来年(2013年)は「天誅組蹶起(けっき)150年」である。これに備え、天誅組に関する勉強会を開くことにした。メンバーは「奈良まほろばソムリエ友の会」の有志を中心に36人。7~9月にかけて3~4回の会を開くことになった。講師は、「『維新の魁(さきがけ)・天誅組』保存伝承・顕彰推進協議会」および「天誅組大和義挙150年記念事業実行委員会」特別委員の舟久保藍(ふなくぼ・あい)さんである。
舟久保さんは、いわば「天誅組五條の会」(=私が命名)のブレーンであり、奈良県が産んだ「超歴女(チョーれきじょ)」である。なお天誅組関連では、東吉野村に「天誅組東吉野の会」(=私が命名)もある。正確には、「東吉野村天誅組顕彰会」および「天誅組顕彰記念事業準備室」(東吉野村役場内)である。いずれも覚えきれないので、私は上記ニックネームで呼んでいる。。
6/2(土)、仲間と「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」(第10回古社寺を歩こう会)というウォーキング・ツアーを開催し、舟久保さんにはガイドを担当していただいた。その様子を、映像コンテンツ企画・制作の「office Kunea(オフィス・クネア)」さん(橿原市地黄町122-7)に撮影していただいたので、その画像を以下に貼りつけておく。
今回の勉強会では、伴林光平著『南山踏雲録』(日本史籍協会 大正15年5月刊)という本を丸ごと1冊、読むことにしている。これから毎回、勉強会が終わるごとに当ブログでその内容をレビューしていくことにしたい。今日は初回なので、まずは天誅組と著者の伴林光平のことをざっと紹介する。天誅組について、詳しく知りたい方は当ブログの「天誅組とは何か」および「天誅組とは by 北谷美和子さん」をご参照いただきたい。
さて平凡社の世界大百科事典「天誅組」によると、
天誅組(てんちゅうぐみ)1863 年 (文久 3) 8 月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。 この年中央政局を動かした尊攘派のうち, 真木和泉らのたてた攘夷親征計画により, 8 月 13 日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。 これを機に大和の天領占拠をめざして, 土佐の吉村寅太郎,備前の藤本鉄石, 三河の松本奎堂(けいどう) らを中心とし, 公縁中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。
8 月 14 日に京都を出て,大坂と河内を経て大和に入り, 17 日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し, 代官所支配地の朝廷直領化,本年の年貢半減などを布告した。 はじめ土佐,筑後久留米,鳥取などの脱藩士が多かったが, 河内の庄屋層が加わり,京都政変 (8 月 18 日) が伝えられると, 十津川郷士の大量動員をはかった。 26 日めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相つぎ, さらに諸藩兵の追討を受けて敗走をつづけ, 9 月 24 日大和吉野郡鷲家口の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した。
著者の伴林については、朝日日本歴史人物事典から引用する。
伴林光平(ともばやし・みつひら)生年: 文化10.9.9 (1813.10.2) 没年: 元治1.2.16 (1864.3.23) 幕末の志士。通称は六郎。号は斑鳩隠士,岡陵,蒿斎など。河内国志紀郡林村(大阪府藤井寺市)の浄土真宗尊光寺賢静の次男。文政11(1828)年に上京。西本願寺学寮に入り仏学を修める。以後,摂津の中村良臣,僧無盖,因幡の飯田秀雄,紀伊の加納諸平,江戸の伴信友らに国学,和歌などを学ぶ。この間に還俗して伴林六郎光平と名乗った。
京都を中心に志士と交わり,開国後は攘夷論を唱える。文久1(1861)年に大和中宮寺の家士となり,皇陵の復興に情熱を燃やして山陵調査を行い,朝廷から感謝状を受けている。変名並木春蔵を使って志士活動を展開し,同3年8月天誅組の大和挙兵に加わる。軍参謀兼記録方を務め十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る。諸藩兵と戦うが白銀峰や和田峰などで敗れ,京都に向けて逃走中に捕らえられ,翌年同志二十数名と共に京都六角獄において斬刑に処された。大和挙兵参加の始終を獄中で記した『南山踏雲録』その他の著作がある。
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さて初回の勉強会は、7/11(水)に開催した。「籠中追記」というサブタイトル(籠中=獄中)のついた『南山踏雲録』の約4分の1にあたる8頁までを学習した。冒頭の2頁半は「まえがき」であり、敗走から投獄までの経緯が書かれている。いかにも歌人らしく短歌が2首、登場する。そのうちの1首(P1)。捕われた岩船山(川上村)のことを思い出し、奈良奉行所で詠んだ歌(以下読みやすさを考慮して、表記は変えてある)。
楫(かじ)も無し 乗りて逃れん世ならねば 岩船山も甲斐なかりけり
岩船山には、アマテラスから十種の神宝を授かったニギハヤヒが乗ってきた天磐船(あめのいわふね)だとされる岩がある。しかし今は櫂(かい、梶、楫)がないので、せっかくの磐船(岩船)があってもそれに乗って逃れることはできない、という意味である。ニギハヤヒの天下りという神話を引いて、自らの落胆ぶりを表現したものだが、典雅な趣の漂う歌である。櫂(かい)と甲斐の掛詞(かけことば)もよく効いている
留置された奈良奉行所での待遇は、良かったようである。《高麗縁(こうらいべり)の畳三畳を板敷の上につらねて、膳具(春慶の木具)、夜のものなども相応に心したれば、矢玉の飛来る戦場よりは中々心やすくて、長閑(のど)けき方も多かりけり》(P2)。白地に模様を染めた高麗縁の畳、春慶塗のお膳、夜具など。伴林は著名な国学者であり、奉行所役人には門人が多かったので、優遇されたのだろう。
3頁後半から、いよいよ物語が始まる。1863年 (文久3年) 8/15~16、伴林は大阪の薩摩堀廣教寺へ歌会の指導に来ていた。務めを終えた16日夜、布団に入っていると午前零時頃、「法隆寺村(斑鳩町)からの急使が来た」といって起こされた。法隆寺の人・平岡武夫から手紙が来ていて、「中山忠光公が、宮中から内々の勅命(禁裡の御内勅)を受けて五條に向けて出発した。俗にいう『いざ、鎌倉』とはこの時である。すぐに出発し、正午までにお帰りください」とあった(しかし、あとで「禁裡の御内勅」は事実ではなかったことが判明する)。
明け方、十三峠を越えて正午近くに平岡の家に着いたが、すでに平岡は五條に発ったあとだった。伴林は急いで五條をめざす(途中、風の森峠で疲れて休憩し、歌を詠んだりする)。五條に着いたのは午後8時過ぎで、宿で代官所襲撃の様子を聞き、桜井寺(さくらいじ 五條市須恵)へ血まみれの首を見にいく。
翌18日朝、中山忠光に会い、軍記・文書草案の役目をいただく(しかし何という運命のいたずら! この日、京都では会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を追放するというクーデター事件「8月18日の政変」が起きていたのである。これで急進的な尊攘運動は退潮し、天誅組は暴徒として追討の命が下されることになる)。同日、三在村(五條市)で伴林は五條代官所役人のさらし首を目にする。その時詠んだ歌。地名の五條市須恵(桜井寺の所在地)と末をかけている。
切り落とす芋頭さえ哀れなり 寒き葉月の末(須恵)の山畑
翌19日夕刻、五條市の西隣の橋本市(和歌山県)まで紀州藩の兵が押し寄せてきた。その方向の二見村(五條市)まで、伴林は中山に従って出かけ「戯れに」歌を詠む。敵が攻めてきているというのに、これは余裕である。「二見」という地名に、「敵と味方の双方を見る」という意味を掛けている。
敵味方 二見(ふたみ)の里の夕月夜 東は照れり西は曇れり
兵隊たちは、これを聞いて「勝軍(かちいくさ)なり」と奮い立つ。ほら貝、太鼓を打ち鳴らして進軍すると、敵は一支えもできずに紀見峠(橋本市⇔大阪府河内長野市)まで退いた。
翌20日、天誅組は桜井寺の本陣を出て、山深い天ノ川辻(天辻峠=五條市西吉野町⇔大塔町)へ陣を移す。伴林は《滝の音も馬のいななきもさすがに勇ましく聞きなされて、心ゆく秋の山踏み(山登り)なりけり》と書いている。何やらのどかな雰囲気である。伴林は後醍醐天皇の賀名生(あのう)皇居のあった堀家住宅を訪ね、53字もの漢詩と短歌4首を詠み、阪本(五條市大塔町)で泊まる。
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しかしこの日(8月20日)は、天誅組にとって大変なことが起きていたのである。Wikipedia「天誅組の変」によると、8月19日に《京での政変が伝えられ、天誅組が暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議の末、本陣を要害堅固な天の川辻へ移すことを決め、20日、天誅組は当地に入り、本陣を定めた。吉村が元来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。玉堀為之進ら数名は天誅組の作戦に抗議し、天ノ川辻で斬首されている》。先ほどの朝日日本歴史人物事典に、伴林は《十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る》とあったが、『南山踏雲録』には不思議とそのことは出てこない。
翌21日、伴林は天辻峠に戻る。そこで伴林は《天ノ川辻という所は簾(すだれ)村の上手にて懸河四囲に注ぎ、絶壁咫尺(しせき=至近)を遮隔して 要害究境の地なれども、水の手 立隔たりて、民家の少なきのみこそ兵衆の愁いなりける》と書く…。
第1回勉強会の内容は、ざっと以上の通りである。それにしても短歌に漢詩、「心ゆく秋の山踏み(登山)なりけり」とは、驚きだ。この日学んだ中で、別の日に伴林が作った短歌を突然思い出して書き並べ、「どちらが良いか、後世に見た人が決めてくれればいい」というくだりもあった。その歌は、吉野の陣中で自分の尊皇の志を詠んだ歌で、
①わが霊(たま)はなお世にしげる御陵(みささぎ)の 小笹の上に置かんとぞ思ふ
②くずおれて よしや死すとも御陵(みささぎ)の 小笹わけつつ行かんとぞ思ふ
古事記にはヤマトタケルの歌が出てくるし、伊勢物語のような歌物語では、むしろ歌が主役である。源氏物語でも大事なシーンになると歌が登場する。しかし天誅組の壊滅という悲劇を、「軍参謀兼記録方」として天誅組の側から克明に記述した『南山踏雲録』(いわば天誅組側による「正史」)に、こんなにたくさんの歌が出てくるとは、驚きを禁じ得ない。まるで「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」(藤原定家)ではないか。
かつて三田誠広は学生運動を描いた『僕って何』で芥川賞を受賞した。それまでの学生運動小説といえば、社会主義を絶対的正義とし、正義のために闘いながら挫折する人物をセンチメンタルに描いたものばかりだったが、三田はラブコメ風の軽やかな筆致で学生運動を通俗的に描き、賛否の渦を巻き起こした。
天誅組の変は、文字通り命をかけて蹶起し、ほぼ全員が戦死・刑死するという悲劇であり、学生運動などとは比べものにならない悲惨な事件だが、記録方である伴林の立ち位置の自由奔放さ、視点のユニークさには、目を見張る。
これからの展開が、今から楽しみ(心配?)である。舟久保さん、よろしくお願いします!
舟久保さんは、いわば「天誅組五條の会」(=私が命名)のブレーンであり、奈良県が産んだ「超歴女(チョーれきじょ)」である。なお天誅組関連では、東吉野村に「天誅組東吉野の会」(=私が命名)もある。正確には、「東吉野村天誅組顕彰会」および「天誅組顕彰記念事業準備室」(東吉野村役場内)である。いずれも覚えきれないので、私は上記ニックネームで呼んでいる。。
6/2(土)、仲間と「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」(第10回古社寺を歩こう会)というウォーキング・ツアーを開催し、舟久保さんにはガイドを担当していただいた。その様子を、映像コンテンツ企画・制作の「office Kunea(オフィス・クネア)」さん(橿原市地黄町122-7)に撮影していただいたので、その画像を以下に貼りつけておく。
第10回古社寺を歩こう会「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」
今回の勉強会では、伴林光平著『南山踏雲録』(日本史籍協会 大正15年5月刊)という本を丸ごと1冊、読むことにしている。これから毎回、勉強会が終わるごとに当ブログでその内容をレビューしていくことにしたい。今日は初回なので、まずは天誅組と著者の伴林光平のことをざっと紹介する。天誅組について、詳しく知りたい方は当ブログの「天誅組とは何か」および「天誅組とは by 北谷美和子さん」をご参照いただきたい。
さて平凡社の世界大百科事典「天誅組」によると、
天誅組(てんちゅうぐみ)1863 年 (文久 3) 8 月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。 この年中央政局を動かした尊攘派のうち, 真木和泉らのたてた攘夷親征計画により, 8 月 13 日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。 これを機に大和の天領占拠をめざして, 土佐の吉村寅太郎,備前の藤本鉄石, 三河の松本奎堂(けいどう) らを中心とし, 公縁中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。
8 月 14 日に京都を出て,大坂と河内を経て大和に入り, 17 日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し, 代官所支配地の朝廷直領化,本年の年貢半減などを布告した。 はじめ土佐,筑後久留米,鳥取などの脱藩士が多かったが, 河内の庄屋層が加わり,京都政変 (8 月 18 日) が伝えられると, 十津川郷士の大量動員をはかった。 26 日めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相つぎ, さらに諸藩兵の追討を受けて敗走をつづけ, 9 月 24 日大和吉野郡鷲家口の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した。
著者の伴林については、朝日日本歴史人物事典から引用する。
伴林光平(ともばやし・みつひら)生年: 文化10.9.9 (1813.10.2) 没年: 元治1.2.16 (1864.3.23) 幕末の志士。通称は六郎。号は斑鳩隠士,岡陵,蒿斎など。河内国志紀郡林村(大阪府藤井寺市)の浄土真宗尊光寺賢静の次男。文政11(1828)年に上京。西本願寺学寮に入り仏学を修める。以後,摂津の中村良臣,僧無盖,因幡の飯田秀雄,紀伊の加納諸平,江戸の伴信友らに国学,和歌などを学ぶ。この間に還俗して伴林六郎光平と名乗った。
京都を中心に志士と交わり,開国後は攘夷論を唱える。文久1(1861)年に大和中宮寺の家士となり,皇陵の復興に情熱を燃やして山陵調査を行い,朝廷から感謝状を受けている。変名並木春蔵を使って志士活動を展開し,同3年8月天誅組の大和挙兵に加わる。軍参謀兼記録方を務め十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る。諸藩兵と戦うが白銀峰や和田峰などで敗れ,京都に向けて逃走中に捕らえられ,翌年同志二十数名と共に京都六角獄において斬刑に処された。大和挙兵参加の始終を獄中で記した『南山踏雲録』その他の著作がある。
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さて初回の勉強会は、7/11(水)に開催した。「籠中追記」というサブタイトル(籠中=獄中)のついた『南山踏雲録』の約4分の1にあたる8頁までを学習した。冒頭の2頁半は「まえがき」であり、敗走から投獄までの経緯が書かれている。いかにも歌人らしく短歌が2首、登場する。そのうちの1首(P1)。捕われた岩船山(川上村)のことを思い出し、奈良奉行所で詠んだ歌(以下読みやすさを考慮して、表記は変えてある)。
楫(かじ)も無し 乗りて逃れん世ならねば 岩船山も甲斐なかりけり
岩船山には、アマテラスから十種の神宝を授かったニギハヤヒが乗ってきた天磐船(あめのいわふね)だとされる岩がある。しかし今は櫂(かい、梶、楫)がないので、せっかくの磐船(岩船)があってもそれに乗って逃れることはできない、という意味である。ニギハヤヒの天下りという神話を引いて、自らの落胆ぶりを表現したものだが、典雅な趣の漂う歌である。櫂(かい)と甲斐の掛詞(かけことば)もよく効いている
留置された奈良奉行所での待遇は、良かったようである。《高麗縁(こうらいべり)の畳三畳を板敷の上につらねて、膳具(春慶の木具)、夜のものなども相応に心したれば、矢玉の飛来る戦場よりは中々心やすくて、長閑(のど)けき方も多かりけり》(P2)。白地に模様を染めた高麗縁の畳、春慶塗のお膳、夜具など。伴林は著名な国学者であり、奉行所役人には門人が多かったので、優遇されたのだろう。
3頁後半から、いよいよ物語が始まる。1863年 (文久3年) 8/15~16、伴林は大阪の薩摩堀廣教寺へ歌会の指導に来ていた。務めを終えた16日夜、布団に入っていると午前零時頃、「法隆寺村(斑鳩町)からの急使が来た」といって起こされた。法隆寺の人・平岡武夫から手紙が来ていて、「中山忠光公が、宮中から内々の勅命(禁裡の御内勅)を受けて五條に向けて出発した。俗にいう『いざ、鎌倉』とはこの時である。すぐに出発し、正午までにお帰りください」とあった(しかし、あとで「禁裡の御内勅」は事実ではなかったことが判明する)。
明け方、十三峠を越えて正午近くに平岡の家に着いたが、すでに平岡は五條に発ったあとだった。伴林は急いで五條をめざす(途中、風の森峠で疲れて休憩し、歌を詠んだりする)。五條に着いたのは午後8時過ぎで、宿で代官所襲撃の様子を聞き、桜井寺(さくらいじ 五條市須恵)へ血まみれの首を見にいく。
翌18日朝、中山忠光に会い、軍記・文書草案の役目をいただく(しかし何という運命のいたずら! この日、京都では会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を追放するというクーデター事件「8月18日の政変」が起きていたのである。これで急進的な尊攘運動は退潮し、天誅組は暴徒として追討の命が下されることになる)。同日、三在村(五條市)で伴林は五條代官所役人のさらし首を目にする。その時詠んだ歌。地名の五條市須恵(桜井寺の所在地)と末をかけている。
切り落とす芋頭さえ哀れなり 寒き葉月の末(須恵)の山畑
翌19日夕刻、五條市の西隣の橋本市(和歌山県)まで紀州藩の兵が押し寄せてきた。その方向の二見村(五條市)まで、伴林は中山に従って出かけ「戯れに」歌を詠む。敵が攻めてきているというのに、これは余裕である。「二見」という地名に、「敵と味方の双方を見る」という意味を掛けている。
敵味方 二見(ふたみ)の里の夕月夜 東は照れり西は曇れり
兵隊たちは、これを聞いて「勝軍(かちいくさ)なり」と奮い立つ。ほら貝、太鼓を打ち鳴らして進軍すると、敵は一支えもできずに紀見峠(橋本市⇔大阪府河内長野市)まで退いた。
翌20日、天誅組は桜井寺の本陣を出て、山深い天ノ川辻(天辻峠=五條市西吉野町⇔大塔町)へ陣を移す。伴林は《滝の音も馬のいななきもさすがに勇ましく聞きなされて、心ゆく秋の山踏み(山登り)なりけり》と書いている。何やらのどかな雰囲気である。伴林は後醍醐天皇の賀名生(あのう)皇居のあった堀家住宅を訪ね、53字もの漢詩と短歌4首を詠み、阪本(五條市大塔町)で泊まる。
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しかしこの日(8月20日)は、天誅組にとって大変なことが起きていたのである。Wikipedia「天誅組の変」によると、8月19日に《京での政変が伝えられ、天誅組が暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議の末、本陣を要害堅固な天の川辻へ移すことを決め、20日、天誅組は当地に入り、本陣を定めた。吉村が元来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。玉堀為之進ら数名は天誅組の作戦に抗議し、天ノ川辻で斬首されている》。先ほどの朝日日本歴史人物事典に、伴林は《十津川郷その他に檄文を送って参加者を募る》とあったが、『南山踏雲録』には不思議とそのことは出てこない。
翌21日、伴林は天辻峠に戻る。そこで伴林は《天ノ川辻という所は簾(すだれ)村の上手にて懸河四囲に注ぎ、絶壁咫尺(しせき=至近)を遮隔して 要害究境の地なれども、水の手 立隔たりて、民家の少なきのみこそ兵衆の愁いなりける》と書く…。
第1回勉強会の内容は、ざっと以上の通りである。それにしても短歌に漢詩、「心ゆく秋の山踏み(登山)なりけり」とは、驚きだ。この日学んだ中で、別の日に伴林が作った短歌を突然思い出して書き並べ、「どちらが良いか、後世に見た人が決めてくれればいい」というくだりもあった。その歌は、吉野の陣中で自分の尊皇の志を詠んだ歌で、
①わが霊(たま)はなお世にしげる御陵(みささぎ)の 小笹の上に置かんとぞ思ふ
②くずおれて よしや死すとも御陵(みささぎ)の 小笹わけつつ行かんとぞ思ふ
古事記にはヤマトタケルの歌が出てくるし、伊勢物語のような歌物語では、むしろ歌が主役である。源氏物語でも大事なシーンになると歌が登場する。しかし天誅組の壊滅という悲劇を、「軍参謀兼記録方」として天誅組の側から克明に記述した『南山踏雲録』(いわば天誅組側による「正史」)に、こんなにたくさんの歌が出てくるとは、驚きを禁じ得ない。まるで「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」(藤原定家)ではないか。
かつて三田誠広は学生運動を描いた『僕って何』で芥川賞を受賞した。それまでの学生運動小説といえば、社会主義を絶対的正義とし、正義のために闘いながら挫折する人物をセンチメンタルに描いたものばかりだったが、三田はラブコメ風の軽やかな筆致で学生運動を通俗的に描き、賛否の渦を巻き起こした。
天誅組の変は、文字通り命をかけて蹶起し、ほぼ全員が戦死・刑死するという悲劇であり、学生運動などとは比べものにならない悲惨な事件だが、記録方である伴林の立ち位置の自由奔放さ、視点のユニークさには、目を見張る。
これからの展開が、今から楽しみ(心配?)である。舟久保さん、よろしくお願いします!