百醜千拙草

何とかやっています

wrapping up

2023-09-12 | Weblog
週末、山の中の別荘地に住む年配の先生に夕食に招かれました。まだ景気の良かった時代に買って放っておいた土地に家を建てて引っ越されたのことです。標高550メートル、5kmの峠道を降れば海沿いの街に出ます。街への道を逆にもう少し登れば、街の夜景が一望できる展望台もあり、なかなかの絶景です。別荘地と言っても、今は定住者がほとんど、街まではバスも通っていて、道もよく整備されているので、森の中の小さな住宅街という感じ。建っている家のほとんどは洋風の立派な家が多く、バブル期に比べたら随分値下がりしたとは言え、中古物件でもちょっと庶民では手が出ない価格帯です。森の生活がしてみたいという話を私が以前にしたので、どうも自分の住む街を紹介しようとしてくれたようです。

ご夫婦二人の生活で、築数年のまだ新しい平家建ての家の裏側は山と小さな小川に接しているので、裏手は全く人の目がありません。広い玄関を入ると、左手が寝室となっており、寝室から直接繋がって、広い浴室とトイレがあります。浴室は壁全面がガラス張りになっていて、裏の自然の木々や小川を眺めながら入浴できます。右手には広いリビングがありこちらも全面ガラス張りの壁が裏にある大きなデッキと隔てられていて、リビングからも森の景色が楽しめます。その奥には広いカウンターが特徴のダイニングキッチン、それから書斎と書庫の小部屋に続いています。門も雨戸もリビングの壁のスイッチひとつで開閉する電動式。家の周囲の空間には様々な果物の樹が植えてあり、庭で取れたブルーベリーを使った手作りジャムとパイを振る舞ってくれました。休みの日は庭仕事で忙しいとのこと。二台が横に停めれる駐車スペースには、ベンツとレクサスのスポーツカー。昔の言葉で言うDINKsカップルで、雑誌に載っているようなライフスタイルです。

私も、こういう生活はいいなと思います。子育てもほぼ終わり、家のローンも済んだので、多少の余裕はできつつあり、望めば、この先生の半分ぐらいのレベルの生活はできないこともないかもしれません。しかし、悲しいことに、子育て時代の節約習慣が染み込んでいる上に、これまで仕事と生活で精一杯だったため、余裕ができたからといって、大した趣味もなければ、やりたいことも思いつきません。今更、ゴルフや旅行をしたいとも思わないし、おいしいものを食べたいという欲もなく、「僕のソーセージをお食べ」的なことにも興味はないし、絵画、音楽、演劇、スポーツ、コンサートといったことはYoutubeで鑑賞するぐらいでいいかなと思ってしまいます。研究を仕事にしていた時は身近であったいろいろなセミナーを聞くのが娯楽のようなものでしたが、もう直接関わらなくなった今は研究の話はツイッターで流れてくるニュースを流し読みする程度で十分です。

晩年を過ごす土地や家については、少し快適な場所で暮らしたいという希望はあります。ローンを払い終った家は遠からず売るか投資用物件にするつもりで、そこで晩年を過ごすつもりはありません。多分5年以内には、終の棲家を考えることになるはずですけど、静かで気持ちの良い生活はしたいとは思うものの、もはや今更、良い家を建てたいというモチベーションもなく、結局、先生カップルのような憧れの生活に手を出すこともなく、多少の不満を抱えつつも、坦々と日々が過ぎて行って、ふと気が付くと、弱ってしまって何もできなくなっているような気がします。そして老人施設にでも入って、寝たきりになって、ある時、餅をのどに詰めた挙句に誤嚥性肺炎にでもなって、最後を迎えるのでだろう、そんな将来が結構リアルに想像できます。

人生をどのように締めくるか、誰でも考えることだと思いますが、私は無意識に、自分の一生の出来ごとがコヒーレントに纏まって、何らかの意味をなすようなものであって欲しいと思っているようで、今後の残りの人生をどういきるかということを思う時、過去にあったさまざまなことをどのように解釈し、意味を拾い出すのか、そしてそのために今後何をなさねばならないのかというようなことをつい考えてしまいます。

若い頃は、当たり前ですが、前ばかりを見て生きてきました。いつのまにか年を経て、もう先が長くないことを悟り、これまでの日々が後に残した膨大な過去の残骸を振り返って呆然とすることが増えました。しかし、過去は過ぎ去り未来は来たらず、で本当のところはわれわれは、虫や獣のように毎日の一瞬一瞬をただただ過ごしているだけであって、未来も過去も真には存在していないものだと思えば、もっと刹那的に生きるべきなのではないかとも感じます。

私は研究室運営のストレスに追い立てられるような生活にうんざりしたので、二度と経営者的な立場には立ちたくないと思っていますが、今の職場の長は私より一回り上ですが、専門職であると同時に経営者でもあります。立場上、走り続けなければならない運命です。代わりを探さない限り、走るの止めた瞬間、数百人が職を失い、そして少なからぬ額の負債の責任を個人で取ることになる、そんな運命です。その覚悟をもって、死ぬまで走り続ける人生に納得し、幸福を感じるなら素晴らしいことだと思いますけど、私にはムリです。先の年配の先生も「オレは死ぬまで働く、倒れた時は助けてくれるな」と私に言いました。日本人にとって働くことは生きることとほぼ同義なのでしょう。私といえば、老人施設で寝たきりの日々を送りながら介護士さん相手に愚痴と冗談を言いつつ衰弱して肺炎になって死ぬことになるまで、気楽な立場でヘラヘラと暮らしたい、と今は思っています。
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