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世阿弥ゆかりの田原本町・補厳寺(産経新聞「なら再発見」第19回)

2013年03月09日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞(奈良版・三重版ほか)に好評連載中の「なら再発見」、今回のタイトルは《田原本・補厳寺(ふがんじ) 世阿弥の足跡たどる》、執筆者はNPO法人奈良まほろばソムリエの会・理事の大山恵功(よしのり)くんである。

大山くんは広陵町在住、会社では私と同期である。NPOでは「啓発グループ」の担当で、各種勉強会の開催や奈良検定事業の支援などを行う。この4月からは「奈良の食」をテーマとした勉強会を発足させたいと意気込んでいる。

奈良県は能楽発祥の地であり、今年は世阿弥生誕650年。これにちなんで大山くんは、田原本町の補厳寺に足を運んで詳しく調べ、世阿弥がこの寺で禅を学んだことや、(おそらく)この地で亡くなったことを知った。大変興味深い話である。以下、全文を紹介する。



 今年は能楽を大成した観阿弥の生誕680年、息子の世阿弥の生誕650年の記念すべき年とされる。
 能楽については、能面をつけて舞う日本古来の伝統芸能であることは知っていても、よく分からない。そう思っている人も多いだろう。
 能楽は現存している世界最古の舞台芸術で、発祥は大和の地とされる。
 川西町周辺の「結崎(ゆうざき)座」、田原本町周辺の「円満井(えんまい)座」、桜井市周辺の「外山(とび)座」、斑鳩町周辺の「坂戸(さかと)座」は、中世から近世にかけて「大和猿楽四座」と呼ばれた。
 それが現在の「観世(かんぜ)流」、「金春(こんぱる)流」、「宝生(ほうしょう)流」、「金剛(こんごう)流」となった。
      *   *   *
 田原本町味間(あじま)には、江戸時代末に本堂が焼失し、山門と庫裏(くり)、鐘楼(しょうろう)が残る禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)「補厳寺(ふがんじ)」がある。
 昭和30年代になって、同寺が室町時代に「結崎座」の世阿弥が禅を学んだ寺であることが分かった。
 発見したのはいずれも能楽研究者で、神戸在住の在野の香西精(こうさい・つとむ)氏(明治35年~昭和54年)と法政大学の表章(おもて・あきら)氏(昭和2年~平成22年)。



 香西氏は、世阿弥がどこで禅的教養を身に付けたのかを研究課題としていた。宝山寺(生駒市門前町)には「ふかん寺」と世阿弥が書いた手紙が残っており、この「ふかん寺」が田原本町の補厳寺であるとする学説を発表している。
 一方、関東に住んでいた表氏は昭和34年に補厳寺を訪れた。表氏は、寺から古文書などはないとの回答を香西氏が得ていたことを知っていたが、念のため再確認すると「補厳禅寺納帳(のうちょう)」という土地台帳が4冊見つかった。
 表氏が納帳を調査した結果、世阿弥が田地を寄進していたことや、命日が8月8日と記載されていることが確認された。
 知らせを聞いた香西氏も納帳を調べ、新たに世阿弥の妻の名前が納帳に記載されているのを見つけた。世阿弥夫婦の名前が納帳に記載されていたことから、手紙に書かれた「ふかん寺」が補厳寺と証明された。



 この発見により「世阿弥参学之地」の碑が門前に建てられ、補厳禅寺納帳は田原本町指定文化財となった。
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 世阿弥は幼少の頃から3代将軍の足利義満にかわいがられ、能を演じるだけでなく、能楽台本に当たる謡曲(ようきょく)を手掛けている。
 「秘すれば花」という言葉で有名な「風姿花伝(ふうしかでん)」など芸術論も残した。
 しかし、6代将軍の足利義教(よしのり)の頃には不遇となり、70歳を超える高齢にもかかわらず、佐渡島に流罪となり、その後、詳細は分からない。
 補厳寺禅寺納帳に命日が8月8日と記録されていることから、大和に戻った可能性が高いようだ。
 罪を解かれた後、世阿弥は、若い頃に禅を学んだ補厳寺に妻とともに身を寄せ、この地で亡くなったのではないだろうか。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 大山恵功)




世阿弥の手紙や土地台帳などをもとに推理を積み重ねていった結果、いろんなことが分かってきたのだ。香西氏と表氏のご努力には、全く頭が下がる。

補厳寺で現存する建物は門、鐘楼、庫裏のみで、庫裏は見ることができないそうで、鐘も戦時中に供出されたとか。寺の歴史については、粟谷能の会HPの補巌寺の案内に詳しく出ている

この寺は初め光蓮寺〔律宗〕と言いました。1300年代の終わり頃、改宗して大和で最古の禅寺・宝陀山補巌寺(曹洞宗)となりました。新しい宗風と了堂真覚(開山)の熱心な布教更に領主の十市が後援者となったことで、寺はどんどん大きくなり末寺孫末寺(所在地 奈良・京都・滋賀・広島・山口・島根・岩手)合わせて200余寺、寺領〔寄進田〕約70町歩となり室町時代は隆盛のうちに過ぎました。

1500年代の末戦国時代に入って、十市(遠勝)が織田信長と組んだ仇敵松永弾正(郡山城主)との戦いに敗れ滅亡、その時寺は丸焼きにされました。つづく豊臣秀吉の太閤検地で寺領も相当没収されたようです。徳川時代にはいってこの辺りの領主となった藤堂高虎がここを祈願所としましたので徳川時代は平穏に過ぎたようです。

1800年代の中頃放火により本堂は全焼、続く明治の廃藩置県で藤堂家とも縁が切れ、更に廃仏帰神の荒波をうけて寺は息も絶え絶えの状況になりながらも、なんとか昭和まで持ちこたえました。が戦後の農地解放で根こそぎやられ、とうとう息の根が絶えました。

観世の祖と敬われている世阿弥は、当寺2代竹窓智厳に師事しました。世阿弥は能役者として又謡曲作家として、禅の精神「宗旨の参学は得法以後の参学」又「得法の後練り返し練り返し功を積むべし」を能の修行に採り入れ、一世を風靡しました。幽玄美の極致をひたむきに追求した世阿弥の能の世界には、禅の影響が強いといわれています。

世阿弥夫妻は当寺で出家しそれぞれ至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ寺に田地一段づつを、寄進しています。納帳には至翁禅門8月8日の記述が有り、供養が営まれていたことが分ります。寺の墓地には十市遠勝の碑およびその子孫と思われる上田家の墓・重臣等であったと思われる木村今沢渡辺家の墓があります。


世阿弥の父・観阿弥は、奈良県出身だそうだ。Wikipedia観阿弥によると《世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという》。

今年は観阿弥生誕680年、息子の世阿弥の生誕650年だそうだから、ぜひ、これを地域おこしの素材としてほしいものだ。

大山くん、興味深い話を分かりやすくまとめていただき、どうも有難う!

コメント
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