うかうかしているうちに、半年が経ってしまった。昨年(2015年)7月10日、「梅香語録(1)今井は日本の「まちづくり」発祥の地や」という記事を当ブログに掲載し、大きな反響をいただいた。これは、今井町町並み保存会会長の若林稔(雅号:若林梅香)さんへのロングラン・インタビューの記録である。
※写真は「中世の町・今井の心を学ぶ」(奈良まほろばソムリエの会・啓発グループ)で撮影(2015.12.19)
若林さんは、1940年(昭和15年)橿原市今井町生まれ・在住。1959年に近畿日本鉄道株式会社に入社、乗務員経験を経て広報・企画などの仕事に携わる。近鉄を定年退職された2000年(平成12年)から、本格的に今井町のまちづくりに関わっておられる。
2011年(平成23年)、眞柄翔多郎(まがら・しょうたろう)さんが修士論文(千葉大学工学部北原研究室)執筆のために行った若林さんへの膨大なインタビュー記録(テープ起こし)を入手した。A4版で約80ページという資料で、若林さんのお宅に滞在し、1年をかけて録音されたものだ。最小限の加除修正を加えた上で、これを順次当ブログで紹介させていただくことにした。
前回記事を掲載すると、私のFacebookには「素晴らしい企画、歴史はこうやって残すものかと学ばせて頂きました。シェア致します」(Yさん)、「3回読み返しました。若林さんの言葉がじわじわきますね。今後の連載をとても楽しみにしています。写真もステキです」(Gさん)。
そして当の若林さんからは「もう4年たちましたね、学生たちに夜ごと語り続けてきた町づくりへの思い、まさかテープを録っていたとは思いませんでしたが、1年間撮りためていてくれてたんですからすごいですね 録音を気にしていなかったので素のまま喋っているのがいい、反面社会風刺も厳しいのでこれからはひやひやしながら見ていきます 大事に記録していきます!」とのメッセージをいただいた。
素(す)のままの言葉のテープ起こしなので特に今回は判読に苦労したが、若林さんのご助力を得て達意の文章に仕上げることができた。
これは若林さんが後半生を賭けて取り組む、今井町まちづくりの貴重な記録である(文責は私)。
■全国町並み保存連盟が発足
今井町が、妻籠(長野県木曽郡南木曽町)と有松(名古屋市緑区)の人たちと「立ち上げましょうか、集まりましょうか」いうて集まって、それが「全国町並み保存連盟」のルーツや。言いだしっぺが今井やったいうことで、ルーツは今井。で、これができた頃には、オレはまだまだ蚊帳の外。当時のことは『今井町 甦る自治都市―町並み保存とまちづくり』(八甫谷邦明著・今井町町並み保存会刊)に書いてあるが、はっきり言うて、ここに書いてある今井の行事の後半、人の動くような行事はオレが仕掛けた。だけど1行も載せてもらえんかった。それくらいオレの考え方って、理解しにくかったのかな!
■重要伝統的建造物群保存地区に
重要文化財が、そして今井町が歴史の中で認知されていく、学者通じて世間にね。そしてこの町を守ろうと、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)制度ができるわけや(昭和50年)。これは今井町を守ろうとするためにできた制度や。しかしそのとき、町を2分して賛成・反対が起こった。調停に入りながら「保存しよう」という方向に傾いて行った。ただ保存する条件のなかで「外は残すけど、中はそのまま残しませんよ。観光客は受け入れませんよ」という方向に向かっていくんや。行政は反対に観光客をどんどん入れたい雰囲気やが、町民の合意が「静かなたたずまい」なんで、なかなか入れんわな。
オレはというと、家の中も大事な文化財や、そして優れた機能を持っとる。今でいう「バリアフリー」はニセモノで、今井の民家こそ深ーい意味でのバリアフリーを持っとる。観光もそうや、まず外の人に見てもらわんとな。けど、ぞろぞろ連れ歩くツアーはごめんや。歴史だけでなく、民家で手作りのうまいもん食ってもらって、保存の意義を語り合えるような「教育観光」をやりたいんや、これは将来に向けての人づくりや。この考え方が、なかなか行政や町の人と合いにくいとこや。
今井町が重伝建に踏み切ったとき(平成5年)は、全国で37番目やった。重伝建という制度は今井町のためにできたけど、今井町はまっぷたつに意見が割れたから。そやから先に角館(かくのだて=秋田県)、妻籠とかどんどん選定されていくけれども、今井町は37番目。重伝建に選定されるにあたって、今井町住民協議会ができた。その協議会が今井町町並み保存会の前身ということになっとる。
(注:昭和53年2月「今井町保存問題に関する総合調査対策協議会」がスタート。その後、今井町住民による組織として「今井町住民協議会」を結成。昭和63年5月には住民の意思が町並み保存へ向けてまとまり、「今井町町並み保存会」に名称変更。「静かなたたずまい」として町並みを保存し、住環境を整備していく方向を打ち出し活動している。)
■各地で保存運動
六斎市(今井町並み散歩)で、ある程度人は来ていたけれど、もっと町民が多く動かなあかん、人を動かそうと仕掛けて行った。町並み保存が「補助金への依存に走っている」と感じたんで、「補助金から脱皮せなあかん」と。(重伝建に)選定された時分から補助金を取りに走った。
「ここを保存しなさいよ!」、当初の町並み保存連盟は、そういうとこやねん。政府とか行政が、本来の古い町並みを認めてないから「我々民間で、この貴重さを訴えて行こう」という団体が、今井町から立ち上げた全国町並み保存連盟や。
しかし今、保存連盟も行政も変な方向へ行っとる。「これ、文化的価値があるから、残さないと町が崩れて行くんや」と、必死でやっても限界があるから行政に陳情する団体であったり、「保存するために、これしてくれ」いうために起こったのが全国町並み保存連盟や。次第に連盟の力が強うなり、うまく時流に乗って保存運動が方々で起こるわけや。
それまで、古い町は朽ちて行くのが宿命やった。それを救うために立ち上げた住民運動が、いつの間にか、行政が主体になって再建基金を設けて動き始めとる。大量の補助金が投入されていくんや。カネが欲しいのは分かるけど、まずオノレ(己)が働かんなあかんわな! 働く前に「補助金くれ」言うとるわ、今は。そこがあかんと言うとるねん まず精一杯働けと。
一生懸命に働いて補助金もろてんのに「何ゆうとんねん」と馬鹿にされてたのがこの頃や。
行政にしても「こんな大金注入してるのに、有り難いたいとも思わんと、何やねん」と相手にもしてくれんかった時期かな。オレとしたら、こんな大金舞い込んできて、何もせんでも町が甦(よみが)えっていくのが、たまらんくらい嫌やってん。
■年に1度の一般公開
今井では重要文化財が9件指定された。重要文化財の義務の中に「一般公開せなあかん」ということがある。しかし住んでる家やから、四六時中は開けられへん。それで「年に1回だけこの日に決めて開けますよ」というのが一般公開や。
オレは第1回、町並み散歩の1回目から、「語りの書展」いうので、自分の思いを発表してきた。「この町は茶人・今井宗久の故郷や!」という思いや。語りの書展で、オレは「言葉」ばっかり書いてるでしょ。それを一個人として、ギャラリーを借りてやったんや。それが「銘工の館」のルーツになるんや。
ギャラリーにテーブルを置いて、そこに茶道具を展示する。「今井宗久の故郷ですから、お茶を復興させたいんです」いうのをうちに来てくれるお客さんに言い続けてたわけや。ギャラリーは個人で一軒の民家を借りて「個展」を開いたわけや。第1回目から。あのギャラリーを借りて、ずうっと六斎市(今井町並み散歩)の日にあそこを借りてな。
六斎市は一軒について2,500 円取るやろ? そのカネを払って町家を借りて、あそこでやった。言葉で訴えながら、作品で訴えながら、机にお茶の道具を並べてもろて。「この向かいのお寺は今井宗久ゆかりのお寺です、宗久いう茶人です」いうのを言い続けてきたわけや。それで、自分で今井の「お茶(茶道)を起こさんなんあかん」言い続けてたわけや。宗久のお茶の復興やな!
■茶行列体験
そんなわしの行動に当時の今井町町並み保存会の事務局長だった井上康二くんが「茶行列」の提案を持ち込んで、成立した。企画をすっかり任せてくれた。それが平成14 年で、「今井町並み散歩」の7 回目やった。今年は平成23 年で10 回目、町並み散歩は16 回目や(昨年=平成27年は20回目)。当初10 回は「茶人」をテーマにしてきた。10 年前にできた体験プログラムが「茶行列体験」。重文の家の公開と六斎市は、当初からあったんや。重文の民家公開と、今井六斎市と2つだけは16 年の歴史や。
町並み散歩の発想は「全部、人が動かんなんあかん」。大和茶の紹介、町角ギャラリー、パネル展、童謡を歌う会、今井茶屋、銘工の館、こんなん全部くっ付けていった。人手がいるものばっかりを付けて行った、それは人を動かすためや。
■お茶の発祥は大和
井上くんがウチにきて「若林さんいつも改革やと言い続けてきてはるけど、保存会も何かしようと思いますが、どうしたらいいんですか?」いうから「まぁ、いっぺん茶行列をしようや」と言うた。井上くんはずっと事務局長をしながら、会長補佐もしてたんや。彼がウチへきて「100 万円ほど補助金が出ますねん。若林さん言うてはるのんしようと思います、どないしたら良いんですか?」と。だからオレ、プログラムを書いた。
お茶は中国から日本に伝来した。京都や言われてるけれど、空海が持ち帰って、最初が大和や。室生のお茶へ、大和高原のお茶へと。そして今井町に今井宗久がいる。最盛期の宗久の茶室があって、各家にも茶室がいっぱいあんねん。欠けてるのは「茶の文化」や。
昔は交流・交際をお茶でやった。当時栄えとる交流を。お茶で信長も秀吉も、抑えることができた。その参謀格の宗久が今井の出身や。だから宗久を中心に茶行列したい言うた。「ほんならやりましょか」いう話になった。
■オレはチンドン屋になる
それが、10 日ほどの夢やった。ちょうどバブルがはじけはじめた頃やった。10 日ほどしたら「100 万円、取れないようになってしもたんです」と。そやけどオレも言い出して乗っかってしもたから「何とかするわ」と。捨てるようなボロ布で、今オレが着てるカーキ色の服を嫁さんに作らせた。「オレはこれで笑い者になるわ」いうて。
当時の茶行列の「札」(看板)いうたら、ベニヤ板に紙を貼っただけや。そやけどお茶はほんまもんにしたいから銘工の館に、奈良県のお茶道具つくる名人たち(久保左文、川邊庄造、西條一斎、竹村沙佳映、川崎鳳嶽)に来てもろて、そのかわり重文の家で展示してもろた。売れもせえへんのや。売れる売れないじゃなしに「奈良県にはこんな名工がいます、今井は茶道ゆかりの地です」いうのを広めるために。行列で歩く言うて、また嫁さんにハギレで衣装縫わしたん。それを奈良商工会議所が聞きつけて、「そんなええことするんやったら」いうて300 万円、ポンと出してくれた!
「300 万円出してくれるんやったら、ほんまもんの衣装作ろう」いうことで、関西テレビの衣装部にコンタクトとった。すると「京都の業者紹介するけど、今年には間に合いません。まずはウチの衣装を使って下さい」いうて、1年目は関テレの衣装を借りて、着付けも教えてもろた。その間に京都の業者に作らして、出来上がった衣装を今、着てるわけや。2 年目からや。
「オレたちはチンドン屋やけど、ほんまもんもある」いうことで、名工たちに入ってもろた。全国的に有名な名工ばかりや。茶筅(ちゃせん)の人やとか、茶釜の人やとか。東京の三越で展示会をやったりする連中ばっかしや。全部声かけに言って「お願いできませんか」いうて来てもろた。それが今も続いてるわけや。そうして行列を何とか作った。
■今井の町民にええかっこはささん、黒子になれ
あんたたち学生は着物着て行列に入ってるけど、今井の人は着てへんでしょ? 「なんで今井の人らは、着られへんのや?」て言われるけど、今井の町民は、その日は何十人何百人という人が黒子で動いてる。「たとえ1人でも、今井の人にええかっこはささん」いうのがオレのやり方や。
茶行列の日は、「今井の人は黒子になれ」と。あんたたちはお客さんやから体験さしてあげてるけども、(行列に出る人たちは)募集で成り立ってるんや。そやからいつもそこに募集してますって書いてある。行列を見物する人たちは、今井の人が着てると思ってるから「もっと笑顔を作れ」とか「ちょっとスタンドプレイやってもらえ」って言うけど、実情を知ったら、言わはらへんで。始めからスタッフを決めてて歩かすんなら「おまえらもうちょっと笑えよ」て言えるけど、初対面の(町外の)人らに着せるわけや。その点でもヨソと変わってるやろ。
その裏に何があるか言うたら、ヨソの人に見せるだけじゃなしに「(ヨソの人に)体験してもらう」いうのが1つと、町民は全部その日は黒子になって「スターを作らせない」と言うことや。「ええかっこは、さしませんよ」と。1人だけは行列の先導せなあかんから、町民は1人いるけど、それは道を順番に歩かなあかんから。
■茶人たちの里帰り
今井宗久という茶道の名人と関わった茶人(茶道に通じた人)たちを、今井につれて里帰りしてきた。約500 年の時を隔てて里帰りしてきたいう行列やねん、あれは。織田信長も茶人、秀吉も茶人。そして今井と関わりのある人や。武士としての関わりでは呼んでない。茶人として関わりのある人が、たまたま武士であったわけで、そこは徹底してこだわっている。
「何で、そこまでこだわらなあかんの」と言われるくらいこだわっている。お粥さんひとつにしても、思いきりこだわる。そこまでこだわる人づくりしないと、この町は残らんいうことや。並じゃ残らん。そうやろ、違う?
世の中を見ても、残ってる人って、全部こだわってる人ばかりでしょ。底抜けにこだわってる人だけが残ってるでしょ? そやから、こだわらなあかん。普通にしてて普通の生活ができるなら、こだわる必要はない。今井がかつて中世に築いてきた「普通」いうのは、超特級品や。今井の歴史の中で室町時代の今井ゆうたら超特級品でしょ?これが今井の「普通」なんでしょ?
あの時代に比べたら今は乞食ですよ、違う? 「再興」とか「復活」とか言うんやったら、その町の「頂点」を復興せな。町おこしとは違う。どんな方法とってもかまへん、かけるエネルギーが同じなら、どの方法とってもええけど、今井町はこんな「遺産」を「残されてしもた」んやから、そして住民が「保存」を選択したんやから。今井町を遺産に持つオレらのめざす再興・復興は、ここで働き、ここを守った中世の先人に近づくことや。
■勝手に残った町
だったら残されたんじゃなしに、「残してくれた町」という意識に変えて活用せなあかんいうのが、オレの原点や。この町はね「残した」のと違うんです。「残った」のですよ。「勝手に残った」んですよ。「意識して残した」ような町とは違うんです。まずそこに気がつかなあかん。廃藩置県(明治維新)なかったら、武士がそのまま居てたら、この町なんてそのままずーっと続いて、どえらい町になっとんで。こんな町にこんな家残さへんやろ。
今頃、超高層ビルここに立っとんで。外国ともどんどん行き来しとるで。それくらい当時は海外と、あえて商いしてた町やんか。そやろ? そやから僕が重伝建どうのこうの言う段階では単に古い町やから残してもええし、残さへんのやったらそれもええ。
オレが小学5年生のとき、橿原考古学研究所の所長さんから「この町は若林くんの町、残さんといかん古い町や」と聞いたけど、当時はそんなに意識していなかった。でも、今は違う、保存の価値が分かってしもたわ。
■保存の旗印にせなあかん
オレかて新しいの欲しいがってたからな。しかし「これにしよう」(保存しよう)と(町民が)決めたんやったら、そう決めた方に全力投球せなあかんのちゃうんか、いうだけの話や。たまたま重伝建で「この町を保存しよう」という気が生まれて、保存の方向に決定したんなら、保存を武器に思いきり活躍せなあかん。保存の旗印にせなあかん。
いらんのやったら重伝建をやめなさい。中途半端に取り組んだら、中途半端な残りかたしかしません。中途半端に残すんやったら、こんな重たい荷物を背負わなくてもええやんか。もっと楽にすっきり裸にして、そこそこ生活できる快適な家を作ったらええやないかい。そのかわり重伝建という肩書きを捨てて補助金ももらわない。
「補助金を渡しましょう」言わはる限り、補助金に見合う生活を自分たちがしないといかん。そこからどう(自分たちの生活の)快適を求めるかいうたら、自分たちが自立して自分らで経済と戦わなかったらしゃあない。
■建物を昔風に活用
「町並み保存」と言う限りは、復興する、建物を昔風に活用するのが一番と違うんか。それをどう活用したらええのか。ここは店先で商いしてきた(小売業の)町と違う。かつては商社でしょ?今も商社やったら一室だけあったら、商社としての仕事、できるんと違うの? そしたらその一室の値打ちを上げたらいいでしょ?
「今井ってすごい町や」と。すごい町やねん、あこに本店を置いてんねん。イコール信用があんねん。信用を付けんのには最高のもてなしをして、あの町は馬鹿正直やねんと。本当にもてなしてくれるねん、信用があんねんと。これ全部揃ってるのと違う?今の時代の暖簾いうのは、人づての「信用」。「今井ってすごい町や」という暖簾を掛けなあかんねん。
■今井はほんまもん
「箱物のすごい町が残ってんねん」。これは遺物が残っとるだけや。そやけど「町の人がすごいんや」いうようになったら、企業が動くわけや。なんで東京に本社置くのかいうのは「東京いうレッテルがなかったら、世界に通用せん」ゆうて東京へ行きよんねん。生産工場を方々においているのに、なんで本社だけ東京へ置くねん。東京というネームバリューでしょ。
いま「今井ってすごいねん、もてなしの町やねん、今井ってホンマもんやねん」っていうのが広がりつつある。そしたら「ほんまもんのところやから、来てくれ」いうたら(企業も)来やすいやんか。
■10 年かかってお礼返し
これ裏千家の本やねん。淡交社の編集者に、ウチ家に泊まってもらって書いてもらってん。こうして今井の建物を写し、今井の商品を写し、宗久いう名前を入れて、そしてお茶の道具師たちをここに載せてあげたとたん、向こう(道具師たち)から、今度は「ありがとう」いうて、これお礼返しや。
名工の館に無料奉仕で出展してもらってきたのを、10 年かかってお礼返しができたわけや。10 年間辛抱して、売れもせえへんのに出展してくれて…。この道具1つ、70 万円も80 万円もするわけや。そんなん誰が買えるの、あんな今井町並み散歩の市で。それが飽きもせんと出してくれて、今井の信用を高めてくれたから、この本に載せたわけや。
オレを通じて、今井で知り合ったお客さんに東京で茶釜を買ってもろたり、お茶筅を大量に注文してもろたり。「若林さんのおかげです」言うてくれた。これで恩返しできたわけや。恩返しできたと同時に、この人たち(道具師たち)は、今井を「ええ所や」とPR してくれるわけや。
■それは都市計画
一級品の人たちが「ええ所や」と言ってくれたら、今井がええ所になる。その次に「今井のこの空家で商いしたらどうですか」となる。そうなったら言いやすいわけや。そこまで先をじっくり待たないかんということや。だから一過性のイベントとは違う。亀井由紀子ちゃん(奈良女子大・東大大学院在学中から今井町をテーマに研究している)が、あんたみたいに勉強しにきてる時「若林さん、それはまちづくりちゃうな」って言ってた、それはまちづくりと違う。
「それは都市計画ですよ」って。「地域づくりですよ」と、「町超えてますよ」て。それくらい今井ってスケール大きいんや。ヨソみたいに、保存するたんびに、その場所を通り過ぎるだけで済むような経済(一過性のイベントや観光集客)と違うんや。それくらいスケールが大きいんや。
今井町がここまで知られるようになるまで、大変な陰のご苦労があったのだ。皆さん、続編をお楽しみに。若林さん、引き続き、今井をよろしくお願いします!
※写真は「中世の町・今井の心を学ぶ」(奈良まほろばソムリエの会・啓発グループ)で撮影(2015.12.19)
若林さんは、1940年(昭和15年)橿原市今井町生まれ・在住。1959年に近畿日本鉄道株式会社に入社、乗務員経験を経て広報・企画などの仕事に携わる。近鉄を定年退職された2000年(平成12年)から、本格的に今井町のまちづくりに関わっておられる。
2011年(平成23年)、眞柄翔多郎(まがら・しょうたろう)さんが修士論文(千葉大学工学部北原研究室)執筆のために行った若林さんへの膨大なインタビュー記録(テープ起こし)を入手した。A4版で約80ページという資料で、若林さんのお宅に滞在し、1年をかけて録音されたものだ。最小限の加除修正を加えた上で、これを順次当ブログで紹介させていただくことにした。
前回記事を掲載すると、私のFacebookには「素晴らしい企画、歴史はこうやって残すものかと学ばせて頂きました。シェア致します」(Yさん)、「3回読み返しました。若林さんの言葉がじわじわきますね。今後の連載をとても楽しみにしています。写真もステキです」(Gさん)。
そして当の若林さんからは「もう4年たちましたね、学生たちに夜ごと語り続けてきた町づくりへの思い、まさかテープを録っていたとは思いませんでしたが、1年間撮りためていてくれてたんですからすごいですね 録音を気にしていなかったので素のまま喋っているのがいい、反面社会風刺も厳しいのでこれからはひやひやしながら見ていきます 大事に記録していきます!」とのメッセージをいただいた。
素(す)のままの言葉のテープ起こしなので特に今回は判読に苦労したが、若林さんのご助力を得て達意の文章に仕上げることができた。
これは若林さんが後半生を賭けて取り組む、今井町まちづくりの貴重な記録である(文責は私)。
今井町 甦る自治都市―町並み保存とまちづくり | |
八甫谷邦明 | |
今井町町並み保存会 |
■全国町並み保存連盟が発足
今井町が、妻籠(長野県木曽郡南木曽町)と有松(名古屋市緑区)の人たちと「立ち上げましょうか、集まりましょうか」いうて集まって、それが「全国町並み保存連盟」のルーツや。言いだしっぺが今井やったいうことで、ルーツは今井。で、これができた頃には、オレはまだまだ蚊帳の外。当時のことは『今井町 甦る自治都市―町並み保存とまちづくり』(八甫谷邦明著・今井町町並み保存会刊)に書いてあるが、はっきり言うて、ここに書いてある今井の行事の後半、人の動くような行事はオレが仕掛けた。だけど1行も載せてもらえんかった。それくらいオレの考え方って、理解しにくかったのかな!
■重要伝統的建造物群保存地区に
重要文化財が、そして今井町が歴史の中で認知されていく、学者通じて世間にね。そしてこの町を守ろうと、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)制度ができるわけや(昭和50年)。これは今井町を守ろうとするためにできた制度や。しかしそのとき、町を2分して賛成・反対が起こった。調停に入りながら「保存しよう」という方向に傾いて行った。ただ保存する条件のなかで「外は残すけど、中はそのまま残しませんよ。観光客は受け入れませんよ」という方向に向かっていくんや。行政は反対に観光客をどんどん入れたい雰囲気やが、町民の合意が「静かなたたずまい」なんで、なかなか入れんわな。
オレはというと、家の中も大事な文化財や、そして優れた機能を持っとる。今でいう「バリアフリー」はニセモノで、今井の民家こそ深ーい意味でのバリアフリーを持っとる。観光もそうや、まず外の人に見てもらわんとな。けど、ぞろぞろ連れ歩くツアーはごめんや。歴史だけでなく、民家で手作りのうまいもん食ってもらって、保存の意義を語り合えるような「教育観光」をやりたいんや、これは将来に向けての人づくりや。この考え方が、なかなか行政や町の人と合いにくいとこや。
今井町が重伝建に踏み切ったとき(平成5年)は、全国で37番目やった。重伝建という制度は今井町のためにできたけど、今井町はまっぷたつに意見が割れたから。そやから先に角館(かくのだて=秋田県)、妻籠とかどんどん選定されていくけれども、今井町は37番目。重伝建に選定されるにあたって、今井町住民協議会ができた。その協議会が今井町町並み保存会の前身ということになっとる。
(注:昭和53年2月「今井町保存問題に関する総合調査対策協議会」がスタート。その後、今井町住民による組織として「今井町住民協議会」を結成。昭和63年5月には住民の意思が町並み保存へ向けてまとまり、「今井町町並み保存会」に名称変更。「静かなたたずまい」として町並みを保存し、住環境を整備していく方向を打ち出し活動している。)
■各地で保存運動
六斎市(今井町並み散歩)で、ある程度人は来ていたけれど、もっと町民が多く動かなあかん、人を動かそうと仕掛けて行った。町並み保存が「補助金への依存に走っている」と感じたんで、「補助金から脱皮せなあかん」と。(重伝建に)選定された時分から補助金を取りに走った。
「ここを保存しなさいよ!」、当初の町並み保存連盟は、そういうとこやねん。政府とか行政が、本来の古い町並みを認めてないから「我々民間で、この貴重さを訴えて行こう」という団体が、今井町から立ち上げた全国町並み保存連盟や。
しかし今、保存連盟も行政も変な方向へ行っとる。「これ、文化的価値があるから、残さないと町が崩れて行くんや」と、必死でやっても限界があるから行政に陳情する団体であったり、「保存するために、これしてくれ」いうために起こったのが全国町並み保存連盟や。次第に連盟の力が強うなり、うまく時流に乗って保存運動が方々で起こるわけや。
それまで、古い町は朽ちて行くのが宿命やった。それを救うために立ち上げた住民運動が、いつの間にか、行政が主体になって再建基金を設けて動き始めとる。大量の補助金が投入されていくんや。カネが欲しいのは分かるけど、まずオノレ(己)が働かんなあかんわな! 働く前に「補助金くれ」言うとるわ、今は。そこがあかんと言うとるねん まず精一杯働けと。
一生懸命に働いて補助金もろてんのに「何ゆうとんねん」と馬鹿にされてたのがこの頃や。
行政にしても「こんな大金注入してるのに、有り難いたいとも思わんと、何やねん」と相手にもしてくれんかった時期かな。オレとしたら、こんな大金舞い込んできて、何もせんでも町が甦(よみが)えっていくのが、たまらんくらい嫌やってん。
■年に1度の一般公開
今井では重要文化財が9件指定された。重要文化財の義務の中に「一般公開せなあかん」ということがある。しかし住んでる家やから、四六時中は開けられへん。それで「年に1回だけこの日に決めて開けますよ」というのが一般公開や。
オレは第1回、町並み散歩の1回目から、「語りの書展」いうので、自分の思いを発表してきた。「この町は茶人・今井宗久の故郷や!」という思いや。語りの書展で、オレは「言葉」ばっかり書いてるでしょ。それを一個人として、ギャラリーを借りてやったんや。それが「銘工の館」のルーツになるんや。
ギャラリーにテーブルを置いて、そこに茶道具を展示する。「今井宗久の故郷ですから、お茶を復興させたいんです」いうのをうちに来てくれるお客さんに言い続けてたわけや。ギャラリーは個人で一軒の民家を借りて「個展」を開いたわけや。第1回目から。あのギャラリーを借りて、ずうっと六斎市(今井町並み散歩)の日にあそこを借りてな。
六斎市は一軒について2,500 円取るやろ? そのカネを払って町家を借りて、あそこでやった。言葉で訴えながら、作品で訴えながら、机にお茶の道具を並べてもろて。「この向かいのお寺は今井宗久ゆかりのお寺です、宗久いう茶人です」いうのを言い続けてきたわけや。それで、自分で今井の「お茶(茶道)を起こさんなんあかん」言い続けてたわけや。宗久のお茶の復興やな!
■茶行列体験
そんなわしの行動に当時の今井町町並み保存会の事務局長だった井上康二くんが「茶行列」の提案を持ち込んで、成立した。企画をすっかり任せてくれた。それが平成14 年で、「今井町並み散歩」の7 回目やった。今年は平成23 年で10 回目、町並み散歩は16 回目や(昨年=平成27年は20回目)。当初10 回は「茶人」をテーマにしてきた。10 年前にできた体験プログラムが「茶行列体験」。重文の家の公開と六斎市は、当初からあったんや。重文の民家公開と、今井六斎市と2つだけは16 年の歴史や。
町並み散歩の発想は「全部、人が動かんなんあかん」。大和茶の紹介、町角ギャラリー、パネル展、童謡を歌う会、今井茶屋、銘工の館、こんなん全部くっ付けていった。人手がいるものばっかりを付けて行った、それは人を動かすためや。
■お茶の発祥は大和
井上くんがウチにきて「若林さんいつも改革やと言い続けてきてはるけど、保存会も何かしようと思いますが、どうしたらいいんですか?」いうから「まぁ、いっぺん茶行列をしようや」と言うた。井上くんはずっと事務局長をしながら、会長補佐もしてたんや。彼がウチへきて「100 万円ほど補助金が出ますねん。若林さん言うてはるのんしようと思います、どないしたら良いんですか?」と。だからオレ、プログラムを書いた。
お茶は中国から日本に伝来した。京都や言われてるけれど、空海が持ち帰って、最初が大和や。室生のお茶へ、大和高原のお茶へと。そして今井町に今井宗久がいる。最盛期の宗久の茶室があって、各家にも茶室がいっぱいあんねん。欠けてるのは「茶の文化」や。
昔は交流・交際をお茶でやった。当時栄えとる交流を。お茶で信長も秀吉も、抑えることができた。その参謀格の宗久が今井の出身や。だから宗久を中心に茶行列したい言うた。「ほんならやりましょか」いう話になった。
■オレはチンドン屋になる
それが、10 日ほどの夢やった。ちょうどバブルがはじけはじめた頃やった。10 日ほどしたら「100 万円、取れないようになってしもたんです」と。そやけどオレも言い出して乗っかってしもたから「何とかするわ」と。捨てるようなボロ布で、今オレが着てるカーキ色の服を嫁さんに作らせた。「オレはこれで笑い者になるわ」いうて。
当時の茶行列の「札」(看板)いうたら、ベニヤ板に紙を貼っただけや。そやけどお茶はほんまもんにしたいから銘工の館に、奈良県のお茶道具つくる名人たち(久保左文、川邊庄造、西條一斎、竹村沙佳映、川崎鳳嶽)に来てもろて、そのかわり重文の家で展示してもろた。売れもせえへんのや。売れる売れないじゃなしに「奈良県にはこんな名工がいます、今井は茶道ゆかりの地です」いうのを広めるために。行列で歩く言うて、また嫁さんにハギレで衣装縫わしたん。それを奈良商工会議所が聞きつけて、「そんなええことするんやったら」いうて300 万円、ポンと出してくれた!
「300 万円出してくれるんやったら、ほんまもんの衣装作ろう」いうことで、関西テレビの衣装部にコンタクトとった。すると「京都の業者紹介するけど、今年には間に合いません。まずはウチの衣装を使って下さい」いうて、1年目は関テレの衣装を借りて、着付けも教えてもろた。その間に京都の業者に作らして、出来上がった衣装を今、着てるわけや。2 年目からや。
「オレたちはチンドン屋やけど、ほんまもんもある」いうことで、名工たちに入ってもろた。全国的に有名な名工ばかりや。茶筅(ちゃせん)の人やとか、茶釜の人やとか。東京の三越で展示会をやったりする連中ばっかしや。全部声かけに言って「お願いできませんか」いうて来てもろた。それが今も続いてるわけや。そうして行列を何とか作った。
■今井の町民にええかっこはささん、黒子になれ
あんたたち学生は着物着て行列に入ってるけど、今井の人は着てへんでしょ? 「なんで今井の人らは、着られへんのや?」て言われるけど、今井の町民は、その日は何十人何百人という人が黒子で動いてる。「たとえ1人でも、今井の人にええかっこはささん」いうのがオレのやり方や。
茶行列の日は、「今井の人は黒子になれ」と。あんたたちはお客さんやから体験さしてあげてるけども、(行列に出る人たちは)募集で成り立ってるんや。そやからいつもそこに募集してますって書いてある。行列を見物する人たちは、今井の人が着てると思ってるから「もっと笑顔を作れ」とか「ちょっとスタンドプレイやってもらえ」って言うけど、実情を知ったら、言わはらへんで。始めからスタッフを決めてて歩かすんなら「おまえらもうちょっと笑えよ」て言えるけど、初対面の(町外の)人らに着せるわけや。その点でもヨソと変わってるやろ。
その裏に何があるか言うたら、ヨソの人に見せるだけじゃなしに「(ヨソの人に)体験してもらう」いうのが1つと、町民は全部その日は黒子になって「スターを作らせない」と言うことや。「ええかっこは、さしませんよ」と。1人だけは行列の先導せなあかんから、町民は1人いるけど、それは道を順番に歩かなあかんから。
■茶人たちの里帰り
今井宗久という茶道の名人と関わった茶人(茶道に通じた人)たちを、今井につれて里帰りしてきた。約500 年の時を隔てて里帰りしてきたいう行列やねん、あれは。織田信長も茶人、秀吉も茶人。そして今井と関わりのある人や。武士としての関わりでは呼んでない。茶人として関わりのある人が、たまたま武士であったわけで、そこは徹底してこだわっている。
「何で、そこまでこだわらなあかんの」と言われるくらいこだわっている。お粥さんひとつにしても、思いきりこだわる。そこまでこだわる人づくりしないと、この町は残らんいうことや。並じゃ残らん。そうやろ、違う?
世の中を見ても、残ってる人って、全部こだわってる人ばかりでしょ。底抜けにこだわってる人だけが残ってるでしょ? そやから、こだわらなあかん。普通にしてて普通の生活ができるなら、こだわる必要はない。今井がかつて中世に築いてきた「普通」いうのは、超特級品や。今井の歴史の中で室町時代の今井ゆうたら超特級品でしょ?これが今井の「普通」なんでしょ?
あの時代に比べたら今は乞食ですよ、違う? 「再興」とか「復活」とか言うんやったら、その町の「頂点」を復興せな。町おこしとは違う。どんな方法とってもかまへん、かけるエネルギーが同じなら、どの方法とってもええけど、今井町はこんな「遺産」を「残されてしもた」んやから、そして住民が「保存」を選択したんやから。今井町を遺産に持つオレらのめざす再興・復興は、ここで働き、ここを守った中世の先人に近づくことや。
■勝手に残った町
だったら残されたんじゃなしに、「残してくれた町」という意識に変えて活用せなあかんいうのが、オレの原点や。この町はね「残した」のと違うんです。「残った」のですよ。「勝手に残った」んですよ。「意識して残した」ような町とは違うんです。まずそこに気がつかなあかん。廃藩置県(明治維新)なかったら、武士がそのまま居てたら、この町なんてそのままずーっと続いて、どえらい町になっとんで。こんな町にこんな家残さへんやろ。
今頃、超高層ビルここに立っとんで。外国ともどんどん行き来しとるで。それくらい当時は海外と、あえて商いしてた町やんか。そやろ? そやから僕が重伝建どうのこうの言う段階では単に古い町やから残してもええし、残さへんのやったらそれもええ。
オレが小学5年生のとき、橿原考古学研究所の所長さんから「この町は若林くんの町、残さんといかん古い町や」と聞いたけど、当時はそんなに意識していなかった。でも、今は違う、保存の価値が分かってしもたわ。
■保存の旗印にせなあかん
オレかて新しいの欲しいがってたからな。しかし「これにしよう」(保存しよう)と(町民が)決めたんやったら、そう決めた方に全力投球せなあかんのちゃうんか、いうだけの話や。たまたま重伝建で「この町を保存しよう」という気が生まれて、保存の方向に決定したんなら、保存を武器に思いきり活躍せなあかん。保存の旗印にせなあかん。
いらんのやったら重伝建をやめなさい。中途半端に取り組んだら、中途半端な残りかたしかしません。中途半端に残すんやったら、こんな重たい荷物を背負わなくてもええやんか。もっと楽にすっきり裸にして、そこそこ生活できる快適な家を作ったらええやないかい。そのかわり重伝建という肩書きを捨てて補助金ももらわない。
「補助金を渡しましょう」言わはる限り、補助金に見合う生活を自分たちがしないといかん。そこからどう(自分たちの生活の)快適を求めるかいうたら、自分たちが自立して自分らで経済と戦わなかったらしゃあない。
■建物を昔風に活用
「町並み保存」と言う限りは、復興する、建物を昔風に活用するのが一番と違うんか。それをどう活用したらええのか。ここは店先で商いしてきた(小売業の)町と違う。かつては商社でしょ?今も商社やったら一室だけあったら、商社としての仕事、できるんと違うの? そしたらその一室の値打ちを上げたらいいでしょ?
「今井ってすごい町や」と。すごい町やねん、あこに本店を置いてんねん。イコール信用があんねん。信用を付けんのには最高のもてなしをして、あの町は馬鹿正直やねんと。本当にもてなしてくれるねん、信用があんねんと。これ全部揃ってるのと違う?今の時代の暖簾いうのは、人づての「信用」。「今井ってすごい町や」という暖簾を掛けなあかんねん。
■今井はほんまもん
「箱物のすごい町が残ってんねん」。これは遺物が残っとるだけや。そやけど「町の人がすごいんや」いうようになったら、企業が動くわけや。なんで東京に本社置くのかいうのは「東京いうレッテルがなかったら、世界に通用せん」ゆうて東京へ行きよんねん。生産工場を方々においているのに、なんで本社だけ東京へ置くねん。東京というネームバリューでしょ。
いま「今井ってすごいねん、もてなしの町やねん、今井ってホンマもんやねん」っていうのが広がりつつある。そしたら「ほんまもんのところやから、来てくれ」いうたら(企業も)来やすいやんか。
■10 年かかってお礼返し
これ裏千家の本やねん。淡交社の編集者に、ウチ家に泊まってもらって書いてもらってん。こうして今井の建物を写し、今井の商品を写し、宗久いう名前を入れて、そしてお茶の道具師たちをここに載せてあげたとたん、向こう(道具師たち)から、今度は「ありがとう」いうて、これお礼返しや。
名工の館に無料奉仕で出展してもらってきたのを、10 年かかってお礼返しができたわけや。10 年間辛抱して、売れもせえへんのに出展してくれて…。この道具1つ、70 万円も80 万円もするわけや。そんなん誰が買えるの、あんな今井町並み散歩の市で。それが飽きもせんと出してくれて、今井の信用を高めてくれたから、この本に載せたわけや。
オレを通じて、今井で知り合ったお客さんに東京で茶釜を買ってもろたり、お茶筅を大量に注文してもろたり。「若林さんのおかげです」言うてくれた。これで恩返しできたわけや。恩返しできたと同時に、この人たち(道具師たち)は、今井を「ええ所や」とPR してくれるわけや。
■それは都市計画
一級品の人たちが「ええ所や」と言ってくれたら、今井がええ所になる。その次に「今井のこの空家で商いしたらどうですか」となる。そうなったら言いやすいわけや。そこまで先をじっくり待たないかんということや。だから一過性のイベントとは違う。亀井由紀子ちゃん(奈良女子大・東大大学院在学中から今井町をテーマに研究している)が、あんたみたいに勉強しにきてる時「若林さん、それはまちづくりちゃうな」って言ってた、それはまちづくりと違う。
「それは都市計画ですよ」って。「地域づくりですよ」と、「町超えてますよ」て。それくらい今井ってスケール大きいんや。ヨソみたいに、保存するたんびに、その場所を通り過ぎるだけで済むような経済(一過性のイベントや観光集客)と違うんや。それくらいスケールが大きいんや。
今井町がここまで知られるようになるまで、大変な陰のご苦労があったのだ。皆さん、続編をお楽しみに。若林さん、引き続き、今井をよろしくお願いします!