先日、法事があって久しぶりに冬の京都に来ました。前回、京都を訪れたのは多分7-8年は前で、その時は、京都出身の人への手土産に「満月」の阿闍梨餅を買うのと、高校以来行ったことがなかった清水寺を訪れたいと思ったのが理由でした。
そんなわけで商店が開き出す前の朝、河原町から四条通りを円山公園裏にある寺院に向けて歩きました。気候もよく、爽やかな青空が広がり、鴨川の水の流れも昔のまま。空も川も変わらぬのに、人は長い人生をあっという間に過ごして土に帰るのだな、と法事のことを思いながら鴨川の西の川べりに並ぶ店々を裏から眺めなていたら、「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も」というお馴染みの歌の一節を口ずさんでいました。この後に続く歌詞が「雪に変わりがないじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ」であることを思い出し、この小唄の出だしの歌詞の意味深さに打たれたのでした。どんな人間でも、死んで焼かれて白い灰になってしまうが、魂は形を変えて続いていくのです。この男女の掛け合いで歌われる歌の内容は芸者と客との恋愛という俗な話ではあるのですけど、それもまた意味深い気がします。西田幾多郎も「志を高くして、俗に還るべし」と言っていたように思いますし。
晴天に恵まれたとはいえ、寺院の中は冷え切っています。観光地でもあるので、観光客と説法を聞きにくる客、法事でくる人々がいり混っています。法要は数組が一緒に本堂で大勢の僧による法要に出席した後、小さな別棟に移って今度は個別に別の僧による読経という二段階ベルトコンベア方式。法要が終わり会食が済んだ午後には流石に人通りが増え、昔と同じように、四条通りの歩道は人で溢れかえり、道路は車で大渋滞し、鴨川べりはカップルが並びして、この風景は何年経っても変わらないものだなと思いました。
移動のタクシーの運転手が言うには、コロナの後、京都を歩く人の姿は一変したそうです。国内の年配の観光客がいなくなり、中国からの団体客が姿を消し、今、街を歩いているのは主に日本の若者なのだと言う話。彼らの多くは外からの流入組で観光客というわけではないのだと。つまり、京都は学校が多いので、各地からやってきた若い人が、大学を出た後もそのまま就職するケースが少なくなく、若者の単身世帯が増えたのだそうです。休みに街を歩いている人はほとんどが余所者だということです。大学街がリベラルで若者が多いというのは世界中同じですね。