tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

司馬遼太郎が教えてくれた(2)「日本語文章体」の大衆化から、やっと60年

2013年03月19日 | 司馬遼太郎
 司馬遼太郎全講演〈2〉1975‐1984 (朝日文庫)
 司馬遼太郎
 朝日新聞社

今回は、朝日文庫『司馬遼太郎全講演[2]』の「文章日本語の成立」から(1982年 東京・NHKホール 新潮カセット講演『司馬遼太郎が語る 第4集』が初出)。今回のテーマは「共通文章日本語の成立」、つまり、日本人が誰でも共通に使用できる、いわばインフラとしての「日本語文章体」ができたのはいつか、という話である。

文章というのは、それがいいか悪いかは別として、社会の文化、あるいは文明の成熟に従って、やがては社会の共有のものになるんだ、ということをお話ししたいと思います。

結論を言いますと、明治期に夏目漱石が、だいたい多目的の文章を考案したということを言いたいんです。

『虞美人草』は漱石の作品の中ではそんなに高く評価されてはいませんが、しかし、文章として見ると、そこに色恋沙汰も表現できて、しかも思想的なものが十分に表現されている。一筋縄でしかなかった泉鏡花の文章から見ると、道具として非常に多目的に使える能力を持っているように思います。それに、自分および他人に対して一定の距離を置くことができるという文体を、すでに漱石がつくりあげています。鏡花の場合は、自分の情念なり、何事かに則した、則し過ぎた文章しか持っていませんが、漱石の文章だと、自他を客観視できるというところまでいっています。


 虞美人草 (新潮文庫)
 夏目漱石
 新潮社

試しに『虞美人草』の出だしの文章を紹介する。《「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と一人が手巾(ハンケチ)で額を拭きながら立ち留った。「どこか己(おれ)にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯(からだ)も四角に出来上った男が無雑作に答えた。反(そり)を打った中折れの茶の廂(ひさし)の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫(かすか)なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺(うご)くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳(そび)えている》。なるほど、立派に現代でも通じる文章である。

対する泉鏡花の『婦系図』の出だしは《素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯(しらは)に酸漿(ほおずき)を含んでいる。……「早瀬の細君(レコ)はちょうど(二十)と見えるが三だとサ、その年紀(とし)で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺(あたり)近所は官員(つとめにん)の多い、屋敷町の夫人(おくさま)連が風説(うわさ)をする。すでに昨夜(ゆうべ)も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可(い)いのを撰(よ)って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家(となり)の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎(は)ねられて、利いた風な、と口惜(くやし)がった》。何だか擬古文のような、不思議な「うねり」のある文章である。これでは、客観的なものが書けそうもない。

 婦系図 (新潮文庫)
 泉鏡花
 新潮社

われわれは日常的に「おふくろさん」のことを「お母さん」と言います。「おやじさん」のことを「お父さん」と言います。しかし明治より前に、そんな言葉はどこでも使われたことがないんです。それらはみな、文部省が勝手につくったんですね。

それから、「さようでございます」とか、「さようでござりまする」というのが敬語でした。それをやめて、「そうです」という非常に軽い敬語にした。これも文部省か何かが勝手につくった言葉です。一説によりますと、江戸の末期の芸者さんが「そうです」と言っていたそうです。


では、漱石が先鞭をつけた「文章日本語」が広く一般的に使われるようになったのは、いつか。司馬は、フランス文学の権威である桑原武夫氏にお酒の席で聞いたそうだ。

「昭和27、8年じゃないか」と言ってみました。桑原さんは「『週刊新潮』その他の発行、つまり、割合、質のいい文章の大衆化ということと関係があるんではないか」とおっしゃった。それが冒頭の話とつながります。

私は昭和28年生まれで、今年は還暦だ。すると「共通日本語文章体の大衆化」も、還暦を迎えたことになる。我々がごく当たり前に使っているこの文章体は、たかだか60年ほどのものなのだ!

 竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)
 司馬遼太郎
 文藝春秋

司馬は余談として、こんなことにも触れている。明治以前には、文章日本語だけでなく、スピーチしたり議論したりする言葉もなかった。

とはいっても、幕末の志士などが非常に議論している。今後どうすべきかということを策謀したり、あるいは、反対勢力との間の調整をしていますね。しかしそれは、お座敷に座って議論をしていたのかというと、それだけの言語はなかったように思うんです。志士たちは京都で、下宿するようにして転々と泊まっておりました。同じ党派は似たような町、木屋町なら木屋町に泊まっております。しかし隣に泊まっている仲間に手紙を書くんですね。で、下男が持っていく。すると返事もすぐ戻ってくる。こうしようとか、おれはこう思うとかいうことを、簡潔な漢文まじりの候文か、メモ程度の文章で通じ合う。非常に不自由な言葉しかなかったわけであります。

これは興味深い話である。NHKの『龍馬伝』などを見ていると、志士たちが盛んに激しい議論をしていたが、当時、あんな言葉はなかったのである。同郷の出身者なら、方言でコミュニケションできたかも知れないが、そうでなければ話し言葉が違うので、通じにくかったことだろう。短い手紙でやりとりしていたというのは、今の携帯メールやツイッターにも通じるので、これはある意味で原点回帰なのかも…。

今回も目からウロコの話であった。司馬遼太郎さん、有難うございました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする