先日、「人生はなぜ虚しいのか」というタイトルで思うところを書いたのですけど、その中にも、それからそれを書くきっかけとなった菊谷さんのビデオにも、「なぜ」という問いかけに対する「答え」が示されていません。そのことについても書いておこうとちょっと思ったので。
菊谷さんのビデオでは「なぜ人生は虚しいのか」という問いに対して、いきなり「仏教では人生は虚しいものであると教えている」と説明します。
これは、なぜツイッターをブロックするのか、と聞かれたブロック太郎が「ツイッターにはブロック機能がついているから」と答えたのと一見、相似のように見えるかもしれませんけど、全く異なるものであります。
仏教で人生は虚しいと教えているから人生は虚しいのだ、というのではなく、あえて言うなら、これは、「人はなぜ人生が虚しいのかと問いかけずにいられないのか」という問う側の問題であると思います。これは循環論法のようですけど、この問いを問うこと自体が、まさに人生が虚しいものであるということの証明に他ならないということではないでしょうか。
週末に川べりを散歩したときに見た水鳥は顔を水に突っ込んで水草を食べ、嘴を使って身繕いし、ときどき羽を広げて伸びをし、しばらく休んでは同じことをずっと繰り返していました。毎日毎日、彼らは死ぬまで同じような日々を過ごすのだろうと思いますけど、多分、彼らは「人生はなぜ虚しいのか」と自問自答したり、あるいは「生きているのが辛いから死のう」とも思わないだろうと想像します。ただただ、栄光の生命そのものを生きております。やってくる困難は右から左へと受け流し、受け流せない困難は素直に受け止める、シンプルです。
人生の虚しさを実感して、「人生はなぜ虚しいのか」と問わずにいられないのが人間で、そう問う瞬間に、人生は虚しく、そして、そう問うことによって、人はその人生の虚しさに対処しているのだと思います。