百醜千拙草

何とかやっています

末法の世に仏陀の悟りを思う

2008-01-15 | Weblog
父が亡くなってから二十数年になります。今年、二十五回忌の法要を行う予定を母は立てています。父方は田舎の出身でしたので、真言宗でした。お坊さんが必要なのは誰かが死んだときだけになって久しく、宗教としてははすっかり形骸化してしまってはいるのですが、昔ながらの檀家制が残っていて、普段の不信心ゆえ尚更なのでしょう法要(に限らず、様々な儀式系)はしっかりやるという伝統というかしきたりの濃い土地がらなのでした。父が死んだ時、祖父母は健在でしたので死んだ後の供養のためご詠歌や般若心経を毎日読んでいたのを覚えています。真言宗は仏教とはいえ、呪術的な部分を多く含む密教がその中心となって成立しています。いわばモグリで中国に渡った空海は、当時の中国の正系の仏教ではなく、種々の土着信仰などがインド仏教に入り交じってできた密教を持ち帰ったのでした。この宗教は基本的には何らかの物質的な利益を得ることを主な目的の一つにしています。陀羅尼とか真言とかの意味不明のまじないを唱えたり、灌頂するとか護摩壇を焚くとか妙な儀式を行うと、「ご利益」がある、このわかりやすさが当時の田舎の貧しい農民に受けたのでしょう。ご利益を求める呪術としての宗教は無論、仏陀の説いた仏法とは相容れないものです。また檀家制という制度が日本の仏教の形骸化を促進し、ますますお経の文句は呪文化し、一般人は仏教から離れていったのだと思います。そうは言いつつも、形骸化したがために逆に仏典や仏教文学が余り変わらずに受け継がれてきた面もあり、皮肉なことですが、現在、私たちが原初の仏教の様子を垣間見ることができるのも仏教の形式化のおかげなのかもしれません。
 さて、とても短いお経である般若心経は、仏陀がその弟子の舎利仏に仏法を説くという形になっていますが、一番最後におまじないの文句が挿入されています。おまじないなので、もとのインドでの言葉の音に近く発音する必要があるので、音に従って当てられた漢字には余り意味はなく、ますます意味不明になっています。「ナントカ、ナントカ、ソワカ」というのが陀羅尼(呪文)で、「テクマクマヤコン」みたいなものです。父が亡くなった時には、私も般若心経の小冊子を見ながら、意味もわからずとりあえずフリガナを読んでいました。何となく遺族が集まって意味不明の音を出して儀式ぽいことをする形式的なことが大事なのだろうと思っていましたが、今となってみれば、よく理解もできないお経を異国の言葉で読む事に意味があるはずもありません。これでは大学一年生の時のドイツ語と同じです。むしろ、意味もわからないのに、お経を読んだことに満足して終わってしまうのは読まないより悪いと思います。(もちろん、お経を表面的に理解することは、臨済が「経典を読むのも業つくり。仏とは、なにごとない人のこと(無事是貴人)」というようにもっと良くないことです。)遺族も死んだ人もわけもわからず、何となくアリガタイというのでは、病院に行って治療を受けずに帰ってくるのと大差ないと思います。昔は、偉い先生に脈をとってもらっただけで元気になる人とかいましたが、もうそういうような世の中ではなく、医療は単なるサービス業の一つです。お坊さんのお経も同じことでしょう。形式ではなくて中身が問われるべきであろうと私は思います。般若心経を読むということは、仏陀の話を聞き、彼が体験した悟りに近づくための一法であると思います。話は理解できなければ意味ありません。その般若心経では、「空」つまりシューニヤター (sunyata) を中心に話がなされますが、鈴木大拙が言うように、空とは一とニが別れる前のむしろ絶対的存在ゆえの空の意であって、単にあるものに対しての否定ではなく、絶対肯定の「如」、タタター (tathata) と同意であることを感じとらねばなりません。お経の中に、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色とありますが、私はこれをこう拡大解釈しています。この世界全てのものは絶対的肯定としての「空」であるということを体で知ること、それが最高の知恵、プラジュニャー(般若)であると説くのが般若心経だと思います。
こうしたことは頭では、なんとなくわかるのですが、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹の下で仏陀が到達した本来の悟りとは、体感されるべきことであって、頭で理解するということとは全く次元の違う話のはずです。その仏陀の悟りの境地とはいかなるものか、今の私には想像するより他ありません。仏陀の悟りの時の言葉として、「われは一切勝者なり、、、この世界にわれに比すべき者はない。われこそはこの世の聖者、最高の師、われひとり完全の悟りを得て、静けき平和、涅槃の安らぎはわがものである」との偈が残されています。この一切勝者であるという表現こそが、「色」である自分自身が絶対的存在としての「空」、いわば宇宙そのものに他ならないという実感なのでしょう。物質からなる 相対的な世界が始まる前、自分が宇宙から別れる前の絶対を体得したから絶対的な勝者(一切勝者)なのだろうと思います。禅問答にはよく、スメール山を芥子粒に閉じ込めたり、川の水を一気に飲み干したり、千里を一気に飛び越えたりするようなことが書いてあります。私はこれはずっとものの喩え、方便だと思っていました。しかし、般若によって一切が空なることを体験できるものにとっては、こうしたことは少なくとも現実におこっていると信じられるような真実の体験なのであろうと最近は考えるようになりました。私はそんな境地に達していないので、そういった経験をしたことはありませんが、おそらく悟りを得た人は、こういう常識的にはありえないと思えるような事も文字通りに体験できるものなのかもしれません。以前、触れたエリザベスキューブラーロスが行ったという宇宙人との対話というのも、ひょっとしたらこういう悟りの空間で行われたのかも知れません。
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