百醜千拙草

何とかやっています

パルティータ2 プロジェクト III

2023-10-03 | Weblog
今回のパルティータ2プロジェクト、この春から再開し、毎日10分ほどの練習を少しずつ続けて、ようやく5曲目のロンドに手をつけ始めました。これが終わると、最後の山場のカプリッチオです。今回こそは全曲通しで弾けるようになるまで頑張りたいと思います。

実は、このプロジェクトの再開にあたり、「6つのパルティータ」全曲と「フランス風序曲」が収載された楽譜を古本で手に入れました。クラッシック音楽の楽譜は大まかに原典版(urtext)と改訂(編集)版に分けられます。原典版は最も最初に出版された形に近いもので、改訂版は後の人々が原曲の解釈や指遣いなどを加筆、編集したものです。バッハの晩年になるまで現在のようなピアノは存在しなかったので、現在ピアノで演奏されるバッハの鍵盤曲のほとんどはチェンバロかオルガン用に書かれたものであり、またバッハ自身は演奏上の注釈をあまり加えなかったので、ピアノでバッハの曲をどのように演奏するかは演奏者の解釈に大きく委ねられます。ですので、ピアニストの解釈や指遣いなどが加えられている改訂版は、私のような素人学習者に向いています。私が手に入れた楽譜は、Hans Bischoffというバッハよりさらに200年ほどあとに生まれたドイツのピアニストが編集し1882年にドイツで出版された改訂版の英語翻訳版で、初版がニューヨークの出版社から1942年に出ています。手元にあるのは五十年は経ってそうな楽譜で、70-80年代のピアノブームの時にピアノ学習者が使っていたものではないかと想像されます。ピアノブームが終わり、デジタルピアノの出現もあって、日本で百社以上あったピアノメーカーもほとんどが淘汰されてしまい、高度成長期の豊かさの象徴でもあった昔のピアノが、しばしば処分に困る大型ゴミとして扱われている現状を見ると寂しいものがあります。

さて、「6つのパルティータ」は4巻ある「クラヴィーア練習曲集」の第1巻に収められております。2巻は下に述べる「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」、3巻は基本的にオルガン曲集で、4巻がバッハの鍵盤曲の最高峰、「ゴルトベルク変奏曲」となっています。

話が逸れますが、「ゴルトベルク変奏曲」の最初のアリアは映画などさまざまに使われているので有名なメロディーかと思います。普通の変奏曲では、主題となるメロディーははっきりしていて、変奏のパートが発展していくのが明らかなのですが、この変奏曲では主題が主音律で演奏されていないので、普通に聞いたのでは主題がわかりません。そのあたりの説明を含めこの曲の解析と解説をするだけの知識は私にはないので、それは専門家に譲りたいと思いますが、緻密にやればこの曲の解説だけで分厚い本にはなるでしょう。表面的ではありますがウィキペディアでの解説をリンクしておきます。ゴルトベルグを全曲弾くのは私には絶対無理だし、バッハ弾きのSchiffも安易に手を出してはいけないとピアノ学習者に警告しているほどですから、私はプロの演奏を楽しむだけにします。

さて、クラヴィーア練習曲集一巻の「6つのパルティータ」ですが、1番から6番までのkeyは、B♭、C、A、D、G、そしてEとなっています。つまりルートの音が1番から順番に+2度、-3度、+4度、-5度、+6度で変化していくという仕掛けになっています。そして、6つパルティータの入っているクラヴィーア練習曲第1巻に続く「クラヴィーア練習曲第2巻」の方には、「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」が収載されていますが、「イタリア組曲」のkeyはFで、6番目のパルティータのkeyである Eとイタリア協奏曲のkeyである F の間は-7度であり、クラヴィーア練習曲間でkeyが連続的に変化するようにバッハが意図しているのがわかります。これらパルティータ6曲とイタリア協奏曲のkeyを合わせると、C、D、E、F、G、A、B♭(ドレミファソラシ♭)になり、これに第二巻のもう一つの曲、「フランス風序曲」のkeyである Bを加えることによって、「調 (tonality)」が完成する、とこの本の解説に書いてあります。「フランス風序曲」は最初、Cのkeyで書かれたそうですが、おそらくこうした理由で、わざわざBのkeyに転調されたと考えられているそうです。転調が簡単にできたのもバッハの時代に確立した近代調律法のおかげでしょう。調律法の話は、もし将来、バッハの「平均律」を練習するようなことになった時にでもしたいと思います。またBの音(シ)はドイツではHとも書かれたらしく、B♭(B)で始まったクラヴィーア練習曲一巻と二巻がHの調で終わることでBACHという名前の最初と最後の文字を表しているとも解釈されているそうです。

話がずれますが、BACHという文字はアルファベットの順番に当てはめると2, 1, 3, 8で、これらの数字を全部を足すと14になります。Wikipediaにもあるように、バッハは自分の名前からこじつけた14という数字にこだわりがあったようで、作曲においても14という数字がしばしば現れるように書かれています。曲が14小節からなるように書かれていたり、音数が14になるように修飾音を工夫したりした跡が見られるそうです。またプロテスタントのキリスト教徒であり長らくライプツィヒの教会で音楽を担当していたバッハは、三位一体を象徴する3という数字や十字架を示す4つの音にもこだわっていたようです。ゴルトベルクで14のカノンが3変奏ごとに出てくるのもそんな理由のようです。こうした音楽的必然性とは別のバッハのこだわりはさまざまな形をとって曲の中に仕掛けられており、面白いものでは、ある手書きのオリジナルの楽譜でパッと見た時に十字架が現れるように音符を並べてあったりするものもあります。

このようにバッハの音楽には、数々の隠れたやメッセージや意図が隠されており、また、曲そのものも数学的に計算された緻密な構造をとっていることが、専門家によって研究、解明されています。残念ながら、私のレベルではバッハの音楽に仕込まれているこれらの仕掛けや構造美や宇宙観を十分に理解することはできません。それらを学ぶことと、バッハの作曲の音楽理論的解釈は完全引退した後の老後のプロジェクトの一つになる予定です。

さて、クラヴィーア練習曲集の二巻目に収められた「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」ですが、イタリア協奏曲は「急緩急」の三楽章の形をとり、右手と左手がソロ楽器とオーケストラが協奏するかのように書かれた曲で、明らかに舞曲組曲のパルティータとは構成が違います。一方、「フランス風序曲」の方はクラント、ガボット、サラバンド、ジークなどからなる典型的舞曲の組曲であるため、この曲の方は、別名「ロ短調(B moll)パルティータ 」とも呼ばれています。こういう事情で、この本では「フランス風序曲」を7つめのパルティータとして6つのパルティータと一緒に一冊に収載したようです。ただしこの組曲は全11曲からなり、演奏時間も30分を超えるので、通常のパルティータの約2倍の規模になっています。このフランス風序曲も美しくも壮大な組曲ですが、私にとっては高すぎる山で、当面は眺めるだけです。どうせなら、この改訂版の楽譜には、イタリア協奏曲を加えて、「クラヴィーア練習曲集一巻および二巻」としてまとめても良かったのではないかと思うのですけど、あえてイタリア協奏曲をはずした編集者は舞曲組曲にこだわったのでしょう。不思議なのは、こういう理由なら、どうしてバッハは最初から6つではなく8つのパルティータを書かなかったのかという点です。6つのパルティータのあとに、まるでつじつま合わせのように舞曲組曲ではないイタリア協奏曲とわざわざ転調までしてフランス風序曲を加えたのはなぜでしょうか?

私は勝手に、バッハは3 x 2 = 6という数字にこだわったのではないかと考えています。例えば、バッハの無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータは3曲ずつの合計6曲の構成で、バッハの好きな3を二つ組み合わせた数となっていることを思うと、鍵盤のパルティータの曲数も3の倍数でなければならなかったのではないかと想像しています。ま、これは勝手な想像なので、知っている人がいたら教えてください。

さて、今回は、パルティータではなくゴルトベルクの演奏を拾ってみました。

最近の若手で心に響いたピアニスト、Beatrice Rana の演奏。Goldberg変奏曲からアリア。

現代音楽の作曲家、演奏家として知られている鬼才、高橋悠治氏によるユニークな解釈による同曲、アリア。1970年ごろ。ピアノを弾くのは年金では食べていけないからだそうですが、、、

そして、この曲のおそらく最も有名な演奏者、グレン グールドが死の前年に行った二度目のレコーディング(1981年)全曲。グールドは若い時にこの曲のレコーディングでデビューして名声を博しましたが、私は年をとって多少丸くなったグールドのこの二度目の演奏が好きです。
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貧しい日本

2023-09-26 | Weblog
日本円は今や一ドル150円近くとなりました。80年代末期の水準です。日本の経済力は低下する一方、国民の貧困率は先進国で最大、ついに格差水準もあの新自由主義大国であるアメリカさえ超えたという話。貧しくなる一方で、少子高齢化はますます進み、カムバックの気配は全くありません。

そんな中で、インボイス導入は、今後の日本に長期的に復活不可能なレベルの打撃を与えると考えられます。世の中の人々の3割がインボイスの制度のことを理解しておらず、理解していると思っている半分は誤って理解しているという状況です。しかも誤って理解している人は消費税を正しく理解していないからであって、その誤りを正すのは知らない人にゼロから説明するよりも難しいかも知れません。そんな中、ネット署名で五十二万筆を集めたインボイス中止の要望書をキシダは受け取り拒否。この男の「聞かない力」には呆れ返りました。どうして総理大臣がこんなレベルなのか。アベは史上最悪の総理と言われましたが、すでに私の中ではキシダの悪性度はアベを越えつつあります。

消費税は「売上税」と言う形で最初導入されようとしたように事業者が払う税であって、消費者が払っているわけではありません。導入当初、年商三千万以下の事業者は「消費税分の価格が増えた分、得になる」という政府に詭弁に乗せられて、消費税と名前をかえた売上税の導入に賛成してしまいました。これが、その後の増税、そして今回の「免税業者」の廃止へとつながる地獄の入り口でした。消費税によって潤っているのは輸出大企業で、消費税分は下請けの中小零細企業に力で負担させ、加えて自社売上の消費税分は輸出還付金として受け取るというdouble dippingで利益を出しているわけです。いずれにせよ、最初は中小零細事業者に優遇措置があるかのように言って導入した消費税、蓋をあけれ見れば元請から消費税分の値引きを強要され、そのうち徐々に増税された挙句に免税措置からもはずされて、まるで弱者を助けるふりしてカタにはめるヤクザまがいの手口にすっかりやられてしまったというのが現状でしょう。

端的に、インボイスは中小零細企業に対する「いじめ」であり、そうした弱者に過大な税務処理と金銭的負担に強いられるか、もしくは取引から排除されるか、の究極の選択を迫るものです。日本企業の大部分を占める小規模事業者が日本の経済の屋台骨となってきたことを考えると、もしインボイス事業者への登録ボイコットが成功しなければ、多くの日本の中小零細は廃業を選ぶことになるでしょう。日本の不況はますます深刻化し、さまざまなサービスの消失していき、小規模事業によって成り立ってきた日本の多様な文化や技術がなくなるか、そうでなければ、金を持っている中国の企業などに買い取られていくことになるでしょう。一般の日本人はそのうち中国などの外資の企業の下請けとして搾取されるようになるかも知れません。気づいたら日本の老舗事業は全部中国の会社の子会社となっている未来も遠くないのではないかと思います。

昔、ユカタン半島のリゾート地に旅行した時のことを思い出しました。カンクーンなどのリゾート地には立派なホテルやゴルフ場などの娯楽施設があり、活発な経済活動があり、外貨を持ち込むアメリカやヨーロッパからの観光客がカリブ海のビーチを楽しんでおりますが、一歩はなれると、メキシコ現地人の人々の生活は貧しく、リゾートに落とされる金はリゾート開発者であるアメリカなどの企業が持っていき、わずかな金が現地労働者の賃金として支払われるのみです。メキシコの恵まれた自然や人材を使って儲けているのはメキシコでもメキシコ人でもなく、欧米の資本家で、一般メキシコ人は貧しく、一部の金持ちだけが美味しい思いをする世界。

日本もそのうち、中国の企業が外国人向けのホテルや料理店を買い取って日本人を労働者として雇い、儲けだけは持っていくというようになるでしょう。日本の昔からの遺産と食文化と日本人労働者を利用して、金儲けするのは中国人。日本は軍事的にアメリカの属国、経済的には米中の属国となって、最終的にこの金儲けのサイクルが破綻したら、彼らは去って、日本人には草を刈り尽くしたあとの草刈場のように荒廃した土地だけが残る、そんな未来が見えるようです。

つまり、日本政府が、日本の中小企業や国民を大切にせず、一部の大企業の短期的利益のために増税を繰り返し、社会保障を削りまくるというようなバカな真似をし続けた結果、日本はすでに身売りせざるを得ない状況に追い込まれたと言えると思います。

つくづく、つくづく思いますけど、自民党政権の日本政府ほどのバカはいないです。自ら自国を破壊し、自らの国民を弱らせて、アメリカと外国資本に国土と国民を売る、売国奴というのは自民党政権と政府のことでしょう。結局は、そんな最低の売国政権を長年、野放しにしてきた国民の責任です。こうして国を売って金儲けしてきた人々は、最悪の事態となればさっさと日本から出ていくでしょう。ほとんどの日本人はそうした自由がないし、荒廃した源が乏しく食料自給もままならない国で貧乏に耐えるしかなく状況に置かれることでしょう。残念ながら騙されたと気づいた時にはもう手遅れなのです。
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前提が崩れている

2023-09-19 | Weblog
前に、中国の会社で変形性関節症(または変形性関節炎;OA)の基礎研究を始めたという昔の知り合いの話をしたときにいろいろ思うことがありました。OAは高齢者の膝などの関節痛の原因の多くを占め、大変多くの方が困っておられる病気でありながら、手術以外になかなかよい治療法がないのが現状で、そこに非常に大きなunmet clinical needsがあり、特に中国などでこの分野に大金が投資されている原因と思われます。しかるに、この分野の基礎的
研究というのは十年以上、大した進歩があるように思えません。研究手法も非常にプリミティブで信頼性に問題があり、そこをなかなか改善できないのも理由の一つです。知り合いの彼もその実験手法そのものに問題を感じたのだと思います。

加えて、もう一つ、この研究分野には、根本的な概念上の問題があるのではないか、と私は思っています。疾病の治療を目的とした基礎的研究の多くは、生体の細胞の機能を操作することによって、疾病の進行抑制や再生を目指すという研究コンセプトに沿って、研究目標や計画が立てられているように思います。関節痛をきたす二大疾患であるリウマチ性関節炎(RA)とOA ですが、この二つは大きくそのメカニズムが異なります。リウマチは、免疫異常による炎症性疾患ですので、従来の治療法、つまり細胞の機能をモデュレートすることによって疾病の進行を抑制することができます。それゆえ、一見、RAの類縁のように思えるOAにもリウマチと同様の治療コンセプト(細胞機能を変化させることで治療効果を得ようとする戦略)が適応できるのではないかという前提を当てはめてしまったような気がします。現在、変形性関節症といわずに関節炎と呼ばれるようになったように炎症のファクターが関与しているのは事実ですが、炎症はむしろ二次的なものでしょう。

関節という組織は発生、成長の段階で、非細胞成分(軟骨基質)による緻密な三次構造が段階的に作られて完成していくものであり、その構造蛋白代謝回転スピードは半減期が数十年というレベルの比較的Staticな組織です。関節軟骨の物理的体積の9割以上は非細胞成分であり、その軟骨基質はかなりの物理的刺激に耐える必要上、非常に高度で緻密な構造を取る必要があります。よって、一旦、ダメージを受けた場合に、その構造は簡単には修復できるようなものではありません。ですので、組織内にわずかに存在し、すでに関節軟骨を形成するという役目を終えてしまった細胞を、薬剤などで刺激して、もう一度、力学的に強靭な軟骨基質を作らせて軟骨を「再生」するというのは、想像してみれば、相当困難であろうことは推測できます。microfactureなどの外科的手法で軟骨は「再生」できないことはありませんが、そうしてできた軟骨はオリジナルの関節軟骨に比べると、はるかに構造的にも機能的にも質が悪く、脆弱なもので、「再生」と呼べるレベルのものではありません。したがって、薬などが効く相手は軟骨そのものではなく、滑膜や神経といった軟骨以外の組織の細胞にほぼ限られると考えられます。

なので、OA関節は、非細胞成分の高次構造つまり、高度に力学的に最適化された軟骨基質の構造を再構築しないかぎり、「治癒」はしないと考えられます。細胞にチョイと刺激を加えたら、何らかの神の手が働いて魔法のようにあの緻密な構造を持つ軟骨基質が再生するのではないかと思うのは、粉々に砕けたガラスのコップをビニール袋に接着剤と一緒に入れて振れば元通りになると考えるのと同じほど、ナイーブというものです。

しかし、この分野で大量の低品質論文を見ると、「OAは細胞機能を操作することによって進行を抑制できる」という根拠の弱いドグマをあたかもアプリオリな真理であるかのように扱っています。私は、この前提をもっと厳密に検討するところから始めるべきだと考えています。そのためには研究手法も原始的だし、研究システムも最善とは言えず、それが堂々巡りになって分野の研究の質があがらない原因と思います。要は研究すること自体が困難な疾病ということです。

とはいえ、「砂上に楼閣を建てる愚」というものは、維新の大阪万博や対米隷属政権の辺野古の基地建設、などなどのように、前提が崩れ去っていて最初から失敗がわかりきっていることを無理にやり続けることであって、その長期的なマイナス効果は莫大なものがあることを自覚せねばなりません。欲や希望に惑わされず、立ち止まって理性的に考え、引き返すべき時に引き返す決断をすることが、賢者であり、蛮勇のみで思考停止して突っ走って大勢の人々を巻き込んで破滅するのは愚か者です。そうした慎重さと勇気を持てない人間はリーダーであってはなりません。

科学では、事実を捻じ曲げたり、捏造したり、隠蔽したりしてもウソは必ず明らかにされます。公文書を改ざんさせた与党政府に忖度して真実の隠蔽に加担する大阪地裁のように、いつまでも真実を隠し通すわけにはいきません。最初の一歩を間違えば、そのあとの努力はすべて無駄になります。一歩を進める前に、現在の立場が十分に堅牢であるかどうかを十分に確認する注意深さが重要だと思います。
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wrapping up

2023-09-12 | Weblog
週末、山の中の別荘地に住む年配の先生に夕食に招かれました。まだ景気の良かった時代に買って放っておいた土地に家を建てて引っ越されたのことです。標高550メートル、5kmの峠道を降れば海沿いの街に出ます。街への道を逆にもう少し登れば、街の夜景が一望できる展望台もあり、なかなかの絶景です。別荘地と言っても、今は定住者がほとんど、街まではバスも通っていて、道もよく整備されているので、森の中の小さな住宅街という感じ。建っている家のほとんどは洋風の立派な家が多く、バブル期に比べたら随分値下がりしたとは言え、中古物件でもちょっと庶民では手が出ない価格帯です。森の生活がしてみたいという話を私が以前にしたので、どうも自分の住む街を紹介しようとしてくれたようです。

ご夫婦二人の生活で、築数年のまだ新しい平家建ての家の裏側は山と小さな小川に接しているので、裏手は全く人の目がありません。広い玄関を入ると、左手が寝室となっており、寝室から直接繋がって、広い浴室とトイレがあります。浴室は壁全面がガラス張りになっていて、裏の自然の木々や小川を眺めながら入浴できます。右手には広いリビングがありこちらも全面ガラス張りの壁が裏にある大きなデッキと隔てられていて、リビングからも森の景色が楽しめます。その奥には広いカウンターが特徴のダイニングキッチン、それから書斎と書庫の小部屋に続いています。門も雨戸もリビングの壁のスイッチひとつで開閉する電動式。家の周囲の空間には様々な果物の樹が植えてあり、庭で取れたブルーベリーを使った手作りジャムとパイを振る舞ってくれました。休みの日は庭仕事で忙しいとのこと。二台が横に停めれる駐車スペースには、ベンツとレクサスのスポーツカー。昔の言葉で言うDINKsカップルで、雑誌に載っているようなライフスタイルです。

私も、こういう生活はいいなと思います。子育てもほぼ終わり、家のローンも済んだので、多少の余裕はできつつあり、望めば、この先生の半分ぐらいのレベルの生活はできないこともないかもしれません。しかし、悲しいことに、子育て時代の節約習慣が染み込んでいる上に、これまで仕事と生活で精一杯だったため、余裕ができたからといって、大した趣味もなければ、やりたいことも思いつきません。今更、ゴルフや旅行をしたいとも思わないし、おいしいものを食べたいという欲もなく、「僕のソーセージをお食べ」的なことにも興味はないし、絵画、音楽、演劇、スポーツ、コンサートといったことはYoutubeで鑑賞するぐらいでいいかなと思ってしまいます。研究を仕事にしていた時は身近であったいろいろなセミナーを聞くのが娯楽のようなものでしたが、もう直接関わらなくなった今は研究の話はツイッターで流れてくるニュースを流し読みする程度で十分です。

晩年を過ごす土地や家については、少し快適な場所で暮らしたいという希望はあります。ローンを払い終った家は遠からず売るか投資用物件にするつもりで、そこで晩年を過ごすつもりはありません。多分5年以内には、終の棲家を考えることになるはずですけど、静かで気持ちの良い生活はしたいとは思うものの、もはや今更、良い家を建てたいというモチベーションもなく、結局、先生カップルのような憧れの生活に手を出すこともなく、多少の不満を抱えつつも、坦々と日々が過ぎて行って、ふと気が付くと、弱ってしまって何もできなくなっているような気がします。そして老人施設にでも入って、寝たきりになって、ある時、餅をのどに詰めた挙句に誤嚥性肺炎にでもなって、最後を迎えるのでだろう、そんな将来が結構リアルに想像できます。

人生をどのように締めくるか、誰でも考えることだと思いますが、私は無意識に、自分の一生の出来ごとがコヒーレントに纏まって、何らかの意味をなすようなものであって欲しいと思っているようで、今後の残りの人生をどういきるかということを思う時、過去にあったさまざまなことをどのように解釈し、意味を拾い出すのか、そしてそのために今後何をなさねばならないのかというようなことをつい考えてしまいます。

若い頃は、当たり前ですが、前ばかりを見て生きてきました。いつのまにか年を経て、もう先が長くないことを悟り、これまでの日々が後に残した膨大な過去の残骸を振り返って呆然とすることが増えました。しかし、過去は過ぎ去り未来は来たらず、で本当のところはわれわれは、虫や獣のように毎日の一瞬一瞬をただただ過ごしているだけであって、未来も過去も真には存在していないものだと思えば、もっと刹那的に生きるべきなのではないかとも感じます。

私は研究室運営のストレスに追い立てられるような生活にうんざりしたので、二度と経営者的な立場には立ちたくないと思っていますが、今の職場の長は私より一回り上ですが、専門職であると同時に経営者でもあります。立場上、走り続けなければならない運命です。代わりを探さない限り、走るの止めた瞬間、数百人が職を失い、そして少なからぬ額の負債の責任を個人で取ることになる、そんな運命です。その覚悟をもって、死ぬまで走り続ける人生に納得し、幸福を感じるなら素晴らしいことだと思いますけど、私にはムリです。先の年配の先生も「オレは死ぬまで働く、倒れた時は助けてくれるな」と私に言いました。日本人にとって働くことは生きることとほぼ同義なのでしょう。私といえば、老人施設で寝たきりの日々を送りながら介護士さん相手に愚痴と冗談を言いつつ衰弱して肺炎になって死ぬことになるまで、気楽な立場でヘラヘラと暮らしたい、と今は思っています。
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幻の「テイネイなセツメイ」

2023-09-05 | Weblog
最近、耳にすると失笑してしまう言葉があります。

「丁寧な説明をしていく」

この言葉を言うのは、「丁寧な説明」を全くする気のない連中です。沖縄の辺野古米軍基地、軟弱地盤で埋め立て不可能なのに強行。反対する県と地元住民には「丁寧な説明をしていく」らしいです。汚染水の海洋放出、原発事故被害者との会談、これまでの経緯をみれば、「丁寧な説明」など絶対に行われないことは明らかです。

この口先三寸の詐欺師どもは、「丁寧な説明をしていく」と言ったら、それは「丁寧な説明」がなされたことと同意であるとでも考えているようで、実際に「丁寧な説明」が実行されることがありません。万が一、「説明」が実行されたところで、それが「丁寧」であったためしがない。説明に納得がいかない人が質問すると、答えない、はぐらかす、貝になる、責任転嫁をした上で、時間がきたからと打ち切る。つまり、やってるフリ。

そういえば、数年前にも同じような言葉があったことを思い出しました。

「責任を感じている」、「責任は私にある」が、口癖の国会のウソつき男がおりましたな。

この無責任男は「責任」は感じれば終わりで、取るものではないと思っていました。責任を感じているフリをし、責任をとるフリをして、結局は、何もしない。

やってるフリで世の中が回るわけもなく、気がつけば日本はボロボロ、この調子だと、あと保って十年がいいところでしょう。これだけ国民も子供も大切にしない国で、権力を維持するには自民党はますます強権的になっていくしかない。その辺だけは悪知恵が働くのでしょう、憲法を変え、マイナンバーで国民の情報管理、十年後は北朝鮮かロシアのようになって、世界から孤立していくでしょう。そして、国民の不満を外敵にそらそうとするのはいつもの手口、すでに例によって反中、反韓を煽りだしてます。それにやすやすと乗せられる頭は軽いが声はデカい面倒な人々。そうした連中を扇動し、自民党をアシストする野党のフリをした自民党二軍集団の維新と国民、それから、踏まれても踏まれてもひたすら権力についていくだけの下駄の雪、公明党。

結果、遠からず、日本は夜郎自大の田舎者とみなされて、相手をしてくれる国も減り、食料自給率が実質10%で、資源に乏しいこの国はますます没落していき、食い詰めることになるでしょう。数字を客観的に見ればそう結論せざるを得ません。そして、貧すれば鈍するは世の常で、負のスパイラルから抜け出すのは容易ではありません。

さて、国民があまりよく理解できてないのが消費税とまもなく始まるインボイス制度でしょう。それは、政府の「丁寧な説明」が欠けているだけでなく、わざと誤解を生むように印象操作をしてきたからです。

二、三のポイントだけ書いておきたいと思います。

 消費税は消費者が払う税ではなく、事業者が売上に対して払う事業者税であって、商品価格の一部にすぎない。ゆえに消費税は事業者が消費者に代わって預かっている税ではない。消費税をあたかも消費者が払っているように思わせるために、商品価格に税額が別に示されるようになっているが、「消費税」とはかつて「売上税」という名前のために廃案になってしまった税制と同質のものである。
 インボイス制は加盟を選択した小規模免税業者に対して、増税と過大な税務処理負担を押し付けるものであり、増税分の一部は消費者に転嫁されることになる。インボイス制度はすなわち、増税のことである。加えて、インボイス制を選択した小規模事業者には深刻な事務負担を強い、加盟しない小規模事業者にとっては「元請け」から取引を外される可能性があることから、小規模事業者潰しにつながる。
 インボイス制は将来の更なる増税のための整備の一環であり、そのために導入により小規模事業者は多大な負担を強いられることになる。インボイス制度、すなわち増税によって、不景気は加速し、アーティスト、アニメーターなどの小規模事業者の廃業を早め、日本の近代、伝統文化を衰退に導くと考えられる。
 緊縮財政、増税、これらのことは、財務官僚の自己満足のために行われているらしい。財務省は「乏しい金」を他の省庁に恵んでやるという立場によってその絶対的権力を維持しており、景気がよく、金が潤沢であることは都合が悪い。この省は不景気で金が乏しい状況を作り出すために、増税や国民負担の増加を常に画策しているらしく、故に増税を決めた官僚は出世する。増税と緊縮のための口実が「プライマリーバランスの黒字化」という教義であって、彼らはこの教義をナイーブな国民に刷り込み、信者としてオルグし、納税に法悦を感じるように誘導する。「国の借金、一人あたり幾ら」とか「子供世代にツケを残すな」という財務省の生み出したレトリックとプロパガンダは強力に責任感の強い日本人を刺激する。財政赤字がどんどん積み上がっているアメリカでは、政府の赤字財政は国民が負うべきものでなく、よって、その赤字を「国民一人あたり」で割るというような意味不明のことは誰もしない。


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信用できない

2023-08-29 | Weblog
ちょっと、愚痴です。今日は「ですます」で書けません。

何年も前からメルトダウンした原発に流れ込む地下水のために毎日90トンの放射能汚染水が出来続けている。汚染水は当面、仮置きのタンクに貯めてきて、その間に対処を考える予定であったが、そこはいつもの自民党であった。やってるフリしてやりすごし、問題を先送りして収束するのを待つ。先送りできない状況になったら、「責任を追求している場合ではない」と逆ギレしてちゃぶ台返しで、グダグダの寝技戦に持ち込む。汚染水問題が明らかとなった当初こそ、対処方法の議論がTVからも聞こえてきたが、アベ政権の半ばからは、議論さえしている様子もなく、もう何年も前から、問題を先送りしつづけて、破綻すれば、海洋放出が既定路線となっていた様子。自民党にとって、最優先事項は政権の安定であって、国民の生活や健康はもとより、国の繁栄や国防でさえどうでもいいと考えている。ましてコロナや原発問題は、それを解決したところで票にも結びつかず、手間ばかりかかる厄介な仕事としかみていないのだ。国民や世界にとって重要な問題は、自民党にとってはどうでもいい問題であり、やってもうまみのない仕事なのだ。そうした問題は先送りしつづけることが短期的にはもっとも簡単でコストが安いと彼らは考えている。アベが使い物にもならないマスク二枚でコロナをやり過ごそうとし、巨額の税金を中間業者に中抜きさせことに自民党という政党がどういう政党かがよく表れている。問題の先送りのためにウソを言うのも自民党だ。ウソによって先送りをし、ウソにウソを重ねて先送りしつづける。そして、ウソがばれたら開き直る。「汚染水に関して、地元の理解を得ずにはいかなる処分も行わない」とした政府の約束は、誰もが破られるであろうと予想した。その通りになった。追求されると厄介だと思ったキシダは、放出前には地元水産業者に会うことも説明することもせず、勝手に放出始めた。さすがに、その不誠実さを咎められたら、「政府の約束は守られてはいないかもしれないが、破られてもいない」という意味不明の東大官僚が書いたらしい詭弁を繰り出した。約束が守られていないのに破られていないという状況とはどういう状況なのか?特定の約束というのは守られていなければ破られているのだ。少なくとも「地元の理解を得ずにいかなる処分を行わない」という約束は完全に破られている。

海洋放出以外の手段を模索することもせず、思考停止したのは、脳の代わりにパンケーキが頭に詰まっていたからだろう。アベ友レイプ犯の逮捕をもみ消し、官房機密費をばら撒いてアベの子飼いに選挙買収させてアベの政敵を落選させた挙句にバレたら、それまで散々持ち上げていた実行犯の夫婦を揃って塀の中へぶち込んで尻尾切り。官房長官時代は、アベ家の生ごみバケツのフタと言われた男、ゴミバケツのフタとしての能力を買われて、総理になったが、流石に頭の中はパンケーキ、表舞台で通用する器量もなく、現職なのに総裁選にも出れずに匙を投げられた、そんな男が安易に決めた海洋放出。この男以上に無能で不誠実、頭の中はただの空洞としか思えないメガネをかけた動くカカシのような男がキシダ。バイデン、経団連、統一教会と、票と力のあるところには言われるがままに二つ返事だが、票にならない一般国民はもとより日本という国でさえどうでもいいらしい。国民不在、それどころか自分というものさえなく、命令のままに動くだけのカカシ ロボット。中国の水産物禁輸措置は「想定外だった」みたいな恥ずかしい答弁を平気で堂々とできるのは、無能ではなく無脳だからなのだろう。キシダは海洋放出は三十年続くと云う。その「三十年」には何の根拠もない。メルトダウンした核燃料を取り出す方法は12年経っても見つかっていないのだ。つまり汚染水は半永久的に流れ続けるのだ。そして、キシダはその三十年、政府が「責任をもつ」と言う。これほど無責任極まりない発言があるだろうか。アベが不祥事や問題が起こるたび「責任は私にある」と何十回となく言ったが一度も「責任をとった」ことがなかったのを思い出す。そもそもアベは国会で少なくとも108回以上、ウソをつきまくったと公式に認められたウソつきなのだ。それが自民党という政党である。キシダがウソつきでないはずがない。

海洋放出を世界が反対するのは当然である。海は繋がっているのだ。三十年どころか、これから半永久的にメルトダウンした原発から放射能が海に垂れ流され続けることになる。しかもこの汚染水は他国の稼働ししている原発がコッソリ流している放射能ではなく、メルトダウンした原発からの60種類以上の核種を含む、放射能汚染水であって、それを海に流すのは世界初のことである。しかも、東電はこの処理水の中身を意図的にトリチウム水と言い換えて隠してきたのである。自民党政権の日本政府も国策企業である東電も信用できないことは、ジャーナリズムが機能してしている日本以外の国では常識だ。

ちょっと自らを他の国の立場においてみれば、史上最大の桁違いの原発事故を起こしたにもかかわらず、その対策に真摯に取り組まず、何百トンとある燃料は事故後十二年経っても全く取り出せておらず、政府の公式声明の半分はウソとゴマカシのような国が、メルトダウンした原発からの「処理水」を世界で初めて海に捨てることに不安を覚えないはずはないし、手段があるなら止めさせようとすることは小学生でも理解できるだろう。

利権がらみは即決だが、それ以外はやってるフリでしかできない自民党政府、国民の生活は無茶苦茶、海外からの批判は強まる一方。アベ政権になったあたりから思考力のある人々は警鐘を鳴らし続けている。こうして目先の利益ばかりを追い求め、ウソとゴマカシで塗り固めたような政府を持つ国が繁栄するわけがない。日本は没落し、貧乏になり、モラルが廃れて、犯罪が増えると十年以上も前から言われ続け、そして、今、その通りのことが起こって来ている。ウソをついて他人を騙すのは自分の利益のためなら当然のことだと人々は思い始めている。そんな社会で安心して暮らせるわけがない。頭が腐ると全てが腐る。

二、三、目についたツイートを
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パルティータ2 プロジェクト II

2023-08-22 | Weblog
パルティータ2 のシンフォニアの練習と並行して2曲目のアルマンドと3曲目のクーラントも練習し始めました。しかし、ちょっと練習を休むとあっという間に弾けなくなるものですね。

五年ほど前に某市市民病院から独立して新たにできた医療施設の院長をやっている先生は、20年前は同じ町内のご近所さんでしたが、当時はしばしばヨーロッパなどでのコンクールに出場するぐらいのピアノの腕前で、若い時はプロのピアニストを目指すか医者になるかで真剣に悩んだそうです。優れた頭脳をもち、ピアノはプロ級、上質で品のよい服を着こなし、エリートを絵に描いたような人でしたが、驕ったところは全くなく穏やかで、育ちの良さが滲み出ている、そんな完全無欠の先生でした。ご近所時代、私に話してくれたところによると、この先生がプロのピアニストに届かなかったのは、二度目についた先生があっていなくて、そこで伸び悩んだのだと分析されていました。研究でも他の分野でもそうですが、若者にとって指導者というのは計り知れぬ影響力をもっているようです。「三年勤め学ばんよりは三年師を選ぶべし」という古語もあれば、道元は「正師を得ざれば学ばざるにしかず」とも言いました。「良い師匠」を探すことの重要性を生意気ざかりの若いうちから理解するのは難しく、私が、自分を導いてくれる人の大切さを実感したのは、自分が若い人を指導しないといけなくなってからです。私も若い時に真面目に先生の言うことを聞いておけば良かったと反省するばかりですが、それでも、面白いことに自然と師の癖みたいなものを受け継ぐようで、ときどき自分の話し方が師に似ていると感じる時があります。また、逆に私の部下の口癖が私そっくりだと指摘されたこともありますから、人の振る舞いというのは感染性があるのでしょう。いずれにせよ、若い時によい師を探し、謙虚に教えを乞うことの重要さを強調しすぎることはないと思います。

私はピアノを人前で弾く予定もレコードにする予定もなければ、ましてコンクールに出るという目標もなく、単に、美しい曲を自分で弾けるようになったらいいな、と思って我流でやっているだけですけど、余裕ができたら先生についてレッスンに通いたいとも思っています。今は、練習しながら、曲を分析したり、この曲が書かれた時代のことなどを想像しながら、楽しんでおります。

さて、パルティータ2のアルマンドは名前の通り、ややゆっくり目のドイツ風舞曲ですが、この曲は後半のサビのアルペジオが美しいです。この部分の和音とその進行とメロディーの流れは緻密な計算の上に書かれているように感じます。和音のルートが4> 5/3>6/2>7/1..と小節の前半で一度ずつ下がり、後半で一度ずつ上がるように進行するように書かれています。左手はコードの基本音ですが、右手のアルぺジオに使われているテンションノートが効果的。弾くのはそう難しくありません。

次のクーラント(Courante)は3拍子の「流れるような」リズムの舞曲です。短い曲で、簡単そうに見えるのに、リズムと右手と左手のコーディネーションがちょっと難しくてなかなかスムーズに弾けません。この時代の右手と左手が独立してメロディーを奏でるpolyphonyというスタイルは右手が主旋律で左手が伴奏という形の現在主流の曲を弾くのとは違った概念と技術が必要で、左右の手が独立して音を伸ばしたりする部分があるために、時に非常に不自然な指遣いが必要になります。またこの時代の曲の装飾音のショートトリルはAllemandeで聞かれる通り、一音上から始まるので近代曲のトリルより一音多く、これもやりづらいです。

Andras Schiffの演奏。Allemandeは4’21からCouranteは8’52から

また、フランスのクーラントとイタリアのコランテでは、曲のコンセプトが若干異なるようで、バッハはクーラントとコランテを区別して書いているようです。パルティータ2のこの曲はフランス風のクーラントで、リズムとメロディーが面白く、バッハの作曲の天才性に感動を覚える曲です。因みに、クーラントに続くのはサラバンド(あいにく上のSchiffの演奏では著作権の関係で省かれています)。これはゆっくりした荘厳さのある曲で、多分、技術的には最も簡単ですが、しみじみとした曲調が美しい。それに続くロンドと最後のカプリッチオを合わせた6曲でこの組曲は成り立っており、アルマンド(ドイツ風)、クーラント(フランス風)、サラバンド、ロンド(円舞曲)の4舞曲が最初のシンフォニアと最後のカプリッチオ(奇想曲)によって挟まっているという構成になっています。

私のこのプロジェクトのきっかけに一つとなった演奏がこちら。アルゲリッチがアンコール用に高速で演奏したカプリッチオ。通常スピードの3割増しぐらいでしょうか。音楽的にはどうかと思いますけど、アルゲリッチのカリスマを見せつけた演奏。上のSchiffの情緒纏綿なうねるような演奏とは随分違いますね。

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昔の知り合い

2023-08-15 | Weblog
前にも彼のことをとりあげたことがあると思いますけど、三十年来の知り合いからメール。彼と最初に知り合ったのは湯沢で開催された小さな研究会ででした。

わざわざ新幹線に乗って冬の湯沢まで行って小さな会に参加するのは、今頃になって少子化対策を学ぶという名目で夏のフランスに大挙して行くようなものと本質的に変わらない、と思われる方も多いでしょう。しかし、研究分野ではこうして日常を離れて自由に交流するリトリートと呼ばれる研究会は伝統的な行事であって、そこにソーシャルイベントが組み込まれるのも普通です。もっともよく知られているのはゴードン 研究カンファレンスで、二年に一度、夏休みで空っぽの大学の寮と講堂などを借りて行われ、会期中は寮に寝泊まりし、朝と夕方のセッションの間の自由時間は、参加者同士テニスをしたり雑談をしたり、夜のセッション後は飲み会になるというスタイルの小規模の分野に特化した会議が長年続いています。ゴードンは多少、実利的側面の強い会で、若いうちに研究で一発当てて、こうした会の演者に招かれて名前を売り、コネを作りにはげみ、「仲間の輪」に入れてもらえると、その互助会的活動によってその後の生き残りゲームを有利に戦えるのです。ピアが評価しあう世界ですから。日本でも若手、学生向けに「夏の学校」みたいなのが開かれています。

それはともかく、この湯沢の会は、もちろんゴードンのような権威は全くなく、そもそもウチの分野の東京ローカルのリトリートで、スキーと宴会がオプションの慰安旅行的な性質のものだったのですけど、ちょっとした政治的理由で、その時は関西からも数名が参加したのでした。下っ端同士ということで知り合った彼は、当時は今は無くなってしまった外資系製薬会社の研究者で、私は大学院生でした。その後、彼の人生は紆余曲折あって、大学に戻ったりアメリカに渡ったりしたあと、とある国立の研究所に落ち着き、部長を退官してから、縁あって、今は中国の企業で研究を継続中という経緯です。

人口、14億の中国は医療、製薬のマーケットも巨大で、罹患率が高く有効な治療に乏しい病気の治療につながる研究、つまり金になる研究、に人が群がっております。それで、彼も営利企業の一員として、長年のテーマとは別に変形性関節症の基礎研究を始めたようで、とある実験手法について意見を聞きたい、とのことで連絡をくれたのでした。この実験手法については、私も十年ぐらい前に似たアイデアを思いついてやり始めたことがありましたが、最初の実験がうまくいかなかった後、資金と人材の不足で継続を断念したことがあって、そのあたりの経験を伝えました。

思うに、連絡の本当の目的は、やがて訪れる老後の不安などに関して、同病あい憐れむの心情で、愚痴を聞いてもらいたかったことのようでした。私より数年、年上の彼は奥さんとの二人暮らし、定年の早い研究所で、定年の十年前ぐらい前から、学会などで顔を合わせる度、今後の仕事と人生の不安について語り合う仲でした。

子育てとかローンの返済とか親のこととか、人生の義務的なことにある程度の見通しが立ってきたら、今度は残りの時間をどこでどう過ごし、どう死んでいくかといういうことを考えねばならなくなります。彼も私もそろそろその時期です。

今、私が日々、していることは、仕事も含めて「やらないといけない」ことは何もありません。仕事をしている以上、仕事上の義務はありますけど、嫌なら辞める自由もあります。若い時のように、残りの人生の全てを賭けてでもやりたいといういうようなものはもう持ち合わせていません。だからこそ、今の仕事を楽しく勤められているのだろうと思います。おそらく彼もそうでしょう。

これまでは、やらねばならないことをこなすのに精一杯でしたから、突然、自由を目の前に置かれても、どう扱っていいのか戸惑ってしまうのが小市民。いまさら大きなビジョンも持てないので、一日一善の心がけで日を過ごし、目の前の些末時に一喜一憂し、やがて誰かの世話になって、そっとこの世を去っていく、そういう老後がいいと思う一方、体の動くうちにもう少し意味のあることをしたいという気持ちもあります。

しばらく前の映画でありましたが、私もBucket listでもを作ってみようかと思っているところです。
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フランス観光旅行と国立博物館

2023-08-08 | Weblog
暑過ぎて、家では、ずっとクーラーをかけた小部屋に閉じこもった日々が続いております。平日は職場で涼みながら暇つぶしができるのでいいのですが、週末は下手をすると、最小限の買い物のための外出以外は、ずっとその小部屋におります。

インターネットのなかった子供時代は、雨の日も日照りの日も週末に外に出ないことはなかったです。小部屋に一日閉じこもっていなければならないとしたら、気が狂っていたでしょう。今は平気です。がまん強くなりましたし、そもそも今はインターネットがあり、Youtubeとツイッターで無限に暇が潰れます。

ツイッターというのは、一営利企業が運営するサービスとはいえ、社会の人々が世界中で利用している情報共有の場でありますから、新聞や報道TVと同じく、社会の公器であります。そうした側面に意識が及ばず、単に自分の力を誇示し、金儲けをするツールだと考えてでもいるような態度のエゴイストにツイッターを弄り回されたくない、というのが利用者の自然な思いです。例えば、愛着のある自分の母校が金儲け主義の理事長によって、突然、「安倍晋三記念小学校」みたいな名前に変わったら、学生時代の思い出まで汚されたような気になりませんか?

ツイッターは情報のdisseminationのツールとして、そして研究や学問の分野においてはその研究成果の社会的インパクトを示す指数としてツイート数が使われるぐらいに、広く、多目的に使われております。したがって、いくらツイッターのオーナーが嫌な奴でも、長年のユーザーにとって、ツイッターを止めるという選択をするのは困難です。かと言って、ツイッターを開ける度にあの醜い"X"のロゴを見るのも不愉快です。それで、同様の思いを持つ方が開発してくださったのでしょう、Twitter Logo ChangerというExtention を見つけ、早速、ブラウザーに導入しました。"X"を自動的にあの青い鳥に変換してくれます。これで、ツイッターを開く時のストレスが減りました。

さて、残念ながら、ツイッターから流れてくるニュースにあまり喜ばしいものはありません。いよいよ、日本も落ちぶれて昔のアジアの二流国か、と思わせる話題ばかり。日本の民間の努力は今でも素晴らしいが、政府がとことんクソです。頑張っている人に報いるのではなく、頑張っている人を使えなくなるまで搾り切って捨てるという態度。将来の発展や持続可能性や未来の国の形など全く念頭になく、今だけ、金だけ、自分だけしかない自民党政権。

先日、激しいバッシングを受けた、38人の自民党女性議員による「研修」という名目で行った豪華フランス慰安旅行。税金原資の党費などを使い、往復数百万円のファーストクラス飛行機に乗り、一泊六万のスイートに泊まり、観光名所で記念撮影した写真をSNSに流せる神経がもう人間ではないです。加えて子連れで行った議員は日本大使館の職員の子守りまでさせたという話。日本人が貧乏になってファーストクラスどころか旅行に行く余裕もない人々が多いという現実を国民の代表であるはずの議員が理解せず、そうした人の神経を逆撫ですることにも無頓着。公私混同、権力の私物化をしても、役得ぐらいにしか思っていない自民党。呆れるというより、やっぱり自民党だなあと納得。

確かにファーストクラスに乗る人がいないと、航空機会社の経営も成り立たたないし、エコノミークラスの料金を低く設定することもできないのは事実ですから、私は飛行機に乗る時はエコノミーの10倍の料金を払ってファーストクラスやビジネスに乗ってくれている人に心の中で感謝しながら自分の狭い席に座っています。しかし、そのファーストクラスの乗客のチケットに自分が払った税金が使われているとなれば話は別でしょう。議員でありながら貴族さながらの振る舞いで、国民目線を失ってしまっては話になりません。

それから、がっくりくるニュースの一つが国立博物館が資金不足でクラウドファンディングという話題。この施設、「国立」ですよ、国立。国が運営の責任者。なのに、クラウドファンディングで資金調達。切羽詰まってクラウドファンディングという選択をした博物館も問題ですが、何より国立の博物館でありながら、国がしっかり予算をつけないで、現場に問題を丸投げしているというところに救いがないです。

さすがは、国が保護するべき子供の貧困対策を何もせず、見るに見かねた人々が善意で子ども食堂を運営せざるをえないような状況を放置している政府です。その子供食堂にアホづら下げて出向いて行ってカレーおいしかったです、と呑気な写真をあげたどこかの党首もいました。政府がやったことは新聞広告を出して、「あなたにもできることがあります、子ども食堂に協力してください」というお願い。無能な政府のおかげで、見るに見かねて、身銭と労力を割いて善意でやっている人々の神経をこれ以上に逆撫でする政府がいるでしょうか?誰が子供の貧困問題の責任者だと思っているのでしょう?そういえば、首相でありながら、この惨状を放置した上で、まずは「自助、共助、公助だ」と言い捨てた人もいました。この男は、まともに答弁もできないので、現職首相だったのに総裁選に出ることさえもできず降ろされてたのでした。政治家としての業績は選挙買収犯の手助けとアベ友のレイプ犯の逮捕もみ消しぐらいですか。

とにかく、自民党政権に日本人の常識は通じません。人間同士の関係は、普通はレシプロカルなもので、思いやりには思いやり、憎しみには憎しみで返ってくるものです。しかるに、自民党政権というのは、「今だけ、金だけ、自分だけ」の組織です。下手にでればどこまでもつけ上がり、弱いものは助けるのではなくいじめ、我慢をすれば更に我慢を強いる、権力を託されているということに謙虚な思慮深さを全く持ち合わせず、その権力を私的な利得に利用することしか考えていない、まるで宿主の養分を吸い取る寄生虫のような連中だと言って間違いないでしょう。ならば権力をもった寄生虫にわれわれはどう対処すべきでしょう?選挙という虫下しはあるのですけど。
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今日の聖書 レビ記

2023-08-01 | Weblog
旧約聖書を順番にボチボチとよみ始めてようやく1/7ぐらいまできました。信仰はないので、記載されている内容を深く考えながら読んでいるわけでも何かを学ぼうとして読んでいるわけでもなく、素人が小説を読むようにカジュアルに読んでいます。科学論文だと、分野が違えば読んで研究論文の内容を正しく理解するのは容易ではありませんから、中東の文化に疎く信仰もない私が、聖書を読んで、その内容を信仰に基づいて毎日聖書を読んでいるような人々と同様なレベルで理解するのは無理だろうと思われます。しかし、正しく内容を理解しないと意味がない科学論文と異なり、聖書に関しては、研究家、信仰者、素人がいろいろな読み方をしても、間違った読み方というものはないのではないだろうかと想像します。書き手でさえ意図しなかった意味を読み手が発見するということもありますし。

さて、旧約での最大の見せ場となっているのは、ヘブライ人のエジプト脱出とシナイ山で神がモーゼに戒めを与えるという一連のエピソードではないかと思います。そのエジプト脱出の顛末を描いた「出エジプト記」に続く章が「レビ記」であって、ここには神がシナイ山でモーゼに語った戒めが非常に細かく記載されています。

様々な事柄に対して、神は事細かに規律や戒めを一方的に取り決めて、モーゼに命令したわけですが、これらの事柄をいちいち覚えて実行するのは不可能なレベルの細かさです。これは神の言葉として書かれていますが、本当は聖書を書いた誰かが神に言わせた言葉であります。その「誰か」とは、思うに、いわば、昔の中東の社会を構成する歴史的空間的人々の集合体からなるメタ人格ではなかったでしょうか。そのメタ人格が聖書を書くにあたって、神に細かく戒めを言わせた意図は何だったのでしょうか?ま、これは、聖書の成り立ち関する私の推測(仮説)による前提に過ぎませんから、実は本当に「神」が存在して、シナイ山でモーゼにこれらのことを語ったのかも知れません。世間には聖書に書いてあることを歴史的事実と信じ、創世記の記載と矛盾する「進化論」を公立校で教えることに反対する人々もおります。

さて、ユダヤ系社会ではいろいろと多くの戒律や決まり事があって、現在でもそれらは伝統的に守られているものも多いです。代表的な例の一つは日々の食品でしょう。ユダヤ教の実践者はKosher foodsと呼ばれる、一定の儀式的な決まりを守って製造または調理される食品を食べることになっています。これらは、ユダヤ人の住むところでは普通のスーパーでも明示されて広く売られており、例えば、kosher meatの場合、反芻動物の体の前半分のみから取った肉のみがkosherであって、それ以外の動物やそれ以外の部位はkosherではありません。動物はshochetと呼ばれる資格をもった者によって一頭ずつ個別に殺され、別の資格者によって検査される必要があり、調理の前には血は綺麗に洗い流されねばなりません。また肉と乳製品は同時に調理したり食べたりしてはならず、それらを調理する調理具もkosherでなければならず、それらは厳密に区別されなければならないとあります。

昔の知り合いのイスラエル人によると、kosher foodsの製造、調理に手順が指定されているのは、昔の中東で生活する人々が、食中毒などの疾病を予防するための生活の知恵であったとのことです。それに強制性を持たせるために、信仰を利用し神からの戒めという形をとっているのだという話。確かに事細かく、いろんな事例において規則が定められているのは、具体的な実益を意図していると解釈するのが自然なのでしょう。

例えばレビ記に次のような言葉があります。
「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一を贖おうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。」

想像するに、これは食料危機などに備えるための備蓄確保のための手段ではないかと思われます。また、利息をつけて返すことを義務付けることで安易に備蓄に手をつけることへの抑制的効果を期待しているのではないかと想像されます。

この言葉に続く下のような言葉はどうでしょう?
「牛または羊の十分の一については、すべて僕者のつえの下を10番目に通るものは、主に聖なるものである。その良い悪い問うてはならない。またそれを取り替えてはならない。もし取り替えたならば、それとその取り替えたものとは共に聖なる物となるであろう。それをあがないうことはできない。」

想像するに、これはおそらく維持する家畜のコロニーの多様性を担保しようとするためのルールではないでしょうか。良い悪いを問わずにランダムに一部を残すことによって、人為的なセレクションによっておこるgenetic driftを抑制し、遺伝的疾患などによる疾病の出現を抑制しようと意図したものではないかと考えられます。

このように考えるとと聖書の時代は、人々が長期的視野に立ってよりサステイナブルな社会を守っていくために、信仰と宗教を通じて規制を実践させる高度に計算されたシステムを持っていたのではないか、と感心させられます。とすると、シナイ山でモーゼが受け取った戒律とは、人類が自然の中で破滅することなく生きのびていく方法を生物学的な経験的知識に則って示したものであると解釈できます。

その表現の裏に意図されている目的を考えれば、モーゼが与えられた神の戒めとは倫理的、宗教的な規律を示したものではなく、もっと現実的で生物学的な実益を意図したものであると解釈するのがしっくりきます。これまで「物語」として聖書を読んできましたが、むしろ実用書としての意味を考えながら読む方が理解が進むのではと思い始めたところです。
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パルティータ2 プロジェクト

2023-07-25 | Weblog
いつの間にかウィンブルドンも祇園祭も終わっていて、梅雨まで明けてました。ツイッターのロゴも変わってしまい、あのロゴを見るたびにイーロンマスクの顔を思い出して不愉快になるのでもうツイッターはやめようと思います。私と言えば、同じような日々の繰り返しです。毎日、少しずつやっているフランス語とピアノの進捗は極めて遅く、おそらく来年の夏も同じような調子であろうことが想像できます。

ピアノは諸事情でカシオのプリヴィアという電子ピアノを使っております。ヤマハの電子ピアノかローランドのステージピアノと思っていましたが、この価格帯のヤマハの評判はあまり良くなく、ローランドはちょっと予算オーバーということで、比較的評判のよいカシオ製品に落ち着きました。弾きやすく、コンパクト、音もそれなりで練習にはいいです。電子ピアノ鍵盤の方が弾きやすいと感じますけど、本物の木製鍵盤のアコースティックのピアノとはそのタッチの質感と音のレスポンスに大きな差があります。やはり「生」がいいです。

練習しているのは、バッハのパルティータの2番。パルティータの2番と言えば、シャコンヌのおかげでどちらかというとバイオリン独奏組曲の方が有名かも知れませんが、鍵盤組曲の方でも2番がもっとも人気があるのではないかと思います。昔のビデオで、マルタ アルゲリッチがアンコール曲としてこの組曲の最後のカプリッチオを超高速で弾いているのを見たのがきっかけで、死ぬまでにこれを弾けるようになる、という壮大なる私のパルティータ 2 プロジェクトが約7年前に始まりました。このプロジェクトは数度の挫折を経て、中断していましたが、最近、老化防止の一環として再び取り組み始めました。我流ですし、ちょっと弾かないだけで全く弾けなくなるので、また0に近いところからのやり直しです。この1ヶ月ほどは、組曲の最初の曲、Sinfoniaを主にやっています。Sinfoniaは多分この組曲の中で一番難しい部分と思われ、前回、浚った時も6曲の中で最後に回して、結局、満足に弾けぬまま挫折しました。今回も前よりはかなりマシですがなかなか満足のいくレベルには達しません。Sinforniaは三部構成になっていて、最後の部分が最も難しいのですが、ここは基本的に2声の対位法で書かれているので、多分、きっちりトレーニングを受けてインベンションをいくつかやった人なら小学生でも普通に弾けるのだろうと思いますけど、私は自己流なので、5つの指を同じような強さで同じような間隔で動かすということがなかなかできません。速く弾くと間違えるし、ゆっくり弾くと音のテンポと粒が揃っていないのが丸見えになり大変みっともないです。

できない理由を自分なりに分析して考えてみました。解剖学的な問題なのでしょうが、やはり薬指の弱さが最大の弱点ではないかと感じました。それで薬指で弾く音をくっきり出すために薬指の指立て伏せみたいなトレーニングをしたり、薬指だけを独立して動かすような練習をしたりして薬指を強くしようとしました。しかし、ほとんど効果なし。

そして、あるときふと気づきました。解剖学的に無理があることをトレーニングでできるようにしようという考えが間違っているのだと。根性と努力であり得ないような魔球を生み出す昔の野球漫画ではあるまいし、科学的に無理なものを根性や努力で克服しようと思うのは、竹槍でB29を撃ち落とそうとするようなものであり、現在で言えば、中国と戦争をして勝とうとするようなものです。つまり、そもそも薬指は弱いのが自然であって、それは女性のお尻は丸く、猿のお尻が赤いのと同じなのだと。然るに、無理矢理に女性のお尻を四角くしようとしたり、猿のお尻を白くしようとしたりすることは正しいことであるはずがないと悟ったのです。私がやるべきは、その弱い薬指の「弱さ」をまず受け入れて、弱い薬指のままで思うような音が出る工夫を考えることだ、と理解したのです。三本指で超絶ジプシーギターを弾くジャンゴ ラインハルトの例もある、使えない部分を無理に使えるようにしようとするのではなく、使える部分を最大限に活かすことで全体をより良くしていくことができるはずではないかと思い至りました。

それで、弱い薬指に無理に力を入れるのではなく、強く弾く必要がある時は腕と手を少し上げて、その重力を利用することにしました。これによって無理なく打鍵が強まる上にリズム感も生まれるようになり指の連携も向上したのです。すなわち、薬指が弱いことをあたかも「欠点」であると捉えて、それを矯正しようとすることをやめて、薬指が弱いことはその指の「個性」であると受け入れ、十分でない部分があるならば、全体がサポートすればよいのだ、と気づいたのでした。

この考えを拡大すると、障害者であったり性的マイノリティーであったりする人々に対する我々の態度がどうあるべきかにも思いが至ります。障がいやマイノリティーであることはそれらの人々の固有の個性であって、矯正や忌諱の対象となる弱点や欠点ではなく、社会がすべきことは、彼らのその個性を受け入れ、そして彼らが十分に活躍できるようにサポートしてくことであると。障がい者が弱点だと思うのは、そうでない人々にとって具体的な目標を達成するのに有利でないと考えるからだと。自分だけ、今だけ、金だけが大事の資本主義の世の中で、目先の金儲けや自分の得にならない存在は欠点であり邪魔であると思うことが短絡的すぎるのです。なぜなら、目の前にいて邪魔者扱いされる障がい者は明日の自分かもしれず、邪険に扱われる老人は数十年後の自分自身です。今の自分だけが良い社会は、明日のそして数十年後の自分には住みにくい所であります。ま、そんなことを、私は自分の薬指を見ながら思ったわけであります。

さて、最初はマルタ アルゲリッチのダイナミックな演奏が気に入ってこの曲をやろうと思ったのですが、アルゲリッチは天才ですから彼女のように弾ける人はそうそういません。その後、何人かの演奏家の演奏を聞いた結果、私にはグールドのような演奏がしっくりするように思いました。アルゲリッチの天才芸術家的演奏もいいですけど、大工職人が一ミリの狂いもなくレンガを積んだ最後に完全な全体が完成するようなグールドの演奏が私の好みです。緻密な建造物のように書かれたバッハの曲に合っているように感じます。

グールドはSinfoniaの最後の部分を下のように弾いています。

ちなみに派手目の演奏が魅力のValentina Lisitsaはやや高速で抑揚をつけて弾いていて、これもなかなか表情豊かでいいです。

ゆったりめでとてもバランスがよいMurry Perahiaの演奏。私が目指すのはこういう演奏ですね。

つづきはまた次回にでも。


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平等と公平 (II)

2023-07-18 | Weblog
前々回、アメリカのAffirmative actionについての最高裁の判断を聞いて、思ったことを書こうをしましたが、本題に入る前に長くなって途中で終わっていました。今回はその続きを少し。本題は、日本の消費税とインボイス制度の不公平性です。

消費税は消費される物品にかけられて消費者が「平等に」負担するから「公平」だ、と主張する人々がおります。本当にそうでしょうか?
まず、消費税は消費者が一部を負担することにはなりますが、消費者が支払う税ではありません。消費税は事業者の売上げにかけられる直接税であって、故に、第二法人税とも呼ばれております。消費税は売上税分を価格の一部として消費者に負担してもらうという性質のものに過ぎません。つまり、消費税込みの値段がその商品の「価格」であって、消費者は消費税を物品などの価格とは別に支払っているわけではありませんし、支払いのうちの消費税分が別会計になっているわけでもありません。ですので、「消費税は『預かり税』だから、消費税を預かった免税事業者が消費税を納めないのはおかしい」などと平然とTVなどで言う元弁護士くずれのペテン師もおりますが、それはウソです。

消費税のプロトタイプは中曽根政権時の「売上税」です。売上に対してかける税金で、この法案は事業者が反対して廃案になりました。それと中身は同じなのに、名前だけ変えてだしてきたのが「消費税」です。あたかも消費者が税を負担するかのような印象操作をし、加えて売上3000万円以下の小規模事業者は免税事業者となるので消費税分が利益になると言って事業者を納得させて導入しました。そして、いつもの自民党。知らぬ間に消費税税率は3%であったものが10%となり、免税業者は売上3000万円であったものが1000万円以下と再定義され、挙句に今回は、インボイス制度の導入です。この制度によって、売上に関わらず小規模事業者も免罪業者を辞めて消費税を払うか、それが嫌なら名税業者との取引から排除されるか、どちらかを選べと言ってきたわけです。入口では甘い言葉で誘うが、中に一旦入ればやりたい放題、ぼったくりバーなみの詐欺です。しかも、あたかも、消費税は消費者が支払う税であるかのような印象操作を行い、消費税の仕組みをよくわかっていない一般国民を騙し、ペテン師にTVでウソを言わせて、免税業者を叩かせる悪質ぶり。

税金の役割は複数ありますが、そのうちの一つは「富の再配分」と呼ばれていますが、その目的は「格差の是正」です。すなわち、あるところから取って、足りないところからは取らない、そして税収を財源の一部として予算を組み、足りないところに金を回すことです。しかるに、消費税は足りないところからも取る上に、弱者ほどその相対的負担を大きくして、格差を広げます。すなわち、本来の税の目的に反する税です。これが消費税が悪税と呼ばれる理由の一つであります。生活の苦しい人々からも否応なく徴税する消費税は「公平」ではないと言えるでしょう。

この消費税の逆進性、つまり可処分資産や所得の少ない人ほど相対的に負担が大きくなるという性質は、これまでも強く批判されてきたし、それゆえに消費税を導入している海外の国でも、すべての人々が消費する食品や日常必需品は無税もしくは低率の税しかかけられていないのが普通です。日本でも昔は「贅沢税」と呼ばれて高額な贅沢品だけにかけられる税でした。にもかかわらず、そうした先進国の税制に倣うことをせず、頑なに弱者への負担を増やす政策を継続し、国内消費を冷え込ませ、地盤沈下を促進し格差を拡大した挙句、「経済政策の失敗で先進国で唯一貧しくなった没落国」と呼ばれるような悲惨な状態に日本を陥れたのが自民党であります。

海外の先進国ではやらないような、明らかに「誤った経済政策」を続け意図的に弱者いじめを続けて国を破壊してきたのは、利権でしか動かない自民党の病理体質のせいでしょう。なぜ自民党は弱者いじめをし、強者に阿るのか。それは「票」以外にありません。強者は組織されておりまとまったの票をもつ一方、弱者である一般国民は分断されており、票の半分を捨てています。組織票を握った方が勝ちとなる小選挙区制度では、一般国民である弱者をいじめて強者にいい顔をする方が自民党の得になります。そして、弱者をいじめて得をするのは弱者を利用して金儲けをしている連中(つまり、資本家やカルト宗教団体などの強者)ということになります。

反省とか、恥という言葉を知らず、目先の金と力の匂いのする所に群がる大腸菌のような自民党が、さらなる弱者いじめとして導入するのがインボイス制度です。インボイス制度とは弱者に対する増税であり、事業妨害であり、「弱いものいじめ」そのものが目的とも言える悪質なものです。インボイス制度によって得られる消費税増収分は1%程度のわずかなものに過ぎないのに、これによって数百万という小規模事業者が廃業に追い込まれると考えられています。ゼロゼロ融資の返済がスタートしたためか、すでに小規模事業者の倒産件数はうなぎ上り、これにインボイス制が始まると、日本の中小零細企業は悲惨なことになるでしょう。そうして、街や田舎の小規模産業を根こそぎぶっ倒していって誰が得をするのでしょうか。それは地域の豊かな多様性を踏み潰して、小規模事業が潰れて浮き出した労働力を安く買い叩き、合理化され画一された商業モデルに置き換えて地域産業を独占する大企業でしょう。つまり、一部の金と権力をもつ支配者と大多数の持たざる被支配者からなる格差の社会、それを自民党と経団連企業は目指しているのだろうと思います。

さて、逆進性が強い税金で収入や資産の少ない人ほど負担が大きくなる「不公平」きわまりない税が消費税ですが、消費税は、雇用を不安定にし賃金を下げるというメカニズムを通じても、社会の貧困化や少子化を促進します。消費税は消費者ではなく事業者に納税義務がある事業者税であり売上から仕入れ値を引いた額にかけられる情け容赦のない税です。その差額のほとんどが人件費となって消えていきますから、事業者は、利益確保のために人件費を節約しようとします。そのために、正規雇用者を減らし、不足分をパートやアルバイトで賄うことになります。正規職は減り、非正規のパートタイムに置き換わる中で国民はますます貧乏となり、結婚したり子供を持ったりすることをあきらめていきます。

そもそも、弱い事業者と強い事業者に同率の消費税を背負わせるのは「不公平」であるという当然の認識が消費税導入時にはあって免税業者というものが設定されました。インボイス制によって、これらの弱い中小の事業者は潰されていき、日本の中小の町工場が持っている世界トップクラスのさまざまの技術や、現代日本の象徴でもある日本のアニメーション産業や伝統文化を支えているアニメーターやフリーランスは廃業を選び、そして技術も文化も日本から失われて、日本は、大企業とそこで働くロボットのような低賃金労働者からなる消費物を生み出すだけのただの無味乾燥な巨大工場になっていくのでしょう。
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自民党とかツイッターとか

2023-07-11 | Weblog
安倍氏殺害から一年経ちました。しかし、自民党は何もかわりません。あいかわらず統一教会の壺議員がシレッと次の選挙の公認として発表され、自民党の改憲集会にいまだに統一教会が賛助しており、いつまでたっても統一教会の解散命令は発令されず、山上被告の公判は延々と延期されつづけています。自民党、相手が日本を喰い物にしようとする反日カルトであろうが「黒い猫」であろうが票をくれる組織が良い組織。ウラでコソコソやりながら、国民が忘れてくれるのを待っているのでしょうな。自民党というのはそういう組織です。ま、票さえくれれば何でもするのは公明党も維新も立民の一部も同じですが。

その安倍氏殺害の当日に安倍政治団体が「私人」であるはずの昭恵氏に引き継がれ、多額の税を免れていたことも最近明らかになりました。銃撃された本人よりも、その本人に付いている金と権力の確保がとにかく第一、といういつもの自民党。しかし、ここまで国民をバカにした対応を自民党が取るようになったのもアベ政権以来ですけど、ま、見苦しいですな。欲にまみれて無間地獄で蠢く餓鬼の集まりを見るようです。目先の金と力だけのために、人々を裏切り、ウソをつき、その悪行を知る者からは軽蔑され、ただ一度の人生を醜く過ごして死んでいくのを虚しく感じないのでしょうかね。思うに、淺ましさでは人には負けないというような者だけが残った結果が自民党なのでしょうけど。

さて、もう一つのニュースはツイッター。イーロン マスクに嫌気が差して第一次ツイッター脱出運動が起きたのが数ヶ月前。アカデミアでは、ツイッターにかわるプラットフォームとしてマストドンに移った人がそこそこいましたが、結局、ツイッターの地位は揺るがず、ツイッターは情報共有ツールの主要プラットフォームであり続けました。そして、先日、マスクがクビを切った旧ツイッター従業員を取り込んで、Metaがツイッターもどき、Threads、のサービスを開始しました。インスタグラムとリンクしたThreadsはサービス開始から急激にユーザー登録数を増やし、その爆発的な勢いのThreadsはツイッターにとってはThreatであったようで、マスクは法的に対処すると威嚇。

結局、ツイッターもMetaも目指すところは金儲けですけど、マスクのようにそのあたりがあからさまであると、ユーザーに嫌われます。Threadsが今後、ツイッターに変わる情報交換の場になるかどうかは微妙なところですが、十分、ツイッター並みに強力なプラットフォームには成長するでしょう。将来的には、ビジュアル系情報を主にやり取りする人はThreads、文字情報やニュースはツイッターと棲み分けが起こるのかも知れません。私もちょっと試してみましたが、使い勝手はツイッターと大差ない感じ、とりあえず、ニュースサイトをフォローしようと探したら、BBCとCNNが見つかりました。いくつかの教育機関、学術専門誌もすでにアカウントが見つかったのでフォローしました。
ちなみに、ツイッターは(まだ?)Threadsのアカウントを持っていないようです。
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平等と公平 (I)

2023-07-04 | Weblog
アメリカの大学では従来から黒人やヒスパニック、ネイティブ アメリカンの学生数を確保するための優遇措置が行われておりますが、先週末、こういった措置が「法の下の平等」を謳う合衆国憲法に違反しているとの訴えを認める判決がありました。またアメリカの私立大学の入学に関しては、こうしたマイノリティー優遇政策の逆ともいえる「家柄」の良さなどを考慮する優遇措置もあります。レガシーと言われますが、アイビーリーグなどの東部エリート校では昔から公然行われているエコ贔屓ます。ちなみに、今朝のTwitterをみたら、下の様なツイートがありました。

さて、日本でもアメリカでも、人種に限らず性、教育、社会地位、経済レベル。さまざまに差別があります。そういう社会で自由競争をさせれば、強者と弱者間の差、金持ちと貧乏人との格差は開く一方になります。生まれながらに子供の教育に価値を認めないような地域、教育を受けたくても金がないという家庭に生まれ育った子供は、そうした環境から抜け出ることができず、格差は固定化し拡大し、極端な富や権力の偏在を引き起こし、現在のような格差社会に至ります。格差の拡大は国民の権利を保障する民主主義国家にとっての脅威であります。一つの国において格差が広がり、国民が持てるものと持たざるものとの間で分断されるのは為政者にとって好ましくないことであり、とくにアメリカのような国では、「多様である」ことと「国家としての纏り」を保つことを両立させていくのは重要な政治的課題です。

バイデンはこの判決に異を唱え、(黒人、ヒスパニック人種の学生が一流大学に一定数含まれることを目的とする制度を通じて)多様性を保つことはこの国の最大の強みである、というようなコメントを出しました。

二大政党制のアメリカで、現在の最高裁所判事は9名中6名が共和党大統領による任命で、3名は民主党大統領による任命ですので、最高裁ではバイデン政策に不利な判決になりがちなのかも知れません。ちなみに、この判決の直後、バイデンの公約の目玉政策の一つであった奨学金返済免除に関する裁判では最高裁判所が6-3で認めないという判決に至りました。

バイデンの民主党では、黒人、ヒスパニック系、都会生活者は大きな支持基盤となっていますから、民主党にとって黒人やヒスパニックの権利が縮小することは望ましくはなく、バイデンの言明も半分は政治的動機からでたものでしょう。ところで、「多様性」は強みであるというのは、思うに、これは生物学的な観察からの推測であって、人間社会で人種的多様性が「強み」であるかどうかはわからないと思います。しかし、アメリカの様な社会で「多様性」を許容しないことは弱みになることは容易に想像できます。日本でも同じだと思います。多様性の許容なしに民主主義国家は成り立ちません。

さて、こうしたAffirmative actionは男女の格差、人種間の格差を是正する目的で導入される特定の属性の人に対する優遇政策ですから、その優遇政策を受けれない者から見れば不公平と思うのは当然であって、その不公平の根拠を憲法の「法のもとでの平等」に求めるのも理解できます。黒人というだけで大学入学で特別扱いするのは不公平だと白人が言うのをもっともだと思う人も多いでしょう。しかし、それは白人であるというだけで得ている数々の特別扱いを無意識または意図的に無視していると言わざるを得ません。

突き詰めていけば、「平等」とは何か、どう言う条件を満たせば「平等」と言えるのか、そしてそもそも「平等」という概念を人々は同じように理解しているのか、という問題があると思います。「公平」、「不公平」といった概念にも同様に恣意的解釈の余地があるでしょう。また、今回の判決の根拠になっている「法の下の平等」という条文も、立ち位置の違いによっては解釈は180度変わりうると思います。

人間ですから、特定の人種や性に生まれ、容姿や頭脳に恵まれる場合もあれば残念な場合もあります。障害をもって生まれた人もいれば、生まれつき何かに秀でたような人もいます。親の名前と地盤を引き継いで国会議員になって国民を不幸にする世襲のボンクラ議員もいれば、学業に励み身を律して国民につくそうと公務員になったのに、そのボンクラの悪行の尻拭いをさせられて自殺に追い込まれた人もおります。そう思えば、生まれた瞬間から人間は基本的に不平等です。この生まれながらの不平等はどうしようもないです。ですから、生まれつき不平等は不問にして、平等を目指すのでは矛盾は避けられません。言葉遊びのようですけど、「平等」ではなくどちらかと言えば「公平さ」を議論する方がまだ良いかも知れません。この法案に反対した人おそらく黒人でもヒスパニックでもない人で、そのために大学入学の優遇措置を受けれないのが「不公平」だと思っているのだと思います。しかし、彼らが黒人やヒスパニックでないことから得てきた数々のメリットは都合よく無視しています。それは「公平」なのでしょうか?

男女がスポーツで競うとした場合、同じ条件で(例えばテニスの)試合をさせるのは平等かも知れないですが、公平ではないでしょう。何らかのハンデが必要です。職場でもそうです。女性やマイノリティー特有の問題を考慮することは不平等ではなく公平さを目指すことです。Affirmative actionは「公平さ」という概念で社会格差を是正していこうという措置だと思います。しかるに、公平さという観点を無視して、どんな背景にあっても同じ条件を一律に課しているから「平等」で問題がない、と平気で言えるのが新自由主義者であり強者の理論だと私は思います。

さて、ここまではマクラで、本題に入ろうと思っていましたが、もうすでに随分、長くなっていますので、続きは次の機会にします。
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プーチンの終わり

2023-06-27 | Weblog
ヨソの国のことを心配しているような余裕はないのが今の日本ですけども、この週末のニュースと言えばロシア。

世の中は無常であり、驕れるものは必ず衰え、因果は巡り、夏が終わればやがて冬になる、この法則は全ての人間や社会や国に当てはまることを私は一片の疑いなく信じております。いずれ自民党にも終わりが来る時が来ますし、日本という国も遠からず終わるかも知れません。終わりの予感は段々と人々の間に共有されて、ある日、ちょっとしたことをきっかけに、崩壊に至るのだろうと思います。

昨年は安倍氏が殺害されたことで日本も変わるのではないかと思いましたが、結局は、日本を八年にわたって壊し続けてきた自民党の総裁がいなくなっても、何も変わりませんでした。彼も戦後連綿と続いてきた国民間接支配のための神輿の飾りの一つに過ぎなかったということでしょう。統一教会はあれだけ叩かれても解散命令一つ出ないし、統一教会との濃い関係で叩かれた山際氏は何事もなかったかのように次の国政選挙の公認候補となって出てきます。史上最大の原発事故を起こし、12年たっても1グラムのデブリでさえ取り出せていないのに、規定を歪めてまでも危険な原発施設の運用を継続する。嘘がバレて辞めると大見得を切った大臣がのうのうと居座る。自民党というのは結局はただの操り人形なのです。今のキシダ政権を見ればそれは明らかです。大志もビジョンもなにもなく、単に首相になることだけが目的だった男です。その地位さえ守れるなら、民主主義も国民も日本でさえどうでもよく、バイデンに言われるがままに防衛費の巨額の増額を決め、統一教会に言われるがままに子供家庭庁を作り、LGBT差別法案を通し、経団連に言われるがままにインボイス制度によって小規模事業者を潰して消費税を増税、事業受注するゼネコンに言われるがままに海外のインフラ援助だ何だのと外国支援に何兆円もばら撒く。大志も大義も正義も思いやりも何もない自己保身だけが全て、そんな人間がずっと日本の首相でした。情けないと思わないのでしょうか。ま、甘い汁というのは中毒性があるのでしょうな。

安倍氏が神輿の飾りであり続けることができたのは、どうやら韓国のカルト宗教団体の票を握っていたおかげであったらしいという話になって、なるほど一人のキングメーカーと呼ばれる男が死んだところで、自民党が変わるはずもないと納得しました。韓国カルトは安倍派に全額を賭けていたわけではなく、例えば維新という野党モドキをも通じてより狡猾に政治をコントロールしようとしていたわけで、思惑通り自民に見切りをつけた有権者票が維新にながれています。

話がいきなり逸れましたが、今週末、盛者必滅の理を感じたのは、自民党よりもプーチンです。一年半前、ウクライナ侵攻を決めた時、プーチンは今日という日を全く予測していなかったでしょう。しかし振り返れば、その時がプーチン株の売りどきでした。プーチンもその時に引退しておけば安らかな老後が送れたかもしれません。思うに、その時の彼の頭の中は、キエフを1日で陥落させた後、その後、どのようにウクライナ支配を維持し、そして西側諸国との関係のバランスをどう取っていくかということを考えていたに違いありません。ところが、「あてごとと褌は前から外れる」の喩えの通り、キエフ陥落に失敗した後は、立ち往生し、行くに進めず帰るに引けず、泥沼の戦争を続けざるを得なくなりました。国民の命や国の荒廃を引き換えにしても、何としてでもロシアとの戦争に勝って、EUに入り、やがてはNATOのメンバーとなって、ロシアから自由になり、歴史的英雄としてウクライナ史に名を残すのだという血の気の多い大統領のおかげで、ウクライナも自国の多大な犠牲と引き換えに、それ以上のダメージをプーチンに与えたのは間違い無いでしょう。プーチンもプーチンだが、ゼレンスキーもゼレンスキー、河野太郎も真っ青の引くに引けないエゴの張り合い、ですかね。

しかし落ち目の時は、潮が引くかのように運は逃げていくもので、この週末に起こったロシア民間軍事会社ワグネルの反乱は、プーチンの終わりを示唆するに十分なインパクトがありました。プーチンの料理人として政権に取り入り、やがて囚人らを組織して傭兵組織の長となった男、プリゴジン。プーチンの落ち目とこの泥沼の戦争の帰趨を感じ取ったのでしょう、ロシア国防省と対立。一時は軍事拠点を占拠し、その後、武装蜂起を宣言し部隊はモスクワに向けて北上。プーチンは例によって「反乱は許さない」と強い口調で声明を流したものの、そもそもこのような事件が起こること自体、最高司令官が命令系統を制御できていないということであって、プーチン政権の弱体化の証拠を晒した事になりました。戦の最中のならず者一家のお家騒動といったところでしょうか。ベラルース大統領との会談を通じてロシア軍とワグネルの衝突は回避され、お互いに矛先を収めたものの、この事件のプーチン体制への影響は甚大でしょう。そして、その同盟国であるはずのベラルースとカザフスタンはプーチンを支援しないと表明。陳腐な表現をすれば、プーチン体制崩壊への序曲が響き始めました。

支持率3割でも選挙で勝てると踏んで解散を口にするような首相がいる平和な国と違って、普通の国では力を失った独裁者の末路は惨めなものです。想像するに、かなり壮絶な形でプーチン体制は終わる事になりそうな気がします。いずれにしても長くは持ちますまい。これも因果応報、一円を笑うものは一円に泣き、謀略に生きるものは謀略に死す。プーチン無き後の弱体化したロシアは東ヨーロッパの孤立した国々の一つとなって行き、中国が東ユーラシアの中心となるのでしょう。そうなればウクライナは西側のメンバーとなり、バイデンの中国包囲網が完成する事になる。

その後、アメリカがどこで戦争を仕掛けようとするでしょう。中国にちょっかいを出すわけにはいかないし、中国も他所にはなかなか出てこない、となると、また中東に戻るのでしょうね。
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