百醜千拙草

何とかやっています

レヴィ=ストロース、再び

2009-12-29 | Weblog
12/17日号のNatureの訃報欄で、10/30に亡くなったレヴィ=ストロースが取り上げられていました。Yale大学のAdam Kuperという人が書いています。民俗学者とは言え、彼の仕事は主に哲学的意義を評価されたわけで、彼の訃報が、自然科学の雑誌であるNatureに取り上げられるのは、その分野を越えた影響力を表しているのではないかと想像します。一方、数年前に同様の自然科学雑誌であるScienceでは、アメリカ構造主義言語学にかわって生成文法を提唱したNorm Chomskyが著者の一人として、総説を書いているのを見たことがあります。しかし、Chomskyの場合は、言語学とはいっても、言語学者から言わせると彼の言語学は科学なのだそうです。

以下、レヴィ=ストロースの訃報欄の記事の抜き書きと多少捕捉と感想(括弧)。

1908年生まれ、ソルボンヌで法学と哲学を学ぶ。1935年、サンパウロ大学に赴任(この時の話が、後、「悲しき熱帯」になります)。ジャン ジャック ルソーはかつて、文明の現れる前の人間を研究することで、人間の真の性質がわかるのではないか、と言い、レヴィ=ストロースは、その仮説を確かめたいと考えた。
 このブラジル紀行は本にもあるように、期待はずれのものと終ったが、フランスへ帰ってすぐ、ドイツのフランス侵攻があり第二次世界大戦が勃発、アメリカのニューヨークへと難を避け、コロンビア大学民俗学研究サークルの非公式なメンバーとなる。ニューヨークで、同様にヨーロッパから逃げて来たロシア人言語学者ヤコブソンと親交を持つ。(ヤコブソンはソシュールに始まるフランス構造主義言語学の流れを汲んでいます)ヤコブソンは言語の音声を最小単位(Phoneme)へと分解して解析するという仕事をしていたが、最小単位の音声にも対立する二つの要素があることを見いだした(二項対立)。このことから、レヴィ=ストロースは、分類のシステムというものは、同様に二項対立をベースにしているとの議論を展開した。
(ところで、私は、生物科学においても、生命の基本のロジックは二項対立であろうと思います。細胞は一つが二つに別れることによって増殖ますし、数々の複雑な生命現象も、プラスかマイナス、上がるか下がる、という基本的にバイナリーな反応の組み合わせ、積み重なりで多くの生命現象が説明可能なのではないか、と思います。一がニ(三や四ではなく)になることが、生物学的多様性と複雑さの根源となっているのではと考えています)
 1949年にパリに戻り、近親相姦がタブーとされることが、自然と文化とを分ける指標(動物的存在としての人間と社会的存在としての人間との差ということでしょう)であると述べ、このタブーが、男にその姉妹を別の男と交換することを強制することによって、社会のネットワーク(つまり、文化ですね)を形成するのであるという説を発表した。(もしも、近親相姦がタブーでなければ、人間は他の血族と交流する必要がなくなり、よって、「自己」で閉鎖してしまって、社会を形成する力が働かない、ということでしょう)そして、ここにも、結婚不可能な親族と結婚可能な姻戚という二項対立の構造が見られる。
 1959年、パリのコレジュ ド フランスの代表となり、一連の思考のシステムについての著書を出す。実存主義を批判し構造主義の地位を不動のものとした「野生の思考」では、アメリカ、オーストラリアやアフリカの原住狩猟民族は”logic of the concrete” (具体思考法とでも言うのでしょうか?) と彼が呼ぶ思考法を使うことを報告している。つまり、具体的に存在する周囲のもの、(例えば、太陽と月のような)のイメージを、二項対立で並べるのである。多くの言語で、太陽は男性を指し、月は女性を意味する。このような言葉や(もの)の分類は、社会における対比、性別、職業などを象徴することになる。
 1964年から、彼は、アメリカ神話の研究についての連作を発表し出す。ここで、二項対立を基本にする分類のシステムが、神話の世界においても同様に存在していることが示される。彼は、「神話的思考における論理というものは、近代科学での論理と同様に厳密なものである。神話と科学との差は、その論理性や知的プロセスにあるのではなく、それが適用されるものの性質にあるのである」と述べている。(これは、ユングが精神病患者の話に神話と同様の類似構造を見いだしたという話を思い出させますね)
 レヴィ=ストロースの理論は野生と文明の二項対立の上に生まれた。彼は、野生は環境への適応であるが、文明(文化)社会は、環境と文化の多様性の破壊であると信じていた。この悲観的世界観にもかかわらず、彼は、つまるところ、人間は皆、結局は同じように思考し、そして、文化のぶつかり合いというものは人類の適応にとって必要なものである、と考えていた。

(民俗学者でも言語学者でもない私にとって、レヴィ=ストロースの仕事の内容が直接的に仕事に影響することはありませんが、彼の人生やその仕事の発見のきっかけになった歴史的な経緯をなぞっていくことによって、見えてくるものは興味深いです。もし、ブラジルに行かなかったらどうなっていたか、もし第二次世界大戦がおこらなくて、ニューヨークは亡命することがなかったらどうなっていたか、もしニューヨークでヤコブソンと出会うことがなかったらどうなっていたか、そんなことを考えると、数々の些細な出来事の歴史的必然性というものを実感します(当たり前ですけど)。そして、ブラジルの僻地で大した成果もないまま、昔の同僚が出世して行くのを横目にみながら、「自分は何のためにこんなことをしているのだ?」という疑問にさいなまれたレヴィ=ストロースは、何十年も経ってから初めて、アマゾンのジャングルでの彼の経験の意味を知ったのです。この事実は、私の日々の生活に大変relevantであります)
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