百醜千拙草

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意識の問題

2008-01-29 | Weblog
3年前に亡くなったノーベル賞科学者フランシスクリックは分子生物学から去った後、理論神経学の分野の研究を始めました。彼と彼の共同研究者、Christof Kochの研究のテーマは「意識」についてでしたが、神経科学の分野で「意識」の問題はタブー視されてきました。基本的に目に見えるものしか扱わない現代の実験科学で、「意識」という目に見えないものを研究するのは危険です。実験科学者は、客観的に見ることのできないものは存在していると認めないからです。目に見えないからあるとは言えないというのならまだしも、目に見えないから無いと信じているような人も大勢いて、その唯物主義的偏見というものは、偏見であるという意識すらないほど徹底しているように思います。ですから意識の問題を科学者が研究するというのは、大変、野心的なことであった私は思います。しかし、一歩さがってみると、「意識」といものが無いと心から思っている人はいないと思います。医療の現場では昏睡のレベルをスケール化していますし、カルテには必ず意識状態を書く欄があります。しかし、医療現場での意識とは、外的に評価できる部分に限られていて、厳密には外的刺激に対する反応の程度という意識のごく一部を評価しているに過ぎません。
 では果たして、「意識」とは何でしょうか。私たちはこの言葉を日常的に使っていながら、その意味を知りません。この意識とは何かと問う事は、つきつめて考えると、デカルトの言う「自分という考える存在が疑うべくなく存在している」という実感の源を問うことではないかと思います。更に飛躍を躊躇せずに言えば、意識という主観的な感覚に依存しているものを問うことは、畢竟、「生命とは何か」という疑問と同意であろうと思います。クリックは触媒性RNAが発見されたことから、生命は無生物の微細な分子が組織化して線形的発展を遂げる過程で生まれたのではないかと考えていたようです。生物ではないものでも、例えばコンピュータなどでも、人間なみの複雑でコヒーレントな構造を持つようになれば、意識が生じるのではないかという仮説で、意識というものの発生を機械論的に説明しようと考えていたように見えます。生憎、私はクリックの意識の研究がどのようなものであったか詳しく知りません。ひょっとしたら、機械論的立場で生気論を取り込もうとしたのかも知れません。しかし、そういうアイデアを持って研究してきた人は何百年も前からいたわけで、現在に至るまで、それらの研究が科学界で認められたという話を私は聞いた事がありません。そもそも生気論や機械論というのは、生物というものを捉えようとするときに観察者が立つ主義の問題で、どちらが正しくどちらが間違っているとかいうレベルの議論をする事自体がナンセンスなのだと思います。現代の生命科学で「生命とは何か」を研究すると真顔で言えば、頭がおかしいと思われるのがオチですから、クリックは一歩ひいて「意識」を研究することにしたのかも知れません。
 しかし、生物学研究である以上は、生命とは何かという疑問や、生命の神秘さに対する謙虚な感動といったものなしに、その機械的側面だけを弄んでいるようにしか見えないような研究は虚しいと思います。それなら最初から機械を研究すればよいのです。残念ながら、近年の生物系研究は「役に立つ」ことを求められるので、生物学というよりは生物を使った工学的な研究ばかりがもてはやされています。そういった生命活動を利用してやろうという態度の研究には、「生命の神秘さ」の前に謙虚になるという行為の入り込む余地はないのかも知れません。
コメント
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