトラブルに見舞われて困った状況です。そのストレスが悪いのか、ちょっとここ数日心臓の具合も思わしくなくなりました。これも、自分ではどうしようもないことの一つです。悪循環というのは、自分では理解していても、一旦、入り込むとなかなか断ち切るのは難しいものだなあ、と実感しています。

自分ではどうしようもない問題であるとはわかっていても、複数の問題を抱えているというのは気分のわるいものです。そういうわけで、複数のシナリオを予想して、先々のことにもできるだけ打てる手は打っておこうと考えているのですけど、一番の不確定要素は自分の健康と寿命で、そこが怪しいものだから、なかなか先が読めません。ただ、データなどから、私の余命はあと5年から20年ぐらいの間ではないだろうかと想像しています。結構、幅がありますけど、仮にあと20年生きると仮定して、その間、健康で自由に思うことができる期間というのはおそらく長くて数年だろうなあ、と思います。あまり気楽な時間は思ったほど残っていないものだなどと思いながら時間を潰しております。

思うようにならぬのが人生で、小さなことに一喜一憂しながら時を過ごして、ふと気がついたら勝算のない退却戦に突入しつつあるような感じですけど、まあいいか、とつぶやきながら、とりあえず日々勤めております。
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西洋と東洋

2021-05-18 | Weblog
週末は論文査読を二つ。どちらも中国からです。一つのジャーナルはImpact factorが10以上あるのに、ウチの業界ではまだ無名の雑誌。比較的後発の雑誌で、例によってNPGが出しているわけですが、無名の雑誌なのにIFが高いというのは、事情があります(と思います)。この雑誌のChief Academic Editorをやっているのはアメリカの某有名大学を拠点にしている中国人研究者と彼と近いアメリカ人研究者で、雑誌の編集室は中国です。ご存知の方もいるを思いますけど、中国の細胞生物学学会誌もNPGから出ており、その雑誌のIFも10以上ありますが、国際的には無名雑誌と言ってよいでしょう。雑誌の中身をみればその理由がわかります。8割以上の論文は中国人が著者であり、彼らが相互またはセルフサイテーションをすることで、インパクトファクターを吊り上げているのです。アベノミクスで量的緩和した金を株式市場にぶちこんで株価を買い支えたようなものですね。

競争が激しくなると、自然とメトリックス至上主義となります。結果として研究は出版のための活動となり、よりインパクトファクターの高い雑誌に数多く論文を載せようとする研究者が、厳密さにかけるデータを寄せ集めて話を作るというヤラセのドキュメンタリー番組のような論文が増えることになっています。(私自身の経験から)この傾向が露骨なのが最近激増した中国からの投稿で、端的に言うと「雑な」論文が多いのです。その論文をよく見てみると雑なだけでなく、話そのものも怪しいということがしょっちゅうあります。その中国人研究者が置かれている事情も理解できるし、競争が激しいところで怪しいデータや捏造などが多くなるのは世界中どこでもですけど、それを言い訳にするのは認められません。英語は適当、必要な情報がポロポロ抜けていて、理解困難な論文を週末の数時間を費やして読んでいると、正直、だんだん腹が立ってきます。

中国(や日本でも)で問題の多い論文が多い理由は、勝者報奨を基本原則とする弱肉強食競争社会の構造的なプレッシャーに加えて、歴史的、文化的な差異、つまり中国(広く東洋)の現実を重視する文化、が影響しているのではないかと私は考えております。科学は西洋で生まれた世界を理解するための方法であって、そもそも東洋の文化と馴染みが悪いのではないかと私は思っています。ちょうど西洋での革命を機に打ち立てられた民主主義が日本にはいつまで経っても根付かないのと同じではないでしょうか。

その東洋と西洋の差について、強い印象を受けたのが若い時に呼んだ石田種夫さんのエッセイです。亡くなられて随分たちますが、石田種夫さんはバレエダンサーだった方で、その昔読んだ本は、舞踊、舞踏を入り口とした優れた西洋と東洋の比較文化論でした。日本人でありながら西洋のバレエを踊る著者の実体験からの深い考察が記されていました。

例えば、西洋と東洋の踊りの違いについて述べたところで、一つ非常に印象に残っているものがあります。東洋の踊りは地面を踏みしめるように踊り、その動きは農作業などの日常生活と密接に繋がっているのに対し、バレエではあたかも地面から離れるような動きが強調される(トウで立ったり、ジャンプしたりする)という観察と考察の部分です。このことは、たびたび、異なったコンテクストで指摘される東洋の「現実主義」と西洋の「理想主義」の傾向を示す一例として、私には非常に腑に落ちました。

この違いを突き詰めていくと、農耕民族と狩猟民族との差に起源をなすのだろうと思います。土地から離れるとのできない農耕民族が和を大切にして個を殺すのに対して、狩猟民族は個人が優先され、敵と味方に区分します。農耕民族だと、自由度は低いが安定性は高い、狩猟民族だと自由度は高いが安定性は低い、ということになるのではないかと思います。それで、前者は現実主義的傾向で共生指向、後者は理想主義的傾向で競争的、弱肉強食指向をもつようになったのではないだろうかと想像します。

話がずれました。中国からの論文はなぜ雑なのかという話でした。それは中国人は科学的厳密さよりも論文出版効能を最優先しているからだろうと思います。厳密な態度で間違いのない結論に到達することよりも、人よりも早く、多く、有名雑誌に論文を出版することが重要なのです。なぜなら、厳密な研究を行うことは後者の達成を遅らせる上に金やポジションといった実利につながらないからです。加えて、絶対神への信仰のない中国人や日本人は、行動基準は「原則やルールの忠実かどうか」ではなく、むしろ「まわりの人間がどう振舞うか」であって、赤信号でも皆が渡っていればOKだと考えがちなところが、この実利主義傾向をさらに加速させているのだろうと想像します。

ま、そもそも論文出版ビジネスもメトリックス主義もほとんどシステムとして破綻していると私は思います。さらにはアカデミアというものがもう崩壊寸前なのではとさえ思います。論文査読をやる度に、自分は何をやっているのだろうという虚しい気持ちを感じることが増えました。
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あなたには価値がある

2021-05-14 | Weblog
5分間フランス語もはじめて九ヶ月近く続いています。多少の単語や表現や文法を覚えましたけど、まだまだとても使い物にはなりません。ま、特に使う予定もないのですけど。ただ、いいことも二、三あります。一つは運動と同じで、毎日の5分のノルマを果たすと小さな達成感を感じることができることです。多分、こうした毎日の習慣で何かに集中することは、瞑想と同じような効果があるのではないだろうかと思います。もう一つは、知らなかったことを知ることです。ものを知ること、わからないことがわかるようになることも小さな喜びです。この間はピーマンがフランス語(またはラテン系言語)のpimentからきていると知って「へーえ」となりました。ただしpimentは辛い唐辛子で、日本のピーマンやベルペッパーはフランス語ではpoivronです。ちなみに胡椒はpoivreです。他にもパンタロン、シュミーズ、マントとかの今は日本では使われなくなった外来語もフランス語由来であるのもこの五分フランス語を始めてから知りました。

この間、掃除をしていたら、モンマルトルのサクレクール教会に行った時のお土産のコインが出てきました。その時はいろいろとスランプで(いまだにスランプは続いているのですけど)、げん担ぎで「奇跡のメダル」を買いに行ったりもしたなあ、などと思い出しました。その効果はまだ出てません。この時はフランス語の知識はほぼ皆無で、最初からフランス語を理解しようという気持ちもなかったので、知らない故にいろいろなものを見過ごすことになったと思います。折角行ったのにサクレクール教会のSacre Coeur が「神聖なる心(イエスの心臓)」という意味であることも知りませんでした。そのお土産コインは500円硬貨を二回りほど大きくしたサイズで表は教会の建物が描かれており、裏には十字架の下に壺状の絵があり、その外を縁取って、短い言葉が印字されています。当時は何が書いてあるのか壺状の絵は何なのか分からなかったのですけど、五分フランス語のおかげで、今回は書いてある言葉の意味がわかったのでした。コインには、"Tu as du prix a mes yeux et je t'aime" とあり、直訳すると、「私の目にはあなたは価値を持っている。そして私はあなたを愛す」です。調べてみると、これはイザヤ書43-4の言葉でした。神の愛を示しています。

このコインを買った時には、コインの裏の壺のようなものが心臓であるとも理解できず、刻印してある言葉が聖書の言葉とも知らず、ただの小さな円盤上の物質に過ぎなかったのに、今は同じものが意味をもつ存在になっていることに感動しました。自信を失った時や不安になった時、「神の目には、人間は誰にでも価値があり、愛される存在である」という言葉は救いです。コロナ以降、いろいろなことがありすぎてちょっと参っていた私に、何気なしに買ったお土産コインが思いがけず再び現れて、救いの言葉を投げかけてくれたのかな、と思っています。5分フランス語の効用ですね。
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知らないと答える

2021-05-11 | Weblog
バーチャル学会無事終わりました。私の発表は二人で1時間15分のセッションで、私が前座で一般的な話をしたあと、二人目の人が専門の研究の話をするという形です。質問時間が30分以上とってあり、食品会社がスポンサーで二人目の人の話に繋ぐ必要上、栄養を絡めた話を含めたのですけど、私は栄養とか代謝とは専門家ではないので、知らないことをいろいろ聞かれたら困るなあと思っていたら、案の定、結構厳しい質問を受け、うちのいくつかには「知らない」と返答せざるを得ませんでした。そうした質問の一つに関して聴衆の中にいたとある偉い教授からはChatでつい最近の論文を紹介されました。見てみると責任著者はEric Landerでした。もともとは数学者で遺伝学者に転身した人です。華々しく活躍し、Broad Instituteの仕切り役を長年やって、今年からはバイデン政権の科学アドバイザーを努めているわけですが、いまだに自分の研究室から遺伝学者として論文を出しているのだなあ、と感心しました。そのBroad Instituteを設立した慈善家のEli Broad はつい先月末に亡くなったのでした。

学会での質疑では「知らない」というかわりに「It's a good question」と言ってお茶を濁すという文化がありますが、私はこの言葉を使うのに抵抗があって、知らないことを聞かれたときは、つい「知らない」と言ってしまいます。きっと頼りない発表者と思われたでしょうね。でも、そもそもしゃべった内容の半分については自分の研究とは無関係で、専門家ではないですし。ま、知らないことを知らないと言う方が、ヘタに答えると都合が悪いから「お答えは控えさせていただくきます」と回答拒否する自民党の大臣よりはマシだと思います。

今回、この学会は初参加なので、ついでに他の発表も見てみました。この分野のアメリカでの学会と違って、東欧の国からの参加がそこそこあるのが興味深かったです。バルカン半島の国やロシアなどから演題がでていますが、アメリカでの学会ではこういう国からほとんど参加はありません。ヨーロッパ以外ではインド、中国、日本、韓国などからも参加者がありました。インドからの発表もアメリカの学会ではあまり見ませんので、多分、地理的な問題でヨーロッパの学会の方が参加しやすいのだろうと思います。今回の学会の参加者は1000人ぐらいということで、アメリカでのこの分野の学会の 1/3ぐらいではないかなと思います。情報が瞬時にして世界で共有される時代、しかもバーチャル会議になっているのに、同じ分野でありながら研究者はヨーロッパとアメリカで棲み分けているようで興味深いです。来年の学会はヘルシンキの予定らしいですけど、開催できるのでしょうか。ヘルシンキのあるフィンランドは遺伝病のメッカで、私がEric Landerの仕事を始めて知ったのも、ある原因不明の遺伝病のフィンランドの家系を彼が開発した遺伝子解析法を使って解析し原因遺伝子を突き止めた論文ででした。次世代シークエンス法どころかヒトゲノム配列の情報もない時代の話です。

一方、今年の秋のアメリカでの学会はハイブリッドになりそうです。学会事務局はアメリカでのワクチン接種の進行具合などからアメリカ国内は秋には大規模イベントは安全に開催できると読んだのでしょう、リアル学会をアメリカ国内参加者向けに行い、外国人参加者はオンラインでの参加という形でやる予定のようです。しかし、思うに、これだと多分盛り上がらないのではないでしょうか。ただでさえ、落ち目の分野で、近年の学会では、アメリカのムダに広い会議場は寂しい雰囲気が漂っていましたから、参加者が半減するであろう次のハイブリッド学会では、かなり会場の規模を小さくしないと観客のいないオリンピックみたいになるのではないかと想像します。
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希望を希望

2021-05-07 | Weblog
中国で研究をされている人のブログを見つけました。

、、、アメリカ式のラボにしたくて、学生とは対等にディスカッションしようとしているのだが、多くの場合友達感覚で相手して良いと思われるらしく、さらにはコイツは外国人だから少し適当に相手しても問題ないと思われるらしく、感謝は当然なく、あるのは中国人教授相手には考えられない適当な態度である。、、、
、、、夢や希望をもった学生なんて滅多にいないのだ。それが現実である。夢があってもチャンスを得ることができない学生のために頑張ろう、と50歳を過ぎているにも関わらず青臭い愚かな考えを有していた自分がバカであった。学生は単位と学位が取れれば幸せなのである。「自分の頭で考えるんだよ」なんていう言葉は遠回しの嫌味にしか聞こえていない。あるいは指導をしたくない教授の言い訳か。どうすれば楽にデータを出して論文を出して学位を取得できるか。どうすれば勉強しなくても単位を取れるか。それが一番重要なのであり、それを示すことが出来る教授が評価されるのである。、、、

中国人は現実主義で実利主義だと思いますが、この傾向は中国に限ったことではないです。人間は自分がもっとも大切と思っており、世の中の大多数の人は、多かれ少なかかれ他人は利用するためにあると考えているわけですから。

しかし、近年、短絡的で物質的かつ近視的にしかものごとを見ない若い人が増えたように思います。それは、おそらく、世の中に余裕がなくなってきているからではないでしょうか。長期投資をしている余裕がない、学問を楽しむ余裕がない、人を蹴落として競争に勝たないとよい生活が送れないとなれば、人間性も淺ましくなるのは道理です。また、余裕がなく追い詰められた人は判断を誤ります。四年前にトランプを支持した下層ミドルクラス白人がそうでしょう。

それにしても「夢や希望をもった学生なんて滅多にいないのだ」という言葉は魯迅の「故郷」最後の文章を思い起こさせます。魯迅は「希望は、道のようなもので、歩く人が多くなればできるものだ」と言います。「夢や希望を持たない学生」に「希望」があるとすると、この魯迅の言葉にヒントがあるのではないでしょうか。
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霊能者の遺伝的解析

2021-05-04 | Weblog
週末にツイッター経由で目にした論文。
アメリカにあるThe Institute of Noetic Sciences (IONS)という研究施設からで、この施設はアポロ14号計画での宇宙飛行士Edgar Mitchellが共同設立者の一人となって設立されたものだそうです。月面に立った時に「三昧の境地」を経験したそうで、1973年に施設をサンフランシスコの北の郊外に設立したとのこと。
論文はExploreという名の雑誌に掲載されElsevierから出版されています(https://doi.org/10.1016/j.explore.2021.02.014)。

Genetics of psychic ability - A pilot case-control exome sequencing study
(霊能者の遺伝学-症例対照エクソーム シークエンスのパイロット研究)
Helané Wahbeh et al.

抄録(DeepL翻訳を編集)
はじめに:多くの精神的・肉体的特性と同様に、心霊能力は家系的に発現すると考えられ、遺伝的要素の存在がを示唆される。もしそのような要素が見つかれば、心霊能力の生物学的マーカーとなり、この能力を増強または抑制する環境的または薬理学的な手段の同定につながると思われる。

研究方法:症例対照研究のデザインを用いて、霊能者と対照者の違いを評価した。全世界で3,000人以上の候補者を2つのオンライン調査でスクリーニングし、自分や家族が超能力者だと主張する人を探し出した。主張する能力に関連する尺度(吸収力、共感性、統合失調症など)を収集し、それらの回答に基づいて、精神病や妄想の傾向を示す人は検討対象から除外した。その後、候補者は面接で追加のスクリーニングテストを受け、最終的に13人が「霊能者」として選ばれ、年齢、性別、民族が一致し、霊能力をもたないと自己評価する10人が対照として選ばれた。これら23人の参加者の唾液から採取したDNAを、全ゲノム配列決定の対象とした。配列決定されたデータには、タンパク質をコードする配列のみを対象とした解析と、隣接する非コード配列も対象とした解析の2つの独立したバイオインフォマティクスを適用した。

結果:対照群の1例を除いて、すべてのサンプルでシーケンスデータが得られた。データセットの盲検化を解除したところ、タンパク質をコードする配列(エクソン)には、症例と対照とを区別するような変異は見られなかった。しかし、第7染色体のTNRC18遺伝子(Tinucleotide Repeat-Containing Gene 18 Protein)では、エクソンに隣接するイントロン(非タンパクコード領域)に差異が認められた。この変異は、GGからGAへの変化であり、9人の対照者のうち7人に見られ、すべての霊能者には見られなかった。

考察:これらの結果の最も保守的な解釈は、無作為に抽出された偶然の結果であるというものである。しかし、この結果を他の証拠と関連づけて考えると、この結果はより刺激的なものとなる。これらの結果を再現し、発展させるためには、さらなる研究が必要である。

、、、という論文です。遺伝的関連のない群を比べるのであれば、全部で23人の規模のWGSではちょっとPowerが低すぎますね。心霊能力がメンデル式に遺伝するなら、同一家系内で霊能者と対照者を比較すれば、何か見つかるかもしれませんけど。

どうせならその霊能者に霊能遺伝子のありかを聞いてみる方が早いような気がしますけど。
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他人の法則は自分の法則ではないの法則

2021-04-30 | Weblog

立命館アジア太平洋大学(APU)学長、出口治明氏の心に響く言葉より…
《質問:出口さんの経歴を一通り聞かせていただき、巡り合わせが大事だとわかりました。では、いい巡り合わせを自分のほうに引き寄せるために、できることはありますか?》
「まずイエス」ですね。 
例えば、APUの学長になったケースでは、「インタビューを受けますか?」と声をかけられたときが、「イエス」「ノー」のわかれ目でした。
ドクターであり、英語もペラペラで、大学の管理運営経験があるという3つの条件に僕は該当せず、しかもそれほど大学に行きたいと思ってもいなかったので、「ノー」という選択肢もあったわけです。
でも、「ノー」と答えていれば、今ここで話している僕はいなかった。
人生の大きな巡り合わせです。
だから、できることは何でも「まずイエス」で飛び込むことだと思います。
 、、、、
 
こういう「いわば成功した人」が語るエピソードにユニバーサルに適用できる教訓が含まれていると我々は思いがちです。わたしもかつての偉人たちのエピソードや名言集などを読んで、なるほどと思ったり、真似してみたりしてみたわけですが、別にそれで人生が好転したとかよいことがおこったとかということはあまり記憶にありません。思うに、こうした「成功の秘訣」みたいな話はその個人に特有なもので、必ずしも広く適用可能なものではないのではないでしょうか。

「秘訣」というほどではなくても、ごく当たり前の常識的な話、たとえば、人にはやさしくしましょう(そうすれば人もやさしく接してくれるから)とかの直接的な因果応報系の法則であっても、例外の方が多いように感じます。

実際、自分自身や回りを振り返って見ると、普通におこっていることは、やさしくすれば利用され、ヘタに褒めるとつけ上がり、下手にでるとナメられて、意地を通せばハブられる、とかくに人の世は住みにくい、というような感じです。昔の友人はよく、「信じる者は騙される」と言っていました。(これは、他人の論文を安易に信用するな、という話なのですけど)

このようなインスパイアリングな話として語られる成功者が語る成功の秘訣を真似た場合に、期待するような結果が起こることは現実には稀なのではないかと思っています。(そうでなければ、世の中は成功者で溢れかえっているでしょう)研究や怪しい健康食品の宣伝と同じで、うまくいった例は話題になって目立つが、無数のうまくいかなかった例は表にでることはなく埋もれてしまうのではないだろうかなどと想像します。

上の例だと、積極的にイエスの選択を選んで、それが良い結果に繋がった例ももちろんあるでしょうけど、うっかりイエスといって詐欺集団に丸裸にされた例も実は同数ぐらいあるのではないかと思います。そして、多分、イエスと言ってもノーと言ってもなにも大したことは起こらないというのが9割以上ではないだろうかと思ったりするのですけど、どうでしょう。

昨日、たまたま、ある経営アドバイザーの人の言葉(誰か忘れました)を知りました。企業経営には危機がつきもので、アメリカ式の「ポジティブ思考」で乗り切ろうとして失敗する場合が多いらしいです。その人がいうには、ピンチはピンチであってチャンスではないということです。人は希望的に物事を見がちです。危機においては、そのプレッシャーから、ポジティブ思考による不適切な楽観論や体育会的筋肉性思考停止に陥ったり、あるいは成功者の語る成功の秘訣などに希望を見出そうとしますけど、たぶん危機を乗り切るのに大切なのは、現実を正しく見て、正しく解釈し、論理的に思考して、感情を切り離す「理性の働き」ではないかと思います。仏教では正見、諦観というらしいです。(なかなか実践は困難ですけどね)

重大な決断ほど、感情を排して理詰めで考えることが大切だと、私は思います。ちょうど、ブルース リーのアドバイス("Don't think, feel")の逆ですね。そうすると、うまくいかなかった時に自分自身を納得させやすく、後悔が少なくて済むのではないでしょうか。
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発表レコーディング

2021-04-27 | Weblog
来月発表のレコーディングは無事終わりました。レコーディングはズームを使って向こうの技術アシスタントが録音しました。

しかし、聴衆ではなく、コンピューターの画面に向かってしゃべるというのは勝手がずいぶん違います。聞いている人の反応というフィードバックがないので、原稿を正確に一定スピードで間違いなく読むことに集中しました。ライブだと原稿を読むことはできないので、言うべきことを忘れたり、脱線したりもしますけど、一方、聴衆の様子をみながら、スライドを飛ばしたり、戻ったりということができるので、私はやりやすいです。一方、画面を見てのレコーディングは、相手が見えないという不安感はあるものの、画面に集中してしまえば原稿を読みさえすればいいので、思ったよりスムーズでした。とはいうもののポインターを操作しながらなので、原稿から目が離れた際に、つい、うっかり、そのままスライドを見ながら話し続けてしまい、何度か脱線してしまいました。それでも、時間内に終わったし許容範囲と思います。ポインターやスライドを誰かが操作してくれたら原稿から目を離さずに済んで、脱線しなかったのではないだろうかと思います。

それで思い出しましたが、昔は大腸内視鏡は二人でやる方法もあって、二人法では内視鏡の出し入れを担当する人と、内視鏡操作をする人と役割分担していました。息のあった二人なら盲腸まで二分でいけるらしいです。学会発表でも、ライブでないなら、原稿を読む人とスライドやポインターを操作する人を分けるとやりやすいように思います。ピアノでも譜面をめくる人がいますし。

発表に関しては、もう一度、テクニカルリハーサルというのに参加しないといけないようですが、それ以外は当日の質疑応答の時間までは何もする必要はありませんので、当日は気楽なものです。
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外道の戦略

2021-04-23 | Weblog
最近、ニュースのインプットとアウトプットはツイッターを使うようになって、ここで、政治の話をすることが減りました。例え民主主義を守るために戦うのだと言っても、自公政権のデタラメにいちいち怒っていては体が持たないし、そもそも、差し迫った日々の生活をはじめとして優先しないといけないさまざまなものがあるわけで、ブログではもっと日常的な話でリラックスするようにしています。しかし、今日は書きたいこともないので、先日流れてきた内田樹さんのツイートを紹介します。日本の政治がここまで腐った理由を一言で解説してあって、腑に落ちたので、ツイートを転載させてもらうことにします。言葉というのは偉大です。ピッタリした言葉一つで霧が晴れるように物事の本質が理解できることがあります。

 @levinassien
「ときの権力者について「政策が間違っている。倫理的に問題がある」とは何度も思いました。でも、「頭が悪い」と思ったことはありませんでした。この悪賢い「食えないオヤジ」たちも、国力を向上させ、国民生活の安寧を達成しない限り政権は維持できないという「常識」は備えていたからです。前政権でその「常識」が失われました。もう国力なんかどうでもいい、国民の健康も安全もどうでもいい。自分たちとその取り巻きだけがいい思いができれば、あとは知らないというところまで政治が退廃したのは、どうすれば国力が向上し、国民生活が豊かになるかを考える力がなくなったからです。」

「考える力がない」というのは、政治家以前に社会的活動を行う人間として、重大な欠陥だと思います。しかし、この言葉以上に現政権と前政権の本質を突いている言葉はないような気がします。
 無論、かつての自民党でも権力を利用して甘い汁を吸う人々は大勢いましたが、普通、やってまずいことがバレたら、何らかの責任をとって大事に至らぬようにしていました。
しかし、前政権以降は、政権を担当している側がやってはいけないと明らかにわかることを平気でやるようになり、それを恥じないようになりました。国会でウソをつきまくり、やましいことを指摘されては逆ギレして質問者に責任転嫁し、官僚には公文書を改ざんをさせ、ヤクザを使って選挙妨害し、気に入らない人間は、選挙に対立候補を立てて買収までさせて地位を奪い、読売や産経をつかって、自分に都合の悪い人間の人格攻撃をさせるような「人間のクズ」としか思えないことを、こうまで堂々とでできるのか、私は理解不能でした。かつての自民党ではやましいことが露見しそうになったら、本人自らが要職から退くか、そうでない場合も党が続投を許さず、一定の自浄作用がありました。それが、アベ政権からなくなりました。その「人間のクズ」の振る舞いを平気でやれる理由として、もっとも整合性があって腑に落ちる理由は、おそらく自己愛性性格異常に加えて、「恥」や「人間としてのdecency」という概念を理解するだけの頭がない、つまり頭が悪いからだ、という説明はなるほどと思います。

しかし、これは他の国だとありえないと思うのです。日本の政治が腐敗しているのはなぜですか、と聞かれて、「政治家の頭が悪いから」というのが冗談抜きの答えになるような国は日本以外にはないでしょう。そんな人でも政治家をやれるという特殊な日本の事情を説明するのはちょっと面倒です。もちろん世襲議員であるという要素が大きいわけですが、神輿は軽くてパーがいい、という日本の政治文化や、日本の政治的独立性の問題などもありますからね。

頭が悪い人を相手にするのは大変です。とくに権力やハサミを持っている場合は危険ですから、周りのマトモな人々は諦めてしまうのでしょう。それがますますこの傾向を増長させたのではないかと思います。反知性主義というのは、結局は無知であること、恥を知らないことを武器にする人の道をはずれた外道の戦略なのでしょう、

かつて、誰かが「クソは最強だ、なぜなら、クソはそれを攻撃した方にダメージが大きいから」とツイートしていました。前政権と現政権が八年も以上も続いたのはそういう事情でしょう。
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塩味と甘味

2021-04-20 | Weblog
いつもの5分間フランス語のレッスンで、フランスの朝食は普通甘く、イギリスの朝食は塩味だという話題がありました。スクランブルエッグやベーコンや魚の干物などがイギリス式朝食、対してフランス式朝食で多くの人が食べるものはクロワッサン(しばしばチョコレート入り)それから、スライスしたパンにバターとジャムを塗ったもの。これはタルチン(tartine de pain)と呼ばれていて、tartiner(塗り広げる)という言葉からきているようです。オープンサンドは何でもタルチンと呼ばれるようですけど、バターとジャムというのが定番のようです。子供のころ、私の家の朝はパンで、トーストにバターとイチゴジャムを塗ったものをよく食べていて、この年になってその食べ物はフランスではタルチンと呼ばれるものだと知りました。

大人になって、私は、朝食はイギリス式以上の塩分過剰食である和食を好むようになりました。血圧が高くなったのもそのせいかもしれません。なぜ、朝食で、イギリスでは塩味が好まれフランスでは甘いものが好まれるのかはよくわかりませんけど、昔は、日本でも寝起きに「おめざ」と呼ばれる甘い食べ物を子供に食べる習慣があったようで、朝に甘いものを食べるというのは素早く血糖値を上げて頭を目覚めさせる意味があるのかしれません。また、コーヒーや紅茶には甘みのある食べ物の方があうと思いますので、朝にコーヒーや紅茶を飲む人が、甘いものを朝食にするのはそういう理由かも知れません。

それで思い出しましたが、かつて、ある内陸の田舎に住んでいた時、お茶うけとして漬物がしばしば出てきたので驚いたことがあります。私の育ったところではお茶うけは必ず甘いものでしたから。

土地の野菜を使った自家製の漬物をポリポリといただきながら、漬物のお茶うけというのも、結構イケるなあ、と思いました。そもそも私は漬物好きですし。ある時に出された小茄子の辛子漬けは絶品で、以来、スーパーなどで小茄子を見るとつい買いたくなります。実際に買って自分で漬けようとしましたが、うまくいかず、それからは小茄子はもっぱら、目で見て楽しむだけになっています。同じような欲望を感じる野菜はブリュッセル スプラウト、アスパラガス、それから葉がついている小さなにんじんですね。どれも、非常に美味しく調理されたものを食べたのがきっかけで好きになりました。自分で料理すると満足の味にはなかなかならないのですが。

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発表準備

2021-04-15 | Weblog
バーチャル学会は、大変便利だと思います。コロナが終わっても大きな学会はこのフォーマットでやるのがいいと思います。発表者にも聴衆にも負担がすくないです。しかし、テクニカルな点も含めて二、三問題がでてくることもあります。

今年の始めごろに発表者として参加した時は参加者も100人以下のズームのセッションだったので五分前にログインして、一時間ほどやって終わりで、スライド以外に何の準備もしませんでした。それでも発表中になぜか、Macが非常に遅くなってしまい、途中からスライドの切り替えに十秒ぐらいの遅れが出るようになって、困りました。リモートの会合では、コンピュータやコネクションの不安定さが脆弱性の原因となると思います。そういえば、以前、ズームのセッションで、突然、発表者のスライドが遮られて、ポルノサイトの宣伝が動画音声付きで流れるという事件がありました。使われているコンピューターに忍び込んだマルウェアが発動したのか、あるいは誰かがいたずらでハッキングしたのでしょうか。ズームを立ち上げ直して再開しましたが、発表者も参加者もホストも妙に冷静であたかも何もなかったかのように発表が進んだのが印象に残っております。

数千人が参加する昨年のウチの学会の年会もバーチャルでしたが、ライブでのさまざまなトラブルを想定したのか、発表はあらかじめ録画したものを流して、質疑応答だけライブでやるというスタイルでした。リモートだとライブでやった場合、不都合が出た場合にフレキシブルに対応できないという理由だろうと思います。

今回の初参加の学会は、規模もせいぜい数百人程度だろうと考えていたので、私はてっきりズームでライブと思い込んでいました。一月ちょっと先なので、来週ぐらいから余裕をもってボツボツとスライドを作ればいいかなと思っていたのですが、事務局から連絡が来て、あらかじめ録画しないといけないということがわかりました。それも自分で勝手にはできないようで、事務局指定のサイトで予約を取ってやらねばならず、一発取りのスタジオ レコーディングになるということがわかりました。これはライブでやるよりプレッシャーが高いです。

しかも、録画サイトの予約状況をみたら、なんと二週間先以降には空きがありません。かつ、時差があるので、とんでもない時間にやらないといけないようで、すっかり予定が狂いました。とりあえず、もっとも遅いスロットを予約しましたが、このスケジュールだと、スライドは一週間で仕上げ、原稿を書いて、次の週にリハーサルをやって推敲して、を普段の仕事の合間にやらねばならぬようです。今のところ作業進行度はゼロです。これでは、衣装とメイクに気を使っている余裕はなさそうです。

引き受けるべきではなかったかなあ、と多少後悔しはじめたところで、もう一通メールがきました。今度はそのセッションのスポンサーとなっている企業からで、ギャラが出るとのお話。スライド準備時間も含めて計算した額を払ってくれるそうで、企業っていいですね。ひきうけてよかったかも、と思い直しました。
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だから何?

2021-04-13 | Weblog
今の世の中、全て「金」を介在して回っており、人間の多くの社会的活動には経済活動が嫌でもついて回ります。そんな中での人間の社会活動の半分は「営業」「セールス」と言っても過言ではないかも知れません。研究現場でもそれは例外ではなく、むしろ、例外どころかそのセールスの能力は研究そのものの能力と同等かそれ以上に必要とされます。論文、グラント、ポジション獲得、つまり、競争のあるところでは須く、セールス技術は必須です。私は、そういうのが大嫌いなのですけど、(ま、あまり好きな人はいないと思いますが)、それが世の中の現実ですから、現実を受け入れた上で、必要に応じて対処するしかありません。

次に出そうと思っている研究費の申請をどうするか、ぼんやり考えています。できないことは書けないので、できそうなことの中で資金獲得に繋がりそうなことを書くしかないのですが、このセールス活動が最近はバカらしいと思うようになって困っています。(かといってやってて全く楽しくないというわけでもないのです。ちょうどビデオゲームみたいな感じですかね。バカらしい作業ではあるのですけど)

研究費申請の審査は、いくつかの基準に沿って点数制でなされることが多いと思いますが、近年は、研究の意義、革新性がとりわけ重視されています。加えて研究者の実績とか実現の現実性とか研究環境とかが考慮されます。その上で研究のインパクトが大きいと予測されるかどうかによって総合的な判断がなされることが多いと思います。

そういうわけで、私は、研究の意義と革新性を強調するようなセールス トークをするわけですが、この二つは高い評価を得ており、他のポイントにも問題がないのに、総合評価が低いケースがよくあります。つまり、研究の意義も高く、アイデアや技術も革新的なのに「インパクト」が低いと評価されるものです。

この話は随分前にもちょっとしたと思うのですが、二つ以上のものがぶつかり合ってエネルギーの交換が起きるのがインパクトであり、インパクトが大きいとはぶつかった時のエネルギー交換効率が高いということです。逆にいうといくらエネルギー ポテンシャルが高くてもぶつからないとインパクトは生まれません。なので、意義も革新性も高いのにインパクトが低いということは、「当たっていない」ということだと思います。

この場合でいうと、ぶつかりあうべきものは、研究分野のニーズと研究計画で、高ポテンシャルの研究計画が研究ニーズのスイートスポットにミートするということが必要になると思います。故に、ニーズに合うものは自動的に意義も高いわけですが、その逆は必ずしも正しいとは言えないということでした。

理論的にはここまではいいと思います。問題は、ニーズに合うものが、自分の手持ちの商品の中になかった場合にどうするか、ということです。ニーズがないところに商品を売り込むのは難しいです。トップグループの研究者はニーズを作り出すというところにも手を突っ込んで戦略的にやっていますけど、普通の人には難しいでしょう。

最近、こういうのがバカらしいなあ、とつい私は思ってしまうのです。そうして研究費をとってトップジャーナルに論文を出して、学会や組織で出世して、「だから何?(自分には関係のない話だし)」みたいに感じてしまって、そのしらけ気分に自分でもウンザリすることがあります。私が剃刀のように切れるバックハンドのトップスピン パッシングをダウン ザ ラインに決めたからと言って、他の人は「だから何?」と思うのと同じでしょうか。(バックのパッシングが決まったことはないですけど、、、、、だから何?)

Miles Davis Quintet  "So what?"
テナーはコルトレーンですね、独特の節回し。若い時は好きでした。
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引退の時期

2021-04-09 | Weblog
知り合いの研究者の人からの頼まれ仕事があって、その試薬類を届けにきてくれたので久しぶりに、雑談しました。この人は私より八年ほど年上で、不思議な縁がある人で、最初に初めて話をしたのは15年ぐらい前の学会帰りのバスの中でした。当時は、この人は離れた施設にいて、ウチの分野での今日まで続く一大トレンドの元になった大発見をした直後で、その学会で特別講演を行ったあとの帰り、空港までのバスで乗り合わせたのでした。それから数年経って、違う施設ではありますが近所の施設に移ってきて、たまたま私も参加していた合同プロジェクトのアドバイザーとなったので、会合で顔をあわすようになり、妙な縁で、数年前は一緒に論文も出しました。比較的近所とはいえ、ずっとリアル会合はありませんから、会ったのは久しぶりで、仕事の話の後は、自然とリタイアメントの話になりました。子供がほぼ独立したからやりたいことができる年齢になったので、いろいろやりたいこともあって考えているが、研究が好きなのと、もうちょっと資金を貯める必要があるので、あと数年はやりたいとの話。引退後いろいろやりたいことの第一は地下室のリノベーションだそうです。
 最近、同年代や年上の人と話す機会があると、自然とこの手の話題になります。この一年に複数の知り合いの同業者とこの話題になっても、みんな結構、引退する年齢を決めている人が多いようです。私も体の自由が多少効くうちに、数年ぐらいは、毎日が日曜日の生活を送りたいと考えております。そのための資金とか、場所とか、日曜日の過ごし方のアイデアとか、そうしたことを準備しないといけないのですけど、何しろ、いつまで、そこそこ健康が維持できて、いつから老人ホームや病院の世話になって、いつ死ぬかがわからないので、なかなか予定を立てるのも難しいです。
 若い時には考えたこともなかった遠く離れた人生のゴールが、水平線の向こうに見えはじめてきて、もっと若い時から準備をしておくのだった、とちょっと後悔し始めています。ま、もう手遅れですけど。
 振り返って、余り深く考えずにやっていたことで、大変助かったのは、個人年金の積み立てでした。これをやっていなければ家も買えなかったし、リタイアのことを考える余裕もなかっただろうと思います。
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行ったつもり

2021-04-06 | Weblog
一年半前ぐらいに、ヨーロッパを訪れた時のこと書きましたが、その時、知り合いの働くパリのある病院を訪れた時に知り合ったそこの部門長の人からメールがきました。ヨーロッパの小さな学会の一部のプログラムの担当をしているとのことで、シンポジウムへのお招きでした。今年はその学会は本来、ブリュッセルが会場となるはずだったのですけど、ヨーロッパはコロナが再猛威をふるっており、今年もVirtual学会となるので、ブリュッセルという地名に意味はありません。ヨーロッパはまた訪れたいと思っていたのでコロナがなくてリアル学会だったら嬉しかったのですけど、結局、自宅の居間から早朝に参加ということになりそうです。しかし、これでは学会参加のお楽しみの部分がありません。アンコの入っていないあんパンというか、コーヒーの入っていないクリープというか。とはいうものの、来年以降はもうこの手の学会には参加しないかもしれないし、とすると、このような機会は最後かも知ないなあと思い、バーチャルでも引き受けておこうという気持ちになりました。教育シンポジウムということで、研究の話は控えめで、教科書的な話を期待されており、某有名食品メーカーがスポンサーで栄養の話を少し絡める必要もあるようなので、第一線の研究者なら気乗りのしない仕事で、多分、引き受ける人がいなかったのだろうと思いますが、私でも多少の役に立つのなら、うれしいことです。

私はあとの人生は死ぬまで暇つぶししながら楽しく生きると決心したのです。楽しそうでストレスのないことはやる、楽しくないこと、ストレスが強いことはできるだけしない、と決めました。アドレナリンよりもセロトニン、使命感より幸福感、金より時間、力より自由(できるだけね)と決めたのでした。とはいうものの、なかなか人生は自ら生き方を自主的に選択するというよりは、しがらみや生活のために世間から小突き回されてなんとか生きているという方が多いと思いますけど、私は「世間から小突き回されて利用されて生きる」ことも、私が能動的に選択したことだと考えることにしました。あくまで私に選択権があり、気が変わればやめるだけのことだと考えることにしました。

基本的に責任感の強い日本人気質の私ですけど、というわけで、不義理をしたり期待に沿えないことに罪悪感を感じることはもうやめることにしました。そして、つい最近、定年後に中国に渡り、ベンチャー企業の研究開発部門で活躍中の年上の友人からきたメッセージには、「わがままに快適に余生を過ごすことを考えつつ頑張ります」とありました。私もそうしたいと思います。

旅行者として数日訪れたヨーロッパは子供のころの憧れそのままに、よい思い出しかありません。アジア人差別が世界的にエスカレートしている昨今では、住人となればイヤな部分を沢山感じるのは間違いないでしょうけども、今後、私がパリや他のヨーロッパの街に住むことはまずないと思うので、私にとってヨーロッパはきっと京都と同じように憧れの土地でありつづけるだろうと思います。ま、Virtual学会とはいえ、ヨーロッパに行ったつもりになって、楽しみたいと思います。
コメント (2)
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