誰にでも痛みや悲しみはあります。Eckhart Tolleによると、それは人類全体に共有さえされているようです。それに飲み込まれてしまわないように、痛みや悲しみそのものを客観的に見て、その存在を認めてやるということを意識的にやってみようと努力はしています。そのために現在の一瞬に集中して余計なことを考えないことが必要なのですが、いろいろな悲しい苦痛なできごと、さらにそのような出来ごとに関するネガティブな自分自身の思考に反射的に反応してしまうのも人間で、なかなか簡単ではないと実感しています。
二日前に、突然、訃報が舞い込みました。
随分前の昔に共同研究で関わってから、よくしてもらった老教授が火曜日に亡くなったということを知りました。87歳でした。10年前まで現役で、引退後も病院のオフィスで論文を読んだりセミナーに出たりという生活をされていましたが、半年ほど前に正常圧水頭症から認知障害をおこして老人ホームに入られていました。
新聞や学会の訃報欄にはまだ元気だったころの笑顔の写真がありました。こういう日が遠からず来るのはわかっていたのに、やはり寂しい気持ちで一杯です。
具合が悪くなって、ホームに入ったという話を聞いてから、ずっと気にはかかっていたものの、結局、お目にかかる機会を永久に失してしまいました。老人ホームは私の住んでいるところから10分もしない場所にあったにもかかわらず、なぜか機会を持ち損なって会いに行けませんでした。
かつては気難しい大教授で、名前を冠した賞が所属先の病院の優秀な研究者に毎年与えられてきました。前回のその賞の授賞講演の時にはすでに状態は悪く、会場には来ることができませんでした。最後に話をしたのは、たぶん数年前のその賞の授賞記念講演のときだと思います。ちょっと挨拶して授賞者の研究についてコメントした際に、にこにこしながら「君もそのうち、(賞が)もらえるよ」と冗談を言ってくれたのが最後です。それから数年、私の研究は低空飛行のままで、研究費をもらうのも苦労して、先行きは全く不透明なまま、まったく胸を張れるような状態ではありません。あるいは、だからこそ、よくしてくれた大教授が認知障害でホームにいるところへ会いに行くのが気が引けたのかも知れません。それでも顔を見に行っておくべきだったと、どうしようもなくなった今になって後悔しています。
そんな話を、訃報を知らせくれた人にしたら、「彼はもう昔の彼ではなくなっていたのだよ」と言われました。どういう意味でそう言ったのだろうかと思いました。人を認識する力も失ってしまっていて、会った所で彼にはわからなかっただろうという意味なのでしょう。ならば、会いに行くのは単なる私の自己満足にすぎません。かえって迷惑になっていたかも知れません。それでもやはり行っておくべきだったと感じます。週末にずっと胸騒ぎがしていたのはこれだったのかと思いました。
しかし、私は魂の不滅を信じています。教授は、今ははっきりとした頭で苦しみのない世界で微笑んでいるだろうと想像しています。
二日前に、突然、訃報が舞い込みました。
随分前の昔に共同研究で関わってから、よくしてもらった老教授が火曜日に亡くなったということを知りました。87歳でした。10年前まで現役で、引退後も病院のオフィスで論文を読んだりセミナーに出たりという生活をされていましたが、半年ほど前に正常圧水頭症から認知障害をおこして老人ホームに入られていました。
新聞や学会の訃報欄にはまだ元気だったころの笑顔の写真がありました。こういう日が遠からず来るのはわかっていたのに、やはり寂しい気持ちで一杯です。
具合が悪くなって、ホームに入ったという話を聞いてから、ずっと気にはかかっていたものの、結局、お目にかかる機会を永久に失してしまいました。老人ホームは私の住んでいるところから10分もしない場所にあったにもかかわらず、なぜか機会を持ち損なって会いに行けませんでした。
かつては気難しい大教授で、名前を冠した賞が所属先の病院の優秀な研究者に毎年与えられてきました。前回のその賞の授賞講演の時にはすでに状態は悪く、会場には来ることができませんでした。最後に話をしたのは、たぶん数年前のその賞の授賞記念講演のときだと思います。ちょっと挨拶して授賞者の研究についてコメントした際に、にこにこしながら「君もそのうち、(賞が)もらえるよ」と冗談を言ってくれたのが最後です。それから数年、私の研究は低空飛行のままで、研究費をもらうのも苦労して、先行きは全く不透明なまま、まったく胸を張れるような状態ではありません。あるいは、だからこそ、よくしてくれた大教授が認知障害でホームにいるところへ会いに行くのが気が引けたのかも知れません。それでも顔を見に行っておくべきだったと、どうしようもなくなった今になって後悔しています。
そんな話を、訃報を知らせくれた人にしたら、「彼はもう昔の彼ではなくなっていたのだよ」と言われました。どういう意味でそう言ったのだろうかと思いました。人を認識する力も失ってしまっていて、会った所で彼にはわからなかっただろうという意味なのでしょう。ならば、会いに行くのは単なる私の自己満足にすぎません。かえって迷惑になっていたかも知れません。それでもやはり行っておくべきだったと感じます。週末にずっと胸騒ぎがしていたのはこれだったのかと思いました。
しかし、私は魂の不滅を信じています。教授は、今ははっきりとした頭で苦しみのない世界で微笑んでいるだろうと想像しています。