![]() | 空海の夢 |
松岡 正剛 | |
春秋社 |
朝日新聞の仏教関連書籍に関する「広告特集」に、松岡正剛へのインタビュー記事が添えられていた(企画・制作 朝日新聞社広告局)。タイトルは「仏に親しむ、仏に学ぶ 仏のおわします感覚をわが身に取り戻す」。この碩学は、東日本大震災の話に始まり、「身近に携える仏教」「内なる他力」などの概念を分かりやすい言葉で語りかける(全文はこちら)。以下に要点を抜粋する(小見出しは私がつけた)。
■「祈りの仏教」から「救いの仏教」への変遷
鎮護国家仏教として渡来したそもそもは、都の大きな寺で修行僧たちが国の安泰を祈願しました。中世以降、漢文の経典が仮名で読めたり、仮名法語が普及するようになると、誰でも念仏を唱えたりしながら仏の救いを求めるようになった。つまり「祈りの仏教」から「救いの仏教」へ、修行を通じて確信する仏教から、一人ひとりが身近に携える仏教へと変遷していったのです。
■「自らの内に仏がおわす」という感覚の喪失
現代の日本人は「有事」ということを大仰に捉えますが、実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを察知するような感性を備えていました。武道家もつねにそうした気配の変化を察知する訓練をした。ところが、今の人たちは、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、マグニチュード3なら大したことないとか、誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの判断がつかないようになってしまった。そういうものが、自らの内に仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を追いつめているのでしょうね。
■「安心立命」と「無常迅速」
仏教は「安心立命」の一語に言い尽くされます。安心と、自分の命がそこにあることは輩(ともがら)であり、命あるところに仏はおわします。その実感をなんとか取り戻すことです。そして「無常迅速」、常ならざるものは有為転変が早いと心得る。何が起きても、それはあり得ることなのだという無常観を心に常備するのも大事でしょう。
■「誰かの役に立ちたい」「あの人のために生きよう」という菩薩道
自分の力で立ち上がるのも大事だけれど、他者の中に潜んでいる力に何かを委ねて、動ける自分になることです。翻って、自分の内なる他力を自ら進んで人々に与えることに進みたい。それを大乗仏教では菩薩(ぼさつ)道と呼びます。本来ならより上位の如来(にょらい)になれる力があるのに、あえて「誰かの役に立ちたい」「あの人のために生きよう」として菩薩の位置にとどまる。これが菩薩道ですが、仏教の中には、そのように一方的ではない、自力と他力の相互編集に基づいた教えがたくさん出てきて、これは世界の宗教にも類例を見ません。
■若者こそ仏教を
大学で学生に仏教の話をして聞かせると、意外によく通じることがあります。17、18歳の年頃になれば自己確立を迫られるし、恋愛問題などもあって日々揺らいでいますからね。そういうさなかにブッダの生き方とか、他者や他力といった話が、わっと染み入るタイミングがあるのだと思っています。むしろ30代、40代で生活基盤が安定してくると、神や仏の祈りに心洗われるという思いにはなりにくくなるのかもしれません。
■仏教本の読み方・選び方
お坊さんや信仰者など、いわばプロの方が書いた仏教書と、プロではないが信仰の同伴者ともいうべき方が記録した本を両方読むのがお勧めです。また、新たな流派を築いた開祖や流祖の逸話には、救いや安心のヒントが具体的に示されていることが多い。そして、これからの震災復興を念頭に置けば、仏教の扱う自力(じりき)と他力(たりき)の相互関係を説いた書籍なども、もっと注目されてよいと思います。
要点は以上である。未曾有の大震災に見舞われ、日本人の心が揺らいでいる。仏の教えに救いを求める人も増えている。今こそ、「自らの内に仏がおわす感覚を、わが身に取り戻す」ことの大切さを噛みしめるべきだろう。私も、この夏の緑陰の読書には仏教本を選ぶことにしたい。