鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

死刑確定と死刑執行と(その7)

2008年04月09日 19時32分17秒 | 個人的主張など
《死刑囚を選択するという亊》

 京都府と神奈川県で昨年1月、親類2人を相次いで殺害し金を奪ったとして、強盗殺人罪に問われ死刑判決を受けた無職松村恭造被告(26)が8日、控訴を取り下げた。死刑が確定した。
 京都地裁は3月17日、松村被告に死刑を言い渡した。同被告は「身辺整理のため。1、2週間で取り下げる」として、同月31日に大阪高裁に控訴していた。 (時事通信)

 マスコミ報道で知るかぎり、松村被告はすべて計画通り、予定通り、思い通りに事を成して結果を得たということになりそうだ。世間も国家も敵に回して、それで尚且つ望んでいた死に方を得るという事になりそうだ。もう被告ではなく望みどおりの死刑囚だ。

 池田小学校の児童殺傷事件の宅間元死刑囚は異例のはやさで望んでいた通りに処刑された。死刑判決が確定した冤罪事件の再審が行われて無罪を得たら、堂々たる『元死刑囚』だが、処刑をされて故人となったら、やはり『元死刑囚』なのだろうか?(横道にそれた)

 これだけマスコミを賑わし、しかも短期間に判決が確定し死刑を望んでいるのなら、今の法務大臣のことだから、何のためらいもなくGOサインを出すのだろう。その道では高名な蝶収集家だということだから、GOサインコレクションに入れるのかも知れない。

 またも横道にそれるが、イギリスの映画で『コレクター』という猟奇的な映画があった。地味な銀行員だった若者がトトカルチョで大金を手に入れる。趣味の蝶の標本収集をする内、それが高じて美女を誘拐して想い通りにしようとするというような映画だった。

 世間や国家を擬人化した物言いで論じたくはないのだけれど、松村死刑囚はまんまと世間をあっと言わせ、多くの人間を振り回し、多額の費用と労力を使わせ自分の書いたシナリオ通りに演じさせた。一人の人間にこれだけナメラレても、その通りにせざるを得ないのが日本国家だということになる。

 そこで、以前にも書いた事だが、このような事件を未来への財産として、あらゆる角度からの検証を惜しまずにやる事、そして突出した象徴的な教訓と捉え、犯罪者を一人の国民として更生させる試みをする事なしに死なしていいものか?という疑問が出てくるのだ。更生のためのあらゆることを試す価値はあると思うのだ。国家の未来のために。

 人を殺したから、その人間を殺すという国家は、国家そのものが一人の殺人者レベルに自身を貶めるということだとしか思えない。独裁者のいる国家でもない民主主義国と言われる国ならば、せめて死刑だけはやめて欲しいのだ。
     (これでこの項おわり)

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くんで、すんで、むんで、るんで

2008年04月06日 11時44分27秒 | 言葉の世界
行くので→行くんで、咲くので→咲くんで、
増すので→増すんで、行きますので→行きますんで
込むので→込むんで、噛むので→噛むんで
来るので→来るんで、盛るので→盛るんで

ある地方の方言だったのに、急速に一般標準語化するということが今の世ではよくある。
冒頭の例もその一つ。何だかぞんざいな感じで耳障りだったが最近はあまり気にならなくなってきた。今日、何気なくNHKテレビを見ていたら、定年間近のような年配のアナウンサーが、~んで~んでと連発していた。

かと思えば、これもテレビを観ていての話だが、話術を仕事の糧にしていない普通の若者でも街頭インタビューなどでマイクを向けられて話す時に、何々なので・・・とキチンと話す人もいる。『キチンと』と書いた。つまり私の中ではまだ、『~んで形』がキチンとしていない『ぞんざいなしゃべり』としてくすぶっているのだ。

別にだれかれを非難するつもりはない。面と向ってなど尚のこと言うつもりはない。でも方言(東北弁)での使い方は言い回しと言うのか、独特の間(ま)とイントネーションがあるから「~んで」でもかなりニュアンスは違う気がする。

はじめて私がこの言い方を気にしはじめたのは、サッカー選手のインタビューだった。どこで誰が始めたのかはわからないけれど、主にスポーツ選手が使い始めたのではないかと思っている。間違いかもしれないけれど・・。そして、私のなかでは、『~んで形』を使わないか、使うかで好感度がかなり違う。

しかしTPOにもよるのだろうし、親近感をあらわす話し方として普及しているのかも知れないとも考えた。いわゆる『タメ口』としてあるいは、自然な口語体としてだ。テレビの画面下に発言がすべて文字テロップで流れる番組が多くなってきたが、「~んで」と話していても、文字テロップは必ず「~ので」となっているようだ。文字にするには、やはり『~んで形』はマズイというのが現在のテレビ局の一致した見解なのかも知れない。

携帯電話のメールで簡単な連絡のやり取りをしていると、全くの言文一致で方言も省略もすべて話し言葉のままという人がいて面白い。早く手短に伝えるためにはシンプルな言文一致が必要なのだろう。

みんなおんなじようにタメ口の省略形を使ってしゃべるようになっていくんで、そこんとこ、よろしく!って今の高速通信事情が言ってる感じ。てか、なんかわけわからん終り方になるんで困っちゃうわけなんすけど・・・。
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桜の老木の下で

2008年04月05日 21時11分19秒 | 随筆或いはエッセイ
ある川沿いの桜並木を歩いていたら、「うわーん」という音が聞えた。いつもの耳鳴りかなと思ったが少し違う。上をみたら高圧線が通っていたので電線のうなりかも知れないとも思った。桜の老木がまばらに植わっていて、どうも桜の木を離れると音が小さくなるようだった。

よく見ると蜜蜂がぱらぱらと桜の花にまとわりついていた。決してたくさん群れているわけではなくて、しかもけっこう枝ぶりは高所なのに、まんべんなく散らばっている蜜蜂の羽音が同調して「うわーん」というかなり大きい音になっているようだった。

もしかしたら女王蜂が新しい巣を造る為の分封(テレビで観た知識)で、蜜蜂のかたまりがあるかも知れないと思い、探したがそれはなかった。桜から離れたら聞えなくなり、別の桜でも蜜蜂が同様にいる木の下に行ってみたら、その音が聞えたので、だいたい一本の桜に数十匹位しかいないと思われる蜜蜂の羽音の増幅音に間違いない。

何かの合図になっているのか、意味があるのか、何しろ間断なくしず心なく音が落ちてくる。小さい蜂だから日本蜜蜂だろう。わっと咲く桜は、うきうきと心弾むと言うか、ふわふわ気ぜわしいと言うか、それはともかく今日は桜の音を聞いたような気がした。

見事な咲きっぷりの桜を見たら、これからは「うわーん」という音を思い出すだろう。だからどうということもなく、人に話して聞かすようなことでもない。けれど今日わたしの中で、桜のイメージに狂気を含んだ咲きようと散りようとは別に命の唸りのような音が加わった。そして今まさに桜はうわーんと唸りながら咲いている。

西行の歌「願はくば 花の下にて 春死なむ その如月の もちづきのころ」は、ものが萌え甦る春に死のようではない死をさりげなく迎えたいということなのだろうと、今更のことだけれど想ったりするのである。
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カミング・アウト

2008年04月01日 18時15分26秒 | テレビ・ネット・映画
「自分が何者であるかを明らかにせず、ここで書くことにより何者かになっていくことを期待するページ」として、このブログを始めたのに、友人数人にカミング・アウトと言うか、このブログを書いていると伝えてしまった。もうわたしのブログは誰にも明かしていなかった時のブログではいられないだろう。吉とでるか凶とでるかわからないが、確実に変化してしまうだろう。

今こうして、この文章を書いているのでさえ、もう友人がこれを読む表情さえ想像してしまっている。前は誰ともわからない不特定少数の行きずりの通行人に対して独り言とあまり変わらないことを呟いていたのだ。でも誰が通るかわからないという奇妙な緊張感をもったり、どうせ誰も聞いてくれないんだからと自嘲気味になったりしながら、何の反応もない(コメントがない)インターネット通りで誰かがいるものとみなしてパフォーマンスをしてきたのだ。

でも反応がないのは、知人の誰にも知らせていなかったし、よそのブログを訪ねて自分のURLを残してくることもしてこなかったのだから仕方ないし、大抵そんなものだろうとも思う。不特定多数の他人に受けるような文章を書くなんて、そうそう簡単にできるわけがない。逆に炎上?といった猛烈なアクセスがあっても困るという自主規制の気持ちも働いて、自由奔放に書くことは意外にできにくいものだということが解ってきた。

10代の頃に「アンネの日記」を読んだ。アンネ・フランクは架空の人物を設定して、その人に宛てて手紙を書くというスタイルの日記を書いていた。わたしの今までに書いたこのブログを読み返してみると、誰に書いているのか不明瞭不可解だ。それに一つの文章の中ででも文体が変わることがよくある。書き方はいつまでたっても統一性がなくて、文体が定まらない。口調が変わるのだ。独り遊びは得意だと思っていたのだが、自分は無人島では生きられないタイプなのだろうか?えーいそんなことはどうだっていいのだ。わたしの中に湧き上がった『感動』を書いたらいいのだ。

このごろ、話上手と書き上手のどちらだろうと他人のことを思うことが多い。話し上手の反対は聞き上手となるところだけれど、携帯メールで仕事でもプライベートでも連絡を取り合うことが多くなったからだ。自分のことを言うなら、話し下手の書き下手は間違いない。ただしそれを『話しオシャベリ』と『書きオシャベリ』という造語をしたうえで、どちらかということになると、わたしはもう決定的に『書きオシャベリ』だ。

口での言い訳はからっ下手だけれど、書いたらいくらでも書けそうなのだ。。書きはじめたら、ついついだらだらと冗舌になるのだ。と言っても文字を書くのは苦手なので、これはもうパソコンと携帯電話にインターネット普及のお陰だ。

さて、まただらだらと書いているが、この文章にどうオチをつけよう。ここまで読んでいただいた人がいたら気の毒だ。今日はエイプリルフールだから、「なんちゃって」を最後につけて、全部チャラにして、コケにしてもいいかも知れないのだけれど・・・。

そうだ、今日はエド・はるみのブログを見た。そして彼女のギャグをユーチューブでたくさん観て独りで大笑いしてしまった。じつに面白い。あのひと突き抜けてます。そこそこの美人なのに、「グーグーグーグーグー」と言うときの顔芸と最近の「まぁ、お子ちゃまね~おっぱい呑みたいの?」と言うときの仕草と絶妙な顔がいかしてる。あまり嫌味なく人をコケにする、あの芸当は是非見習いたい。わたしのブログの目標のひとつだ・・なんちゃって。


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