百醜千拙草

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今日の聖書 レビ記

2023-08-01 | Weblog
旧約聖書を順番にボチボチとよみ始めてようやく1/7ぐらいまできました。信仰はないので、記載されている内容を深く考えながら読んでいるわけでも何かを学ぼうとして読んでいるわけでもなく、素人が小説を読むようにカジュアルに読んでいます。科学論文だと、分野が違えば読んで研究論文の内容を正しく理解するのは容易ではありませんから、中東の文化に疎く信仰もない私が、聖書を読んで、その内容を信仰に基づいて毎日聖書を読んでいるような人々と同様なレベルで理解するのは無理だろうと思われます。しかし、正しく内容を理解しないと意味がない科学論文と異なり、聖書に関しては、研究家、信仰者、素人がいろいろな読み方をしても、間違った読み方というものはないのではないだろうかと想像します。書き手でさえ意図しなかった意味を読み手が発見するということもありますし。

さて、旧約での最大の見せ場となっているのは、ヘブライ人のエジプト脱出とシナイ山で神がモーゼに戒めを与えるという一連のエピソードではないかと思います。そのエジプト脱出の顛末を描いた「出エジプト記」に続く章が「レビ記」であって、ここには神がシナイ山でモーゼに語った戒めが非常に細かく記載されています。

様々な事柄に対して、神は事細かに規律や戒めを一方的に取り決めて、モーゼに命令したわけですが、これらの事柄をいちいち覚えて実行するのは不可能なレベルの細かさです。これは神の言葉として書かれていますが、本当は聖書を書いた誰かが神に言わせた言葉であります。その「誰か」とは、思うに、いわば、昔の中東の社会を構成する歴史的空間的人々の集合体からなるメタ人格ではなかったでしょうか。そのメタ人格が聖書を書くにあたって、神に細かく戒めを言わせた意図は何だったのでしょうか?ま、これは、聖書の成り立ち関する私の推測(仮説)による前提に過ぎませんから、実は本当に「神」が存在して、シナイ山でモーゼにこれらのことを語ったのかも知れません。世間には聖書に書いてあることを歴史的事実と信じ、創世記の記載と矛盾する「進化論」を公立校で教えることに反対する人々もおります。

さて、ユダヤ系社会ではいろいろと多くの戒律や決まり事があって、現在でもそれらは伝統的に守られているものも多いです。代表的な例の一つは日々の食品でしょう。ユダヤ教の実践者はKosher foodsと呼ばれる、一定の儀式的な決まりを守って製造または調理される食品を食べることになっています。これらは、ユダヤ人の住むところでは普通のスーパーでも明示されて広く売られており、例えば、kosher meatの場合、反芻動物の体の前半分のみから取った肉のみがkosherであって、それ以外の動物やそれ以外の部位はkosherではありません。動物はshochetと呼ばれる資格をもった者によって一頭ずつ個別に殺され、別の資格者によって検査される必要があり、調理の前には血は綺麗に洗い流されねばなりません。また肉と乳製品は同時に調理したり食べたりしてはならず、それらを調理する調理具もkosherでなければならず、それらは厳密に区別されなければならないとあります。

昔の知り合いのイスラエル人によると、kosher foodsの製造、調理に手順が指定されているのは、昔の中東で生活する人々が、食中毒などの疾病を予防するための生活の知恵であったとのことです。それに強制性を持たせるために、信仰を利用し神からの戒めという形をとっているのだという話。確かに事細かく、いろんな事例において規則が定められているのは、具体的な実益を意図していると解釈するのが自然なのでしょう。

例えばレビ記に次のような言葉があります。
「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一を贖おうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。」

想像するに、これは食料危機などに備えるための備蓄確保のための手段ではないかと思われます。また、利息をつけて返すことを義務付けることで安易に備蓄に手をつけることへの抑制的効果を期待しているのではないかと想像されます。

この言葉に続く下のような言葉はどうでしょう?
「牛または羊の十分の一については、すべて僕者のつえの下を10番目に通るものは、主に聖なるものである。その良い悪い問うてはならない。またそれを取り替えてはならない。もし取り替えたならば、それとその取り替えたものとは共に聖なる物となるであろう。それをあがないうことはできない。」

想像するに、これはおそらく維持する家畜のコロニーの多様性を担保しようとするためのルールではないでしょうか。良い悪いを問わずにランダムに一部を残すことによって、人為的なセレクションによっておこるgenetic driftを抑制し、遺伝的疾患などによる疾病の出現を抑制しようと意図したものではないかと考えられます。

このように考えるとと聖書の時代は、人々が長期的視野に立ってよりサステイナブルな社会を守っていくために、信仰と宗教を通じて規制を実践させる高度に計算されたシステムを持っていたのではないか、と感心させられます。とすると、シナイ山でモーゼが受け取った戒律とは、人類が自然の中で破滅することなく生きのびていく方法を生物学的な経験的知識に則って示したものであると解釈できます。

その表現の裏に意図されている目的を考えれば、モーゼが与えられた神の戒めとは倫理的、宗教的な規律を示したものではなく、もっと現実的で生物学的な実益を意図したものであると解釈するのがしっくりきます。これまで「物語」として聖書を読んできましたが、むしろ実用書としての意味を考えながら読む方が理解が進むのではと思い始めたところです。
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