藤井勘一郎という競馬騎手をご存じだろうか。奈良県御所市の出身で、私の勤務先の先輩(藤井謙昌さん)のご子息である。3年ほど前、異色の奈良県人として朝日新聞の記者に紹介し、奈良版(08年01月27日付)に掲載されたことがある。今は「Wikipedia」でも紹介されている。《藤井勘一郎(ふじいかんいちろう、1983年12月31日 - )は、奈良県御所市出身の競馬の騎手。主にオーストラリア・シンガポール地区で活動している。オーストラリアではJoe Fujiiの愛称で知られている》。
※トップ写真はご本人のブログより拝借
聞くところによると、藤井さんが競馬に興味を持ったきっかけは、ギャグ漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」(現在176巻まで刊行中)だという。主人公の両さん(両津勘吉巡査長)が競馬ファンだったことで競馬のことを知り、小学5~6年生のときに初めてテレビの競馬中継を見た。その後、お父さんにせがんで京都競馬場へ連れて行ってもらい、競馬にハマッたそうで、当時のあだ名は「ダービーくん」。その後、小学6年生~中学3年生まで、乗馬クラブに通われた。実家には、現在も100冊以上の「こち亀」が残されているそうだ。
中学を卒業して《日本の中央競馬の騎手となることを志したが体格が大きかったために断念し、1999年5月にオーストラリアの競馬学校に入学。2001年3月に卒業後、シンガポールの厩舎で働き同国で見習騎手になることを目指すが認められず、2001年12月にオーストラリアで見習騎手となる。2005年、2006年と連続してシドニー地区で見習騎手リーディング2位となった》《2007年1月にシンガポールで短期免許を取得して同国で騎乗し、同年3月23日に重賞のチェアマンズトロフィー(星G3)に優勝した》(Wikipedia)。現在は本拠地をオーストラリアに置きつつ、JRAの騎手試験合格をめざしておられる。
そんな藤井さんへのインタビュー記事が、11/12発売の競馬雑誌「ROUNDERS(ラウンダーズ)」vol.2で、大きく紹介される。同誌編集者・治郎丸敬之さんのブログによると《第2号の特集は、「ジョッキー 馬5騎手5の時代」。この10年間において、日本の競馬界では大きな変化が起こりました。圧倒的な性能を誇っていたサンデーサイレンスの直仔たちによる競馬が終焉し、レースにおける各馬の能力差は次第に縮まりつつあります。また、地方競馬や海外の競馬から一流騎手たちが流入したことで、新しい勝ち方やレースの形が生まれました。そういう時代だからこそ、「ジョッキー」の存在がより重要になってきています》。
《かつて競馬がギャンブル一辺倒だった時代、騎手は単なる記号に過ぎませんでした。勝てば馬が賞賛され、負ければ騎手に罵声が浴びせられました。もう今はそういう時代ではありません。競馬は人間と馬が呼吸を合わせて行う美しいスポーツです。競馬がスポーツである以上、騎手も馬と同様にアスリートです。そんな騎手たちの技術や考え方に注目しないわけにはいきません》。
すでに記事の一部が「無料サンプル」としてネットで読めるので、以下に紹介したい。タイトルは「藤井勘一郎 大海を知るジョッキー」、リード文は《15歳の春、少年は騎手になる夢を捨てきれずに単身オーストラリアに渡った。オーストラリアで騎手デビューし、勝利を積み重ね、シンガポールでは重賞を勝つに至った。“Joe Fujii”の愛称で知られる日本人ジョッキー、藤井勘一郎。競馬の大海を知る騎手だからこそ語れる物語がある》とカッコいい。
中央が勘一郎さん。向かって左隣が父親の謙昌さん。写真はご本人の公式ホームページより拝借(09.5.3 京都競馬場)
《(治郎丸)藤井騎手が騎乗している姿を初めて拝見したのは、2007年の8月31日のことでした。その時、私は旅先でシンガポールのクランジ競馬場にいました。現地で活躍されている日本人調教師の管理馬に、日本人の騎手が乗るということで、単勝馬券を片手に、声を枯らして応援させてもらった思い出があります》《たった1日でしたが、藤井騎手が活き活きと乗っている姿が印象的でした。外国人のジョッキーというよりも、現地の競馬に溶け込んで、まるで水を得た魚のようでした。シンガポールの水が合っていたのでしょうか?》
《藤井 いえ、正直に言うと、合っていなかったですね。特に生活面でストレスがありました。ホームシックになってしまったほどです。オーストラリアに長くいたので、シンガポールも大丈夫だろうという感覚で行ったのですけどね……。当時、付き合っていた彼女――今の奥さんですけど――が札幌に住んでいて、ずっと遠距離恋愛でした。そういう面も辛く思えてしまいました。プロのジョッキーである以上、競馬場ではある程度、演じているわけですよ。でも、プライベートな時間ということでは、ストレスが溜まりました。そうなると、体調をコントロールするのも難しくなってしまいます》。
《(藤井)ジョッキーは自信がすべての世界です。心の状態が悪くなれば自信もなくなるし、身体が機能しなくなってしまいます。ジョッキーにとって、精神的なものの影響は非常に大きく、それがしっかりしていないとなかなかレースはこなせません。騎手の自信はもちろん馬に伝わりますし、レースの結果にも如実に表れます。悪い騎乗をしたら騎乗依頼もこなくなります。9ヶ月間の契約がそろそろ切れようとしている頃には、他人に気づかれるほど悪くなる前に、もう自分から手を引いたほうがいいなと思うほどにまで追い詰められていました》。
騎手は単なる記号ではなく、アスリートである。しかも精神的にも肉体的にも大変なお仕事である。しかも騎手はワザ(技術)に加えて、馬主や調教師とのコミュニケーションが大切だといわれ、藤井さんの場合、それを英語でこなして来られたわけで、ご苦労には並々ならぬものがあったことだろう。
1983年生まれの藤井勘一郎さんは、ウチの長男と同い年。お父さんの謙昌さんは、私と同い年である。ウチの息子が「中学を出たら競馬の騎手になりたい」と言い出したとしたら、私など周章狼狽するほか、すべがなかったことだろう。勘一郎さんが入学されたオーストラリアの競馬学校は1年目の学費だけで200万円だったそうだが、金銭面だけでなく、ご子息の将来を案じて、ご両親はさぞ苦慮されたに違いない。しかしその大英断のおかげで、こんな立派な青年に成長されたのである。
勘一郎さんのブログによると、ご当人は今、乗った馬がフェンスに激突して鎖骨を骨折し、療養中の身だそうである。精神的にも肉体的にもご苦労の多いこのお仕事に、ご両親も奥さんも、声援を送られている。勘一郎さんには、将来を嘱望された少壮ジョッキーとして、大いなる活躍を期待したい。
※トップ写真はご本人のブログより拝借
聞くところによると、藤井さんが競馬に興味を持ったきっかけは、ギャグ漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」(現在176巻まで刊行中)だという。主人公の両さん(両津勘吉巡査長)が競馬ファンだったことで競馬のことを知り、小学5~6年生のときに初めてテレビの競馬中継を見た。その後、お父さんにせがんで京都競馬場へ連れて行ってもらい、競馬にハマッたそうで、当時のあだ名は「ダービーくん」。その後、小学6年生~中学3年生まで、乗馬クラブに通われた。実家には、現在も100冊以上の「こち亀」が残されているそうだ。
中学を卒業して《日本の中央競馬の騎手となることを志したが体格が大きかったために断念し、1999年5月にオーストラリアの競馬学校に入学。2001年3月に卒業後、シンガポールの厩舎で働き同国で見習騎手になることを目指すが認められず、2001年12月にオーストラリアで見習騎手となる。2005年、2006年と連続してシドニー地区で見習騎手リーディング2位となった》《2007年1月にシンガポールで短期免許を取得して同国で騎乗し、同年3月23日に重賞のチェアマンズトロフィー(星G3)に優勝した》(Wikipedia)。現在は本拠地をオーストラリアに置きつつ、JRAの騎手試験合格をめざしておられる。
そんな藤井さんへのインタビュー記事が、11/12発売の競馬雑誌「ROUNDERS(ラウンダーズ)」vol.2で、大きく紹介される。同誌編集者・治郎丸敬之さんのブログによると《第2号の特集は、「ジョッキー 馬5騎手5の時代」。この10年間において、日本の競馬界では大きな変化が起こりました。圧倒的な性能を誇っていたサンデーサイレンスの直仔たちによる競馬が終焉し、レースにおける各馬の能力差は次第に縮まりつつあります。また、地方競馬や海外の競馬から一流騎手たちが流入したことで、新しい勝ち方やレースの形が生まれました。そういう時代だからこそ、「ジョッキー」の存在がより重要になってきています》。
《かつて競馬がギャンブル一辺倒だった時代、騎手は単なる記号に過ぎませんでした。勝てば馬が賞賛され、負ければ騎手に罵声が浴びせられました。もう今はそういう時代ではありません。競馬は人間と馬が呼吸を合わせて行う美しいスポーツです。競馬がスポーツである以上、騎手も馬と同様にアスリートです。そんな騎手たちの技術や考え方に注目しないわけにはいきません》。
すでに記事の一部が「無料サンプル」としてネットで読めるので、以下に紹介したい。タイトルは「藤井勘一郎 大海を知るジョッキー」、リード文は《15歳の春、少年は騎手になる夢を捨てきれずに単身オーストラリアに渡った。オーストラリアで騎手デビューし、勝利を積み重ね、シンガポールでは重賞を勝つに至った。“Joe Fujii”の愛称で知られる日本人ジョッキー、藤井勘一郎。競馬の大海を知る騎手だからこそ語れる物語がある》とカッコいい。
中央が勘一郎さん。向かって左隣が父親の謙昌さん。写真はご本人の公式ホームページより拝借(09.5.3 京都競馬場)
《(治郎丸)藤井騎手が騎乗している姿を初めて拝見したのは、2007年の8月31日のことでした。その時、私は旅先でシンガポールのクランジ競馬場にいました。現地で活躍されている日本人調教師の管理馬に、日本人の騎手が乗るということで、単勝馬券を片手に、声を枯らして応援させてもらった思い出があります》《たった1日でしたが、藤井騎手が活き活きと乗っている姿が印象的でした。外国人のジョッキーというよりも、現地の競馬に溶け込んで、まるで水を得た魚のようでした。シンガポールの水が合っていたのでしょうか?》
《藤井 いえ、正直に言うと、合っていなかったですね。特に生活面でストレスがありました。ホームシックになってしまったほどです。オーストラリアに長くいたので、シンガポールも大丈夫だろうという感覚で行ったのですけどね……。当時、付き合っていた彼女――今の奥さんですけど――が札幌に住んでいて、ずっと遠距離恋愛でした。そういう面も辛く思えてしまいました。プロのジョッキーである以上、競馬場ではある程度、演じているわけですよ。でも、プライベートな時間ということでは、ストレスが溜まりました。そうなると、体調をコントロールするのも難しくなってしまいます》。
《(藤井)ジョッキーは自信がすべての世界です。心の状態が悪くなれば自信もなくなるし、身体が機能しなくなってしまいます。ジョッキーにとって、精神的なものの影響は非常に大きく、それがしっかりしていないとなかなかレースはこなせません。騎手の自信はもちろん馬に伝わりますし、レースの結果にも如実に表れます。悪い騎乗をしたら騎乗依頼もこなくなります。9ヶ月間の契約がそろそろ切れようとしている頃には、他人に気づかれるほど悪くなる前に、もう自分から手を引いたほうがいいなと思うほどにまで追い詰められていました》。
騎手は単なる記号ではなく、アスリートである。しかも精神的にも肉体的にも大変なお仕事である。しかも騎手はワザ(技術)に加えて、馬主や調教師とのコミュニケーションが大切だといわれ、藤井さんの場合、それを英語でこなして来られたわけで、ご苦労には並々ならぬものがあったことだろう。
1983年生まれの藤井勘一郎さんは、ウチの長男と同い年。お父さんの謙昌さんは、私と同い年である。ウチの息子が「中学を出たら競馬の騎手になりたい」と言い出したとしたら、私など周章狼狽するほか、すべがなかったことだろう。勘一郎さんが入学されたオーストラリアの競馬学校は1年目の学費だけで200万円だったそうだが、金銭面だけでなく、ご子息の将来を案じて、ご両親はさぞ苦慮されたに違いない。しかしその大英断のおかげで、こんな立派な青年に成長されたのである。
勘一郎さんのブログによると、ご当人は今、乗った馬がフェンスに激突して鎖骨を骨折し、療養中の身だそうである。精神的にも肉体的にもご苦労の多いこのお仕事に、ご両親も奥さんも、声援を送られている。勘一郎さんには、将来を嘱望された少壮ジョッキーとして、大いなる活躍を期待したい。