『ひとこま』を漢字で書くと一齣となり、辞書には『劇や映画などの一場面』とある。
ところが一齣を『ひとくさり』と読めば、『話、音曲などの一つの区切り・段落』となる。
ふとしたことから疑問が湧いて調べたのだけれど、齣という漢字は書けなくていいから読めたら充分だ。
充分と書いたり十分と書いたりするのが『じゅうぶん』だけれど、十分は『じっぷん』と読めば時間のことだ。
などと、連鎖反応が起きる。
昨日、病院のホールにあるテレビ画面の4分の1が真っ黒で、朝ドラを観るのに想像力が必要だった。
病院では意想外のしんどいこともあったので、帳尻合わせに回転寿司で景気づけ。
回転寿司屋をでたら、夕焼け雲に破線のような飛行機雲があり、右側には暗雲たちこめるといった雰囲気の雲もあった。
一夜明けて本日午前7時台は宇治60%、京都90%の雨予報。
いらないものと、1+1が2になるが、映像×俳句が
2じゃなく広がると、なつみさんが話していた。
うちなーんちゅには「季語」というモノが、「形而上学的で感性が伴わなくて」また多すぎて、ボクなんかは「川柳」に逃げたくなります。
映像にない、なにかを伝えることが俳句には求められている・・らしい。「病院では意想外のしんどいこともあったので」・・・を想像しています。
我が身をつねって・・・ですね。
千葉ってね?
あの番組は知っていますが、積極的に観たいと思ったことがなくて、偶然観始めたらそのまま観たりもします。
今日は観ていません。
『なつみさん』と書くほどに親しみと共感を感じておられるんですね。
>「川柳」に逃げたくなります。
川柳で良いのではないですか!?
味わうのは俳句が良くても創るのは川柳にしたらいかが。
季語を入れなくて良いからのびのび創れるのではないかと思います。
姨捨の芭蕉と一茶の違いを感じましたか!?
芭蕉は姥捨に想いを寄せて映像を見せ、一茶は姥捨が自分をこのようにさせると表現していますね。
sukeboさんは一茶型かも。