tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(2) by 舟久保藍さん

2013年03月04日 | 天誅組
 実録 天誅組の変
 舟久保 藍
 淡交社

ずいぶん時間が経ってしまったが、「天誅組を『南山踏雲録』(伴林光平著)から読み解く」の第2回をお届けする。2012年6月2日、第1回の天誅組勉強会を開催し「天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(1)」をアップした。しかしその後、講師の都合で開催が延期され、今年(2013年)の1月23日(水)と3月6日(水)に残り2回が開かれ、ようやく完結するはこびとなった。

この間に、大きなニュースが飛び込んできた。天誅組蹶起150年の今年、講師の舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会 特別理事)が、淡交社から『実録 天誅組の変』(2,415円)というご著書を出版されたのである! これはグッドタイミングな企画である。版元の紹介文には《天誅組決起150年記念出版 義挙とも暴挙とも呼ばれる天誅組の変の実態を詳らかにした一冊》。

《幕府の直轄領であった大和五條(奈良県五條市)は現在でも穏やかな地方都市ですが、文久3年(1863)8月17日、尊王倒幕を目指した一団によって突如占領されました。「天誅組」と呼ばれたその一団は、幕府に追討を命じられた諸藩の包囲を受け、約40日にわたって西吉野、十津川と転戦し、東吉野で壊滅します。しかし、彼らが目指した倒幕は5年後に実現し、明治維新を迎えることになりました。「維新の魁」とも呼ばれる彼ら天誅組の実態を詳細にまとめた一冊》とある。2月28日に出たばかりなので、私はまだ入手できていないが、これはぜひ熟読するつもりである。何しろ天誅組に関する本は、あまり出回っていないのである。



さて今日は、第2回勉強会(1/23)の内容を紹介する。前回、天誅組は8月17日、五條代官所を襲撃、代官鈴木源内の首をはね、代官所に火を放って挙兵。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言した。今回は御所(宮中)で大逆転劇が起きる。挙兵の直後の8月18日、「8月18日の政変」(公武合体派によるクーデター)が起こり、天皇の大和行幸は中止となり、京の攘夷派は失脚する。これにより挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となったのである。これはエライことである。8月18日の政変について、世界大百科事典から少し詳しく紹介しておく。

1863 年 (文久 3) 8 月 18 日,孝明天皇と中川宮 (朝彦親王) が画策し, 醍摩・会津両藩が加わって,京都から尊王攘夷派の中心であった長州藩と, それと結ぶ急進派公縁とを追放した事件。 62 年から京都を制圧し朝意を左右していた尊攘派は, 63 年 8 月 13 日,天皇に強要して攘夷親征のための大和行幸の勅を出させた。 これに対し公武合体派は巻返しのためのクーデタを計画した。 18 日未明,会津,淀,醍摩の兵が御所の門を固めるなかで, 中川宮,前関白近衛忠厩(ただひろ),右大臣二条斉敬 (なりゆき), 京都守護職松平容保 (かたもり),京都所司代稲葉正邦らが参内し, 朝議が開かれた。

この朝議では三条実美 (さねとみ) ら急進派公縁20 余人の参内禁止, 国事参政・国事寄人の廃止,長州藩の堺町御門警備の解除と同藩士の御所門内への立入禁止, 天皇の大和行幸の延期が決定された。 長州藩兵は急を知って御所の門外に集結したが, やがて退去し,翌日,実美ら 7 人の公縁を伴って長州へ下った (七縁落)。 こうして尊攘派の勢力は京都から一掃され, 以後,朝廷と幕府の合意のもとに,より穏健な方法で外国を退ける策として, 横浜鎖港交渉が進められていった。 この政変で,外国と武力衝突を起こすことが当面は避けられ, また尊攘派の圧力で朝廷が幕府と無関係に諸藩に命令を下すこともなくなったので, 最高の領主権力としての幕府の地位は一時的にではあるが安定した。 一方,この政変をきっかけに,尊攘派は倒幕を運動のスローガンに掲げることになった。



天皇の大和行幸が中止となり、天誅組の「義挙」は「暴挙」になってしまう。これについて伴林光平の『南山踏雲録』には(以下、読みやすさを考慮して表記を一部変えている)、《あまりの事にあきれ果て、ものさえ言われず。この上はいかがはせん。「冠履倒置、正邪転倒(物事の順序・正邪が逆になる)は珍しからぬ世のならひなり。たとい乱暴の名は蒙るとも、正義の一挙、かくして止むべき(やめることができようか)」など、人々切歯瞋目(せっししんもく 非常に悔しがって歯を食いしばり、目をいからせる)して、言い罵(ののし)る》。

逆賊となった天誅組に対し、藤堂藩(津藩)、彦根藩、郡山藩、紀州藩、高取藩などの藩兵の追討軍が一斉に攻めてくる。9月9日、彦根藩兵は丹生川上神社下社(下市町)へ放火する。これに対し、天誅組の勇士12人は下市の彦根陣営を焼き討ちにした。《下市民家に放火すること45ヶ所、彦賊周章狼狽、煙の下より迷ひ出るを、芋刺にせらるる者 数を知らずといふ》。



そこで伴林は一首、ひねり出す。《夜もすがら、銀峯山の御陣より火村(ほむら)を眺めつつ 吉野山 峰の梢(こずえ)や いかならむ 紅葉になりぬ谷の家村(いえむら)》。民家が燃えるのを見て吉野山の紅葉を連想している。まだこの時点では余裕があったのだ。

このあと『南山踏雲録』では、メンバーのプロフィールなどを紹介している。記紀をよく理解しよく弁じ、優れた意見を持つ文人・藤本鉄石(津之助 岡山藩)。軍太鼓の上手な森下儀之助(土佐藩)、下手な宍戸弥四郎正明(まさあき 刈谷藩)。心を鬼にして3歳の子を妻に投げつけて家を出たという小川佐吉師久(もろひさ 久留米藩)。寛大で度量が大きく、よく人を愛し人を敬う吉村虎太郎(土佐藩)。平田鳩平の妻は22歳で郡山藩士の末娘、容貌美麗で節操がある。伴林に「最後の不覚をとらぬよう導いてください」と手紙を書いてきた。その心中、見事である。

司馬遼太郎の『おお、大砲』にも登場する酒井傅次郎(久留米藩)。高取藩の藩宝たる大砲から撃たれた弾に当たったが、それは3日間の耳鳴りをさせただけ、という話である。《「まったくあの大砲にはひどい目にあわされた。三貫目玉がカブトに当たってから、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかったほどだ」「耳鳴り。…」こんどは新次郎(=高取藩)のおどろく番だった。二百年間、高取藩の藩宝として受けつがれてきたブリキトース砲は、この紀州の足軽あがりの男に耳鳴りさせただけにすぎなかったのだ。(なるほど、そういうものかもしれない)この一事で、徳川三百年というものの中身が、なんとなくわかるような気がした》(『おお、大砲』)。



伴林は次々に歌を詠む。戦場の歌人は、枕詞や本歌取りなどの技巧を凝らした歌を詠んでいる。例えば

ある時、永谷の里を深夜に通過したとき
山鳥の尾上の月もしるべ(導)せよ 秋の長夜の長谷の里
(山鳥は尾にかかる枕詞。尾上は山の頂。長夜の「長」にかけるために「永谷」をあえて「長谷」としている。山の頂の上の月よ、導いてくれと、秋の夜、永谷の里で祈っている)

十津川郷・高津(こうづ)の里に宿陣して
むかしたれ炭やく烟(けむり)たてそめて ここの高津(こうづ)はにぎわいにけむ
(高津という地名から、仁徳天皇を祭る浪速高津宮を連想し、新古今集巻7 仁徳天皇御製「高き屋にのぼりてみればけむり立つ 民のかまどはにぎわひにけり」を真似て詠ったもの)



暢気に歌など詠んでいる場合だろうか。この頃は諸藩の攻撃の激しい時期だった。Wikipedia「天誅組の変」から拾うと《諸藩の藩兵が動き出し、(9月)6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14,000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する》。

これを受けて、何やら動きが出てきた。9月14日夜、14人の隊士(8/13の京都出発の時から忠光公のお伴をしてきた隊士)だけが中山忠光公の呼ばれ、秘密の会議を始めた。これに対し、外様の隊士(8/13以降に参加した隊士)は、大いに不満がる。どんな秘密の会議だったのだろうか。続きは、次回(3/6の勉強会)をお楽しみに。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする