11/15(火)、立里荒神(たてりこうじん 吉野郡野迫川村池津川)にお参りした。清(きよし)荒神(宝塚市)、笠山荒神(桜井市)とともに日本三荒神(日本三大荒神)の1つであり、野迫川村のシンボルである。九度山町(和歌山県伊都郡)に住んでいた子供の頃、周囲で「野迫川村に行ったことがある」という大人のほとんどは「立里の荒神さんにお参りに行った」という人だった。私は今回が初めてなので、大いに期待してはせ参じた。
境内からの眺望。日によっては雲海が見渡せる
立里荒神は高い山の上にあり、周囲は鬱蒼(うっそう)とした杉林である。午後2時頃だったが、風が出てきたので木がザワザワと鳴る。神韻縹渺(しんいんひょうびょう)というか、神さまが降り立つ山に相応しい厳(おごそ)かなたたずまいである。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』の「荒神社(こうじんじゃ)」によると《祭神=火産霊神(ほむすびのかみ)、譽田別命(ほむだわけのみこと) 通称、立里荒神。海抜一二六〇㍍の荒神岳北の峯山頂に鎮座する旧村社》。
いざ、頂上へ
日本書紀に登場する「火産霊神(ほむすびのかみ)」は、古事記でいうカグツチ(火之迦具土神)である。イザナミは火の神カグツチを産むが、そのとき陰部に大やけどを負ったせいで、イザナミは死んでしまった。怒ったイザナギは「天尾羽張(あめのおはばり)」という名の十拳剣(とつかのつるぎ=長い剣のこと)で、カグツチの首をはねた。なお日本書紀の「譽田別命(ほむだわけのみこと)」は、古事記では品陀和氣命。父は第14代仲哀天皇、母は神功皇后である。
《火産霊神は阿弥陀如来が本地仏で、当社を三宝荒神とも称し、火の神、竈(かまど)の神として全国より参詣者があり、特に火を使う職業の人々の信仰を集めた。当社縁起では嵯峨天皇の弘仁七年(八一六)、弘法大師が高野山に大伽藍を開基するにあたって伽藍繁栄、密教守護を祈り、一枚の板に三宝荒神の御像を描いて本尊とし、十七日の間荒神を祀り、檀上の鬼門に荒神の社を勧請して高野山の大伽藍が成ったという。以来高野山と結ぶ神仏習合の宮として明治初年まで宝積院と称していたが、明治の廃仏毀釈で宝積院を廃し、仏体など池津川へ移して荒神社と称して今日に至る》。
本殿。トップ写真とも
私の実家は材木屋なので、火災除けにと貯木場の片隅に「立里の荒神さん」をお祀りしていた。しかし「立里」という地名を耳にするたぴ、「立(たて)は訓読み、里(り)は音読みなので、これは湯桶(ゆとう)読みだ。奇妙な地名だな」と子供心にも疑問に思っていたが、今回初めてネットで調べると、地名研究の第一人者・池田末則氏による「池田末則の地理魍魎」がヒットして、積年の疑問が氷解した。「立里は踏鞴(たたら)の転訛」だったのだ!
こちらは麓にある祈祷殿。ご祈祷希望者が絶えない
《「タタラ」は「フイゴウ」(足で踏みつつ風を送る装置)で鋳(い)もの物を造る時に用いました》《立里は鉱石(硫化銅)の産出地で、原石は天辻峠を越え、五條市二見(ふたみ)駅まで索道(さくどう)を利用して搬出、JR二見駅から川船を利用することもあったらしく、先年、沈没船底から、「和州立里山」鋳刻の遺物が発見されたこともあります。里謡にも「立里フイゴ五十丁…」とも言い、一時は鉱山景気で、芸者の三絃の音が賑にぎわい盛を極めたともいわれました》。
《立里は江戸時代、幕府直営の鉱山でしたが、戦前の昭和十三年には、「金屋渕鉱業(かなやふちこうぎょう)」が設立され、同二十六年「五條鉱山」と改称、最盛期には年間約五万トンの出鉱量があり、同三十七年閉鎖されたそうです。因みに、立里荒神は猛々しい荒神で、地名も「立利」→立里になったと伝承。平安京に対する火の神・愛宕(あたご)山のように、平城京を鎮護する神であるともいわれています》。つまり、踏鞴(たたら)→立利→立里と変化したのだ。
賭場(博打場)のことを「鉄火場」というが、立里荒神には「ギャンブルに勝ちますように」とのご祈願で訪れる人も多いそうだ。芸者衆で賑わった鉱山の「荒(すさ)ぶる神さま」なら、そんな願いも聞いてくださるかも知れない。
立里荒神へは、南海電車(高野山ケーブル)高野山駅から、南海りんかんバス立里荒神行きで40分、立里荒神前下車すぐ。車なら、高野山奥の院から高野龍神スカイライン経由で20分と少々である(急坂なので運転にはご注意を)。ぜひ、お参りいただきたい。
※日産ドライブナビの同神社サイトは、こちら
境内からの眺望。日によっては雲海が見渡せる
立里荒神は高い山の上にあり、周囲は鬱蒼(うっそう)とした杉林である。午後2時頃だったが、風が出てきたので木がザワザワと鳴る。神韻縹渺(しんいんひょうびょう)というか、神さまが降り立つ山に相応しい厳(おごそ)かなたたずまいである。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』の「荒神社(こうじんじゃ)」によると《祭神=火産霊神(ほむすびのかみ)、譽田別命(ほむだわけのみこと) 通称、立里荒神。海抜一二六〇㍍の荒神岳北の峯山頂に鎮座する旧村社》。
いざ、頂上へ
日本書紀に登場する「火産霊神(ほむすびのかみ)」は、古事記でいうカグツチ(火之迦具土神)である。イザナミは火の神カグツチを産むが、そのとき陰部に大やけどを負ったせいで、イザナミは死んでしまった。怒ったイザナギは「天尾羽張(あめのおはばり)」という名の十拳剣(とつかのつるぎ=長い剣のこと)で、カグツチの首をはねた。なお日本書紀の「譽田別命(ほむだわけのみこと)」は、古事記では品陀和氣命。父は第14代仲哀天皇、母は神功皇后である。
《火産霊神は阿弥陀如来が本地仏で、当社を三宝荒神とも称し、火の神、竈(かまど)の神として全国より参詣者があり、特に火を使う職業の人々の信仰を集めた。当社縁起では嵯峨天皇の弘仁七年(八一六)、弘法大師が高野山に大伽藍を開基するにあたって伽藍繁栄、密教守護を祈り、一枚の板に三宝荒神の御像を描いて本尊とし、十七日の間荒神を祀り、檀上の鬼門に荒神の社を勧請して高野山の大伽藍が成ったという。以来高野山と結ぶ神仏習合の宮として明治初年まで宝積院と称していたが、明治の廃仏毀釈で宝積院を廃し、仏体など池津川へ移して荒神社と称して今日に至る》。
本殿。トップ写真とも
私の実家は材木屋なので、火災除けにと貯木場の片隅に「立里の荒神さん」をお祀りしていた。しかし「立里」という地名を耳にするたぴ、「立(たて)は訓読み、里(り)は音読みなので、これは湯桶(ゆとう)読みだ。奇妙な地名だな」と子供心にも疑問に思っていたが、今回初めてネットで調べると、地名研究の第一人者・池田末則氏による「池田末則の地理魍魎」がヒットして、積年の疑問が氷解した。「立里は踏鞴(たたら)の転訛」だったのだ!
こちらは麓にある祈祷殿。ご祈祷希望者が絶えない
《「タタラ」は「フイゴウ」(足で踏みつつ風を送る装置)で鋳(い)もの物を造る時に用いました》《立里は鉱石(硫化銅)の産出地で、原石は天辻峠を越え、五條市二見(ふたみ)駅まで索道(さくどう)を利用して搬出、JR二見駅から川船を利用することもあったらしく、先年、沈没船底から、「和州立里山」鋳刻の遺物が発見されたこともあります。里謡にも「立里フイゴ五十丁…」とも言い、一時は鉱山景気で、芸者の三絃の音が賑にぎわい盛を極めたともいわれました》。
《立里は江戸時代、幕府直営の鉱山でしたが、戦前の昭和十三年には、「金屋渕鉱業(かなやふちこうぎょう)」が設立され、同二十六年「五條鉱山」と改称、最盛期には年間約五万トンの出鉱量があり、同三十七年閉鎖されたそうです。因みに、立里荒神は猛々しい荒神で、地名も「立利」→立里になったと伝承。平安京に対する火の神・愛宕(あたご)山のように、平城京を鎮護する神であるともいわれています》。つまり、踏鞴(たたら)→立利→立里と変化したのだ。
賭場(博打場)のことを「鉄火場」というが、立里荒神には「ギャンブルに勝ちますように」とのご祈願で訪れる人も多いそうだ。芸者衆で賑わった鉱山の「荒(すさ)ぶる神さま」なら、そんな願いも聞いてくださるかも知れない。
立里荒神へは、南海電車(高野山ケーブル)高野山駅から、南海りんかんバス立里荒神行きで40分、立里荒神前下車すぐ。車なら、高野山奥の院から高野龍神スカイライン経由で20分と少々である(急坂なので運転にはご注意を)。ぜひ、お参りいただきたい。
※日産ドライブナビの同神社サイトは、こちら