tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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奈良交通・古事記をめぐるバスツアー「御所コース」案内記

2013年03月28日 | 記紀・万葉
当ブログで紹介する順序が逆になったが、奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップによる「古事記をめぐるバスツアー」の御所コース(3月10日と17日に実施)は、好評裡に終了した。正式には「御所・葛城に黎明期の大和を訪ねる」というコース名で、行程は

近鉄・JR奈良駅→大和八木駅→鴨都波(かもつば)神社→神武天皇社→嗛間(ほほま)神社(嗛間丘と国見山を眺望)→宮山古墳・孝安天皇秋津嶋宮→(昼食)→葛木御歳(みとし)神社→葛木水分(みくまり)神社→長柄神社→大和八木駅→近鉄・JR奈良駅

このコースでメインガイドを務めたのは、奈良まほろばソムリエの会のガイド名人・田原敏明さんで、私もサブガイドとして参加した。以下、田原さんがお作りになったレジュメから内容を引用する。


鴨都波神社の境内で。以下、写真は3月17日の撮影

御所市(古代の葛城)の変遷
・古代の葛城は、御所市・葛城市・大和高田市・香芝市・河合町・広陵町・王寺町に囲まれた範囲。現在の御所市は律令制の大和国葛上郡の地で、古瀬付近は高市郡巨勢郷に属した。
・明治22年の郷村の合併の時、新しい村名に記紀に詠まれた地名を採る 掖上村、秋津村
・南葛城郡御所町が秋津村を編入(1954年)、掖上村を編入(1955年)
・1958年に御所町を中心に近隣の村を合併して御所市が誕生。(今年は市制55周年)
・市の花:つつじ、市の木:くすの木 (1978年選定)



鴨都波神社(かもつばじんじゃ)
御祭神:積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)、下照比売命(したてるひめのみこと)
社伝によれば、崇神天皇の時代、大国主命第11世太田田根子の孫、大賀茂都美命が創建した。一帯には鴨都波遺跡があり、弥生時代の土器や農具が出土しており、古くから鴨族が住み着き、農耕をしていた。事代主神を奉斎した鴨王の娘が、神武・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)の三代天皇の皇后となった由縁から、祭神は皇室の八神の守護神の1つとして崇拝された。

鴨都波遺跡
東西約450メートル、南北約500メートルの弥生時代の大規模集落跡
鴨都波1号墳
東西16m、南北20mの方墳。粘土槨、コウヤマキ棺(L4.3mxW0.43)。
棺蓋・棺身の内面は水銀朱を塗布。4面の三角縁神獣鏡、方形板革綴短甲(百済系?)。小規模方墳としては豪華な副葬品=葛城氏の巨大な力

神武天皇社(御所市柏原)
御祭神:神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)(日本書記:神日本磐余彦天皇):神武天皇
・古事記:「かく荒ぶる神等(かみども)を言(こと)向け平和(やわ)し、伏(まつろ)はぬ人等を退(そ)け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらみや)に坐しまして、天(あめ)の下治(し)らしめしき。」
・大和誌(享保21年:1736)「橿原宮。柏原村に在り」
・菅笠日記(本居宣長 明和9年:1772)「今かしばらてう名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみの方に侍れ」
・神武天皇国見の歌(日本書紀):掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登りまして、国の状(かたち)を廻(めぐ)らし望みて曰はく「研哉乎(あなにや)国を獲(え)つること。内木綿(うちゆふ)の 真迮(まさき)国と雖(いえど)も、猶し蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて始めて秋津洲(あきづしま)の号(な)有り。


神武天皇社の説明をされる藤井先輩(向かって左端)

つまり、『大和誌』や本居宣長『菅笠日記』によれば、神武天皇の即位した橿原宮は、今の橿原神宮の場所ではなく、この御所市柏原の地だというのである。白洲正子も『かくれ里』(講談社文芸文庫)に書いている。《なぜそんな所に興味をもったかといえば、神武天皇が即位されたのは、今の橿原神宮ではなく、おそらくこの柏原の地だからである。何度も人に尋ねながら行くと、その社は、柏原の町中の、藤井勘左衛門氏という家の前を入った、小路の奥に鎮座していた》。



《村の鎮守といった格好で、みすぼらしい社殿があるだけだが、畝傍の裏にひっそりとかくれて、村人たちに「神武さん」と呼ばれて護られている姿は、土豪に擁されて即位した磐余彦の、ありのままの姿をほうふつとさせる。人も知るように、現在の橿原神宮は、明治の中頃できたもので、地名も橿原ではなく、白橿の村といったと聞く。どういういきさつで、そこが正しい宮跡とされたか、私は知らないけれども、徳川時代にはすでにわからなくなっていたらしい》。なお神武天皇の宮=柏原説の論拠は、鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)の『神々と天皇の間』(朝日文庫)に詳しい。

神武天皇社と嗛間(ほほま)神社は、地元・御所市柏原の藤井さんにご案内いただいた。藤井さんは私の会社の先輩である。『かくれ里』に登場する藤井勘左衛門氏は藤井先輩の曾祖父で、ご自宅で白洲正子に応対されたのは先輩のお母様だそうだ。

嗛間神社は藤井宅に隣接していて、普段は参拝できないのであるが、この日は特別に鍵を開けてくださった。ツアーで見ていただくのは本邦初だそうで、参加者の皆さんにはとても喜んでいただいた。


向かって右の小さな祠が嗛間神社


嗛間神社に隣接する藤井邸にもお邪魔した

嗛間神社(嗛間丘=本馬山を眺望)
御祭神:阿比良比賣(日本書紀:吾平津媛命)=神武天皇の前妃
日向時代 神武天皇・阿比良比賣(あひらひめ) →多藝(たぎ)志(し)美(み)美(みの)命(みこと)(手研耳命)、岐須美美命
大和平定後 神武天皇・伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)(媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))→日子八井命、神八(かむや)井(い)耳(みみ)命(のみこと)、神沼(かむぬな)河(かわ)耳(みみの)命(みこと)(綏靖天皇)(ただし日本書紀では 神八井命、神渟名川耳尊の二子)
狭井河よ 雲立わたり 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風ふかむとす(伊須氣余理比賣)



藤井邸のお庭から国見山が望める



宮山古墳(室の大墓)
5世紀前半(西暦420年頃)築造。全長238メートルの前方後円墳、3段築成、高さ25m。
・後円部の墳丘中軸を挟んで南北に二つの石室があり、板石積の竪穴式石室に竜山石製の長持ち型石棺を納める。
・二重の埴輪列が石室を囲む。南石室の外側の埴輪列は甲冑・楯・靭形埴輪を外側へ向けて並ぶ。
・長持ち型石棺は蓋の全長3.77mで、6か所の縄掛突起を持つ。内部に朱を塗る。
・靭(ゆぎ)埴輪 :高さ147cm、最大幅99.5cm
・家形埴輪は極楽寺ヒビキ遺跡の大型建物の復元モデルとなる。
・被葬者は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が有力



宮山古墳は、石棺内部を見ることができる。この麓に「第6代孝安天皇秋津嶋宮」があったとされる

葛城氏
葛城族の長としては、神武天皇の大和征服により葛城国造に命ぜられた葛城劔根(かつらぎのつるぎね)の名前が日本書紀に初めて見えます。葛城一族は4世紀末~5世紀の葛城襲津彦の時代に全盛期を迎え、娘の磐之媛は仁徳天皇に嫁ぎ、履中・反正・允恭天皇を生みます。襲津彦は朝鮮半島の戦いで数々の武勲をあげた。その時の国人を連れて帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海の4邑に住まわせて、当時の最新式技術を取り入れた鉄製品などを造らせたと伝えられている。

なお襲津彦の父親は、数代の天皇に仕えたという伝説上の人物の武内宿禰。武内宿禰は襲津彦を含む7人の息子を持ち、その中には蘇我氏の祖となる蘇我石河宿禰、巨勢氏の祖となる許勢小柄宿禰、平群氏の祖となる平群都久宿禰がいる。



宮山古墳の石棺内部。うっすらと朱が残っている(こちらは、2010.9.18の撮影)

巨勢氏
6世紀のはじめ、武烈天皇(25代)は世継ぎに恵まれず、血統断絶の危機を迎える。応神天皇の5代後の継体天皇の擁立に巨勢男人(こせのおひと)が活躍し、巨勢氏の権勢が大きくなる。首長墓として條ウル神古墳・水泥古墳(北・南)が考えられる。巨勢山古墳群は800余基からなる。

蘇我氏
葛城の地は蘇我氏の本願地でもある。蘇我氏が権力を手にするのは飛鳥時代である。蘇我馬子が蘇我氏本願地の高宮地区の返還を推古天皇に迫ったり、蘇我蝦夷が祖廟を葛城の高宮に立て、天皇家に許された八佾の儛(やつらのまい)を行う。

中西遺跡 
弥生時代の水田。面積約2万平方メートル(甲子園球場4個分)。
・洪水に襲われた形跡。
・小規模な企画に造成。1区画は10~15平方メートル
・埋没林 : 2400年前の林が幹まで残っていた。
・計画性と労働力を持った集団の存在

秋津遺跡 空白の4世紀を埋める発見
纏向遺跡の消滅と同時期に出現。4世紀前半(古墳時代前期)の大型建物群
・下層(水田がある)より縄文時代のクワガタ発掘
・方形区画施設 7基(長辺約30~50mx短辺約15~20m)の検出
・杭を打ち並べた溝の内外を2~3mの間隔で打った丸太で押さえる。
・4世紀前半の大和政権の変遷(二大勢力化 : 東の纏向、西の葛城)
・葛城族の興起は325年頃 : 宮家と豪族の分化

第6代孝安天皇秋津嶋宮
孝安天皇(前427年-前291年)在位102年、136歳(紀)・123歳(記)で崩御
父:孝昭天皇、母:世襲足媛、 皇后:押媛  皇子:孝霊天皇(第7代)
御所市周辺にある宮跡伝承地
神武天皇(初代):畝火の白檮原宮(橿原宮) 綏靖天皇(2代):葛城の高岡宮(高丘宮)、孝昭天皇(5代):葛城の掖上宮(池心宮)  孝安天皇(6代):葛城の室の秋津島宮

        

このあと、大和鮨 夢宗庵(むそうあん)御所店(柿の葉ずしヤマト)で昼食

葛木御歳(かつらぎみとし)神社
御祭神:御歳神(みとしのかみ)
相殿:大年神(おおとしのかみ)、高照姫命(たかてるひめのみこと)
・中鴨社といわれる。
・現在の本殿は、江戸期に春日大社の第一殿を移築したもの。平安期以降はこの辺りは興福寺・春日大社の荘園であった。





葛木水分(かつらぎみくまり)神社
御祭神:天水分神、国水分神 
・「水分」は「水配」の意で、水分神は山から流出する水の分岐点や分水嶺に鎮まる神のこと
・「この速秋津日子、速秋津比賣の二はしらの神、河海によりて持ち別けて、生める神の名は、…、次に天之水分神、次に國之水分神、次に…」(古事記)
・大和の四水分神社:吉野、宇陀、都祁、葛木



古来、大和盆地では「米一升、水一升」と水は大切にされてきた。葛城山麓の扇状地は、用水を得るのが困難な地域。そこでこの地域では「マンボ」と呼ばれる横井戸や「ダブ」と呼ばれるため池が作られていた。水越川の流域の名柄地区の本久寺では、毎年7月18日「角之進(かくのしん)祭」が催され、農業の感謝祭が行われる。江戸時代初期、葛城山と金剛山の間の水越峠付近で、大阪河内側に流れる水を大和吐田郷側に導水したのは上田角之進である。

その後、元禄14年5月に河内側農民千人と大和・吐田郷の農民は国境の水越峠に対峙し、流血直前、名柄村庄屋の高橋佐助の懸命な折衝で一旦は終息。最終的には京都所司代の判決により大和側の勝利となり、勝訴に導いた佐助は抜本解決をするため、吉野川から導水を計画。そして、約300年後にその夢は実現した。1956(昭和31)年、吉野川分水が完成し農業用水が引かれ、1974(昭和49)年東西幹線水路が完成。



長柄神社本殿


本殿の屋根の庇(ひさし)の裏に、何やら絵が…(2010.9.18撮影。下の写真とも)


描かれていたのは、「八方睨みの龍」だった!

長柄神社
御祭神:下照姫
長柄神社は名柄街道と水越街道の交差点に位置している。祭神は下照姫で、俗に「姫の宮」と称し、「延喜式」神名帳に記されている。本殿は一間社春日造、桧皮葺、丹塗で県指定文化財。天武天皇9年9月9日に長柄杜で流鏑馬を行なったと日本書紀は記す。


地元出身の堺屋太一(池口小太郎)が、長柄神社灯籠を寄進している。実家も近くにあった

今回のツアーでは、藤井ファミリーのご好意で神武天皇社や嗛間神社を拝ませていただき、またお庭から国見山を見せていただいた。田原さんのトークも絶好調で、ビジュアル資料を駆使しながら、難しい話をやさしく丁寧に解説していただいた。ツアーで喜ばれるのは「今だけ、ここだけ、あなただけ」だといわれるが、このツアーでは、まさにそれが実現したのである。 

藤井先輩、田原さん、有難うございました。奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップツアー、いよいよ4月からは万葉集をテーマに、奈良まほろばソムリエと歌って巡ろう!大和路・万葉の旅というバスツアーが始まります。古事記ツアー同様、たくさんの方のご参加をお待ちしています!        
コメント (2)
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