愚痴っぽくなってすみません。ありがちな話しかもしれませんが、実際に当事者になってみると困ります。
実験の一部でコラボしているT大出身の気鋭の若手なのですが、無理筋のセオリーを主張してきてこちらの意見を聞く耳を持たずと状況に陥り、投稿までもう少しという段階で意見が衝突して困っています。
彼の解析データから面白い仮説を思いついて、それでは一緒にその仮説を検討してみましょうということで、彼と私で分担して実験を進めました。確かに美しい仮説で、それが本当ならインパクトは大きく、有名雑誌を狙えそうです。しかし、私の方では仮説を支持するようなデータは得られず、その仮説からは撤退方向でその旨を伝えたところ、彼の方ではその線ですでに実験をかなり進めてFigureも作ってしまったと言われて驚きました。その時点では、彼の方に仮説を支持するようなデータはまだ出ていなかったのです。仮に彼のデータが仮説を支持したところで、私から見て、明らかな問題点が他に複数あるので、それを指摘して、落とし所を相談しようと言っているのに、私には理解不能な理由を挙げて自分の理屈を通そうとしてくるのです。どうも彼の中では有名雑誌に載せたいという気持ちが強くて、美しいが(私には)無理筋にしか見えないのストーリーを押し通そうとしているようです。とにかくT大の優秀な若手のはずなので、こちらの頭が悪いのではないかという仮説も捨てきれず。しかし、自分としては責任著者となる論文に怪しい話は載せたくないわけで。
偏見かもしれませんが、分子生物をやっている人にこの手の人が多いような気がします。つまり、仮説が正しいか正しくないかを確かめるために実験をするのではなく、仮説が正しいことを示すようなデータを得るために実験をしているような人です。そうでなければ、実験データよりも先にFigureができるわけがありません。彼らは、セオリーに都合に良いデータは正しく、都合の悪いデータは誤っていると判断するようです。都合の悪いデータは(何らかの理由で誤っているのだから)無視しても構わない、というトートロジーで、データを選択し、仮説を「証明」するようです。
あるいは、マウスgeneticsでそのphenotypeをリードアウトにする系の実験をする人間と、分子生物学的実験を主にしている人間での「真実」の真実さのレベルが違うのかも知れません。動物のphentoypeは正直でごまかしの入る余地は乏しいですから、セオリーが正しいかどうか、マウスに聞けば大体分かります。しかし、ごく限られたリードアウトを使って、条件をを適当に弄れば、いろいろなデータが比較的簡単に得られてしまうような実験系では、様々なコントロールをおいて様々な条件下で厳密にかつ批判的に仮説をテストするという態度がなければ、容易に複数の真実(仮説が正しいという意味での真実)が作り上げられてしまいます。その厳密さは実験者本人の裁量の部分が大きいので、人によっては、嘘でなければ真実であり、それがモデルに整合性があればモデルは証明されたと考えてよい、という言うような人もいます。極端に言えば、「法に触れなければ、何をやってもいい」という考え方に近いと思います。
「法」は最低レベルの基準、しかし、われわれは倫理が基準の社会に生きており、科学には科学倫理というものが存在します。それはそもそもは他者から強制される類のものではなく、人間、科学者としての高潔さ、つまり、プライドに関わるものです。私はこの二十年、このような科学倫理基準を共有する環境の中で何とかやってきました。
最初はやんわりと言っていたのですが、今や、論理的に納得できる議論にならずに、時にアベや官僚の国会答弁に近いようなレスポンスが返ってきてすっかり萎えました。T大出で有名雑誌に論文をバンバンと発表しているような優秀であるはずの人なのに、これほど、理屈が通じず、強引に自分のセオリーを押し通そうとするのはなぜなのか、成功欲の前には科学者としてのプライドは二の次なのか、彼のC紙やN紙の論文は本当に大丈夫なのか、いろいろとネガティブな感情がストレスになっています。他人と仕事をすることの難しさを実感しています。