この数ヶ月、研究費申請用の研究計画をずっと推敲しています。現在3ページ目にようやく進みました。ここを越えると残りの十ページほどは比較的簡単な筈です。(研究申請書が書けることと、研究費が貰えるかどうかは別問題ですが)もっとも難しい最初のページは、見返してみると、保存しているものだけでも30近いバージョンがあるので、多分50回以上は書き直しています。一番最初のと比べると随分、絞り込まれてスッキリしたと思います。結局、三つのプロジェクトのうち、二つを捨てて一つに減らしました。半年前はこのプロジェクトよりも他の二つの方が個人的には興味があったし、データもあったので、最終的にこのプロジェクトに絞るという方針が決まるまで、随分時間がかかりました。しかし、第一ベージ目で、コレで行けそうだと心から感じることができなければ、後で苦労しますので、ここで思いっきり苦しんでおくのは価値があると思います。詰め将棋を解くのとちょっと似ていると思います。ヒラメキを一つ一つ検討して、最後までの手筋を読み切ってから進めます。
研究費申請書は過去に何度も書いて、何度か通り、何度も落とされているので、自分では、多少のコツは分かっているつもりでした。しかし、今回、いろいろ苦しんでいる中で、あらためてはっきりと認識できたことがありました。つまり、研究申請書は誰のためのものか、ということです。
研究者は、やりたい研究をするために、研究費を申請します。私も、最初の頃は、私の研究はいかに面白くて科学的意義があるか、という話をしてお金を貰おうとしていました。そのネタになった発見には私の思い入れも自負もあり、これだけ苦労して見つけた発見なのだから、それを発展させたい、そう思って申請書を書いていました。何ヶ月もかけて書いて、それなりの自信ももって提出したその申請書は、点数もつかずに落とされました。振り返って考えれば、不思議はありません。誰も、私の研究が如何に面白いか、などということには興味がなかったということです。なぜ、興味がないのか、それは面白い研究など世の中にゴマンとあるからです。そのゴマンとある研究の中で、研究費が与えられるかどうかは、面白い面白くないかではなく、社会が必要としているかいないかで決まります。あたり前のことです。しかし、その後、何年も、私はそのことをはっきりと理解していませんでした。研究者が面白いと思う研究を遂行することが最終的に社会に貢献する(と、歴史的事実から、私は信じていますが)とは、資金を出す方は考えていないのです。つまり、私の研究に、社会的ニーズがあって、研究の遂行に際して私が適切な人間である、という必然性が示されないと、研究費を出す方はウンとはいいません。極論すれば、研究費申請書は研究者自身のためではなく、社会のために書くのです。そういうことが今回はハッキリ認識できました。つまり、実際は研究者が面白いと思う研究を追求することが結局は最も社会に有益な価値を生み出すことなるにもかかわらず、研究申請書には、そのようにストレートに書いてはいけないのです。研究申請書を書く目的は、必ずしも書かれた研究を遂行するということではなく、まずは研究資金を得ること、そしてそれを最も有益な目的に利用するためだということです。
前回、貰えた中サイズの研究費は、メインの研究費が削減されため、切羽詰まって、ダメでもともとで書いたもので、出した時はかなり悲観的でした。これが貰えたのはマグレです。しかし、振り返って状況を客観的に分析すると、貰えたことに不思議はありません。そういう社会的ニーズがあって(私も社会的ニーズは認識していました)、加えて、研究費を出す機関が、リスクは高くても分野を拡げるような変った研究を求めていたところに、そうとは知らない私が、切羽詰まってダメでもともとと一発大風呂敷を拡げたら、たまたま当選してしまったということなのです。幸運な偶然が重なって、その結果として必然的に私の研究計画が採用されたのでした。私はその分野はズブの素人です。それで、研究費が貰えた時は(お金がなかったので)大変うれしかったのですが、同時に、大風呂敷であることも自覚はしていたので、中間報告会のことを思って、多少、暗い気分にもなりました。そして、実は、その中間報告会がこの水曜日にあります。この委員会を構成するそのスジの一流研究者の人々の前で、15分のプレゼンテーションをしなければなりません。もう大風呂敷でゴマカすことはできません。正直にデータを見せて、次の年度の資金サポートをかけて、彼らの審判を受けるしかありません。結局、大風呂敷はハンカチぐらいの規模になりましたが、多少、興味深い結果も出ているので、今回は、そのスジの偉い一流研究者の方々とサシで議論ができる貴重な機会だと捉えることにしたい、と前向きに考えています。、、、それにつけても、、、の欲しさよ。
研究費申請書は過去に何度も書いて、何度か通り、何度も落とされているので、自分では、多少のコツは分かっているつもりでした。しかし、今回、いろいろ苦しんでいる中で、あらためてはっきりと認識できたことがありました。つまり、研究申請書は誰のためのものか、ということです。
研究者は、やりたい研究をするために、研究費を申請します。私も、最初の頃は、私の研究はいかに面白くて科学的意義があるか、という話をしてお金を貰おうとしていました。そのネタになった発見には私の思い入れも自負もあり、これだけ苦労して見つけた発見なのだから、それを発展させたい、そう思って申請書を書いていました。何ヶ月もかけて書いて、それなりの自信ももって提出したその申請書は、点数もつかずに落とされました。振り返って考えれば、不思議はありません。誰も、私の研究が如何に面白いか、などということには興味がなかったということです。なぜ、興味がないのか、それは面白い研究など世の中にゴマンとあるからです。そのゴマンとある研究の中で、研究費が与えられるかどうかは、面白い面白くないかではなく、社会が必要としているかいないかで決まります。あたり前のことです。しかし、その後、何年も、私はそのことをはっきりと理解していませんでした。研究者が面白いと思う研究を遂行することが最終的に社会に貢献する(と、歴史的事実から、私は信じていますが)とは、資金を出す方は考えていないのです。つまり、私の研究に、社会的ニーズがあって、研究の遂行に際して私が適切な人間である、という必然性が示されないと、研究費を出す方はウンとはいいません。極論すれば、研究費申請書は研究者自身のためではなく、社会のために書くのです。そういうことが今回はハッキリ認識できました。つまり、実際は研究者が面白いと思う研究を追求することが結局は最も社会に有益な価値を生み出すことなるにもかかわらず、研究申請書には、そのようにストレートに書いてはいけないのです。研究申請書を書く目的は、必ずしも書かれた研究を遂行するということではなく、まずは研究資金を得ること、そしてそれを最も有益な目的に利用するためだということです。
前回、貰えた中サイズの研究費は、メインの研究費が削減されため、切羽詰まって、ダメでもともとで書いたもので、出した時はかなり悲観的でした。これが貰えたのはマグレです。しかし、振り返って状況を客観的に分析すると、貰えたことに不思議はありません。そういう社会的ニーズがあって(私も社会的ニーズは認識していました)、加えて、研究費を出す機関が、リスクは高くても分野を拡げるような変った研究を求めていたところに、そうとは知らない私が、切羽詰まってダメでもともとと一発大風呂敷を拡げたら、たまたま当選してしまったということなのです。幸運な偶然が重なって、その結果として必然的に私の研究計画が採用されたのでした。私はその分野はズブの素人です。それで、研究費が貰えた時は(お金がなかったので)大変うれしかったのですが、同時に、大風呂敷であることも自覚はしていたので、中間報告会のことを思って、多少、暗い気分にもなりました。そして、実は、その中間報告会がこの水曜日にあります。この委員会を構成するそのスジの一流研究者の人々の前で、15分のプレゼンテーションをしなければなりません。もう大風呂敷でゴマカすことはできません。正直にデータを見せて、次の年度の資金サポートをかけて、彼らの審判を受けるしかありません。結局、大風呂敷はハンカチぐらいの規模になりましたが、多少、興味深い結果も出ているので、今回は、そのスジの偉い一流研究者の方々とサシで議論ができる貴重な機会だと捉えることにしたい、と前向きに考えています。、、、それにつけても、、、の欲しさよ。