7/1(日)に訪ねた世界遺産・日光の社寺、日光山輪王寺に続く第2弾は、日光東照宮である。サブタイトルをつけるなら、「ギンギラギンにさりげなく」としたいところである。Wikipedia「日光東照宮」によると、
日光東照宮は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
陽明門(国宝)。宮中(現 京都御所)正門の名前をいただいたそうだ。トップ写真は本殿側から撮影
沿革
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された。同年4月(4月)に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
陽明門には、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻が施されている
寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。
国宝の唐門(からもん)。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、細かい彫刻が施されている
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
唐門をとりまく透かし塀
明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。
重文・神輿舎(しんよしゃ)の正面
社殿に見える動物
日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物の木彫像を見ることができる。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。
ここも、修学旅行生のメッカなのだ
日光東照宮と陰陽道
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。
キンキラ・ギラギラをずっと見続けていると、正直シンドくなってくるが、境内で唯一、素木(しらき)造りの建物があった。それが重文の「神厩舎(しんきゅうしゃ)」で、神馬をつなぐ厩(うまや)と、馬を扱う役人の詰め所が一体となっている。「なんだ馬小屋か」と軽んじてはいけない。ここに有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があった。昔から猿が馬を守るとされていたそうだ。
神厩舎(重要文化財)
東照宮では「平成の大修理」として、あちこちで工事が行われていた。日光東照宮の公式HPによると《日光東照宮の建築に籠められた思想は、神威の昂揚とその記念性・永遠性を以って多くの参詣を受け入れる点にあり、建築意匠の全体を貫く統一的な表現方法において、漆塗・彩色・錺金具などの外装に多くの技術を投入する特徴があります。この建築表現の特性により、精彩を常に維持するために数十年足らずの短い周期での、絶え間ない修理が必要となる建築といえます》。
《平成19年度からは新規事業としていよいよ本殿・石の間・拝殿を始め東西透塀、正面唐門など重要な主社殿の工事が予定されており、平成27年(2015)の御祭神徳川家康公400年式年祭記念事業として平成36年(2024)まで、向こう18年間を『平成の大修理』として長期計画の下での修理事業が予定されています》。なるほど。神威昂揚のためのキンキラ・ギラギラは、維持するのが大変なのだ。
日光は徳川氏が開いたのではなく、早くから東国の宗教的権威の中心地だった。それを徳川氏が利用してその権力を誇示した、というのが真相なのだ。権力は、常に権威を必要とするのである。
さて、世界遺産・日光の社寺(二社一寺)巡り、次回はいよいよ最終回「日光二荒山(ふたらさん)神社」である。お楽しみに!
日光東照宮は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
陽明門(国宝)。宮中(現 京都御所)正門の名前をいただいたそうだ。トップ写真は本殿側から撮影
沿革
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された。同年4月(4月)に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
陽明門には、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻が施されている
寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。
国宝の唐門(からもん)。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、細かい彫刻が施されている
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
唐門をとりまく透かし塀
明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。
重文・神輿舎(しんよしゃ)の正面
社殿に見える動物
日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物の木彫像を見ることができる。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。
ここも、修学旅行生のメッカなのだ
日光東照宮と陰陽道
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。
キンキラ・ギラギラをずっと見続けていると、正直シンドくなってくるが、境内で唯一、素木(しらき)造りの建物があった。それが重文の「神厩舎(しんきゅうしゃ)」で、神馬をつなぐ厩(うまや)と、馬を扱う役人の詰め所が一体となっている。「なんだ馬小屋か」と軽んじてはいけない。ここに有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があった。昔から猿が馬を守るとされていたそうだ。
神厩舎(重要文化財)
東照宮では「平成の大修理」として、あちこちで工事が行われていた。日光東照宮の公式HPによると《日光東照宮の建築に籠められた思想は、神威の昂揚とその記念性・永遠性を以って多くの参詣を受け入れる点にあり、建築意匠の全体を貫く統一的な表現方法において、漆塗・彩色・錺金具などの外装に多くの技術を投入する特徴があります。この建築表現の特性により、精彩を常に維持するために数十年足らずの短い周期での、絶え間ない修理が必要となる建築といえます》。
《平成19年度からは新規事業としていよいよ本殿・石の間・拝殿を始め東西透塀、正面唐門など重要な主社殿の工事が予定されており、平成27年(2015)の御祭神徳川家康公400年式年祭記念事業として平成36年(2024)まで、向こう18年間を『平成の大修理』として長期計画の下での修理事業が予定されています》。なるほど。神威昂揚のためのキンキラ・ギラギラは、維持するのが大変なのだ。
日光は徳川氏が開いたのではなく、早くから東国の宗教的権威の中心地だった。それを徳川氏が利用してその権力を誇示した、というのが真相なのだ。権力は、常に権威を必要とするのである。
さて、世界遺産・日光の社寺(二社一寺)巡り、次回はいよいよ最終回「日光二荒山(ふたらさん)神社」である。お楽しみに!