人生は修行の場で、それが終わったら、天国で楽しく過ごせる、というのが私の信条で、これを信じているので、私は、現世を、まずまず楽しく生きております。しかし、数ヶ月前に引っ越をしてから、最近、ちょっと困った隣人に悩まされています。それで、これは修行の一つに違いないと思って、この困った隣人を神が私に与えた意図は何かを読もうと努力してきているのですけど、ちょっと読めません。
世の中にはソリやウマの合わない人というのが必ずいて、たいてい、その場合、言外に共有しているはずの常識というものに思いもしないような差があるのだと思います。例えば、笑顔ややさしい言葉というのは、普通、友好やおもいやりのしるしであると私たちは思っています。しかし、場合によれば、詐欺師や政治家のポスタ-を思い出すまでもなく、笑顔が異なる意味を持つ場合も考えられます。昔、私が、友好さを示すために微笑むと、「何をへらへら笑っているのだ」と怒り出す人にであったことが何度かあります。一方、アメリカでは、全く知らない他人でも、目が合えば微笑むという習慣がありますから、目があったのに微笑みもせず、挨拶もしないと、これは敵意を示していることになります。
以前、「笑いながら怒る人」というのを持ち芸にしている芸人さんがいましたが、こういうシニフィエとシニフィアンの不一致とでも言うようなものは、予告無く現実に起こるとかなり不気味なものです。例えば、私は「嘘をつくことは良くないことである」と思っており、「嘘つきは泥棒のはじまり」と教える社会で育ったわけですけど、世の中には「自分の利益を守るために、嘘をついたり他人を利用したりするのは当然の権利である」というのが常識の人々もいるようです。こういう常識の不一致による揉め事を回避するために、法律とか決め事があるわけですけど、当然、後者の人々は、「自分の利益を守るためには、法律に違反するのは悪いことではない」とも思っていますから、やっかいです。
そうした常識の基盤が異なる人々に対しては、私は常に、「君子危うきに近寄らず、鬼神は敬してこれを遠ざく」という経験上の智恵を以て、対処してきました。然るに、危うきの方が向こうからいきなり近づいて来て、鬼神は敬しても遠ざかって行ってくれないなら、どうすべきか、というのが最近、私に与えられた問いというわけです。
昔、さだまさしの関白宣言で、「姑、小姑かしこくこなせ、容易いはずだ、愛すればいい」という歌詞がありましたけど、「愛すること」がたやすいのなら、世界に戦争はありません。(ところで、私は、彼の作詞家、作曲家としての才能には、感服しております)「汝の隣人を愛せよ」とわざわざイエスが言うのは、それが極めて困難である場合が多いからでしょう。隣人を除く地球の全人類を愛する方が隣人を愛するよりも、しばしば容易いです。それで究極的には、「汝の隣人を愛する」ことで隣人との問題が解決できれば理想なのですけど、愛憎という感情の問題は理屈でどうなるものでもありません。私はそういう時は、あぶない人には、近寄らないようにしているのですけど、ことが隣人の場合はそれも難しいというジレンマがあります。
しばしば、人は憎しみ合います。誰かが自分なり自分の側の人間に害をする場合、左の頬をも差し出すのは易しいことではありません。そんなとき、私は「世界は劇場である」というシェークスピアの言葉を思い出します。世界という舞台の上で、悪人は悪人の役を演じており、善人は善人の役を演じているだけで、彼らは本当は悪人でないかもしれず、善人でないかもしれない、そう思うと、たとえ自分に困難をもたらす困った人間でも、同じ舞台に立つ役者同士としての親密感も持てるような気がしないでもありません。「汝の敵を愛せよ」という言葉にも無理があります。そもそも多くの場合は、愛せないで、憎らしいから敵なのであって、愛することができるような人間なら最初から敵にはならないはずです。親が敵同士のために、本当は愛しているのだけど、敵である、というようなロミオとジュリエットやトニーとマリアのような状況は多くないでしょう。憎らしい隣人に無理にやさしさで応えようとしても、それは精神に負担を強いるだけです。世界は舞台であり、憎らしい隣人は、そういう役を演じていて、自分を悩ませるのはそういう役回りなのだ、自分が隣人に悩まされるのは、そういう台本の筋なのだ、と観客の立場で眺めれば、多少、気分も晴れてきます。いずれ、劇は終わりますし、緞帳が下がれば、あとは楽しい打ち上げが待っているのだろうと思います。
そんなことを考えていたとき、ふと、昔に小説版で読んだ、つかこうへいの「熱海殺人事件」を思い出しました。スタイリストの部長刑事が冴えない殺人事件の犯人を一流の犯人に育て上げるという話ですが、この演劇が、シェークスピアの「世界は劇場である」という言葉とだぶっていることに、今まで気がつきませんでした。
犯人は「みんなのために、もっと犯人らしい犯人を演じなければならない」という舞台監督の部長刑事に演技を指導される、というわけです。「熱海殺人事件」の一つのテーマは、たぶん「世界は劇場である」ということであり、いわば、「劇を演ずる役者についての演劇」という入れ子構造を持つ「世界劇場」のパロディーなのでしょう。
世の中にはソリやウマの合わない人というのが必ずいて、たいてい、その場合、言外に共有しているはずの常識というものに思いもしないような差があるのだと思います。例えば、笑顔ややさしい言葉というのは、普通、友好やおもいやりのしるしであると私たちは思っています。しかし、場合によれば、詐欺師や政治家のポスタ-を思い出すまでもなく、笑顔が異なる意味を持つ場合も考えられます。昔、私が、友好さを示すために微笑むと、「何をへらへら笑っているのだ」と怒り出す人にであったことが何度かあります。一方、アメリカでは、全く知らない他人でも、目が合えば微笑むという習慣がありますから、目があったのに微笑みもせず、挨拶もしないと、これは敵意を示していることになります。
以前、「笑いながら怒る人」というのを持ち芸にしている芸人さんがいましたが、こういうシニフィエとシニフィアンの不一致とでも言うようなものは、予告無く現実に起こるとかなり不気味なものです。例えば、私は「嘘をつくことは良くないことである」と思っており、「嘘つきは泥棒のはじまり」と教える社会で育ったわけですけど、世の中には「自分の利益を守るために、嘘をついたり他人を利用したりするのは当然の権利である」というのが常識の人々もいるようです。こういう常識の不一致による揉め事を回避するために、法律とか決め事があるわけですけど、当然、後者の人々は、「自分の利益を守るためには、法律に違反するのは悪いことではない」とも思っていますから、やっかいです。
そうした常識の基盤が異なる人々に対しては、私は常に、「君子危うきに近寄らず、鬼神は敬してこれを遠ざく」という経験上の智恵を以て、対処してきました。然るに、危うきの方が向こうからいきなり近づいて来て、鬼神は敬しても遠ざかって行ってくれないなら、どうすべきか、というのが最近、私に与えられた問いというわけです。
昔、さだまさしの関白宣言で、「姑、小姑かしこくこなせ、容易いはずだ、愛すればいい」という歌詞がありましたけど、「愛すること」がたやすいのなら、世界に戦争はありません。(ところで、私は、彼の作詞家、作曲家としての才能には、感服しております)「汝の隣人を愛せよ」とわざわざイエスが言うのは、それが極めて困難である場合が多いからでしょう。隣人を除く地球の全人類を愛する方が隣人を愛するよりも、しばしば容易いです。それで究極的には、「汝の隣人を愛する」ことで隣人との問題が解決できれば理想なのですけど、愛憎という感情の問題は理屈でどうなるものでもありません。私はそういう時は、あぶない人には、近寄らないようにしているのですけど、ことが隣人の場合はそれも難しいというジレンマがあります。
しばしば、人は憎しみ合います。誰かが自分なり自分の側の人間に害をする場合、左の頬をも差し出すのは易しいことではありません。そんなとき、私は「世界は劇場である」というシェークスピアの言葉を思い出します。世界という舞台の上で、悪人は悪人の役を演じており、善人は善人の役を演じているだけで、彼らは本当は悪人でないかもしれず、善人でないかもしれない、そう思うと、たとえ自分に困難をもたらす困った人間でも、同じ舞台に立つ役者同士としての親密感も持てるような気がしないでもありません。「汝の敵を愛せよ」という言葉にも無理があります。そもそも多くの場合は、愛せないで、憎らしいから敵なのであって、愛することができるような人間なら最初から敵にはならないはずです。親が敵同士のために、本当は愛しているのだけど、敵である、というようなロミオとジュリエットやトニーとマリアのような状況は多くないでしょう。憎らしい隣人に無理にやさしさで応えようとしても、それは精神に負担を強いるだけです。世界は舞台であり、憎らしい隣人は、そういう役を演じていて、自分を悩ませるのはそういう役回りなのだ、自分が隣人に悩まされるのは、そういう台本の筋なのだ、と観客の立場で眺めれば、多少、気分も晴れてきます。いずれ、劇は終わりますし、緞帳が下がれば、あとは楽しい打ち上げが待っているのだろうと思います。
そんなことを考えていたとき、ふと、昔に小説版で読んだ、つかこうへいの「熱海殺人事件」を思い出しました。スタイリストの部長刑事が冴えない殺人事件の犯人を一流の犯人に育て上げるという話ですが、この演劇が、シェークスピアの「世界は劇場である」という言葉とだぶっていることに、今まで気がつきませんでした。
人を殺したからって犯人になれるわけじゃない。犯人にふさわしい人間でなければ犯人にもなれない。事件は犯人と被害者だけのものじゃない。刑事、警察、弁護士、裁判官、新聞記者、国民―みんなのものだ。がんばって、みんなに満足してもらえる立派な事件、立派な犯人にならなければならない。そのためには犯人も刑事も取調べではすべてをさらけ出し助け合う
犯人は「みんなのために、もっと犯人らしい犯人を演じなければならない」という舞台監督の部長刑事に演技を指導される、というわけです。「熱海殺人事件」の一つのテーマは、たぶん「世界は劇場である」ということであり、いわば、「劇を演ずる役者についての演劇」という入れ子構造を持つ「世界劇場」のパロディーなのでしょう。