百醜千拙草

何とかやっています

絶対的なアホ

2023-03-24 | Weblog
アホとかバカとかを人に対して言うべきではないと私は思っております。他人の自尊心を傷つけることはしてはならないことですし、誰かをアホとかバカとか判断するのも基本的に個人の感想です。しかし、世の中には絶対的なアホというものもあるということは事実と思わざるを得ません。

夏のG7ホスト国の首相でありながらウクライナに行っていないという体面を気にしたのか、先日ウクライナに行ってゼレンスキーと会談したキシダ。「必勝しゃもじ」を贈ったというニュースを聞いて、心の底から呆れて軽蔑の念を深めました。これコロナにアベノマスクなみのインパクトです。戦争のために家を失い殺され続けているのに「必勝しゃもじ」を戦時下の大統領に贈るのがニッポン国の首長、という情けなさ。

ラサール石井氏。
たとえ発案が官僚からだとしても、却下すべきだろう。 「聞く力」はあるが、「考える力」がものの見事にない。
とコメント。

いや「聞く力」にしても、国民の声も世界の声も全く聞こえていないでしょう。

大量破壊兵器があるとイチャモンをつけて、イラク侵攻し、大勢のイラク市民を殺しフセインを吊るし首にしたジョージ ブッシュを思い出しました。大量破壊兵器は無かったことが明らかになって、ヘラヘラ笑いながらカーテンをめくって大量破壊兵器を探す仕草をして、人々の怒りを買いました。戦争で人が死ぬということを何だと思っているのか。キシダにしてもゼレンスキーにしてもプーチンにしても、国が破壊され人が死んでいって行っているということに対して、全く真摯に考えているように見えません。国民の命や生活よりも勝負に勝つことしか興味がないらしい。国民はチェスの駒ぐらいにしか思っていないのでしょう。国の長期的繁栄と人々の生命と生活を守ることを考えたら、戦争は勝敗を棚上げにして永久停戦を目指すという落とし所しかないです。ゼレンスキーはEU経済圏入りをしたいばかり、やすやすとアメリカ軍需産業の代理人、バイデンの甘言に乗って、ウクライナを武装し、できもしないNATO入りを目指すことで、プーチンを挑発した。ゼレンスキーはアメリカ軍産にとっては扱いやすい男だったのでしょう。彼にも国を戦場にして大勢の国民の命と生活を奪った第一責任者であるという自覚があるようには思えません。

そして、キシダ、「必勝しゃもじ」。アホにも限度がある。憲法9条をもつ平和国家であるはずの日本ができることは、死ぬまであきらめずに戦え、と戦争を焚き付けるのではなく、戦争は絶対悪であり、ただちに停戦に向けてロシアとアメリカと交渉できるような場を仲介すると表明することです。GHQが草稿した日本憲法を持つ日本であるがゆえに、日本はこのコンフリクトの解決を仲介できるユニークな立場をとれたはずで、それによって、アメリカの属国から真の独立国へと成長していく一歩にもなったのです。

聞く力も考える力もないキシダは、アメリカの後ろを金魚のフンのようについて回るだけ、ただでさえ世界の国々からアメリカのパシリと見下されているのに、さらに「必勝しゃもじ」。日本の評判にトドメを刺しました。

絶対的アホ。
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メディアの終わりと恥知らず

2023-03-22 | Weblog
今月から新しいというか古い仕事をしていますが、これまでと違い、ストレスも少なく楽しい毎日で、おかげで愚痴をブログを書いてガス抜きをする必要がなくなりました。とはいえ、長年の習慣で論文やTwitterでニュースはフォローしております。ウチの研究分野は盛り返す兆候もなく右肩下がり、日本の未来は果てしなく暗いわけですが、地球ができて以来の歴史に比べれば、研究分野が興亡し、日本が栄えて滅亡したりするのも大海のさざ波のようなものなのでしょうか。

日本の政治は三流未満ですけど、日本の民間の人々は本当に優秀です。優秀な国民が、腐敗し切った政治のために、生活が脅かされ、安心して能力を発揮することができないというのは、日本のみならず世界の損失だと思います。

日本の政治腐敗がここまで深刻化したのも、日本人が政治に無関心なせいですが、これほどまでに自分の生活に直結する政治課題に興味を持たなくなった一つの原因は、日本が経済的成熟に達したころからの、スポーツ、セックス、スクリーンの3S政策で、メディアを通じて人々の刹那的快楽追求を煽り、政治的または社会的問題への関心を逸らせてきたからであろうと思います。加えて、日本の民主主義は民衆が勝ち取ったものではなく、敗戦後、アメリカによってもたらされもので、真に日本人の血肉になることはありませんでした。

テレビをつけると、野球と芸能ニュース、お笑いとグルメばかりで、5分と見ていられません。そんな中で、誠実に報道の役割を果たそうとしているキャスターもいて、テレビ会社の会社員という立場の制約の中で歯痒い思いをしているのも伝わりはするのですが、それを読み取れるほどテレビを見ている国民には余裕がないのが現状でしょう。

今回の高市の噴飯ものの答弁にしても、マスコミは当の被害者にも関わらず、ニュースキャスターは、この異常事態があたかも日常茶飯のことであるかのような他人事の報道をしています。だれでも己が身がかわいいでしょうが、首根っこを政権政党につかまれて本来すべき報道をしないのであれば、社会の木鐸とはとても言えません。いずれにしてもテレビも新聞も滅びゆく業界でしょうけど。

さて、週末のもう一つのニュースでは、石垣島に開設された自衛隊基地にミサイルが搬入されたということが報じられました。それに反対する地元人々を映しながら、アナウンサーは、このことが如何に島にとって、また日本にとって重大な意味を持つかというコメントもせず、まるで、一地方の桜が狂い咲きしたという程度のレベルの報じ方でサラッと流してお終いです。これでは、メディアは報道の仕事をしていないに等しいです。石垣島にミサイルが搬入されたということは、台湾有事の際にアメリカ軍が介入すれば、石垣島が真っ先に中国軍の攻撃対象になるということであり、自衛隊がアメリカ軍の下部組織として、石垣島を戦場にした米中戦争の手先に使われて殺されるということを意味しています。そのことを沖縄や石垣島島民なら、容易に想像できるのですが、本土の人間は理解できない。だからこそ、理解できない人に理解できるように伝えるのが報道の役割でしょう。しかし、沖縄に基地負担を押し付けて、都合の悪いことから目を背けたい自民党政権は、国民にはバカであって欲しいわけで、この問題を深く報道してもらいたくない。その意向に沿うように「忖度」を強制させられ、政権に屈して、プロパガンダ拡散装置、国民総白痴化装置、となりさがったのが今のメディアです。

そもそもこれは、アベが官房長官のころから、メディアを恫喝し圧力をかけてきたからです。ようやくアベが死んで、アベ政権の不正なメディアコントロールの証拠が出されたにも関わらず、アベの子飼いの高市、アベそっくりの嘘をついて自ら窮地を招いた挙句に、責任転嫁、アベそっくり。いまだに呆れ果てるような不誠実な答弁で悪あがきを続けるものだから、国会が幼稚園の学級会未満のレベルになっている。それは、間違いなくアベが作った先例、「幼稚でバレバレのウソをついてでも、自ら自分の非を認めなければ逃げ切れる」のせいです。究極の恥知らずでしょう。普通の成熟した大人なら恥ずかしくてできないこてですから。

民主主義先進国の外国の人がこの状況を見たら、日本の異常さに腰を抜かすでしょうね。近代民主主義国家で政府がこれほどまでに信頼できない国はそれほど多くないでしょうし。
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高市事件の影響

2023-03-14 | Weblog
今回の高市事件を職場の人と雑談していて思ったのは、当然のことではありますが、支持する政治家や政党が人によって異なるのは、個人がそこに何を求めるかによるということです。十分に知的で教養も経験もある人が自民党を支持する理由は、自民党の政権与党としての経験と政策を評価しているか、自民党支持が自らの利益に直結している場合が多いようです。一方で自民党を支持しない人々は、それとは逆の理由に加え、大きいのは、特にこの20年ほど、戦後民主主義の原則を踏み躙ってきたからだと思います。

例えば医学研究であれば、いくら理屈や整合性のあるデータであっても、正しいプロセスを経て得られたものでなければ、それには意味がありません。一方で臨床診療などでは、一応、科学的根拠と論理に基づいて診療を行いますけれども、個々のケースにおいては、結果がよければOKです。逆に医学的には成功したが患者さんは亡くなったというケースは失敗ですから、プロセスの厳密さは科学研究ほど優先されません。政治においても同様の考え方の違いがあると思います。プロセスが正しくなければ意味がないと考える科学的アプローチ(これは西洋的価値観とも言えるでしょう)と、結果が良ければいいという東洋的実利主義的価値観のいずれに親和性があるかによって、自民党への支持、不支持はわかれるのかも知れません。自民党政治は腐敗しているけれども国民がそれなりに幸福ならばOKと思う人と、腐敗を放置しては将来の社会の健全さが損なわれると思う人との意見が異なるのは然るべしです。

しかし、実利主義の悪いところは刹那的であるということです。基本的に目先の問題を解決することが目標であり、将来のことも考えてより優れた社会を作っていこうとする時間軸を考慮した考えがしばしば欠けています。科学的厳密さとプロセスの正しさを重視するアプローチは即効性にかけ、目先の問題をすぐに解決はできないかもしれないが、知識や経験を体系だてて積み上げることで長期的にはより発展が見込める可能性が高いと思われます。

あいにく東洋の島国である日本の政治は常に実利的な方法を選んできました。自民党政治家は、ウソをつき文書を改竄しても権力が維持できて望み通りの政策が実現できればそれでよいという態度でやってきました。不正なプロセスでそれを達成し、社会システムを破壊してでも、とりあえず目先の目標を達成する方が大事だと考えてきたようです。賄賂を使い、利権業者を優遇するために不正な審査や制度改変を行うのも正式なプロセスを踏んでいたのでは彼らの望みが達成できないのだから、止むを得ないとでも思っているようです。しかしながら、それでは目先のことは捌けても長期的に対処が必要な問題に対しては、ただ問題を見て見ぬフリで、先送りして、結局、事態を悪くするだけでしょう。

そんな「今だけ、金だけ、自分だけ」の自民党の態度が、福島原発事故後12年たってもただの1グラムの燃料デブリを福島原発から取り出すことさえできず、汚染水はまったく処理方法さえ開発できずに海洋放出、挙句に原発事故が起きたらお手上げのこの状態で目先の利権で原発の寿命を延ばし、新規原発の建設まで口にするという自民党政権の原発政策に典型的に現れています。これを短くいうと、「無能」で「不誠実」となるわけですが、原発利権業者やとりあえずの電力需要をなんとかしたい人々にとっては、彼らの刹那的な利益には合致しており、ゆえに彼らの評価は逆転するのでしょう。

私は、科学研究者でしたから、自民党の、刹那的利益のためにウソをつきその場その場をやり過ごすことしか考えず、本質的な問題はやってるフリで先送りにするという態度は、将来に大きなツケになって国を滅ぼすと確信しています。

さて、政治をここまで腐敗させたのはアベ政権であり、その後ろ盾で大臣ポストを手に入れたのが高市氏。その腐敗の証拠を掴まれて、ギャグとしか思えない無理すぎる言い訳を繰り広げておりますが、単に、見苦しいだけではなく、この悪あがきが及ぼす影響は極めて大きいかも知れません。

鮫島タイムスから。
、、、担当閣僚が自らの役所の文書を「行政文書だけれども事実かどうかわからない」と明言したことは、行政文書そのものの信憑性を自ら毀損する行為だ。捏造の可能性を含めて内容が不正確な行政文書が存在することを現職閣僚が公式に表明したのだから、もはや行政文書を鵜呑みにすることはできない。行政への信頼を自ら打ち消す自殺行為である。
これまでも財務省は公文書を改竄するし、厚労省は統計を捻じ曲げるし、行政文書への信頼は大きく低下していた。官僚のモラル崩壊は目に余るところであったが、今回の問題は行政への信頼を地に落とす決定打となるのではないか。
、、、安倍長期政権下でガバナンスが崩壊した日本政府がそれでもなんとか機能しているのは、この国で暮らす人々が法治国家の大前提を理解し、たとえ不満はあってもとりあえずは行政文書を「信用に足るもの」として受け入れているからだ。
 その行政文書に対する信用を、なんと政府自身が打ち消してしまった。、、、これから先、私たち国民は役所からいかなる行政文書を突きつけられても「正確性を精査する必要がある」と時間稼ぎすることができるだろう。
、、、魚は頭から腐る。すべては政治指導者たちの責任である。自分たちの手で法治国家の大前提をぶち壊したのだ。もはや法治国家の体をなしていないのである。
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Deja vu?

2023-03-10 | Weblog
立民、小西議員が、安倍政権時に政権が総務省を通じて、政権に批判的な報道番組に圧力をかけ、放送法を捻じ曲げていたことに関する行政文書を入手し、国会で当時の責任大臣であった高市氏を追求したことが、話題になっております。ことの問題は、アベ政権がメディアに圧力をかけて自民党や政権に不利な発言を封じ、都合の良い内容だけにして権力に維持を目論んだということで、政権がメディアに違法に介入してきたということです。その追求の中で、突きつけた証拠を捏造だと、悪あがきする高市氏に、証拠が真正なものであれば「辞任するか」と迫ったとこで、開き直った高市氏、「結構です」と答えたものだから、アベの森友事件を彷彿とさせたのでしょう、Twitterやメディアがとりあげ、大ニュースとなりました。

ま、メディアへの圧力はアベが官房長官だったころからアベ自身でやってきたことで、忖度を強要する(変な日本語ですが)アベの「勘ぐれ!」というセリフは有名になりました。そんな事情で、メディア恫喝と圧力は自民党は政権政党としての権利だとでも思っているフシさえあります。こうした自民党の権力の濫用はメディアコントロールに限らず、アベ政権下で大きく拡大し、政治腐敗は一気に進みました。

森友問題では、森友学園の土地払い下げダンピングがアベヨメの迂闊な越権行為から始まり、その追求の中、アベが「私や妻が森友問題にかかわっていたら総理も議員も辞任する」という愚かなタンカを切ったために、公文書の偽造、隠蔽、捏造が行われ、それを強要された公務員が死に追いやられました。アベは自身の保身のために、土地ダンピングをスクープしたNHKの記者を干させて退職に追いやり、公務員を死に追いやり、籠池氏を詐欺師に仕立て上げて刑務所に放り込んだわけです。ま、森友はアベの悪事のほんの氷山の一角、さすがにその際限ない腐敗と悪徳の因果が身に巡ることになりました。天網恢々、因果応報というのはこの世の法則のようです。

さて、「この行政文書が真実であれば、辞任されますか」と、文書を捏造怪文書呼ばわりした高市氏に迫った小西議員。森友当時のアベに倣ったのか、「結構ですよ」と答えた高市氏ではあったものの、自分にはアベの時のように忖度してくれる官僚も、統一地方選前で味方してくれる自民党員もなく、何より困った時に助けてくれるアベはすでにいない状況の四面楚歌、党内党外も辞任に賛成という雰囲気を察して、突然、見苦しい言い訳三昧を繰り広げだしました。

みっともなくも淺ましい。ま、いつもの自民党ですが、ようやくその悪行の報いがポツリポツリと現れはじめました。統一地方選で今後の流れが見えてくるのではないでしょうか。確かに旧民主党も、ましてや維新もダメです。今の野党に政権を任せられるのかという不安もある。しかし、とりあえずやらないといけないことは、すでに腐敗を極めている自民党から権力を奪い返すということです。まずはマイナスをゼロにするところから始めないといけません。

朝日新聞から。
 、、、、
 放送法が1950年に制定されて以来、政府は放送番組が政治的に公平かどうかはその局の番組全体で判断するとの立場をとってきた。だがその方針が、一部の政治家と官僚による密室での議論で大きく転換した可能性が濃厚になってきた。
 メディアへの介入という意味でも、政策決定の妥当性という意味でも、重大な事態だ。文書に書かれた内容について、政府はすべてが事実かどうかはまだ確認できていないとする。解明を急がねばならない。
 だが、それを妨げている大臣がいる。当時、まさにその方針転換の答弁をした当人である高市早苗元総務相だ。
 問題の資料が行政文書であると総務省が認めたあとも、高市氏は「ありもしないことをあったかのようにして作るというのは捏造(ねつぞう)だ」との発言を連日、国会などで繰り返している。
 内部資料のうち、高市氏が出席した打ち合わせの内容などを記した部分について、そもそも打ち合わせそのものが存在しなかった、といった主張だ。官僚がなぜ「捏造」する理由があるのかと聞かれると、「パフォーマンスが必要だったんじゃないか」とまで述べている。
 国民の行政に対する信用をおとしめ、国家の基盤を揺るがす乱暴な発言ではないのか。
、、、行政文書は、政策の決定過程や行政の執行過程を着実に記録して、後世の検証を可能にし、将来にわたって国民に説明義務を果たすためのものだ。その作成は、官僚の仕事の中核の一つでもある。
 それを頭ごなしに政治家が「捏造」などと言えば、国民はなにを信じたら良いのか。、、、
 しかも、その文書が作られた当時の総務省を率いていたのは高市氏本人である。仮に正確性に疑義があったとして、その責任は自分が負うことになるのをわかっているのだろうか。確たる根拠を示さずに、公文書制度に対する信頼を掘り崩すのはやめてもらいたい。
 公文書管理の徹底は、政府あげての課題のはずだ。そんななか、このような物言いを繰り出す人物が大臣についているようでは、この国にまともな公文書制度を根付かせるのは難しい。
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ピア レビューはいらない

2023-03-07 | Weblog
ようやく小さな論文が出版されました。もう今後は自分がメインで論文を書くつもりはないので、これが責任著者としては最後の論文となるはずです。ホッとしました。ほぼ同時に共同研究で参加したものも出版されました。これはN誌で理不尽なリバイスを要求された挙句にリジェクトされた仕事で、そのために今回の出版まで初稿が完成してから二年ほどかかっているのではないかと思います。筆頭の人はすでに製薬企業の研究開発部に移ってしまいました。結局、この腎臓での燐代謝と糖代謝が密接にリンクしているという興味深い知見は、発見されてから世間の目に触れるまでに数年かかったことになります。

私の論文にしても、二度のリバイスが必要だったので、初稿から出版まで半年はかかっています。科学的厳密さを追求することは重要だと思いますが、振り返れば、レビューアからの要求は主要な結論に何の影響も与えないもので、いわば枝葉末節をつついたものでした。

思うに、レビューのプロセスは科学的厳密さを担保するためというよりも、学位のディフェンスと同じく、論文出版のための儀式にしかすぎないと場合の方が実は多いのではないでしょうか。

端的にいうと、商業出版と論文至上主義には健全な学問の発展という点においてマイナスの方が多いと私は思っています。論文出版における問題は前にも何度か議論したし、もう私はこの世界にはすっかり愛想が尽きたので、どうでもいいですけど、紙媒体を主な情報のdisseminationの場として使わなくなった現代で、科学論文をピアレビューを経て出版することは時間と労力の無駄である、と一言、言っておきたいと思います。

レビューのプロセスを経ることによって、批判的な思考力が育まれるとか、論理力が検証されるとか、建前はいくらでも言えますし、そうした面があることは確かですけど、現場を広く眺めれば、そのような建前は吹き飛ぶぐらい馬鹿げた商業主義が跋扈する俗物世界だと感じます(どの分野もそうでしょうが)。

というわけで、論文はピアレビューなしに速やかに出版し、出版されたものの一部を公平に評価するシステムを導入すべきだと私は思っています。そうすることによって商業雑誌や出版ビジネスは、原著論文の発表の場としての商売がなりたたなくなるでしょうから、N誌やC誌や、出版でメシを食っている大勢の人々や、こうしたブランド雑誌を広告に使う一部の研究者は抵抗すると思うので簡単ではないでしょう。しかし、この巨大な学術論文の出版ビジネスは、アカデミアを食い物にするのではなく、アカデミアを支援する形に変わっていかなければならないと思います。
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公共サービスの貧弱

2023-02-28 | Weblog
実家のある田舎町は、バブルの末期あたりから市のサービス関係を集約させるプロジェクトを始めました。かつて城下町であったため、城と城下町をイメージした派手なガラス張りの市役所ビルを城跡のある丘の上に建てて、文化ホール、図書館、体育館やフィールド、プールのある総合運動公園などを配置しています。実家での休暇の間、本を読んだり勉強したりする必要があって、図書館にはちょくちょく行きました。

このちょっと奇抜で眼を引く建造物が丘の上に並んでいるので、かつての城のように町から眺める分にはいいのですけど、丘の上にあるため、自転車で行くのはちょっと大変です。公共交通機関もバスがたまにくるぐらい。最寄りの電車の駅からは15分は坂道を登ることになり、アクセスは車がなければ不便なところで、図書館を利用する学生や車を運転しない高齢者にとっては使いづらいです。

図書館の規模は小さく、テーブル席も50席ぐらいしかありません。自習したりする学生の人々は、別館にある別の自習部屋で勉強しています。それも100席あまりしかなく、すぐ埋まってしまうようです。これでは学生の人や社会人がちょっと寄って勉強しようとか、読書をしながらゆっくりしようという気になりません。

もう少し大きい神戸市の中央図書館も同じような感じです。交通のアクセスは悪くはないですが、規模が小さく、書架のある部屋には基本的に自習するためのスペースはなく、読書用のテーブルも非常に限られています。自習用の閲覧室があるのですが、利用者数に比べて明らかに不足していて、時間制限もあります。

この日本の図書館設備の貧弱さは、悲しい限りです。図書館だけに限らず、公共設備は日本はどこでも総じて貧弱です。外に出たら、市や区のサービスは限られていて、ちょっと休んだりのんびりする場所というものがあまりありません。中国同様、平坦で人が生活しやすい土地に乏しい日本で、土地が貴重なのはわかりますが、だからこそ政府や地方自治体がそスペースを公共の目的に確保、保護する必要があると思います。

外国と比較するとその貧弱さが際立ちます。例えば、神戸市の約半分の人口のボストンの市立図書館は、規模は、蔵書量とスペースで、神戸市中央図書館の10倍はあるでしょう。図書館は石造りの立派なもので壁画や彫刻で装飾されており、内にはカフェや催し物会場もあるので、本を読まない人でも立ち寄って一休みするスペースはふんだんにありますし、自習しようとして席がないなどということはまずないです。もちろん、こうした公共サービスにはかなりの維持費や運営費がかかっているでしょうが、勉強したり本を楽しむ市民の活動をサポートしようとする姿勢が日本とは段違いに思えます。ヨーロッパでも同様で、市民の文化的活動の支援は充実しています。音楽会ひとつをとっても、日本の文化ホールや会館は、大抵、ただの箱と椅子で殺風景なものですが、西洋の音楽堂は一種の芸術的建造物である場合が多く、生の音楽をそのような環境で鑑賞するという総合的体験が得られます。元々は西洋の文化ですから仕方がないと言えばそうですけど、かつての神戸の繁華街の新開地にまだ僅かに残る100年前の劇場(すでに映画館などになってますが)などの佇まいなどはなかなか風情のあるもので、高い天井に瓦屋根や装飾が施され、かつては、観劇という「体験」を盛り上げていたであろうことが想像されます。そうした立派な建物を市や区などが買い上げて公共施設として活用すればいいと思うのですが、日本の行政は市民の文化的活動に金を使うことを無駄だとでも思っているようで、せっかくの歴史ある建造物が壊されてチープな商業施設に建て替えられてしまったりして失われてしまうのは残念なことです。

図書館の話に戻ると、日本では、家庭の事情などで、集中して勉強したいが、そのための場所がないという学生も多いでしょう。私も受験生の頃は主に図書館を利用していて、休みの日は朝早くから席取りに行ったように思います。なぜ、日本では勉強したい学生や市民をもっと応援しようとしないのでしょう。図書館の規模は10倍とは言わずとも少なくとも2倍以上にして、席数は3 - 4倍に増やすべきだと思います。地方自治体の主な収入は市税、区税、県税でしょうから、これには限りがあり、サービスの優先順位がありますから仕方ないですが、金を作り出すことができる政府が、日本の最大の資源である優秀な頭脳を持つ意欲の高い人材、に投資しようとする姿勢が見られないのは悲しいことです。

自民党政権にとっては国民がバカな方がいいのでしょうが、そんな一党独裁の国の国力がどんどん衰えていくのは当然の成り行きだなと思った次第です。

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口にしてはならないことをなぜ言うのか

2023-02-23 | Weblog
ある中年女性のエッセイをネットで目にしました。
50歳ぐらいになって、自分は社会から目に見えない存在になった、という実感が綴られています。若い時は魅力的な容姿でモテた方だった。でも今は、男性のみならず、誰も他人が自分に注意を向けなくなった、お客として店に行っても店員が気づかないことがある、などなど。

昔、バブルの頃、「私がおばさんになっても」という歌がありましたけど、若い女性は男性にとってより高い価値がある、というような「下品」な内容の歌詞が堂々と歌われました。今では流石にダメでしょう。

人は他人への態度を自分の利益に結びつくか結びつかないかで決めますから、中年になった女性に若い男性が興味を示すことは少なくなるのは分かります。逆に、見た目の良い人、金持ちそうな人、地位の高い人に人は寄っていきます。誰でも自分の得を考えない人はいませんから、それは仕方がない。しかし、それが態度に出てしまう、口に出てしまうのは、人間として賎ましい。

他人の身になって考える想像力と謙虚さを持っていれば、心で思っても口に出してはいけないことは数多くあるということは分かります。口にすれば、普通、直ちに我が身に報いが返ってきます。ところが自民党の世襲政治家のように、そういうことをしばしばしてしまうのは、人の身になって考える能力が低いのに加えて、それが許されると思う特権意識があるからでしょう。

ここ数週間、ネットを賑わせてきて、外国メディアにも強く批判されたT大出の経済学者?の「日本の老年化問題の解決法は老人の集団自殺」という発言ですが、まさにこれは、人の身になって考える想像力の欠如、これがナチスと同じ選民思想であることの認識の不足、口にしてはならないことを言っても許されるとでも思っている傲慢な特権意識、が露骨に現れています。ネットで数え切れぬ人々がこれらを指摘し批判していますから、私があらためて言うべき話ではないのですが、この「特権意識」が、今の日本の凋落の根本原因であると思ったので、一言触れておきたいと思いました。

一応、日本には憲法というものがあって、国の理念に加え、国と国民の権利や義務といった根本的なルールが明記されております。憲法を持たない国ももちろんありますけど、憲法は法治国家における原則であります。アメリカ独立宣言の最初に述べられている「すべての人は平等に作られて、生命、自由、幸福を追求する権利が与えられている」の精神を組み込んだアメリカ合衆国憲法に準じて、日本国憲法14条「法の下の平等」は定められており、「老人の集団自決」が直ちに日本国憲法の精神、アメリカを含む近代国の価値観に著しく背くことは自明です。

憲法の話をしなくても、これが忌むべき発言であることは多くの人が直ちに感じ取り批判を展開しました。私が問題だと思うのは、この外国メディアでも大々的に批判された憲法の精神に反する「差別発言」を日本のTVやメディアはほとんど報道しないことです。同様に自民党の世襲議員のタロウ’sとかの傲慢発言も批判せずにスルーする、これは世襲議員の彼らのみならずメディア自身が特権意識を持っているからでしょう。今朝のTVのニュースの内容も浅薄でした。詐欺事件などの三面記事かスポーツニュース。国会ではすでに予算委員会が終盤戦に入っており、もっと国民個人にとって生活と将来に直結する重大な議題が議論されております。岸田が例によって木で鼻を括ったような答弁をして、少子化、脱原発、食料を含めた安全保障、統一教会問題などに対処を求める野党に「検討する」というだけの不誠実な答弁を繰り返し、ネットでは「検討使」と呼ばれていますけど、メディアは批判どころか報道もなし。新聞もTVも滅びゆく媒体である理由が分かります。

どんな不誠実な答弁をしても、どうせ野党も国民は何もできないと思う与党の傲慢な特権意識、報道は視聴者や新聞購読者の国民の知りたいことではなくて政府やスポンサーが流したい情報を流せばいいと思うメディアの特権意識が漂っているように思います。
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Bacharach

2023-02-17 | Weblog
カーラジオを聴いていたら、懐かしいカーペンターズの"Close to you" が流れてきました。このリズムとメロディーがBurt Bacharachらしいなあと思って聴いていると、続くナレーションで、彼が1週間前に逝去したことが伝えられました。1928年生まれの94 歳だったそうです。そして、その後にVenessa Williamsのカバーで"Alfie"がかかりました。

アメリカの偉大なポップス作曲家といえば、ミュージカル全盛時代のCole PorterやRichard Rogersとかが浮かびますけど、60年代以降に活躍した最も偉大なる作曲家といえば、多分Bacharachの名前がトップに上がるのではないでしょうか。今の若い日本人でも、彼のメロディーを耳にしたことをない人はいないのではないかと思います。

私が大学生ぐらいの頃、試験勉強のお供によく聴いていたのが60-70年代のソウル音楽で、Gladys Knights & Pipsが歌った「Seconds」という地味な曲が気に入ったのが私がBacarachの曲をよく聞くようになったきっかけでした。ちょっと聞けば、Bacarachの曲とわかるリズムとメロディー、偉大なるワンパターンとでも言えばいいのか、それが魅力でもありました。

Bacarachと言えば、Dionne Warwick, Warwickと言えばBacarach、この歌手と作曲家の組み合わせは強力で、試験勉強中のWarwickのベスト盤は私のCDの中で最も再生回数の多かったものだっただろうと思います。

Bacharachの名曲は数多く、ファンによる様々なベストソング ランキングが作られていますが、Warwickの"Walk on by"をベストに推す人が多いようです。私があえて選ぶとしたら、ミュージカル、"Promises Promises"で歌われた"A house is not a home"のLuther Vandrossのカバーでしょうか。Dionne Warwickももちろん歌っていますけど、Lutherのバージョンはあまりにも有名なので。

BacharachとWarwickのライブ演奏で、What the World Needs Now Is Love と メドレーで、Walk on By/ Do You Know the Way to San Jose/ I Say a Little Prayer/ I'll Never Fall in Love Again/ Don't Make Me Over/ Alfie


それから年月を経て、もう一度二人で演奏。


80年代の大ヒット、ディオンヌ ワーウィック、スティービー ワンダー、エルトン ジョン、グラディス ナイトの豪華メンバーによる、”That's What Friends are for"


意外な人にも曲を提供。映画音楽のテーマ曲として大ヒットしたChristopher Cross, "Arthur's Theme"


映画音楽といえば、ロバートレッドフォードとポール ニューマンの「明日に向かって撃て」のテーマ、"Rain Drops Keep Falling on My Head".


もう一つ、ジェームス ボンド映画のテーマ曲、"The look of love"


カーペンターズのBachrach メドレー:


Austin Powers映画にゲスト出演

そしてLuther Vandross版、"A house is not a home".  Warwickの前で歌っています。

振り返れば、バカラックがヒットを飛ばしていた60年代から80年代は、日本経済も成長から成熟期に入りつつある時期で、TVでも歌謡番組も複数あって、アイドル歌手のバックにビッグバンドやストリングス オーケストラのゴージャスな伴奏がつくような時代でした。Bacharachの曲というはその頃のキラキラした時代の雰囲気を纏っていて、今、聞き返すととても懐かしい気持ちになります。
ま、キリがないのでこの辺で。

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無常小唄

2023-02-14 | Weblog
先日、法事があって久しぶりに冬の京都に来ました。前回、京都を訪れたのは多分7-8年は前で、その時は、京都出身の人への手土産に「満月」の阿闍梨餅を買うのと、高校以来行ったことがなかった清水寺を訪れたいと思ったのが理由でした。

そんなわけで商店が開き出す前の朝、河原町から四条通りを円山公園裏にある寺院に向けて歩きました。気候もよく、爽やかな青空が広がり、鴨川の水の流れも昔のまま。空も川も変わらぬのに、人は長い人生をあっという間に過ごして土に帰るのだな、と法事のことを思いながら鴨川の西の川べりに並ぶ店々を裏から眺めなていたら、「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も」というお馴染みの歌の一節を口ずさんでいました。この後に続く歌詞が「雪に変わりがないじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ」であることを思い出し、この小唄の出だしの歌詞の意味深さに打たれたのでした。どんな人間でも、死んで焼かれて白い灰になってしまうが、魂は形を変えて続いていくのです。この男女の掛け合いで歌われる歌の内容は芸者と客との恋愛という俗な話ではあるのですけど、それもまた意味深い気がします。西田幾多郎も「志を高くして、俗に還るべし」と言っていたように思いますし。

晴天に恵まれたとはいえ、寺院の中は冷え切っています。観光地でもあるので、観光客と説法を聞きにくる客、法事でくる人々がいり混っています。法要は数組が一緒に本堂で大勢の僧による法要に出席した後、小さな別棟に移って今度は個別に別の僧による読経という二段階ベルトコンベア方式。法要が終わり会食が済んだ午後には流石に人通りが増え、昔と同じように、四条通りの歩道は人で溢れかえり、道路は車で大渋滞し、鴨川べりはカップルが並びして、この風景は何年経っても変わらないものだなと思いました。

移動のタクシーの運転手が言うには、コロナの後、京都を歩く人の姿は一変したそうです。国内の年配の観光客がいなくなり、中国からの団体客が姿を消し、今、街を歩いているのは主に日本の若者なのだと言う話。彼らの多くは外からの流入組で観光客というわけではないのだと。つまり、京都は学校が多いので、各地からやってきた若い人が、大学を出た後もそのまま就職するケースが少なくなく、若者の単身世帯が増えたのだそうです。休みに街を歩いている人はほとんどが余所者だということです。大学街がリベラルで若者が多いというのは世界中同じですね。
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貧しさの罪

2023-02-08 | Weblog
前の続きのようなものですけど、定年退官後に私設の研究室を作りライフワークを追求されてきた先生は、その数年で研究に一億円ぐらいの私財を使ったという話をされました。生物系の研究というのはお金がかかりますから、そこに公的補助がなければ、最小限の研究室でも普通、個人では運営できません。先々月にお会いしたK大を辞めて小さなベンチャーを立ち上げた人も年間の運営コストは数千万はかかっていると思われます。機材の費用を加えずとも、最低限の規模の研究室のランニングコストは、研究室の家賃、光熱費、研究員一人の人件費、実験のための消耗品や試薬類で、月に最低、100-200万円ぐらいはかかるでしょう。加えて、中古で揃えるにしても機材の初期投資と維持に一千万以上は通常かかるでしょうから、普通の人が個人で生物学研究をするのは無理です。まして、最近の論文などで多く必要とされる高価な実験については、大きな施設の共同研究や商業サービスへのアウトソースなどが必要で、物理的にできないということもあるでしょう。加えて大きいのは環境で、大学などで専門家や必要なスキルを持った人材や論文アクセスなど、知的インプットや研究への補助が容易に得られないという状況では、なかなか十分な研究はできません。

もちろん歴史を遡れば、インスタント ラーメンが自宅の研究室で一人の人によって生み出されたように、多くの革命的な研究が個人の地道な活動によって始まっています。しかし、現在は、食品の研究は企業の研究室で高度技術を用いてなされているのと同様、生物学研究においても高度な実験技術や設備を必要とされており、個人のアイデアと努力に加え、環境や金というものが第一線の研究には必要です。

大学を離れて定年後にも実験的研究を続けようとすると、この先生のように財力とやる気と時間がなければ、実質、不可能です。しかし逆に言えば、金さえあれば可能です。アメリカのBroad Instituteは約二十年前、2年前に亡くなった事業家Eli Broadの資金によって設立されましたが、今やこの研究所は、二人の中国系CRISPR研究者の成功もあって、アメリカトップのバイオ技術研究所として君臨しています。優秀な人材と環境に加え、Broadの資金は不可欠でした。Broadの資金がなければ、これらの科学の成果もCRISPR遺伝子治療もなかったかもしれません。

金は価値あるものと交換することができます。研究や知的活動に必要な「価値あるもの」を(人材も含め)集め、組み合わせて、さらにより大きな価値をもつものを作り出すために、金というツールは現代社会では不可欠です。

金は「価値ある実体」との交換を通じて、価値を組み合わせてさらにおおきな価値を創造していくための触媒ですから、「金のない」こと、すなわち「貧乏」は、価値を作り出す能力が低いことに直結しています。この点において、金のあることは良いことであり、貧乏は悪いことです。

貧乏、それが今の日本です。日本は、自国通貨を持ち、無から金を生み出して政策を通じて金を社会に回す能力を持ちながら、まともな経済政策を行ってきませんでした。不況で金が回らず国民が困窮し、社会にばら撒きが必要なときに「ばらまき」という言葉を絶対悪かのように批判し、さらに景気を悪くし失業者とワーキングプアを増やしました。ようやく金融緩和をしたと思ったら、その金を一部の利権企業や政権自身に還流させることばかりを優先し、一般社会の金不足は放置、そのあげくにその分を一般国民から消費税増税によって埋め合わせるという悪行ぶり。結果、不況はますます深刻化し、最大の日本の資源と言える優秀な人材は見合った報酬を求めて海外流出が止まらないという状況を生んできます。金のないところに優秀な人は集まらず、価値を生み出す能力は更に制限され、ますます貧乏が加速するという状況です。それでもなお、財務省と自民党政府というカルト集団は緊縮財政をやめず、プライマリーバランス教を流布し、無理やり献金させて国民生活庭崩壊し、財政が健康なら国民が飢えて死んでも構わないとでも言わぬばかりに増税に邁進。これが今の日本です。

そんな政策の失敗によって貧乏になった日本が30年間ずっと衰退がとまらないのは、結局はこんな政権を放置してきた国民の責任でありますが、もう一つの原因は、「貧乏」に対する警戒心が日本人に足りないせいではないかとも想像します。

戦後八十年経ってそれなりに豊かな時代を過ごしてきた日本は、かつて、貧乏のために、老人を山に捨てに行ったり、生まれた子供を間引きをしたり、娘を売ったりした時代があったことは、物語や映画の中だけの話だと思っている人が大半ではないでしょうか。しかし、そんなお話の中の貧乏が現実になりつつあります。

加えて、「ワビ、サビ」とか「清貧の思想」とか「一杯のかけそば」とか、貧乏くさいことに意味を見出そうとする日本人の性向があると思います。これは、貧しさの中で心を軽くするための方便であったのではないかと私は解釈しています。一杯のかけそばを三人で分け合うよりも、一人ずつ、デザート付きの天ぷらそばを味わう方が普通はいいに決まっています。思いやりや分け合う心を学ぶのに実際に貧乏である必要はないです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとも言いますから。

貧乏は物語や歌の中だけで十分です。ユーミンが四畳半フォークと名付けたジャンルの音楽がかつてありました。そこでは、寒い冬に風呂がないので銭湯に行ったら待たされて湯冷めしてしまったり、電車が通ると裸電球が揺れたりするアパートに住んでいたり、という貧乏自慢が繰り広げられるわけですが、それらの歌の主人公たちも、無論、死ぬまでそういう環境で生活したいと思っているわけではなく、むしろ、近い将来に豊かな生活を送れる日がきて、貧乏は過去の思い出になっていくという希望が意図されているからこそ、歌として成り立っているのだろうと思います。

ともかく、こうした日本人の「貧しさ」への心情的な親和性が、今日、日本が貧しい理由の根本原因の一つとしてあるのではないだろうかとも思ったりしています。これによって、貧乏なのだから、みんなで我慢しよう、欲しがりません勝つまでは、というような言葉が真面目に語られるような状況につながったのかもしれません。

貧しさを警戒し、克服すべき対象と考え、それを無くすために、権利を主張し連帯して社会を変えようとするのではなく、逆に、貧しいなら「我慢」して、それが辛ければ「いっそ、きれい」に死んでしまう、こういう心理は他の民主主義国家に住む人々には理解できないでしょう。

世界が経済的につながっている中で、日本以外の国は豊かさを求めて成長を続けてきています。そんな中では、いやでも諸外国と同様の価値観を共有していく必要があり、日本だけ「清貧」がどうとか「ワビサビ」とか言っているわけにはいかないし、コロナで諸外国が財政赤字を積み重ねても不況を克服しようとしている時に、日本だけ国民経済を支えるどころか、「財源が」と言っては逆に増税するようなバカなことをやっていては未来がないです。

貧乏は「がん」のように徐々に体を蝕み、気づいた時には脳に転移していて心さえも破壊するような病であるというぐらいに考えておくべきではないかと思います。

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尊敬を新たにした日

2023-02-02 | Weblog
引っ越しや手続きや何やらで忙しくあっという間に時間が経ってしまいました。
とりあえず何とかなっています。
昨日は同門の先輩先生、お二方とお目にかかりました。お一人の先生が、自然に囲まれた美しい土地の病院を建てられ、そこにもうお一人の先生が後から参加されたという形になっています。

お二方とも大学を離れた後も研究活動を継続されていて、その病院には研究設備もあります。それは後から参加された先生の私設研究所を移転したものです。その先生はもう70歳半ばのはずですが、週5日フルタイムで働いていて、最近、ライフワークであるとある自己免疫疾患の治療につながる分子の同定の論文をC紙系列の雑誌に出版されたところです。元々は出身大学の教授をされていましたが、学内の政治的ゴタゴタに嫌気がさして他大学に移り、任期後は私設の研究所を作って実験されていたとのこと。かなりの私財も注ぎ込んで、この論文は産み出されており、ご本人がトップで責任著者です。その情熱と行動力にはすっかり敬服しました。

もう一人の病院理事長の方は整形外科医で、70近いはずですが、現役で手術室に入り、研究室の方も研究員を雇って続行中。研究には金がかかりますし、公的研究費の取得は年々難しくなり、年齢差別などもあります。そんな困難にも関わらず、私財を注ぎ込んで研究を追求する姿勢というのは眩しいばかりです。

人間、生きている以上は何かして日々の暇を潰さないといけませんから、昼間からビールを飲んでダラダラ過ごすよりも、研究したり患者さんを診たりする方が好きというなら、それは素晴らしいことです。ビールを飲んでダラダラするのはビール屋に多少儲けてもらうぐらいの社会的効果しかありませんけど、研究して論文を出し知の蓄積に貢献し、患者さんを診て地域医療に貢献するというのは、ビール ダラダラに比べてはるかに社会と人々の役に立っています。

その話の時に、先々代の教授が最近亡くなったと聞きました。90歳は超えていたはずですが、現役時代はなかなか強烈な人でした。しかし、研究という点に関しては純粋で猪突猛進的なところがあって、この方も退官後、私立の病院に臨床研究する部門を作って、データを集め自分で国際学会に演題を出しては発表するということをされていました。学会というものは基本的に社交会場であり、いわば温泉旅行みたいなものです。発表するのは通常、学生や若手で大教授はそれを見てアレコレ言うだけの立場。80歳になっても国際学会にやってきてずっとポスター会場にいるこの大先生を見て、現役時代を知っている多くの人は勉強熱心だなあと感心していたものです。しかし、ポスター会場にいる理由が実は自分自身の研究を演者として発表するためだったとは、さすがに誰も思わなかったようです。

私よりもさらに大先輩たちが、とうに引退年齢を越えてからも、純粋に研究や地域医療を追求し続ける姿は尊いというほかありません。このような一途さがかつての高度成長を支えた日本の底力なのではないか、と思ったりします。

私も昼ビール ダラダラ計画を見直す必要があると思わされた日でした。
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自業自得

2023-01-24 | Weblog
というニュース。

「政府は、防衛力の抜本的強化を柱とする新たな国家安全保障戦略を実施に移すため、世論説得に乗り出す。安保戦略では、中国の対外姿勢を「これまでにない最大の戦略的な挑戦」と表現し、国防への「決意」を国民に求めた。」

マッチポンプもいいところですけど、また怒りが湧いてきました。国会も通さず、国民にも説明せず、勝手に軍拡をバイデンに約束してきた癖に、その負担は全部国民に丸投げした上に、決意を求めるだと、どれだけ厚かましいのでしょう。しかもまるでチンピラ ヤクザのように、弱いものにはとことん傲慢に振る舞うくせに、オヤブンにはとことん従順な忠犬ぶり。人間としてのプライドとか恥の意識とかはないのでしょうか。

これに対し、
小沢 一郎氏、「いま自民党岸田政権が国民に要求しているのは、中身なき無駄遣い軍拡と防衛大増税受け入れへの決意。物価高と国民総窮乏化受け入れへの決意。正に戦前へと着実に回帰していく日本。いまこの国に本当に必要なのは、おぞましき悪政を倒す国民の決意」
山添 拓氏、「まともな外交戦略もなく対外的な脅威を煽り、内政ではコロナも物価高騰も無為無策で自己責任、そして大軍拡大増税。 「欲しがりません勝つまでは」との「決意」を求めるとでもいうつもりか。」
布施 裕仁氏、「全部政府だけで決めた後に「国民に『決意』要求」って順番が違うでしょ」
清水 潔氏、「政府は、ほぼ錯乱状態なのではないのか?」

などと批判。ま、メチャクチャですわ、キシダ。これほどアメリカに対して卑屈なヒラメ総理は見たことがない。その一方で国民生活と日本の安寧にこれほど無関心で非情な男もいないと思います。もうすでに人間ではないのでしょう。ただの操り人形。自分が総理でありさえすればいいとでも思っているのでしょうな。持ち前のみみっちさとチキンぷりが滲み出して、哀れです。

国会も国民の意見も憲法も無視して、閣議決定だけで軍拡を急ぎ、理由も財源もすべて後付けなのは、軍拡を数年以内に完了しないといけない理由があるからでしょう。これだけ軍拡を急いでいるのは、多分、下のアメリカのシンクタンクの報告書に使われている2026年という数字ではないかと想像します。しかし、報告書を見る限りは、この年までに台湾有事がおこるという予測に特に大きな根拠のあるものとは思えません。

そもそも中国は大国でありながら、国境紛争や国内での問題などを除くと、日本と違って周辺諸国へ侵攻するこということをしてこなかった国です。最近では無人島の領土問題争いぐらいですが他国への侵攻というレベルの話ではありません。中国が他国へ侵攻してこなかったは、文化的な理由もあるでしょうけど、なにより中国という国が巨大すぎて共産党政府は国内問題に対処するのが精一杯で外国にちょっかいを出すだけの余裕がないというのが理由ではないだろうかと想像します。

今回、懸念されている台湾侵攻にしても、ちょうどロシアとウクライナとの関係のように、中国政府は、香港同様、いわば中国(国内)の問題だと考えているでしょう。そして、多分、余程の事情がない限り、中国は台湾へ軍事侵攻しようとはしないと思います。

しかるに、世界での軍事的覇権によって、さまざまな国に首を突っ込んでは戦争に持ち込んでビジネスをやってきたアメリカにはそれなりの思惑があるでしょう。アメリカとNATOがウクライナのEU経済圏へ入りたいという意思を利用して対ロシアの軍事戦略に利用したと同じく、もし台湾、フィリピン、日本や韓国に、対中国を仮想敵とした軍拡を始めさせて、中国がそれを脅威に思えば、いくら国外への侵攻に抑制的な中国でもロシアと同じような行動をとるかも知れません。アメリカは我が身に害が及ばない程度の小さないざこざが東アジアで起こってくれることを願っているでしょう。それによって、自らが大きく手を汚すことなく戦争ビジネスは潤い、中国の東アジアの覇権国という地位を牽制できます。貧乏くじを引かされるのは日本。日本のカネでアメリカから武器を買わされ、日本の人員を前線に立たせてアメリカのために戦争をさせられる。その旗振りをしているのがキシダ。
しかし、アメリカも一枚岩ではなく、戦争ビジネスで儲けたい連中と中国との経済交流で儲けている連中の利害が対立しますし、そもそも中国は日本政府のボンクラどもとは違ってそんな安っぽい誘導には簡単には乗らないでしょう。もし、台湾への侵攻が起こるとすれば、中国国内の社会情勢が共産党政府にとってコントロール困難になった場合か、逆に(ま、ないでしょうが)中国国民が一つの中国を希求するというような状況になった場合、いずれにしても中国次第と思います。ウクライナのようにはいかないと思います。

長い前置きでしたが、2026年という年はCSISという日本人にはお馴染みのシンクタンクのシミュレーションに使われた仮定にすぎません。
このシミュレーションでは、アメリカと日本が台湾とともに対抗すれば、台湾の独立は守られると考えられる一方、この戦争に関係した全ての国にかなりの物的、人的損失が出ると計算されるとのことです。

CSISは、自民党の政策を基本的に決めてきたと言っても過言ではないほどの影響力をもっており、このシミュレーションにおいて、日本の自衛隊はすでにアメリカ軍の配下で、中国の台湾侵攻が起きた際に、前線部隊としてアメリカの東アジア戦略の一部として中国と戦うことが想定されています。そこでは自衛隊員も含めた数万人の命が失われると予測されています。

ネブラスカの田舎からウォーレン バフェットによって下される託宣を世界の投資家がおし頂くと同じく、自民党政府はこのシンクタンクの神託を受けて、ヒラメ総理お得意の忖度とごますりでアメリカへの忠誠を示してきたのです。日本人の命と平和と引き換えに。この調子だと、冗談ではなく、キシダは、2026年に台湾有事を「わざわざ」起こさせさえするよう努力するかも知れません。

キシダが、バイデンに「おい、フミオ、焼きそばパン買ってこいよ」とパシリに使われて世界中から笑われるのは自業自得です。しかし、そんな情けないやつに生活を壊されて命を奪われる国民のことを思うと怒りと悔しさが抑えられません。それでもこのクソ政権が選挙で選ばれたものである以上、国民の自業自得と納得するしかないのです。
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Kombucha

2023-01-20 | Weblog
昔からの友人夫妻が夕食に招いてくれました。もう20年以上の付き合いですが家に招かれたのは初めて。しばらく前まで気性の難しい犬がいたので、人は招きにくかったのだという話。大学生の下の娘さんも参加してくれて、ご主人手作りトマトスープのサワークリーム添え、サラダの前菜、メインは、野菜とサーモンのグリル、それからデザートを食べながら夫妻と私との四人でよもやま話。

娘さんは二人ともヴィーガンだそうですが、同席してくれた下の娘さんは、私と同じペスカタリアンへとコンバート中。畜産に必要な餌の生産のための森林伐採で起こる環境破壊を少しでも減らしたいということでヴィーガンとなったが、そもそも社交的な人で、友人との会食などではヴィーガンでは食べれるもの限られ、栄養が確保できないということで今は乳製品、卵と魚は食べるとのこと。

別のところに普段住んでいるお姉さんの方はヴィーガンを貫いていて、かつ非常にアスレティックな人なので栄養に関しては気を使っているらしく、健康食品的な変わったものが色々、家にも置いてあり、勧められたのが発酵飲料の"KOMBUCHA"でした。飲んでみると、これは昆布茶とは全く別のもので、酸味の強い炭酸飲料でした。色々なフレーバーで味付けされていて、最近、流行っているのだという話。悪くない味ですが、そもそもどういう飲み物だろうと思って調べたら、実は、これはかつて大流行した紅茶キノコ由来の飲み物でした。

紅茶キノコは中国が起源と考えら得ていて、それがロシア、ヨーロッパ、そして世界に広まったということ。日本では多分70年代に大流行したのではないかと思います。Wikipediaによると、今回のブームはアメリカ発のようで、2019年のアメリカでのKombuchaは$1.67 billionという巨大マーケットで人気はまだまだ上昇中とのことです。この名前は、戦後に西洋人が紅茶キノコを日本の昆布茶と混同したのが始まりのようです。日本には2015年に名前とスタイルを変えて再上陸したようです。健康にどれだけ良いのかは不明。紅茶キノコのキノコ部分は乾燥させて、食用にしたり、皮革の代替品として使えるそうです。

大昔の子供時代、近所に住んでいた親戚のおばさんが作っていたのを思い出しました。紅茶キノコブームは台風のようにやってきてあっという間に過ぎ去り、おばさんの紅茶キノコ培養もある日突然終わり、キノコは近所の川に捨てられてしまったのでした。そのおばさんは今は自家製ヨーグルトと味噌を作っています。次はキムチでしょうか。
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Rock bottom

2023-01-17 | Weblog
私は批判的に物事を見るタチで、人からは悲観主義すぎると言われますが、単に現状を客観的に評価しようとしているだけで、実際、その現状評価に基づいた今後の予測が大きく外れたことはありません。善因善果、悪因悪果ですから、現状を評価すれば未来がある程度、予測できるのは当たり前のことです。

日本の遠い将来に希望がないとは思っていませんけど、現状を見るとその希望の明かりが見える前に、日本は一旦、落ちるところまで落ちることになると私は感じずにはおれません。客観的に見て、今後、日本が良くなると考える材料が何一つありません。一方で悪くなる原因は山のようにあります。

良い国にしようとする努力をせず、長期的な問題は言うに及ばず喫緊の重大事でさえ、やってるフリしてやり過ごし、自分とオトモダチの目先の利益と権力を最大化することしか考えず、その権力を利用して国民を欺き搾取し国を売り続けてきた腐敗し切った日本の政治、そうした政治を許してきた国民を見れば、今後の日本がどうなるかは火を見るよりも明らかと言わざるを得ません。

建前は民主主義国家ですから、この強烈な政治腐敗が止まらないのは、国民の責任と言えます。政治のレベルは国民のレベルを反映しており、これこそが私が日本は落ちるところまで落ちるだろうと予想する理由です。

国民には何一つ相談せず、閣議決定だけで莫大な額の防衛費増額を決め、戦争放棄を放棄し、自衛隊を米軍の下部組織として差し出して、バイデンの歓心を買おうとした植民地の番頭、キシダがバイデンに肩に手を置かれて卑屈な笑いを浮かべているニュースの写真に、白井さんは下のようにコメント、

白井 聡/Shirai Satoshi @shirai_satoshi:
この表情! だけどね、岸田は日本の民主主義政治システムによって正当に総理に選ばれたんであって、日本国民の代表者なんだ。つまり、この腑抜け面は、鏡に映った日本人そのものなんだよ。 

無邪気な政治家と無気力で疲れ切った国民を乗せたこの日本という泥舟を救うものがあるとすれば何でしょうか。現状と過去を見れば、結論は単純です。「外圧」しかありません。日本人は、世界の誰よりも変化を嫌い、常に現状維持を支持し、個人的モチベーションや時にその生存さえ犠牲にしてでも、周囲に同調したがる民族です。そこへ、山本太郎のような救世主が出てきても、自分の頭で考えることを放棄し現状を変えることを恐れる日本人は、救世主の方を叩くような有様です。

外圧ではなく、日本が自主的に己自身を救える可能性があるとすれば、「れいわ」という山本太郎が一人で立ち上げて育ててきた市民政党を中心とした勢力が政治を動かすようになることだろうと思います。政策的な差はあっても共産党は大きな目標という点で同調するでしょうし、創価学会が公明党を見限ってこちら側につく可能性もあるでしょう。しかし、そんな流れが十分に大きくなるまで、国民は動かない。山本太郎がこれまでに成し遂げたことは、戦後日本の政治史上、驚愕に値することですが、まだまだ流れを変えるほどの大きな勢力にはほど遠い、そのことを最もよく自覚しているのが山本太郎本人でしょう。彼は共産党の秀才議員並みの頭脳を備え、革新的な発想とアイデアを持ち、田中角栄以上の行動力を兼ね備えた逸材ですが、それでも一人の人間にしかすぎません。そして、日本という国が、弱い国民からどんどん海に突き落としていってたとしても、船が沈没しはじめるまで時間がないということもよくわかっているでしょう。

私は日本が再生するには、まずは、一旦落ちるところまで落ちるしかないだろうと感じています。現状のまま衰退を続け自滅するか、外国との戦争に巻き込まれて占領状態におかれるか。いずれにしても一旦、物質的精神的に困窮を極めることになると感じます。

今回のキシダの性急な軍拡と憲法無視によって、台湾有事をきっかけとする中国の東アジア覇権追求への牽制のために、日本が自身のカネと領土と兵力を使って、米軍配下で米中の代理戦争をやらされる危険性が現実味を帯びてきました。アメリカとNATOの対露戦略に利用されて荒廃した現在のウクライナと同様の状況が近未来の日本かもしれません。

石垣島にはミサイル基地が設置されるらしいです。大袈裟に言えば、これはキューバ危機に喩えられるかも知れません。これが万が一、エスカレートして米中の軍事対立に達するとしたら、まず最初に起こることは、日本にある在日米軍、自衛隊駐屯地が攻撃をうけ、沖縄と南西諸島を中心にかなりの被害を出した後、日本政府が再び負けるとわかっている戦争に全面的に突入しまうことでしょう。そして、当然、国土は荒廃し、その後は米中(露)による実質的な分割統治に落ち着くのではないだろうかと想像します。再生が起こりうるのは一旦、焦土になってからだろうと思います。それが嫌なら、日本が自ら変わらねばなりません。しかし、その可能性は現状のところとても低いと思わざるを得ません。
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先人

2023-01-13 | Weblog
ヒストン修飾が遺伝子の活性を調節するという仮説から一大パラダイムが確立されたのは、おそらく2001年のDavid AllisのScienceの論文において、"Histone Code"という言葉が使われて広まったからではないかと思います。

修飾ヒストンの存在はもっと以前から知られていましたし、ヒストンの修飾が遺伝子への転写因子のアクセスに影響することも知られていました。しかし、世の中の流れというのは、一つの言葉で変わるもので、以後、最近まで続いたエピジェネティクス ブームはまさにこの言葉で始まったのではないか、と振り返ると思うわけです。そして、David Allisはエピジェネティクス研究のアイコンとなり、2018年にはラスカー賞受賞に至っています。

それから五年、彼の訃報を聞きました。71歳だそうです。71歳といえばまだ若い方ですけど、早い人は50前からボツボツと癌や病気で死に始めるわけで、私がAllisの年まで生きている確率は5割ぐらいではないだろうかと想像します。私がその年に達するまでの年数と、その同じ年数を遡った昔の頃のことを思い浮かべると、おそらく時間はあっと言う間に過ぎていって、気がついたら死んでいた、という状態になっているのではないだろうかと想像します。

約10年近く前に、ある珍しい脳腫瘍がヒストンH3の27位のリジンのメチオニン変異によって起こされることが彼のグループから発表されて、その後、この変異に関する研究が続々と続きました。このH3K27というアミノ酸の修飾の意義はヒストン コードの中でもとりわけ有名なもので、そのアセチル化は活性のあるエンハンサー領域を非常によく予測し、3メチル化は不活性な遺伝子領域を予測します。ヒストンH3は多くの遺伝子によってコードされていますが、その一つにだけでも修飾不能になる変異が起こるとがん化するぐらいのインパクトがあるというのが興味深く、私も自分の分野に応用して、簡単な実験をするために、彼の研究室からプラスミドを分けてもらった覚えがあります。あいにく、私は以来エピジェネティクスからだんだんと離れしまい、結構手間をかけてやった実験データもおクラになって、発表する機会を失い、そうこうする間にブームも下火となっていきました。それだけの水よりも薄い縁ですが、私にとってお手本とすべき研究上の先人の一人でありました。

科学者に限らず、どんな偉大な業績を残した偉人もいつかは死に、やがて歴史の中に忘れ去れれていき、教科書の片隅に名前が残るだけの存在となっていきます。でも、死んだ人のことを思うとき天国にいるその人の上には花吹雪が舞うのだそうです。
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