百醜千拙草

何とかやっています

閉塞感

2013-07-09 | Weblog
夏休み中、仕事を忘れて久しぶりに故郷の街中をブラブラしてきました。デパートやスーパーにはモノや人が溢れ、レストランには安くて美味しいメニューが並び、二十年前と変らぬ風景です。豊かで平和に見えます。一方で、フクシマでは井戸から基準値の7倍の濃度のトリチウムが出たとか、汚染水を貯蔵する場所がないとか、バスの運転手が運転中に37歳で急性心不全で突然死したとか、ヤバい話が聞こえてきます。でも、実家の周辺は平和気分でいっぱいです。飽食、モノが溢れる世の中です。フクシマのことがまったく別の国の話のようにさえ、聞こえます。その食べ物は安全ですか?

長くてもあと数十年で私も死ぬわけですが、この二十年前とあまり変らない街の風景を見て、ちょっと気分は少し沈みぎみになりました。あのような重大な原発事故があったのに、まるで何もなかったかのように続くこの一見平和で豊かな社会の中で人々は生まれて死んで行くのかな、と思いました。山梨訪問を断念した雅子さまの気持ちが何となくわかるような気がします。一種の閉塞感でしょう。

テレビには三十年前にアイドル歌手だったおじさんたちが出ているのを二十年ぶりぐらいで見ました。彼らも閉じ込められているのかな、と思いました。この豊かで自由に見える社会は、変らずに存在しているようで、でも、その外ではフクシマの原発事故が収拾もつかずに進行中であったり、改憲して徴兵制にしようと考える危険な政治家が火遊びしていたり、官僚は消費税を上げたりカネの価値をわざと落として物価を上げてみたりと、見えないところでジワジワと危機が進行しているように思います。

一見、二十年間も変らないぬるま湯のような平和な社会にわれわれは生きているように見えて、それは空きカンに張った水の中のことだけなのではないか、と感じたりします。空きカンの外ではその水の温度を段々と上げるために火が焚かれてはじめているように思います。われわれはそのぬるま湯の中で、実はまもなく地獄の釜のようになって茹で上がってしまうことも知らずに、ノンキにつかの間の平和を楽しんでいる、そんなように感じるのです。それがどうも私の感じる閉塞感の原因のようです。モノや美味しい食べ物が氾濫しさまざまな娯楽があって物質的には豊かな社会に見えるのですが、だんだんと外堀から危険が迫っているように気がします。ホントはあまり気にしない方がいいのかも知れません。気のせいかも知れませんし、知らぬが仏とも言いますし。

実家でしみじみと昔の思い出をさぐろうとしてみました。電源を入れたら40年もののステレオは動きました。ためしにそこにセットされていた数枚の45回転のドーナッツ版をかけてみるとちゃんと再生できました。最初のはBOSTONの「Don't Look Back」でした。自殺してしまったボーカルの人、名前忘れましたが、歌うまかったですね。この曲リードギターのリフが子供心に渋いと思っていました。(約35年前のこのレコード買った覚えがないのですが)それからなぜか年代がさかのぼって、モータウンサウンド、テンプテーションズとスタイリスティクスのシングル、プレスリー、カーペンターズ、それから、あべ静江さんの「みずいろの手紙」と天地真理さんの「恋する夏の日」、昔の日本の歌謡曲の編曲はうまくできていますね。
なつかしい音を聞きながら、そのころから今までに流れ去った年月を思いました。それから現在進行中の原発事故のことを考えました。
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