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真田丸(1)船出

2016年01月14日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(1/10)、NHK大河ドラマ「真田丸(1)船出」を見た。土壁に「真田丸」のタイトルバックがいい。「半沢直樹」を思い出させる服部隆之の音楽もいい、特にあのバイオリンはスゴい。細部にまでこだわった映像も素晴らしい出来だ。今年はこのドラマで、楽しく1年が過ごせそうである。

きまじめな兄・真田信幸(=信之。大泉洋)に対し、信繁(=幸村。堺雅人)の自由奔放さが強調される。父・真田昌幸(草刈正雄)からは、すでに戦(いくさ)の天才ぶりが見て取れる。第1回の「あらすじ」をNHKの公式HPから拾うと、

天正10年(1582年)2月、名将・武田信玄の急死から9年、武田家は当主・勝頼の下、絶体絶命の危機を迎えていた。重臣の裏切りをきっかけに織田信長の大軍勢が領内に侵攻、諸城が次々に陥落する事態に陥る。武田に使える真田昌幸は上野国にある自らの居城・岩櫃城で織田を迎え撃つよう進言し、準備のため一足先に出発する。残された昌幸の息子、信幸・信繁兄弟の下を、人目を忍び勝頼が訪れ「岩櫃城にはいかない」と告げる。甲斐の岩殿城へ逃げる武田の本隊と別れ、父の待つ岩櫃に向かうことを決断する兄弟。敵が目前に迫る中、家族を守りながらの決死行が始まる。

この回で印象的だったのは、武田勝頼(平岳大)の寂しい末路である。Wikipedia「武田勝頼」によると、

信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。

強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図るが、織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)により、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。

近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。



私は真田昌幸・幸村(信繁)父子が蟄居した紀州九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に生まれたので、父子のことはよく聞かされて育った。ゴールデンウィークには、「真田祭り」という伝統的なお祭りもあった。とりわけ家康を追い込んだ幸村の勇ましさは、町民の誇りともなっている。これから大阪の陣まで、ほぼ1年かかるが、ドラマの行く末には注目したい。では最後に、「大河ドラマ特集 注目の見どころ応援サイト」から、第1回の内容を詳しく紹介しておく(ネタバレになるのでご注意を)。

大河ドラマ「真田丸」の物語は、武田家が滅亡する場面から始まります。1582年1月、武田勝頼に臣従しており、武田信玄の娘を正室に迎えていた木曽義昌が、織田信長に寝返ります。危機を迎えた武田勝頼は、諏訪・上原城に一族筆頭の穴山梅雪、親族衆の小山田信茂、家老筆頭・跡部勝資などを集めて軍議を開きますが、その席にて真田昌幸が「一旦、新府城に引いて様子を見るべき」と進言します。

真田家も武田家に忠節を誓う為、新府城に人質として、真田昌幸の妻・薫と、母・とりを出しており、その屋敷には、真田昌幸の長女・松と、その夫・小山田茂誠も訪問していました。この頃、真田信繁は甲斐南部にて徳川勢の動きを探っており、夢中になりすぎて、矢沢頼幸(矢沢三十郎)の制止も聞かず、深追いしてしまい、危ないところをなんとか逃げてきました。

真田昌幸は、高梨内記らと新府城の真田家屋敷に入りますが、武田を裏切った木曽義昌の妻子が処刑されたと聞いた、薫らは心配顔です。そのため「この真田昌幸がいる限り、武田が滅びる事はない」と言い、安心させます。しかし、真田信幸と真田信繁を呼び部屋に籠ると、真田昌幸は「武田は滅びるぞ」と打ち明けます。

織田信長の軍勢は、長篠の戦いの時とは比べものにならないほど、既に強力な兵力となっているのをわかっていない真田昌幸ではありませんでした。そして、新府城を捨てると心の内を話します。ご承知の通り、新府城はまだ未完成だったのです。

それからほどなく、2月25日に武田親族筆頭の穴山梅雪が、人質となっていた家族を密かに逃がして、徳川家康を通じて内通し、徳川勢の甲斐侵入を手助けしました。驚いた武田勝頼は、重臣を集めて軍議を開き、真田昌幸は、自分の居城・岩櫃城にて再起を図ろうと説得します。その賢明な説得に武田勝頼は応じて、真田昌幸らは準備の為、先に岩櫃城へと向かいます。

しかし、跡部勝資と小山田信茂らは、真田昌幸がいないことをいい事に、小山田信茂の岩殿城へと武田勝頼に促します。武田勝頼は、まだ新府城の屋敷に残っていた真田信幸と真田信繁に「岩殿城に行く」ことを明かし、人質らと岩櫃城へ逃れよと言います。

こうして、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりなどを連れて、岩櫃城を目指しますが、忍者の佐助には書状を託して先に岩櫃城へと向かわせました。そして、真田信幸と真田信繁ら一行は、武田勝頼を見送ったあと、火が放たれた新府城をあとにして、一路、岩櫃城を目指したのです。

岩殿城を目指す武田勝頼は、その途中、高島城の落城と言う知らせが届いたりする度に、家臣の離反が相次ぎ、600名した供はいつしか100名程度になっていました。先に岩殿城に赴いて準備をすると言った小山田信茂も、笹子峠を封鎖して、武田勝頼を裏切ったのです。
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