鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

大相撲と落ち葉

2017年11月23日 07時19分19秒 | 個人的主張など


白鵬が、嘉風に敗れた勝負にケチを付けて、落ちた土俵下からなかなか上がらず上がっても一礼をしなかった。
『後出しだ、やり直しだ』とジャンケンにケチを付けて駄駄をこねる聞かん坊にしか見えなかった珍しいシーン。
この先ずっと語り草になり、『それじゃまるで白鵬みたいじゃないか』という比喩に使われるだろう。
八角理事長が「白鵬の勘違いだ・・自分で判断してはダメだ・・潔ぎよくない」と述べたとのこと。
八角理事長こそ勘違いをしている。
白鵬に潔さを求めるなんて・・・あり得ない勘違いだ。
横綱なんだから、これくらいのことは・・と、品位の壁をどんどん崩してきたのが朝青龍と白鵬と日馬富士のように見える。
昨日の勝負は白鵬が自分の思うような万全な立会いで先制攻撃の張り差しを常に目指していて、今やそうでないと勝てないという不安を持っていることがわかる。
昔の横綱のように受けて立ってから攻撃に転じるというような潔さは、全く意識にないのだろう。
それに対して、意表をついたアイデアで、逆に横綱相撲を取ったのが嘉風。
張り差しを予想した上で先に攻撃をさせ、ふわっと立ちをしてまんまと双差しを成功させた。
白鵬に対しては、昔の小兵力士が大きい上位力士に時々やっていた蹴たぐりなんかの奇襲技が効果的だと思うのに、やらないのはなぜだろうといつも思ってきた。
横綱に対しては何でもありだった筈なのに、白鵬をみる限り、横綱が何でもありをやっている。
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地に足つけて

2016年12月08日 00時21分21秒 | 個人的主張など


昨日のことになるけれど、朝は寒かった。
寒くない時季であれば、朝出かけて午後まで、時には夕方まででもトイレに行くことはない。
汗っかきなのでおしっこをする回数が少ない。
今日はさすがに汗が出ず、昼前にトイレを借りることになった。
新築できれいに使われている出先のトイレで用を足すのは神経を使う。
そこで、はたと、良いことを思いついた。
最近、洋式トイレでは腰掛けておしっこをする男が多くなったそうだ。
尻をつけるのも気が引けて、立ってするのも緊張するとなると、そうか・・膝を曲げて距離を短くすればよいのか・・と気づいた。
スクワットの中途静止状態で用を足す。
足腰を鍛えながら、間違いなくきれいにやり遂げた。
これからは、自分の家でさえもこうするに限るというアイディアを思いついて、今日は晴れ晴れ。


画像は、一昨日に行った場所で撮った、苔と南天の実。
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演歌とは、艶歌とは   その2

2016年02月01日 00時32分34秒 | 個人的主張など
演歌の作詞家に女性はいるのだろうか。
いるかもしれないけれど、ほとんどいないと見なして進めていこう。
情緒情感は男が頭の中で創り上げ、女がそれに乗ったフリをして成立する。
ここで例えを出し、誰それの歌詞を取り上げるようなことは、しないでいいだろう。
きっと、当たり前のことだから。
なぜ女が乗ったフリをするのかは、当然のことながら事を荒立てないためであり、理解できないまでも理解の姿勢を見せようと思いやってのことであり、生活のためなのだ。
食べていくための食料確保やら料理法やら得な生活情報収集に忙しいから、男の妄想暴走に付き合ってばかりはいられないのだ。
それでも時々は、男の作り上げる女を演じて男を喜ばせることが嬉しくて、精一杯のシナ(科、品)をつくるのが大人の女だ。
いやいや何の何の・・子どもの時から、甘え上手なのか科なのか、やたら女オンナしたコだっているのだ。
男の世界を歌う演歌ってなものを女の歌手が情感たっぷりに歌う場合があるけれど、それなんかを見ると、男をそこまでコケにしたら楽しいんでしょうねと感心する。
男の作詞家は男を相手になんぞ、決して詞を書いたりはしていない。
全員の女性に向けて、あるいは理想的な幻の女に向けて、こうあって欲しいと願う女性像に向かって歌い上げる。
そうして演歌は果てのない誤解と勘違いとすれ違い。
そりゃそうさと、皆が思っている納得づくの約束なのかもしれないけれど・・。
      つづく
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演歌とは、艶歌とは   その1

2016年01月30日 06時12分30秒 | 個人的主張など
成り立ちや語源は置いといて、思いつきを述べつつ、勝手な考察をしてみたい。
車で遠出をする時には、眠気防止に音楽が欠かせないと思うようになった。
ラジオで気にいった番組を探し出せても、走っているうちに電波を拾えなくなることがあって残念な思いを時々していた。
CDがあるじゃないかと気づいたのが昨年のこと。
音楽CDを数枚しか持っていなかったので、中古各種音楽CDを十枚ほど買った。
ジャズやクラシックや何やかやをひとわたり聞いてみたら、一番耳に馴染むのがテレサ・テンの歌だったりして、何だか我ながら意外のようでいてヤッパリという感じ。
ある民法テレビで、残念無念な想いを抱いたままタイで客死した彼女の特集番組を何度か放映していた。
観たのに、同じなのに、あればそこでチャンネルを変えるのをやめる。
演歌歌手とヒット曲が、作詞家作曲家などスタッフの手でどのように生み出されていくのかが示されていて興味深いということもあるけれど、彼女のちょっと野暮ったい愛らしさや一生懸命さに見入ってしまう。
作詞家の『ぼくら皆がテレサ・テンに恋をしていた』という述懐が印象的だった。
と、このように好意的に書いておいて、斜め思考を述べたい。
結論から書こう。
演歌は男の妄想が生んだ徒花(あだばな)。
目新しくも何ともない、たいていの人がそう思っている当たり前のことかも知れないけれど・・。
      つづく
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自動車の暴走事故にPL法は問えないのか!(懐疑の勧め)

2012年04月28日 23時57分26秒 | 個人的主張など
京都祇園の軽自動車暴走事故以来、暴走事故が続いている・・・ように感じられる・・・のは、マスコミが例のごとく『またも』『またしても』と騒ぎ立てるからなのだろうけれど、それに加えて、警察発表も運転者の悪意をことさら追求することをもって事足れりという姿勢に終始しているからではないか。

祇園の事故では運転者のてんかん発作が言われながら、悪意がなかったか、ひき逃げではないか、しっかりとした意識がなければあのような走行経路はとれないのではないか、というような論調ばかりが目立った。

私はてんかんに対してある思い入れがある。こどもの頃、近くにてんかん発作を起こす子がいた。彼の発作時に私自身は居合わせたことがないのだけれど、その様子を友だちからリアルに聞いていたので発作がどういうものであるか理解していた。彼は10代半ばで、自宅前の巾40センチ最大水深10センチ程の用水路で水死した。

京都祇園の事故を知って、軽自動車でもあれだけ多くの人間をなぎ倒して死傷させる可能性があるという事に先ず驚いた。ブレーキとアクセルの踏み間違いでパニックになったのか、それとも心筋梗塞か、脳梗塞かなどと思った。でも『てんかん発作か?』という文字を見て一気に理解した。身体が硬直して突っ張り、どうにもならなくなったのだと・・。

これだけ自動車が多くなって、自動車産業が巨大になって、日本の自動車技術が最高水準になって、それでも自動車が事故を起こし人を死なせている。それでも・・ではなく、それだから・・多少事故が起きるのは当たり前で仕方がないことなのか。

ようやく人や障害物を察知して自動的に止まる車がいくつか売り出されるようになった。しかし今の段階では、そこそこ低速でないといけないようだ。まだまだ自動車の運転をする者が絶対的責任を持って、テクニックを磨いて走ることが求められている現状に変りはない。

以前にも書いたのだけれど、アクセルをガツンと踏み込んでしまったら急ブレーキとなる装置をなぜ作らないのか!? 取り付けないのか?! 急にスピードを上げて危険を回避する機会など、ほとんどない。踏み間違いのパニックで大事故になるのを防ぐのはこれが一番簡単なのに・・。

追突事故を防ぐ装置だって簡単に作れそうなのに何故そのようにしないのだろう。スピードガンの応用で、前を走る車のスピードと自分の車のスピードの相関関係で自動的にブレーキがかかり、事故が起きようがないようにしたらそれで済むではないか。

エコカーだハイブリッドだと燃費を競うのもけっこうだけれど、【自動車は人間を死なせてはならない】という大前提を忘れてもらっては困る。京都亀岡での集団登校中の小学生の列に突っ込んでしまったのも軽自動車だった。無免許、無謀、居眠り、偶然、不運などなど色々重なった事による大事故となった訳だけれど、製造物責任法(Product Liability Law)を問う必要もあるのではないか。被害者遺族の方々からそのような動きが起こるのかも知れない。

技術はあるのだ。運転手が居眠りしたら車は止まらなくてはならない。ガードレールにも反射シールを貼るか、そんな塗料を塗るかして、ガードレールと自動車はぶつかりようがないようにセンサーを点けたらよい。自動車行政もたるんでいるのだろう。

私は来たるゴールデンウィークに往復1000km以上のドライブをする。自重自戒もこめて書いたつもりだけれど、どうしたって懐疑を通り越して怒りの口調になってしまう。いやな年寄りと言われるようになってもいい、腹が膨れるくらいなら吐き出すに越したことはない・・と隠忍自重とは裏腹。これも仕方ない。

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石原東京都知事は傾城手管者(懐疑の勧め)

2012年03月27日 18時07分39秒 | 個人的主張など
橋下大阪市長のことをアメーバーにたとえたので、石原都知事はどうたとえるかと考えた結論が【傾城手管者】。それは何故かと問われれば。傾城とは色香で国を傾け滅ぼすモノ。手管は人をだます技巧。手練手管と使われる手練も手管も人をだまくらかしてあやつる技のことだ。手練手管は同じ意味を繋げて強調する四字熟語だけれど、広辞苑では手練と手管が微妙に違った説明になっていたので手管の方を採った。

主(あるじ)は民(選挙民)なのが民主主義だ。すると、現代の傾城とは、城主たる人民に対して耳にここちよい言葉を使って身を危うくさせる者だ。何しろ選挙に勝ち、多くの味方を得ている格好なのだから、その言葉の使い方は巧妙だ。

先日、石原氏はある講演の場で『中国を支那と言わなくてはいけない・・・』と呼びかけたというニュースが小さく報じられていた。以前は『三国人発言』などもあったが、彼は使われなくなって久しい言葉を、しかも嫌がられたり政治的歴史的に不適当とされた言葉をわざと使って、世間全般の気を引こうとしているのだろう。

自民党代議士をしている彼の息子が「確信犯だから・・・」と父親の言動を評して言ったことがある。おそらく、どう攻撃されようと自分有利に進むというシミュレーションがあり、自信たっぷりに挑発しているのだ。マスコミはいつだって太鼓持ちをやらされている。そうして主たる民は、その話芸というかシナをつくった流し目に騙されてしまうのだろう。

中国の歴史的事情からの自尊自大的な中華思想に対して、腹立たしくて羨ましくて残念でたまらないという小児的な想いを、自尊心からあからさまに出し続けているのが現都知事だ。先のブログのコメントで橋下氏について書いた『彼が究極的にめざしているのは、日本の総理大臣になり、憲法9条を廃棄し、原潜や原子力空母を持ち、核爆弾を持ち、アジアの警察となり、アメリカと対等になることだ・・・』というのが彼にも当てはまると思う。

橋下氏と同じ考え方などと言ったら失礼かも知れない。石原氏をそっくりまねているのが橋下氏なのだから。パフォーマンスのやり方が少し違うように見えるかも知れないが、本質的には全く同じだ。親子より親子らしい位の似方だ。

面白い劇場劇を観ているような気分で愉しんでいたら、主たる民はとんでもない苦境に立たされることになるのだ。危機感を感じている人も多くいるだろうけれど、マスコミは現象を追うばかりで本質を伝えない。君が代を強制するなどという大人気ない蛮行が平気でまかり通っている。恐ろしいことだ。

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橋下大阪市長はアメーバー (懐疑の勧め)

2012年03月18日 06時00分51秒 | 個人的主張など
毎日毎日、橋下大阪市長がマスコミに出ない日はない。あまり見聞きしないようにしているのだけれど、これだけ出てくるのだから、言わないではいられない。どういうタイトルにしようかと思い悩んだ末に『アメーバー』が浮かんだ。一定の形というものがないアメーバーが彼をたとえるのによさそうだ。

弁護士稼業でつちかった話法なのか、口喧嘩では誰にも負けないという自信があるからなのだろう。とんでもない主張をして、批判が集まってもスルリと形を変えてかわす。言葉に責任を負うほどの信念がなく、思想に深みがないので形を変えることにためらいも恥じらいもない。

なぜあのスタイルがカッコ良く見えてしまうのだろう。彼は自分でしびれているのだろうけれど、あのダンディズムやヒロイズムはどこから来るのか。というようなタイトルにして切り込みたいところだが、彼と維新の会を選んでしまった大阪市の住人ではないので、口も渋る。

それにしても、大阪市の教職員には同情を禁じえない。もちろん市民にもだ。暴走を食い止めるべくリコール運動をしたくて、シッポをつかまえようにもどれがシッポやらスルリと抜けるし、そもそもの実体というものがなく日替わりで色んなことを言い出すので対処に困っているのが大方の気持ちではないか。今までと勝手が違う・・新しい闘い方を考えないとダメだ・・どうしたらあのスピード感に対抗できるか・・・と困惑している人たちが多いのではないか。

これを書くに当たって、『闘争の論理と融和の論理』『競争原理における切捨て』『権力志向は暴力に対する脅え』『政治家という愉快犯と道化』というようなキャッチコピーを考えた。そのようなことを、きちんとデータなんかも示しつつ論を展開したいのだけれど、その能力がない。骨組みだけでも考えて、肉付けは皆様でお願いします・・という形でも提示できたら・・と想うのだけれど・・・。などと『・・・』ばかりになるのが、ワレながら辛い。

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原発への依存

2011年07月20日 17時05分50秒 | 個人的主張など
新潟県の実家で法事があり帰省してきた。近所の情報通のおばさんと話しをする機会があり、思いがけないことをたくさん聞いた。特筆すべきは、同級生や幼い時分の遊び仲間などが三人も柏崎原発で働いていたこと。

勤めが長続きしなかったり、勤め先が具合悪くなったり、都会が合わなくて帰って来たり、離婚してしまったり、お金が入りようだったり、それらがダブっていたりのそれぞれワケアリだ。彼らと会ったのでもないし、電話で話したわけでもないけれど、消息情報としては正確なのだ。

原発はワケアリな人達にとっては救いであったり、とりあえず高収入を得られる有り難い存在のようだ。私の実家は、その東京電力柏崎原発から道路での距離は50km位あるけれど直線距離では30km余りしか離れていない。

原発で郷里の知り合いが三人も働いていると知り、それから地図を観て、初めてこんな距離だったのかと知ったような次第。どこそこの人は大学出て先生になったとか、役場に勤めてるとか、信用金庫に勤めてるという順調組の話しも聞くけれど、田舎はやはり仕事がないのだ。

むかし、医学部の学生が実験解剖するための死体を安置するプールでの仕事が高額なアルバイトとしてあるのだという噂を聞いたことがある。私は是非とも、そのアルバイトをしたいと想った。その頃に原発での高額アルバイトがあると聞かされたら、あまり迷わずに飛び込んだかも知れない。

原発は、今回の福島でのことがあってようやく廃止の方向にゆく気配だ。是非ともそうあって欲しいが、廃炉が決定されたとてこの先何十年も(もしかしたら何百年単位かもしれないが)後始末のお守をしなければならないのが原発らしい。と考えると、そこでの手っ取り早い高額な仕事は有り続けるのだろう。

福島原発で、ようやくメルトダウン後の炉(?)内温度が100度以下になったとか報じられている。まだ100度もあるのか! その熱は利用できないのか! 放射能の濃度が2万分の1になったとか報じている。前は2万倍もあったのか! といちいち逆の見方をして驚き呆れている。ものは言いようというわけで、現実をさもさも安全なように言いつくろってきた報告にはもう騙されたくないと強く強く想うこの頃だ。

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メルトダウン以後のことなど(その2)

2011年06月08日 13時45分12秒 | 個人的主張など
国策による被災者ではなく『国策による被害者』だった。被害者を被災者と勝手に聞き違えていたようだ。国の原発推進政策の被害者だと明言したのだから、最大限の補償が約束されたわけだ。←と、ここまで書いてほったらかしていたら、いつの間にか日が過ぎた。メルトダウンも、1号機では地震の次の日ではなく当日に起こっていたと原子力安全・保安院が発表した。外部電源がすべてアウトになってもこのような事態にはならないと考えていたようだ。『うっかり』なんていう言葉さえ発せられて、しかもその人がはっきりと『人災』だと明言していた。

福島原発の周囲から避難させられている住人から、国や東電に震災前の相場以上で土地建物を買い取るよう働きかける運動は起きないのだろうか。もう住めないものとあきらめて、できるだけ早く余所に移住してやり直したい人は当然いる筈だ。こういう問題はいつだって、被害者が今すぐにお金が必要だという時にさえモタモタして徒に時間が過ぎていく。事は生存権の問題だ。

どのような利権がからんで原発は推進されたのだろう。巨大な利権が複雑多岐にからんで、詳細を知らされぬままいつの間にか進んでしまっていたのだろう。昔の政策が利権なくして行われたことなどないから、そら見たことか自分が危惧していた通りになったじゃないか・・・と想っている人もかなり居るのだろう。当面の問題が大きすぎるから、今そういうことを語るのは、あまり意味がないかも知れない。プルトニウムの処理はどうなるのか。フランスが引き取ってくれるのか。月に持っていけるのか。太陽に突入吸収させることでも将来的にできるというのか? まぁ自分の存命中は大丈夫だろうと、ほとんどの人が考えているのだろう。せいぜい長生きするつもりでいる私にしてそうだから。

政治もメルトダウンしてしまっているようだ。党利党略ばかりが目立つ。管首相の最近の印象は、市民運動出身者がこんなにも権力を持っていいものだろうかという戸惑いからウロウロしているように見える。権力を持ったのだから、こんなアイデアも試してみたいし、あれもこれも自分主導でやってみたいけれど、何せ問題山積優先順位がわからないし、ケチをつけるだけの旧与党に噛み付いても薮蛇だし・・・といった感じに見える。ブレーンに恵まれなかった人なのだろう。

それにしても自公の品位の無さには呆れるばかり。権力に恋々として現政権の悪口ばかりだ。まだ返り咲きが出来ると信じてそこそこまとまっているのが不思議な気がする。谷垣総裁は人気がないというけれど、彼がトップにいるからかろうじて自民党が形を保っているのではないか。それも痛し痒しと思いつつ身動き取れずに様子見の人ばかりの格好に見える。

いよいよ放言しほうだいになってきた。新聞もあまり見なくなったくせに、こんなことを書いて何の意味があるのだろう・・・などと考えることもないか・・・。また近辺のこと、ペットのことなどを書くことにしたい。もう政党政治は終わりにして下さい。かといって、その隙にファッショみたいな動きが大阪あたりにあったりして、どうにも嫌気がさしたので私しばらく鳶から蟻になります。それが何か!・・って!? それもそうですね。

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メルトダウン以後のことなど(その1)

2011年05月18日 00時30分59秒 | 個人的主張など
福島第一原発はメルトダウンが地震発生の次の日に1号機で起こっていたようだ。2、3号機も同様だとか。今回の事態で、どこまでだったら想定内で対策シミュレーションができていたのか、責任者に是非とも聞いてみたい。どこまでで止まって欲しかったのか。上限はどこまでなら何とか格好がついたのか。あれさえ持ちこたえてくれたらというウイーク・ポイントはどこだったのか。

原発はトイレのないマンションにたとえられるから、メルトダウンは病原菌を含んだ下痢をエレベーター内で漏らしてしまったようなものと理解したらいいのだろうか。すでに放射性物質を含んだ汚染水がかなり海に流出した。大気中にもチリが放出されて汚染区域が広がっている。

5月17日0時前のニュースを観ていたら、『国策による被災者』という言葉が政府から発せられ、最後まで国が責任をもって救済するそうだ。自民党が永きにわたって権力を行使して国策をすすめ、ようやく権力を握った民主党が失策の尻拭いをしていくことになるようだ。

しばらく思うままずらずらと少しずつ毎日書いてみたい。とどまっていては始まらないという気がしてきたから。始まらない?と自問してみる。もう終ってる!という囁きも聞こえてくるが、いいのだ、これではよくないのだ、と言う事でまた明日。

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『OTAGAISAMA』を世界共通語に!

2011年03月28日 14時39分28秒 | 個人的主張など
『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めようという運動がある。今回の東北関東大震災を機に『OTAGAISAMA』を同様に広めたら良いのではないかと思う。『お互い様』は負担を軽くしたり卑屈になることを防ぐ言葉で、過去から未来までの長い付き合いと助け合いを約束する言葉なのだ。

東北にある車の部品やIC関連部品の工場がかなりダメージを受けて、日本国内だけではなく相当数の国で部品不足から製造ラインが止まっているという。グローバル化の良し悪しはともかくとして、日本でこんな大地震大津波が起きると、世界が困り大混乱するということのようだ。

いま世界中の一番の関心事は福島第一原発がどうなるかだろう。津波被害地の不明者捜索や遺体収容や瓦礫の撤去片付けなどを、大々的に世界中へ助けを求めたら良いのに何故それをしないのだろう。世界中の軍人軍隊軍備の半分なり3分の1なりを持ってきて、復興のための前段階だけをやってもらったら良かろうに・・・。

頑張ろう日本!ではなく、『甘えよう日本!』でいったら良いのにと思う。こんな時こそお互い様なのだから。軍隊は災害復興支援に最大限活躍してもらうのが一番良い。災害に乗じて、または災害支援の留守の隙を狙って事を起こす国はないだろう。名分も立たず言い訳もできず、世界を敵に回して孤立することはできない筈だ。

日本経済もどうなるかわからないと言う人がいる。流言蜚語は誠にもっていかがわしいものだ。関東大震災をウィキペディアで調べてみると身の毛がよだつ思いがする。しかし現代の混乱は次元も規模も違うものになるのだろう。日本の混乱は世界の混乱であり、日本を震源地にしての経済恐慌を起こさないためにも、世界中の英知、軍隊、種々のパワーが東北の被災地支援をすべきなのではないか・・・と思うのは妄想でしかないのだろうか・・・飛躍し過ぎだろうか!?

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風評被害のこと

2011年03月21日 23時07分11秒 | 個人的主張など
福島原発関連で、牛乳とホウレンソウの放射能が基準値を超えたと騒いでいる。官房長官が一年間普通に飲み続けてもCTスキャン一回分くらいと言っているのに、県は出荷自粛を生産者に要請しているそうだ。国が情報公開を正直に続けているのに、県は不信感を持っていてそうした事を行っているということなのだろうか。全く変な話だ。

福島県は生産者に補償を約束しているのだろうか? 今こそ首相はカイワレダイコンを頬張った時のように、かの地の牛乳を飲みホウレンソウのおひたしを食べて見せたらよいだろうに・・・。マスコミの報道の仕方がマズイのだろうと、この件でも思う。

今回の大地震を『天罰』と評した東京都知事が、福島原発での放水ミッションをこなして帰った消防庁隊員の報告会で声を詰まらせ涙をぬぐったそうだ。そういうパフォーマンスが風評被害を起こすのだということがわからないのだろうか? これとても、マスコミの取り上げ方が問題だ。涙ばかりを記事にして庶民感情を揺さぶり不安を煽ることによりニュースを売っている・・そんな面が強すぎる。これはあまり一般的でない過剰な疑心だろうか。

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福島原発の炉心溶融=メルト・ダウンのこと

2011年03月13日 10時40分08秒 | 個人的主張など
後付けの結果論で述べるのは気がひけるのだが、思わず口に出てしまう文句がある。『どんな地震でも大丈夫ということじゃなかったのか! ほら見たことか、やっぱり放射能が漏れてるじゃないか!』 これから被爆被害が広がるのかも知れない。〈黒い雨〉の事態も有りそうではないか。

状況経過を解りやすく説明する能力のある広報担当者が居ないようだ。簡単な言葉でも謝罪の言葉が入るべきだ。、混乱は理解できるが少しの謝意も感じられないのは何故だろう。想定以上の地震だったなどというのは言い訳として通用するのだろうか!? 原発の放射能汚染事故は、どんな天災に伴うものであっても人災だ。

現在進行中の事故なのだ。何よりも必要なのは、状況把握とその逐一公開だろう。
誠意と正直さと透明性だ。


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鳥瞰ニュースとは名ばかりで・・・(その4)

2011年01月08日 09時34分51秒 | 個人的主張など
タイトルからは若干横道にそれるけれど、それて元にもどる流れが創れたらと思う。《ブログによってもう一人の自分を創りあげることができるか?》というもくろみがスタートだった。話し下手でスムーズに言葉が出てこない自分とは全く別な、回転速くカツゼツ鮮やかな人格を創れるかも知れないと思った。しかしやはり思考の回転は変えられないのだから、なかなかに難しい。色んなことに刺激を受けて、これは書きたいあれも書きたいと思うが、それらを文章にすることのいかに難しい作業であることか。当初はあまり自分を明かさないようにしていたが、3年間やってきて、ようやく少しずつ周りに知らせる方針に変えた。知らせたとて読んでくれるとは限らないし、書くほうも毎日ではない不定期なのだから読んでくれるのはなおさらだ。

昨日、88歳で事故に遭った友人を見舞った。毎月ある会合で会う人で、私は還暦を越えていて彼は米寿を迎えたという年の差だけれど互いに友人とする仲だ。人事不省に陥って2週間経つが、心臓も自発なら呼吸も自力の生命力を発揮している。昼過ぎに病室を訪れると1人機器に囲まれて寝ていた。デジタルディスプレイの数値が刻々と変る。酸素マスクを装着させられているが、管だらけという感じはしない。胸が大きく波打って荒い呼吸をしている。『オゥ』と声を出して、目を数回しばたたいた後で少し呼吸は穏やかになった。悪い夢を見ていたという感じだったので呼びかけてみたが反応はなかった。穏やかになった後だったから、悪い夢から開放されて深い眠りに入ったのなら邪魔するべきではないと思い一回だけの呼びかけで思いとどまった。

当初は面会謝絶だったことと、ひどい腫れと骨折と脳にも血が溜まっているという話しもあって最悪の憶測すら外野で交わされていたのだ。デジタル数値の色がオレンジから赤に変わるとピーと音が鳴る。わずかの間に何度も鳴った。ナースステーションにも当然ながらその数値と音が同時に感知されているだろうから、ナースがとんでくるのかと思った。何のことわりもせずに黙って患者1人が寝ている個室に入ってしまったという負い目もあって、すぐに引き上げた。希望的観測かもしれないが絶望的状況ではないと後付けで考えた。

医師が驚異的な心臓だと言っているとの話しを聞いていたし実際に見舞った上で情緒的にとらえるならば、生への執着は並々ならぬものがあるのだろうと思われた。知識が豊富で、話し始めると脱線し勝ちに止まらなくなることもある人で、世相をたくみに風刺する批評家であり反骨の人なのである。そのあたりを皆に愛されていることを充分に自覚しているかどうかはともかくとして、死んでたまるかという気はあっただろうと思う。快復を祈るばかりだ。

この際にもうひとり、反骨の人のことを書きたい。村山孚さんといい 著述家・中国研究家としてネットで紹介されている人だが、90歳を超えて、ホームページに巧みな文章を載せている。彼は私のまた兄弟にあたる。コマギレ自分史と題したなかに出てくる本家が私の実家だ。私の実家からかなり昔に分家した家に、もう一度本家から嫁いだ人がいたという関係でまた従兄弟なのだ。自慢話しになるので隠して置きたいのだが、孚さんの文章を読むにつけ、自分もあと30年頑張らねばなどと思われて、最近はやりの『勇気をもらえる』という感じが湧くのだ。彼の文には、激動の昭和前半が活写されている。是非読んで頂きたいと思う。

午後の喫茶店(http://www2.wbs.ne.jp/~bokemon/) ボケモン日記  亭主のコマギレ自分史 
村山孚(まこと) 大正9年(1920年)生まれ、新潟県出身。
著書『明るくボケよう』(草思社)は、スーパー老人、ウルトラスーパー老人ではない、ごくフツーの老人のごくフツーの日常の姿をユーモアたっぷりに、かつ正確にシリアスに描いて、多くの人々の共感を呼んだ。日本と中国の古典に詳しく、神子侃(かみこただし)の筆名でも知られる。(ウィキペデイアより抜粋)

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法務大臣の蛮勇

2010年12月05日 20時11分22秒 | 個人的主張など
11月20日朝日新聞のオピニオン欄に〈死刑 悩み深き森〉というタイトルで千葉景子前法務大臣へのインタビュー記事が載っていた。副題として《執行の署名は私なりの小石》とあった。この記事を読まなければならないと思いつつやりすごしていたのだが、ようやく読んだ。『小石』という表現にひどく違和感があるが、それはそれとして本文のなかにとても気になるが納得もできる表現があった。死刑執行に立ち会った時のことを回想しての述懐で『えらくあっけないと言えばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。』とある。

この前に自分の矛盾のことも述べているのだが、矛盾を承知しているから論理では説明できないところを感覚的に語っていて、こうとしか言いようがないというもどかしさの表現が腑に落ちた。理性で組み立てた考えではなく、本能的な直感が拒否反応をして正邪の判断を下した瞬間を表現していて、意外に素直で正直な人なのだなと思った。

死刑廃止論者が法務大臣になって死刑執行の決裁をするという矛盾に身をおいた場合、男なら自分に言い訳を作り居直る場合が多いだろう。女だったから執行の現場に立会い、執行室の公表までできたのだろう。女性ならではの蛮勇という以外に言いようがないと感じた。看護師だった人が法務大臣になって死刑執行の決裁をした例もあったが、この人は弁護士でありながらなのだ。野に居て権力の横暴を批判し不正を暴くというのでもなく、野党に属して国会で論戦を挑むのでもなく、権力の中枢に位置したのだから何が何でも改革変革の端緒を開こうという考えは理解できる。

人の生き死に関わる仕事なので現場を見ておこうという実証主義の人だ。実証主義といえば、坂口安吾の書いたもののなかに、織田信長は残忍な面を強調されることも多いが実証主義の人だったと、多くの事例を挙げて考察した文があった。火あぶりの刑をじっと観察したり、奇怪なうわさのある沼には自分で飛び込んで確かめたり・・・といった調子。

千葉元法務大臣は自分で認めている自己矛盾や死刑執行目撃の事を、この先ずっと、美しくない事に加担してしまったという悔悟を噛みしめ抱え込んで生きていくことになるのだろう。むごいことだ。執行命令の決裁をしても、それを中止させる権限はあるのだろうか? その寸前にも『中止!』と命令したくなっただろうに。

以上のような憶測による情緒的書き方をしていくと、いくらでも連想されるものがある。映画で言えば、アイスランドの歌手ビョークが主役をやったデンマーク映画の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や、アメリカ映画で親子三代の死刑執行刑務官の『MONSTER'S BALL』や、萩原健一主演のテレビドラマ『宣告』(ネットで調べたら1984年にTBS系で放送されたもので加賀乙彦原作)など。いずれもイヤな感触の残るものだった。

男性の側から見れば、女性は論理的理性的に物事を判断せずに、生理的感覚的に判断していると思うことがよくある。しかし、生理的感覚的直感は往々にして本能からくる正しい判断だ。法は論理だけで判断実施されていいものではないのではないか。法のトップたる法務大臣などは特に男女一人ずつのペアでやらなければならないのではないか・・・と思えてくる。男女共同参画のツー・トップではいけないのだろうか。何だか、どう〆たらいいのか迷走するばかりだ。今回も尻切れトンボのまま、また次回ということにしよう。

コメント (3)
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